☆キンモクセイの匂う道 セイタカアワダチソウが密生する放棄田

☆キンモクセイの匂う道 セイタカアワダチソウが密生する放棄田

自宅の庭木のキンモクセイが黄色い花と同時に独特の香りを放ち始めた=写真・上=。金沢に住んでいると季節の香りでもあり、兼六園や武家屋敷界わいを散策すると香りが漂ってくる。そして、金沢のシンボルでもある。1980年に作詞作曲された金沢市民憲章の歌の題名が『金木犀の匂う道』。市主催のイベントなどでよく聴く。「♪歩いてみたい 秋が好きだという君と この街の 金沢の街の ああ 金木犀の匂う道 君と君と」

シニア世代ではキンモクセイの香りからトイレをイメージする人もいるだろう。昭和の時代までは、くみ取り式トイレが多かった。そこで、キンモクセイをトイレの横に植えて、季節限定ではあるものの匂い消しとしていた。いまで言う、芳香剤の役割だ。自宅のキンモクセイもかつてトイレの窓側に植えられていた。その後、自宅を改築して別の場所に水洗式トイレを造った。この時点で、キンモクセイの役目は終わった。とは言え、伐採せずにそのまま残した。そして、冒頭で述べたように、秋の深まりを告げる植物として、その後も存在感を放っている。 

黄色い花の植物の話をもう一つ。先日(今月14日)に能登に出かけた。そのとき、耕作放棄地や河原、空き地に一面に群生しているセイタカアワダチソウを見て、圧倒されそうになった。見た目の様子もさることながら、その花粉で目鼻がおかしくなるのではと思ったくらいだ。誤解のないように書き加えると、セイタカアワダチソウは花粉がほとんど飛ばない。花粉量そのものが少なく、比較的重いためとされる。いわゆる「風媒花」ではなく、花に寄って来た虫によって受粉する「虫媒花」だ。

以前、植物研究者から聞いた話だが、セイタカアワダチソウは生命力が強い植物であり、さまざま薬効もあるようだ。葉にはポリフェノールの一種であるクロロゲン酸などが含まれていて、煎じて飲めば、血糖値や血圧の上昇を抑える効果があるとされる。また、フラボノイドも含まれていて、ヨーロッパなどでは葉を潰して虫刺されや外傷の止血剤としても用いられている。入浴剤としても使われている、とか。草丈が1㍍から2㍍と長いことから、日本ではかつて簾(すだれ)の材料として活用されていた。ところが、時代とともに人々の暮らし方は変わり、いまでは単なる厄介な雑草としか見られなくなった。

先述したように能登にこれほど多くのセイタカアワダチソウが目に付くのも、去年元日の能登半島地震で水田や畑地が耕作放棄地となったからだろう。水田に引水する水路の破損や地割れ、そして去年9月の記録的な大雨で水田に土砂が流れ込むなどしたため、奥能登(輪島など2市2町)ではことしは7割しか耕されていない。この際、密集するセイタカアワダチソウを活用してはどうだろう。入浴剤などは受けるかもしれない。

⇒20日(月)午前・金沢の天気   くもり

★震災の語り部による「能登のいま」 江戸時代の屋敷と庭は残った

★震災の語り部による「能登のいま」 江戸時代の屋敷と庭は残った

能登半島の中ほどに夕陽の絶景スポットとして知られる安部屋弁天島(あぶやべんてんじま)という陸続きの小さな島がある。夕暮れになると空と海と島が織りなす幻想的なシルエットが広がる。この光景を見続けることができる地域の人たちの穏やかな気持ちを察する。800年余り前の話。源氏と平家が北陸で戦った倶利加羅峠(くりからとうげ)の合戦で敗れた平家側の武将、平式部大夫がこの地にたどり着き、安寧の地と定めて定着した。憶測だが、そのきっかは弁天島の夕陽の光景だったのではないだろうか。その後、平家(たいらけ)の子孫は幕府の天領地13村を治める大庄屋となる。「復興応援ツアー」(今月15、16日)の2日目、弁天島の近くにある平家の屋敷と庭園を見学に入った。

屋敷を外から眺めると堂々としている。周囲の民家は屋根が崩れたままとなっていたり、公費解体を終えた家が目立ったものの、平家の屋敷や庭園は震災による被害を免れたようだ。茶室から庭が望め=写真・上=、書院の間から前庭が穏やかに広がっている=写真・中=。志賀町では最大震度7が観測され、住家・非住家含めた建物1万7600棟が損壊(うち全壊2400棟)に及んでいる。平家保存会の平礼子さんに被害がなかったのかと尋ねると、「昔の家なので柱と梁がしっかりしていてなんとか損傷は免れました。庭に亀裂が入ることもなった」との説明だった。

「大変なのは庭です」とのこと。庭園が1978年に石川県の指定名勝(面積750平方㍍)となったことから一般開放に踏み切り、入場料や自己資金で庭の維持管理をなんとか賄ってきた。しかし、コロナ禍や地震、記録的な大雨で観覧客が減り、維持管理費の支出が厳しくなり、「悩んでいる」という。確かに、庭木の剪定や苔の管理、落ち葉の清掃など並大抵ではない。こちらが「庭の掃除が大変ですね」と問いかけたことから、リアルな話になった。

その次に醤油蔵元「カヨネ醤油」を訪ねた。ここでも地震で崩れることなく、白壁と柱と梁が白と黒のコントラスを描いていた。カネヨ醤油は2026年に創業100周年を迎える。「カネヨの甘口」は能登の風土が育んだ味である。魚の刺し身に合う醤油だ。4代目の木村美智代さんから震災当時の話を聞いた。工場の建物は無事だったが、瓶詰めのラインは稼働できなくなり廃棄。醤油の浄化槽の横には大きな陥没ができた。さらに、店に買いに来る客はゼロになった。

売り上げを支えたのは木村さんが始めたオンラインショップだった。もともとコンピュータ関連メーカーで働いていた経験があり、すばやく取り組んだ。商品を買って被災地を応援しようと注文が全国から相次いだ。その後、2月になって醤油造りを再開。瓶詰めからペットホトル詰めへと製造ラインを変更した。「能登の食文化と醤油づくりの未来を守ること」。震災を乗り越え、創業100周年への意気込みを語った。

⇒19日(日)夜・金沢の天気   くもり

☆震災の語り部による「能登のいま」 自然の美と心の温かさ守る

☆震災の語り部による「能登のいま」 自然の美と心の温かさ守る

前回ブログの続き。「復興応援ツアー」(今月15、16日)の2日目は能登金剛を訪れた。ここで遊覧船の事業を営む木谷茂之さん・由己さん夫妻から話を聴いた。

能登金剛は志賀町富来海岸の一帯を指し、その中心となるのが能登半島国定公園を代表する景勝地、巌門(がんもん)である。松本清張の推理小説『ゼロの焦点』の舞台としても知られる。清張の歌碑がある。『雲たれて ひとり たけれる 荒波を かなしと思へり 能登の初旅』。清張が能登で初めて見た荒海の情景。人は出世欲、金銭欲、さまざまな欲望をうねらせて突き進むが、最後には自らの矛盾や人間関係、社会制度に突き当たって一瞬にして砕け散る。ズドンと音をたてて砕ける荒海から、サスペンスのイメージを膨らませたのかもしれない。

木谷さん一家は初詣に向かう車の中で能登半島地震に見舞われた。大津波警報と避難勧告が出され、その後、避難所に身を寄せることになる。巌門の現地に行くと、所有する3隻の遊覧船のうち2隻は引き波に50㍍ほど流され、岸壁の堤防に引っ掛かった状態になっていた。自宅も土産店も倒壊は免れたものの、商品棚は倒れ、水道復旧には2ヵ月かかった。そして巌門に通じる道はゴ-ルデンウイークには間に合い店を再開。被災した2隻の修繕を終え通常運行を再開したのは7月だった。「人が戻り、笑顔が戻る。かつてのにぎわいを取り戻すには時間がかかります。そのためにも自然の美しさと人の温かさ守りたいですね」と語った。

能登は水産加工品の拠点でもある。加工会社を経営する沖崎太規さんを訪ねた。製造販売しているのは「丸干しいか」、「干しほたるいか」、「ほたるいか沖作り」、「いしりするめ」とイカにこだわった商品。スルメイカなどは日本海で獲れる。「干しほたるいか」は、親指ほどの大きさの生のホタルイカを、ひとつずつ並べ干していく。触腕と呼ばれる長いイカの足も一つ一つ手作業で伸ばす。また「丸干しいか」は「もみいか」とも呼ばれ、手でもみほぐし干すという伝統の製法を守っている。能登で醸造された「いしる」と称される魚醤が隠し味になっている。

沖崎さんは昼寝から覚めたところで、震度7の揺れが来た。自宅の倒壊は免れた。工場に駆けつけた。経験があった。前の能登半島地震(2007年3月25日)でダメージを受けていたので、今回は修復できるかどうか見極めたかった。「そこらじゅう傷んでいて、立て直すのは無理とそのとき思った」。ただ、唯一の救いが停電にならなかったため冷凍庫にあった商品がすべて無事だったことだ。その後、銀行の融資を取り付けて動き出したのが9月だった。修理をほぼ終えて製造ラインが稼働したのがことし3月となった。

西海水産公式サイトでは、消費者へのあいさつをこう結んでいる。「これからも、能登を愛し、いかを愛す。(中略)皆様に愛される商品作りを心掛けてまいります」

(※写真は上から、遊覧船事業を展開する木谷茂之・由己さん夫妻、海から眺めた巌門、水産加工品会社を経営する沖崎太規さん=人物写真は志賀町観光協会公式サイトから)

⇒18日(土)夜・金沢の天気   あめ

★震災の語り部による「能登のいま」 復興ツーリズム

★震災の語り部による「能登のいま」 復興ツーリズム

去年元日の能登半島地震の現場を訪ねる「復興応援ツアー」(今月15、16日)に参加した。震度7の揺れが起きた、半島の中ほどに位置する志賀町の一般社団法人「志賀町観光協会」が企画した。震災を体験した地域の人たちが「語り部」となり、「能登のいま」を共に考える意義深い1泊2日のツアーだった=写真・上=。

このツアーは観光協会の事務局長、岡本明希さんが企画した。岡本さんは能登地震で志賀町の自宅で被災した。初詣を終えて台所で正月のお膳の準備をしていた午後4時すぎに強烈な揺れに見舞われた。地域の小学校で避難生活を経験し、その後、羽咋市の親戚宅にいまも身を寄せている。この経験を踏まえ、復興の歩みや地域の現状を全国に発信したいという想いからツアーを企画した。「きのうは変えられない。でも、あすは変えられる」。自らもいまと未来を語り続けている。

ツアーの初日の語り部は、北前船の寄港地だった福浦港と航海安全を祈願した絵馬が並ぶ金比羅神社の歴史について語った松山宗恵さん=写真・中、志賀町観光協会公式サイトから=。語り口調が穏やかで、言葉を選んで話すので分かりやすい。福浦港近くの街中にある福専寺の17代目の住職とのこと。語りに慣れている。震災についての体験も身振り手振りで語った。

去年元日は帰省した娘や孫たちと過ごしていた。「ちょうどトイレに行って手を洗っていたら、ガタガタとものすごい揺れだった」。トイレのドアが開かなくなり、足で蹴破って出て、子どもや孫たちとテーブルの下に潜り込んだ。そして、大津波警報のアラームが街中に鳴り響き、家族とともに高台にある旧小学校に避難した。津波は寺の目の前まで押し寄せていて、本堂は本尊が一部損傷し、中規模半壊(後の判定)だった。その後、金沢市に住む三女の家に避難し、毎日のように福浦に通った。被害があった墓地の現状を確認し門徒に報告した。そして、真宗大谷派から届いた毛布や食糧、灯油、水などの救援物資を門徒や地域の人たちに届けた。

松山さんは地域の歴史や文化、伝統工芸などの魅力を、この地を訪れる人々に伝える「いしかわ文化観光スペシャルガイド」でもある。先に述べた金比羅神社脇の細い坂道を登っていくと、木造の白い建物が見えてくる。日本最古の西洋式灯台、旧・福浦灯台=写真・下=。現在の灯台は1876年に明治政府によって建てられたが、起源は1608年にさかのぼる。北前船の歴史が金比羅神社とつながる、分かりやす説明だった。

地域の歴史の文化と同時に語る、自身が体験した地震や津波のリアルタイムな話だ。防災教育に訪れる高校生たちは被災地の現状を学ぶと同時に地域の観光資源を活かした復興ツーリズムの可能性についても学ぶ。「地震と復興の語り部」でもある。

⇒17日(金)午後・金沢の天気   はれ

☆能登半島の尖端が動き出す 風車と珠洲焼、炭焼き窯

☆能登半島の尖端が動き出す 風車と珠洲焼、炭焼き窯

先日(今月12日)に能登半島の尖端の珠洲市に行くと、山の尾根の風車が回っていた=写真・上=。同市にある30基の風力発電は長さ30㍍クラスのブレイド(羽根)で、日本海から風で悠然と回る光景は自然のエネルギーを感じさせ、ある意味で地域のシンボルでもある。それが、去年元日の最大震度7の能登半島地震ですべて停止した状態となった。メンテナンスを施せば再稼働するものの、山道などが崩れてアクセスがままならない状態が続いていた。それがようやく回り始めたようだ。

震災後、地域も動き出している。伝統的な焼き物でもある珠洲焼もその一つ。毎年秋に作品を一堂に集めた珠洲焼祭りを開いてきたが、能登地震で窯が全て壊れるなど壊滅的な被害を受けた。このため、去年は開催ができなかった。現在も18ある窯元のうち6つしか復旧していないものの、珠洲焼の陶工たちでつくる「珠洲焼創炎会」が共同で使用する窯を修復することで創作活動の再開にこぎつけた。そして、今月11日と12日、2年ぶりに珠洲焼祭りの開催が実現した。

会場となった珠洲市多目的ホール「ラポルトすず」前の広場では、17人の作家が手がけた数々の器や花入れなどが並んでいた=写真・中=。珠洲焼は黒に近い灰色が特徴の焼き物で、平安時代から室町時代に生産された後に途絶えたが、1976年に復活したことで知られる。今回も珠洲焼の復活祭と言える。会場は珠洲焼を求める人々でにぎわっていた。

珠洲焼祭りを見学した後、今度は炭焼き窯を見学に行った。山の中で製炭業を営む大野長一郎氏を訪ねた。茶道用の炭である「菊炭」を生産する石川県内では唯一の業者でもある。今回の能登半島地震で稼働していた4つの炭焼き窯が全壊した。2022年6月19日の震度6弱の揺れで窯の一部が大きくひび割れ、2023年5月5日の震度6強でも窯の一部が崩れた。震災のたびに支援者の力添えを得ながら修復していたが、本人は限界を感じていた。ことし5月に訪れたときには、「土で造る窯はもう無理。地震に強い鉄窯でやってみる」と語っていた。その後、クラウドファンディングを利用し、金属製窯の導入した=写真・下=。

鉄窯には先月17日に初めて火を入れた。気密性が高く、1回当たりの生産量は土窯より落ちるが、従来の半分の時間で焼き上がるため、1ヵ月の生産量は同じという。茶道用の菊炭もこれから手掛けるという。大野氏は「まだ満足のいく炭には仕上がっていないけど、これから完成度を高めていく」と意欲的だった。

珠洲市を含む能登は、少子高齢化と地震多発の日本の縮図でもある。珠洲焼祭りや大野氏の炭焼き窯を見学して、災害復興のモデル地区として再生して欲しい、そんなことを思いながら帰路に就いた。

⇒14日(火)夜・金沢の天気  あめ

★万博フィナーレ 小さな心臓から大屋根リングまで感動の記憶

★万博フィナーレ 小さな心臓から大屋根リングまで感動の記憶

世界158の国・地域が184日間にわたって歴史・文化や最先端のテクノロジーなどを発信した大阪・関西万博がフィナーレを迎えた。きょう午後、NHKテレビで閉会式を視ていた。大阪府の吉村知事は閉会のあいさつで、警備担当者や医療従事者、ボランティア、児童生徒を引率した学校の教員など、様々な立場で万博に携わった関係者を挙げて、それぞれに「ありがとう」を8回も述べていたのが印象的だった。石破総理は公式キャラクター「ミャクミャク」に内閣総理大臣感謝状を授与したことを紹介していた。閉会式のコンセプトは、万博に関わったすべての人へ「感謝」を伝えることが目的だったようだ。自身も6月に大屋根リングを訪れている。以下、印象に残っていることをいくつか。

万博に来た甲斐があったと思ったのは、iPS細胞で創られた「小さな心臓」が鼓動する様子を見たときだった。円筒形の容器の赤い培養液の中でドク、ドクと動いていた。これを眺めていると、生命の源(みなもと)は心臓だと改めて思うと同時に、鼓動するその姿に生命の神秘を感じた。小さな心臓は大阪大学のチームが作成したもので、コラーゲンの土台にiPS細胞由来の心筋細胞を植え込み、3.5㌢ほどの原型をつくったと説明書きにあった。「iPS心臓」の未来がきっとやってくる、と想像を膨らませた。(※写真・上は「PASONA」パビリオンの「iPS心臓」)

万博について周囲の人と話していて、けっこう受けたのが「ワニの肉」の話。「オーストラリア」パビリオンの前にショップがあり、「クロコダイルロール」と赤ワインを注文した=写真・中=。説明書きには「ワニの切り身・ネギ・レモンマートルマヨネーズ・ブリオッシュロール」とあり、どんな食感がするんだろうと好奇心がわいた。値段は1650円。オーストラリア人らしき女性販売員から「ワニ、オイシイデスヨ」と片言の日本語で手渡された。少々ドキドキしながら口にした。ワニの肉は硬いイメージだったが、鳥肉のような柔らかさだった。そして、これがオーストラリア産の赤ワインとぴったりと合う。まさにマリアージュ。ちょっとした海外旅行気分が味わえた。

万博のシンボルは何と言っても大屋根リング=写真・下=。「多様でありながら、ひとつ」という万博の理念を表す建築物でもある。リングの下は歩ける通行空間であると同時に、雨風や日差しなどを遮る快適な滞留空間でもある。そして、構造が神社仏閣などの建築に使用されてきた伝統的な貫(ぬき)接合の工法を加えた建築であり、和の風格を感じさせる。最大の木造建築物としてことし3月にギネス世界記録に認定されている。正式な英語記録名は「The largest wooden architectural structure」。大屋根リングは万博終了後に一部を残して解体される。

万博協会は解体後の木材を無償で譲渡することにしていて、その一部は能登半島の尖端に位置する珠洲市に「復興公営住宅への活用」を条件に譲渡することが内定している(メディア各社の報道)。万博会場から能登半島地震の被災地へ。第二のステージはある意味で地味ながら、被災地の人々の安らぎの空間として活用される。

⇒13日(月)夜・金沢の天気  はれ

☆能登で一青窈さん熱唱 デビュー曲「もらい泣き」のエピソード

☆能登で一青窈さん熱唱 デビュー曲「もらい泣き」のエピソード

きのう「古墳まつり」が開催された中能登町にきょうも行ってきた。町制20周年記念の音楽イベントが開催され、町ゆかりの歌手の一青窈さんが出演するというので、ファンの一人として足を運んだ。前回ブログで取り上げた国の史跡「雨の宮古墳群」は眉丈山(標高188㍍)の山頂にあるが、その山のふもとの街に「一青」という地名がある。一青窈さんの先祖の地でもある。彼女はこの町出身の母親と台湾人の父親との間で生まれた。そして、ヒット曲に『ハナミズキ』という曲があるが、この町にも「花見月(はなみづき)」という地名の田園地帯が広がる。

音楽イベントでは、公園で設けられた特設ステージでトークショーがあり、町長の宮下為幸氏と一青窈さんが出演した。町と関わるエピソードが披露された。「もらい泣き」でデビューした時、町の酒造蔵から純米吟醸酒「一青(ひとと)」をお祝いにもらい、感動したと話した。また、きょうは震災の仮設住宅を訪れ、入居する被災者と交流したことにも触れた。

ステージでは一青窈さんが『もらい泣き』や『ハナミズキ』など7曲を歌った。意外だったのは『アンパンマンのマーチ』だった。「なんのために 生まれて なにをして  生きるのか こたえられない なんて  そんなのは  いやだ!  今を生きる ことで  熱い  こころ  燃える だから 君は いくんだ ほほえんで・・・」。初めて聴いた。一青窈さんがしっとりと歌うと心に響く大人の歌になる。トークと歌謡ショーで40分余り、楽しませてもらった。(※ステージは撮影・録音が禁止だったので、写真はない)

町に入ると、地域の人たちの一青窈さんに対する思い入れを感じる。町では、JR西日本金沢支社に働きかけ、2015年にJR七尾線の駅で列車の発着を知らせるメロディーをヒット曲『ハナミズキ』に変更してもらった。町内にある良川、能登二宮、能登部、金丸の駅で、電車が通るたびにこのメロディーを聴くことができる。

「♪果てない夢が ちゃんと終わりますように 君と好きな人が百年 続きますように」。駅で列車が近づいてくると、この歌がじんわりと心に響いてくる。

⇒12日(日)夜・金沢の天気   はれ

★能登「古墳まつり」で古代米おにぎりを食し、獅子舞を楽しむ

★能登「古墳まつり」で古代米おにぎりを食し、獅子舞を楽しむ

「これは世にも珍しいまつり」と好奇心がくすぐられて見学に行ってきた。「古墳まつり」。能登半島の中ほどに位置する中能登町にある国指定の史跡「雨の宮古墳群」=写真・上=。まつりはこの古墳群を保護する民間団体「雨の宮を護る会」が主催していて、ことしで14回目という。

古墳群に対する地元の思い入れを護る会のメンバ-が語ってくれた。町の北側に連なる眉丈山(びじょうざん)山系の尾根筋につくられた古墳群は、地元では古くから「雨乞いの地」として知られ、「雨の宮」という名称もこの思いが込められているという。山のふもとには邑知(おうち)平野と呼ばれる水田地帯が広がる。この水田を潤す雨が降ることを祈った、歴史ある場所なのだ。

祈りの地である古墳群には前方後方墳(1号墳)と前方後円墳(2号墳)を中心に全部で36基が点在している。全長64㍍の1号墳は、4世紀から5世紀の築造とされ、古墳を覆う葺石(ふきいし)も当時ままの姿。まるで山頂のピラミッドのようだ。1号墳からは山のふもとに広がる水田地帯を見渡すことができ、実に壮観だ。1987年に古墳近くの遺跡から炭化した「おにぎりの化石」が出土し、2千年前の弥生時代のものと推定され、日本最古のおにぎりとして当時話題になった。去年元日の能登半島地震では古墳群に亀裂が入り、現在も一帯は「立入禁止」となっている。

古墳まつりは山頂の古墳群から下手にある資料館「雨の宮能登王墓の館」の広場で開催され、午前10時には能登の震災復興祈願祭が執り行われた。古墳群の近くにある能登部神社の女性宮司が古墳群に向かって祈祷を捧げた=写真・中=。続いて行われたのが「芸能発表」。地域の子どもたちが太鼓や獅子舞を披露した。獅子と天狗がともに踊るにぎやかな獅子舞踊りで、地域の祭りのシンボルになっている=写真・下=。このほか、中学の吹奏楽部の生徒がコンサートを行うなど、午前中2時間余りのにぎやかなまつりだった。

会場には大勢の人が訪れていた。そのお目当ての一つが「古代米おにぎり」。前述した「おにぎりの化石」が遺跡から発見されたことをきっかけに同町では「古代米おにぎり」を町おこしのアイテムとしていて、人気がある。古墳群を眺めながら古代米おにぎりをほうばる。なんとも歴史観のあるまつりではある。

⇒11日(土)夜・金沢の天気    くもり

☆公明が自民との連立離脱 さらなる「少数与党」化どうなる

☆公明が自民との連立離脱 さらなる「少数与党」化どうなる

「少数与党」という言葉を嫌ったの石破総理ではないだろか。おそらく「少数」という言葉が気に入らないのだろう。その代わりに石破氏は「比較第1党」という言葉を使っている。意味は同じで、選挙や議会において単独で過半数を獲得していないものの、他の政党と比較して最も多くの議席を獲得した政党を指す。普段使いの政治用語ではない。マスメディアが「比較第1党」という言葉を使ったのを見聞きしたことがない。ここに来て、自民党政権はますます「少数与党」化していくことになった。

メディア各社の報道によると、公明党の斉藤代表は10日の自公党首会談で、自民の高市総裁に対して連立政権から離脱する方針を伝えた。公明側は連立の条件として派閥裏金事件の真相解明と企業・団体献金の規制強化を求めていたが、高市氏が回答を保留したため、斉藤氏は「政治とカネ」の対応が不十分だ断じたようだ。自公の連立は1999年10月に始まり、野党時代をはさんで26年間続いてきた。公明側の離脱で、高市氏は今月20日以降に召集される臨時国会で首班指名されても、少数与党による困難な政権運営を迫られることになる。(※写真は、公明党との党首会談後、記者団の取材に応じる高市総裁=自民党公式サイト)

高市氏はきのう(9日)夜のNHK番組で「自公連立は基本中の基本だ。政策合意文書を早くつくれるように頑張る」と述べていただけに、四半世紀におよぶ協力関係が白紙に戻ったことは相当なショックだったに違いない。

この事態についての野党側の反応はどうか。メディア各社の報道によると、自民と連立を組む可能性が指摘されている国民民主の玉木代表は、今後の可能性について否定的な見解を示した。「公明党が抜け、われわれが政権に加わっても過半数に届かないので、あまり意味のない議論になってきている」と国会内で記者団に述べた。自民との向き合い方に関しは、「政策本位で、進めるべき政策があれば協力していく」と説明。公明については「生活者の立場に立った政策や中道政党ということで重なる部分が多い。かなり共通して歩めるところがある」と語った(10日付・共同通信ニュースWeb版)。

野党第1党の立憲民主の野田代表は、公明が自民との連立離脱を表明したのを受け、首班指名選挙での野党間の候補一本化に重ねて意欲を示した。国会内で記者団に「野党連携へ各党の理解が深まってきている。丁寧に共闘を呼びかけたい」と述べた(同)。

さらなる「少数与党」化が進めば政権運営が困難となり、野党連合が頭をもたげて逆転のチャンスを狙うだろう。日本政治の転機となるのか、混迷が深まるのか。

⇒10日(金)夜・金沢の天気   はれ

★これもメディア・スクラム 「みんなで愚痴れば怖くない」

★これもメディア・スクラム 「みんなで愚痴れば怖くない」

自民党本部で自民党の高市早苗総裁への「囲み取材」を待っていた報道陣の中で、男性カメラマンが雑談で「支持率下げてやる」「支持率下げるような写真しか出さねえぞ」などと発言した動画(今月7日付)が、X(旧ツイッター)などのSNS上で拡散されている。たまたま、日本テレビがインターネット上で生中継する中で、カメラマンの声をマイクが拾ったようだ。時事通信社はきょう9日、この発言が自社のカメラマンであることを認め、「報道の公正性、中立性に疑念を抱かせる結果を招いた」として厳重注意したと発表した(※写真は、時事通信社公式サイトから)。

この発言、Xではライブ配信の切り抜き動画を含む投稿が3700万回表示された(8日夜の時点)。さらにYouTubeやTikTok、InstagramといったほかのSNSでも同様の動画が拡散し、メディアへの批判コメントが相次いでいる。

時事通信社は報道局長と社長室長の2人がお詫びのコメントを出している。編集局長「雑談での発言とはいえ、報道の公正性、中立性に疑念を抱かせる結果を招いたとして、男性カメラマンを厳重注意しました」、社長室長「自民党をはじめ、関係者の方に不快感を抱かせ、ご迷惑をおかけしたことをおわびします。報道機関としての中立性、公正性が疑われることのないよう社員の指導を徹底します」

この記事をネットニュースで知って、「メディア・スクラム(media scrum)」という言葉を想起した。「集団的過熱取材」。新聞やテレビ、週刊誌・雑誌など複数のマスメディアの記者やカメラマンが一斉に取材すること。ラグビーのスクラムを組んで集中攻撃する様相に似ていることから登場した言葉で、ときには取材が行き過ぎ、威圧的に人々のプライバシーなどを侵害することもある。今回の場合、報道各社は高市氏が公明党執行部との会談を終えて取材対応のために姿を見せるのを待っていた。

この囲み取材の中の雑談発言では、ほかのメディアの記者やカメラマンも「イヤホン付けて麻生さんから指示聞いたりして」などといった、高市氏を揶揄するような発言もあったようだ。メディア・スクラムは簡単に言えば、「みんなで渡れば怖くない」という意味。高市待ちぼうけをくらったメディア関係者が愚痴を言い合っていた。カメラマンもつい不適切な言葉を吐いた。その声をネットが拾って騒動になったのだろう。以上は自身の憶測だ。

⇒9日(木)夜・金沢の天気   くもり