☆能登半島地震から1年7ヵ月 文化財レスキューで新たな発掘と発見

☆能登半島地震から1年7ヵ月 文化財レスキューで新たな発掘と発見

前回ブログの続き。金沢市の石川県立歴史博物館で開かれている特別展『未来へつなぐ~能登半島地震とレスキュー文化財』ではこれまで知られた文化財だけでなく、被災した民家や蔵などでのレスキューで新たに発見された名画などもある。

林景村筆『猿猴図額(えんこうずがく)』=写真・上=。能登半島の中ほどにある中能登町能登部の被災家屋で見つかった。説明書きによると、被災家屋は個人宅で、解体前に所有者が同館に所有する美術品などの取り扱いについて同館に相談に訪れた。去年3月22日に現地調査し、7月23日にレスキューを行った。猿猴図額はその中の一つ。松の木に登る手長猿が描かれた額だ。作者は林景村とあるが不明の人物だった。そこで、同館が戦前の美術名鑑を調べると、能登で活躍した画家の貴重な作品であることが分かった。

景村は明治40年(1907)生まれ。さらに現地での聞き取り調査から、元の所有者が申年生まれであり、それにちなんだ作品でもあることが分かった、と説明書きにある。この作品を見て、時代は違うが同じ能登出身の安土桃山時代の絵師、長谷川等伯(1539-1610)の『松林図屏風』(国宝)を思い出した。靄(もや)の中に浮かび上がる浜辺のクロマツ林。能登の絵師にとって松の風景は絵のモチーフなのだろうか。

能登半島の尖端、珠洲市で中世を代表する焼き物、珠洲焼がある。室町時代から地域の生業(なりわい)として焼かれ、貿易品でもあった。船で運ぶ際に船が難破し、海底に何百年と眠っていた壺や甕(かめ)が漁船の底引き網に引っ掛かり、時を超えて揚がってくることがあり、「海揚がりの珠洲焼」として骨董の収集家の間では重宝されている。一方、山林から出土する壺もある。多くは骨壺だ。今回展示されているのは『珠洲叩壺・珠洲刻文叩壺』(鎌倉時代末期~南北朝時代、14世紀のもの)。所有者の珠洲の実家にあったが、被災したため、去年3月4日に同館に持ち込まれた。

そのほか、能登ならでの道具がある。『岩ノリ採りの道具』(昭和20年代に製作)。岩ノリの採取や加工に用いられた竹細工の数々だ。志賀町笹波や前浜地区では戦前まで全戸が副業として竹細工を営んでいた。戦後は捕鯨船の船員となり竹細工の副業から離れ、現在では1人のみがその技術を伝えている。「亡き父が作った竹細工がある。資料になるなら」と所有者から同館に声掛けがあり、去年10月10日に救出した。

発災から1年7ヵ月、震災の公費解体に伴いこうした希少な技術の作品や文化財が消滅する恐れがあると同館ではいまも文化財のレスキューを続けている。

⇒2日(土)午後・金沢の天気  くもり

★能登半島地震から1年7ヵ月 「未来につなぐレスキュー文化財」展

★能登半島地震から1年7ヵ月 「未来につなぐレスキュー文化財」展

去年元日の能登半島地震で被災した住居や蔵、寺社などから救い出された文化財などを展示した特別展が金沢市の石川県立歴史博物館で開かれている。展覧会のタイトルは『未来へつなぐ~能登半島地震とレスキュー文化財』=写真・上=。同館では国の文化財防災センターと連携して学芸員がレスキュー隊を編成し、震災があった翌2月から被災地に入り活動を行っている。ここで言う文化財は地域の歴史を伝える有形文化財や有形民俗文化財を指すものの、指定の有無は問うてはいない。特別展では救出された文化財の中から107点を展示している。

展覧会場で目を引いたのは仏像だった。震源地と近い珠洲市長橋町の古刹・曹源寺は寺の本堂の屋根が建物を押しつぶすカタチで倒壊した。その中から引き出された阿弥陀三尊像の一つ、阿弥陀如来挫像は体の部分と足腰の部分、手首の部分が分離した状態となっていて、震災のすさまじさを物語っている=写真・中=。平安時代の12世紀につくられ、石川県の指定文化財でもある。

会場ではそのレスキューの様子を撮影した写真も展示されている=写真・下=。写真説明によると、救出されたのは震災から半年が経った7月1日だった。救出の際は、倒壊した本堂の屋根下に鉄骨などを入れ、これ以上本堂が崩れないように出入り口を確保して、仏像を引っ張り出す作業が慎重に進められた。

このほか、輪島塗の歴史を伝える貴重な資料も見つかっている。生産から販売を手掛ける塗師屋は江戸時代からそれぞれに取引する担当地域が決まっていて、今回見つかったのは三重県を取引先とした塗師屋の文書など。見本を送付するための木箱や見本画などが屋根裏の部屋に置かれていた。顧客とどのようにやり取りをしていたかを具体的に示す史料として貴重なもの。11月22日に救出された。

展覧会場には、小学生が手書きした新聞なども展示されている。輪島市の避難所に身を寄せていた小学生たちが貼り紙で生活のルールや食事の案内、生ごみの出し方などを表記したものなど。このほかにも避難生活者が書いた日記や手紙なども。避難所での日常生活を伝える貴重な文化財との位置づけで収集されている。レスキュー文化財の特別展は今月31日まで。

⇒1日(金)午後・金沢の天気  はれ時々くもり

☆震源から何千㌔離れていても津波は来る 教訓生かす能登尖端の地区

☆震源から何千㌔離れていても津波は来る 教訓生かす能登尖端の地区

ロシアのカムチャツカ半島付近できのう(30日)発生したマグニチュード8.7の巨大地震で、太平洋沿岸部に津波の影響が広くおよんだ。震源から1500㌔離れた日本では津波警報が発令された=図、気象庁公式サイトから=。警報を受け、北海道、東北など沿岸部の21都道県229市町村が約200万人に避難指示を出すなど対応に追われた。津波はきのう夕方までに22都道府県の沿岸部に到達し、岩手県宮古市では1.3㍍が観測された。また、アメリカのハワイ州で1.7㍍の津波が観測された(メディア各社の報道)。

今回のM8.7の地震規模は1900年以降に世界で発生した地震の中で8番目に大きいとされる。日本列島から遠い海外の地震に伴って津波警報が発令されるのは、2010年2月27日にチリで発生したM8.8の地震以来15年ぶりとなる(同)。

話は逸れる。自身の体験談だが、津波で危ない思いをしたことがある。1983年5月26日正午ごろ、秋田沖を震源とする日本海中部沖地震が起きた。当時、新聞記者で輪島支局員だった。輪島は震度3だったが、津波がその後に押し寄せた。高さ数㍍の波が海上を滑って走るように向かってくる。輪島漁港の湾内に大きな渦が出来て、漁船同士が衝突し沈没しかかっている船から乗組員を助け上げているを見て、現場へ走り、数回シャッターを切ってすぐ高台に避難した。大波が間近に見えていた。あの時、取材に欲を出してさらにシャッターを切っていたら、津波に足をすくわれていたかもしれない。乗組員の2人は無事だった。(※写真・上は、日本海中部沖地震で津波が輪島漁港に襲来したことを記載した紙面)

もう一つ。体験ではないが、津波への警戒を共有している地域がある。能登半島の尖端に位置する珠洲市の三崎地区。海岸沿いの道路を車で走ると、「想定津波高」という電柱看板が目に入る。中には「想定津波高 20.0m以上」もある=写真・下=。同市では2018年1月に「津波ハザードマップ」を改訂した際にリスクがある地域への周知の意味を込めて電柱看板で表記した。石川県庁がまとめた『石川県災異誌』(1993年版)によると、1833年12月7日に新潟沖を震源とする大きな津波があり、珠洲などで流出家屋が345戸あり、死者は約100人に上ったとされる。1964年の新潟地震や1983年の日本海中部沖地震、1993年の北海道南西沖地震などでも珠洲に津波が押し寄せている。

半島の尖端という立地では、震源地が遠く離れていたとしても常に津波を警戒する心構えが必要なのだろう。「想定津波高」の電柱看板からそんなことを学んだ。

⇒31日(木)午後・金沢の天気  はれ

★石動山ユリの花咲く姿 ひっそりと気品のあるやさしさ

★石動山ユリの花咲く姿 ひっそりと気品のあるやさしさ

能登半島の中ほど中能登町にある石動山(せきどうざん、標高564㍍)に登った。かつての山岳信仰の拠点の一つであり、最盛期の中世には院坊が360あり、衆徒3000人が修行を積んでいたと伝えられ、国指定の史跡でもある。この時季、「石動山ユリ」が見ごろで、きょう乗用車で山頂近くにある大宮坊の敷地まで行く。去年に続いて2度目だ。まさに白い華麗な花=写真・上=。よく見るヤマユリよりも大きく、ひとつの花で25㌢ほどだろうか。茎は点在していて、1茎に12の花をつけているものもある。

石動山ユリは、2007年に中能登町の町の花に指定され、いまでは130株ほどが植えられている。もともとは修験者が越後の国(いまの新潟県)から持ち帰って植えたヤマユリとの言い伝えがある。厳しい修行を見守っていた花なのだろう。

それにしても石動山へはところどころ急勾配で曲がりくねった険しい山道だ=写真・下=。今は乗用車で行くことができるが、かつては徒歩、あるいは馬に乗ってこの坂を上り下りしたのだろう。文献に出てくるのが、元禄9年(1696)に加賀藩の武士、浅加久敬が書いた日記『三日月の日記』だ。

浅加は馬に乗って、当時は「御山」と呼ばれていた石動山へ参拝に上った。七曲がりという険しい山道を、道案内をする地元の馬子(少年)が馬をなだめながら、そして自分も笑顔を絶やさずに一生懸命に上った。武士は馬にムチ打ちながら上るものだが、少年は馬を励まし、やさしく接する姿に感心し、日記に「されば・・・能登はやさしや土までも、とうたうも、これならんとおかし」と綴った。「能登はやさしや」はもともと加賀に伝わる杵歌(労働歌)に出てくる言葉だった。

話は戻るが、ヤマユリの花言葉の中に「飾らぬ美」「純潔」がある。気品ある姿や山野草としてひっそりと咲く誇らしい姿を表現している。ヤマユリの花言葉は「能登はやさしや土までも」にも通じるのではないだろうか。ひっそりと気品のあるやさしさだ。

⇒29日(火)夜・金沢の天気  はれ

☆石破総理は退陣か続投か メディア各社の世論調査にバラつき

☆石破総理は退陣か続投か メディア各社の世論調査にバラつき

石破総理の退陣をめぐって、メディア各社が世論調査の結果を報じている。この報道から見えることは・・・。きょう28日付の日経新聞によると、同社の世論調査(7月25-27日)では内閣支持率は32%と2024年10月の政権発足後、最低を更新し、不支持率は61%に上った。その一方、退陣については「直ちに交代してほしい」が36%を占めたものの、「26年の春ごろまで」18%、「あと1年くらい」14%、「27年9月の自民党総裁の任期満了まで」20%、「それ以上できるだけ長く」5%と、6割近くが期間の長短はあっても続投を求めている。

そして、朝日新聞の世論調査(7月26、27日)も、石破総理の退陣をめぐって「辞めるべきだ」が41%で、「その必要はない」が47%とやや多い結果となった。参院選の自民大敗の要因を2択で問うた質問では、「自民全体に問題がある」が81%を占め、「首相個人に問題がある」は10%と少ない。自民支持層も「自民全体に問題がある」が81%だった。

テレビ朝日系のANNが行った世論調査(7月26、27日)では、内閣支持率は31.6%、不支持は50.2%だった。石破総理の退陣論のついては、辞任すべきと「思う」との回答が46%、「思わない」が42%となり、拮抗した結果とっている。(※写真は、金沢市内の自民党広報板に貼られていたポスター)

共同通信が7月21、22日に実施した参院選直後の世論調査では、内閣支持率は22.9%と政権発足以来で最低となったものの、石破総理の退陣については、「辞任するべきだ」は51.6%、「辞任は必要ない」は45.8%と、意見が分かれたカタチとなった。読売新聞の選挙直後の世論調査(21、22日)では、内閣支持率は「支持する」が22%に落ち、「支持しない」が67%と大幅に上回った。「首相を辞任するべきだと思いますか、思いませんか」との2択の問いでは、「思う」が54%、「思わない」が35%となり、世論は退陣を望む声が大きく上回った。この明快な調査結果などを背景に、読売新聞は23日付で「石破首相 退陣へ」の号外を出した。

逆な数字の調査結果もある。毎日新聞の世論調査(7月26、27日)では内閣支持率は29%と前回(6月28、29日)から5ポイント上昇した。不支持率は59%で前回の61%とほぼ横ばいだった。選挙結果を受け、「首相は辞任すべき」は42%、「辞任する必要はない」は33%だった。内閣支持率は上昇したものの、一方で選挙敗北の責任を問う意見は根強い。この数字をどう読めばよいのか。

きょう自民党は両院議員懇談会を開く(メディア各社の報道)。党総裁である石破総理が選挙大敗の責任や要因に関して説明し、所属議員から意見を聞くことになる。党内では退陣を迫る署名活動が進んでいて、懇談会は荒れ模様になるのか。

⇒28日(月)午後・金沢の天気  はれ

★新横綱・大の里関のふるさと津幡に咲く35万本のヒマワリの大輪

★新横綱・大の里関のふるさと津幡に咲く35万本のヒマワリの大輪

金沢の北側に河北潟干拓地に2.3㌶におよぶ「ひまわり村」(無料開放)がある。毎年夏になると35万本のヒマワリが咲き誇りる。太陽に向かって満面の笑みを浮かべるように咲く姿は、元気でエネルギーにあふれる人の姿をイメージさせる=写真、27日午前9時ごろ撮影=。その花言葉も「あなたは素晴らしい」「あなただけを見つめる」「あこがれ」とじつに前向きだ。

ひまわり村のスタッフの説明によると、ヒマワリは梅雨の時季に雨が降り過ぎると枯れやすくなるが、ことしは雨が少なく例年より高い2㍍にまで成長したものもあるとのこと。ただ、連日35度前後の暑さなので例年より成長が早く、今月25日に開村したばかりなのにほとんどが満開となっている。

「ひまわり村」ではヒマワリの迷路を散策するエリアもあり、8月上旬まで楽しめる。場所は津幡町湖東にあたる。津幡町と言えば、横綱・大の里関のふるさとでもある。その大の里は、3場所を連続制覇し、新横綱での優勝を目指していたが、今場所14日目までに4つの金星を与えてしまった。千秋楽を待たずに賜杯争いから脱落したことは無念の境地にちがいない。

ヒマワリの花言葉にもう一つ、「情熱」がある。厳しい夏の日差しに負けずに、ヒマワリが元気に咲きほこる様子に由来した言葉のようだ。「情熱」という言葉は「物事に対して激しく燃え上がる感情」を意味する。大の里の「唯一無二」の情熱を次の場所に期待したい。

⇒27日(日)午後・金沢の天気  はれ

☆「10年に一度」の猛暑まだまだ続く 「水がめ」や水田は大丈夫か 

☆「10年に一度」の猛暑まだまだ続く 「水がめ」や水田は大丈夫か 

猛暑日がきょう26日も石川県内に続くとして気象庁と環境省は8日連続となる「熱中症警戒アラート」を発表した(25日付)。さらに、気象庁は北陸などに高温に関する早期天候情報を発表した(24日付)。今月30日ごろからこの時期としては10年に一度程度しか起きないような著しい高温になる可能性があるとしている=予想図、気象庁公式サイトより=。このところ、気象庁は「10年に一度」を繰り返し述べているが、もう異常な暑さは日常になってきたのではないだろうか。それにしても、亜熱帯のような気候が続き、水不足にならないか、野菜やコメは育つのかと案じてしまう。

きのう午後、石川県内の河川でもっとも大きな手取川を巡った。白山(標高2702㍍)を源流とする手取川は加賀平野を流れ、日本海に注ぎこむ。手取峡谷にある落差32㍍のダイナミックな綿ヶ滝は見る人を圧倒する。さらに下流では、人々が手取川の水の流れと扇状地を加賀の穀倉地帯につくり上げた。2023年5月、ユネスコが定める世界ジオパークに白山と手取川の地質遺産や景観が認定された。

その手取川の上流にあるダムは、高さ153㍍の日本でも最大級のロックフィルダムとして知られる。手取川ダムの水は金沢市を中心として、北は七尾市能登島から南は加賀市まで供給されていて、県内の人口の7割をまかなっている。まさに「石川の水がめ」と言える。今回ダムを見渡して気になったのは、岩肌の一部が露出するなど貯水量が少ないように見えたことだ=写真、25日午後3時50分ごろ撮影=。ネットで調べてみると、きょう午前8時時点での貯水率は48.5%だ。雨が降らなければさらに貯水率は下がる。

2年前の2023年夏の渇水期のこと。北陸では7月下旬から高気圧に覆われて晴れの日が続き、ほとんどの地域で雨の量が平年の3割以下にとどまった。このため手取川ダムの貯水率は9月15日には18%にまで落ち込み、ダムが完成した1980年以降で最低を記録した。そして、全国的にコメが不作となり、2023年産米の供給が40万㌧足りなくなったことから、「令和のコメ騒動」などと騒ぎになった。

環境省公式サイトの「仮想水計算機」(バーチャルウォーター量自動計算)によると、コメ1合(約150㌘)分を収穫するには555㍑の水、そして茶碗1杯分のご飯を炊くまでには277㍑の水が必要とされる。猛暑が続けば、水不足が稲作の収穫量や品質に影響を及ぼす。「令和の米騒動」が再び起きないためにどのような対策を国や自治体は取るのか。手取川ダムの湖面を眺めながらそんなことを思った。

⇒26日(土)夜・金沢の天気  はれ

★「信なくば立たず」 続投に執着する石破総理が失う求心力

★「信なくば立たず」 続投に執着する石破総理が失う求心力

石破総理は参院選で自民が大敗し、公明党と合わせた議席で衆院に続いて参院でも過半数を失ったにもかかわらず、比較第1党として「国政に停滞を招かない」と続投を表明。さらにアメリカとの関税交渉を理由に再び続投を表明した。なぜここまで執着する必要があるのかと有権者の一人として考え込んでしまう。

国政選挙で大敗を喫したのであれば、政権与党のリーダーとして辞意を表明してケジメをつけるのは当然ではないか。そして、日米関税交渉が決着したのだから、むしろこれを花道として退陣してもよいのではないか、と普通に考える。

きょうの紙面を見ると、「石破首相 退陣へ 参院選惨敗 引責」(読売)、「石破首相 退陣へ 来月末までに表明」(毎日)、「石破首相 退陣不可避に 関税妥結、参院選敗北受け」(日経)、「首相 退陣不可避 自身は否定、来月末最終判断」(北國)。各社の見出しはまるで業を煮やしたかのようにも読める。

記事を読むと、地方から石破退陣を求める動きが起きている。地元・石川県の自民党県議ら19人は23日、辞任を求める文書を郵送した。当初は県議6人程度で申し入れ書を提出する方向だったが、賛同者が増えて最終的に県議8人、県内市町議3人、一般党員8人が名を連ねた(24日付・北國新聞)。また、投開票日翌日の21日に早期退陣を求める申し入れを行うことを決めた高知県連の上治堂司総務会長は、取材に対し、「参院選の結果は、国民が石破政権に対し『ノー』を突きつけた形で、続投は民意からずれている」と述べた(24日付・読売新聞)。

「信なくば立たず」。政治とは何かと弟子に問われた孔子は、兵、食、信の3つを挙げ、その中で大事なのは民から信じ託されることだと説いた。政治家に信頼がおけない限り、国民は信用しない。これは石破総理がこれまで説いてきたことではなかったか。

⇒24日(木)夜・金沢の天気  はれ

☆AⅠが能登の現場に 交通誘導を仕切る、「言葉の壁」を超える 

☆AⅠが能登の現場に 交通誘導を仕切る、「言葉の壁」を超える 

去年元日に能登半島地震があり、それを機に金沢から能登を頻繁に往復している。被災地がどうなっているのか、その後どうなったのか気になるからだ。そのときに利用するのが自動車専用道路「のと里山海道」。先日、その道路を走行すると横田IC付近で看板が出ていた。「この先 AⅠ誘導中」と書いてある=写真・上=。さらに、看板の上の方をよく見ると、「AⅠ交通システム」とある。ここはこれまで警備員のおじさんたちが数人で仕切っていた。それがいつの間にか、AⅠが仕切っていた。

看板の先は片側交互通行の道路になっていて、設置されたディスプレイの画面が「STOP」と「GO」のサインを出している=写真・下=。カメラで画像解析を行い、車の通過状況をAⅠが解析しているのだろう。車は表示された指示に従い、スムーズに流れていた。

能登では、AⅠをインバウンド観光で駆使している事例もある。半島北部の能登町にある民宿が並ぶ「春蘭の里」。インバウンド観光のツアーや体験型の旅行の受け入れを積極的に行っている。47軒の民宿経営の人たちが自動通訳機「ポケトーク」を使いこなして対応している。

春蘭の里の代表から聞いた話だ。「ポケトークだと会話の8割が理解できる。すごいツールだよ」と。ポケトークは74の言語に対応していて、春蘭の里は通訳機を使うようになって年間20ヵ国・2000人余りを受け入れるようになった。70歳や80歳のシニアの民宿経営者たちがポケトークを使いながらインバウンド観光の人たちと笑顔でコミュニケーションを取っている姿はAⅠの進化、まさに「文明の利器」を感じさせる。そして、困難と言われ続けていた「言葉の壁」をしなやかに乗り越えた事例だ。

さらに多様な役目をこなすAⅠが現れるだろう。たとえば、会議を仕切るAⅠだ。会議で出た話を分析してまとめを行い、次の議事進行へと淡々と進める。そんな時代が間もなくやって来るのかもしれない。

⇒23日(水)夜・金沢の天気  はれ

★能登半島の尖端 華やかな曳山と山車の「燈籠山祭り」2年ぶり

★能登半島の尖端 華やかな曳山と山車の「燈籠山祭り」2年ぶり

能登半島の尖端、珠洲市できらびやかな山車と曳山が練ることで知られる「燈籠山(とろやま)祭り」が今月20日と21日に行われた。現地に行くと、町衆が木遣り歌『きゃーらげ』を大声で歌い、曳山が街中を巡行していた=写真・上=。去年元日の能登半島地震、そして9月の豪雨に見舞われ、2年ぶりの山車と曳山のお披露目とあって、市民や県内外からの大勢の見物客でにぎわっていた。

江戸時代に始まったと伝えられる珠洲市飯田地区の燈籠山祭りは、毎年この時期に地区にある春日神社で行われる祭り。祭りでは「えびす様」の人形を載せた高さ16㍍の山車「燈籠山」=写真・下=が夜になれば、こうこうと明かりを灯して、8基の曳山とともに市の中心部を往復する。

2022年からの群発地震に始まり、2023年5月、2024年元日と立て続けに大地震があった珠洲市では、道路の一部に損傷が残っていることから、例年よりルートを短縮して巡行が行われた。「ヤッサー、ヤッサー」と掛け声に合わせて、街中を練り歩くに能登の祭りの意気込みを感じた。

能登の祭りにパワーを感じる。ことし5月には、能登半島の中ほどの七尾市で2年ぶりに開催された「青柏祭(せいはくさい)」を見学に行った。「でか山」と称される、高さ12㍍あり、重さ20㌧にも及ぶ山車。平安時代から伝わる能登半島の代表的な春の祭りとされ、でか山が練り歩く「曳山行事」は2016年にユネスコ無形文化遺産に登録されている。

その後、今月4日に半島北部の能登町宇出津にキリコ祭りの先陣を切る「あばれ祭(まつり)」を見物した。地元でキリコと呼ぶ「切子灯籠(きりことうろう)」を老若男女が担ぎ、「イヤサカヤッサイ」の掛け声が港町に響き渡っていた。熱気あふれるとはこの事をことを言うのだろうと実感した。絶好調になると、神輿を川に投げ込んだり、火の中に放り込むなど、担ぎ手が思う存分に暴れる。それを神が喜ぶという伝説がある祭りだ。

能登では「1年365日は祭りの日のためにある」、「盆や正月に帰らんでいい、祭りの日には帰って来いよ」という言葉があるくらい、人々は祭りにこだわる。その祭りを盛り上げる人々のパワーや地域のネットワークに「復興力」というものを感じる。

⇒22日(火)午前・金沢の天気  はれ