☆桜の役どころ
14日から兼六園では無料開放が始まった。そぞろ歩きで、名園を彩るソメイヨシノや遅咲きの梅の花に見入った。兼六園の無料開放は今月22日までだが、私はむしろ晩春の桜が好きだ。
代々の加賀藩主の収集好きは兼六園の植物にも及び、たとえば桜だけでも20種410本に及ぶ。一重桜、八重桜、菊桜と花弁の数によって分けられている桜。中でも「国宝級」は曲水の千歳橋近くにある兼六園菊桜(けんろくえんきくざくら)である。学名にもなっている。「国宝級」というのも、国の天然記念物に指定されていた初代の兼六園菊桜(樹齢250年)は昭和45年(1970)に枯れ、現在あるのは接ぎ木によって生まれた二代目なのである。
この兼六園菊桜の見事さは、花弁が300枚にもなる生命力、咲き始めから散るまでに3度色を変える華やかさ、そして花が柄ごと散る潔さである。兼六園の桜の季節を200本のヨメイヨシノが一気に盛り上げ、兼六園菊桜が晩春を締めくくる。桜にも役どころというものがある。
季節には早いが、金沢の人々の兼六園に対するこだわりは、5月中ごろかもしれない。カキツバタが咲く曲水の周囲には早朝から市民が三々五々訪れる。かがんで耳に手をあて、じっと眺めている人もいる。地元の人の話では、「カキツバタは夜明けに咲く。その時に、ポッとかすかな音がする」という。人々はその花の音を聞きにやってくるのである。
その話を聞き、私自身2度、3度早朝に兼六園を訪れてみたが、花音の確認はできなかった。そのうち、カキツバタの花音は単なる噂(うわさ)話ではないかと思うようになり脳裏から消えていった。かつて、地元の民放テレビ局がその花音を検証しようと、集音マイクを立てて番組にした。その時は、聞こえたような聞こえないような、かすかに空気が揺らぐような、そんな微妙な「音」だった。番組のディレクターがたまたま知り合いだったので確認した。「カキツバタの花音は、開くときに花弁がずれる音だと推測しマイクを立てましたが、現場では聞こえませんでした」とあっさり。ハイテク機器を持ってしても、実際の音にはならなかったのである。
でも、よく考えてみれば、早朝に集まる人々にとってはカキツバタの花音がしたか、しなかったは別にして、「兼六園にカキツバタの花音を聞きにいく」と家族に告げて早朝の散歩に出かける。それだけでいいのである。兼六園がある金沢らしい風流な暮らしぶりの一端だと思えば、この話の角は立たない。(※写真は、金沢市内の浅野川べりでの花見の様子)
⇒15日(日)夜・金沢の天気 はれ
今月5日、久々に兼六園を歩いた。桜(ソメイヨシノ)の蕾(つぼみ)は硬かった。兼六園近くのなじみの料理屋に入ると、女将が言った。「いくらなんでも春が遅い」と。例年ならこの時期、開花宣言が出て週末には兼六園はにぎわいを見せる時節なのに、との女将のぼやきだ。そしてきょう(7日)雪が降り、屋根に積もった。写真は朝8時50分ごろ、自宅(金沢市)の2階から撮影した。
本棚の『共同幻想論』=写真・表紙=を再び手に取ってページをめくってみると、ラインを入れたり、書き込みもあって当時はそれなりに読み込んだ形跡がある。思い出しながら、共同幻想を一言で表現すれば、社会は言葉で創った幻想の世界を共同で信じ、それを実体のものと思い込んで暮らしている、ということか。言葉で編み込まれた世界を「現実そのもの」といったん勘違いすると、そこから抜け出すのは困難だ。相対化、客観化が難しいのである。今の言葉でたとえれば、マインドコントロールの状態か。遠野物語や古事記の2つの文献の分析を通して、共同幻想、対幻想、自己幻想という3つの幻想領域を想定し、吉本隆明の考える幻想領域の意味を次第に明確化し、古代国家成立の考察に至る過程は当時新鮮だった。