☆能登・祭りの輪~輪島を練る豪華キリコ、復興へ掛け声響く~

☆能登・祭りの輪~輪島を練る豪華キリコ、復興へ掛け声響く~

前回ブログの続き。能登半島地震の被災地を巡る日帰りバスツアー「能登半島地震を風化させないために(減災企画)」で輪島市の中心部を巡ると、輪島大祭が行われていた。市内の重蔵神社、奥津比咩神社、住吉神社、輪島前神社の4社で23日から25日まで連続して営まれる夏祭りが総称して「輪島大祭」と呼ばれている。

初日の23日は重蔵神社、奥津比咩神社の祭り。重蔵神社は中心部の河井町にあり、17本のキリコが出る。バスで訪れたのは午後4時過ぎだったが、市内を朱色のキリコが練り歩いていた=写真・上=。能登のキリコは白木が多いが、輪島のキリコは朱塗りされたものや、黒漆のものが多い。さらに、輪島塗蒔絵や金箔で飾りつけられたものが豪華さを引き立たせる=写真・下=。かついて聞いた話だが、地区がそれぞれ豪華さやきらびやかさを競ってキリコを造るため、1本2000万円くらいはするそうだ。

この日は輪島は35度ほどの暑だったが、威勢いい掛け声が街中に響き、猛暑を吹き飛ばす熱気だった。そして、面白い光景がその祭りの一服の様子。ビルの木陰で老若男女が笑いながら楽しく会話が弾んでいた=写真・下=。能登半島地震で金沢などに避難している人やほかの都市で就職した人たちが祭りの日に帰って来て、年に一度の祭りを楽しむ。お酒が入った勢いがあるのかもしれない。この後、また張り切ってキリコを担いで市内を練る。能登では、「1年365日は祭りの日のためにある」、「盆や正月に帰らんでいい、祭りのために帰って来い」とよく言われる。まさに、その祭りを楽しむ光景だった。

見学は30分ほどだったが、街中を歩くと公費解体で空き地が点在する。ワッショイ、ソリャッーと響く祭りの掛け声は輪島の人たちが復興へと心を一つにしているように聞こえた。

⇒24日(日)午前・金沢の天気   はれ

★地震にめげない五重塔 海底隆起で新たに漁港 句碑が後ろ向く

★地震にめげない五重塔 海底隆起で新たに漁港 句碑が後ろ向く

きょう金沢市内のバス会社が企画した能登半島地震の被災地を巡るツアーに参加した。テーマは「能登半島地震を風化させないために(減災企画)」。企画した会社の営業所長は阪神・淡路大震災を経験したことをきっかけにこれまでも東日本大震災の被災地で学ぶツアーなど企画している。今回も、参加者が被災の状況や復興の取り組みを直接見聞きすることで、今後の災害と向き合う減災の取り組みに役立ててほしいと企画した。ツアーで巡ったポイントの中からいくつか。

北陸随一の五重塔=写真・上=が羽咋市の妙成寺にある。二王門(国重文)をくぐると、高さ34㍍の優美な姿を現す。執事の大句哲史氏の説明によると、日蓮聖人の孫弟子の日像上人が1294年に開山した北陸最初の法華道場という。その古刹を熱心に保護したのが加賀藩祖・前田利家の側室で、2代藩主の利常の母の寿福院だった。妙成寺を菩提寺と定め、五重塔など整備した。能登半島地震では羽咋市は震度5強の揺れ。築400年余りの五重塔は無傷だった。妙成寺は海辺に近いことから、内部の木組みは風に強く、破壊力を吸収する構造となっているという。大句氏は、「重要文化財ですが、これを機にぜひ国宝に」と述べていた。

能登の海岸は日本海側を外浦(そとうら)、そして七尾湾側の方を内浦(うちうら)と呼んでいる。去年元日の地震では外浦は海岸の隆起、内浦では地盤沈下が起きた。外浦の輪島市門前町の鹿磯(かいそ)漁港では、地震で海底が4㍍も隆起した。被災地を案内してくれた谷内家次守氏によると、隆起した場所を活用して新たな港を造っているとのこと=写真・中=。実際に鹿磯漁港に行ってみると、なるほどと思った。隆起した部分に道をつけ、漁獲した魚を水揚げする場所が新たに設けられていた。谷内氏は「現地を見てもらい、復興に向けた地域の思いが伝わったらうれしい」と。

同じく同市門前町の曹洞宗の大本山・総持寺祖院は2007年3月25日の能登半島地震で大きな打撃を受け、14年の歳月をかけ完全復興を宣言。輪島市民にとって「復興のシンボル」でもあった。副監院の高島弘成氏によると、去年元日の地震では33㍍の廊下「禅悦廊」が崩れるなど国の登録有形文化財17棟全てが被災した。そして、案内してもらったのが、坐禅堂前の俳人・沢木欣一の句碑。地震の右回転の揺れによって180度回転し、句碑は後ろ向きになった=写真・下=。高島氏は「しばらく誰も気づかなかった。それにしてもこれが自然のチカラなんです」と。ちなみに句は、「雉子鳴いて 坐禅始まる 大寺かな」

静寂な寺で座禅修行の始まりを告げるかのようにキジの鳴き声が聞こえる。視覚的なイメージと聴覚的なイメージが絶妙に組み合わさり、場の情景が伝わってくる。

⇒23日(土)夜・金沢の天気 はれ

☆能登・祭りの輪~八朔祭に秘められた男神と女神の逢瀬の物語~

☆能登・祭りの輪~八朔祭に秘められた男神と女神の逢瀬の物語~

能登の夏祭りをテーマに各地を訪れているが、祭りの中心となる地域の神社は去年元日の能登半島地震で多く損壊した。社殿のほか鳥居が倒れるケースが目立つ。それをことしの夏祭りまでに再建しようと地域が力を合わせ、また他の震災地の人々の支援を受けて完成にこぎつけた事例(今月17日・18日付のブログ)もある。

きのう21日に訪れた志賀町富来領家町の住吉神社の鳥居も、今月23、24日の夏祭りを前に1年7ヵ月ぶりに再建された=写真・上=。社殿はまだ修復中だったが、高さ5㍍ほどの鳥居は木製で造られ、近づくとヒノキの香りがした。それまでの鳥居は石造りだった。境内で祭りの準備を行っていた地域の人に話を聴くと、「神輿で新しい鳥居の下をくぐるのを何よりも楽しみにしているんです」と目を細めていた。

あすからの祭りは、「冨木八朔(とぎはっさく)祭り」と呼ばれ、能登でも知られた祭りだ。むしろ能登では「くじり祭り」として知られる。「くじり」は男女の性行為のことだ。なぜそう呼ばれるのか。境内にある祭りの説明看板にはこう記されている。

「その昔、岩舟に乗り増穂浦(※富来地区の海岸)に漂着した男神が住吉神社の女神に助けられ、夫婦になりました。ところが、荒波の音を嫌った男神は里山の冨木八幡神社に遷座してしまいました。その後、男神は年に一度(旧暦の八月朔日)に女神との逢瀬のため住吉神社に渡御したことが冨木八朔祭礼の始まりと言われ、約800年の伝統を誇ります」

男神と女神が逢瀬を交わすことが祭りのルーツとされ、それが「くじり祭り」として伝えられてきた。2日間にわたる祭礼の1日目は「お旅祭り」と称され、町内各地から大小30本のキリコが冨木八幡神社に集結する。男神を乗せた神輿とともに夜道を練り歩きなながら2㌔離れた住吉神社に届ける。2日目は本祭りで10基の神輿が増穂浦に勢ぞろいし、白砂青松の海岸を渡御する「浜廻り」が行われる。その後、街中を練り歩き男神を八幡神社まで送り届ける。

ストーリー性といい、キリコと神輿の巡行といい、じつにダイナミックな祭りだ。ちなみに、男神が嫌った「荒波」はおそらく冬場の荒海だろう。富来地区には、松本清張の推理小説『ゼロの焦点』の舞台となった名所の能登金剛があり、清張の歌碑がある。『雲たれて ひとり たけれる 荒波を かなしと思へり 能登の初旅』。清張が能登で初めて見た荒海の情景。人は出世欲、金銭欲、さまざまな欲望をうねらせて突き進むが、最後には自らの矛盾や人間関係、社会制度に突き当たって一瞬にして砕け散る。ズドンと音をたてて砕ける荒海から、サスペンスのイメージを膨らませたのかもしれない。

⇒22日(金)午後・金沢の天気  はれ

★内閣支持率が上昇、「石破降ろし」に対する有権者の同情か

★内閣支持率が上昇、「石破降ろし」に対する有権者の同情か

有権者の政治に対するこの思いをなんと表現すればよいのだろうか。石破総理が率いる自公政権は去年10月27日の衆院選、そして先月20日の参院選で大敗したものの、世論調査の内閣支持率が上がっている。今月18日付の朝日新聞の世論調査(16、17日に電話調査・有効回答1211人)の結果を読んで、少々驚いた。見出しは「首相辞任『必要ない』54%に増 内閣支持率上昇36%」とあった=写真=。

自身も先月24日付のブログ「★『信なくば立たず』 続投に執着する石破総理が失う求心力」で、「参院選で過半数を失ったにもかかわらず、比較第1党として『国政に停滞を招かない』と続投を表明。さらにアメリカとの関税交渉を理由に再び続投を表明した。なぜここまで執着する必要があるのかと有権者の一人として考え込んでしまう」と石破氏の政権執着を批判的に述べた。参院選からきょうで1ヵ月経ったが、政治は何も変わっていない。ただ、支持率が上昇しているのだ。

先の朝日新聞の世論調査は見出しにあるように、今回の内閣支持率は36%と前回調査(7月26、27日)の29%から上昇している。そして「参院選の結果を受けて、石破首相は首相を辞めるべきだと思いますか」の問いには、「辞めるべき」が36%で、前回41%から低下、「その必要はない」が54%で、前回47%から上昇し、過半数を占めた。政党支持率は自民20%と前回と同数値、公明は3%、前回4%だった。ちなみに、自民党支持層での「辞めるべき」は20%、前回は22%、「その必要はない」が76%、前回70%だった。

政党支持率は上がっていないのに内閣支持率が上がっていることをどう読めばよいのか。一つの見方として、参院選の敗北直後から高まってきた、いわゆる自民党内の「石破降ろし」にむしろ有権者は石破氏に同情を寄せているのかもしれない。そもそも衆院選、そして参院選の敗北の根底には「裏金問題」が尾を引いていた。この裏金問題に絡んで議員に対して、石破総理は即決感のある対応で方針を公表した。党の処分が継続中なら政治倫理審査会で説明した場合を除き非公認とし、不記載議員は公認する場合も比例代表への重複立候補を認めない、など。

衆参両選挙で大敗を喫したそもそもの原因は裏金問題であり、自民党内の石破降ろしは責任の転嫁ではないのか、という有権者の目線が石破氏には同情として注がれているのかもしれない。

⇒20日(水)夜・金沢の天気  はれ

☆庭に咲くユリの花 同じユリでも外来種は駆除すべきか

☆庭に咲くユリの花 同じユリでも外来種は駆除すべきか

庭のタカサゴユリの花が開き始めた=写真・上=。例年ならば処暑(8月23日)のころが開花の時季だが、ことしは5日ほど早いようだ。旧盆が過ぎた今のこの頃は花の少ない時季でもあり、金沢では茶花として重宝されている。

10年ほど前の話だが、このタカサゴユリをめぐって意見を交わしたことがある。金沢大学で教員をしていたときのことだ。金沢ではタカサゴユリを茶花として床の間に飾ることを話すと、植物の研究者が「えっ、あんな外来種を床の間に飾るなんてバカげている」と嘲笑したのだ。自身もそのときまではあまり自覚はなかったが、タカサゴユリは漢字名で「高砂百合」。日本による台湾の統治時代の1924年ごろに園芸用として待ち込まれたようだ(Wikipedia「タカサゴユリ」)。当時としては外来種という意識もなく、ユリとして日本人になじんだのだろう。そして、茶室の床の間にも飾られるようになった=写真・下=。

ところが、先の植物の研究者のように、立場が異なればタカサゴユリは外敵、目の敵だ。国立研究開発法人「国立環境研究所」の公式サイトには、「侵入生物データベース」にリストアップされている。侵入生物、まるでエイリアンのようなイメージだ。「学名」はLilium formosanum。注目したのは、「備考」だ。「全国的に分布を広げている種であり、自然植生に対して悪影響が及ばないよう、適宜管理を行う必要がある」と記載されている。ただ、以前読んだ「備考」では、「近年各地で繁茂しているが花がきれいなためなかなか駆除されない。少なくとも外来種であることを周知する必要がある」と書かれていて、苦々しさが伝わってくるような文面だった。いずれにしても要注意の植物と指摘している。

植えた覚えはないので、おそらく種子が風に乗って庭に落ちて、繁殖したのだろう。確かに繁殖力は強い。根ごと抜いてもいつの間にか生えてくる。前述のデータベースの「影響」の欄には、「植物病害ウイルスの宿主であることが報告されており、これらのウイルスを在来植物種に媒介するリスクが想定される」とあり、在来種を枯らす恐れもあるようだ。

花を見ていれば、心が和む。それを在来種に影響を与える外来種だと区別して駆除すべきなのか。ある意味悩ましいタカサゴユリではある。

⇒19日(火)午後・金沢の天気  はれ

★能登・祭りの輪~岩手から神戸から、震災の縁がつながる曽々木大祭~

★能登・祭りの輪~岩手から神戸から、震災の縁がつながる曽々木大祭~

能登の祭りを見学に訪れると、前回ブログで述べた神輿の修復だけでなく、祭りに関わる地域を超えた支援がさまざまにあることが分かった。輪島市町野町曽々木の春日神社では16日に曽々木大祭が営まれた。きのう17日に境内に行って見ると鳥居が真新しくなっていた=写真・上=。近所の民宿のおばさんに尋ねると、去年元日の能登半島地震で鳥居が崩れた。「それを新しくしてくれたおかげで気持ちよく祭りができたんやわ」「岩手の人のおかげなんやわ」と話してくれた。

そこでネットでも見てみると、インスタグラムやX(旧ツイッター)でその鳥居の再建の様子がいくつか書き込まれている。東日本大震災の被災地でもある岩手県大槌町の石材業者が去年元日の能登半島地震の被災地の炊き出しなどのボランティアに1月下旬に能登に入った。東日本大震災の津波で社屋や車などを流されているだけに、被災者の一人として能登で何かできることはないかと考えていた。そのとき、曽々木で春日神社の鳥居が崩れているのを目の当たりにして修復を思い立った。ただ、そのときは能登半島は一般の車両走行も難しく、ことしに入って本格的に作業を始めた。

再建を指揮したのは、岩手県大槌町の「つつみ石材店」の芳賀光氏。ことし5月にほかの支援者も集まり、作業を進めて再建にこぎつけた。経費は「破格の値段」だったようだ。7月19日には芳賀氏や地元の人々が参加して「新鳥居くぐり初め」の神事が営まれた。関係者はそのときの様子をインスタグラムでこう述べている。「この特別な瞬間は曽々木地区の絆を深め、多くの温かい思いが集まりました。この感謝を忘れず、これからも曽々木地区の再建に向け共に頑張ります」。そして、今月16日の曽々木大祭では新しい鳥居の下を初めて神輿がくぐった。

祭りにはもう一つ被災地の縁があった。祭りにはキリコが4本が出たが。それを担ぎ上げたのは地元の若衆と関西からの学生ボランティアら120人だった。去年に続いて祭りに駆けつけたのは、NPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り」(通称「HANDS」)=写真・下=。去年、震災の影響で担ぎ手が減少し、祭りの存続が危ぶまれていたことを知ったHANDSが支援を申し出て、開催にこぎ着けた経緯がある。地域を超えた同じ被災者からの支援の輪が能登の伝統文化を守り支えている。

⇒18日(月)午後・金沢の天気  はれ

☆能登・祭りの輪~復活した黒島天領祭に秘められた物語~

☆能登・祭りの輪~復活した黒島天領祭に秘められた物語~

輪島市門前町黒島の祭礼「黒島天領祭」(8月17、18日)は能登の祭りの中でも独自色がある。そもそも天領祭のいわれは何か。かつて北前船船主が集住した黒島地区は貞享元年(1684)に江戸幕府の天領(直轄地)となり、立葵(たちあおい)の紋が贈られたことを祝って始まった祭礼とされる。祭りはキリコを担ぐ能登のほかの祭りとは異なり、都(みやこ)風な趣がある。去年元日の能登半島地震でメインの神輿が損壊し、2年ぶりの巡行となった。

2基の曳山は輪島塗に金箔銀箔を貼りつけた豪華さ、「百貫」(375㌔㌘)もある神輿だ=写真・上=。小学生による奴(やっこ)振り道中のほか。地元の人たちは麻の黒い半纏(はんてん)を粋に羽織っている。

祭りの舞台となる黒島の街並みは重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)に選定されていて、しかも道幅は狭いところで4㍍ほど。ここを曳山が巡行するので道路沿いの家の屋根部分に接触しないよう舵取りが必要となる。そこで求められているのは、きびきびとしたシステマチックな動きだ。

巡行する街路は山と海それぞれに平行に走っている。地元のベテランの舵取り担当が「山一つ」と声を上げると、担ぎ手は一斉に山側に舵棒を1回押す。すると、曳山の車輪は海側に10度ほど舵を切ることができる=写真・下は2017年8月の黒島天領祭=。「海二つ」と声が上がると、海側に2回押して山側に20度ほど舵を切る。この作業を繰り返しながら、曳山は曲線道路を器用に巡行するのだ。

2年目で天領祭が復活したのも、壊れた神輿を修復できたことにあるようだ。メディア各社が伝えている。震災後、黒島の出身者らでつくる姫路市のボランティア団体「黒島支援隊」が壊れた神輿のことを知り、姫路の「灘のけんか祭り」(兵庫県指定重要無形民俗文化財)の神輿を手がけてきた宮大工の男性に修理を持ち掛けた。男性は厚労省の「現代の名工」に選ばれている福田喜次氏73歳。依頼を快諾し、無償で修理を引き受けた福田氏は壊れた部材をすべて姫路へ運び、祭りの写真や動画を参考にしながら、小さいもので数センチ片になった部材を少しずつ組み上げた。8ヵ月ほどかけて完成させた(朝日新聞、神戸新聞web版)。

地域を超えた支援の輪が能登の伝統の祭りを復活させたのだ。秘話のようなストーリーだ。祭りはあす18日も引き続き行われる。

⇒17日(日)夜・金沢の天気  はれ

★能登・祭りの輪~2年ぶり復活、海で乱舞する大漁祭り~

★能登・祭りの輪~2年ぶり復活、海で乱舞する大漁祭り~

旧盆のこの時季、能登の各地では祭りが開催されている。奥能登の穴水町では海の安全と大漁を願う「沖波大漁祭り」が14日と15日の両日、能登半島地震から2年ぶりに復活した。祭りは5本のキリコが町中を練り歩き、15日には海中へキリコを担ぎ込んだ。

担ぐキリコは高さ5㍍ほど。鉦(かね)と太鼓が打ち鳴らされ、「ヤッサイ、ヤッサイ」と威勢のよい掛け声で法被姿の担ぎ手が首まで海水につかりながら大漁を祈願し巡行した。両日は35度近くの暑さで、例年だと午後2時からキリコを動かすが、ことしは暑さ対策として午後4時からに変更しての巡行となった。祭りの復活は能登半島地震で被災した能登の復興のシンボル、そんな光景でもある。(※写真・上は、穴水町の沖波大漁祭り=日本遺産「灯り舞う半島 能登〜熱狂のキリコ祭り〜」 活性化協議会の公式サイトより)

七尾市中島町で14日に営まれた「釶打(なたうち)おすずみ祭り」(新宮納涼祭)では5本のキリコのそうろくに300年以上も燃え続けている「火様(ひさま)」が点火され、祭りを盛り上げた。能登ではかつて、囲炉裏の灰の中から種火を出し、薪や炭で火を起こした。そうした先祖代々からの火のつなぎのことを「火様」と言い、就寝前には灰を被せて囲炉裏に向って合掌する。半世紀前までは能登の農家などで見られた光景だったが、灯油やガス、電気などの熱源の普及で、囲炉裏そのものが見られなくなった。同町では能登でただ一軒、その火様の伝統を守っている民家があり、今回、伝統の祭りと火様がつながった。(※写真・下は、七尾市の釶打おすずみ祭り=同)

もう一つ祭りの話。能登の夏まつりでは、それぞれの家が親戚や知人を招いてご馳走でもてなすヨバレの風習がある。その家の自慢の料理が出る。そのなかでも印象に残っているのが、魚を塩と米飯で乳酸発酵させた「なれずし」。琵琶湖産のニゴロブナを使った「ふなずし」は有名だが、能登でもなれずしは祭りの伝統食だ。

能登町のある民家を訪ねると、アジ、ブリ、アユのなれずしを出してくれた。なれずし独特の匂いがあり、なじめない人も多いという。ただ、食通にはたまらない味と匂いのようだ。アユは5年もので、家の主人はが「ヒネものです」と説明してくれた。ヒネものとは2年以上漬け込んだもの。地酒ととても合う。

能登の祭りには伝統のキリコだけでなく、祭りの伝統料理がある。この伝統を守っていこうという地元の人たちの意気込みこそ、震災からの復興を絆(きづな)で結ぶエネルギーではないだろうか。

⇒16日(土)夜・金沢の天気   はれ

☆終戦から80年、戦没者310万人の死を悼む

☆終戦から80年、戦没者310万人の死を悼む

きょう15日は先の大戦の終戦から80年となる。政府主催の全国戦没者追悼式が行われ、戦死した軍人と関係者、空襲や広島・長崎の原爆投下、沖縄戦で亡くなった310万人を悼み、正午の時報に合わせて黙祷が捧げられた=写真・上はNHK中継番組より=。  

100回以上の空襲で10万人余りの民間人が犠牲となった東京大空襲をはじめ、終戦までに200以上の都市が空襲を受けたとされる。北陸では福井市や富山市などで空襲があったものの、金沢ではなかった。かつて、終戦のこの頃になると、ではなぜ金沢は空襲を免れたのかと友人たちと激論を交わしたこともある。このブログの2015年7月31日付「『金沢空襲』計画」で新たな情報を含めまとめたことがある。以下、再録。

金沢に住んでいる者の根拠のない共通の理解として、金沢は京都と同じく文化財的な街並みや寺院が多く、空襲の対象にはならなかったという認識を共有している。その証拠の一つとして、金沢市郊外の湯涌温泉にかつてあった「白雲楼ホテル」は戦後、GHQ(連合軍総司令部)のリゾートホテルとして接収され、マッカーサー元帥らアメリカ軍将兵が訪れていた、といわれる。

1945年7月にアメリカ軍による「金沢空襲」が計画されていた、というスクープ記事が出たのは2015年7月26日付の北陸中日新聞だった=写真・下=。以下、記事を引用。アメリカ軍が金沢市を攻撃目標とする空襲計画を立てていたことが分かったのは、アメリカ軍資料を収集する徳山高専元教授の工藤洋三氏(当時65)=山口県周南市=が分析した。金沢空襲の計画書は1945年7月20日付で作成され、同年8月1日夜に甚大な被害が出た富山大空襲の計画書が作られたのと同じ日だったという。

金沢空襲の計画書によると、攻撃目標は北緯36.34度、東経136.40度。現在の座標とは数100㍍の差異があるものの、旧日本軍の司令部があった金沢城付近を狙ったとみられる。高度4500㍍ほどから爆弾を投下し、70分以内で攻撃を完了する計画だった。その金沢への爆撃ルート。攻撃隊はまずグアム島の基地から出撃。硫黄島や現在の静岡県御前崎市上空を通過し、富山県黒部市付近で進路を北西に変える。石川県能登半島の穴水町あたりを周回し、金沢に向かって南下。空襲後は再び、御前崎市や硫黄島の上空を通って帰還するルート想定だった、という。

実際に8月1日、B29の爆撃編隊は金沢の上空に来たものの、通り過ぎて、富山市に1万2000発余りの焼夷弾を投下した。11万人が焼け出され、2700人余りの死者が出た。なぜ、金沢空襲の計画は実行されなかったのか。

富山市には発電所を基盤とした重工業の工場が立地していた。当時の金沢は陸軍第九師団が置かれていたものの、産業といえば繊維が主だった。しかも、九師団の兵は台湾などに赴いていた。記事をもとに考察すれば、空襲の計画はされたものの、金沢は軍事的な価値では優先度が低かったのではないか。そして、このころからアメリカ軍は「無差別攻撃」が主流となり、富山の場合でも重工業の工場が標的になっただけではなく、全市が対象となった。その後、無差別攻撃は一気にエスカレートし、8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下された。

終戦がもう少し後にずれ込んでいたら、金沢も無差別攻撃に晒されていたのかもしれない。

⇒15日(金)午後・金沢の天気  くもり時々はれ

★地震と大雨で能登の「盛り土」道路であちこち土砂崩れ

★地震と大雨で能登の「盛り土」道路であちこち土砂崩れ

能登半島はリアス式海岸なので海岸線の道路だけでなく、途中から山間地を走ることになる。また、金沢と能登を結ぶ自動車専用道路「のと里山海道」も平地を走る海岸沿いから山間地を行く。この山間地では山から山をつなぐ道路は、いわゆる「盛り土」で造成された道路だ。その盛り土の道路が去年元日の能登半島地震、そして9月と先日の「記録的な大雨」であちらこちらで大きく崩れている。

去年元日の地震で「のと里山海道」では道路の盛り土部分が20ヵ所余りで崩れるなどしたため、いまも被災した区間では制限速度は時速40㌔に引き下げられたままとなっている。また、里山海道で震災の悲惨さが見えるのが、横田IC近くの盛り土の道路の崩落現場だ。乗用車が転落したままの状態となっている=写真、ことし4月25日撮影=。現場は走行していて、運転席から見えるので、当時の様子が伝わってくる。

そして、今回の大雨でも盛り土の道路が崩れ事故が起きた。報道によると、七尾市中島町小牧の国道249号で、12日午前5時ごろ、道路の盛り土の部分がおよそ30㍍にわたって陥没し、そこにトレーラーや乗用車3台が相次いで転落した。乗っていた3人が重軽傷を負った。崩落した場所は、70年ほど前に盛り土をして造られた道路で、去年の能登地震で被害などは確認されていなかった。車3台は現在も転落したままで、通行再開の見通しは立っていない(12日付・MROニュースweb版)。きょう石川県の馳知事が現場を視察に訪れたと昼のニュースで流れていた。

能登での盛り土の事故は道路だけではない。大惨事がかつてあった。1985年7月11日午後、穴水町の山中で金沢発の急行「能登路5号」(4両編成)が脱線し、前方3両が7.5㍍下の水田に転落。乗客の7人が死亡した。事故の12日前から大雨が続いていた影響で、線路の盛り土が崩れ、線路が宙づり状態になっていたところを列車が走り、大惨事となった。能登線は2005年に廃止となり、現場から線路は消えたが慰霊碑が立っている。

能登半島の大動脈であるのと里山海道では、震災で大きく崩落した個所は盛り土での造成ではなく、新たに鉄橋を架ける工事が進められている。地震や大雨でも持ち堪える安全な道路があってこそ復旧・復興につながる。

⇒13日(水)午後・金沢の天気  くもり