★メディア縦乱‐3

★メディア縦乱‐3

 韓国の新聞社「朝鮮日報」のインターネット版をたまに閲覧する。2月11日付の記事に目が覚めた。「韓国のゴミ海洋投棄の実態 下水汚泥の70%が海へ」。日本海側に住む我々がいつも実感していることだ。海岸を歩くと、ハングル文字のペットボトルやプラスチックの漂着ゴミが目立つ。「そうか、ゴミは人為的に流されているのか」と見出しだけで理解した。

     記事になった日本海のこと

 以下、朝鮮日報の記事を要約して紹介する。海洋汚染を防ぐため、1972年に採択された「ロンドン条約1972」は、海にゴミを投棄することを厳しく規制している。これまでに81カ国がこの条約を批准しており、韓国も93年にようやく批准した。ところが韓国政府は、地上のゴミ埋立地が不足していることや、生ゴミの埋め立てによって悪臭や地下水の汚染といった公害が発生していることを理由に、88年からゴミの海洋投棄を認めてきた。93年にロンドン条約を批准した後もそれは続いてきた。廃棄物の海洋投棄にかかる費用は、種類によっては陸上処分に比べ90%近くも安くつくため、廃棄物処理業者はゴミを海に捨ててきた、という。

  韓国に比べ、日本は海の川下にあたる。韓国でゴミを捨てれば、その流れていく先はどこか、まずは能登半島、佐渡島である。地元では民間団体が「クリーン・ビーチ」キャンペーンなど行なっているが、この事実を聞けば愕然とすると同時に義憤が沸くだろう。「これは外交問題ではないのか」と。

  もう一つ日本海で問題となっているのが厄介者のエチゼンクラゲである。重さが200㌔にもなり、魚網や魚を傷める。かつてエチゼンクラゲの大量発生は40年に一度ほどといわれてきた。ところが、ここ数年は毎年のように日本海で多くの漁業被害をもたらしている。エチゼンクラゲの発生海域は東シナ海・黄海と見られる。そこで、調査が必要となるのだが、2月11日付の朝日新聞によると、昨年11月、エチゼンクラゲ問題を日中韓で研究する会合をつくり、日本側がDNA分析の費用負担を中国側に申し出たが、中国側は難色を示した。なぜか。中国側は「発生源」とされることを嫌っているのだ。エチゼンクラゲは1日に20㍍プール2杯分の海水に含まれる動物プランクトンを食べ、稚魚や卵を食べる(同日付・朝日新聞)。中国にとって、韓国、日本は川下に当たり、「そんなの関係ねぇ」という雰囲気だ。

  中国製ギョーザの中毒事件発覚(1月30日)を象徴として、我々は食の安全や環境汚染に敏感になっている。こんなことが解決できないで、経済だ外交といわれても国民の目線からは納得できない。洞爺湖サミット関連の会合が3月14日から始まる。そのスタートが「気候変動、クリーンエネルギー及び持続可能な開発に関する対話」だ。世界の温室効果ガス主要排出国20ヵ国の環境・エネルギー担当大臣に加え、関係国際機関、産業界やNGO・NPOの代表等が参加し、気候変動・地球温暖化問題について議論する。開催地は千葉となっているが、この時期はそろそろ黄砂の季節だ。むしろ、日本海側でやってもらった方が、地球環境問題の実感が沸くかもしれない。

⇒17日(月)夜・金沢の天気  くもり

☆メディア縦乱‐2

☆メディア縦乱‐2

 来年09年5月までに裁判員制度がスタートする。司法のプロに加え、一般市民が評決に加わることになり、メディアも対応を迫られている。日本新聞協会は1月16日に「裁判員制度開始にあたっての取材・報道指針」を公表した。しかし、それは指針というよりガイドラインで、各社の自主性に委ねるとの内容だ。日本雑誌協会などは見直し不要との見解(1月22日公表)を示すなど、メディアの足並みもそろっていない。

       裁判員制度で供述報道はどう変わる

  なぜメディアが対応を迫られているかというと、分かりやすく言えば、プロの裁判官と違って、評決に加わる一般市民はテレビや新聞の報道に引きずられる可能性があるとの懸念が司法側にあるからだ。踏み込んで言えば、容疑者や被告を犯人(有罪)と決めつける、いわゆる「犯人視報道」が裁判員に予断を与える恐れがあるというのだ。

  02年に政府の司法制度改革推進本部の「裁判員制度・刑事検討会」では、公正な裁判を妨げないために取材や報道規制を法律に盛り込むべきだとの論議がなされた。翌03年3月の司法制度改革推進本部の「たたき台」では、「裁判の公正を妨げる行為の禁止」が組み込まれ、「報道機関は裁判員に事件に関する偏見を生じせしめないように配慮しなければならいないものとする」とする「偏見報道禁止規定」が明記され、報道の自由への侵害に当たるなどと大きな問題となった。最終的に04年1月の政府骨格案「裁判員制度の概略について」では、偏見報道禁止規定は盛り込まれなかったが、裁判員への接触禁止規定と個人情報の保護規定が設けられ、04年5月、裁判員法は国会で可決・成立した。

  しかし、司法側の懸念を残しながら成立した法律だけに、メディア側も自主ルールを作成するなどの対応が求められた。冒頭の日本新聞協会が公表した裁判員制度に伴う取材・報道の在り方の確認事項は次の通り。

  ▽捜査段階の供述の報道にあたっては、供述とは、多くの場合、その一部が捜査当局や弁護士等を通じて間接的に伝えられるものであり、情報提供者の立場によって力点の置き方やニュアンスが異なること、時を追って変遷する例があることなどを念頭に、内容のすべてがそのまま真実であるとの印象を読者・視聴者に与えることのないよう記事の書き方等に十分配慮する。
 ▽被疑者の対人関係や成育歴等のプロフィルは、当該事件の本質や背景を理解するうえで必要な範囲内で報じる。前科・前歴については、これまで同様、慎重に取り扱う。
 ▽事件に関する識者のコメントや分析は、被疑者が犯人であるとの印象を読者・視聴者に植え付けることのないよう十分留意する。=日本新聞協会ホームページから=

  上記の3点事項を要約すると、供述やプロフィル、前科・前歴、識者の分析などを慎重に取り扱うように求めている。3点事項をもとに、今度は加盟各社が自主ルールをつくることになる。しかし、「ヘタにルールをつくって、取材現場が萎縮しては元も子もない」というのが新聞各社の本音だろう。典型的な例が、記者が「夜討ち朝駆け」で得た自供内容の取り扱い。捜査当局の取り調べ手法はまず自供を引き出すことにあり、この情報にいち早くメディアが接することでスクープ記事が生まれる。それをたとえば、「供述報道は犯人視報道とうけとられかねないので自粛する」とルール化すると、記者は夜討ち朝駆けの取材意欲を失う。特に社会部など取材現場は、警察(サツ)での取材を記者教育の基本と考えているので、「サツネタが取れなくなる自主ルールはジャーナリズムの自殺行為だ」と猛烈に反発するだろう。

 1980年代後半、新聞やテレビメディアは、それまでの被疑者の呼び捨てから容疑者や肩書呼称の報道へと改めた。推定無罪の原則に反すると司法側からの強い要請があったからだ。当時、呼び捨て報道を改めることで、随分と取材現場の意識が変わった、とは私自身の体験でもある。その後、プライバシーの尊重や、個人情報の保護といった司法の流れとある意味で同調しながら取材手法も徐々に変化してきた。

  しかし、供述報道は警察の取り調べ手法が自供である以上、変わらない。コインの表裏である。つまり、報道側だけが姿勢を改めるというのは無理があるのではないか。となると、自主ルールといっても、テレビ番組のお断りテップのように、記事の末尾に「自供に関しては裁判で覆される可能性もあります」の表現を入れるか、情報の出所を明記するなどの配慮が精いっぱいではないのか。

 ⇒11日(祝)夜・金沢の天気   はれ

★メディア縦乱‐1

★メディア縦乱‐1

  ディプロマ・ミルという言葉をご存知だろうか。Diploma Mill、直訳すれば証書工場となるが、ディグリー・ミル(Degree Mill)、学位工場の方が分かりやすいかもしれない。その国で大学と認定されていない機関から「学位」取得することである。学位商法とも呼ばれる。この問題がメディアを巻き込んだ「ある事件」へと展開した。以下、まとめる。

       記事の裏づけ

   ディプロマ・ミル問題が明らかになったのは、私が勤める金沢大学。文科省は昨年末に公表した全大学・短大を対象にした調査で、44大学の教員49人の非認定学位が、採用・昇進の際に経歴に記載されていたと公表した。それを詳細に取材フォローした1月26日付の朝日新聞によると、金沢大学医学部保健学科で理学療法を教える男性教授は、2002年にニューポート大学の博士号を取得した。03年にこの学位も記載した書類で選考に臨み、助教授から教授に昇進した。教授選考では、業績、博士の学位、教育の経験など3つの条件が総合的に判断される。選考過程で「ニューポート大とは何だ」と話題になったが、業績が優れているため昇進が認められたという。また、同じく医学部保健学科の女性准教授(看護学)は1997年にこれも同じくニューポート大の修士号を取得して経歴に載せ、99年に講師から昇進した、との記事内容だった。

  今度は、これを報ずるメディア側に問題が起きた。この朝日新聞の記事を後追いしたかたちで、1月27日付の読売新聞石川県版では、金沢大学の男性教授と女性准教授がアメリカで学位と認められていない学位を取得し、経歴として使っていたこと、それに対する大学の見解についての記事が掲載された。ところが、大学側の見解は実際に取材しておらず、ネット上の「アサヒ・コム」などを見て執筆してたことが、大学側から読売新聞に対する問い合わせで判明した。ことの顛末は2月1日付の朝日新聞で「読売記者、取材せず記事」という3段抜きの見出しの記事となった。

  そのときの状況を推察すると、朝日の掲載日は1月26日、土曜日である。読売の掲載日は27日、つまり日曜日。とうことは、読売の男性記者が執筆したのは26日の土曜日である。大学の業務は休み。記者はおそらく広報に問い合わせたのだろうが、確認できなかった。そこで、やむなく他紙の記事を参考に書いてしまった、というパターンなのだろう。本来、広報が休みならば、学長に確認するというくらい気構えがないと記事は書けない。が、記者は「簡単、お手軽」なネットの記事を漁ったということなのだろう。記者はその後、休職1ヵ月の懲戒処分となった。

  取材の裏付けなしの記事は、新聞メディアの世界では「あるまじき行為」とされる。捏造とは次元が異なるが、いわば記者として「信頼を損なう行為」である。もちろん、メディア側の不祥事をあげつらって、ネタ元となった大学側の問題に煙幕を張るというつもりでブログを書いたわけではない。

 ⇒8日(金)夜・金沢の天気   くもり

☆早春、トキの旅~下~

☆早春、トキの旅~下~

 トキがすでに急減していた1940、50年代、日本は戦中・戦後の食糧増産に励んでいた。レチェル・カーソンが1960年代に記した名著「サイレント・スプリング」には、「春になっても鳥は鳴かず、生きものが静かにいなくなってしまった」と記されている。農業は豊かになったけれども春が静かになった。1970年1月、日本で本州最後の1羽のトキが能登半島で捕獲された。オスの能里(ノリ)だった。繁殖のため佐渡のトキ保護センターで送られたが、翌71年に死亡した。解剖された能里の肝臓や筋肉からはDDTなどの有機塩素系農薬や水銀が高濃度で検出された。そして、2003年10月、佐渡で捕獲されたキンが死亡し、日本産トキは沈黙したまま絶滅した。

        雪上を歩くトキ

  上記のように書くと、農薬を使った農業者を悪者扱いしてしまうことになるが、私自身は、都市住民のニーズにこたえ、農産物をひたむきに生産してきた農業者を責めるつもりは一切ない。東京で有機農産物の販売を手がける「ポラン・オーガニック・フーズ・デリバリ」社長の神足義博氏も、「これまで都市住民に農産物を供給してきた農業者に『ありがとうございました』とまずお礼を言おう。そして、『これからどうやってなるべく農薬を使わない農産物をつくることができるかいっしょに考えましょう』とお願いをしよう」と提唱している(08年2月1日の講演)。有機農産物を増産するためには、全体的な方向転換しかない。トキやコウノトリが生息できる農村の環境を再生するためには地域の合意形成がどうしても必要なのだ。その合意形成は、過去の批判からは始まらない。

  中国のトキ調査は大雪にはばまれ、7人の調査チームのうち、私を含む2人は西安市の「珍稀野生動物救護飼養研究センター」でのヒアリング調査を終え、帰国することになった。残りの5人はさらに天候を見はからいながら、西安から11時間の列車に乗って、陝西省洋県へと向かった。以下は、その調査スタッフが見た洋県のトキの様子である。

  洋県では1981年に7羽の野生のトキが発見されて以来、保護と繁殖が進められ、現在では400羽余りの野生トキが確認されている。農地の一部には水を張る冬季湛水(たんすい)が実施されていて、今回の調査でも田畑で羽を休めたり、餌をついばむ10羽ほどのトキが確認できた。ある意味でダイナミックだったのは、トキが観察できた農地の周囲は民家が建ち並ぶ市街地のすぐそばにあり、人里と共存している。事実、田んぼの中を歩く調査スタッフの横をかすめるようにして飛ぶトキもいた。

  こうした田畑や水路を調査すると、トキの餌となるドジョウやカエルが豊富にいた。田んぼの水路にはコンクリートは使われておらず、そうした水生生物が移動しやすいようになっている。ところどころに、深水を張ってハスを栽培するハス田がある。このハス田と田んぼが水路でつながっていて、両生類などの生き物の供給源になっている。冬の餌場を確保するため、水辺面積を増やしてそこに常水を張るようなことも地域で取り組んでいる。トキと共生する人里の風景がそにあった。 (※写真は雪上を歩くトキ=珍稀野生動物救護飼養研究センター)

⇒6日(水)朝・金沢の天気   くもり

★早春、トキの旅~中~

★早春、トキの旅~中~

 今回の中国・陝西省でのトキ調査の旅程でずっと考えていたのは、根絶やし(絶滅)させられるほどトキに罪はあったのかということである。本州最後の野生のトキがすんでいた能登半島ではドゥと呼ばれ、水田の稲を踏み荒らす「害鳥」とされてきた。ドゥとは「ドゥ、ドゥと追っ払う」という意味である。昭和30年代、地元の小学校の校長らがこれは国際保護鳥で、国指定の特別天然記念物のトキだと周囲に教え、仲間を募って保護活動を始めた。しかし、そのとき能登では10羽ほどに減っていた。

      哀愁ただよう鳴き声

  本当に害鳥だったのか。機中で読んでいた「コウノトリの贈り物~生物多様性農業と自然共生社会をデザインする」(地人書館・鷲谷いづみ編)によると、兵庫県豊岡市でもコウノトリはかつて「稲を踏み荒らす」とされ、追い払われる対象だった。ところが野生のコウノトリを県と市の職員が観察調査(05年5月)したところ、稲を踏む率は一歩あたり1.7%、60歩歩いて1株踏む確率だった。これを総合的に評価し、「これくらいだと周囲の稲が補うので、減収には結びつかない」としている。それが「害鳥」の烙印をいったん押され、言い伝えられるとイメージが先行してしまう。今回の中国のトキ調査でも同行した新潟大学の本間航介氏は「農村の閉塞状況の中でつくられた犠牲ではないか」(08年1月26日・シンポジウムでの発言)という。つまり、つらい農作業の中で、ストレスのはけ口の対象としてトキやコウノトリが存在したのではないか、との指摘である。

 そして、絶滅にいたる過程で指摘される「食鳥」としてのトキがいる。産後の滋養によいとされた。そして、簡単に捕獲された。能登の古老に聞いた話(07年12月)だと、2尺(60㌢)ほどの棒を、地面を歩くトキの頭上に投げる。ビュンビュンという棒の回転音を、トキは天敵の猛禽類(ワシやタカ)の襲来と勘違いして、草むらに逃げ込みジッと身を潜める。それを手で捕まえる。

  かつて東アジアの全域にいたとされるトキは水田を餌場としたがゆえに、追い払われ、食べられ、そして体内に蓄積した農薬(DDTなどの有機塩素系農薬など)で繁殖障害を起こし、日本では絶滅にいたる。

  中国で初めて生きたトキの姿を見たのは1月12日。この日は大雪で高速道路が閉鎖され、陝西省洋県に行く日程を変更して、西安市の中心から70㌔ほど離れた「珍稀野生動物救護飼養研究センター」に向かった。パンダやキンシコウ(「西遊記」のモデルとされるサル)など希少動物が集められ、飼育されている。ここにトキが250羽ほどケージで飼われている。

  ケージの中で、つつきあってじゃれている。これまで見てきた剥(はく)製ではない、動物らしい生きた姿がそこにあった。もう繁殖期に入ったのだろうか、頭の毛の一部が灰色になっている。「エサとなるドジョウは1羽あたり300㌘、数にして十数匹食べる」と、案内してくれたトキ管理課長の張軍風さんが説明した。

 初めて鳴き声を聞いた。クアァ、クアァとカラスの鳴き声より低い。山里に響く、幼いとき聞いたような、どこか哀愁を漂わせる鳴き声だった。(※写真は珍稀野生動物救護飼養研究センターのトキ)

 ⇒5日(火)朝・金沢の天気    くもり

☆早春、トキの旅~上~

☆早春、トキの旅~上~

 「長い正月休み」をいただいた。1月の「自在コラム」のアップが2件、05年4月にブログをスタートさせてから、月間でもっとも少ない件数となった。惰眠をむさぼっていたわけではない。言い訳はほどほどにして、「1月はネタの仕入れ期間だった」と自分なりに解釈して、ブログ生活を再開したい。

        上海は視界不良

  1月11日から4日間、短期間だったが、中国・陝西(せんせい)省を訪れた。冬のトキを観察する狙いがあった。新年度からトキに関する「生態環境整備および地域合意形成に関する学際研究」を始めるに当たって、どうしても一度見ておきたいと思い調査団に加えてもらった。金沢大学の「里山プロジェクト」(研究代表者・中村浩二教授)に関わっていて、トキと共生できるような里山環境を再生しようというのが、研究の狙い。どこからトキを持ってきて放すといった力技の利いた話ではない。

  11日は成田から上海、そして西安と飛行機を乗り継いだ。上海浦東国際空港ではトランジットツアーを試みた。上海リニアで市内に足を延ばした。時速430㌔の車窓から見える風景は、目が慣れないこともあって、コマ送りの状態で見える。2010年の上海万博を控えているせいか、沿線の古い工場群や民家などが広範囲に取り壊されていた。帰国後、新聞のニュースで知ったのだが、万博会場までリニアを延伸する計画が進行中だが、大規模な反対運動が起きているようだ。終着駅・龍陽路まで距離にして30㌔、時間にして7分20秒ほど。それにしても上海は霧に覆われ、視界不良。しかも煤煙と混ざって薄黄色の世界だった。化石燃料を燃やしたような鼻につく匂いもある。上海の人民広場まで行こうかと思ったが、時間の都合もあり断念。再びリニアで空港に戻った。

  「空の玄関口」でありフロアはピカピカみ磨かれている。「小心地滑」との注意看板があちこちに。滑るので注意してと呼びかけているのだが、清掃員を観察すると、ワックスがけをしている。これって矛盾ではないのかと思いつつも、西安行きの国内線の搭乗口に着いた。妙に混雑しているので、悪い予感がしていたのだが、案の定、霧のため離発着が遅れに遅れている。グランドのスタッフを囲んで乗客が何やらまくし立てている光景がいくつかあり、騒然としていた。西安行きの飛行機は1時間20分ほど遅れて飛び立った。

  この日は強い寒気が大陸を覆っていたせいで、その日の夜到着した西安は気温マイナス1度、初雪。何しろこの日はイラクのバクダットでも雪が降ったというニュースが現地で流れていた。(※写真は霧に包まれた上海市街)

 ⇒4日(月)朝・金沢の天気    くもり

★続・モノトーンの美学

★続・モノトーンの美学

 前回の「自在コラム」では、能登の風土から生まれた珠洲焼(すずやき)、合鹿椀(ごうろくわん)にある種の生活の美学を感じると書いた。年始めに寄せられた年賀状の中にも能登におけるモノトーンの美を感じさせる1枚があったので紹介する。

 手前の座敷から外に見える赤い樹木は「ノトキリシマツツジ」である。黒ベースの色調からフォーカスされる赤。住宅と庭園を一体化させた美の演出である。能登の素封家の家々ではこの座敷から眺めるノトキリシマツツジのアングルを大切にしてきた。能登在住の写真家、渋谷利雄さんからいただいた賀状である。

 渋谷さんにネット上での掲載の許可を得るため、賀状のお礼を兼ねて電話をした。ノトキリシマツツジはかつて九州地方から伝わったキリシマツツジの亜種だそうだ。街路で見かけるツツジよりも花が小さく、真っ赤な花を咲かせるのが特徴。成長が遅いため、樹齢400年ほどでも高さ3㍍ほどである。つまり、見事に咲いて、しかも小ぶりなので庭木のポイントとして愛用されてきた。座敷で座って眺め、まっすぐな目線上に真紅のノトキリシマツツジを配するのである。

 これも能登の人たちがこよなく愛してきた美的感覚、モノトーンの美といえるに違いない。

⇒6日(日)午後・金沢の天気  はれ

 

☆能登に息づくモノトーンの美学

☆能登に息づくモノトーンの美学

  新年明けましておめでとうございます。年末年始に北陸地方で心配された大雪も幸い大事に至らず新年を迎えることができました。私は楽観主義なので、雪の季節を迎えると、「冬来たりなば、春遠からじ」と自らに言い聞かせ、気楽にやり過ごしています。では、2008年の最初のブログを。

 去年から能登通いが頻繁になった。いろいろな専門の方とお会いし、見聞きするうちになんとなく能登の感性というものを大づかみながら、心得た気分になっている。それはモノトーンの美学である。昨年暮れ、あるお宅に招かれ座敷に上がると、珠洲焼に一輪の寒ツバキが床の間に活けてあった。黒と赤の締まった存在感があり、しばし、見とれてしまった。そういえば、玄関にもさりげなく珠洲焼の一輪挿しがあった。「お宅にお茶やお花を嗜(たしな)まれる方がいらっしゃるのですか」と無礼を承知で尋ねると、「いやおりません。先代からこんな感じで自己流で活けております」と主は笑った。「流派などかまわん、家の構え(雰囲気)に似合っているかどうかだ」といいたかったのだろう。

 珠洲焼にはグレイのものも多いが、黒が真髄とされる。還元炎でいぶされ、艶やかになるまで焼き締められた黒は、能登の荒々しい気候風土の中でどこか厳粛さを感じさせる。それでいて、自己主張せずにどっしりとした能登の家構えに合う。これが、彩色豊かな加賀の九谷焼だったら、なんとなく浮いた存在になるのではないか。

 珠洲焼に似た感慨を同じ能登で味わった。昨年夏のことだ。能登の山中にそば屋を営むT氏を訪ねた。店内のガラスケースに陳列されてあった、古くからある土地の椀、合鹿椀(ごうろくわん)だった。朱色の椀もあったが、黒の椀にまだ艶が残っていたので手に取らせてもらった。おそらく古いもので400年。一度塗りのものらしいが、すり減り欠けた部分もある。代々使い込まれた生活の跡が胸にしみた。律儀に土地を耕し、命を繋いできた人たちのけなげな姿が今にもこの漆黒(しっこく)に映し出されるかと思った。どっしりと存在感のある用の美だ。

 輪島の漆芸家、角偉三郎(かど・いさぶろう)さん(05年10月26日逝去)がその合鹿椀に注目し、同じ地名の合鹿の在所(現・能登町)に工房を構え、合鹿椀の再興に心血を注いだ。華奢(きゃしゃ)を笑うかのようなたっぷりとした椀の形状、そして黒のモノトーンに珠洲焼と共通する、どこかこの土地を生き抜く精神性が伝わるような気がした。角さんが「合鹿椀、合鹿椀」といいながら、手塗りに熱中した訳がぼんやりとながら想像できた。

 黒といえば、お手軽な高級感を演出するため、最近流行だそうだ。黒い色のトイレットペーパーまであるとか。動機はどうであれ、一度能登に来て漆椀の漆黒というものを見ればいい、デザイナーだったらその表現方法が変わるかもしれない。それほどショッキングな色、それが漆黒だ。

⇒3日(木)午後・金沢の天気  くもり

★メモる2007年‐10(完)‐

★メモる2007年‐10(完)‐

 年末、家族で加賀・山代温泉に出かけた。この「メモる2007年」シリーズの10回目の締めくくりに何を書こうか迷っていたので、ちょうどよい気分転換になった。ところで、この旅館のことを書いてもブログが3本は立ちそうなほどサービスがよい。就寝前には「羽毛、ソバ殻、低反発の3種の枕がありますが、お好みはありますか」と仲居さんが尋ねてくる。そして食事のメニューは女将さんが描いたイラスト付きである。経営者が料理の細部までマネジメントしている。だからサービスが行き届いていると実感できる。その旅館の窓から見える加賀の山里の景色を眺めながら、金沢大学が能登で展開しているプロジェクトについてこの1年を振り返ってみた。そして、このプロジェクトはどこへ行こうとしているのか自問自答してみた。

         どこへ行こうとしているのか

  能登半島の先端にある珠洲市三崎町。廃校となった小学校を再活用した「里山マイスター能登学舎」で、2007年10月6日に「能登里山マイスター」養成プログラムは開講式を迎えた。開講式のあいさつで、金沢大学の橋本哲哉副学長は「能登に高等教育機関をという地元のみなさんからの要望があり、きょうここに一つの拠点を構えることができた。環境をテーマに能登を活性化する人材を養成したい」と感慨を込めた。ここで学ぶ1期生は19歳から44歳までの男女16人。金沢から2時間半かけて自家用車で通う受講生もいる。開講式では、受講生も自己紹介しながら、「奥能登には歴史に培われた生活や生きる糧を見出すノウハウがさまざまにある。それを発掘したい」「能登の資源である自然と里山に農林水産業のビジネスの可能性を見出したい」などと抱負を述べた。志(こころざし)を持って集まった若者たちの言葉は生き生きとしていた。

  あいさつと看板の除幕という簡素な開講式だったが、かつて小学校で使われていた紅白の幕を学舎の玄関に張り、地元の人たちも見守ってくれた。5年間に及ぶ金沢大学の「能登里山マイスター」養成プログラムはこうして船出した。では、このプログラムは何を目指して、どのようなビジョンを描いているのか述べてみたい。まず、能登の現状認識について、いくつか事例を示す。

 能登半島の過疎化は全国平均より速いテンポで進んでいる。とくに奥能登4市町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)の人口は現在8万1千人だが、8年後の2015年には2割減の6万5千人、65歳以上の割合が44%を占めると予想される(石川県推計)。この過疎化はさまざまなかたちで表出している。能登半島では夏から秋にかけて祭礼のシーズンとなる。伝統的な奉灯祭はキリコを担ぎ出す。キリコは収穫を神に感謝する祭礼用の奉灯を巨大化したもので、その高さは12㍍に及ぶ。黒漆と金蒔絵で装飾されたボディ、錦絵が描かれた奉灯、何基ものキリコが鉦(かね)と太鼓のリズムに乗って社(やしろ)に集ってくる。華やかな祭りのなかにも能登の現実をかいま見ることができる。キリコは本来担ぐものだが、キリコに車輪をつけて若い衆が押している。かつて集落には若者が大勢いてキリコを担ぎ上げたが、いまは人足が足りずそのパワーはない。車輪を付けてでもキリコを出せる集落はまだいい。そのキリコすら出せなくなっている集落が多くあり、社の倉庫に能登の伝統遺産が眠ったままになっている。

  2006年5月、能登半島を視察に訪れた小泉純一郎首相(当時)は、国指定の名勝である「白米(しらよね)の千枚田」(輪島市)を眺望して、「この絶景をぜひ世界にアピールしてほしい」と賞賛した。展望台から見渡す棚田の風景は確かに絶景であるものの、小泉首相が眺望したのはざっと4㌶で、展望台からは見えにくい周囲の10㌶の田んぼは休耕田や放棄田となっている。高齢化と担い手不足、そして予想以上に放棄田が広がる背景には、棚田は耕運機や田植え機などが入りにくく手間がかかるという現実がある。輪島市では棚田のオーナー制度を打ち出すなど手を尽くしているが、名勝の棚田ですら耕作を持続するのは難しい。さらに、ことし2007年3月25日の能登半島地震。マグニチュード6.9、震度6強。この震災で1人が死亡、280人が重軽傷を負い、370棟が全半壊し、2000人余りが避難所生活を余儀なくされた。自宅の再建を断念し、慣れ親しんだ土地を離れ、子や孫が住む都会に移住するお年寄りも目立つ。能登の過疎化に拍車がかかる。もはや能登、とくに奥能登の地域再生は「待ったなし」の状態となっている。

  こうした奥能登の現状に、金沢大学は「能登里山マイスター」養成プログラムを投入することになった。奥能登に拠点を構えるにあたって、このプログラムに連携する輪島市、珠洲市、穴水町、能登町の4市町と、それにブログラムに講師派遣というかたちで参画する石川県立大学を交え、「地域づくり連携協定」を結んだ(2007年年7月13日)。地域の現状を好転させたいと心底から願っているのは当該の自治体である。しかし自治体にとって、課題の解決に向けて大学に協力を求めようとしても大学といのは敷居が高い。そこで、連携協定を結ぶことで敷居を払うという効果につながる。協定内容はごく簡単に地域再生、地域教育、地域課題の3点について協力するというものだ。調印を終え、林勇二郎学長はそれぞれの自治体の首長とがっちりと握手を交わした。その後、この連携協定が単なる文面上の約束事から、求心力へと高まっていくことになる。

  能登の自治体と金沢大学の動きに機敏に反応したのは意外にも石川県議会だった。県議会企画総務委員会の7人の議員が「金沢大学が能登でやろうとしていることを説明してほしい」とわざわざ珠洲市の里山マイスター能登学舎を視察に訪れた。総務企画委員会というのは各会派のベテラン県議、いわゆる「うるさ方」が集まる委員会である。県の局長、部長クラスを伴って、一行がバスで訪れたのは8月22日のこと。議員が動いたということで、今度は県庁内での動きにつながる。庁内で部局を横断的につないだ「里山マイスター連絡会」が組織された。8月31日の初会合には企画振興部地域振興課、環境部自然保護課、商工労働部産業政策課、観光交流局観光推進課、農林水産部企画庁調整室、同部中山間地振興室の関連セクションから課長や課長補佐、主幹、専門員といった中堅クラスが集まった。いわば県庁内での支援組織である。

  大学の研究プログラムにこれほどまでに行政が機敏な動きを見せたのには理由がある。このプログラムは文部科学省科学技術振興調整費の「地域再生人材創出の拠点形成」という課題で金沢大学が申請した。国の第67回総合科学技術会議で採択されたのは2007年5月18日。この課題では全国の大学などから75件の申請があり、12件が採択された。1年間で5000万円、5年継続が可能なのでトータルで2億5千万円の国の委託費だ。科振費の中でも、このプログラムは自治体と連携して地域再生のための人材養成の拠点を形成するというミッション(政策的な使命)を帯びていて、総合科学技術会議の採択を受け、今度は連携する自治体が大学のプログラムを活用して地域再生計画を作成し、内閣府に申請するという「二段論法」になっている。平たくいえば、大学と地域自治体の双方が申請責任者として地域課題に取り組むという仕組みになっている。そこで、石川県と輪島市、珠洲市、穴水町、能登町は「元気な奥能登を創る!“里山マイスター”創出拠点の形成による奥能登再生計画」を国に申請し、7月4日に認定を受けることになる。地域づくり連携協定から県庁内の里山マイスター連絡会まで、大学と行政の連携の動きは一連のものなのだ。

  「能登里山マイスター」養成プログラムに先立って、2006年10月、三井物産環境基金の支援を得て、能登半島の最先端にある珠洲市三崎町で「能登半島 里山里海自然学校」を開設した。地域への貢献を条件に、同市から無償で借り受けた鉄筋コンクリート3階建ての旧・小学校の校舎。教室の窓からは日本海が望め、廊下の窓から能登の里山が広がる絶好のローケションが里山里海自然学校に相応しいというのがこの場所の選定理由だった。ここに常駐研究員1人を配して、奥能登における生物多様性調査をオープンリサーチ形式で行なう。山や溜め池、田んぼといったところで生物調査を行なう。この中から、絶滅危惧種であるホクリクサンショウウオの北限を塗り替える発見もあった。このほかに、沿岸集落の里海づくり、食文化調査、マツタケ山の保全活動、ビオトープづくりなどを地域の人たちの協力を得て行なっている。学校のある小泊地区の人たちは「一度明かりが消えた学校に再び明かりがともってうれしい」と言い、里山里海自然学校とは協力関係が築かれている。しかし、社会貢献、地域づくりといいながら、角間の里山自然学校や里山里海自然学校の取り組みだけでは奥能登への貢献は力不足である。大学にできること、それは人材養成ではないのかと自問自答したプランが「能登里山マイスター」養成プログラムだった。プログラムの申請段階から関わった市の泉谷満寿裕市長は「能登には高等教育機関がないので、若い人材が都会に流失していく。この人材養成プログラムがUターン希望者らの呼び水の一つになってほしい」と何度も強調した。七尾市和倉温泉の「加賀屋」、小田禎彦会長は「能登に人づくりの拠点ができることを待ち望んでいた」と話し、若手社員を受講生としてプログラムに送り込んでくれた。地域の期待は予想以上に大きかった。

  このプログラムを国に申請書を作成する段階で念頭に置いた、お手本のような地域の事例がある。能登半島の付け根にある石川県羽咋(はくい)市神子(みこ)原(はら)地区という過疎と高齢が進む集落(170世帯500人)がある。山のため池を共有し、人々は律儀に手をかけて稲を育てている。その米が「神子原米」としてブランド化され、高級旅館の朝ごはんに、あるいはその米で造られた純米酒はファーストクラスの機内食として供されるなど高い付加価値をつけることに成功した。生産量は多くないので、決して豊かな村ではない。しかし、目立っていた空き家に、神子原で米づくりをしてみたいと志す都会の4家族13人が入居し、地域は活気づいている。能登はその地形から大規模な河川がなく、平野も少ないことから、生産量を競う米づくりには不向きで、集落が共同でため池をつくり、その水を分け合って水田を耕してきた。個人ベースでは小規模農業であるものの、「ため池共同体」であることを生かし、集落がまとまってブランド米づくりに乗り出すことが可能である。いわば、米づくりが個人ではなく、地域ぐるみのコミュニティ・ビジネスとして成立する素地が能登にあり、神子原地区はその成功例と言える。

  追い風もある。食の安全と安心を求める消費者の声が高まり、平成19年度から政府は新農業政策「農地・水・環境保全向上対策」を掲げ、環境保全型の農業へと大きく舵(かじ)を切っている。生産量を誇るのではなく、環境に過度の負荷をかけない、品質の確かな農業への転換である。新しい農業の時代を担う人材を能登の地で育むことができないだろうか。風光明媚な観光資源や魚介類の水産資源にも恵まれている。これらの資源を生かし、農家レストランや体験農業、あるいは食品産業との連携による新事業の展開など、「農」をキーコンセプトとする新しいアグリビジネスを創造する人材が定着すれば、能登再生の展望はほのかに見えてくる。

  「能登里山マイスター」養成プログラムが具体化されるまでのいきさつや、どのような人材を能登で養成しようとしているのかについて、これまで述べてきた。ここでお分かりのように、主眼は「農業名人」を育成することではなく、環境配慮をテーマとしたスモールビジネスを行なう若手人材の養成なのである。しかし、里山マイスターを60人育てれば能登を再生できるのか、それは容易ではない。次なる能登のビジョン、あるいは仕掛けが必要なのである。これからがわれわれが目指す里山活動の本題でもある。

  環境配慮型の農業を行なうことで、副次的に水田にはドジョウやタニシといった生物が豊富になる。ある意味で単純なことが実は重要なことであるのに気づくのに半世紀を要している。急減したトキが国の特別天然記念物に指定された1950年代、日本は戦後の食糧増産に励んでいた。農業と環境の問題にいち早く警鐘を鳴らしたレチェル・カーソンは1960年代に記した名著「サイレント・スプリング」に、「春になっても鳥は鳴かず、生きものが静かにいなくなってしまった」と記した。農業は豊かになったけれども春が静かになった。1970年、日本で本州最後の1羽のトキが能登半島の穴水町で捕獲された。愛称は「能里(ノリ)」、オスだった。繁殖のため佐渡のトキ保護センターで送られたが、翌71年に死亡した。解剖された能里の肝臓や筋肉からはDDTなどの有機塩素系農薬や水銀が高濃度で検出された。そして2003年、佐渡の「キン」が死亡し、日本のトキは沈黙したまま絶滅した。

  その後、同じ遺伝子を持つ中国産のトキが佐渡で人工繁殖し、107羽(2007年7月現在)に増殖している。環境省では、鳥インフルエンザへの感染が懸念されることから場所を限定しての本州での分散飼育を検討し、08年にも分散場所の選定がなされる見込み。石川県能美市にある県営の「いしかわ動物園」は分散飼育の受け入れに名乗りを上げ、近縁種のシロトキとクロトキの人工繁殖と自然繁殖に成功し、分散飼育の最有力候補とされている。分散飼育の後、人工増殖したトキを最終的に野生化させるのが国家プロジェクトの目標である。

  能登の「能里」が本州最後の1羽のトキだったことは前に触れた。途絶えたとはいえ、能登に最後の1羽まで生息したのにはそれなりの理由がある。先に紹介した「能登半島 里山里海自然学校」で行なっている奥能登での生物多様性調査は、珠洲市と輪島市など奥能登の何ヵ所かを重点調査地区に設定し、詳細なデータの蓄積を進めている。調査は途中であるものの、トキの生息環境の可能性を能登に見出すことができる。能登には大小1000以上ともいわれる水稲栽培用のため池が村落の共同体、あるいは個別農家により維持されている。ため池は中山間地にあり、上流に汚染源がないため水質が保たれている。サンショウウオ、カエル、ゲンゴロウやサワガニ、ドジョウなどの水生生物が量、種類とも豊富である。ため池にプールされている多様な水生生物は用水路を伝って水田へと分配されている。

  また、能登にはトキが営巣するのに必要とされるアカマツ林が豊富である。昭和の中ごろまで揚げ浜式塩田や、瓦製造が盛んであったため、高熱を発するアカマツは燃料にされ、伐採と植林が行なわれた。さらに、能登はリアス式海岸で知られるように、平地より谷が多い。警戒心が強いとされるトキは谷間の棚田で左右を警戒しながらサンショウウオやカエル、ゲンゴロウなどの採餌行動をとる。豊富な食糧を担保するため池と水田、営巣に必要なアカマツ林、そしてコロニーを形成する谷という条件が能登にある。ここに環境配慮型の農業を点ではなく面で進めたら、トキやコウノトリが舞い生息する里山の環境が再生されるのではないだろうか。

  もちろん、机上の話だけでは現実は進まない。かつて奥能登でトキはドゥと呼ばれ、水田の稲を踏み荒らす害鳥だった。ドゥとは「追っ払う」という意味である。トキを野生復帰させるための生態環境的なアプローチに加え、生産者と地域住民との合意形成が必要である。トキと共存することによる経済効果、たとえば農産物に対する付加価値やグリーンツーリズムなどへの広がりなど経済的な評価を行ない、生産者や住民にメリットを提示しながら、トキの生息候補地を増やしていく合意形成が不可欠である。その上で、金沢大学が能登半島で地域住民と協働して実施している生物多様性調査に都市の消費者も加わってもらい、長期モニタンリングにより農環境の「安全証明」を担保していく仕組みづくりができれば、環境と農業、地域と都市の生活者が連携する自然と共生した能登型の環境再生モデルが実現するのではないか。

  次世代を担うであろう里山マイスターにぜひ、トキが舞う能登の農村の環境再生の夢を託したい。能登の里山ルネサンス(再興)といってもよい。ここに能登再生の可能性がある。このブログでもすでに紹介したトキの写真がある。昭和32年(1957年)、輪島市三井町洲衛で撮影されたトキの子育て、巣立ち、大空への舞いの当時珍しいカラー写真である。地元の小学校の校長していた岩田秀男氏(故人)がドイツ製の中古カメラを買って撮影した。トキをモノクロの写真で撮影しても意味がないと、カラー写真の撮影に執念を燃やした。岩田氏は最後の1羽を捕獲し佐渡に送ることに反対したそうだ。「最後の1羽は能登で安らかに死なせてやりたいと願っていた」(遺族の話)。わたしはトキが能登に復活することを願っている。本州最後の1羽が能登なら、本州で野生復帰する最初の1羽を能登で実現させたいと。

 ⇒29日(土)午前・金沢の天気  くもり

☆メモる2007年‐9‐

☆メモる2007年‐9‐

 かつて、大晦日といえば岩城宏之、岩城宏之といえば大晦日だった。その岩城さんがこの年末に突如現れた。今月21日に発表された2007年文化庁芸術祭賞のテレビ部門優秀賞に、北陸朝日放送が制作した番組「指揮者 岩城宏之 最後のタクト」(55分番組)が選ばれた。去年(06年6月)、岩城さんが逝去してから1年6カ月、その存在感をいまも漂わせている。

    マエストロ岩城を撮り続けたドキュメンタリスト            

  2年前の05年12月31日、私は当時、経済産業省「コンテンツ配信の実証事業」のコーディネータ-として、東京芸術劇場大ホールで岩城さんがベートーベンのシンフォニー1番から9番を指揮するのを見守っていた。演奏を放送と同時にインターネットで配信する事業に携わっていた。休憩をはさんで560分にも及ぶクラシックのライブ演奏である。番組では指揮者用のカメラがセットしてあって、岩城さんの鬼気迫る顔を映し出していた。ディレクターは朝日放送の菊池正和氏。その菊地氏の手による、1番から9番のカメラ割り(カット)数は2000にも及んだ。3番では、ホルンの指の動きからデゾルブして、指揮者・岩城さんの顔へとシフトしていくカットなどは感動的だった。

  ライブ演奏と別に、岩城さんの表情を控え室までカメラを入れて撮影するドキュメンタリー番組のクルーがいた。北陸朝日放送の北村真美ディレクターだった。この時点で足掛け10年ほど「岩城番」をしていた。岩城さんのベートーベン連続演奏は04年の大晦日に次いで2度目だったが、この2回とも収録している。前人未到の快挙と評されたベートベーンの連続演奏にカメラを回し続けた。彼女ほど岩城さんに密着して取材したディレクターはいないはずである。その北村さんが今回、文化庁芸術祭賞の優秀賞を受賞した。

  受賞番組となった「指揮者 岩城宏之 最後のタクト」は追悼番組である。10数年余りに及ぶ映像を岩城さんの生き様にかぶせてふんだんに盛り込んだ。胃がんや肺がんと闘いながら、最後までタクトを振り続けた姿を収めた。追悼演奏が終わって、会場のステージから大型の遺影がゆっくりと降ろされるシーンは、かつて指揮台にいた生前の姿を彷彿させて胸を打つ。追悼演奏といえども、遺影の最後の仕舞いまで見届けたいという、番組にかけるディレクター、カメラマンの執着心だろう。

  ドキュメンタリストというのは決して映像をあせらない。チャンスを待つ。そうした目線の確かさというのは番組づくりにも表れるものだ。指揮者・岩城宏之をその死まで追って、人生と芸術を描いた。芸術祭賞にふさわしい番組ではなかったか。

  最後に番組の中から印象に残った岩城さんの言葉。「ベートーベンの1番から9番は個別ではそれぞれ完結しているんだけれど、連続して指揮してみると巨大な1曲なんだ」。ベートーベンへの長い道のりを歩いた指揮者からこぼれた、なんと澄み切った、奥深い言葉だろうか。

※【写真】2004年5月、オーケストラ・アンサンブル金沢のベルリン公演

 ⇒24日(月)夜・金沢の天気   はれ