☆「忘れざる日々」
記者の生活には日曜日や休み、時間外、オフという概念がない。いつでも、どこでも事件は記者を駆り立てる。そのエピソードが「忘れざる日々」で紹介されている。鳥毛さんが結婚して間もなく金沢市内で3日続けて深夜の火災があった。警察担当だったが、一夜、二夜とも気づかず、出社して先輩記者に大目玉を食らった。しかし、さすがに三夜目は「きょうは寝ない」と覚悟を決めた。事件に予定はないが、消防団の半鐘が鳴り、鳥毛さんは真っ先に現場に駆けつけた。記者としての瞬発力は定評だったが、若き日の苦い経験をバネとした。東京報道時代にはホテルニュージャパンの火災、日航機の墜落事故などを担当した。このエピードは妻の美智子さんが本のあとがきで紹介している。
鳥毛さんはある意味で目利きだった。筋をきっちりと掴んで真贋を見分けていく。「忘れざる日々」で面白い記事が紹介されている。「禅の壁」というコラムで、金沢・湯涌にある康楽寺のことを書いている。昭和19年に建てられたその寺は、仏教王国と称される北陸では「乳飲み子」のような歴史しか持たない。が、この寺はかつて加賀藩前田家の重臣、横山章家氏の別邸だったもので、明治時代の金沢の代表的な建物だった。それを戦前の政治家、桜井兵五郎氏(1880‐1951年)が譲り受け、同氏が経営する白雲楼ホテル(今は廃業)の近くに寺として再建した。鳥毛氏の謎解きはここから始まる。なぜ寺としたのか、釈迦の遺骨と称されるものをビルマの要人からもらった桜井氏が寺を建て安泰したと、桜井氏の関係者から取材している。おそらく普通の記者だったら、このエピソードを持って、この取材は終わっていたかもしれない。鳥毛氏の真骨頂はここからである。その関係者から「昭和40年4月に東京・三越本店で開催された鶴見・総持寺展で展示された仏像10体のうち7体がこの康楽寺のものだった」と聞きつける。さらに、東急電鉄の創業者で美術品収集家として知られた五島慶太氏(1882-1959年)が寺の愛染明王像を所望したが、適わなかったとのエピソードを五島氏の周辺に取材して紹介している。寺とは言え、実質的に個人が収集した仏教美術の「倉庫」と化している寺の有り様に、鳥毛氏は「言い表せないむなしさを覚えた」とジャーナリスとしての感性をこぼしている。
鳥毛さんは1934年6月20日、東京生まれ。戦時下の空襲で父方の親戚を頼って、能登半島・柳田村(現・能登町)に疎開し、終戦を迎える。その縁で、「故郷は柳田」と言い、能登半島にも眼差しを注いだ。私が鳥毛さんと親しくさせてもらったのも、同郷のよしみだった。
病の床でうわごとのように「つくづく疲れた、精も根も」と言っていたと、美智子さんは19日の通夜の式場で話した。全力投球するタイプ、そんな記者時代の思い出の一つ一つが走馬灯のように死の直前の脳裏を駆け巡っていたのだろうか。
※写真は鳥毛さんが愛用したペンと原稿=「忘れざる日々」より。
⇒6月20日(日)朝・金沢の天気 はれ
ワンセグの受信契約についてNHKのホームページで確認すると、「ワンセグ受信機も受信契約の対象です。ただし、ご家庭ですでに受信契約をいただいている場合には、新たにワンセグの受信機を購入されたとしても、改めて受信契約をしていただく必要はありません」と記載されている。問題は、一人暮らしの学生の場合である。そこで、視聴者コールセンターに電話(5月11日)をして、①学生は勉強をするために大学にきているので、受信料契約は親元がしていれば、親と同一生計である学生は契約する必要がないのではないか②携帯電話(ワンセグ付き)の購入の際、受信契約の説明が何もないのもおかしい、携帯所持後に受信契約を云々するのでは誰も納得しないーとの2点を、学生たちの声を代弁するつもりで問うてみた。すると、電話口の男性氏は「ワンセグの受信契約の対象になります。いろいろご事情はあるかと思いますが、別居の学生さんの場合は家族割引(2ヵ月で1345円)がありますのでご利用ください」と、要約すればこのような言葉を繰り返した。
戦後長らくアメリカの占領下にあり、1950年に朝鮮戦争が、1959年にはベトナム戦争が起き、戦時の緊張感を沖縄の人たちも同時に余儀なくされ、日本への復帰は1972年(昭和47年)5月15日である。しかも県内各地にアメリカ軍基地があり、沖縄県の総面積に10%余りを占める(沖縄県基地対策課「平成19年版沖縄の米軍及び自衛隊基地」)。時折、新聞で掲載される沖縄の反戦や反基地の気運は、北陸や東京に住む者にはリアリティとして伝わりにくい。沖縄は今でも闘っている。
沖縄県立博物館・美術館のメインの展示は「アトミックサンシャインの中へin沖縄~日本国平和憲法第九条下における戦後美術」(4月11日-5月17日)。ニューヨーク、東京での巡回展の作品に加え、沖縄現地のアーチストの作品を含めて展示している。「第九条と戦後美術」というテーマ。作品の展示に当たっては、当初、昭和天皇の写真をコラージュにした版画作品がリストにあり、美術館・県教委側とプロモーター側との事前交渉で展示から外すという経緯があった、と琉球新報インターネット版が伝えている。さまざまな経緯はあるものの、美術館側が主催者となって、「第九条と戦後美術」を開催するというところに今の「沖縄の気分」が見て取れる。
ミミガーやピーナツ豆腐、チャンプルーがどんどんと出てくるのかと思ったら、そうではない。食前酒(泡盛カクテル)、先付け(ミミガー、苦瓜の香味浸し、ピーナツ豆腐)、前菜(豆腐よう和え、塩豚、島ラッキョ、昆布巻き)、造り(イラブチャー=白身魚)、蓋物(ラフティー=豚の角煮)などと、確かに金沢の料理屋で味わうのと同じように少量の盛り付けで、しかも粋な器は見る楽しみがあった。日本料理のスタイルで味わう琉球料理なのだ。
6年ぶりに沖縄を入り、このチャンプル文化にある種のイノベーションを感じた。イノベーションとは、発明や技術革新だけではない、既存のモノに創意工夫を加えることで生み出す新たな価値でもある。先のレストランでの琉球会席でも、和食を主張しているのではなく、和のスタイルに見事にアレンジした琉球料理なのである。その斬新さが「おいしい」という価値を生んでいる。沖縄の場合、独自の文化資源を主体にスタイルを日本、中国、東南アジアに変幻自在に変えて見せるその器用さである。これは沖縄の観光産業における「チャンプル・イノベーション」と言えるかもしれない。
パンフレットなどによると、戦前の首里城は正殿などが国宝だった。戦時中、日本軍が首里城の下に地下壕を築いて、司令部を置いたこともあり、1945年(昭和20年)、アメリカの軍艦から砲撃された。さらに戦後に大学施設の建設が進み、当時をしのぶ城壁や建物の基礎がわずかに残った。大学の移転とともに1980年代から復元工事が進み、1989年には正殿が復元された。2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。
全体の弁柄はこの二本の柱の文様を強調するために塗られたのではないかと想像してしまう。さらに内部の塗装や色彩も中国建築の影響を随分と受けているのであろう、鮮やかな朱塗りである。国王の御座所の上の額木(がくぎ)には泳ぐ竜=写真・下=が彫刻され金色に耀いている。
海鮮スープスパゲティは具沢山でそれはそれで満足感はあった。が、早食いのせいで、「ひもじさ」が少々残った。レジで代金を払い、ふとレジの周りを見ると「特濃黒ごまミルク」という文字が目に飛び込んできた。「これください」と言ってしまった。黒ゴマは好きな食材で、「黒ゴマ入りのミルクキャラメル」と勝手に解釈して手にとってしまった。126円だった。1粒が17kcal、黒ゴマが入るとカロリーは高いと思いながら口に入れ、再び車に乗リ込んだ。軟らかなキャラメルを期待したのだが、キャンデーだった。口に含んだらゆっくりとは出来ない性分で、すぐ噛んでしまう。ガリガリと。農厚な味だが甘くはない。さらに2粒目を口に入れ、ガリガリと。事件はここで起きた。
自家用車のスノータイヤをノーマルタイヤに履き替えたので、滑らないかとヤキモキした。が、強い降りではなく、30分ほどしたら青空が見えてきたので一気に雪は消えた。ふと庭を見ると、梅の花が咲いていたので、名残り雪とピンクの梅の花の組み合わせは妙に風情があるものだと感じ入った。
それまで大切に「箱入り娘」のように大切に育てられたあのトキが野生に目覚めて、本州に飛んだのである。最初の1羽は、飛来が新潟県胎内市で確認されたので、もし佐渡の放鳥場所からダイレクトに飛んだとすれば、胎内市まで60キロとなる。このニュースに胸を躍らせているのは能登に人たち。佐渡の南端から能登半島まで70キロなので、ひょっとして能登半島に飛んでくるかもしれないと期待している。それは見当外れでもない。放鳥されたトキは、背中にソーラーバッテリー付き衛星利用測位システム(GPS)機能の発信機を担いでいて、3日に一度位置情報を知らせてくる。データによると、トキは群れていない。放鳥された場所から西へ行っているトキ、東へ行っているトキ、北へ行っているトキとバラバラだ。中でも、2歳のオスは佐渡の南端方面でたむろしている。これが北から南に向かう風にうまく乗っかると、ひょっとして能登に飛来してくるかもしれないというのだ。
石川県珠洲市で廃校になっていた「小泊小学校」という学校施設を借りして、研究と交流の拠点をつくった。このとき、地域の人からこんなことを言われた。輪島の人は「奥能登の中心と言ったら輪島やぞ。なんで輪島につくらんがいね」と。そして、珠洲の人は「珠洲の中心は飯田やがいね。なんで辺ぴな小泊みたいなところにつくるのや。なんで飯田につくらんがいね」と。中村教授を始めとして我われは天邪鬼(アマノジェク)でもあり、なるべく過疎地へ行って拠点を構える。そうすることによって、新たな何か発見があると考えたのだ。買い物や人集めに便利だとか考えて中心に拠点を構えて何かをやろうとするのはビジネスの世界だ。研究の世界ではそうはいかない。まず、人気(ひとけ)のいない過疎地で研究拠点を構え、そこでじわじわと地域活性化の糸口をつかんでいく、あるいは大学の研究のネタを探していく。足のつま先を揉み解すと血行がよくなり体の全体がポカポカしてくるのと同じだ。
福沢は新聞事業と出版事業を巧みにメディアミックスしている。時事新報の社説で自らの論説を一つのテーマで連続的に掲載していく。そのテーマの中から読者から手応えがあったものを、今度は出版するという手法だ。「時事大勢論」「帝室論」などのヒット作品が次々生まれた。いまの手法で言えば、コンテンツの二次利用。テレビの連続ドラマの中で視聴率が高かったものを映画化して劇場公開、その後にDVD化、BC放送やCS放送で放送し、最後に「地上波初放送」とPRして自社の映画番組で放送する。一粒で二度も三度もおいしい(利益が出る)コンテンツビジネスの先駆けである。