☆能登半島地震 自然の造形美が変貌した「能登のジオ」
震源地に近い輪島市の曽々木海岸では、景勝地である「窓岩」が崩れていた=写真・上、2月22日撮影=。本来ならば、板状の岩山の真ん中に直径2㍍ほどの穴が空いた奇岩
で、9月中ごろなると、日本海に沈む夕陽が岩穴にすっぽりと収まる絶景が見られる。それが、今回の地震で岩の上部が崩れ、岩穴が消滅した。
金沢大学の教員時代に「能登スタディ・ツアー」(単位科目)でこの地を何度か訪れた。夕陽が西に沈み、窓岩に差し込む様はまさにパワースポット。7年前の2017年9月13日に学生や留学生たちを連れて訪れたときは「奇跡」があった。午後から雨が降り、夕方には止んだが、水平線の雲は晴れない。午後5時45分ごろ、それまで覆っていた雲が随分と薄くな
り、48分には夕陽が窓岩から照らし出し、49分には窓岩に差し込んできた=写真・中=。学生や留学生たちが「ミラクル、ミラクル」「オーマイ・ガッド」「奇跡よ、奇跡の夕陽よ」と叫びながら窓岩の夕陽を撮影していたのを覚えている。
かつて、この窓岩の周辺は塩田が続いていた。俳人の沢木欣一(1919-2001)の句碑がある。「塩田に百日筋目つけとおし」。人々が汗を流した塩田は1960年代の能登の観光ブームで姿を消した。その観光のシンボルの一つが窓岩で、観光客にとって絶好の被写体だった。その観光のシンボルが今
回の地震で姿を変えた。今後の地域観光のあり様も変わり果てるだろう。
様変わりした自然の造形物と言えば、輪島市に隣接する珠洲市の見附島も同様だ。珠洲市の観光パンフの表紙を飾っていた見附島も変わり果てた。その勇壮なカタチから通称「軍艦島」と呼ばれていたが、2022年と2023年、そして今回と度重なった揺れで、「難破船」のような朽ちた姿になった=写真・下、1月30日撮影、後ろに見える山は立山=。
観光の目玉だっただけに地域の観光産業にとっては打撃だろう。むしろ、自然の造形物を揺り動かしその姿を変えた大地の動きはまさに「能登のジオパーク」と言えるかもしれない。
⇒26日(月)夜・金沢の天気
元旦に能登半島で起きた震度7の地震の震源地は半島東側の尖端部とされている=図の✖印、1月1日付・NHK地震速報=。地名で言えば、海沿いの珠洲市大谷町から折戸町にかけての一帯になる。今月22日に現地を訪ねた。車で珠洲市役所から県道52号折戸飯田線を走り、折戸に向う。日中の気温は2度、山沿いの道路は一部凍結していた。途中、がけ崩れ地帯があった。山の巨大な岩石が道路近くまで落下している=写真・上=。車一台が通れる鉄板を並べた仮設道路が敷かれてあった。
能登半島の北側は海と山が接するリアス式海岸で、海沿いの国道249号や県道はがけ崩れで道路があちらこちらで寸断した状態が続いている。このため海辺の集落は孤立化した。そこで、県道52号のような内陸部の幹線道路を最優先で復旧させ、孤立化を解消させている。車一台が通れる鉄板は集落の人たちにとっては「命の道路」なのだ。
光明媚とされるのが木ノ浦海岸。海水の透明度が高く、魚の生育に適した岩場などで海の動植物の種類が豊富なことから、「国定公園特別地域」に指定されている。
階部分がつぶれ、厚さ約1㍍におよぶ茅葺の屋根が地面に覆いかぶさるように倒壊していた=写真=。
その取り組みとして、同市真浦(まうら)地区=写真=で限界集落を現代集落へと再生するプロジェクトへを立ち上げたと説明していた。水や電気や食を自給自足でつくる集落をつくり、自然のなかで楽しむ生活を「ビレッジDX」と位置付けていた。そのキーワードが「シコウ」だった。「思考」を凝らし、「試行」錯誤し、自らの手で「施工」もする、そして「至高」の現代集落を創るとのことだった。同地区の空き家を活用して手造りで改装し、風力発電や有機農業、そしてリモートワークを手掛ける、そんな生活を目指す、と。
生していて、きょう11日午前11時34分に震度3の揺れがあった。「千年に一度」「数千年に一度」と地震の専門家が称する今回の地震が数カ月や数年で収まるのかどうか。
そして提案として、輪島市の高校生たちは地震を体験しており、さらに地域の人たちから「聞き書き」することで、次世代にこの地震の記憶を伝えてはどうかと述べていた。
震災関連予算は「生活の再建」「生業の再建」「災害復旧」の3本柱となっている。生活の再建については、仮設住宅の整備やみなし仮設住宅の確保、物資の支給といった「災害救助法に基づく応急救助」に2492億円を充てる。住宅の損壊(全壊、半壊、部分損壊)が6万戸にも及ぶことから、応急仮設住宅を3月末までに4千戸着工する。全壊の世帯を対象に300万円、半壊の世帯に最大で100万円を支給することにし、31億円を計上している。(※震災で焦土と化した輪島市河井町の朝市通り=2月6日撮影)
は見附島を望む同市宝立町の市有地で、6棟で計90戸が建つ。小さな棒状の木材を差し込んでつなげる「DLT材」を使用する。DLT材を積み上げ、箱形のユニットを形成し、これを組み合わせて6、9、12坪の住戸をつくる。内装は加工せずに木のぬくもりを生かす。
ーテン布が張られているが、プライバシー確保のために透けない。中にあるベッドもダンボール。まさに環境と人権に配慮した間仕切りだった。(※写真・中は、坂茂建築設計公式サイト「令和6年能登半島地震 被災地支援プロジェクト」より)
るには水深2.5㍍から3㍍が必要とされ、今月16日から海底の土砂をさらう浚渫(しゅんせつ)作業が始まっている。当面の工期は3月28日までだが、さらに延長される見通しのようだ。
ンスを構築し、将来の世代のために半島の生物多様性を確保しようとしている)
の知恵と執念を感じる。千枚田は持続可能な水田開発の歴史的遺産、そしてレジリエンスのシンボルだ」と応えていた。
きょう金沢は午前11時で20度の気温だった=写真・上=。そして、金沢地方気象台は北陸地方で「春一番」が吹いたと発表した。急テンポで冬から春へ移ろっている。
を出すのは「山町(やまちょう)」と呼ばれる府中・鍛冶・魚町の3つの町内会。それぞれ1台の山車が神社に奉納される。(※写真は、七尾市役所公式サイトより)
でか山巡行はじつにダイナミックだ。何しろ民家の屋根より高いでか山がのっそりと街を練る光景はまさに怪獣映画に出てくるモンスターのようではある。そして、市民が積極的に参加し、にぎやかな雰囲気だ。中でもでか山を引く綱を携える元気な女性グループがいる=写真・下=。粋なスタイルで、なんと表現しようか、オキャンなのである。つまり「おてんば」。祭りを楽しんでいるという表情だ。彼女たちの存在が、この祭りをとてもあか抜けしたイメージにしている。
震災後に奥能登に初めて入ったのは1月5日だった。金沢の自宅から能登町に行くまでにじつに6時間かかった。道路があちらこちらで崩れていて慎重に運転しないと道路の割れ目にタイヤを落とし込んでしまうことになる=写真・上=。また、救急車など緊急車両が頻繁に往復していてそのつど道路の左側に寄って道を譲る。この日、能登への往復だけで13時間かかった。帰りは夜になり暗闇に。穴水町に入ると1カ所だけ照明がついている店舗を見てホッとして店内に入った。ドラッグストア「ゲンキー」。入り口には販売用のペットボトルの水が積み上げてあった。震災翌日の2日から営業を再開しているとのこと。ただ、余震もあり棚の商品などが床に落ちて、店員が懸命に床を掃除していた=写真・下=。
店長らしき人に片付けと営業を同時にやるのも大変ですねと声かけすると、「店をはやく開けることが地域の安心につながるということで、きょうは本社から片付けの手伝いに来てくれています」とのことだった。奥能登の2市2町には6店舗あり、営業を再開しているとのことだった。