☆能登の歴史を語る「上時国家文書」 倒壊家屋から救出
能登には平家伝説が数々ある。能登半島の尖端、珠洲市馬緤(まつなぎ)集落に伝わる言い伝えだ。平氏と源氏が一戦を交えた壇ノ浦の戦い(1185年)で平家が敗れ、平時忠が能登に流刑となった。時忠は平清盛の後妻である時子の弟であったものの、いわゆる武士ではなく、「筆取り武士」と呼ばれた文官だったこともあり死罪は免れた。
その時忠を源義経が能登に訪ねて来た。兄・頼朝と仲違いし追われ、奥州・平泉に逃げ延びる途中に加賀の安宅の関をくぐり、そして能登に流された時忠のもとに来た。一説に、義経の側室だった蕨姫は時忠の娘で父親とともに能登に流されていたので、義経は蕨姫に会いに来た。義経の一行がしばらく滞在するため、この地に馬を繋いだので、「マツナギ」という地名になり、その後「馬緤」の漢字が当てられた。
伝説の続き。その時忠の子孫が輪島市町野町の時国家とされる。2軒ある時国家のうち丘の上にある「上時国家」は去年8月まで一般公開されていたので、これまで何度か訪ねた。入母屋造りの主屋は約200年前に造られ、間口29㍍、高さ18㍍に達する。幕府領の大庄屋などを務め、江戸時代の豪農の暮らしぶりを伝える建物でもある。国の重要文化財指定(2003年)の際には、「江戸末期の民家の一つの到達点」との評価を受けていた。
時国家を学術調査したのが歴史学者の網野善彦氏(1928-2004)だった。1980年代から古文書調査を行い、時国家が北前船の交易ほか山林経営、製炭、金融などを手掛ける多角的企業家だったことが分かった。さらに、時国家が船を用立てるために、いわゆる土地を持たない「水吞百姓」の身分の業者から金を借りていたことから、「百姓」という言葉は農民と理解されてきたが、むしろ多様な職を有する民を指す言葉ではなかったかと指摘している(網野善彦著『日本の歴史をよみなおす』)。
網野氏が読み解いた膨大な上時国家文書8千点余(石川県指定文化財)が、元日の地震で家屋の下敷きになった。厚さ約1㍍におよぶ茅葺の屋根が地面に覆いかぶさるように倒壊した。メディア各社の報道によると、今月20日に国立文化財機構文化財防災センターのスタッフ、石川県教委や輪島市教委の職員、大学教授ら20人が「文化財レスキュー」活動を行い、主屋と離れを結ぶ廊下に保管されていた古文書を運び出した。一部に水ぬれやカビが見られ、現地で修復作業が施されるようだ。
古文書は地域の歴史を語る貴重な史料でもある。被災家屋の解体が本格化するのを前に、そして梅雨の季節を前に懸命な文化財の救出活動が行われている。
(※写真・上は、上時国家の賓客をもてなす「大納言の間」=2010年8月撮影。写真・下は、能登半島地震で倒壊した上時国家の主屋=2月22日撮影)
⇒23日(火)夜・金沢の天気 くもり
け崩れが起き、集落が孤立した。さらに、がけ崩れで谷川がせき止められる「土砂ダム」ができ、各地で民家や集落が水に浸かった。また、隆起して白くなった海岸線が何㌔にも渡って続いていた。このリアルな能登の被災地の状況を知ることができたのはテレビ映像より、むしろドローンによる画像だった。(※写真は、土砂ダムで孤立した輪島市熊野町の民家=1月4日、国土交通省TEC-FORCE緊急災害対策派遣隊がドローンで撮影)
数字だけを眺めると、たとえば珠洲市の断水は当初4800戸(1月4日時点)だったので、遅い早いは別として徐々に復旧している。先日(4月15日)、1930棟の住宅が全半壊した穴水町を訪ねた。仮設住宅の近くを通ると、洗濯物が干してある様子が見えた=写真=。ささやかな光景だが、生活実感が見て取れ、地域の復旧へと動き出しているようにも思えた。
出ると目がかゆくなり、のどに違和感も感じる。毎年のことだが、何ともやっかいな「空からの贈り物」だ。
石川県農林水産部は、奥能登地域の4市町(輪島、珠洲、穴水、能登)の農家を対象に調査を行うなどして、ことしのコメの作付け面積を推計した。それによると、去年の6割程度の1600㌶にとどまり、また例年この時期に行われるカボチャやブロッコリーといった野菜の作付け面積は去年の5割程度の35㌶になる見通しであることが分かった(4月17日付・NHK石川ニュースWeb版)。ただ、この調査は欠損したため池や用水路が4月中に復旧見込みとして算定したもので、実際に水を引いてみないと分からない水田もあり、作付け面積が変動する可能性がありそうだ。
NHKの地震速報で、「南海トラフが来たか」と誰もが一瞬思ったのではないだろうか。今回の地震は、南海トラフ巨大地震の想定震源域内で起きているからだ。NHKの解説によると、想定震源域内でM6.8以上の地震が発生した場合、気象庁は「南海トラフ地震臨時情報」を発表するが、今回はM6.6で基準未満だった。また、南海トラフ地震は、フィリピン海プレートと陸側のプレートの境界部分が震源となるが、今回は深さ39㌔のフィリピン海プレートの内部で発生したと推定され、地震のメカニズムが異なり、南海トラフ地震の可能性が高まっているわけではないというのが気象庁の見解のようだ。
話は変わる。元日の地震で震度5強を観測した金沢市田上新町ではがけ崩れが起き、民家4軒が道路ごと崩れ落ちた=写真・上、1月2日撮影=。場所は金沢大学角間キャンパス隣地の山手の住宅街だ。きのう現地に行くと、崩れ落ちた4軒の民家は解体・撤去されていた=写真・下、4月17日撮影=。現場を眺めながら考えたこと、それは「事はこれで終わったのだろうか」という思いだった。2月13日に現場を訪れたときに、この近くに40年余り住んでいるというシニアの女性から聞いた話だ。「このあたりで30年前にも大雨で土砂崩れがあって、2度目なんですよ」と。
きく傾いている。地震前日の大みそかに多くの人たちが除夜の鐘をつきに訪れただろうと思うと、地域の人たちが鐘楼堂を見るたびに感じるであろう緊張感が伝わってくるようだった。あの鐘楼堂はどうなったのだろうかと気になっていた。
前回ブログの続き。能登鹿島駅の桜を見て、その後、穴水町で16人が亡くなった由比ヶ丘地区をめぐった。一帯には大量の土砂が積み上がり、巻き込まれた家や車が流されていた。現場はそのまま残されていた=写真・上=。今月12日に当地を訪れた天皇、皇后両陛下が黙礼をされた場所でもある。海岸沿いを走り、能登町鵜川地区に入った。古い伝統的な家並みが多い地区で、全壊の住宅も目立った。
そして、同じ能登町の白丸地区に入った。同町ではもっとも被害が大きかった地区でもある。白い砂浜が円を描くような風光明媚な地区で、地名そのもの。ここに地震、火災、そして津波の複合災害が起きた。火災に見舞われた一帯では黒くなった車や焼け残った瓦が積み重なっていた。気象庁によると、4.7㍍(痕跡高)の津波が200世帯の白丸地区に到達した。発生から3ヵ月半がたっても、大量のがれきが散乱していた=写真・下=。
無人駅のホームに入ると、線路を囲むようにヨメイヨシノが咲いている。アマチュアカメラマンや見学に来た人たちが200人ほどいただろうか。昭和7年(1932)に鉄道の開通を祝って桜が植えられた。それ以降も鉄道会社や地域の人たちが少しずつ植え、いまでは100本余りのソメイヨシノやシダレ桜が構内を彩っている。
のと鉄道は今回の地震で線路が歪むなど大きな被害に見舞われた。今月6日、およそ3ヵ月ぶりに全線での運転再開にこぎつけた。震災直後のガタガタとなった線路を実際に見ている能登の現地の人々にとっては、満開の桜のトンネルと列車の様子を見てようやく日常への一歩と実感しているかもしれない。
る鳳凰が舞う姿を蒔絵で描いたボールペンだった。「輪島塗で意外なものが創れる」。これまでの印象が覆されたのではないだろうか。では、こうした輪島塗の創造的な作品はどのようにして創られたのか。
去年の4月7日、田谷漆器店の工房を見学させてもらった=写真・下、右の人物が田谷昂大氏=。創業200年の老舗で、田谷氏は十代目となる。地元では輪島塗の製造販売店を「塗師屋(ぬしや)」と呼ぶ。
もう40年も前の話だが、当時、新聞記者として輪島支局に赴いた。そのとき、当時の社長の五島耕太郎氏(1938-2014)と取材を通じて知り合った。チャレンジ精神が旺盛で、「ジャパン(japan)は漆器のことなんだよ」と言い、海外での展示販売などに積極的だった。また、「輪島塗は器や盆だけじゃない。ピアノも輪島塗でできる」と話していたことを覚えている。バブル景気の走りのころで、輪島塗業界には勢いがあった。その後、五島氏は1986年に輪島市長に就き、3期12年つとめた。そして漆器業界はバルブ経済絶頂には年間生産額が180億円(1991年)に達した。横倒しになったグランドピアノはそんなころに作られたものかと憶測した。
方舟』」にある大皿にも金継ぎが施されていた。松の木とツルとカメの絵が描かれ、めでたい席で使われたのだろう。それを、うっかり落としたか、何かに当てたのだろうか。中心から4方に金継ぎの線が延びている=写真・下=。大正か昭和の初めのころの作か。金継ぎの皿からその家のにぎわいやもてなし、そして「もったいない」の気持ちが伝わってくる。 