☆パリ五輪の華やかな演出 佐渡金山がユネスコ世界文化遺産に
きょうはパリオリンピックが開幕し、セーヌ川で開会式が行われ世界中が湧きたった。NHK放送の開会式の模様(録画)を視聴していると、日本など各国・地域の選手団は雨の中、6㌔にわたって船に乗ってパレードした。そし
て、巨大な聖火台に点火すると、聖火台が気球のように浮かび上がるという異例の光景が繰り広げられた。パリらしい演出で華やかに平和の祭典が幕を開けた。(※写真・上は、パリオリンピックの開会式で気球の様に浮き上がる聖火台=NHK番組)
このニュースも心から祝福したい。ユネスコ世界遺産委員会の会議が日本時間のきょう27日午後、インドのニューデリーで行われ、日本が推薦する「佐渡島の金山」が全会一致で世界文化遺産として登録することが決まった。2021年10月、佐渡市で世界農業遺産(GIAHS)認定10周年記念フ
ォーラムが開催され、自身も参加した。佐渡の金山をめぐるツアーが興味深かった。テーマは「佐渡GIAHSを形成したジオパークと佐渡金銀山、そして農村の営み」。
佐渡の金山跡に入ると、ガイドが詳しく説明してくれた。島内には55の鉱山があり、江戸時代から約390年間に産出された金は78㌧、銀は2330㌧に上った。佐渡金山は幕府直轄の天領として奉行所が置かれ、金銀の採掘のほか小判の製造も佐渡で行われた。鉱山開発の拠点となった佐渡には国内各地から山師や測量技術者、労働者が集まった。最前線で鉱石を掘ったのは、「金穿大工(かなほりだいく)」と呼ばれた採掘のプロだった。(※写真・下は、佐渡金山のシンボルとなっている採掘跡「道遊の割戸(どうゆうのわりと)」)
世界文化遺産「佐渡島の金山」として申請対象になっていたのは「西三川砂金山」と「相川鶴子金銀山」の2ヵ所。金銀の生産体制と技術に関して道具や記録、そして採掘された坑道が記録として残っている。さらに、鉱山と集落が「遺跡」として一体化して現存していることで世界遺産の価値が高まっていた。
申請の段階で問題もあった。対象時期を「戦国時代末~江戸時代」とした点だった。この鉱山には戦時中、朝鮮半島からの人たちが「強制労働」をさせられたと韓国側からクレームがあった。今回の決定で、世界遺産委は日本に対し、鉱業採掘が行われたすべての時期を通じた歴史を説明することを勧告した。韓国側が主張する「強制労働」が、無給で強制だったのか、有給だったのか、労働条件・待遇などの記録を記載して説明することなる。
明治・大正、そして戦時下を経て、佐渡金山は平成元年(1989)に長い歴史の幕を閉じた。最盛期の江戸時代だけではなく衰退に向かう歴史的事実もすべて説明したほうがよい。世界文化遺産は栄枯盛衰の歴史そのものに価値がある。
⇒27日(土)夜・金沢の天気 はれ
にある大宮坊の敷地まで行く。見るのは初めてだったが、まさに白い華麗な花だ=写真・上=。よく見るヤマユリよりも大きく、ひとつの花で25㌢ほどだろうか。茎は点在していて、1茎に12の花をつけているものもある。石動山ユリは、修験者たちの厳しい修行を見守っていた花なのだろう。
逮捕のニュースを知って、熊本地震ときのフェイク情報を思い出した。2016年4月に熊本でマグニチュード7.0の地震が発生したとき、熊本市動植物園のライオンが逃げたと画像をつけて、当時ツイッターでデマを流したとして偽計業務妨害の疑いで神奈川県の男が逮捕された。災害時のデマで逮捕されるのは国内ではこれが初のケースだった。男は2017年3月に「反省している」として起訴猶予処分となった。(※写真・下は、ライオンが逃げたとの偽情報を拡散させた当時のツイッター)
た。左が稲光の前の夜の風景、右が稲光が走った瞬間の風景。稲妻はすでに遠ざかって、音は小さく聞こえる程度だが、光は何度も走る。まるで光のショーのような光景だった。しばらく眺めていた。
志賀町、小松市、白山市、内灘町)による合同の審査会がきのう23日に開かれた。能登地区以外の小松市、白山市、内灘町の関連死の審査は初めて。審査会は今回で4回目で、医師と弁護士による5人の委員が関連死を審査する。
ボランティア活動の運営に携わる石川県石材組合連合会の番作一之会長は「全国から職人に来ていただき助かっている。墓を直す機械を墓地に入れるためにもまずは通路の安全確保を進めたい」と話した。地元石川の職人を含めて延べ70人があす24日まで七尾市のほか輪島市や穴水町の寺院も訪れ、墓石の仮復旧を進める。
院は山門(国文化財)などは無事だったものの、33㍍の廊下「禅悦廊」(同)が崩れるなどブルーシートがあちこちに被せてあった。
近所の人と話をすると、「石屋に修理を依頼しているが手が回らんようで、墓参りに間に合うかどうかは分からん」とのことだった。能登の墓参りは8月の旧盆が多い。以下は個人的な想いだ。被災した人たちの生活再建が優先で、墓石はその後でも致し方ない。修理の順番待ちで2年かかろうが3年かかろうが、墓参りを絶やさないことが何よりの先祖供養ではないだろうか。
たものの、水温が低くなりすぎるなど生育環境が悪化して死に至った。(※写真は、2018年9月に撮影した「のとじま水族館」のジンベエザメ)
口」(電話など)を開設し、工事業者を紹介していほしいといった被災者からの希望に応じて工事業者を手配する仕組みを設けた。
公費解体などの作業に追われている被災者や作業員の人たちも多く、熱中症になるのではないかと気になる。(※写真は、金沢の自宅前から撮影。18日午後0時24分ごろ)
走行して思ったことは、この道路を使用するのは12月末が限度だろうと。というのも、能登の冬の訪れは例年だと、12月後半だ。積雪も多い。去年2023年12月21日から22日かけて能登では60㌢もの積雪があった。同じ積雪があった場合、アップダウン勾配や左右急カーブの道路では、除雪車の走行すら難しいのではないだろうか。(※写真は、対面通行が可能になった「のと里山海道」。道路の崩落現場=右=では転落した車が生々しい姿で残っていた)
能登の人たちが大規模な盛り土の崩落現場を目にするのは3回目となる。前述の、ことし元日の能登半島地震での「のと里山海道」、1985年7月11日の能登線事故、そして、2007年3月25日の能登半島地震で起きた各地の道路崩落だ。
高めるなど強靭な道路が造られている。このため、新たな道路では元日の地震で盛り土などでの崩れはなかった。また、のと里山海道の橋梁では橋脚の部分を鉄板で耐震補強が施されていたため大きな損壊などはなかった=写真・下=。