★クワガタにかまれる

★クワガタにかまれる

    何十年ぶりだろうか、クワガタにかまれた。金沢大学角間キャンパスで「里山自然学校」の研究員のNさんが捕ってきたノコギリクワガタ=写真=が珍しく、写真に撮ろうと思って手に乗せたところ、親指をガブリとかまれた。N氏は「相手も必死なんですよ」と笑っていたが、写真でも分かるように、角にノコギリのような鋭いギザギザがあり、刺すような痛さだった。
ノコギリクワガタ 
   Nさんがクワガタを採取したのも、実はテレビ出演の依頼からである。夏が近づくと、どうしても夏休みが話題となる。そして、夏休みと言えば、昆虫採取など夏休みの宿題向けの話題が定番だ。そこで、早々とテレビ局から電話があり、「夏休みの企画向けにご協力お願いします。ついでに実物もお願いしますね」と依頼され、Nさんがさっそく収録用にと捕獲してきたというわけだ。とうわけで、私がかまれたのもめぐりめぐって言えば、テレビ局にかまれたようなものだ・・・。(「自在コラム」のメディア時評で、私はテレビ局の悪口ばかり言っている)

   今回も取り留めのない話になりそうだ。私をかんだノコギリクワガタを見ていると、映画「スター・ウォーズ」の悪役ダース・ベーダーにどこか似た感じがあり、「コイツめ」と思ってしまう。憎んではいない。むしろ、クワガタにかまれる「ぜいたく」を楽しんだのだ。50歳。それを「ぜいたく」と感じる年代に入ったともいえる。

【追記】 …と、書いてブログを午前中にアップロードした。すると、研究員のNさんからは、「宇野さん、かまれて『ぜいたく』と書いていたけど、かんだのはオスで、もしメスがかんでいたらもっと違った内容になったかもしれないね。メスがかむと本当に痛いよ」と。これには返事のしようがなかった…。

⇒8日(金)午後・金沢の天気   晴れ

☆人生、ネジバナのように

☆人生、ネジバナのように

   金沢大学の入り口は長い上り坂になっている。自転車をこぐか、汗をかきながら歩くので、これまで余裕がなく気がつかなかったのだが、車路と歩道の分離帯にネジバナが数本咲いている。ネジバナとはよく言ったものだ。まるでコイルが幹に絡まるように可憐な花をいくつもつけている。花はラン科で、なるほどよく見ると花の一つひとつが端整な感じがして美しい。愛好家の間では「小町蘭」と呼ばれているらしい。

   このネジバナをいろいろと調べて見ると、どこか人間臭くて面白い。公園や工事現場や分離帯には咲くくせに、鉢植えで栽培しようとすると意外と苦労らしい。ようするに、人の手で育てられるより、広場の直射日光が大好きなのだ。もう少し詳しく言うと、ラン科の植物を種から育てるにはラン菌という菌がないとうまく育たない。従って、新しい鉢に新しい土を用意してそこに種をまいても発芽しないのだ。さらに、ネジバナが植えてあるプランター内で種から発芽というのが最も確実だが、ネジバナは同種での密植を嫌う。スペースが限られたプランター内では数は育たないのである。しかも、虫がいないと受粉できない。手がかかる。

   この気難しさがかえって愛好家を刺激して研究せしめ、このような栽培方法が編み出された。ラン菌がないと発芽しないので、愛好家は同じラン科のエビネの親株の根元にネジバナの種をまく。発芽後、子苗の根がしっかりとラン菌を保有したら、親株の根元から掘り取って別の鉢に植え替えるという方法だ。人間で言えば、自立できるまでは親の元で育てるが、親と対立する傾向が強いので、早めに独立させる、というわけだ。ただ、人もネジバナも独立させるタイミングが難しい。

   ともあれ、ネジバナは育てにくく個性が強い。そしてその個性にスネ者の人間臭さを感じる。「人生訓」風に表現すれば、ネジバナという花のイメージはこうなる。「同根より生ずれど、和して同せず。荒れ野を好み、陽を友とす。端整にして飾ることなし、人に好かれども、おもねることなし。一人一人生、ねじれたるを己が性分とし天道に咲く」。まるで、人生を漂泊する詩人のようではないか…。

⇒6日(水)朝・金沢の天気  曇り

★すがすがしい謝罪

★すがすがしい謝罪

   自民党の岡田直樹参院議員(石川県選挙区)がテレビ朝日の番組「報道ステーション」で事実に反する内容が取り上げられたとして、6月17日、放送法に基づく訂正放送と謝罪を求める通知書をテレビ朝日あてに送っていた問題は、「報道ステーション」(4日放送)の番組の中で古舘伊知郎キャスターが岡田氏に謝罪し、一応けりがついたかっこうだ。

     いきさつはこうだった。6月10日、北朝鮮への経済制裁を検討する参院拉致問題特別委員会で、参考人として呼んだ拉致被害者の家族代表の横田滋さん夫妻に、岡田氏は「聞くに忍びないことをお聞きしますけれども」と夫妻の心境を気遣いながらも、北朝鮮に経済制裁をすれば、めぐみさんが本当に殺されるかもしれない、その覚悟のほどはどうですか、とたずねた。それに対し、横田氏は「それを恐れていれば結局このままの状況が続く」と経済制裁を強く求めた。岡田氏とすれば、「家族はリスクを覚悟して経済制裁を求めている。だから、政府もやるべきだ」というセオリーで、慎重な言い回しだった。これには、横田夫妻も、参考人として発言の機会が与えられたことに対して、岡田氏に感謝をしていた(6月16日付「救う会全国協議会ニュース」)。

    ところが、横田さん夫妻が参考人として出席した特別委員会の様子をニュースとして取り上げた10日夜の「報道ステーション」で、古舘キャスターが、岡田氏の質問に対し、「北をとっちめたいと思うあまり、まるで非常に苦しい立場にいるご夫妻に、この覚悟はありやなしやと聞いているふうに聞こえる」などとコメントし、「無神経な質問」と決めつけたことから、岡田氏は「事実とは違う、名誉を毀損された」と謝罪と訂正放送を求めていた。

    確かに映像の一部だけを見れば、無神経な質問に見えるかもしれない。しかし、前後の隠れた文脈をきちんと伝えてこそニュースとしての論理が成立するのである。自分に都合のよい部分の映像を抜き取って構成すれば、ただのプロパガンダ映像である。

    謝罪が言い訳がましかったりすると、謝罪の価値が半減するどころか、かえって相手を反発させることになるものだ。その点、4日の古舘キャスターの「訂正」は「前後(の文脈)を忖度(そんたく)せずに発言してしまった」「今後は、ご本人の真意を問いただし、その上でコメントしたい。岡田議員および関係者に多大な迷惑をかけたことをおわびします」と素直に謝罪していた。見ていて違和感はなかった。かえって、「古舘は成長したのではないか」と思わせるほど。すがすがしい謝罪だった。

 ⇒5日(火)午前・金沢の天気  雨

☆老翁のつぶやき

☆老翁のつぶやき

   ワシは家じゃ。金沢大学の角間におる。老体を押して、この春、コブシの花が咲くころに白峰の山から、前田(利家)さんの金沢に下りてきたのじゃ。長生きをしてみるもんじゃ。ワシが越前におるころ、前田さんが金沢にきたのじゃ。あのお方は越前の武生にもおられさったのでよう知っとる。剛毅なお方じゃが、口が軽てな、「家康を殺れ」と死出の床でいうたもんで、お松さまは江戸に人質にとられる、その話を聞いた家来は目を突かれ耳を切られて大変じゃった。三代さんは鼻毛まで伸ばしておどけて見せ江戸の将軍さんに恭順したのじゃ…。この話でおわかりのとおり、ワシはもう四百年余りも生きているのじゃ。

   茶がほしいの~。昔、家はみな働き者でな、ワシはもともと養蚕農家だった。蚕を育てとった。今でも白峰に牛首紬というのがあるじゃろ、あの蚕糸はワシらがつくっとたんじゃ。老若男女が寄り添ってのお、それはそれはにぎやかじゃった。2階の天井を見上げみなされ、梁(はり)が合掌造りになっておろう、それがワシがもともと養蚕農家という証拠じゃて~。

   冬もにぎやかじゃったよ。1階の奥に仏間にあるじゃろ。ワシらは仏間とは呼ばん、「ドウジョウ(道場)」と言うのじゃ。ご法師さんがござって説教をされる、それを何度も何度も繰り返して空で覚えるのじゃ。極楽浄土を思えば、現世の苦などなんでもない。ひたすら念仏を唱えるのじゃ。大学に来てからはセミナールームと呼ばれておるが、今も昔も心して学ぶもんのドウジョウじゃ、あの部屋は…。

   そういえば、珍しい客人が大勢ござったのお、亜米利加のプリンストンとかいう大学の。餅をついて楽しそうじゃった。女子(おなご)でも体格がいいのはキネを軽々と持ち上げとったのお~。米一俵を持たせてみてもよかったかの。たくましいもんじゃ。長生きはするもんじゃ。餅の話をしたら喉が枯れてしもうた、お茶がほしいの~。

   ワシのことを言うとった何とかという副大臣がおったのお。そう、塩谷という名前じゃった。ワシはあと百年ほど生きれそうじゃと人づてに聞いて、「100年たった周囲の建物はなくなってとる」と言われたお方じゃ。ワシはあと百年生きたら、死なせてほしい。どうしても、もう一度というのなら、今度は海の夕日の見える丘の上に建ててほしいのじゃ。どっぷり暮れる夕日を眺めれば、五百年も生きた昔をうつらうつらと思い出だすじゃろ。もう、眠いワイ。

※プリンストン大学の学生45人の来館は6月30日、塩谷文部科学副大臣の来館は6月6日

⇒3日(日)午前・金沢の天気  曇り

★「ノアの箱舟」の梅雨

★「ノアの箱舟」の梅雨

   少年期に「ノアの箱舟」をテーマにした映画を見た。映画のタイトル名などは覚えていない。雨の恐怖とでも言おうか、大雨が来ると人類は洗い流される、と思ったものだ。それ以来、私にとって雨は恐怖の概念の中にある。

  「降れば土砂降り」とはこのことを言うのだろう。何しろ激しい雨である。北陸地方は先月28日から大雨。ここ金沢大学角間キャンパスもその例外ではない。きのう1日に撮影した写真(左)のように、私が「角間渓谷」と勝手に名づけている人造川もご覧の通り濁流が怒涛のように押し寄せ、水は赤茶けている。石積みは大丈夫か、と心配になる。そして、記念館「角間の里」前に市民ボランティアや養護学校の子供たちが植えたアワやキビ、トウモロコシなどの雑穀の畑の一部も水流にえぐり取られ、痛々しい。

   しかし、金沢地方気象台のきょうの予報は外れたようだ。朝までにまとまった雨となっていたが、すでにきのう夜半には峠を越し、きょうは青空も出て、梅雨の中休み。ところで、向こう一週間は、前線や気圧の谷の影響で曇りや雨の日が多く、期間の前半は前線の活動が活発となるため、降水量の多くなるところがある。最高気温は平年より高い日が多い。降水量は、平年より多い見込み。以上は、気象台のきょう午前11時発表の週間予報。来週も雨が降り、そして蒸す~。

⇒2日(土)午後・金沢の天気 晴れ

☆NHKのクッキー

☆NHKのクッキー

   先日、NHK金沢放送局の中継が金沢大学角間キャンパスの記念館「角間の里」であり、取材に協力したお礼にとクッキーをいただいた。缶入りで、NHKの焼印入りのクッキー=写真=も。お菓子をいただいたからという訳ではないが、新聞(30日付)で掲載された「受信料制見直しも」の記事についてはNHKにちょっと同情する。

   記事によると、政府の規制改革・民間開放推進会議は今月末にまとめる中間報告に、NHKを念頭に置いた「公共放送のあり方(受信料制度の見直し)」を盛り込む方向で検討に入り、地上波放送で、受信料を支払った世帯にだけ見せる「スクランブル化」の実現に向けた議論を行うというのだ。受信料を支払っている人と不払いの人との間で生じている公平性を保つため、スクランブル化の導入は不可欠という。

   NHKの受信契約数は昨年度末で初めて前年度割れし、前年度比28万件減の3662万件。受信料収入は74万件に達した不払い・保留の影響で前年度比1.1%減の6410億円だった。番組プロデューサーによる横領事件など一連の不祥事に対する視聴者の怒りが具体的な数字として表れてきたのは確かだ。

   しかし、視聴者が怒っているのは不払いの人とそうでない人のアンバランスではない。「ピンと背筋を立てて国営放送の使命を全うせよ、綱紀をただせ」と視聴者は言っているのだ。私自身は、現在の受信料収入ですべて賄うコスト改革を行い、税金を使わない経営をせよ、と言いたい。これが問題ともなっている政治家の介入をまねかない唯一の方策だ。また、NHKの防災・災害報道は情報収集力、持久力など民放は真似できない。「いざというときのNHK」であってほしい。

   スクランブルをかけるかけないの論議になると、実は地滑り的な受信料の不払い運動が起きる可能性があると想像する。「私はNHKを見ていない」と言う視聴者でも多少は見ているものだ。だから不払いにしようかどうかと迷っていても結局は払っている。スクランブルはそういう迷っている層の背中を押すことになる。「オレは払わない。来月から見ないからスクランブルをかけろ」の一言で受信料の支払いを拒否できる。

   こんなことが全国的で起き始めたらどうなるだろうか。受信料収入を維持するために膨大な数の営業スタッフを投入し、番組にかける経費が減らされるだろう。番組の質の低下がさらに受信料の不払いにつながり、それこそ「デフレ・スパイラル」になる。こうなると、大幅な税金投入が不可欠となり、政治家の関与の口実を与えてしまうことになるのだ。この意味で、スクンラブルが政治家に食べさせるクッキーになりはしないかと懸念するのである。

⇒1日(金)午後・金沢の天気 雨

★目奪う花、風通しよい館

★目奪う花、風通しよい館

   金沢市鳴和地区を歩いていると、歯科医院の前庭の花が美しかった。花の名前は分からなかったが、つい見とれてしまい、バスに乗り遅れてしまった。花の世話好きの歯医者さん、きっと近所に好かれているに違いない、と思った。

                 ◇
   金沢大学角間キャンパスの創立五十周年記念館「角間の里」は古民家を再生した建物である。最近分かったことだが、夏は風通しがよい。谷あいにあり、山から下りてきた風も、谷を上る風も通るのである。風が通るから湿気がこもることが少なく、この家が何百年と持った理由が理解できるような気がした。

   風通しがよいのは、何もこの古民家だけではない。学内も風通しがよい。少々会議が多い気もするが、これも通気をよくする一つの方策なのだろう。ただし、学内の情報が学生に向けて風通しがよいとは言いがたい。学生はポスターを見てくれているのだろうか。チラシを配っても学生の手が伸びない。シンポジウムの参加を呼びかけても、学生の数が少ない。何か風の通りが悪いのである。

   そこで、思案した結果、生協食堂の館内放送設備を使って、「ミニ放送局」をつくる計画を練っている。週二回、音声のみのインフォメーションである。大学の放送研究会も協力してくれることになった。情報の通りがよくなれば、学内はさらに活気づくのではないか。すっきりしない梅雨、季節の話題と感じてもらえばいい。

⇒30日(木)午後・金沢の天気 雨

☆ブログはメディアか

☆ブログはメディアか

  よく尋ねられる。「ブログはメディアになりうるのか」と。総務省の推測だと、2005年3月末時点の国内ブログ利用者数は延べ335万人、アクティブブログ利用者(少なくとも月に1度はブログを更新しているユーザ)数は95万人、2007年3月末にはそれぞれ782万人、296万人に拡大する、と。ブログ市場はさらにすさまじい。去年の34億円(関連市場含む)から、2006年度には1377億円(同)に達すると見込んでいる。確かにメディアは情報の流れという側面を持つので、これだけ勢いが増せば一つのメディアになる可能性が出てきたと言えなくもないが、私は率直に言って、「金にはなるが、メディアにはなれない」と思う。

   「メディアになれない理由」はクレジット(信用)の問題である。これをメディアと思うか思わないかは最終的に閲覧者が判断することであるが、果たしてブログにクレジットが保証されているか、これは否である。ブログは既存のメディアより自由な発言が手軽にできるし、ある意味で、草の根の市民が記述する一次情報でもあり魅力的ではある。が、情報の信憑性を裏付けすることは難しい。テレビですらいまだに情報を発信するメディアというより、エンターテイメントの単なるツールと見られる向きが強い。

    ただし、ブログも変化していくだろう。たとえば、ドキュメンタリストやジャーナリスト、お互いが信頼しあえる市民、ビジネスマン、研究者らが集い「専用ブログ」を構築し、質の高さを保つ努力をするのであれば、評価を得るサイトになるだろう。そうなれば、ブログ本来が持つ一次情報に限りなく近い、従来のメディアにはない価値を有したメディアになる可能性もある。

    現在、ブログを提供する事業者は110社余りと言われている。サービスが基本的に無料であり、ビジネスモデルは大丈夫かと懸念されたりもしている。今後、ブロガーが事業者の選別を行い、ブログのリストラクションも起こるだろう。その過程でより進化していくのではないか。

    私個人で言えば、ブログの画面に事業者が勝手に出会い系サイトのバナーを貼り出したら、別の事業者に乗り換えることにしている。書き手は事業者が考える以上に信頼性や著作者意識にこだわるものだ。ブログの価値を高めるということは、簡単に言うとこういうことなのだ。

⇒28日(火)午前・金沢の天気  曇り

★テレビ業界の歴戦の兵

★テレビ業界の歴戦の兵

  自分自身を評するに、短距離ランナーだと思う。ダッシュは速いほうだが持続力に難があり、マラソンランナーのように数時間も走りぬいて沿道をわかせることはない。人生も同じで、一つのことを極め、業界を長く生き抜く達人がいる。私が尊敬する東京の森川光夫さんはそんな人だ。10年来、師匠と仰いできた。テレビ業界の音楽プロデューサーの草分け的な存在である。

  前の職場、北陸朝日放送で初めてクラシック番組を手がけた。朝日新聞・浜離宮ホール(東京)で演奏されるオーケストラ・アンサンブル金沢の「モーツアルト全集」を収録し、番組にした。番組はシリーズ25回、5年にわたった。このシリーズを始めるに当たって、テレビ朝日「題名のない音楽会」のチーフディレクターから「私の先生です」と紹介されたのが森川さんだった。70歳はゆうに過ぎた人だが、現在でも楽譜を読みながらカメラのカット割りを緻密に組み立てる名人である。酒も強く、眼光が鋭い。権威ぶった人が嫌いで、馬が合った。

  その森川さんに転職の挨拶状をしたためたところ、後日、素敵な絵はがきが届いた。何度も読み返し、日々の糧にしている。

   「お葉書ありがとうございました。一つの山の頂上を極める間もなく、更に奥なる山に意義を見出して突進して行かれるご様子。この貴兄らしい踏ん切りのよい転進に心からの拍手を送る次第です。これまでの感性的な仕事の蓄積と、新しいアカデミックで社会性の強い仕事の融合はきっと魅力ある納得のいく世界が開けてくることでしょう。ご自愛の上、個性溢れる人生を営んで下さい。又いつか、折りがあったらお会いしましょう。」

   森川さんの鋭さは、「新しいアカデミックで社会性の強い仕事の融合はきっと魅力ある納得のいく世界が開けてくることでしょう」の一文で判る。「金沢大学の地域連携コーディネーター」としか自己紹介をしていないのに、この仕事の意味と意義をここまで洞察する人なのである。テレビ業界を生き抜いてきた「歴戦の兵(つわもの)」とはこんな人物像である。

⇒27日(月)午前・金沢の天気  曇り

☆眠りにつく夏

☆眠りにつく夏

  古民家を再生した金沢大学「角間の里」で活動する人たちの数が格段に増えた。きのう25日も、水菓子を作り、棚田の小屋を造り、遊歩道の整備、ホタルの観察会と実に150人余りが活動を繰り広げた。それらの活動を記録しようとカメラを携え自転車をこいだ。

  古民家は井戸水と似たところがあって、夏涼しく、冬は暖かい。外気は30度は超えているものの、家の中は風が通って涼しい。エアコンはいらない。天然の風で十分である。ふと板場の部屋を見ると、イ草の座布団を並べて男の子が気持ちよさそうに眠りについていた。この子はどんな夢を見ているのだろうか、そう思わせるほど、「見事な眠り」だった。

   この子が眠っていたころ、キャンパスの裏山にあたる、通称・キタダン(北谷)では、大人の「よいとまけ」の声が谷あいに響いていた。棚田に休憩所と野鳥の観察を兼ねた小屋を造るためである。大勢で重い槌(つち)を滑車であげおろしし、地固めを行う。かけ声で力を合わせないと、この重い槌はあがらないのである。普段使ったことのない筋肉を使うので重労働だ。

   市民ボランティアの人たちは言う。「大学でボランティアができることにとても意義を感じている」と。ありがたい言葉である。では、大学人はどんなことに存在意義を見出すのか。それは、未来の人づくり、子供たちへの教育である、と私は考える。子供たちの未来のために大人が存在するのである。

しかし、どうもその道理が逆転している。きのうのニュースで、国と地方の「借金」が1000兆円にのぼったと報じられた。誰がこの天文学的な借金を返済していくのか、60年国債を無責任に乱発して、その肩代わりを未来の子供たちにまでさせようとするのか。子供たちに責任はない。理不尽な話である。もし、その子供たちが大人になって「国を出よう」と言い始めたら、日本という国は一夜にしてデフォルト(債務不履行)に陥ってしまうではないか。

   よく寝る子は育つ。熟睡は健全な証拠である。この子たちが目覚める前に、大人たちは膨大な国の借金の始末をつける必要があるのだ。

⇒26日(日)午前・金沢の天気  晴れ