★あるカバの夏物語

★あるカバの夏物語

水槽にもぐったままのカバと目線が合った。じっとこちらを見つめる大きな眼(まなこ)だ。しかも見つめると人を離さない、眼力がある。この眼で50年余りも人を引きつけてきたのだろう。連日30度を超す真夏日、石川県能美市にある「いしかわ動物園」を先日ぶらりと訪れた。もうすでに夏バテ気味のチンパンジーの「イチロウ」やゾウの「サニー」に比べ、水中でじっとしているカバの「デカ」はなぜか存在感がある。

  いしかわ動物園へは7年ぶりだった。この動物園はもともと昭和33年(1958年)に金沢市卯辰山に開園した民間の娯楽施設だったが、経営不振のため、平成5年(93年)に閉鎖となった。それを石川県が買い取り、財団を設立して、平成11年(99年)に新規に開園した。目が合ったデカは紆(う)余曲折を経た動物園をじっと見続けてきた生き証人であり、その経歴は物語にもなる。

  デカが金沢の動物園にやってきたのは開園からしばらくたった昭和37年(62年)だ。その前は、「カバ子」と言い、キャラメルのメーカー「カバヤ」のキャンペーンで全国めぐりをしていた。昭和28年(53年)に生後1歳でドイツから日本にやってきてずっと全国巡業が続いた。戦後で動物に飢えていた子供たちの間で人気を博し、岡山県のキャラメルメーカーを一躍、全国ブランドに押し上げたのもデカの功績だ。キャラメルメーカー、そして動物園と、デカがもたらしたブランド価値は一体何億円の換算になるのだろう。

  デカが全国ニュースになったことがある。平成11年5月20日、デカが新しくできた「いしかわ動物園」へ引っ越した日だ。デカを乗せたトラックは石川県警のパトカー1台、白バイ8台に先導され、金沢から新動物園までの27ヵ所の信号をノンストップで走った。交通混雑を避けるために動員された警察官は80人にも及んだ。空には取材のヘリコプターが飛び交った。当時、私は地元テレビ局の報道制作部長だった。全国ニュースとして東京キー局に送り込むと、キー局の編集長からさっそく電話があり、「G7の首脳が来日した時のような映像ですね」と言われたの覚えている。

  外国のVIP並みの先導となったのには理由があった。車での揺れがデカに与える心臓への負担が心配され、そこで、ゆっくりとノンストップでトラックを走行させることになった。ところが、移動中のデカは終始落ち着いた様子で、到着後の獣医による診断もまったく問題はなかった。何しろ若いころは9年間も車に揺られて全国行脚をした「ツワモノ」だ、鍛え方が違うのである。
  
  人間にたとえれば百歳を超え「日本一長寿のカバ」というタイトルも持つ。しかし、高齢には勝てず老齢性白内障を患っており目はかなりかすんでいるはずだ。それでも人に愛嬌のある眼を向けるのは、水から伝わってくる振動方向に目を向けるせいだろう。デカが2.5㌧もの巨体を物静かに水槽に浮かべる様はまるで、かつて映画で見た、元銀幕のスターがロッキングチェアでゆっくりと身を揺らす晩年の姿にイメージを重ねてしまう。悲劇もあった。オスの「ゴンタ」(86年死亡)との間に6頭の子をもうけたものの、いずれの子も出産直後にゴンタの虐待を受けて死んでいる。でも、もうそのことは忘却のかなたとなっているに違いない。

  老い先はそう長くない。彼女の最期はおそらく再び全国ニュースになるだろう。「日本一長寿のカバ死ぬ」と新聞社会面の片隅に。カバとは言え、見事な生き様である。(写真提供:いしかわ動物園)

⇒26日(火)午後・金沢の天気  曇り

☆「クレーム」も集めてみれば…

☆「クレーム」も集めてみれば…

  4月に金沢大学に就職して、唯一「民間らしさ」を感じたのは金沢大学生協=写真=のスタッフの応対だった。レジ担当の言葉遣いや対応はまずまず、食堂も整然として清潔感がある。大学の周囲にはJUSCOを始め専門店が軒を連ねており、学生のニーズを取り込むことができなければ破綻してしまうから当然かも知れない。そのことを差し引いても、私の目には「生協は善戦している」と見える。なぜか、クレーム処理が巧みなのだ。食堂には「一言カード」の意見箱が備えられており、意見ごとの答えを「回答カード」にして、掲示板に貼り出す仕組み。さらに問答形式にしてまとめた冊子(「一言カード集」)にもしている。138ページ、1千件を超す膨大なクレーム処理集である。読んでみるとこれが面白い。以下、傑作選。

まずは「食べ物」のクレームからー。
Q:「キャビアとフォアグラを80円ぐらいで食べてみたいです。(工学・教職員)」
A:「ご意見ありがとうございます!トリフ1kg80000円-1人前10g800円、フォワグラ1kg10000円-1人前50g500円、キャビア(ベルーガ)50g6000円-1人前25g3000円。残念ながら無理ですね。僕も80円で食べられるなら家族皆連れて食事に来ますね。夢で食べてくださいね」

Q:「今日、ワサビ味のソフトクリームを罰ゲームで食べました。スゴイまずいです。なんであんなまずい商品をおくんですか?たくさん残ってたよ!!かわりに、ミックス(例えばチョコ+バニラ)を置いて。(法学・1年)」
A:「ご意見ありがとうございます。わさびアイスは、賛否両論ですね。以前出食した時はまずいと言われやめたんですが、再度出してほしいとのご意見で登場しました。食べ物ですので罰ゲームに使われるのは可哀相です(アイスが…)。また別のアイスを置くようにします。ミックスはメーカーにも問い合わせましたが、製造が不可能という回答でした。」

Q:「消費者は串を3本欲しいものです。なので、1本100円は高いです。せめて60~80円がいいですね。(理学・1年院生)」
A:「回答が大変遅くなり申し訳ございません。今回使っている串カツには肉魚以外に野菜も割りと入っているボリュームがある食材を使ったため、若干高めだったかもしれませんが、これでも試験期間のゲンかつぎのための奉仕品として設定した価格です(通常は1本120円の設定です)。ボリュームをかなり落としたものならば80円くらいでご提供できるものがあるかもしれませんので、またフェアをする際には探してみたいと思います」

ちょっとした「人生相談」にもー。
Q:「最近授業が眠いんです。(理学・2年)」
A:「いつもご利用ありがとうございます。自分も学生だった頃(金大出身です)を思いかえすと…そういう時もありましたねえ。特に教養科目で。あの頃はまだ1年~2年前期まで教養学部に所属して、集中的に教養科目だけを履修する時代だったので、集中力を維持するのに苦労した覚えがあります。一時的な解消法ですが、眠気のある時には両方のこめかみを指2本でグッと押さえると取れます。ほんのわずかの間ですが、ぜひ一度お試しあれ。」

手厳しいのは「喫煙問題」ー。
Q:「毒物でもあるタバコを平然と販売することのおろかさを認識された方が良い。生協で販売することは大学にとっても恥でもある。ちなみに医学部では敷地内全面禁煙である。(医学・4年)」
A:「ご意見にあるように、医学部キャンパスは全面禁煙化に伴い販売を中止しました。他のキャンパスや学部では分煙(喫煙スペースを設けている)となっており販売しています。この間、喫煙派・禁煙派双方のご意見を受けて、キャンパス事務局とお話をさせて頂きながらキャンパスや学部毎に対応させていただいています。角間キャンパスでは根強い喫煙派の方も多く、現段階では販売中止に至っていません。基本的には大学の意向に沿って協議をしながら進めさせていただきます。」

  責任の所在を明らかにするため回答文の末尾には実名が記載されているが、「自在コラム」では省かせてもらった。生協利用者のさまざまな声にきちんと文書で対応していて、その表現が対話として成立しているという感じだ。中でも気の利いた回答をする担当者はちょっとした人気者で、ファンレター風に書かれた意見カードもある。柔軟な発想でクレ-ムをうまく処理する達人たちが生協にいるのだ。

  この「一言カード集」は毎年5月に開催される生協の総代会(会社でいう株主総会)で配布されているが、あとイラストを付ければひょっとして出版物として売れるかも知れない。本のタイトルをちょと刺激的に「生協の店長出てこんかい!」といったふうにでもすれば…。

⇒23日(土)夕・金沢の天気 晴れ

★権利のクリアランス

★権利のクリアランス

  ことし3月、ライブドアがニッポン放送株をめぐって争奪戦を繰り広げたのはフジテレビの番組コンテンツをインターネットに取り込むためだった。この強烈なメッセージはテレビ業界には「ネット業界による乗っ取り」、インターネットのユーザーには「放送と通信の融合」、一部の政治家には「外資に対する警戒」とさまざまなかたちで伝わった。そして今月に入り、テレビ業界が動いた。日本テレビとフジテレビが相次いでインターネットによる動画配信ビジネスに参入すると表明し、フジは女子バレーボール世界大会の番組をきっかけに録画配信を行った。民放キーの3番目の動きとして20日、TBSがテレビ番組のネット配信とDVD化のための新会社を、ソフトレンタル店「TSUTAYA」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)と共同で設立すると発表した。

  新聞報道によると、記者会見したTBSの取締役は「番組出演者らの権利処理などの課題解決に向けた議論も進んでおり、積極的に展開したい」と述べた(21日付朝日新聞)。TBSはすでに、CMをとって番組を無料でネット配信するUSENの「GyaO」(ギャオ)にニュースの動画コンテンツを提供しており、配信のノウハウを着々と構築してきた。ある意味で満を持しての記者会見だったろう。

  一方でTBS取締役が「権利処理などの課題解決に向けた議論も進んでおり」とわざわざコメントしたのには背景がある。日本経済団体連合会(経団連)=写真=を調整役とした権利処理の動きが急速に進んでいるのだ。ことし3月に音楽、映画、放送など著作権関連団体と、映像コンテンツ関連の9団体で構成している利用者団体協議会が協議し、「最も権利関係が複雑」とされるテレビドラマのブロードバンド配信の際の使用料率を「情報量収入の8.95%」と合意した。配信による収入が100万円だった場合、8万9500円を著作権保有者に払うとの合意である。内訳はドラマのシナリオライターに2.8%、俳優に3.0%、音楽に1.35%、レコードに1.8%だ。ストリーミング配信を前提とした数字で、来年3月までの暫定ルールとなる。経団連はさらに権利関係者の許諾手続きをスムーズに行うためネット上でシステムを構築し来年度から運用を開始すると今月発表した。「権利のクリアランス」に向けた道筋が見えてきた。テレビ業界が堰(せき)を切ったように動画のネット配信ビジネスに参入すると表明したのはこうした理由からだ。

  芸術・文化とは言え、収益にかかわるこうした権利調整となると文化庁など官僚では仕切れない。権利調整という少々生臭い役回りを経団連が買って出たのは、おそらく政府筋から依頼を受けてのことだろう。実は、経団連とメディアの関係は浅くない。前記のニッポン放送の設立(1954年)にかかわったのが経団連で、当時副会長だった植村甲午郎氏がニッポン放送の社長に就く。植村氏は後に日本航空社長になる人である。また、海外メディアの特派員に対し取材のサポートを行っているフォーリン・プレスセンター(FPC)は経団連と日本新聞協会とが共同出資でつくった財団法人(1976年設立)だ。これは意外と知られていない。

  民放の黎明期、海外メディアの窓口、そして放送とインターネットを結ぶための著作権処理と時代のニーズに応じてメディア業界にその存在感を示してきたのが経団連だった。メディアだけではない、産業界の「仕切り役」なのである。

⇒22日(金)朝・金沢の天気   曇り

☆「メディアと極東ロシア」講義録

☆「メディアと極東ロシア」講義録

  金沢大学教養課程で講義を行った(7月19日)。テーマは「メディアと極東ロシア」。1992年1月にロシアのウラジオストクが対外開放され、テレビを中心とする日本のメディアが続々と極東ロシアに取材拠点を構えた。ところが、2000年を境に潮が引くように撤収を始めた。このメディアの動きは一体何だったのか、極東ロシアのこの15年の動きとリンクさせながら、その謎解きを行った。以下は90分の授業で講義の要約。テキストはちょっと長い…。

                 ◇

 初めに、日本のマスメディアが極東ロシアに眼を向けるにいたった経緯について、それまでの主な時代の流れについて、簡単におさらいをしておきましょう。1979年から始まります。この年、イスラム原理主義が勢力を伸ばしていたアフガニスタンでは、ソ連のコントロールのもとにあった政権があやしくなってきた。そこでソ連のブレジネフ書記長は政権を支えるために大規模な軍事介入に踏み切ります。いわゆる「アフガン侵攻」です。このアフガン侵攻は西側に衝撃を与え、翌年はモスクワでオリンピックがありましたが、日本を含む西側諸国のボイコットが相次ぎました。1981年にアメリカ大統領となったのは元映画俳優のロナルド・レーガンです。彼は「強いアメリカ」を標榜していました。そして、アフガンに駐留を続けるソ連を「悪の帝国」と名指しで非難したのです。いまのブッシュ大統領は「悪の枢軸」という表現を使っていますが、当時は「悪の帝国」が流行っていたわけです。そして、レーガンはソ連を意識して大規模な軍事拡大路線に走っていきます。その代表的なものが、「スター・ウォーズ計画」と呼ばれたSDI(戦略的防衛構想)です。

  ちなみに、ジョージ・ルーカス監督の映画「スター・ウォーズ」の初めての上映は1977年ですから、アフガン侵攻の2年前です。アメリカ人にとって、おそらくこのSDI計画は映画のように分かりやすかったでしょう。巨大な宇宙ステーションから発するレーザー光線でソ連のミサイルをたたくのだというイメージが真っ先に浮かんだと思います。この意味で、アメリカのペンタゴン、国防総省はこの映画を最大限に政治的に利用したといえるでしょう。

  こうした一連の流れがあった1980年代前半を「新・冷戦の時代」ともいいます。この新しい冷戦の構造が、逆にソ連とアメリカに対話を促すことになります。アメリカの過剰な軍事拡大路線は2兆ドルともいわれた国家財政の累積赤字を生み出すことになります。ここでレーガンは政策転換を余儀なくされ、ソ連との対話を再開することによって軍事費を抑制しようとします。ソ連もまた、アフガン侵攻で膨大な戦費が費やされ、国家財政が破綻寸前に追い込まれていました。こうして、1986年、お互いに困っていたアメリカとソ連の首脳がアイスランドのレイキャビックで会うことになります。アメリカはレーガン、ソ連はあのペレストロイカ(立て直し)を掲げたゴルバチョフでした。会談はうまくいかなかったのですが、両首脳がなんとか顔を合わせた。これだけでも随分と歴史的なこととなりました。そして、1989年11月、東西ドイツのあの「ベルリンの壁」が崩壊します。翌月の12月、地中海のマルタ島で、当時のアメリカのブッシュ、いまのブッシュ大統領のお父さんですが、と、ソ連のゴルバチョフが会談して、「東西の冷戦の終結」を宣言するわけです。このマルタ宣言では、長らく滞っていた戦略兵器削減条約(START)の早期解決が合意され、GATT、いわゆる関税貿易一般協定をはじめとする西側の経済システムにソ連を組み入れることも話し合われました。過去の軍備拡大のツケの清算だけでなく、ソ連の未来まで決めてしまった、そんな意義ある会談だったわけです。

  ゴルバチョフはこのマルタ会談の翌年1990年にノーベル平和賞をもらいます。おそらく有頂天だったと思いますが、それもつかの間、彼の人生とソ連という国、そして歴史が大きく変わります。1991年8月19日、ソ連の大統領となっていたゴルバチョフですが、改革路線に反対して昔ながらの共産党支配の復権をもくろむクーデターが身内から起こります。クリミア半島の別荘にいたゴルバチョフを、副大統領ヤナーエフ、首相パブロフ、国防のヤゾフら側近がゴルバチョフを軟禁して、非常事態国家委員会を宣言したのです。

  これに対し、この年の6月にロシアの大統領に当選していたエリツィンがクーデターへの抵抗を市民に呼びかけます。ロシアの共和国庁舎にたてこもるわけです。そして、クーデターを起こした側は強硬手段をとることができずに、2日後の21日にはあっけなくクーデターは失敗します。この事件をきっかけに、ゴルバチョフの時代が終わり、エリツィンの時代の幕開けやってきます。まず、エリツィンによって、ロシア共産党禁止の措置がとられ、ついで、ゴルバチョフがソ連共産党中央委員会の解散を勧告するわけです。これは、事実上の共産党の解体宣言となります。そして、その年の12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシーの3つの共和国の首脳がベラルーシーのブレストで会談し、ソ連が国際法上、その存在を停止したことを確認するわけです。つまり、ソビエト連邦が消滅し、現代史から消えた瞬間でした。

  ここからが本題です。激動したソ連の中央での動きをウオッチし、極東ロシアへの進出のタイミングをうかがっていたのが日本のマスメディアでした。ソ連が消滅した翌月、つまり1992年1月にウラジオストクが対外開放されます。では、それまではどうだったのかと言いますと、ウラジオストクにはロシア太平洋艦隊の司令部があり、外国人の立ち入りが厳しく制限されていた、いわゆる閉鎖都市だったわけです。隣国であり、地理的に日本に近かった極東ロシアですが、実はベールに包まれていたのです。

  その「ニュースの未開の地」に真っ先に乗り込んだのは日本のメディアではNHKでした。ウラジオストクの開放から4ヵ月後の5月には支局を開設しています。一番乗りというのは、幸運にも恵まれるもので、NHKが支局を開設した途端に、ロシア太平洋艦隊の弾薬庫が爆発するという大きな事故がありました。これをNHKは大々的に流しました。もちろん現地にもロシアのテレビ局はありますが、もし、対外開放されていなければわれわれ日本人が知ることができなかったニュースだったのかもしれません。

  この事故をもうちょっと詳しく説明しますと、ウラジオストクにある弾薬庫が爆発事故を起こしたというニュースはその後3日間も日本を始め、世界を駆け巡りました。極東ロシアの弾薬庫の爆発がなぜ世界的なニュースになったかというと、実は弾薬庫に保管されているであろう化学兵器に爆発が及んだ場合にはとんでもない事態になると予測されたからです。幸いにしてそうはならなかったものの、いくつかの問題を日本に問いかけることになりました。一つには、ロシアが遠い対岸の国ではなく、わずか800㌔の距離、空を飛んで2時間足らずで手が届く隣国であることに日本人がリアリティーを持って気づかされたこと。二番目に、ソビエトの崩壊と同時にロシア極東軍の士気の低下が他人事ではなく、日本の日常も脅かしかねないことが、「環日本海」をめぐる草の根の交流や、ビジネスチャンスの到来という明るい側面が大いに盛り上がっていた時だけに、冷戦時代には見えなかったいわゆる「影の部分」が見事に見えるようになったわけです。われわれは今後、この国とどのように付き合えばよいのかということを、われわれのお茶の間にも問題提起をした。あえて、言うならば、そのようなことを具体的に浮かび上がらせたのがこの爆発事故だったのです。

  では、実際に極東ロシアにどのようなマスメディアが拠点を構えたのでしょうか。テレビから行きます。一番早かったのが先ほどのNHKです。92年5月にウラジオストクに開設しています。次いでテレビ朝日系列のネットワークである北海道テレビ放送がちょっと遅れはしたものの、民間放送では初めてその年の7月にウラジオストクに開設しました。TBS系列の北海道放送は当初、93年にユジノサハリンスクに開設しましたが、95年にウラジオストクに支局を移転しています。移転した理由はあとで説明します。そして、日本テレビ系列のテレビ新潟が94年3月にウラジオストクに支局を開設しています。これだと、日本の民放の4大ネットワークの中でフジ系列がないのですが、ここはフジ系列の北海道文化放送が91年にモスクワに特派員を派遣し、ここから随時、極東ロシアの取材をカバーするという体制を組んでいます。

  今度は新聞ですが、全国紙や通信社で極東ロシアに支局を置いた新聞社はありませんでした。北海道新聞は「ブロック紙」と呼びますが、ユジノサハリンスクとハバロフスクに特派員を置きました。そして、中日新聞北陸本社は現地の通信員と契約し、定期的に記事を送ってもらっています。「います」というのは現在も続いているからです。

  このように見ますと、テレビが新聞より積極的に極東ロシアの取材をしているようにも思えます。これは新聞が消極的、あるいは怠けているということではないのです。実は、メディアの手法の違いです。簡単に言いますと、新聞は活字ですから、映像はなくてもよい。ロシア内部での第一級の情報がほしい、権力闘争にかかわる内部情報がほしい。すると限りなく権力機構に近づこうとします。ですから、権力と情報が集中するモスクワに陣取っていた方が便利となるわけです。そして極東ロシアはその都度、モスクワからカバーすればよいというふうになります。これが、全国紙や通信社のスタンスだったわけです。ただし、同じ新聞でも北海道新聞は極東ロシアは北海道の交流圏であり経済圏であるとの発想で、ユジノサハリンスクとハバロフスクの2ヶ所に特派員を置きました。北海道新聞、現地では「道新」と呼びますが、北海道とロシアは同じ地平線上にある、そんな取材の視点があるのではないでしょうか。

  一方、テレビ局はまず映像がほしい、それもスクープ映像がほしい、これまでどのテレビ局も紹介したことがない人々の暮らしや街の様子をテレビカメラで撮影したい、との欲求があります。しかし、モスクワからウラジオへは9000㌔も離れています。いざ何か事件が発生しても映像が間に合わなくなる可能性がある。そこで、極東ロシアに常駐のカメラマンを置いておこうと発想するわけです。もちろん、系列テレビ局のキー局がそれぞれモスクワに局を構えていますので、ある意味で、地域的にバランスのとれた適正な配置といえます。同じマスメディアでも、活字の新聞と映像のテレビでは、発想にこれだけの違いがあります。その考え方がくっきりと浮かび上がったのが極東ロシアにおける支局の配置でもあるわけです。

  もうひとつ注目したいのは、それでは、極東ロシアにはハバロフスクという都市もあるのに、なぜウラジオストクにテレビ局が支局を設置することにこだわったかというと、実は理由があります。先に紹介したTBS系列の北海道放送は当初、93年にユジノサハリンスクに支局を置いて、2年後の95年にウラジオストクに支局を移しています。その理由は、当時の日本の国際通信会社であるKDDなどが出資して、「ボストーク・テレコム」という会社をウラジオストクにつくります。実際のサービスの運用開始は93年の暮れになります。このおかげで、日本と極東ロシア間の国際電話だけではなく、取材したテレビの映像を通信衛星で伝送することが可能になったのです。

  それでは、極東ロシアではどのようなニュースが発信されたのでしょうか。ウラジオストクは軍隊の規律が緩んでいて、先ほども紹介した爆発事故などさまざま事件が起きていました。その象徴的な出来事が、軍による弾薬の横流しです。犯罪組織だけでなく市民の生活にまで影響が出ていました。たとえば、ナホトカの市場では子供が持っていた手榴弾が爆発して6人が死亡したり、ウラジオストクのバスターミナルで夫婦喧嘩に爆弾が使われたりと、横流しされた爆弾がらみの事件や事故が多く発生しました。

  また、インフレも凄まじいものがありました。91年、モスクワの地下鉄の運賃は5カペイカ、つまり、100分の5ルーブルでした。ところが、その5年後の96年になると1000ルーブル、1500ルーブルと数万倍にもなりました。また、インフレで経済社会が混乱すると、マフィアという犯罪集団がウラジオストクをはじめ各地で幅を利かせ始めます。当時、ウラジオオストクだけで、500ものマフィア集団があり、なかでも有名なのがロシア人による「セントラル」や、中国人系による「キタイスカヤ」といった5つの大きなグループが覇権を争っていました。ちなみに、北海道テレビが支局で使っていたのはトヨタのランドクルーザーですが、当時、地元のマフィアとも同じランドクルーザーを使っていたことから、取材のスタッフは必ず車の床下を覗き込んで爆弾が仕掛けられてないかチェックしたそうです。

  2000年、プーチンが大統領になって、ロシア全体の政治と経済が安定し、極東ロシアの治安や経済も徐々に回復してきます。すると、かつて、「ニュースの未開の地」として日本のマスメディアが一斉に乗り込んだ極東ロシアも、存在感が薄れてきます。すると、こんどは極東ロシアからのメディアの撤退が始まります。2000年4月には日本テレビ系のテレビ新潟、続いて同じく6月にはテレビ朝日系の北海道テレビ、そして、TBS系の北海道放送も翌年の9月にウラジオストクから撤退します。北海道新聞もユジノサハリンスクに取材拠点を一本化します。テレビ局で拠点を構えているのはNHKだけとなりました。

   こう見てみますと、日本のメディアはご都合主義だなと、政治や経済の混乱がなければ、さっさと撤退か、とそう思われる人も多いと思います。しかし、実は、日本のTVメディア側にも大きな問題があったのです。それは、ロシアではなく日本国内の経済的な混乱とでもいいましょうか、足元に火がついた状態になります。それは、97年暮れごろから顕在化した、山一證券や北海道拓殖銀行の破綻に見られる金融不安です。しかし、この時点では、まだ日本のマスメディアはまだ強気でした。金融不安があったにせよ、携帯電話やインターネット関連のあたらしい産業が好調で、テレビ業界の売上は落ちていなかったからです。ところが、翌年98年の夏ごろに、為替相場が急激に円安にぶれてきます。95年の夏には1㌦80円台だった為替相場が98年には140円台にまで円安になってきました。

  私はそのころローカル民放の報道制作部長として、系列全体のニュース基金を検討する立場にありました。その時の論議を振り返ってみますと、ニュース基金が運用難に陥ったのは、ニュース基金の支出の実に47%、半分ぐらいがドル建ての支払いになっていて、円安にぶれた為替相場の影響をまともに受けていました。これは他の系列局のニュース基金も同じ事情でした。そこで、次に出てきた論議が、円安は当面続くだろう、ニュース基金を防衛するために、ドル建て支払いと直結する海外支局のリストラをしようという論議に展開していったのです。そして、2001年までにはシドニー、ベルリン、ウィーン、香港、そしてウラジオストクといった海外支局が次々と統廃合されました。

  では、なぜ、ウラジオストクがリストラの候補上げられたかというと、先ども言いました、ロシア全体が政治的にも経済的にも安定してきた、テロ事件や事故は相変わらず多いものの、弾薬の大爆発といった政情不安に結びつく混乱はなくなった、普通の国になってきたというのがその理由だったと思います。そして、ちょうどその時期とあわせたように、日本における金融不安、円安または日本はこの先どうなるのかという、ニュース全体が内向きの傾向になってきた、そんなタイミングで極東ロシアからメディアが引いていったのではないかと思います。

  私は今回のテーマの冒頭で、極東ロシアにおける日本のマスメディアの動向を探ることによって、極東ロシアと日本のことがよく分かるといいましたが、いま考えてみますと、ひょっとしてテーマは逆だったのかもしれません。「極東ロシアから見えた日本のメディア」と表現してもよかったのかもしれません。

※ 授業後半は、元北海道テレビ放送ウラジオストク支局長の中添眞氏を交えてトーク

⇒21日(木)夕・金沢の天気  晴れ

★プリンストン大生からの礼状

★プリンストン大生からの礼状

  達筆というより丁寧な字である。おそらく日本のペン習字でトレーニングを積んだに違いない。去る6月30日、アメリカのプリンストン大学で日本文化を学ぶ学生45人が金沢大学角間キャンパスの創立五十周年記念館「角間の里」を訪れ、金沢大の学生と交流した。先日、彼らからお礼状をもらった。私あてではない。餅つきやいろいろをお世話をしてくれた里山メイト(市民ボランティア)に対してである。以下、外国人学生が書いた礼状の文面である。

  「拝啓 梅雨に入り、あじさいの花がきれいな季節になりました。先日、私達プリンストン・イン・石川プログラム(PII)の学生四十五人は金沢大学を訪れた間、色々お世話になりまして、どうも有難うございました。現在、我々PIIの学生は日本にまいりまして、日本語を学習したり、日本の社会や伝統的な文化を体験したりしております。皆お漬け物などの日本料理が大好きですけれども、その作り方を教えていただいたり。おもちつきをしたりしたのは金沢大学を訪ねて初めてでした。お陰様で、金沢大学の学生達と交流するのも、日本の文化を一層に深く理解するのも、できるようになりました。皆様のご健康やお幸せをお祈り致しております。 敬具」

   文面通りに書いた。「てにをは」の間違いは許せる。短文ながら何の目的で来日し、日々どのような活動をしているのか、金沢大学での交流はどうだったのか、というポイントをきちんと押さえた文章である。手書きだから、緊張感も伴っただろう。

   想像するに、「お世話になった方々にお礼状を出さなければ日本のルールに反するのではないか」と彼らが話し合い、誰かが叩き台となるテキストを書いて、何人かが精査し、そして一番「達筆な人」が書いた。そのような共同作業のプロセスを経て、この礼状は書かれたのであろう。その証拠に、たとえば、第一人称では「私達」「我々」「学生四十五人」の表現が使われ、言葉の繰り返しを見事に避けている。一人で書いた文面はどうしても言葉の繰り返しがあるものだ。おそらく、「言葉の繰り返し表現は避けよう、日本語の文章表現のルールに反するのではないか」との意見で手直しされた、そのような共同作業の痕跡が文面から読み取れる。だからどうだ、と言うことではもちろんない。

⇒20日(水)午前・金沢の天気 晴れ   

☆デジタルアーカーブの勃興

☆デジタルアーカーブの勃興

  ブログが全盛期だ。では、その先、あるいは次に来るものは何か、それはデジタルアーカイブではないか…。そう予感させる本が「デジタルアーカイブの構築と運用」(笠羽晴夫著・水曜社)だ。なぜそう思うかというと、デジタルアーカイブはとても日本人の性格に合ったジャンルだからだ。今回は、それを解きほぐしてみる。

   笠羽氏は財団法人デジタルコンテンツ協会の研究主幹で、著書では日本のデジタルアーカイブの現状を手引書ふうにまとめ、分かりやすく解説している。それによると、アーカイブ(archives)はもともと公文書や古文書保管所、文庫などの意。これが転じて、記録・整理の活動など広意義に使われている。テレビ映像では「NHKアーカイブス」が知られ、過去に放送した番組をストックしておき、タイムリーに再放送する、といったイメージがある。デジタルアーカイブはその記録保存を静止画、動画、音声のデジタル手法で取り込んだものである。

   具体的に言うとデジタルアーカイブとは何か。笠羽氏はこんな分かりやすい例を上げている。週刊「明星」の50年分の表紙601枚をデジタルで保存することはもちろん可能である。それを年代順に並べてみると「芸能の顔」の50年史が読めてくる。つまり、人によってはノスタルジーという感情もさることながら、日本における芸能史、景気循環と芸能の傾向など、学問分野への切り口や発想も生まれてくるのではないか。50年というスパンと601枚の表紙から湧き上がってくるイメージはそれほど奥深い。

   問題点もある。それだったら個人がストックしている「明星」の表紙をアーカイブしようと個人がヤル気になってアップロードしてもこれは著作権や肖像権に引っかかり難しい。芸能人に求める許可と肖像権、それに撮影者・出版社に対する著作権をクリアする時間とコストを勘案すると個人では不可能に近い。しかし、アーカイブの対象が自分で集めた昆虫標本や雲の写真、先祖代々が持っているコレクションなど著作権を離れたものだったら可能性は大いにある。

   私が冒頭で「日本人に性格に合っている」と言ったのは、いろいろなジャンルのコレクターが日本人には多いからだ。ブログのように、アーカイブ用のテンプレートが立ち上がれば、そうした日本のマニアックな土壌とマッチして、ネット上で私設資料館や博物館、ミュージアムのサイトがどんどんと生まれてくるに違いない。その延長線上に、貴重な写真や映像のコピー販売といったビジネスも見えてくるはずである。

   著書では、すでに作家の死後50年を経て著作権がフリーとなった小説などをネット上で公開している電子図書館「青空文庫」などを事例として紹介している。ここを読んだだけでも、多種多様なデジタルアーカイブの可能性が具体的なイメージとして浮かび上がってくる。

⇒19日(火)朝・金沢の天気  くもり      

★球児の夢、松井のドラマ

★球児の夢、松井のドラマ

 季節には風物詩というものがあって、7月の梅雨が上がるか上がらないかの微妙なこの時期は何と言っても、夏の高校野球ローカル大会をイメージする。きのう15日開幕した第87回全国高校野球選手権石川大会は順調に行けば、決勝は27日だが、見どころとすると夏の連覇をめざす遊学館、あるいは春夏連続での甲子園出場をめざす星稜か。

   メイン球場は石川県立野球場。きのうの日中の金沢の最高気温は31.3度、球場のグラウンドはそれより2、3度高い。筋書きのないドラマはいつもこの炎天下で繰り広げられる。ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜選手は1992年(平成4年)、3年の時にこの球場で満塁ホームランを放ち、星稜は4年連続11度目の甲子園出場を果たす。意気揚々として乗り込んだ甲子園大会の2回戦で物議をかもした「連続5敬遠」(対明徳義塾戦)があり、高校野球ファンでなくても松井選手を知ることになる。松井選手のあのドラマの書き出しは県立野球場で始まっていたのだ。

   53校のトーナメント表(4ブロック)を眺めていると、「この学校はいつもくじ運がいいな、このブロックだとベスト8かも」とか「この学校とこの学校は相性が悪いから、潰し合うな」などと試合展開のイメージが不思議と浮かんでくるものだ。高校野球の面白さは、こうした「読み」が当たるかどうかの醍醐味でもある。

   とは言え、27日に決勝、52校は敗れ去る。中にはボロ負けのコールドゲームもあるだろう。そこで、高校球児に贈る言葉を探した。マリナーズのイチロー選手は「負けている中でも粘りがないと、次の可能性は見えてこない」と口癖のように言うそうだ。最後までチャンスを狙うマインドが大切だ、との意味だろう。そして松井選手の父親、昌雄さんはこう言って息子を育てた。「努力できることが才能なんだ」と。逆説的な言い回しだが、勝者も敗者も励ます温かな表現である。

⇒16日(土)朝・金沢の天気  くもり

☆大学とテレビ業界の接点

☆大学とテレビ業界の接点

   決してもったいぶるつもりはないが、私たちスタッフの日常を紹介しよう。きょうはNHK金沢放送局の取材があった。内容は夏休み向けの「昆虫採集」のノウハウについて。ここ金沢大学「自然学校」の研究員N氏が取材を受けた=写真=。200㌶もある大学のキャンパスは里山の絶好のフィールドでもある。このエリアに576種類(コケ、シダを除く)の植物、キツネやタヌキなど21種類の哺(ほ)乳類、72種類の鳥類、そして1000種以上の昆虫が生息する。このフィールドを駆けめぐっているN氏は慣れたものだ。クワガタの出そうなところ、スズメバチに注意、ウルシの木には気をつけてと細やかな説明をポンポンと。

   私の同僚のK氏は自然学校の代表(教授)と午後から石川県立大学でのシンポジウムに出席。そして、事務スタッフのK嬢は近くの小学校で開かれている「自然教室」のサポートに。そして私はというと、7月19日に設定されている講義のための「収録」の打ち合わせ。この収録というのは番組ではない。金沢大学の「E-ラーニング」の教材作成のことである。

   もうちょっと詳しく説明しよう。授業は講義しながら板書する。ある意味で一過性である。この授業を授業ごとデジタル保存し、自宅学習や遠隔学習を可能にするのがこの「E-ラーニング」だ。具体的に手順はいくつかあるが、私のケースだと。予め原稿を用意しブースで映像と音声を収録する。その語りの映像を子画面にして、パワーポイントで作成した資料を音声に合わせて親画面にタイミングよく出していく。さらに私は映像資料を10分ほどつけた。19日は、収録したもの(DVD)を前段で学生に聞いて見てもらう。さらにひと捻りして、後半はゲストと私で掛け合いのトークをする。それをデジカムで収録してもらい、最終的にパッケージ(DVD)にする。もちろんこれはあくまでも大学の教材である。当日の私の授業のテーマは「マスメディアから見た極東ロシア」。

   近い将来、この「E-ランニング」が授業の一端を担うはずである。テレビ業界出身の私はここでふと気がついた。この作業は、テレビ業界で言えば「完パケ」なのである。業界の人なら、「E-ラーニング」という教材を作成するためには、どういう段取りで何が必要か、そのポイントは何かが一目で理解できる。つまり、教授の講義の収録をアナウンサーのナレーション録りだと思えばいい。パワーポントは字幕スーパーである。それにプラスして生の掛け合いや、VTRの挟み込みがあると考えれば、まさに番組の収録と手順や基本的な考え方は同じなのである。

   そして私はこんなズルイことも考えた。原稿さえあれば、何も教授がしゃべらなくてもよい。実際、カメラに向かうと恥ずかしがる人は多い。そこで淡々と話し、声の通る人を起用する。その教材を聞いた感想やリポートを実際の教授にメールで提出し、その理解度をチェックしてもらう、あるいは教授からの返信メールでアチーブメント(到達度)テストをして、単位認定の判断材料にしてもらうのだ。恐らくそんなことをすでに始めている大学もあるはずだ。いや、遅いくらいかもしれない。

   きょうのNHKの収録をきっかけに、大学とテレビ業界の共通点を考えているうちに、話の内容がどんどんと日常から反れてしまった。

⇒13日(水)午前・金沢の天気  曇り

★勝負はついた

★勝負はついた

  日本テレビがこの10月から会員制のホームページを開設し、1年以内に1万本以上の番組を有料配信すると、きょうの日経新聞が報じた。テレビ業界で今後の生き残り競争に誰が勝ち名乗りを上げるのかと言えば、これで勝負はついた、フジテレビの負け、日テレの勝ちである。

  ライブドアがニッポン放送株をめぐって争奪戦を繰り広げたのは、最終的にはフジテレビの番組コンテンツを取り込むためだった。それを、フジは逃げて逃げて逃げまくって、最終的には1400億円の対価をライブドアに払うことで折り合いをつけ逃げ切った。ところが、日テレは、ライブドアがやろうとしていたことを自ら打って出てやろうというのである。日テレがやろうとしている番組のオンデマンド配信はインターネットがこれだけ普及しブロードバンド化した現在、自然といえば自然な流れなのである。逃げるほうが不自然。これをきっかけには日テレはインターネット上での主導権を握ることができるのだ。

  新聞記事によると、会員100万人以上を確保する計画という。地上波放送で広告収入に依存してきたテレビの新たなビジネスモデルとして注目を集めることは間違いない。有料配信としたのは、USENの「GYAO」のようなCM収入になると地上波放送と競合し、ヘタをするとネットの部分のCMは地上波の「おまけ」になる可能性があったからだろう。それに、広告市場のパイの奪い合いをこれ以上激化させると、ローカル局にしわ寄せがいく可能性もある。

  仮に、この有料配信が不調に終わったとしても、損害は軽微だろう。フジの1400億円のことを思えば、である。株式も反応した。日テレの東証株価、きょうの終値はプラス580円、3.77%の上げだ。大いに好感したのである。

フジはきょう、上記の新聞記事を追いかけるようにして、インターネットでの自社の番組を有料配信を今月15日から開始すると発表した。フジの新サービスは、主要なネット接続サービス業者などと提携してサイト上にフジの特設コーナーを設け、録画した番組を提供する仕組みで、地上波放送で13日から中継する女子バレーの試合を試験サービスとしてスタート。全15試合を525円で視聴できるようにする。その後、当面はCS(通信衛星)放送向けに制作した番組を中心に、1番組当たり210円で提供という。しかし、業務提携したはずのライブドアはなぜか主要なネット接続サービス業者の中に入っていないのである。これがまた不自然さを感じさせるのだ。日テレのように「1年以内に1万本の映像コンテンツを」といった腰の据わった取り組みなのかどうか。

⇒12日(火)午後・金沢の天気  くもり

☆「宮本武蔵」がやってきた

☆「宮本武蔵」がやってきた

  金沢大学の五十周年記念館「角間の里」(再生古民家)にはいろいろなゲストが訪れ、そして言葉を残していく。この人の言葉も印象深い。大英博物館名誉日本部長のヴィクター・ハリス氏である。ハリス氏は日本の刀剣に造詣が深く、宮本武蔵の「五輪書」を初めて英訳した人だ。日本語は達者である。「この家は何年たつの?えっ280年、そりゃ偉いね。大英博物館は250年だからその30年も先輩じゃないか…」

  ハリス氏はアジア・スポーツ研究会の招きで9日、金沢を講演に訪れた。会場の「角間の里」のセミナールーム=写真・右=は板の間である。床の間には山水画の掛け軸がかかり、宮本武蔵を語る雰囲気としては最適だ。テーマは「日本人の身体文化~ものつくりと美意識~」。その講演内容を簡単に紹介しよう。大英博物館はその歴史の中で、少なくとも2回「日本買い」に入った。一度は、江戸時代から明治維新に時代が変わったとき。あと一回は太平洋戦争の日本敗戦の直後である。時代が変わると人々の気持ちや価値観も変わる、その時が「買い」なのだという。明治維新のときは刀剣や浮世絵、陶磁器など。終戦後は鎌倉、室町時代の仏像などだ。

  「一外交官の見た明治維新」の著者として知られるアーネスト・サトウは写楽の浮世絵のファンだった。日本で買い集めた40点を持ってイギリスに帰国した。大英博物館はその40点をそっくり500ポンドで買い付けた。そのように個人から買い集めた美術品や、2度の「買い」などに得たコレクションはざっと2万点、1990年には大英博物館に日本館が完成し、いまでは日本人ツアー客の人気コースとなっている。広い意味で言えば、日本の美術文化を紹介するショーウインドーがロンドンにあると思えばいい。

   ハリス氏は、「己(おのれ)」を作品に入れない自然体にこそ日本の美術の本質がある、という。日本の刀剣も、鉄を焼き鍛えた、つまり、熱と鉱物元素が融合した究極のフォルムがあの独特の「そり」なのである。焼物にしても炎と土と灰釉のなせる自然の美である。これは、剣の道にも通じていて、宮本武蔵が死ぬ1週間前に書き上げた五輪書にも、「無念無想」、あるいは目の前から「くもり」を払って見える「空の悟り」を得て、人は「無敵」となる、との内容が書かれてある。そして、剣の最高の技も究極の自然のフォルムに仕上がっている。この先人が切り拓いた「カタ」を体得する、これが剣の修行の確かな道である、と。

   質問に応じたハリス氏は最後に苦言を呈した。日本の剣道は精神文化の一つの行き着く先でもある。それを、国際的なスポーツにしようと意識する余り、勝ち負けという小さな世界に押し込めるのはいかがなものか、と。「ヨーロッパで剣道を始める人のほとんどは、勝ち負けを超えた、その精神性にあこがれて入門している」とも。ハリス氏の言葉には「日本人よ、もっと自信を持て」とエールが込められているようにも聞こえた。

⇒10日(日)朝・金沢の天気 くもり