★鳥も凍える北陸の冬

★鳥も凍える北陸の冬

  発達した低気圧が接近して、北陸地方は強風を伴った雨が降る大荒れの天気となっている。最大瞬間風速は4日午後7時すぎに、金沢で29.1㍍を記録した。石川県内全域に波浪警報と暴風警報が発令されていて、油断ならない。けさは 明け方から雷も鳴っている。

  きのう(4日)午前は青空に雪つりが映える写真を掲載したが、きょうは「凍える鳥」の写真を貼り付けた。この写真は去年(2004年)1月に撮影された兼六園での冬の写真。石川新情報書府「兼六園 名園記」(DVD)の中のフリー素材集の一枚だ。キャプションに鳥名は記されていなかったが、ことし1月に日本野鳥の会石川支部が行った兼六園での探鳥会ではメジロ、モズ、シロハラ、ヤマガラ、カワセミなど19種の鳥類が確認されているので、その中の一種かもしれない。

   気象台では、きょうも突風やひょうが降り、加賀の山間部では10㌢の積雪になるところもあるという。きのう晴天、きょうは大荒れ。鳥も凍える北陸の冬が到来した。

【追記】 この写真の鳥について、何人かの鳥類に詳しい方に伺ったところ、V字の尾や白い腹、かすかに見える首回りの茶色、くちばしの形状からアトリではないか、との感触をいただいた。

⇒5日(月)朝・金沢の天気    あめ

☆ブログの技術⑩

☆ブログの技術⑩

  ブログは続けることに意味がある。そのポイントは毎日のネタ探しをいかに行うかだ。そこで、ちょっと考えればネタは身の回りに転がっている。たとえば、お天気ネタがある。

    テーマ「お天気ネタは身を助ける」  

  お天気ネタのよいところはオリジナルであることだ。全国一律ではなく、同じ日でも東京や北陸や沖縄などでは季節に応じた独特の天気状況というものがある。そして、その天気に沿った生活の話題というものがあるはずだ。

  北陸の場合だと、「雪の季節到来、通勤途中に霰(あられ)が降った」という風景描写がある。それを写真に撮る。ガソリンスタンドではスタッドレスタイヤの交換で順番の列がついていて、ついでスタッドレスタイヤの交換は一本当たり850円ぐらいが金沢市内では相場ではないだろうか、と数字的なものを盛り込む。本来なら自分で取り付けるのだが、家人が「素人(私)が交換するとタイヤが外れるかもしれないので危ない」と信用がなく、ここ10年ほどはプロに任せている、といった余談を織り交ぜる。こういった内容でも十分にネタとして成立するものだ。

   この季節ネタというのは相手が自然現象だけに、写真を撮影する場合に著作権や肖像、プライバシーといったものを心配しなくてよいという利点がある。加えて、天気概況の説明に欠かせない気圧や前線、雨量や風速、予報などは各地の気象台が数時間ごとに発表していて、データは豊富にある。時間の余力があったら季節の歳時記を著した本を読んで参考にすれば、話は十分に展開できるというものだ。文章やデータを抜粋するのであれば、「○○気象台によると」とか「○○社の××歳時記によれば」とかクレジットを入れると文章表現の信頼性にもつながる。

   ついでに言うと、クレジットを入れる場合は出版社や気象台にいちいち断りを入れる必要はない。ブログを市販している訳でもないので、個人の「表現の自由」の範ちゅうなのだ。気兼ねなく使えばよい。

⇒6日(火)・朝   金沢の天気   あめ  

☆秋と冬のスクランブル

☆秋と冬のスクランブル

  きのう(3日)、金沢では午前3時前にみぞれがあり、輪島では午前7時ごろに雪が降ったと金沢地方気象台が発表した。これが石川県地方の初雪となった。積雪はなく、平年より6日遅い初雪だ。

   ところがきょう(4日)は左の写真のように一転して青空が広がった。北陸特有の「猫の目天気」、くるくると気圧配置が変わり天候は一定しない。それにしても、天を突く雪つりの風景が青空に映えて、アートの輝きを放っている。

   天気も行き交っているが、季節も交錯している。下の写真は金沢大学の回廊から見える遅い紅葉の風景だ。季節が紅葉を追い立てるかのように風も吹き、雨も降るが、木々の方はゆっくりと紅葉を楽しんでいるかのようだ。秋と冬のスクルンブル、初冬の金沢の風景である。

⇒4日(日)午前・金沢の天気   はれ

★ブログの技術⑨

★ブログの技術⑨

  ブログを書くことはある意味での精神活動である。相当な意欲やヤル気がないと続けることができない。ところがそれなりの意欲なりを出すと時として勢いが余って、書いてはならないことをつい書いてしまいトラブルになったりする。

    テーマ「ブログと会社、私と公のタブー」

  私の知人で、会社(通信系)の上司にブログのことで睨まれ、ブログを閉鎖した人がいる。彼は交遊録を本人も相手も匿名で書いていたのだが、社名とスナップ写真を入れていた。彼のブログは社内で評判となり、上司の目に止まった。上司は、プライベイトとは言え交遊録の中に同業他社の社員が複数いたことが気になったようだ。上司はプライバシーの点で問題があると彼を追及したのだった。「他人のプライバシーを守れない社員は会社として問題視する」と。確かに、本人も相手も匿名であったものの、社名とスナップ写真(夜の飲み会など)でだいたい人物が特定できた。

  これとはケースは若干異なるが、会社の上司から注意を受けブログを閉鎖した別の友人もいる。ブログと会社とのかかわりでトラブルになっているケースは案外と多いのではないか、と私は推測している。

     会社サイドに立てば、社員のブログは「危ない」と見る。その理由は▽業務上で知りえた情報や取引先、新商品プランなどについて社員が守秘義務を守るのか不安▽職場のパソコンでブログを書くのは公私混同、社員が使っていないと主張しても、頻繁にアップロードされていると「少しぐらいは使っているのではないか」という疑念▽社員が著作権やプライバシー、誹謗中傷などで別の企業から訴えられた場合、時にして社名がマスコミに出るのではないかとの心配-などである。社員にはブログを書いてほしくない、というのが会社(経営者)の本音だろう。

  確かに、米マイクロソフト社内にアップル社製のパソコンが運び込まれるのを写真に撮ってブログに掲載した社員が解雇されたとのニュースが話題となった。日本では解雇という事例はまだ聞いたことがないものの、ケースによってはそれも今後ありうる話だ。

  好事魔多し、である。アクセスIP(訪問者)数がぐんぐんと増えてきたりすると、つい勢いに乗って、「ばれたら困るが、これを書けばアクセスがもっと増えるかもしれない」との誘惑にかられることはままある。これが危ない。ブログに冒険心はない。自らタブーとして戒めよう。自己責任を自ら言い聞かせるという意味で、実名でブログを書くということも一つの手である。

  ただし、ブログがきっかけで内部告発を決意したら、堂々と名乗り、マスコミに記者会見するくらいの腹をくくらなければならない。

 ⇒3日(土)午前・金沢の天気   あめ

☆ブログの技術⑧

☆ブログの技術⑧

  「ブログを書いている」と知人に話すと、「毎日書くのか」とよく問われる。そんなときは「ブログは続けることで意味がある」としか答えられない。では、どのような間隔で続けるのかということになる。つまり、毎日なのか、毎日ではないにしろ定期的なのか、たまにの不定期でよいのか、月何回くらいか-など。結論から言えば、「決まりなどない。自由に書けばよい」のである。

     テー「ブログは毎日書くのか」

   日記には「三日坊主」という言葉が連想されるくらい、続けるのは難しいと相場は決まっている。小さいころから50歳を過ぎた今でも日記を書いているという人が稀にいる。そんな尊敬に値する私の知人の場合、仕事のことはほとんど書かず、子どもの成長や身の回りのこと、庭や通勤路の草花など「生活日記」風である。仕事と言えば、「出張先で訪れた街の感想や職場の仲間の慶弔ぐらい」と。寝る前の歯磨きの前に書くことを習慣づけているそうだ。

   日記は公開される前提で書いているわけではないので、おそらく彼の日記にはプライバシーのことが「満載」されているのだろう。公開を前提としない日記では書こうと思えばネタは豊富にあるのだ。ところが、ブログのように公開を前提とすると、仮に匿名であったとしてもテーマは制約される。実名だとさらにネタの範囲は狭まる。途中まで書いて、「誰それに見られたらヤバイな」と思ってしまうと書けないものだ。日記帳では書けても、ブログでは書けない場合もある-と割り切る必要がある。

  私の場合、ことし4月28日に「自在コラム」を立ち上げて、11月30日までで163本のブログを書いた。163本÷217日=0.751、つまりブログ(を書く)率75%である。当初は張り切って一日2本書いたこともある。ペースとすれば自分で言うのもおかしいが、「とても優秀」だと思う。何しろ、総務省は2005年3月末時点の国内ブログ利用者数は延べ約335万人、アクティブブログ利用者(ブログ利用者のうち、少なくとも月に1度はブログを更新しているユーザ)数は約95万人と発表している。総務省の定義では、月1回書けば「アクティブブログ利用者」なのだ。

   パーフェクトを目指したい人はどうぞ、月1回でもアクティブなのだ。統計ではアクティブでないブログは全体の3分の2以上もある。そのように考えれば、書く方は随分と楽になるはずだ。

 ⇒2日(金)朝・金沢の天気  あめ

★子育ての視点から

★子育ての視点から

   「高度に文明化した社会で、どう子どもを育てればよいのか」、この本の中で一貫して流れているテーマだ。これまでの伝統的な子育てのシステムが壊れてしまったことによる「ひずみ」があちこちに噴出していて、痛ましい光景が社会のあちこちで見られる。これに対し、「子どもと自然」(岩波新書)の著者の河合雅雄氏は、気を揉みながら人間の成り立ちをもっと見つめようと示唆している。

   河合雅雄氏は京都大学名誉教授で日本の霊長類学の創設に加わった一人。この12月17日に開催する朝日・大学パートナーズシンポジウム「人をつなぐ 未来をひらく 大学の森―里山を『いま』に生かす」で基調講演をしていただくことが決まり、河合氏を知る大学教授から薦められたのうちの一冊が上記の「子どもと自然」だ。

   霊長類学者という立場からサル社会の事例がこの本でよく出てくる。たとえば、京都大学霊長類研究所で行われているチンパジーの言語学習だ。その中のテーマで、罰型と報酬型という伝統的な調教の仕方がある。正解したチンパンジーに干ブドウを与えるのが報酬型で、不正解に罰として電気ショックを与えるのが罰型である。しかしチンパンジーの調教の方法では、罰型は学習の進度が遅く、報酬型が有効というのが定説になっている。しかも、ただ干ブドウを与えるだけでなく頭をなでたり、声をかける「ほめる」という行為がチンパンジーの学習効果をいっそう高める、と記されている。

  もう一つ事例。チンパンジーとオランウータンでは食べ物の入った箱の鍵の開けたが異なる。チンパンジーは騒がしく手でつついたり、叩いたりして試行錯誤を繰り返して鍵を開ける。オランウータンは最初はつついたりしているが、あきらめたかのように一端その場を離れボーッとしている。そのうちに確信に満ちた眼差しで一気に鍵を開ける。最終的にはチンパンジーもオランウータンも鍵を開けるまでの時間はほぼ同じ。つまり、知能にそう差はないのだ。

   翻って人間の社会、特にわれわれ日本人の社会はどうか。法律で禁止されていても、まだ体罰が後を絶たない教育現場。人間社会でも、チンパンジー型とオランウータン型などさまざまなタイプがいるのに、いまの日本の社会では大人も子どももチンパンジー型の「ハキハキ・行動」タイプが良しとされている。オランウータン型は「引きこもり」や「ニート」と言ったマイナスイメージで見られ、理解され難いのだ。

   上記の話を引き合いに出すと、サル社会と人間社会は違う、と目くじらを立てる人もいるだろう。自明の理だ。もちろん、河合氏も著書の中で、「サルの話がたくさん出てくるが、それらは比喩や相似として述べているのでなく…」とことわりながら話を展開している。ただ、「ひずみ」が生じているいまの社会の中で、進化したサルである人間を見つめ直すには、霊長類の進化をベースにそのレールの上に人間がいるという視点を持つと、見えてくる世界も多くあるのだ。

 ⇒1日(木)朝・金沢の天気  はれ

☆雪つりの値打ち

☆雪つりの値打ち

  北陸にいよいよ寒波がやってきた。金沢の冬の風情と言えば「雪つり」だ。市民も兼六園や街路樹で雪つりが始まると冬の訪れを実感するのではないだろうか。

  この雪つりは自分でやるとなると結構技術がいる。造園業者に任せると金がかかる。暖冬が続き雪が降らないと、「庭税」のように忌々しく思えてきて、風情を楽しむどころではない。

  ところが、2004年の冬のように、50㌢を超す大雪となると、が然と雪つりはその威力を発揮する。上の写真は雪つりが施されたもの。同じ場所での下の写真をご覧いただければ分かるように、こんなに雪が積もると、何代にもわたって育ててきた五葉松(東日本では姫小松とも呼ぶ)も枝が折れてしまう。何しろ金沢の雪はパウダースノーではなく、たっぷりと湿気を含んだベタ雪なので重い。松の枝を一本一本支えている縄のおかげで、枝が折れずに済んでいる。

  「庭税だ」云々と言ってはみても、ドカ雪がやってくるか予想できないから雪つりはやめられない。金沢に住んでいる以上は仕方がない。これはもうスタッドレスタイヤやスコップと同じように「雪国の住民税」と考えるしかないのである。

  でも、こうして写真を眺めていると、金沢の先人の知恵というものが伝わってくる。一説にリンゴつりの応用で兼六園で使われた手法が広く伝わったともいわれるが、雪つりのルーツについては定かではない。

  ともあれ、ことしの冬は雪つりの値打ちを実感できるほど雪が降るのか、あるいは「庭税」と思ってしまうのか。

⇒30日(水)朝・金沢の天気   あめ

☆ブログの技術⑥

☆ブログの技術⑥

  ブログはメディアか否か、という論議がある。27年間、マスメディアに身を置いてきた私の判断では否である。ただし、極めて少数だが個人ジャーナリズムと言おうか、身銭を切って総選挙(9月)の現場をリポートしたり、自民党など各政党に取材を申し込み、政策を問うなどして、記事をブログにアップしている人がいる。応援したい気分になる。    

    テーマ「メディア化するブロガー像」

  私がブログはメディアにはなりえないと判断するのは、ブログでは客観的な事実関係の裏づけができない、と思うからだ。理由は簡単である、事実の裏づけ作業は複数でしなければならない。1人だとどうしても独断になってしまう。フリーのジャーナリストにしても原稿を出版社やマスコミに持ち込む場合、編集デスクの手を通る。ノーチェックでそのまま掲載することは稀だろう。

   ただし、ブログはブロガーをメディア化する、と思っている。説明しよう。ブログに目覚めた人はカメラを手放さないだろうし、ちょっとした思い付きでもネタ帳にメモをする癖ができているはずだ。「ブログの技術①」でも紹介したように新聞の切り抜きも日常になっていると思う。そして、職場や同好のサークルで聞き耳を立てて面白そうな話を探しているに違いない。逆にこのくらいのことをしないとブログは書けないし、続かないのだ。実は言うと、このような所作はマスメディアの記者たちが日常行っていることなのだ。熱心なブロガーは知らず知らずのうちにマスメディアの記者たちと同じベクトル上を歩いている。

  ことし9月14日に最高裁が判断した「在外選挙権訴訟」の違憲判決を受けて、インターネットの選挙利用が解禁になる見通しだ。早ければ来年の通常国会にも公選法改正案が議員立法で提出される。07年夏の参院選は「ネット選挙」あるいは「ブログ選挙」となることを視野に入れていた方がよい。2003年、日本にブログサイトが立ち上がって4年後である。この頃になれば、熟練し、高度にメディア化したブログの猛者たちが数多く存在していることだろう。こうしたブロガーたちが政治に対しても発言し、投票行動を大きく左右するようになって初めて「ブログはメディアになった」と新聞やテレビで評価を得るのかもしれない。

⇒28日(月)朝・金沢の天気   くもり          

★ブログの技術⑦

★ブログの技術⑦

  一度書いた記事は何度でも生かそう、これが今回のテーマだ。記事というのはある意味で造形のようにブラッシュ・アップし、使い回し、そして作り変えていくことが可能だ。

             テーマ「記事をリフォームする」 

  以下の記事はテーマが一つなのに見出しはまったく違い、記事と写真は少しずつ違う。「軒下にダイコンつるして 冬が来る」を先に書き、翌日、これに縄文遺跡をネタと合わせて「DNAの騒ぎ」とした。ダイコンは風景描写として、DNAは心象風景を描いた。少々強引な手法かもしれないが、「作り変えブログ」なのである。これは2つのブログサイトを掛け持ちしたからできたことだ。

   同じサイトだと、少々手の込んだ作り変えが必要だ。「続々・ブログ選挙」「『ネット選挙』の読み方」は、インターネットの選挙利用がテーマながら、切り口を違わせた。前者をニュース解説風にストレートに取り上げ、後者はコラム風に斜めから切り込んだ。一度書いた記事を切り口を変えて何度でもリメイクすることもできる。また、自身の理解度も深まる。

   写真についても同じことが言える。同じ建物だが昼と夜の撮影でこれだけ違うのである。心象によってはまったく別物に見えたとしても不思議ではない。この建物は金沢大学の創立五十周年記念館「角間の里」。白山ろくの旧・白峰村にあった築280年の古民家である。何度もリフォームを繰り返し、その度に建物としての機能や建築美に磨きをかけてきた。

  記事にしても建物にしても、つまりソフトにしてもハードにしても手を入れることで命を吹き返すのである。

⇒29日(火)・朝  金沢の天気      あめ

★DNAの騒ぎ

★DNAの騒ぎ

  金沢大学「角間の里山自然学校」はにぎやかだった(26日)。自然学校が拠点としている五十周年記念館「角間の里」の前の畑では、秋に植えたダイコンの収穫が行われた。市民ボランティア「里山メイト」が自主的に栽培したダイコン畑。雨上がりで土壌が軟らかかったこともあり、ダイコンは意外とすっぽりと抜けた。

  この作業を道路から見守っていたある市民がポツリと、「金沢大学に農学部ってあったの…」と。確かにこのにぎやかな光景を見れば、そう思うかもしれない。

   収穫されたダイコンは漬物用に「角間の里」の軒下につるされた。軒下のダイコンは古民家に似合う。この写真のアングルはぜひ撮影したいと前からイメージしていた。視覚だけではない。ダイコン干しは郷愁を誘う。

      軒下の ダイコン眩し 冬来る

               ◇   

  先日、石川県野々市町にある国指定史跡「御経塚遺跡(おきょうづかいせき)」を訪ねた。この遺跡は縄文時代後期-晩期(3500~2300年前)の大規模な集落遺跡で、昭和29年(1954年)に地元の中学生によって発見された。集落は、中心部に祀り(まつり)に使われた広場をもち、広場の周りには竪穴建物跡が並んでいた。復元された竪穴式住居をじっと見つめていると、「ヒトの営み」がイメージとして浮かぶ。

   古代人はヒトのDNAに組み込まれたプログラムに従って、自然の中で生をまっとうしたのだろう。労働し、収穫を分配し、子孫を残し…。自然の循環と歩調を合わせた永遠のサイクルのようにである。翻って現代人はどうか。資源を奪い合い、収穫を独り占めしようとする。子孫のことを考える余裕もなく、互いに競り合って生きにくくし、自殺者が年3万人もいる社会になった。

  竪穴式住居の中をのぞくと、焚き火のかすかなにおいが漂っているようにも感じられ、どこか懐かしい思いがした。DNAが騒いだのだろう。

⇒27日(日)午前・金沢の天気   くもり