☆権力を挑発するメディア人
田原氏の近著、「テレビと権力」(講談社)を読んだ。内容は、権力の内幕をさらけ出すというより、田原氏がテレビや活字メディアに出演させた人物列伝とその取材の内幕といった印象だ。岩波映画の時代から始まって、テレビ東京のこと、現在の「サンデープロジェクト」まで、それこそ桃井かおりや小沢一郎、小泉純一郎まで、学生運動家や芸能人、財界人、政治家の名前が次々と出てくる。
田原氏の眼からみた人となりの評し方も面白い。週刊文春で連載した「霞ヶ関の若き獅子たち」の宮内庁の章。民間の妃と結婚した皇太子(現・天皇)は同庁の中での評判が悪かった。75年7月、沖縄訪問でひめゆりの塔を参拝したときに火炎瓶を投げつけられた皇太子は「それをあるがままのもとして受けとめるべきだと思う」と発言した。それについても庁内では、威厳がない、あるいは弱気すぎるなどと批判があったそうだ。その皇太子の姿は官僚の操り人形にはならないぞとの姿勢にも見えて、「皇太子時代の頑張りは、天皇となった現在も続いていると私は見ている。(…中略…)声援したい気持ちでいる」と田原氏は好意的に記している。
冒頭で紹介した「挑発する田原総一郎」はテレビ朝日「朝まで生テレビ!」が始まりだ。スタートが87年4月だからかれこれ20年になる。ソ連にゴルバチョフ書記長が登場し(85年)、東西ドイツの「ベルリンの壁」が崩壊する(89年)。そして日本でも自民党の安定政権が揺らいだ時代だ。このころの田原氏はジャーナリストとしてフリーとなっている。おそらくテレビ局員だったらこの番組は成立しなかったかもしれない。何しろ、タブーとされた天皇論、原発問題など果敢に切り込んでいくのである。とくに原発問題はテレビ局自身が営業的な観点から最もタブーとした事柄だ。この意味で番組と「内なる権力」との相克があったことが述べられている。
政治権力との相克は「サンデープロジェクト」から始まる。著書の「政局はスタジオがつくる」の項は、佐藤栄作から軍資金をもらいにいった竹下登と金丸信のエピソードが書き出しだ。その金丸の後ろ盾で小沢一郎が自民党内を牛耳る。小沢が海部俊樹を総理に担ぎ上げる。そのとき、「トップは軽くてパアがよい」と小沢がいったとのうわさが広がる。ここあたりになると私自身の記憶も鮮明に蘇ってくる。
この本の面白さはこうした場面展開が次々と出てきて、そういえばかつてそんなテレビ画面があったと思い起こさせてくれる点だ。映像のプレイバックとでもいおうか、読み進むうちに時代の記憶を誘発して呼び起こす駆動装置のようでもある。そのスタートはそれぞれが田原氏の番組と視聴者としてかかわった年代となる。これまで政治に無関心であった人にとっては、この著書を読んでもその記憶の駆動はスタートしないだろう。
⇒17日(水)夜・金沢の天気 くもり
コピーの続き。「松井は野球の天才ではない。努力の天才なのだ」と言い、「コマツは、どうだろう。自分たちの技術に誇りを持ち、よりよい商品づくり心がけているだろうか。」と問う。そして、最後に小さく、「松井選手の今回のケガに際し、一日も早い復帰をお祈りしております」と締めている。松井の出身地である石川県能美市に近い小松市に主力工場を持つコマツは、ヤンキース入りした直後から松井選手のスポンサーになった。嫌みのない、実にタイムリーな広告企画ではある。
確かに、同研究所は板橋区加賀1丁目9番10号が所在地だ。加賀といえば加賀藩、つまり金沢なのである。加賀という地名は偶然ではない。かつて、加賀藩の江戸の下屋敷があったエリアなのである。それが今でも地名として残っている。
を想定したのだ。
あの松井秀喜選手はどうなっているのか、楽しみにしていた。きょう(9日)、久しぶりに東京のJR浜松町駅にきた。なんと、松井選手はサッカーボールを持っていた。駅構内の広告のことである。なぜ松井がサッカーボールをと思うだろう。答えは簡単。松井のスポンサーになっている東芝はFIFAワールドカップ・ドイツ大会のスポンサーでもある。その大会に東芝は2000台以上のノートパソコンを提供するそうだ。理由はどうあれ、サッカーボールを持った松井選手というのは珍しいので、その広告をカメラで撮影した。
JR浜松町駅近くに東芝の本社があり、ここでしか見れない、いわば「ご当地ポスター」のようなもの。去年の大晦日に見た松井選手の広告は本物のゴジラと顔を並べていた。
マ「季節の変わり目を撮る」
その学校は、芸を教える学校ではなく、人間の場合と同様の学校である。村崎修二氏が猿曳き公演と文化講演(5月3日、5日)のため金沢大学を訪れたので、その学校の「理念」についてじっくり伺った。実はその学校はいまでも続いているのである。
その学校の生徒たちの寿命は長い。「相棒」と呼ぶ安登夢(あとむ)はオスの15歳、銀が入ったツヤツヤな毛並みをしている。猿まわしの世界の現役では最長老の部類だ。ところが、何とか軍団とか呼ばれるサルたちの寿命は10年そこそことだそうだ。なぜか。人間がエサと罰を与えて、徹底的に調教する。確かにエンターテイメントに耐えうる芸は仕込まれるが、サルにとってはストレスのかたまりとなり、毛並みもかさかさ全身の精気も感じられない。村崎さんの学校に体罰はない。「管理教育」といえば周囲の人に危害を与えないようにコントロールする手綱だけだ。だからストレスが少なく長生きだ。
に突風が吹き、テントの中にあった棚の上の陶器が飛ばされたという。
村崎さんの大道芸はサルを調教して演じるのではなく、「同志的結合」によって共に演じるのだそうだ。だから「観客が見ると相棒のサルが村崎さんを曳き回しているようにも見える」との評もある。相棒のサルとは安登夢(あとむ)、15歳のオスである。村崎さんは「こいつの立ち姿が見事でね、伊勢の猿田彦神社で一本杉という芸(棒の上で立つ)がぴたりと決まって、手を合わせているお年寄りもいたよ」と目を細めた。
同郷の民俗学者・宮本常一(故人)から猿曳きの再興を促され、日本の霊長類研究の草分けである今西錦司(故人)と出会った。司馬遼太郎が「人間の大ザル」とたとえたのは今西錦司のことである。商業的に短時間で多くの観客に見せる「猿まわし」とは一線を引き、日本の里山をめぐる昔ながらの猿曳きを身上とする。人とサルの共生から生まれた技。そこを今西に見込まれ、嘱望されて京都大学霊長類研究所の客員研究員(1978-88年)に。ここで、河合雅雄氏らさらに多くのサル学研究者と交わった。