★メディアの「あだ花」
ゴッホらかつての画家は自然の花を描いた。アメリカのポップアートの旗手といわれたアンディ・ウォーホル(1928-87年)が描いた花はメディアの世界に咲く花だった。マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリー、ジョン・F・ケネディー…。しかし、彼のシルクスクリーンで描かれたのは華やかな花だけではない。メディアで騒がれた交通事
故や人種暴動、ピストル事件、凶悪殺人犯ら徒(あだ)花も数多く描かれた。そして、ウォーホルはこんな言葉を残した。「人は誰でも、その生涯の中で15分間は有名になれる時代がくる」
このウォーホルの「15分間」という言葉をそのまま映画のタイトルにしたのが「15ミニッツ」(2001年・ヘラルド)だ。先日、DVDで見た5年前の映画なのだが、なぜか鮮度が高い。現実が後からついてきているからだろう。
映画のあらすじ。チェコ人とロシア人の二人組のギャングがニューヨークへやってくる。放火、殺人を重ねるギャングたちはバイオレンスの映像がアメリカのテレビ局に高く売れることに気づき、盗んだビデオカメラで殺人を撮影していく。彼らを追うのはニューヨーク市警の殺人課刑事(ロバート・デニーロ)と消防捜査官(エドワード・バーンズ)である。ギャングはその刑事の殺害をもビデオで収録しテレビ局に売り込む。「血が流れればトップニュース」とテレビ局のニュース・ショーは飛びつく。その映像が流される番組名が「15ミニッツ」。この殺人映像が放送された後、犯人は自首する。弁護士の巧みな世論操作によって、連続殺人犯はいつの間にか悲劇のヒーローのようになっていく。ラストシーンは消防捜査官が護送中の殺人鬼を銃で撃ち、殺害された刑事の無念を晴らす「あだ討ち」のカットだ。
アメリカのテレビ局の歪んだ視聴率競争が映画のテーマになっている。が、もう一つ、犯罪をめぐる法律への問いかけも根底にある。映画では、殺人犯は罪を逃れるために精神異常者を装って自首する。精神病院に収容された後に、「自分は正気だ」と主張して社会復帰を狙う。アメリカでは二重処罰の禁止(=ダブルジョバディー法)があるから、同じ罪に問われないというわけだ。悲劇のヒーローとなった殺人鬼が「将来伝記を書いて、映画化権を売り巨万の富を得る」と豪語し、弁護士とその取り分を駆け引きするシーンがアメリカにおける法と民主主義の矛盾を鋭くえぐっている。
冒頭のアンディ・ウォーホルに戻る。ニッポン放送株の売買を巡る「村上ファンド」のインサイダー取引疑惑で、村上世彰氏(46)と幹部らが週明けにも取り調べを受ける模様と新聞各紙が伝えている。その前は堀江貴文氏らの「ライブドア事件」だった。あたかもメディアが事件のシナリオを構成し、矢継ぎ早に展開しているようにも思える。だからメディアに咲く花の命は短い。ホリエモンは1年余りだったろうか。ウォーホルにはもう一つの有名な言葉がある。「僕は退屈なものが好きだ。まるっきり同じことが、幾度も繰り返されるのが好きなんだ」。15分間の徒花を咲かせてやまないメディアに向けた皮肉である。
⇒3日(土)夜・金沢の天気 はれ
っぱれですわ」と賛辞も。
ませるらしい。
テーマ「自ら検証し、実感する」
た光ネットワークインフラ、そして携帯電話事業、これらをひとまとめにして定額でいくら、といったビジネス展開だ。
という意味だが、今回は「地球八分の一」が実感できるような話だ。
るのかというと。南極の昭和基地からのデータは電波信号にして、太平洋をカバーしている通信衛星「インテルサット」を介して、山口県の受信施設に送られる。山口から東京の国立極地研究所は光ファイバーでデータが送られ、さらに金沢大学に届くという訳だ。それを双方向で結ぶとテレビ電話になる。
静に見つめれば、ワシントン・ポストの「スピード違反をしていたのは誰か、居眠り運転をしていたのは誰か、サイレンの音が近付く中、逃走したのは誰か…アレック・クラインの語り口は鮮やかだ」と交通事故にたとえた書評が一番的確に思える。
界に広まった。
然学校」の拠点でもある。
アメリカのネット革命の旗手とまでいわれたAOLがタイムワーナー社との合併に踏み込んだものの、その後に放逐されるまでの栄光と挫折を描いたルポルタージュ、「虚妄の帝国の終焉」(アレック・クライン著、ディスカヴァー・トゥエンティワン社刊)を読んでいる。実はまだ第3章「世紀の取引」を読んでいる途中で、茂みの中である。それでも、アメリカのメディアとインターネット産業をめぐる大事件として記憶に新しい。370㌻の出だしの3分の1ほどしか読み進んだあたりから、人間の相克と葛藤が次ぎ次ぎと展開されていく。このブログを書いている時点で私も読んでいる途中だが、それでも書評をしたためたくなるほどのボリユーム感がすでにある。
ると伝えている。