☆鰤おこしとウォームビズ

☆鰤おこしとウォームビズ

  石川県など北陸に雷・強風・波浪注意報が出ていて、特にここ数日は雷鳴が断続的に響いている。金沢ではこの時節の雷を「鰤(ぶり)おこし」や「雪おこし」と言う。能登半島の輪島では、「雪だしの雷」と言ったりもする。それだけ季節が激変するころなのだ。

  金沢大学の近くに住む古老Mさんがこんなことを教えてくれた。「(金沢の)医王山に2回みぞれが降ったら、3回目には(大学がある)角間にもみぞれが降るよ」と。実際にその通りになった。写真でご覧の通り、ここ数日でみぞれがあられになり、金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」もうっすらと雪化粧した。雲や風の動きなどを観察して、経験をもとに天気を予想することを観天望気(かんてんぼうき)と言うが、恐るべし古老の観天望気術である。

  ところで、この「角間の里」は築280年の古民家をことし4月に移築したものだということは既に何度か記した。建物はかつて白山ろくの旧・白峰村の文化財だったものを譲り受けたもので、なるべく本来の姿を生かすという建築思想のもと、冷暖房の設備は最初から取り付けてなかった。このため、夏はスタッフ一同でクールビズを徹底した。また、土間を通る風は天然のクーラーのような涼しさがあり、扇風機を緩やかに回すだけで十分にしのぐことができた。

  しかし、問題は冬本番、これからである。今度はウォームビズで着込んではいるが、さすがに冷えるので事務室だけはエアコンを入れ、板の間の部屋には持ち運び式の石油ストーブを置いた。残るはこの建物の最大の空間である土間の暖房対策である。化石燃料である灯油を大量に消費して寒さをしのぐというだけではこの記念館の建築思想とも合致しない。さて、どう工夫するか、思案の冬を迎えた。

⇒10日(土)朝・金沢の天気   くもり

 

★ブログの技術⑫

★ブログの技術⑫

   シリーズ「ブログの技術」では身近なテーマをいかにブログ化していくかという点にこだわって解説している。実はこのシリーズを始めてアクセスIP数(訪問者数)が徐々に増えている。ブログを始めたものの、書き方がよく分からないというユーザーも多いのではないかと思う。そこで今回は身近なテーマの決定版である「食」を取り上げる。

       テーマ「食に食文化の味付け」

  ブログではラーメンの食べ歩きの感想や、どこそこのコンビニ弁当がうまい-などといった記述が多い。食は身近な、というより毎日2回から3回は接している日常である。これをブログ化するというのは簡単そうで実は難しい。難しいというよりネタがすぐ尽きてしまう。ただ、以下の点に心がければブログとしての広がりができる。

   <記述例・1>冬の金沢名物の一つが「だいこん鮨」である。取り寄せたものをお気に入りの器に盛り付けた。もちろんブログ用の写真を撮るため。携帯電話のカメラ(1メガピクセル)でも彩りがよければそこそこに映る。だいこん鮨は冬のダイコンに乾燥ニシンをのせ重石で加減しながら塩、麹(こうじ)を入れて漬け込んだ庶民の味だ。シャッキとくる歯触りがいい。日本酒に実に合う…。

   上記の表現だったらグルメ調だが、これに以下の食文化の味付けをしてみたい。

   <記述例・2>金沢の冬を代表する味覚の横綱が「かぶら鮨」ならば、さしずめ大関は「だいこん鮨」と言ったところか。だいこん鮨が大関なのはともに漬ける魚がニシン、横綱のかぶら鮨は出世魚のブリだから。ニシンは北陸で獲れる魚ではない。江戸時代に日本海を行き来した北前船によって北海道から運ばれた食材だ。 ところでこの時節、近所のあいさつは「上手く漬からんね」とか「もっと寒ならんとだめやね」と言った、だいこん鮨やかぶら鮨の漬かり具合が母親たちの会話となる。それほどに庶民の味なのだ…。

   「文化の味付け」はもったいぶったものではない。ちょっとした歴史的な文言や、人々の生活とのかかわりを記述するだけでも、広がりができる。歴史は縦の、生活は横の広がりである。つまり、話をいかに膨らませるか、という技術なのだ。記述例の1と2をつなぐとコラム風になる。

⇒9日(金)朝・金沢の天気   くもり  

☆あるシンポジウムへの誘い

☆あるシンポジウムへの誘い

  12月17日に金沢大学ではシンポジウム「人をつなぐ 未来をひらく 大学の森  ~里山を『いま』に生かす」を開催する。私は大学の「地域連携コーディネーター」としてシンポジウムの運営に携わっていて、先日、友人たちに誘(いざな)いの手紙を書いた。
                     ◇
  友人の皆様
  年末の気ぜわしいときに、シンポジウムの案内です。このたび朝日新聞社と共催で、里山をテーマにしたシンポジウム「人をつなぐ 未来をひらく 大学の森 ~ 里山を『いま』に生かす~」を開催する運びとなりました。

  去年から相次いで起きた身近な山でのクマの出没騒動に端を発して、一体いま山で何が起きているのか不思議でした。でも、よく考えてみれば、山と言えば白山や富士山、ヒマラヤを思い浮かべ、海と言えば沖縄やハワイの海に恋焦がれてきた私たちです。しかし、身近にある海や山には見向きもせず、随分とほったらかしにしてきました。

   その放置してきた身近な山々が荒れて、いつの間にかクマが行き交う「遠い山」になっていたのですね。「汝の隣人を愛せよ」、ではありませんが、私たちが幼い頃に遊んだ近くの野山に足を向けてみようよ、というのが今回のシンポジウムの主旨です。この発想で足元の環境問題や、教育問題(子どもたちがいつの間にか自然を怖がるようになっています…)を考える糸口をつかみたいと思います。

   基調講演には、81歳にして「いまが旬」の河合雅雄氏(京都大学名誉教授、霊長類学者)をお招きします。かつて芋を洗うサル、あいさつをするサルを発見し、河合氏のお弟子さんたちが今、サルに言語学習を施しています。何しろ、このお歳で子どもたちをボルネオのジャングルに連れて行き、いっしょにキャンプをしている天才にして野の人です。人間が自然の中で遊ぶことの奥深い意義と洞察についてお話をいただけるものと思います。

   お手紙にチラシと聴講券を同封しました。ぜひ会場に足をお運びいただければ幸いです。

 ⇒8日(木)朝・金沢の天気  くもり

★ブログの技術⑪

★ブログの技術⑪

  ブログにはオリジナルな価値がなければ意味がない。たとえば、時事問題で他のブロガーが書いているのと同じ意見や感想をいくら書いても、その存在感は薄いのではないだろうか。そこで人と違った意見を述べるトレーニングを兼ねて、書評を書くことをお勧めする。

      テーマ「書評を書こう」

   書評は日曜日付の新聞紙面で書評欄が掲載されている。よほど本を読み込んで、内容を噛んで含んで書評を書いているのだろうと一般読者は思っている。が、むしろ実際に書評に携わった人に聞くと、直感的である。興味ある一文から自分なりの意見や感想を述べたりしている。その人は言う。「百人の評者がいれば百の書評ができる」と。

   要は、書評は自分の感想や意見なのである。だから、書評は誰でも書くことができる。学者や評論家の「特権」ではない。そこで「自在コラム」流の書評の技術を紹介する。

ポイント①自分が読みたい本をまず読破する
ポイント②印象に残ったページをチェック(付箋-など)
ポイント③チェックページを読み返し、その感想を書く
ポイント④本全体の読後感を書く
ポイント⑤本のタイトル、著者、出版社は必ず明記する

   文章にもコツがある。感想は自分の意見なのだが、それを全面に出さずに、たとえば「筆者の意図は…であるに違いない」や「…であることは想像に難くない」、「…と考えても不思議ではない」と客観性を持たせた表現を使えば、文章全体に感情の抑えが効き、読みやすくなる。

   著者への敬意を忘れず、感情的な攻撃や文書の「あげ足」を取ることは慎みたい。また、本の中のあるいは本の表紙のイラストや画像は著作権の問題があるので撮らないこと。自分の印象に合う、フリー素材のイラストや画像を選べばよい。書評を何度か繰り返せば、生徒や学生のころ書いた読書感想文と違った味わいが出てくるものだ。

   最後に、書評は短く書くことを心がけたい。余分な形容詞や蛇足を落として文章を締める。せいぜい800-1000字程度だろう。

 ⇒7日(水)朝・金沢の天気   くもり

★鳥も凍える北陸の冬

★鳥も凍える北陸の冬

  発達した低気圧が接近して、北陸地方は強風を伴った雨が降る大荒れの天気となっている。最大瞬間風速は4日午後7時すぎに、金沢で29.1㍍を記録した。石川県内全域に波浪警報と暴風警報が発令されていて、油断ならない。けさは 明け方から雷も鳴っている。

  きのう(4日)午前は青空に雪つりが映える写真を掲載したが、きょうは「凍える鳥」の写真を貼り付けた。この写真は去年(2004年)1月に撮影された兼六園での冬の写真。石川新情報書府「兼六園 名園記」(DVD)の中のフリー素材集の一枚だ。キャプションに鳥名は記されていなかったが、ことし1月に日本野鳥の会石川支部が行った兼六園での探鳥会ではメジロ、モズ、シロハラ、ヤマガラ、カワセミなど19種の鳥類が確認されているので、その中の一種かもしれない。

   気象台では、きょうも突風やひょうが降り、加賀の山間部では10㌢の積雪になるところもあるという。きのう晴天、きょうは大荒れ。鳥も凍える北陸の冬が到来した。

【追記】 この写真の鳥について、何人かの鳥類に詳しい方に伺ったところ、V字の尾や白い腹、かすかに見える首回りの茶色、くちばしの形状からアトリではないか、との感触をいただいた。

⇒5日(月)朝・金沢の天気    あめ

☆ブログの技術⑩

☆ブログの技術⑩

  ブログは続けることに意味がある。そのポイントは毎日のネタ探しをいかに行うかだ。そこで、ちょっと考えればネタは身の回りに転がっている。たとえば、お天気ネタがある。

    テーマ「お天気ネタは身を助ける」  

  お天気ネタのよいところはオリジナルであることだ。全国一律ではなく、同じ日でも東京や北陸や沖縄などでは季節に応じた独特の天気状況というものがある。そして、その天気に沿った生活の話題というものがあるはずだ。

  北陸の場合だと、「雪の季節到来、通勤途中に霰(あられ)が降った」という風景描写がある。それを写真に撮る。ガソリンスタンドではスタッドレスタイヤの交換で順番の列がついていて、ついでスタッドレスタイヤの交換は一本当たり850円ぐらいが金沢市内では相場ではないだろうか、と数字的なものを盛り込む。本来なら自分で取り付けるのだが、家人が「素人(私)が交換するとタイヤが外れるかもしれないので危ない」と信用がなく、ここ10年ほどはプロに任せている、といった余談を織り交ぜる。こういった内容でも十分にネタとして成立するものだ。

   この季節ネタというのは相手が自然現象だけに、写真を撮影する場合に著作権や肖像、プライバシーといったものを心配しなくてよいという利点がある。加えて、天気概況の説明に欠かせない気圧や前線、雨量や風速、予報などは各地の気象台が数時間ごとに発表していて、データは豊富にある。時間の余力があったら季節の歳時記を著した本を読んで参考にすれば、話は十分に展開できるというものだ。文章やデータを抜粋するのであれば、「○○気象台によると」とか「○○社の××歳時記によれば」とかクレジットを入れると文章表現の信頼性にもつながる。

   ついでに言うと、クレジットを入れる場合は出版社や気象台にいちいち断りを入れる必要はない。ブログを市販している訳でもないので、個人の「表現の自由」の範ちゅうなのだ。気兼ねなく使えばよい。

⇒6日(火)・朝   金沢の天気   あめ  

☆秋と冬のスクランブル

☆秋と冬のスクランブル

  きのう(3日)、金沢では午前3時前にみぞれがあり、輪島では午前7時ごろに雪が降ったと金沢地方気象台が発表した。これが石川県地方の初雪となった。積雪はなく、平年より6日遅い初雪だ。

   ところがきょう(4日)は左の写真のように一転して青空が広がった。北陸特有の「猫の目天気」、くるくると気圧配置が変わり天候は一定しない。それにしても、天を突く雪つりの風景が青空に映えて、アートの輝きを放っている。

   天気も行き交っているが、季節も交錯している。下の写真は金沢大学の回廊から見える遅い紅葉の風景だ。季節が紅葉を追い立てるかのように風も吹き、雨も降るが、木々の方はゆっくりと紅葉を楽しんでいるかのようだ。秋と冬のスクルンブル、初冬の金沢の風景である。

⇒4日(日)午前・金沢の天気   はれ

★ブログの技術⑨

★ブログの技術⑨

  ブログを書くことはある意味での精神活動である。相当な意欲やヤル気がないと続けることができない。ところがそれなりの意欲なりを出すと時として勢いが余って、書いてはならないことをつい書いてしまいトラブルになったりする。

    テーマ「ブログと会社、私と公のタブー」

  私の知人で、会社(通信系)の上司にブログのことで睨まれ、ブログを閉鎖した人がいる。彼は交遊録を本人も相手も匿名で書いていたのだが、社名とスナップ写真を入れていた。彼のブログは社内で評判となり、上司の目に止まった。上司は、プライベイトとは言え交遊録の中に同業他社の社員が複数いたことが気になったようだ。上司はプライバシーの点で問題があると彼を追及したのだった。「他人のプライバシーを守れない社員は会社として問題視する」と。確かに、本人も相手も匿名であったものの、社名とスナップ写真(夜の飲み会など)でだいたい人物が特定できた。

  これとはケースは若干異なるが、会社の上司から注意を受けブログを閉鎖した別の友人もいる。ブログと会社とのかかわりでトラブルになっているケースは案外と多いのではないか、と私は推測している。

     会社サイドに立てば、社員のブログは「危ない」と見る。その理由は▽業務上で知りえた情報や取引先、新商品プランなどについて社員が守秘義務を守るのか不安▽職場のパソコンでブログを書くのは公私混同、社員が使っていないと主張しても、頻繁にアップロードされていると「少しぐらいは使っているのではないか」という疑念▽社員が著作権やプライバシー、誹謗中傷などで別の企業から訴えられた場合、時にして社名がマスコミに出るのではないかとの心配-などである。社員にはブログを書いてほしくない、というのが会社(経営者)の本音だろう。

  確かに、米マイクロソフト社内にアップル社製のパソコンが運び込まれるのを写真に撮ってブログに掲載した社員が解雇されたとのニュースが話題となった。日本では解雇という事例はまだ聞いたことがないものの、ケースによってはそれも今後ありうる話だ。

  好事魔多し、である。アクセスIP(訪問者)数がぐんぐんと増えてきたりすると、つい勢いに乗って、「ばれたら困るが、これを書けばアクセスがもっと増えるかもしれない」との誘惑にかられることはままある。これが危ない。ブログに冒険心はない。自らタブーとして戒めよう。自己責任を自ら言い聞かせるという意味で、実名でブログを書くということも一つの手である。

  ただし、ブログがきっかけで内部告発を決意したら、堂々と名乗り、マスコミに記者会見するくらいの腹をくくらなければならない。

 ⇒3日(土)午前・金沢の天気   あめ

☆ブログの技術⑧

☆ブログの技術⑧

  「ブログを書いている」と知人に話すと、「毎日書くのか」とよく問われる。そんなときは「ブログは続けることで意味がある」としか答えられない。では、どのような間隔で続けるのかということになる。つまり、毎日なのか、毎日ではないにしろ定期的なのか、たまにの不定期でよいのか、月何回くらいか-など。結論から言えば、「決まりなどない。自由に書けばよい」のである。

     テー「ブログは毎日書くのか」

   日記には「三日坊主」という言葉が連想されるくらい、続けるのは難しいと相場は決まっている。小さいころから50歳を過ぎた今でも日記を書いているという人が稀にいる。そんな尊敬に値する私の知人の場合、仕事のことはほとんど書かず、子どもの成長や身の回りのこと、庭や通勤路の草花など「生活日記」風である。仕事と言えば、「出張先で訪れた街の感想や職場の仲間の慶弔ぐらい」と。寝る前の歯磨きの前に書くことを習慣づけているそうだ。

   日記は公開される前提で書いているわけではないので、おそらく彼の日記にはプライバシーのことが「満載」されているのだろう。公開を前提としない日記では書こうと思えばネタは豊富にあるのだ。ところが、ブログのように公開を前提とすると、仮に匿名であったとしてもテーマは制約される。実名だとさらにネタの範囲は狭まる。途中まで書いて、「誰それに見られたらヤバイな」と思ってしまうと書けないものだ。日記帳では書けても、ブログでは書けない場合もある-と割り切る必要がある。

  私の場合、ことし4月28日に「自在コラム」を立ち上げて、11月30日までで163本のブログを書いた。163本÷217日=0.751、つまりブログ(を書く)率75%である。当初は張り切って一日2本書いたこともある。ペースとすれば自分で言うのもおかしいが、「とても優秀」だと思う。何しろ、総務省は2005年3月末時点の国内ブログ利用者数は延べ約335万人、アクティブブログ利用者(ブログ利用者のうち、少なくとも月に1度はブログを更新しているユーザ)数は約95万人と発表している。総務省の定義では、月1回書けば「アクティブブログ利用者」なのだ。

   パーフェクトを目指したい人はどうぞ、月1回でもアクティブなのだ。統計ではアクティブでないブログは全体の3分の2以上もある。そのように考えれば、書く方は随分と楽になるはずだ。

 ⇒2日(金)朝・金沢の天気  あめ

★子育ての視点から

★子育ての視点から

   「高度に文明化した社会で、どう子どもを育てればよいのか」、この本の中で一貫して流れているテーマだ。これまでの伝統的な子育てのシステムが壊れてしまったことによる「ひずみ」があちこちに噴出していて、痛ましい光景が社会のあちこちで見られる。これに対し、「子どもと自然」(岩波新書)の著者の河合雅雄氏は、気を揉みながら人間の成り立ちをもっと見つめようと示唆している。

   河合雅雄氏は京都大学名誉教授で日本の霊長類学の創設に加わった一人。この12月17日に開催する朝日・大学パートナーズシンポジウム「人をつなぐ 未来をひらく 大学の森―里山を『いま』に生かす」で基調講演をしていただくことが決まり、河合氏を知る大学教授から薦められたのうちの一冊が上記の「子どもと自然」だ。

   霊長類学者という立場からサル社会の事例がこの本でよく出てくる。たとえば、京都大学霊長類研究所で行われているチンパジーの言語学習だ。その中のテーマで、罰型と報酬型という伝統的な調教の仕方がある。正解したチンパンジーに干ブドウを与えるのが報酬型で、不正解に罰として電気ショックを与えるのが罰型である。しかしチンパンジーの調教の方法では、罰型は学習の進度が遅く、報酬型が有効というのが定説になっている。しかも、ただ干ブドウを与えるだけでなく頭をなでたり、声をかける「ほめる」という行為がチンパンジーの学習効果をいっそう高める、と記されている。

  もう一つ事例。チンパンジーとオランウータンでは食べ物の入った箱の鍵の開けたが異なる。チンパンジーは騒がしく手でつついたり、叩いたりして試行錯誤を繰り返して鍵を開ける。オランウータンは最初はつついたりしているが、あきらめたかのように一端その場を離れボーッとしている。そのうちに確信に満ちた眼差しで一気に鍵を開ける。最終的にはチンパンジーもオランウータンも鍵を開けるまでの時間はほぼ同じ。つまり、知能にそう差はないのだ。

   翻って人間の社会、特にわれわれ日本人の社会はどうか。法律で禁止されていても、まだ体罰が後を絶たない教育現場。人間社会でも、チンパンジー型とオランウータン型などさまざまなタイプがいるのに、いまの日本の社会では大人も子どももチンパンジー型の「ハキハキ・行動」タイプが良しとされている。オランウータン型は「引きこもり」や「ニート」と言ったマイナスイメージで見られ、理解され難いのだ。

   上記の話を引き合いに出すと、サル社会と人間社会は違う、と目くじらを立てる人もいるだろう。自明の理だ。もちろん、河合氏も著書の中で、「サルの話がたくさん出てくるが、それらは比喩や相似として述べているのでなく…」とことわりながら話を展開している。ただ、「ひずみ」が生じているいまの社会の中で、進化したサルである人間を見つめ直すには、霊長類の進化をベースにそのレールの上に人間がいるという視点を持つと、見えてくる世界も多くあるのだ。

 ⇒1日(木)朝・金沢の天気  はれ