★モンキーパワーを借りよう

★モンキーパワーを借りよう

 能登半島地震から2週間余り、いまだに370人ほどの被災者が避難所での生活を送っている。窮屈な環境が招くとされる「エコノミークラス症候群」などを防ぐため、保健師の指導でお年寄りらが毎日30分間ほど、手を回したり伸ばしたりといった体操をしている。何しろ先の新潟県中越地震で亡くなった67人のうち、51人は避難生活によるストレスや疲労、エコノミークラス症候群などによる関連死だったといわれる。

  中越地震でボランティア経験もある地元・輪島市門前町のN・Oさん(52)から聞いた話では、避難所生活が長くなってくると、気力が弱ってくるせいか、お年寄りは外に出たがらなくなる。「外に出て深呼吸するだけでも随分といいのだが」と心配する。

  そこでなんとかお年寄りに外に出てもらう方法はないかと一計を案じ、ひらめいたのが「お猿さんの力を借りよう」。周防(すほう)猿回しの伝統芸能で全国を回っている村崎修二さん(59)が相棒の安登夢(あとむ)=オスの16歳=を連れて4月20日から石川県に入るという連絡を以前受けたのを思い出した。そこで村崎さんに電話をすると、「慰問ボランティア、ぜひやりましょう」と話が即決まった。

  村崎さんとは去年のゴールデンウイークに金沢大学角間キャンパスで猿回し公演と、文化講演をしていただいた縁でその後何度かお話をさせていただた。村崎さんは、作家・司馬遼太郎の「風塵抄」(中央公論社)の中に「おサルの学校」というタイトルに出てくる。日本の霊長類研究の草分けである今西錦司博士が村崎さんに「おサルの学校」をつくってほしいと依頼した経緯について記されている。その後、司馬氏から「あなたはサルのおかげで人間の大ザル(今西博士)とめぐり会えたんや」と声をかけられたことあったそうだ。

  その村崎さんから「お猿とお年寄りは相性がいい」「猿回しの芸を一番喜んでくれるのはお年寄り、それもおばあちゃんが喜ぶ」「安登夢が棒のてっぺんに上ってスッと立つと、たいがいのお年寄りは『有り難い、有り難い』と合掌までしてしてくれる」と何度か話してくれたのを思い出した。そのモンキーパワーを活用して、お年寄りを運動場に誘い出そう、そして少しでも元気を出してもらおうというアイデアなのだ。今月21日午後、輪島市門前町などで「猿回し慰問ボランティア」を実施する。

⇒10日(火)夜・金沢の天気  はれ

☆震災と大学

☆震災と大学

 3月25日に発生した能登半島地震から10日余りたったきのう(5日)、金沢大学では震災の学術調査部会が立ち上がった。発生直後から,教員グループの学術調査や医療チームによる支援が行われていて、3月30日には学内外への対応窓口を一本化し,情報収集や連絡調整を行うための「金沢大学能登半島地震対策本部」が設置された。今回の学術調査部会は対策本部のセクションとしての位置づけである。

  今回、この対策本部のもとで個別に実施されている多様な学術調査の収集の一元化作業が行われる。また、その調査活動を大学として総合的に支援し、さらに今後の学術調査や復興支援に生かすというもの。連日、新聞やテレビで研究者が解説しているものの、それはある意味で断片的なので、総合的な報告書としてまとめる狙い。

  当日の出席者は研究者70人ほど。その席上で発言が相次いだのは、「まとめるだけだったら能登の復興の役には立たない。むしろその調査をもとに政策提言にまで踏み込んだものを」の声だった。当然といえば当然なのだが、これは簡単な話ではない。政策提言となるとそれなりの政策の予算や技術など実現性の裏づけを含めた提言内容が必要だ。事によっては膨大な作業を伴い、時間もかかる。通常の授業や研究と並行しながらの作業となる。ワンフレーズで言えば、「その覚悟でやろう」と発言者は言いたかったのである。

  大学とかかわって3年目、これまで腰が重い世界との印象だった。が、今回は「動く」との予感がした。

 ⇒6日(金)朝・金沢の天気  はれ

★花よりボランティアの日曜日

★花よりボランティアの日曜日

 金沢では平年より8日早く3月29日にソメイヨシノが開花した。そしてその初めての日曜日、本来ならば金沢の兼六園などは花見の客でにぎわうころだ。ところが「異変」が起きている。

  写真は、きょう(1日)午後0時25分に撮影した金沢城の沈床(ちんしょう)園の様子だ。がらんとしている。人通りもまばら。三分咲きほどの桜の枝が、緩やかな春風に揺れている。金沢市民ならば、この季節に目にする沈床園での花見宴会のにぎわいがない。宴に備えてのブルーシートを敷いての陣取りもいない。市民は花見を忘れたかのような静けさだ。

  一方、けさ午前6時20分、金沢市袋畠町の県産業展示館4号館前には大型バスが20台余りが横付けされていた。能登半島地震の被災地へ向かうボランティアのシャトルバスだ。きのう土曜日も市民ら880人を乗せて輪島市や穴水町の32ヵ所の避難所に向かった。きょうは人数ではさらに多いだろう。また、バスではなく、直接乗用車で向かうボランティアグループも相当多いはず。支援の輪の広がりに心強さを感じる。

  ところで、金沢城沈床園の閑散とした状態はこうしたボランティアの結集の裏表の現象と言える。「こんなとき(震災後)に花見宴会の気分ではない。自粛しよう」ということだろうか。しかし、個人的には「花よりボランティア」というより、「花もボテンティアも」である。自治体の首長ならば公人として少々の批判はあるかもしれないが…。要は周囲がとやかく言う必要はない。自分の心に正直に行動すればよいだけである。

  それにしても、沈床園は静かすぎる。で、冷静にその理由を考えてみた。30日付の朝刊各紙をチェックすると、「開花」の記事は隅に追いやられている。あるいは写真がない。とくかく目立たない扱いなのだ。テレビも同様にお天気コーナーで少し触れただけだろう。例年ならば各社は競って中継に入る。ところがその中継車は被災地にはりつけとなっている。石川県の人々の耳目は震災に集まっていて、開花宣言を知らないのではないか、というのが話のオチだ。

 ⇒1日(日)午後・金沢の天気  くもり

☆傾きつつも耐える

☆傾きつつも耐える

 倒れそうで倒れない絶妙のバランスというものがある。能登半島地震の後、3月31日に石川県珠洲(すず)市に入った。地元では古刹として知られる臨済宗のお寺「琴江院(きんこういん)」を拝観させていただいた。背戸には池を配した庭園もあり古刹の風情を感じさせる。

 地震では灯ろうが多数倒れる被害があり、「もしや」と思い、墓地に入った。案の定、3基に1つの割合で倒れる、ずれる、割れるなどの状態だった。ふと見ると、傾きつつも絶妙のバランスで難を免れた墓石があった。高さ40㌢ほどの円筒状である。手前の枯れた竹の切り株が垂直に立っているのでそれと比べると傾き加減が分かる。イタリアのピサの斜塔は傾斜角5.5度。傾きはだいたい同じかと思われるが、この墓石は円筒とは言え、バットのように上部に膨らみがついているので重心はピサの斜塔より上になる。つまり、その分鋭く傾いているということになる。

 じつはもう一つ。絶妙なバランスを保つ石積み(ケルン)が能登にある。輪島市の沖合い49㌔に浮かぶ舳倉(へぐら)島で、漁に出た漁船の目標にしようと、あるいは岩礁が多いため沖に沈んだ難破船の供養のためにと住民が石を積み上げつくった築山だ。この写真を撮影したのは14年ほど前。ご覧の通り傾きつつも日本海の風雨に耐えている造形芸術ではある。

 震災、風雨にさらされながらもバランスを保ち続けるこれらの石の造形を見て感じたことは一つ。人も同じではないか、と。順風満帆の人生というのはそうない。人間社会のストレスあるいは病魔にさいなまれながらもなんとかバンラスをとって耐えて立っている。倒れそうになりながらも倒れず自らをなんとか支えている。周囲の人をハラハラさせながらも耐えて立ち続ける。そんな情感と重ね合わせてみた。

 一つだけ誤解を避けるために言い添える。これは今回の被災者に向けたメッセージなどというものではない。被災は情感で語るものではない。

⇒31日(土)夜・金沢の天気   あめ

★破壊の時を刻んだ時計

★破壊の時を刻んだ時計

 余震の回数は減ったとはいえ、それでも28日午前8時8分に震度5弱の余震が能登地方にあった。そんな中、能登半島地震の被災地である輪島市門前町に支援ボランティアとして被災地に入った。

  余震があり危険として、これまで正式なボランティアの受け入れはなかった。いわば、きょう28日が初日である。午前8時に金沢を乗用車で出発し、寸断された能登有料道路を避けて下道を走行する。午前10時すぎに到着した。参加したのは私を含め金沢大学の職員、学生あわせて5人(男性3、女性2)。門前小学校で設置されたボランティアセンターで登録し、保険の手続きをする。センターの指示で家屋倒壊の被害がもっとも多かった道下(とうげ)地区に。何しろ25日の地震で50の家屋が全壊した。その後も余震で被害が拡大している。

  この地区の避難所ともなっている諸岡公民館の救援センターを訪ねる。ここで、被災した一人暮らしのあばあさん(72)宅の片付けの手伝いをするように指示があった。案内してくれたのはO・Nさん(52)。石川県の災害ボランティアコディネーターだが、関西に住んでいた12年前、阪神淡路大震災の被災を経験した。「大きいの二度体験しているから、もう驚かないよ」。ニヤリと笑った。

  道すがら全壊した家屋があちこちに。案内された家は外観はたいした被害がないように見えたが、内部はタンスや仏壇が倒れ、いわゆるメチャクチャな状態だった。おばあさんは「片付けたいとおもうんやけど、どこから手を付けてよいかわからん」と茫然とした様子。台所には割れた皿や茶碗が散乱し、タンスから引き出しが飛び出し、ガラス戸が割れ、さらに壁の石膏ボードがあちこちはがれて落ちている。もちろん住めないので、25日以来、避難所生活だ。預金通帳や印鑑、権利書などの貴重品は自分で探してもらい、そのほかのものを片付け、あるいは廃棄処分にする作業を手伝った。

  午前10時半ごろに始め、途中お昼休憩(弁当は持参)の1時間をはさんで15時00分に1軒目が終わった。続いても一人暮らしのおばあさん(75)宅での作業。自宅のほかに納屋が2つあり、幅3㍍ほどの農機具の棚が倒れるなど相当な被害だ。

  昔から「能登のトト楽」という言葉がある。妻がよく働くので亭主が楽をするという意味。亡き夫のあと家を守ってきた気丈なおばあさんたちだが、地震でメチャクチャになった自宅を片付けようにも、どこから手を付けてよいか自失茫然としていた。我々ボランティアがタンスや仏壇を起こして元通りにするだけで随分とヤル気を取り戻した。

  でも、住めるようにするためには屋根や柱、壁、戸など大掛かりな改修工事が必要となる。平均寿命まであと10数年。一人暮らしをするおばあさんたちに住宅投資をする余力はあるのだろうか。そんなことまで考えると、我々ボランティアの傍らで一生懸命に片付け作業をするおばあさんたちの姿がいとおしく思えた。

  作業を終え、諸岡公民館の避難所センターで作業の終了報告をして一日を終えた。それにしても、2軒の被災家屋で偶然発見したものがある。「25日午前9時42分」、一瞬の破壊の時間を刻んで針を止めた時計だった。

 ⇒28日(水)夜・金沢の天気  はれ

☆メディアのツボ-48-

☆メディアのツボ-48-

 能登半島地震の被災現場を訪ねた(26日)。家屋被害が集中しているのは、輪島市門前町や河井町などだ。中でも、門前町道下(とうげ)地区では一気に50戸が全壊し、余震があるごとにその数が増えている。以下はそこで見たマスメディアの光景だ。

     倒壊の瞬間を期待するカメラマン

  道下には地元テレビ局をはじめ、東京キー局のSNG車(通信衛星を使った映像素材をリアルタイム伝送)が6台あった。NHK、日本テレビ、TBS、新潟テレビ21(テレビ朝日系)、テレビ東京、石川テレビ(フジ系)と日本のテレビ系列が勢ぞろいしている。朝、昼、夜のニュース番組に中継を入れるためだ。

  通りを歩いていると、テレビカメラを据えつけたグループがあった。中には、スチールカメラを持ったカメラマンもいる。彼らが見つめて方向はただ一点。道路向こうの傾きかけた家屋だ。この家屋が余震で倒壊する瞬間を撮影するためだ。この日も14時46分に震度5弱の揺れがあり、被害は拡大している。

  プロのカメラマンとすると、家屋倒壊の瞬間というのは迫力ある映像に違いない。しかし、住民感情に立てば、隣家が砂ぼこりを立てながら崩れ落ちるを見るのは忍びない。ましてやその家の持ち主にとってはいくら修復は難しいとはいえ、家が倒壊する姿を見るのは心痛だろう。

  確かに、クールにマスメディアの論理で考えれば、被害状況が迫力ある映像を持って放送されることにより、国や地方自治体を動かし、復旧活動も進むという効果はある。しかし、いま住民はそこまで考えてはいない。

 人権侵害でもなく、メディアスクラム(集団的過熱取材)でもない。が、崩れ落ちるのを期待して待つカメラマンの存在に静かな憤りを感じる。これが率直な住民感情であろう。

 ⇒27日(火)朝・金沢の天気  はれ  

★倒壊と高齢化の被災地

★倒壊と高齢化の被災地

 きょう(26日)、能登半島地震の被災地を同僚の研究員と訪ねた。今後進むであろう復旧作業に金沢大学の学生ボランティアをどこにどう派遣すればよいのか、現地のボランティア受けれグループとの打ち合わせをするためだ。

  被害状況はマスメディアで紹介されているより、相当大きい。まず、能登への幹線である能登有料道路が陥没で一部の区間(内灘-柳田)しか使えない。さらに、支線の道路は陥没に加え、段差や「うねり」があり、速度は出せない。

   家屋被害が集中しているのは、輪島市門前町や河井町などだ。中でも、門前町道下(とうげ)集落では一気に50戸が全壊し、余震があるごとに、その数が増えている。また、液状化現象で道路の亀裂に噴き上げられた土砂が乾燥して、いたるところに砂ぼこりが舞っている。大事に至る火災は発生していない。

  門前町は江戸時代に北前船の寄港地として栄えたところ。その北前船資料館で有名な「角海家」が崩落寸前の状態だ。強い余震で倒壊の恐れがある。ほか、興禅寺など仏閣が全壊、総持寺祖院は灯篭が倒れたりの被害があったものの、本堂や庫裏などは無事だった。

   写真を撮りながら歩いていると、災害の後片付けをしているおばあさんがいた。この地区は高齢化率47%、冠婚葬祭などの共同体としての活動ができなくなるといわれる「集落集落」に近いづいているのだ。復旧には若いボランティアの手が必要だと実感した。

  26日夜、外の気温は4度。放射冷却現象で気温が下がっている。避難生活を送る人は輪島市門前町だけでざっと1500人。中には、家屋が倒壊し、畑のビニールハウスで寝泊りをしている家族もいる。この寒さはこたえているはず。

   旧・門前町役場で設置されたボランティアセンターでは余震が収まる見通しの28日から毎日200人規模のボランティアを金沢から受けれる段取りをしている。内容は、被災地での後片付けや避難所への食事の運搬、飲料水の高齢者宅デリバリーなどさまざまにある。学内のボランティア団体に対し活動参加の呼びかけを始めている。

 ⇒26日(月)夜・金沢の天気   はれ

☆能登地震ショック

☆能登地震ショック

 きょう25日9時42分の揺れは相当だった。震源は能登半島の輪島沖だが、金沢市内にある自宅(木造2階)でも相当の揺れを感じた。家全体が持ち上がるような、そんな揺れである。その時、私は横になっていたので特にそう感じたのかもしれない。この揺れで、我が家のホームエレベーターが止まった。私の実家(能登町)には電話がつながらない状態になっている。

 11時05分現在、私の実家(能登町)には電話、携帯電話ともにがつながらない。12時05分に金沢大学「能登半島 里山里海自然学校」の赤石大輔・常駐研究員とは携帯電話でつながった。「揺れは大きかったものの落下したり、家屋の損壊はない」という。いまから自然学校の方を見に行くということだった。

震度は石川県の七尾市、輪島市、穴水町で震度6強、志賀町や能登町などで震度6弱、珠洲市で震度5強を観測した。マグニチュードは7.1だった。石川県で震度5以上の地震を観測したのは、2000年6月の石川県西方沖地震(震度5弱、M6.2)以来。

 12時25分現在。輪島で52歳の女性1人が死亡、40人が病院に運ばれている、というニュースが流れている。NHKのテレビ画像では、市内の重蔵(じゅうぞう)神社の鳥居(石柱)が倒壊していた。また、珠洲市と輪島市の境にある「垂水(たるみ)の滝」周辺では山の中腹部から道路に落石があった。巨石のようだった。道路も陥没している。復旧にも時間がかかる。これから春の観光シーズン、観光産業に与える影響は甚大だろう。

★能登の地震と津波

★能登の地震と津波

 30年ほども前に読んだ小松左京のSF小説「日本沈没」では、ユーラシアプレートに乗っている能登半島など日本列島は太平洋プレートに押され沈没するが、最後に沈むのが能登半島という設定だったと記憶している。そんな印象から、能登は地震の少ない地域だと、思っていた。ところが、今回は2004年10月23日の新潟県中越地震(震度7)に次ぐ、震度6強である。新潟では59人が死亡、4800人以上が負傷し、新幹線が脱線した。今回の能登でも庭で倒れた灯篭の下敷きになって52歳の女性1人が亡くなっている。

  能登では1993年2月7日にも震度5の地震があった。22時27分、能登半島北方沖を震源とするマグニチュード6.6の地震が発生。輪島で震度5、金沢震度4を観測した。輪島での震度5は観測史上初めて、金沢の震度4は1948年の福井地震以来であった。震源地に近い珠洲市では場所によって震度6に達していた可能性があり、被害は同市を中心に発生した。裏山の崩土による神社の本殿・拝殿の倒壊のほか、住宅の損壊22棟、木ノ浦トンネルの崩落など道路被害141ヵ所、陥没した道路へ車が突っ込んで運転者がケガをしたのをはじめ屋内で29人が転倒物や落下物によって負傷したが死者はなかった。(「能登半島沖地震被害状況調査報告」=1993年2月11日調査・金沢大学理学部 河野芳輝・石渡明=より)

 このほか、私自身、津波を体験している。忘れもしない1983年5月26日正午ごろ、秋田沖が震源の日本海中部沖地震が起きた。確か、輪島では震度そのもは3だったが、猛烈な津波がその後に押し寄せた。高さ数㍍の波が海上を滑って走るように向かってくるのである。ご覧の写真は当時の新聞記事(北國新聞)だ。当時、私は輪島で新聞記者の支局員だった。輪島港が湾内に大きな渦が出来て、写真のように漁船同士が衝突し、沈没しかかっている船から乗組員を助け上げているアングル。この写真は新聞の一面で掲載された。現場に近づいて、数回シャッターを切って、すぐ逃げた。大波が間近に見えていたからである。

⇒25日(日)午後・金沢の天気  くもり

★メディアのツボ-47-

★メディアのツボ-47-

 関西テレビの「発掘!あるある大事典」のデータ捏造問題で、関テレが委嘱した外部調査委員会は3月23日、調査報告書を公表した。報告書は150ページ余り。小委員会で元検事の弁護士18人を配置し、事件捜査の手法で、かつての番組関係者、広告代理店担当など70人から「事情聴取」を行った。延べ5000時間、2ヵ月かけて520回の番組すべてをチェックし報告書をまとめた。内容は相当に厳しい。報告書要旨に関しては24日付の朝日新聞が詳しい。

     浮かび上がった「捏造現場の闇」

  問題があった番組は「納豆ダイエット」(07年1月7日放送)を含め16番組。その内訳は、日本語のボイスオーバー(吹き替え)による捏造4件、データ改ざん4件、そのほか実験方法が不適切であったり、研究者の確認を取ってないものが8件となっている。「調査委員の指摘」の欄では委員の憤りを感じることができる。「足裏刺激でヤセる」(06年10月8日放送)では「中性脂肪などの数値で実際には増加している被験者もいるのに減少者のみ(のデータ)を採用している」と指摘し、「狡猾(こうかつ)に番組テーマに沿って視聴者の心理を操作する演出をしている」とコメントをつけている。これが刑事事件だったら、詐欺罪が成立しそうな「論告文」の書き方ではある。

  報告書では関テレの責任についてこう記述している。番組を捏造した責任は再委託(孫請け)先の制作会社(「アジト」など)にあるものの、委託した日本テレワークとのその制作担当者、さらにその管理・監督する立場にある関テレのプロデューサーら番組制作担当者はその不正をチェックし、防止することができなった。また、これまで健康情報を扱った番組の不祥事が相次いだが、放送責任を負う関テレの経営幹部には危機意識が薄く、再発防止のための内部統制の仕組みを構築するなどしてこなかった。これは「(関テレの)構造的な要因」とし、「関テレの取締役と番組の制作担当者らの社会的責任は極めて大きい」と指摘している。

  問題は、これら一連の不正が放送法3条の2第1項3号にある「報道は事実をまげないですること」に抵触しているかの解釈についてだ。新聞掲載の報告書要旨によると、「『発掘!あるある大事典』は報道そのものには当たらないとし、さらに関テレ側は捏造を見過ごし、結果として事実に反する内容を放送したものの、「この規定に違反したとまではいえないと考える」としている。つまり、関テレが意図的に事実を曲げたわけではない、との解釈である。

  放送法との照らし合わせによる指導や処分は、関テレが総務省に3月27日に提出する最終報告書を見ての総務省判断となるが、行政指導ならば「厳重注意」「警告」、あるいはもっと重く行政処分ならば「電波停止」「免許取り消し」となる。ただし、日本のテレビ放送の歴史53年間で行政処分が発動されたことはない。

  今回の報告書で注目したいのは再発防止への提言。ポイントは2点である。一つは経営側のコンプライアンス(法令遵守)。取締役会決議による番組制作ガイドラインや倫理行動憲章の制定と情報開示、社外取締役の選任など。二つ目は番組制作現場のコンプライアンス。番組を制作する過程での注意事項をまとめたチェックフローを作成し、捏造や人権侵害を内部的に監視する考査部門を増強することなど。中でも、制作現場における制作者の良心を養護する役割を担う「放送活性化委員会(仮称)」の設置提案は目を引く。

  この意味は、逆に言えば、これまでの制作現場は自由闊達な論議の上で成り立っていたのではなく、制作ノルマに縛られ、一部のディレクターが有無を言わさぬ雰囲気をつくり、硬直化した制作現場だったことを伺わせる。業種は違っても、「不正の現場」の雰囲気はおおむね共通している。番組の問題点を洗い出した「ヤメ検」たちはこの「捏造現場の闇」を鋭く見抜いたのである。

 ⇒24日(土)夜・金沢の天気  雨