★つゆの世ながら さりながら
お坊さんの話に初めて耳を傾けた。何かと相談に乗っていただいていた金沢大学のS教授が急逝し、昨夜通夜に参列した。57歳。急性心不全だった。
S教授はインド哲学が専門で、自ら僧籍にもあった。酒を飲み、タバコも手放さなかった。急逝する前夜も知人と楽しく酒を飲んでいた、という。遺族の話では「人間ドックにひっかかるものは何もなかった」。社会貢献室の室長であり、大学教育開放センター長という学外に開かれたセクションの現場責任者だった。センター長室の机には花が飾られ、「未決」の決済箱には本人が印を押はずだった書類がたまっていた。
57歳という仕事盛りの年齢が悔やまれる。「人間ドックにひっかかるものは何もなかった」という健康状態でありながら、なぜ。「その死は理不尽ではないのか」と思ってしまうほどに悔やまれる。肉親ならなお強くそう思うに違いない。
通夜の読経の後、「身内」であるというお坊さんがあいさつした。誰しもが同じ思いの、割り切れなさに、そのお坊さんは応えようとしていた。話の中に小林一茶の句を紹介した。
「つゆの世は つゆの世ながら さりながら」
この句は一茶が幼い娘を亡くしたときに詠んだ句だという。人生を葉の上のつゆにたとえて、そのはかなさを詠むと同時に、それを受け入れることができない人間の本性を伝えていると、お坊さんは説いた。現代風に解釈すれば、「人生というのはね、はかないものなんだけど、わかっているんだけど、でもね…」という感じだろうか。別の言葉で言えば、「人は突然前触れもなく、こんなふうに逝ってしまうことがあるのはわかっているけど、でも…」ということだろうか。
もっと前向きの解釈もある。職場の同僚の尊父はこう意味付けしたそうだ。「人の人生は露のようにはかないけれども、それでもすばらしい」と。S教授の人生は人より短かったけれども、それでもすばらしい物を私たちに残してくれた。その事を忘れないでおこう。S教授の死を、次に生き抜く私たちへのメッセージとしてとらえたいと思う。
⇒15日(火)夜・金沢の天気 はれ
能登で生まれ、金沢で高校時代を過ごした。2年生の冬、クラブはESSに所属していて、県英語弁論大会に出場する幸運に恵まれた。高校は同大会で4連勝を果たしていて、5度目の栄誉がかかっていた。このため、前年度優勝者の先輩からイントネーションや発音の厳しいチェックを受けたことを覚えている。また、当時貴重だったテープレコーダーをESSの仲間から借りて、下宿で練習したものだ。
このゴールデンウイークで行われた石川県七尾市の青柏祭(せいはくさい)を見物してきた(5月4日)。この祭りの山車(だし)の大きさが半端ではない。高さ12㍍だ。ビルにして4階建ての高さになる。車輪の直径が2㍍もある。民家の屋根より高い。通称「でか山」がのっそりと街を練る様はまさに怪獣映画に出てきそうなモンスターではある。
とも言われる。先述したように、山車の高さは12㍍、上部の開きは13㍍、車輪の直径2㍍あり、山車としては日本最大級。上段に歌舞伎の名場面をしつらえるのが特徴だ。
4月29日に能登半島地震の被災地、輪島市門前町を訪れた。被災家屋の軒下でツバメが巣づくりをしていた。帰巣本能で飛来したツバメは家屋の様相が一変しているのに戸惑ったに違いない。ツバメは3月25日の能登の震災を知らない。季節は移ろっているのだ。
現在、集計中なので気がついた点だけを述べる。実は「最初に使ったメディア」はテレビでもラジオでもなく、「ユウセン」なのだ。カラオケなどの音楽配信サービスのユウセンではない。門前町地区の人たちがユウセンと呼ぶのは防災無線と連動した有線放送のこと。街頭のスピーカーと、家庭で特別に敷設したスピーカー内臓の有線放送電話が同時に音声を発する。門前町地区オリジナルの防災情報システムだ。
現在は無職の32歳の男性の話だ。震災では自宅が全壊した。9時41分、母親はたまたま愛犬をシャンプーするため、風呂場に入っていて被災した。家は全壊したものの、ユニットバスというある意味で「シェルター」に守られ、九死に一生を得た。男性は、全壊した自宅や地域の惨状をなんとかしてほしいと思い、取材に来た新聞記者に惨状を訴えるつもりで上記の話をした。
フレッシュしてもらおう、そのために、お猿さんのパワーを借りようという内容のコラムを書いた。今回はその続編である。
今回の公演に先立つ20日、奥能登のある旧家を村崎さんと訪れた。この旧家に江戸時代から残る猿回しの翁(おきな)の置き物を見せていただくためだ。チョンマゲの翁は太鼓を抱えて切り株に座っている。その左肩に子ザルが乗っている。村崎さんによると、古来からサルは水の神の使いとされ、農村では歓迎された。それを芸として、全国を旅したのが周防の猿回しのルーツである。この置き物のモデルはひょっとして、村崎さんの先祖かも知れない。
被災者へのアンケート調査や、マスメディアへのヒアリングなどを重ね、全体像を浮かび上がればと考えている。しかし、足元がおぼつかない。アンケート調査では、学生の協力を得ようと先日、講義室で100人ほどの学生に「被災者の生の声を聞いてみよう」と呼びかけたが、反応はいまひとつ。19日と20日に開くアンケートの事前説明会では学生が集まるだろうかと不安もよぎる。何しろ新学期で、学生は何かと忙しそうだ。
先日、乳母車を押した女性が鯉のぼりを見物に来ていた。大学の長い坂道を乳母車を押して来たのだろう。金沢市内では鯉のぼりを上げるスペースを持った自宅となると、郊外などに限られてくる。確かに、いまどき金沢で鯉のぼりは珍しいのである。
被災者だから、本当に何が必要なのかよく理解できる。その経験を生かし、新潟県中越地震(2004年10月)では被災地で支援活動をした経験を持つ。2週間余り、炊き出しやがれきの後片付けをした。前回のブログ(4月10日付)で紹介した「猿回し慰問ボランティア計画」は、避難所生活のお年寄りはストレスや疲労がたまりやすく、エコノミークラス症候群などにかかりやすいので、「何とか、外に出て歩いてもらうきっかけを」とアイデアを出し合ってひらめいたのが猿回し公演だ。細やかなことにまで気が回るのも、被災地で支援活動をした経験を持つからこそだ。