★続・金沢-フィレンツェ壁画物語

★続・金沢-フィレンツェ壁画物語

 金沢大学で復元されたのはイタリア・フィレンツェのサンタ・クローチェ教会大礼拝堂の壁画「聖十字架物語」の一部だ。もとのサンタ・クローチェ教会の壁画修復作業は金沢大学と国立フィレンツェ修復研究所、そして同教会の日伊共同プロジェクトとして進行している。金沢大学が国際貢献の一つとして位置づけるこのプロジェクトだ。昨年1月、プロジェクトの進みを報告するため、大学側の責任者として指揮を執る宮下孝晴・教育学部教授(イタリア美術史)をフィレンツェに訪ねた。

                  ◇

  壁画「聖十字架物語」の修復現場=写真・上=は足場に覆われていた。鉄パイプで組まれた足場は高さ26㍍、ざっと9階建てのビル並みの高さである。天井から吊られた十字架像、窓にはめられたステンドグラスなどの貴重な美術品や文化財はそのままにして足場の建設が進んだのだから、慎重さを極めた作業だったことは想像に難くない。平面状に組んだ足場ではなく、立方体に組んであり、打ち合わせ用のオフィス空間や照明設備や電気配線、上下水道もある。下水施設は洗浄のため薬品を含んだ水を貯水場に保存するためだ。それに人と機材を運搬するエレベーターもある。

  「さあ、歩いて階段を上りましょう」。現場に同行してくれた修復研究所壁画部長のクリスティーナ・ダンティさんがそう言って階段を上り始めた。エレベーターによる振動は壁画の亀裂や剥(はく)落の原因にもなりかねないので、測定機材などを運ぶ以外は極力使わないようにしているのだという。

  足場の最上階に上がると大礼拝堂の天井に手が届くほどの距離に達する。「壁画に触れないように気をつけて」とダンティさんは念を押す。宮下教授は「足場が出来る前までは下から双眼鏡で眺めていたのですが、足場に上がって直に見ると予想以上に傷みが激しく愕(がく)然としましたよ」と話す。ステンドグラス窓の一部が壊れ、そこから侵入した雨水とハトの糞で傷んだところや、亀裂やひび割れが目立つ=写真・下=。また、専門家の目では、70年ほど前の修復で廉価な顔料が施され変色が進んだところや、水分や湿気が地下の塩分を吸い上げ壁画面に吹き出した部分もある。

  修復研究所では、プロパンガスのファンヒーターを足場の床面に約2分間均等に照射し、間接的に壁画面の温度を上昇させた後に壁面から放射される遠赤外線量の違いを赤外線カメラで画像化するというサーマルビジョン(サーモグラフィ)調査を行っている。これだとまるでレントゲン撮影のように、壁画の奥深いところまでの状態を観察することができる。一方で、4人の修復士たちが「目による画面の状況確認」も行いながら、剥落や剥離がひどいところには応急処置として、傷口にバンドエイドを貼るように、小さく切った紙を慎重に貼って進行を防いでいる。専門家の目と検査器械による診断は人間ドックならぬ、「壁画ドック」とでもたとえようか。

  サンタ・クローチェ教会財産管理部の部長、カルラ・ボナンニさんは「この壁画はスケールが大きすぎて、修復のチャンスがなかなか回ってこなかったのですが、ようやく緒につき感謝しています」と金沢大学の協力を高く評価している。足場の工事看板にはアカンサスの葉を図案化した金沢大学の校章が真ん中に記されている。

 (※文は金沢大学地域貢献情報誌「地域とともに」(2006vol.4)に寄稿したものを再構成した)

 ⇒25日(日)午前・金沢の天気  はれ

☆金沢-フィレンツェ壁画物語

☆金沢-フィレンツェ壁画物語

 イタリアのフィレンツェはユネスコの世界遺産に指定されている歴史の都である。「美術のパトロン」といわれたメデイチ家が庇護した街でもある。このフィレンツェの精神的な拠りどころがサンタ・クローチェ教会。何しろ、科学者のガレリオ・ガリレイや彫刻家のミケランジェロ、政治理論家のマキアヴェッリなど世界史に燦(さん)然と名を残す偉人たちの墓がある。そのサンタ・クローチェ教会の大礼拝堂の壁画の一部が金沢大学教育学部棟で復元された=写真=。

  壁画は「聖十字架物語」という14世紀のフレスコ画。フレスコ画は、壁に漆喰(しっくい)を塗り、乾かないうちに顔料で絵を描く技法だ。復元された壁画の大きさは幅7㍍、高さ5㍍にもなる。学生、教員のほか、卒業生も加わって、32分割した壁画を1日一部分ずつ描き、今月23日までにほぼ描き終えた。顔料など多くの材料はイタリアで調達した。

  壁画復元に至る背景には金沢大学のサンタ・クローチェ教会壁画修復・調査研究プロジェクトがある。教育学部の宮下孝晴教授(イタリア美術史専攻)がNHK教育テレビ「人間講座」でルネサンス黎明期のフレスコ壁画を紹介したことがきっかけで、東京の篤志家から壁画修復のための寄付金(2億円)の申し入れがあった。金沢大学は国際貢献活動との位置づけで、大学として寄付金を管理、修復作業にあたっては国立フィレンツェ修復研究所、そしてサンタ・クローチェ教会の3者による日伊共同プロジェクトとしてスタートした。2005年から5年計画。修復の過程で、宮下教授らが復元を試みることで実践的な教育として生かせないかと昨年からプランを練ってきた。

  今回復元された壁画は、1380年代にアーニョロ・ガッティが描いた大作。実際の壁画は幅8㍍、高さ21㍍もある。7階建てのビルの壁面に絵が施されていると表現した方が分かりやすいかもしれない。そこには旧約聖書のエデンの園から始まり、7世紀の東ローマ皇帝ヘラクリウスの時代に及ぶキリスト教の黄金伝説が描かれている。今回金沢大学で復元された壁画は、キリスト教を国教として公認したコンスタンティヌス帝の母ヘレナの話。熱心なキリスト教徒であったヘレナはエルサレムを巡礼し、苦労の末にキリストがはり付けにされた十字架をゴルゴダの丘で発見する。しかし、十字架は3本あり、どれがキリストの十字架であるか分からない。そこで、通りかかった葬列に3本の十字架をかざすと、最後の一本で死者が蘇った。そこで、「真の十字架」が判明したという伝説が描かれている。

  ある意味で宗教色が強いので、論議の末、イスラム圏からの留学生が多い理系の建物を復元場所として避けるなどの細やかな配慮もなされ、実現にこぎつけた。

 ⇒24日(土)夜・金沢の天気  くもり 

★雪モードの朝

★雪モードの朝

 けさ(19日)の屋外の光景を見て、金沢の人、あるいは北陸人の季節感は一気に「冬モード」にスイッチが切り替わったのではないだろうか。薄っすらと雪化粧、初雪である。11月半ば、こんなに早く冬の訪れを感じたのは何年ぶりだろう。

 雪国の人に冬モードのスイッチが入るとどんな思考をするか。まず、車のタイヤをスノータイヤ(スタッドレス)に交換しようと考える。しかし、今回の初雪は早すぎる。おそらく一度雪が降ると、次に来るのは12月下旬だろう。すると早計にタイヤを交換すると、スノータイヤの磨耗がそれだけ大きい。でも、週間の天気予報をチェックすると、23日(金)にも雪マークが付いている。「さて、どうしよう」などと考えながら、今度は除雪用のスコップを収納小屋から出し、雪道用のブーツを用意した。で、山手にある金沢大学では雪も多いに違いないと、きょうはブーツを履いて出勤した。

 雪の予感は昨夜からあった。東京からの客人を迎えに夜の街に出た。みぞれまじり、氷雨だった。犀川大橋に立つと、身を刺すような冷たい風が一瞬に頬に当たった。

 きょうは午前9時すぎごろから、日差しが出て、屋根や街路の雪はまたたく間に消えていく。ブーツは早まった判断だったかと思いながら、大学の長い坂道を急いだ。

※写真は、金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」の周辺。屋根に雪が載り、ダイコンの葉も雪で重そうだ。

⇒19日(月)朝・金沢の天気   はれ

☆ペーパーナイフ付の月尾本

☆ペーパーナイフ付の月尾本

 東大名誉教授で「ITの伝道者」、そして文明批評家でもある月尾嘉男氏が一風変わった本を出版した。限定1000冊、私が人を介していただいた本は520番のナンバリングがされている。著書名は「鄙には稀なる」(117頁)。読み仮名はふられていないが、「鄙(ひな)には稀(まれ)なる」と読むのだろう。地方には優れた人、モノが…と言った意味合いだろうか。
 
 国内外の広告業界の動きや広告活動を紹介する週刊の専門紙「電通報」に平成18年4月から1年間連載された文をまとめたもの。主に月尾氏が全国18ヵ所で主宰する月尾塾での講演旅行などで出会った地域の愉快な人々が稀人(まれびと)として紹介されている。ちなみに、「加賀の稀人」は白波の立つ日本海をクルーザーで出航する豪快な上場企業の会長の話。この会長は創業者だけあって、物怖じしないのだが、暗雲の方向へ向かっていくので、さすがに地元の案内役が止め入った。「途中で日本海で行方不明」となっていたかもしれないと。そんな豪快さの持ち主は今日では稀人なのだろう。

 地方の疲弊が新聞メディアなどで取り沙汰されている。しかし、「鄙には稀なる」という一見、都を中心にした発想は文面からは感じられない。全国を歩く月尾氏にとって、都市とは全く違う斬新な発想が生まれる場が鄙だといわんばかりに、地域の人々に秘める力強さや情熱、心意気が行間からにじみ出ている。

 月尾氏とは遠巻きながら2度、宴席でご相伴させていただいたことがある。酔うほどに笑顔で、講演でのシャープな語りとは違って寡黙になる。おそらく翌朝、趣味のスポーツであるカヤックをこぐためのエネルギーを蓄えておられるのだと察した。

 そして、この著書の最大の特徴はカヤックのパドル型のペーパーナイフがついることだ=写真=。ページの上部をナイフで切ってページを開く。木製のペーパーナイフなので切り開くときに少々力が要る。ところで、パドルとオールはどう違うのか。調べてみると、パドルはシートに座って前向きに進む船を漕ぐ場合にパドルを使用します。後ろ向きに進む船を漕ぐときにはオールを使うのだという。大学の職場で、私はこのペーパーナイフを「逸品だろう」と見せびらかしたところ、女性スタッフが横目で「バターナイフにいいかも」とさりげなく…。

 挿画は日本画家の平松礼二氏画伯。平松氏とは高校時代の同級生にして、カヤックの弟子だとか。ナンバー付きの限定本、超有名な画伯による挿絵画、パドル型ペーパーナイフ…。おそらく2度手にすることはない稀本である。

⇒15日(木)午後・金沢の天気  くもり 

★カニ食い名人の話

★カニ食い名人の話

 日本海のズワイガニ漁が11月6日に解禁となった。ズワイガニにはご当地の呼び方があって、山陰地方では松葉ガニ、福井県では越前ガニと呼ぶ。石川県では昨年から漁協などが「加能(かのう)ガニ」と呼ぶことにしたらしい。加能とは、加賀と能登という意味である。ことしの初物は9日に食した。皿に盛られたゆでカニには青いタグが付いていて、「輪島港」と刻まれていた。つまり、輪島港で水揚げされたズワイガニという証明になっている。

 昔からカニを食べると寡黙になる、というのが常識だが、この日は様子が違った。同席したのは宮崎、福岡、大阪、奈良、東京、仙台と出身はバラバラ。すると、食べ方が慣れないせいか、「カニは好きだが食べにくい」「身をほじり出すのがチマチマしている」などという話になる。出されたカニには包丁が入っていて、すでに食べやすくしてある。これを「食べにくい」といってはバチが当たるというものだ。つまり、カニの初心者なのだ。

 そこで、席上でこんな話をつい偉そうにしてしまった。「私の友人で丸ごと一匹を5分間で食べる名人がいるんです」と。すると周囲の話がピタリと止んだ。「とにかく、包丁が入っていないので、脚を関節近くで折り、身を吸って出す。その音はパキパキ、ズーズー、その食べる姿はまるでカニとの格闘ですよ」「何とかチャンピオンでカニ食い選手権があったら間違いなく、その人が優勝です」「私はまだその域には達していないが、これまでのタイムでだいたい7分。メスのコウバコガニだったら5分で食べます」と。周囲は「さすが北陸の人はカニに対する思い入れが違うな」と、話だけで満足した様子。「カニと格闘する宇野さんの姿をぜひ見たい」という話にもなったが、さらに丸ごと一匹注文するとなるとさすがに値段が張るので話はたち切れになった。内心、ホッとした。

 その名人は実在する。福井県武生の人。私と同年代で、マスコミ業界にいたころからの友人だ。20代後半にその人とカニを平らげる時間を競争したことがある。その時のタイムが5分だった。福井の人はカニを食べ、さんざん飲んだ後、ソバを食べて仕上げる。カニとそばのことは福井の人にはかなわない、と思ったものだ。

 ついでにその名人の話。先日電話があり、福井から金沢大学の私の職場にやってきた。会社を辞めて、農業をやるという。武生は福井市と近いので出荷がしやすい。ハウス栽培で小松菜やホウレン草などを中心に作るのだという。人生が吹っ切れた感じで、ハツラツとしたいい顔だった。「50過ぎたら自分の人生。会社や家族のためではない。これからの時間、自分の人生を刻もう」と別れた。彼とカニ食い競争をしてから、かれこれ25年ほど経っている。

⇒13日(火)夜・金沢の天気  はれ

 

☆デジタル寅さん

☆デジタル寅さん

 「宇野さん、寅さんみたいですね」と大学の同僚から言われた。通勤や出張の際、すべての道具をパソコンのキャリーバッグ一つに詰めて歩いている私の姿がなんとなく寅さんのイメージなのだそうだ。

 確かにキャリーバッグはよく入る。改めてどんなモノが入っているのかチェックしてみた。1泊の出張の場合である。一日分の着替え、パソコンのACアダプター、シェーバー、くし、財布、手帳、単四電池3本、プリベイト式の乗り物カード(北陸鉄道アイカ、スイカ、地下鉄用プリベイトカード)と大学職員証)、名刺入れ、ボ-ルペン2本、マーカー(ピンク)、メモリースティック、通信用のFOMAカード、書類、ICレコーダー、デジタルカメラ、携帯電話それにモバイルPCである。重さにしてざっと10数㌔だろうか。これに、会議資料が何十セットが加わると、さらに重くなる。でも、全部一つのバッグに収納できるから不思議だ。

 東京出張の場合は、スカイや地下鉄用プリベイトカード、それに大学職員証は欠かせない。文部科学省に用事がある場合は、入り口で必ず提出を求められるからだ。また、モバイル通信の環境は常に必要なので、FOMAカードは欠かせない。ただ、ACアダプターは意外と重い。いずれにせよ、出張とオフィス環境の確保という2つのコンセプトがこのバッグに詰まっている。

 モバイルPCは商品化される10数年前はラップトップPCを持ち歩いていた。これは重さが20キロ近くあった。このころキャリーバックはなく、旅行用バッグにPCを入れていた。その後、PCがノート化してキャリーバッグが開発され、それが旅行バッグ化した。格段の進歩である。

 自慢ではないが、PCのキャリー歴はもう10数年になる。そこで同僚に言い返した。「せっかくだったら、デジタル寅さんといってほしい」と。

⇒2日(金)午後・金沢の天気  はれ
 

★中越沖地震から3ヵ月

★中越沖地震から3ヵ月

 ことし日本海側で起きた地震が能登半島地震(3月25日)と新潟県中越沖地震(7月16日)だ。ともに震度6強。断層の数だけ地震はいつか起きるとはいえ、なぜ日本海側でこうも続くのかと思ってしまう。2004年10月23日の新潟県中越地震を入れるとこの3年で3回もだ。

 今月21日と22日、中越沖地震で震度6強の震災に見舞われた新潟県柏崎市を訪ねた。被災直後、同市では避難所が71カ所で開設され、ピークで9859人の被災者が避難所生活を余儀なくされた。JR柏崎駅のすぐ近くに仮設住宅が建てられていた。9万4千人の都市のど真ん中が被災地だった。

 震災から3カ月を経ているものの、思ったより復旧が遅れているとの印象を受けた。何しろ、アーケード商店街の歩道のあちこちにおうとつがあって歩きにくい。2回もつまずいた。路地裏の住宅街に入ってみると、全壊した家屋がそのままの姿で残っていた=写真=。

 復旧は遅れているのか。その理由について、取材のため訪れた同市のコミュニティ放送「FMピッカラ」の放送部長、舟崎幸子さんがこう解説してくれた。最近の中越沖地震の関連ニュースは柏崎刈羽原発の「地盤問題」に集中していて、街の復興にはスポットが余り当たっていない。すると、傍から見る視聴者は、街中はすでに復興しているものと視聴者は錯覚するのではないか、と。

 解説を加える。能登半島地震の場合、能登有料道路が随所に崩壊し、それが「生活の大動脈が断たれた」と繰り返しマスメディアで取り上げられた。すると、行政も復旧ポイントに優先順位をつけて全力投球で工事をする。能登有料道路は2ヵ月後の5月の観光シーズンには仮復旧していた。それを「県土木の意地」と地元の人たちも賞賛したものだ。

 ところが、中越沖地震の場合、マスメディアを通した耳目が柏崎刈羽原発に集中してしまうと街の復旧や復興の様子が県民・視聴者には見えにくくなってしまう。もちろん行政は全力投球しているだろう。被災地も能登に比べ広く、復旧工事が行き渡っていないのかもしれない。中越沖地震の復興は、原発というシリアスな問題がある分、盲点ともなりかねないのではないか。柏崎の街を歩きながら、そんな気がした。

⇒23日(火)朝・金沢の天気   くもり

 

☆続「里山マイスター」のこと

☆続「里山マイスター」のこと

 前回で紹介した「能登里山マイスター養成プログラム」は2つの講座で構成されている。一つは金曜日(午後6時20分‐7時50分・能登空港ターミナルビル)の公開講座と、土曜日(午前9時‐正午・珠洲市の「里山マイスター能登学舎」)の本講座である。教員スタッフは週末が忙しい。

  きのう19日(金)は3週目の講義だったが、ハプニングが起きた。講義タイトルは横浜国立大学・松田裕之教授の「身近に起きる生態系のリスク」。教授は羽田空港から能登空港に飛び、午後3時5分に到着予定だった。ところが、能登空港の上空まで飛行機は来たが、霧のため着陸できず、30分も上空を旋回した後に羽田に引き返した。「しかたない。今回は休講にしよう」と話し合っていた。すると、フラントインフォメーションで「再び能登空港にフライトする」というのである。その時間は、午後5時50分に羽田発で到着は午後6時30分。教授からも連絡があった。「この時間だと開始は遅れるものの授業は内容的にできる」と。「休講はしない。準備を始めよう」と教員スタッフの動きは再び慌しくなった。

  20分遅れで松田教授の授業は始まった。冒頭での話。「リスクはつきもの、もう一便早い飛行機に乗るべきだった」「このような場合、乗客の中には感情が高ぶって乗務員にくってかかる者がいるが、皆さん落ち着きを払っていた」と。授業で印象が残った言葉。最近はリスク・マネジメントだけではなく、リスク・ガバナンスという言葉も使うそうだ。教授流の解釈は「丸く治める」。日本流のリスク管理方法である。

 ※写真:再フライトで能登空港に到着したANA749便=10月19日午後6時35分ごろ

 ⇒20日(土)朝・珠洲市の天気   はれ

★「里山マイスター」のこと

★「里山マイスター」のこと

  「金大(きんだい=金沢大学)は大きな勝負に出たね。でも、金大しかできない勝負だよ」。先日、マスコミ業界にいる友人からそのような言葉で励まされた。大きな勝負とは、平成19年度の科学技術振興調整費で採択された金沢大学の「『能登里山マイスター』養成プログラム」のこと。科振費の中でも、このプログラムは地域再生のための人材養成の拠点を形成するというミッション(政策的な使命)を帯びた国の委託費だ。地域再生という4文字に敢えて挑むプログラムに携わっている私に友人はエールを贈ってくれたのだ。

   では、「能登里山マイスター」養成プログラムで具体的に何をするのかというと、若者を能登に呼び込み、環境配慮型の農業を実践するとともに農産品の開発やグリーンツーリズムを展開するリーダーを養成する。5年間で60人以上の人材養成を目標としている。能登半島の先端に位置し、過疎化と高齢化が進んだ珠洲市に養成拠点を構え、常駐の教員スタッフを配置する。

  校舎は、廃校となった旧小学校の施設を無償で借り受け「能登学舎」と称している。農業人材を養成すると言いながら、実は、金沢大学には農学部がない。そこで、農学系の教員人材が豊富な石川県立大学にも講師派遣をお願いし、さらに地域で有機農業を実践する篤農家の協力を得ることにした。これら60人の若手が中心となって環境と農業が共存する能登の自然を再生し、トキやコウノトリの野生化計画の候補地にしていくという将来ビジョンを描いている。

  10月6日に開講式を行い授業はすでに始まっている。地域再生のためにと科振費を申請したのが今年2月18日だった。その後3月25日に能登半島地震で震度6強、7月16日の新潟県中越沖地震でも震度5弱の震災に見舞われた。震災復興という重い課題も背負った思いだ。冒頭で紹介した友人の「大きな勝負」という言葉の意味がお分かりいただけると思う。逆に言えば、地域再生と震災復興に知恵を絞ることこそが最大にして最高の社会貢献ではないか。それは地域の総合大学である「金大」しかできない勝負と自覚している。

 ※写真は、10月6日の開講セレモニーで「里山マイスター能登学舎」の看板除幕式

⇒15日(月)夜・金沢の天気   くもり

☆デープな能登=7=

☆デープな能登=7=

  能登の悩み、それは後継者がいないという現実である。昨年5月、当時の小泉純一郎首相が能登の輪島・千枚田を訪れ、「絶景だ」とほめちぎった。現実を言うと、小泉首相が眺めた棚田は4haにすぎない。その背後にある10haもの棚田は休耕あるいは耕作放棄田なのである。

        現代版「天保の飢饉」

  能登半島はキリコ祭りで有名だ。秋田の竿灯(かんとう)、青森の「ねぶた」と並び称される。キリコは担ぐものだが、写真のようにキリコに車輪をつけて若い衆が押している。かつて、集落には若者が大勢いた。しかし、人口減少と担い手不足で地域コミュニティーで運営されるキリコ祭りが成立しなくっている現実がある。車を付けてでもキリコを出せる集落はまだいい方だ。そのキリコすら出せなくなっている集落が多くなっている。

  かつて人口が急激に減少した時代があった。日本史でも有名な「天保の飢饉」である。能登も例外ではなく、食い扶持(ぶち)を探して、若者が大量に離村し人口が著しく減少した。そのとき、「この集落はもはやこれまで」と一村一墓(いっそんいちぼ)、つまり集落の墓をすべて一つにまとめ、最後の一人が墓参すればよいとしたのである。集落の終(しま)いを意識した選択だった。その一村一墓の集落がいまでも石川県珠洲市三崎町にある。結果的に、その集落は絶滅しなかったが、その一村一墓の風習だけが今でも残っている。が、21世紀に入って、現実として一村一暮の制が必要になるかもしれない。天保の飢饉を生き延びた村人の子孫たちがいま都会に出て、帰って来ないのである。

  これは能登だけの現象ではない。全国がそうなのだ。先祖が心血を注いで開墾した田畑が数年で野生化する。墓地すら判別不能に荒れている集落がある。その子孫は都会に出て、何をしているのだろうか。子供に「私達の祖先はどこで何をしていたの」と聞かれて、その荒れた祖先の地を案内できるのだろうか。そんなことを想像すると哀しくなってくる。

  地方にこそ人材が必要だと思う。にもかかわらず、人材を東京に一極集中させ、それで日本が成り立っているという構図だ。その構図が能登の祭りからよく見えるのである。石川県の推定によると、現在の奥能登の4市町の人口は8万1千人、それが7年後の2015年には6万5千人と20%減となる。人の胃袋、口、目が2割も減る。

 ⇒7日(日)夜・金沢の天気   はれ