☆避難住民を難民と見る視線

☆避難住民を難民と見る視線

 新潟県中越沖地震の被災地、柏崎市で奇妙な「事件」が起きた。産経新聞のインターネット版などによると、同市側は日本テレビ系列の中京テレビ(名古屋市)のスタッフが避難所のテントに「隠しマイクを仕掛けた」と公表した。中京テレビ側は市に「中継で背景の音を拾うためのワイヤレスの集音マイクで、隠す意図はなかった」と説明したという。

  事実関係を記事で拾うと、マイクが設置されていたのは学校の屋外に張られた炊き出し用のテントで、21日午後4時ごろ、スタッフが支柱にマイクを張り付けているのを職員が見つけて注意した。スタッフはすぐに取り外した。住民からの要望で、市側が一時的に報道各社に避難所(学校)での取材の自粛を要請。中京テレビは市に同日午後6時からのニュースで中継するつもりだったと説明したが、設置は各社が屋内での取材を自粛していた最中だった。中京テレビの現地担当デスクは、「隠しマイクという発表があったようだが、誤解だったということを理解していただいた。現場の説明不足で誤解を受けたことは遺憾だ。反省している」と話しているという。

  どんな説明があったとして、無断で仕掛けたのであれ、「隠しマイク」ではないか。要は、取材の自粛要請があったので、中京テレビ側はテント周辺での中継は無理と判断し、その代わり、離れた位置から望遠のカメラで現場を撮影し、中継することにした。しかし、遠く離れると現場音が取れないので、マイクを現場のテントの柱に仕掛けた、ということなのだろう。

  被災者からの要望での取材の自粛要請はある意味で当然のことなのである。16日の震災発生から5日たって、避難住民にとっては避難所はすでに「生活の場」となっていて、いわば、お互いが顔見知り同士の共同生活の場なのである。見知らぬ顔は、メディアの記者たちなのである。その記者たちが避難所に入ってきて、炊き出しの中身まで取材していく。これは避難住民にとって、とても違和感があるに違いない。事実、私が「震災とメディア」というテーマで調査した能登半島地震(ことし3月25日)でも、同様に避難住民からの苦情で取材自粛の要望があった。

  避難所を運営しているのは地区の自治体であり、炊き出しを行っているのはボランティアではなくその地区の住民のはずである。炊き出しの野外テントは共同の炊事場、つまり生活の場である。そこにマイクを仕掛ける(設置する)というのはどんな感覚だろうか。あたかも、被災地から逃れてきた不特定多数の難民がボランティアに支えられ、食事をするというイメージを描いての取材だとすれば、それは勘違いの視線ではないのだろうか。

  取材の自粛を要請する住民の気持ちを理解せず、しかも、「生活の場」である避難所のテントにマイクを断りなく仕掛ければ、これはどう見ても「隠しマイク」ではないのか。少なくても避難住民はそう理解するだろう。雑踏の集音マイクとはわけが違う。22日午前8時現在、中京テレビのホームページを閲覧しても、この一件についての説明がないのでテレビ局側のスタンスがよく理解できない。

 ⇒22日(日)午前・金沢の天気  くもり

★被災者にこそ情報を

★被災者にこそ情報を

 きょう(16日)の休日、金沢の自宅でパソコンに向かっているとグラリときた。12日午後11時半ごろにも能登半島で地震2の地震があったので、その関連と思った。しかし、きょうの地震は断続的に、時間的に長く感じた。

   揺れが収まり、しばらくして能登半島地震の学術調査でお世話になった、輪島市門前町の岡本紀雄氏から電話があった。「能登の学校の方は大丈夫だったの、珠洲が結構揺れたようだけど…」と。書き物を急いでいたので、テレビの地震速報を見ていなかった。岡本氏は地震にはとても敏感に反応する。何しろ、阪神淡路大地震(震度7)と能登半島地震(震度6強)を体験し、自らを「13.5の男」と称している。

   =午前10時13分、新潟県柏崎市など震度6強=

  気象庁の地震速報をWEBでのぞくと、震源は能登半島ではなく、新潟県上中越沖となっている。金沢は震度2だった。やはり断続に3回の震度6強が揺れがあった。これが長く感じた理由だった。  能登半島・珠洲市も震度5弱。相当の揺れである。能登に住んでいる岡本氏に言われて初めて相当に広範囲な揺れであったことが理解できた。そこで、珠洲市に拠点を置く「能登半島 里山里海自然学校」の常駐研究員に電話を入れた。彼はすでに学校に到着していて、「特に被害は見当たりません」と。ひと安心した。この校舎では、ことし10月から「能登里山マイスター」養成プログラムという国の委託事業がスタートし、常駐研究員2人と受講生15人が入ることになっている。施設に被害があるとスケジュールに影響するからである。

  東京からも電話があった。「月刊ニューメディア」という専門誌の編集長からだった。「宇野さん、そちらも相当に揺れようですが、被害はありませんでしたか」と。能登半島地震の学術研究「震災とメディア」の中間報告の原稿を掲載していただたこともあり、気にしていただいたようだ。「被害はおかげさまでありませんでした」と答えると、「でも宇野さんの研究テーマはこれからも続きますね…」と。確かに、震災とメディアは切ろうにも切れぬ関係である。ワイドショー向けのドラマ仕立て人間ドキュメント、メディアスクラム、風評被害、コンビニ買占め・・・。それより何より、被災地にフィードバックがない情報発信の仕方は、メディアの構造的な問題である。

  読売新聞インターネット版はきょうの地震関連でさまざまなことを伝えている。輪島市は、能登半島地震で寄せられた救援物資のうち、未使用の水や食料などを今回の地震の被災地に送ることを決め、トラックへの積み込みを始めた、とのニュースがあった。何の被害も受けなかった人は、このニュースを好意的に感じるだろう。しかし、この情報は被災者には届かないだろう。インターネットを物理的に利用できないだろうし、その余裕もない。もし情報が届いたとしてもまったく役に立たないだろう。被災者にとって必要な情報は、この水や食料がいつ何時ごろ、どこの被災地に届けられるのかという情報だけである。

  メディアのすべての記者とカメラマンが被災者と同じ目線を持つ必要はない。ただ、何割かは被災者と同じ目線でニュースを伝えてほしいし、被災者のための情報発信をしてほしい。一番困っている人々に、情報を欲している人々に情報を伝えてほしいからである。

 ⇒16日(休)午後・金沢の天気  くもり

☆メディアのツボ-57-

☆メディアのツボ-57-

 裁判における弁護のあり方はこれでよいのだろうか、と思ってしまう。今月9日、大阪高裁で行われた元NHK記者(26)の連続放火控訴審で、弁護側が改めて「犯行当時、心神喪失状態にあり、建物を延焼させる意図もなかった」と改めて無罪を主張したとの記事のことである。

       意識なきままにつくられる偏見

  元NHK記者は大津市などで2005年4月から6月にかけて、JR大津駅付近の住宅を全焼させるなど大津市や大阪府岸和田市で8件の放火や放火未遂を繰り返した(1審判決)。大津地裁で懲役7年の実刑判決を受け、9日に控訴審の初公判。上記の無罪を主張し、この日、結審した。判決は9月と4日に言い渡されるという。

  事件発生当時の記事を読み返すと、この記者は火災現場近くで警察から任意で事情聴取を受けた際、本人は酒に酔っていた、と報じられている。また、別の紙面では、「休みがほとんどなく、泊まり勤務も大変だ」などと他社の記者に愚痴をこぼしていたらしい。つまり、プレッシャーに弱い当時24歳の記者が酒の勢いで放火に及んだという割と単純な構図だった。

  事情聴取を受けた翌日から傷病休暇をとって、入院した。うがった見方をすれば、警察にマークされたのに気づき、あわてて病院に逃げ込んだのだろう。ところが、尾行がついているとも知らずに、後日、性懲りもなく放火を繰り返した。この時は尾行していた捜査員が火を消したのだから動かぬ証拠となった。それが現行犯逮捕ではなかったのは、入院という状態だったからだ。警察は、本人が退院したのを見届けて、主治医と相談しながら本人の責任能力が問えると判断し、逮捕に踏み切ったのだ。

  罪を軽くするために、「心神喪失状態」を声高に叫び、量刑の駆け引きに使っているが、結果として、罪を「心神」の問題にあえてすることで、心の障害を背負った多くの人たちを巻き添えにしていることにならないか。心の障害を持った人たちへの偏見というのはこうした弁護手法から生み出されることも一因であると思えてならない。

  もちろん、弁護側は「法廷で述べただけであって、メディアがそのことを大きく取り上げているにすぎない」「もし、偏見を助長しているというのであれば、それはメディアの方だ」と主張するだろう。そして、メディア側は「法廷で述べられたことを事実として取り上げたにすぎない」との立場だろう。こうして、意識なきままに偏見はつくられていく。

 ⇒9日(月)夜・金沢の天気   はれ

★メディアのツボ-56-

★メディアのツボ-56-

 3月25日の能登半島地震で「震災とメディア」をテーマに被災者アンケートなどの調査を行った。総じて、メディアの記者やカメラマンを見つめる被災者の目線は厳しいものがあることは前述した(6月24日付「震災とメディア・その3」)。今回の「震災とメディア・その4」では私自身の体験を紹介したい。

          震災とメディア・その4 

 震災の翌日(26日)に輪島市門前町の被災地に入った。能登有料道路は一部を除いて通行止めとなった。「下路(したみち)」と呼ぶ県道や市道など車で走って3時間50分かかった。金沢大学から目的地は本来1時間50分ほどの距離だ。被災地をひと回りして、夕方になり、コンビニの看板が見えたので夕食を買いに入った。ところが、弁当の棚、惣菜の棚は売り切れ。ポテトチップスなどスナック類の菓子もない。店員に聞いた。「おそらくテレビ局の方だと思うのですが、まとめて買っていかれましてね」との返事だった。

  震災の当日からテレビ系列が続々と入ってきた。記者とカメラマンだけではない。中継スタッフや撮影した映像を伝送するスタッフ。さらに、新聞社、雑誌社なども入り込み、おそらく何百人という数だったろう。このコンビニは門前地区で唯一のコンビニだ。震災当日は商品が落下したため、片付けのため閉店したが、翌日は再開した。メディアの記者たちも「人の子」、腹が減る。生存権を否定するつもりはない。ただ、「買い占めはなかったのか」と問いたいのである。実は、新潟県中越地震(04年10月)でも同じような現象が起き、住民のひんしゅくを買っているのだ。

  28日に被災者宅の救援ボランティアに入った。学生たちと倒れた家具などの後片付けを手伝った=写真=。割れたガラス片などが散乱していたので、家人の了解を得て、靴のまま上がって作業をしていた。すると、何人かのカメラマンが続いて入ってきて、作業の様子を撮影した。われわれと同じように靴を脱がず取材をしていった。が、「共同通信」の腕章をしたカメラマンが靴を脱いで上がってきたので、「危ないですよ」と声をかけた。すると、「大丈夫、気をつけますから」と脱ごうとしなかった。そして帰り際に、「ボランティアお疲れさまです」と声をかけて、去っていった。それまでのカメラマンとは物腰が異なるので印象に残った。

  後日、共同通信金沢支局のN支局長とある会合で話をする機会があり、この話をすると、さっそく調べてくれて、Iカメラマンと分かった。Iカメラマンに興味がわき、教えてもらった先に後日電話をした。突然の電話の事情を話すと、I氏もわれわれのことを覚えていてくれていた。「あす(6月27日)からアメリカ・大リーグに取材に行く」という。被災地でのボランティア経験があるのかと尋ねると、「ない」といい、ただ、これまで阪神淡路大震災、新潟県中越地震、スリランカの大洪水など災害現場で取材した経験があり、「被災者の気持ちに立った取材を心がけている」という。「私はふてぶてしくないれないタイプかもしれない」と淡々と。

  プロは場数を踏んで「ふてぶてしくなる」のではなく、経験を積んで「謙虚になる」のだ。受話器を置いた後で、そんなことを思った。

※写真:金沢大学の学生ボランティアによる被災住宅の後片付け=輪島市門前町道下・3月28日 

⇒30日(土)午後・金沢の天気  くもり

☆メディアのツボ-55-

☆メディアのツボ-55-

 あす25日で能登半島地震から丸3ヵ月である。被災地での調査を終えて思うことは、高齢者だけでなく、誰しもが一瞬にして「情報弱者」になるのが震災である。問題はそうした被災者にどう情報をフィードバックしていく仕組みをつくるか、だ。その中心的な役割をメディアが果たすべきと考えるのだが、実行しているメディアはこれまで述べたようにごく一部である。メディア関係者の中には、「メディアはもともと『社会の公器』だから、日々の業務そのものが社会貢献である。だから特別なことをする必要はない」と考えている人も多いのではないだろうか。

             震災とメディア・その3

  聞き取り調査の中で、輪島市門前町在住の災害ボランティアコーディネーター、岡本紀雄さん(52)の提案は具体的だった。「新聞社は協力して避難住民向けのタブロイド判をつくったらどうだろう。決して広くない避難所でタブロイド判は理にかなっている」と。岡本さんは、新潟県中越地震でのボランティア経験が買われ、今回の震災では避難所の「広報担当」としてメディアとかかわってきた一人である。メディア同士はよきライバルであるべきだと思うが、被災地ではよき協力者として共同作業があってもよいと思うが、どうだろう。

  もちろん、報道の使命は被災者への情報のフィードバックだけではないことは承知しているし、災害状況を全国の視聴者に向けて放送することで国や行政を動かし、復興を後押しする意味があることも否定しない。  今回のアンケート調査で最後に「メディアに対する問題点や要望」を聞いているが、いくつかの声を紹介しておきたい。「朝から夕方までヘリコプターが飛び、地震の音と重なり、屋根に上っていて恐怖感を感じた」(54歳・男性)、「震災報道をドラマチックに演出するようなことはやめてほしい」(30歳・男性)、「特にひどい被災状況ばかりを報道し、かえってまわりを心配させている」(32歳・女性)。

  ある意味の「メディアスクラム」(集団的過熱取材)を経験した人もいる。同町の区長である星野正光さん(64)は名刹の総持寺祖院近くで10数席のそば屋を営む。4月5日に営業再開にこぎつけた。昼の開店と同時にドッと入ってきたのは客ではなく、テレビメディアの取材クルーたちだった。1クルーはリポーター、カメラマン、アシスタントら3、4人になる。3クルーもやって来たから、それだけで店内はいっぱいになり、客が入れない。そこで1クルーごとに時間を区切って、順番にしてもらったという。「取材はありがたかったが、商売にならないのではどうしようもない」と当時を振り返って苦笑した。

  こうした被災者の声は誇張ではなく、感じたままを吐露したものだ。そして、阪神淡路大震災や新潟県中越地震など震災のたびに繰り返されてきた被災者の意見だろうと想像する。最後に、「被災地に取材に入ったら、帰り際の一日ぐらい休暇を取って、救援ボランティアとして被災者と同じ目線で現場で汗を流したらいい」と若い記者やカメラマンのみなさんに勧めたい。被災者の目線はこれまで見えなかった報道の視点として生かされるはずである。

 ※写真:心の和みになればと被災地の子供たちに切り花をプレゼントする金沢の市民ボランティアのメンバーたち=輪島市門前町・3月28日

 ⇒24日(日)夜・金沢の天気  あめ

★メディアのツボ-54-

★メディアのツボ-54-

 震災の翌日(3月26日)から避難所の入り口には新聞各紙がドッサリと積んであった。新聞社の厚意で届けられたものだが、私が訪れた避難所(公民館)では、避難住民が肩を寄せ合うような状態であり、新聞をゆっくり広げるスペースがあるようには見受けられなかった。そんな中で、聞き取り調査をした住民から「かわら版が役に立った」との声を多く聞いた。そのかわら版とは、朝日新聞社が避難住民向けに発行した「能登半島地震救援号外」だった。

             震災とメディア・その2

  タブロイド判の裏表1枚紙で、文字が大きく行間がゆったりしている。住民が「役に立った」というのは、災害が最も大きかった被災地・輪島のライフライン情報に特化した「ミニコミ紙」だったからだ。

  救援号外の編集長だった記者から発行にいたったいきさつなどについて聞いた。救援号外は、2004年10月の新潟県中越地震で初めて発行したが、当時は文字ばかりの紙面で「無機質で読み難い」との意見もあり、今回はカラー写真を入れた。だが、1号(3月26日付)で掲載された、給水車から水を運ぶおばあさんの顔が下向きで暗かった。「これでは被災者のモチベーションが下がると思い、2号からは笑顔にこだわり、『毎号1笑顔』を編集方針に掲げた」という。さらに、長引く避難所生活では、血行不良で血が固まり、肺の血管に詰まるエコノミークラス症候群に罹りやすいので「生活不活発病」の特集を5号(3月30日付)で組んだ。義援金の芳名などは掲載せず、被災地の現場感覚でつくる新聞を心がけ、ごみ処理や入浴、医療診断の案内など生活情報を掲載した。

 念のため、「本紙県版の焼き直しを掲載しただけではなかったのか」と質問をしたところ、「その日発表された情報の中から号外編集班(専従2人)が生活情報を集めて、その日の夕方に配った。本紙県版の生活情報は号外の返しだった」という。

  カラーコピー機を搭載した車両を輪島市内に置き、金沢総局で編集したデータを送って「現地印刷」をした。ピーク時には2000部を発行し、7人から8人の印刷・配達スタッフが手分けして避難所に配った。夕方の作業だった。

  地震直後、同市内では5500戸で断水した。救援号外は震災翌日の3月26日から毎日夕方に避難所に届けられ、給水のライフラインが回復した4月7日をもって終わる。13号まで続いた「避難所新聞」だった。

※写真:避難所の入り口には新聞が積まれてあったが、被災者が新聞を広げるだけのスペースはあったのだろうか=輪島市門前町の避難所・3月26日

 ⇒23日(土)午前・金沢の天気   はれ

☆メディアのツボ-53-

☆メディアのツボ-53-

 ことし3月25日の能登半島地震は死者1人、300人以上の重軽傷者を出す惨事となった。入梅したものの、今でもまだ青いビニールシートで覆われた屋根が能登のあちこちに見える。被災地の大きな特徴は、メディアとの接触機会が少なく「情報弱者」とされる高齢者が多い過疎地域ということだった。被災者はいかに情報を入手し、情報は的確に到達したのだろうか・・・。そんな思いから金沢大学震災学術調査に加わり、「震災とメディア」をテーマに調査活動を進めてきた。中間報告であるものの、調査から浮かび上がってきたことを述べたい。

           震災とメディア・その1

   震度6強に見舞われ、能登半島全体で避難住民は2100人余りに及んだ。多くの住民は避難所でテレビやラジオのメディアと接触することになる。ここで、注目すべきことは、門前町を含める45ヵ所のすべての避難所にテレビが完備されていたことだ。地震で屋根のテレビアンテナは傾き、壊れたテレビもあったはず。一体誰が。

  この「テレビインフラ」を2日間で整えたのはNHK金沢放送局だった。翌日26日から能登の全避難所45カ所を3班に別れて巡回し、アンテナなどの受信状態を修復し、さらにテレビのない避難所や人数が多い避難所には台数を増やし、合計12台のテレビを設置した。用意周到だったのは、昨年5月に金沢放送局では災害時に指定される予定の避難所にテレビが設置されているかどうか各自治体に対し予備調査を行っていた。このデータをもとにいち早く対応したのである。

  NHKは報道機関では唯一「災害対策基本法」が定める国の指定公共機関であり、災害報道と併せハード面のバックアップは両輪である。が、それだけではない。金沢放送局はこんなアフターフォローも行っている。地震が起きたのは3月の最終週に入る日曜日とあって、被災者から連続テレビ小説「芋たこなんきん」の最終週分を見たいとの要望や、大河ドラマ「風林火山」を見損ねたとの声があり、著作権をクリアにした上で、要望があった13カ所の避難所に収録テープを届け、またビデオの備えがない7カ所にビデオデッキを届けた。こうした被災者のニーズを取り入れた細やかな活動があったことはテレビ画面からは見えにくいが、避難住民を和ませたことは想像に難くない。

  ようやくたどり着いた避難所にテレビがなく、情報が入らなければ余計に不安が増す。この点をNHKがきっちりとカバーしたのである。さまざまな批判がNHKに対してはあるものの、災害対応では評価されてよい。

 ※写真:テレビは避難住民の有力な情報源だった=輪島市門前町の避難所、3月26日

 ⇒22日(金)夕・金沢の天気  あめ

★続「塩釜のビジネスモデル」

★続「塩釜のビジネスモデル」

 加賀藩には徴税能力に長けた知恵者がいた。当時貴重品だった塩釜=写真=は、塩士(しおじ)と呼ばれる能登の製塩業者に13年の分割払いで貸付けられた。つまりリースされたのである。

  1年のリース代は米ベースで5斗(0.5石)だった。13年のリースのうち、藩が6年分を、鋳物師が7年分を分け合った。加賀藩は6年分を徴収する代わりに「諸役免除」と、運転資金となる「仕入銀」を与えた。13年のリース切れのものは塩士に払い下げられた。この「塩釜リース」は江戸時代初期の慶長10年(1605)には塩釜835枚、中期の元文2年(1737)年には塩釜2000枚が貸し付けられたという内容の古文書(複製)も展示されている。膨大な量の塩を独占した加賀藩は余剰となった塩を、相場をにらんで大阪に回した。

  面白いのはこのリースというビジネスモデルを中居の鋳物師たちは独自に応用し、「貸鍋(かしなべ)」という、自作農民を相手にした鍋のリース事業を展開する。「1升鍋」のリース代は米1升(1.8㍑)、2升鍋は米2升で無償修理とした。鍋釜は高根の花だったのである。これが当たってビークで3000枚の鍋リースを事業展開する。鍋だけで中居には100石の米が集まった。いまでいうコピー機の製造メーカーが事業所にメンテナンス付でリースするのとよく似ている。

  塩釜や鍋のリース事業のほか、寺社向けの梵鐘の製造販売、武具や金具の製造など産地形成がなされたものの、ある意味で官業に付随し、安穏と利益を得たツケはいずれ回ってくる。技術イノベーションへの取り組みが遅れるのである。中居が製造していた塩釜は「十鍔釜」(形太釜)と呼ばれ、底が深く、熱伝導が悪いものだった。同じ加賀藩の高岡鋳物で生産された浅釜は直径が長く、平底だったので格段に熱伝道がよかった。そこで、能登の塩釜はこの高岡釜に取って代われる。元文2年(1737)には2000枚を誇った貸付物件は、明治12年(1879)に600枚と激減している。明治以降、中居の鋳物職人たちは高岡産地などに吸収されていく。昭和9年(1934)に300年余り続いた塩釜リース事業を終えたとき、51枚になっていた。

  藩政時代、米1石は武士の1年の生活給の目安だった。加賀百万石というのは100万人の武士を雇える財力ということである。その租税はこうした、加賀藩によってハンドリングされた塩士や鋳物師、農民の労働の結晶でもあった。

  これでコラムを終わっては「中居の鋳物物語」はさみしい。中居の鋳物の伝統は消え去ってしまったのか。いや、いまに生きている。天正9年(1581)、初代の加賀藩主である前田利家は、中居から一人の有能な鋳物師を金沢に呼び寄せ、禄を与えて武具などの鋳造を行わせた。宮崎義綱(みやざき・よしつな)だった。その子・義一(よしかず)は、加賀藩に召し抱えられた茶堂茶具奉行の千宗室仙叟によく師事し、茶の湯釜の制作を学び、多くの名作を残す。仙叟から「寒雉(かんち)」の号をもらい、加賀茶の湯釜の創始者として藩御用釜師のステータスを得る。その技術は現在も代々脈打つ。「寒雉の釜」はいまも茶人の垂涎(すいぜん)の的である。

 ⇒17日(日)午前・

☆「塩釜のビジネスモデル」

☆「塩釜のビジネスモデル」

 鍋(なべ)を枚数でカウントするということを知らなかった。これまで、一つ、二つ数えていたのではないだろうか。先日、ぶらりと訪れた石川県穴水(あなみず)町の「能登中居鋳物館」でそんな小さな発見をした。

   鋳物館に入ると、ちょっと衝撃的な光景を目にすることにもなる。高さ268㌢の鋳物製の一対の灯篭(とうろう)が倒れ、あたりに散乱している=下の写真=。もともと明泉寺という近くのお寺の灯篭で、町指定文化財だ=上のパンフレト写真=。ことし3月25日の能登半島地震は造りがしっかりとしたこの建物を激しく揺さぶった。案内の女性は「痛々しいので早く補修していたのですが・・・」と申し訳なさそうに話した。でも、ある意味で、震災アメモリアルとしてこのまま保存しておいてもよいのではないかと思ったりもした。自然に倒れたのではない。能登の震災の歴史を刻んで倒れているのである。

  穴水町中居(なかい)という集落は江戸時代中ごろ、鋳物の生産が盛んで40軒ほどの鋳物師(いもじ)がいたとされる。この周囲には真言宗など寺など9ヵ寺もあり、それだけの寺社を維持する経済力があった。2003年7月に開港した能登空港の事前調査でおびただしい炭焼き窯の跡が周辺にあったことが確認され、当時、ニュースになったことを思い出した。つまり、鋳造に使う炭の生産拠点が近場で形成されていた。そして原料となる砂鉄や褐鉄鉱などが能登一円から産出され、中居に運ばれた。その技術は14世紀、朝廷が南朝(吉野)と北朝(京都)に分かれて対立し南北朝の動乱に巻き込まれた河内鋳物師が移住したともいわれるが定かではない。

  資料館での展示品でひと際大きい釜が並んでいた。直径1.6㍍ほどで底は浅い。塩釜(しおがま)と呼ばれ、塩づくりに用いられた、と説明が書きがあった。驚くのは、ピーク時には2千枚もの塩釜が生産され出回ったこと。その行き先は。加賀藩は慶長元年(1596)に、農民救済のために「塩手米(しおてまい)制度」をつくり、耕地の少ない能登で農民に玄米1石(※1石は約180㍑)を貸し与え、塩4.5石を納めさせたといわれる。この制度はその後、藩による塩の専売制度(寛永4年=1627)のベースになる。中居の塩釜はこの制度とリンクしていた。(続く)

 ⇒16日(土)午後・金沢の天気   はれ

★「ホワイトシンドローム」

★「ホワイトシンドローム」

 その光景を見て、一瞬、季節はずれの雪かと錯覚した。エゴの木の白い花が一面に落ちていた。通い慣れた道でこれまで気にならなかったのに、今年は異常に花が多かったということか。

  地球温暖化のせいか、沖縄県の石垣島と西表島の間にある日本最大のサンゴ礁「石西礁湖(せきせいしょうこ)」で、「ホワイトシンドローム」と呼ばれる原因不明の病気が急速に広がり、新たな脅威となっているという(6月12日付・読売新聞インターネット版)。水温上昇の影響でサンゴの体から植物プランクトンが逃げ出す「白化現象」がそれ。

  金沢大学角間キャンパスで見た光景は、植物がさしづめ壊(え)死するという白化現象ではない。が、今年は異常に白い花が目立つという意味で、さしずめ「里山のホワイトシンドローム」と仮に名づけてみる。エゴの木ほかに、この季節はノイバラの白い花も例年に比べ異様に目立つ。

  少々ジャンルは異にするが、モリアオガエルのボールのような白い卵塊(らんかい)が今年は例年に比べ多いな気もするが、同僚の研究員の見立ててでは例年と同じくらい。そして、エゴの木も確かに去年は少なかったが、おととしは多かった、とか。ということは「里山のホワイトシンドローム」は気のせいか…。

  ことし3月17日にアル・ゴアの映画「不都合な真実」を見て以来、さして根拠のないことまで、何かにつけ地球温暖化現象と結びつけて考えてしまっているようだ。

 ⇒13日(水)午後・金沢の天気  くもり