☆デープな能登=7=

☆デープな能登=7=

  能登の悩み、それは後継者がいないという現実である。昨年5月、当時の小泉純一郎首相が能登の輪島・千枚田を訪れ、「絶景だ」とほめちぎった。現実を言うと、小泉首相が眺めた棚田は4haにすぎない。その背後にある10haもの棚田は休耕あるいは耕作放棄田なのである。

        現代版「天保の飢饉」

  能登半島はキリコ祭りで有名だ。秋田の竿灯(かんとう)、青森の「ねぶた」と並び称される。キリコは担ぐものだが、写真のようにキリコに車輪をつけて若い衆が押している。かつて、集落には若者が大勢いた。しかし、人口減少と担い手不足で地域コミュニティーで運営されるキリコ祭りが成立しなくっている現実がある。車を付けてでもキリコを出せる集落はまだいい方だ。そのキリコすら出せなくなっている集落が多くなっている。

  かつて人口が急激に減少した時代があった。日本史でも有名な「天保の飢饉」である。能登も例外ではなく、食い扶持(ぶち)を探して、若者が大量に離村し人口が著しく減少した。そのとき、「この集落はもはやこれまで」と一村一墓(いっそんいちぼ)、つまり集落の墓をすべて一つにまとめ、最後の一人が墓参すればよいとしたのである。集落の終(しま)いを意識した選択だった。その一村一墓の集落がいまでも石川県珠洲市三崎町にある。結果的に、その集落は絶滅しなかったが、その一村一墓の風習だけが今でも残っている。が、21世紀に入って、現実として一村一暮の制が必要になるかもしれない。天保の飢饉を生き延びた村人の子孫たちがいま都会に出て、帰って来ないのである。

  これは能登だけの現象ではない。全国がそうなのだ。先祖が心血を注いで開墾した田畑が数年で野生化する。墓地すら判別不能に荒れている集落がある。その子孫は都会に出て、何をしているのだろうか。子供に「私達の祖先はどこで何をしていたの」と聞かれて、その荒れた祖先の地を案内できるのだろうか。そんなことを想像すると哀しくなってくる。

  地方にこそ人材が必要だと思う。にもかかわらず、人材を東京に一極集中させ、それで日本が成り立っているという構図だ。その構図が能登の祭りからよく見えるのである。石川県の推定によると、現在の奥能登の4市町の人口は8万1千人、それが7年後の2015年には6万5千人と20%減となる。人の胃袋、口、目が2割も減る。

 ⇒7日(日)夜・金沢の天気   はれ 

★デープな能登=6=

★デープな能登=6=

 最近、能登の人とおしゃべりをするとクマの話題で盛り上がる。実は、能登には高い山がなく、輪島の高州山(567㍍)が最高だ。生息には適さないので、クマはいない。だから、能登の人にクマの話をすると、珍しがる。

        「山のダイヤ」コノミタケ

  たとえばこんな話。金沢の野田山は加賀藩の歴代藩主、前田家の墓がある由緒ある墓苑だ。7月の新盆ともなるとにぎやか。市街地とも近い。そんなところにクマが出る。お供え物の果物を狙って出没するのだ。だから、「お供え物は持ち帰ってください」という看板が随所にかかっている、と。もう一つ。クマは柿が大好物だ。一度食べたら、また翌年も同じところに柿を食べにくる。ある日、痩せたクマが市街地の民家の柿木に登って、無心に柿の実を食べていた。通報を受けたハンターが駆けつけたが、その無心に食べる姿を見て、「よほどお腹がすいていたのだろう」としばらく見守っていた。満足したのか、クマが木から下りてきたところをズドンと撃った。クマはたらふく食べることができてうれしかったのか、クマの目に涙が潤んでいた…。

  こんな話を能登ですると、リアクションがとてもよい。ところで、クマ出没の余波が能登地方にも及んでる。キノコ採りのシーズンだが、クマとの遭遇を嫌って加賀地方の山々は敬遠されている。そこで、クマがいない能登地方の山々へとキノコ採りの人々の流れが変わってきている。本来、能登地方の人々にとっては迷惑な話なのだが、能登の人たちが目指しているキノコはマツタケや、コノミタケと地元で呼ぶ大きな房(ふさ)のホウキダケの仲間だ。ところが、加賀からやってくる人たちは、能登ではゾウゴケ(雑ゴケ)と呼ぶシバタケだ。目指すものが異なるので、山でトラブルになったという話は余り聞かない。

  コノミタケは土地の人たちが「山のダイヤ」と呼ぶくらい、うっそうとした山間でほのかに光を放って存在する。同僚のキノコの博士によると、能登の固有種ではないかという。これに出合うと、それこそ目が潤むくらいにうれしいそうだ。去年の能登町であったキノコ市場ではサッカーボール大のもので、7000円から1万円の値がついていた。そして、マツタケより市場価値が高いのだ。能登和牛との相性がよく、スキヤキの具材になる。そして、箸はコノミタケに真っ先に向かう。

  本来はクマの話をするつもりでこのコラムを書いたが、話はいつの間にかキノコに話題が移ってしまった。

※【写真】皿の上の方に盛られているのがコノミタケ

 ⇒3日(水)午後・金沢の天気  はれ    

☆続々・サンマの煙

☆続々・サンマの煙

 きのう(28日)も金沢市内の寿司屋でサンマの塩焼きを食べた。ここに顔見知りの学生がアルバイト=写真=をしているというので、ちょいとのれんをくぐった。サンマの塩焼きは大ぶりで500円。これがうまかった。つい熱燗が進み、2合とっくりで3本も飲んだ。学生に酔った醜態をさらしたくないと自制心が働いて、そこそこの時間で店を出て帰宅した。

  大学の研究員から「自在コラム」の「続・サンマの煙」に対してコメントが入っていた。その内容を紹介すると、サンマが豊漁というのは少々理由があって、「北海道の漁場が陸から近く、例年の半分ほどの時間で漁場に到着できるそうです。そのため、漁をする時間が長くとれ、たくさんとれるということらしいです」というのだ。生物学的に豊漁というのではなく、ことしはたまたま漁場が北海道の近くにあり、どんどん獲っているだけということらしい。そして、研究員は「決して魚が増えているわけではないので、漁獲量の制限を設けた方がよいのではと思いました」と。なるほど、ある意味で由々しき問題なのだ。

  話題を変える。漫画雑誌「ビックコミック」で「築地魚河岸3代目」という連載がある。8月から9月にかけて2週連続で能登の魚をテーマにしていた。能登の魚を定期的に仕入れするよう、市場の役員から依頼された3代目はグルメ雑誌の編集長を伴って、能登を訪れる。しかし、訪ねた輪島市門前町の「星田」という頑固者の豆腐屋が「それは出来ない」と漁業関係者への取り次ぎを断る。なぜか。本来、食材は東京に集めて食するのではなく、獲れた土地で食べるもの。そのことを3代目は理解し、納得する。それを星田は「本来の地産地消」と説く。

  3代目は命題であった仕入れを半ばあきらめるのだが、ビジネスはビジネスであり、最終的には星田の計らいで仕入れ先を確保する。つまり、仲買業者には本来の地産地消の意味を知ってほしいという意味を込めたストーリー展開なのだ。

 星田は名前が異なるが実在の人物。姓を一字だけ違わせている。先の地震では、地域の区長として随分とお骨折をされた。確かに頑固者という印象だが、心根はやさしい。その証拠に、幼い子供との遊びがとても上手である。

⇒28日(金)朝・金沢の天気  はれ

★デープな能登=5=

★デープな能登=5=

 能登半島の風光明媚は、リアス式海岸と呼ばれる、谷が沈降してできた入り江が見所となっている。ところによっては、別名で溺れ谷(おぼれだに、 drowned valley)ともいうそうだ。

  リアス式海岸の伝説

  海と谷が複雑に入り組んだリアス式海岸は歴史的な伝説も生んだ。たとえば「義経の舟隠し」という名所が能登半島には3ヵ所もある。鎌倉幕府からの追手を逃れて奥州(東北)に落ちのびる際、天候が荒れ、能登の入り江の奥深くに48隻の舟を隠したとされる。写真・上は、松本清張の推理小説「ゼロの焦点」(1961年映画化)の舞台となった「ヤセの断崖」の近くにある「義経の舟隠し」である。

  そうしたリアス式海岸を悪用したのが、北朝鮮による拉致事件だった。1977年9月19日、東京都三鷹市役所で警備員をしていた久米裕さん(当時52歳)は、能登の宇出津海岸から北朝鮮に拉致されてた。久米さんを能登に連れていった在日朝鮮人が、入り江にいた北朝鮮の工作員に引き渡したとされる。複雑に入り組んだリアス式海岸は工作員の絶好の隠れ場所となっていたのだ。

  写真・下は、珠洲市内のバスに貼ってあった「拉致・日本は見すてない」のポスター。

⇒23日(日)夜・金沢の天気    はれ

☆続・サンマの煙

☆続・サンマの煙

 先に9月13日付で、金沢大学キャンパスにある創立五十周年記念館「角間の里」でサンマを焼いた話をした。この角間の里は、築300年の養蚕農家の古民家を白山ろくの旧・白峰村から移築再生したものだ。黒光りする柱と梁(はり)に歴史の風格というものを感じる。この建物を「角間の里山自然学校」という研究事業で使っていて、私はそのプロジェクトメンバーの一人だ。

 サンマの話の続きである。サンマを七輪コンロで焼いていると、この自然学校で藍(あい)染を研究しているのグループ(市民)がやってきた。日本の伝統的な染色「あい染め」を藍の種まきから栽培、葉の収穫、染めまでを研究する女性たちのグループだ。どうすれば藍をうまく栽培できるか,染めるときのコツなど試行錯誤を繰り返し、もう5年目になる。

 グループの活動開始は午後1時。サンマを焼くのに熱中していて、その時間を忘れていた。グループは寸胴の鍋で湯を沸かし、染めを始めている。その側で、サンマを焼いていたのである。ウチワを扇いでいた私にグループの一人が近いづいてきた。「あのう、いい匂いですが、染物ににおいが・・・」と遠慮しながら言う。

 うかつだった。焼くのに集中していて、周囲に匂いが立ち込めていることをすっかり忘れていた。確かに、サンマの匂いは布に付きやすい。新しく染めたものにサンマのにおいがついては台なしだ。そこで、「ごめんなさいね」と詫びて、七輪を30㍍ほど離れたサトイモ畑に移動し、焼きを続行したというわけだ。あのこうばしいサンマの匂いも場所によっては、迷惑になるというのがこの話のオチだ。

 ところで、女性たちが創作した染物は角間の里の長い廊下を使って干された=写真=。秋の日和に照らされ、廊下がまぶしい。念のためにサンマのにおいが付いていなか、こっそりと染物に鼻を近づけてみた。あの魚の生臭さはなく安心した。

⇒15日(土)夜・珠洲の天気  くもり

★サンマの煙

★サンマの煙

 「お昼にサンマを焼きましょう」。金沢大学「角間の里山自然学校」の同僚の研究員が言い出した。ことしはサンマが豊漁で安いらしい。スーパーでは1匹100円だとか。さっそく、外で七輪コンロを据え、焼き始めた。

 円筒形の七輪なので、そのままだとはみ出てしまう。サンマを胴で2つに切り、頭の部分と尾の部分に分けて焼く。ウチワであおぐと、サンマの脂が炭火に落ちて、煙が立ち上ってきた。あたりに焼き魚のこうばしい匂いが立ち込める。

 気の利いたスタッフは大根をおろし始めている。脂が相当にあるので、ポン酢で食することにする。こうばしい匂いをかぎつけたのか、空にはトンビが円を描いている。ネコはいないかと横目であたりを見渡しながら、さっそくいただく。「脂がのっているね」とサンマ焼きを実行してくれた研究員にお礼を言いながら、身と骨をほぐしていく。

 この身をほぐす作業はナイフとフォークではできない。和食ブームで、欧米人も箸を持つようになったとはいえ、この焼き魚料理を食べるまでには手先がついてこないのではないか、などと考えてもみる。

 幼いころ、「魚をきれいに食べる」とほめられたこときっかけで、いまでも丁寧に身をほぐしている。「ネコまたぎ」と言われたこともある。ネコもまたいで通り過ぎるくらいに身を残さず食べる、との意味だ。ほめ言葉ではないが、そう言われても悪い気はしない。この魚の身をほぐす技術は年齢とともに磨かれ、今では、ゆでカニだとズワイガニで1匹5分間で「始末」する。話は随分とサンマからそれたが、カニだとそのくらい集中できるから不思議だ。サンマはカニに次いで2番目、ホッケは3番目ぐらいだろうか、集中できるのは。

 しかし、私などはまだ「甘い」。すでに他界したが、父親はご飯茶碗にその骨を入れ、熱湯を注ぎ、醤油を少したらして、すすっていた。「これが一番うまい」と。いま考えてみると、確かに晩酌をしながら、酒の肴にサンマをつつき、食べ終えて口直しに骨湯をすするというのは理にかなっているかもしれない。そんなことが薄々理解できるということは、父親に近づいたということか・・・。

⇒13日(木)夜・大阪の天気   はれ

☆「北海道異聞」その後

☆「北海道異聞」その後

 8月28日夜に「いしかわシティカレッジ」という市民向けの公開講座があり、「メディアの時代を読み解く」のテーマで90分の講義を担当した。メディアに関心を持つ市民30人ほどが受講に訪れた。その話のつかみは北海道旅行中(8月中旬)に読んだ北海道新聞の記事などから拾った。以下は講義で紹介た北海道の「いま」の要約。

       テレビ塔から見えた「いま」

  「白い恋人」で知られた石屋製菓(札幌市)は社長が責任をとるかたちで辞任し、メインバンクの北洋銀行から新社長がくることになった。一連の事件は、チョコレートの賞味期限の延長問題や、製品の中からの大腸菌の検出など広がりを見せた。6月にミートホープ社(苫小牧市)による、牛肉偽装事件と続いており、北海道の食品における安全性と企業倫理の問題が問われた。そして、新千歳空港の土産品売り場では、石屋製菓の商品が撤去され、ガランとしていた。それほど大きなスペースを占めていた。

  しかし、観光バスのガイド嬢は「ミートホープ(苫小牧市)の牛肉ミンチの品質表示偽装事件のときは北海道の人もバカしていると怒ったものです。でも、石屋さんの場合は北海道の銘菓のシンボルのような存在ですので、社長さんも交代したことだし、頑張って立て直してほしいと願っているのです」と。続けて「みなさんもこれに懲りずに召し上がってください」と頭を下げた。社員でもない彼女をして、頭を下げさせる理由はおそらく、石屋製菓という存在の大きさである。地元のプロサッカーチーム「コンサドーレ札幌」の有力なスポンサーであり、退任した社長は札幌財界の若手のホープだった。「北海道の星」を落とすわけにはいかない。そんな道民の愛郷心をガイド嬢は代弁したのだろう。

  北海道のリーディングカンパニーと言えば、かつては北海道拓殖銀行だった。通称は拓銀(たくぎん)。拓銀が経営破綻したのは1997年11月だった。あれから10年、拓銀香港支店の社員が中心となり、香港で投資会社を興した。かつての仲間を呼び寄せるなど、いまではグループ社員合わせて200人の規模になった。そして、8月17日にシンガーポール証券取引所に株式を上場を果たした。上場式典でたたく銅鑼(どら)を囲んで並ぶ同社の幹部たちの写真は勇姿であり、「赤穂浪士」のイメージとダブって見えた。そして北海道出身の45歳の副社長は「いずれは拓銀破たんで後に疲弊した道内経済にも貢献できれば」とコメントしている。苦節10年ではある。

  「さっぽろテレビ塔」=写真=は札幌市の大通公園内にあり、まさにランドマークタワーである。完成が昭和32年(1957年)だから、50歳になった。高さは147㍍で、90㍍あたりに展望台がある。展望台に上って眺望すると、札幌の「いま」が見える。テレビ塔の間近に、住友不動産が開発している40階建てのマンション「シティタワー札幌大通」がある。ほぼ完成していて、総戸数182戸のうちすでに150戸ほどが「ご成約済」となっている(ホームページ・9月4日現在)。この数字は読み方によっては、札幌経済の一つの目安にならないか。

 そして、高さ90㍍から360度で見渡して、クレーンが上がっている建設中のビルをざっと数えると8カ所だった。道央経済圏340万人の中心で8カ所である。月例経済報告書なども参照にして、ひと言でいえば現状は「厳しい」のである。

 ⇒7日(金)夜・金沢の天気  くもり

★欧米人はマツタケを食さない

★欧米人はマツタケを食さない

 きょうから9月、秋はキノコ採りのシーズンだ。新聞記事で拾った話題だが、中国産のマツタケは食に対する不信感から大幅に需要が落ち込み、北朝鮮産は経済制裁の影響で輸入禁止が続いている。そこで、北欧産マツタケが人気だとか。

  フィンランドやスウェーデンでは、もともと森林からマツタケが採れる国だが、食する習慣がなく放置されていた。日本のマツタケとほぼ同じDNAを持ち、価格も安く、人気が出ているそうだ。ここで不思議に思う。ヨーロッパでは、すしなど日本食ブームでそれに合う日本酒の売れ行きも好調と聞く。にもかかわずらず、マツタケを欧米人は食さない。それはなぜか。

  これは知り合いの料理人から聞いた話である。いわく、「欧米の人がマツタケを食さない理由は、マツタケの香りが靴の中のこもった臭気を連想させるからだそうですよ」と。確かに、そう言われればそのようなにおいかも知れない。欧米では靴の歴史が長いので、「マツタケの特徴は香りで楽しむもの」と日本人が説明しても嫌がられるだけだろう。ところが、日本は靴が入ってきた文明開化の明治以前からマツタケを珍重していたので、「キノコの王者」としてすり込まれている。でも、ひょっとして若い世代は「あんな靴の中の臭いがする高いマツタケなんて食べたくない」と言い出す日がくるかもしれない。

  もう一つ、料理人から聞いた話だ。北欧でもニシンの卵であるカズノコは獲れる。ところが食さない。乾燥させて、硬くなったものもヤスリの代わりに使うのだとか。そのカズノコヤスリで何をかけるのを聞くのを忘れたが・・・。

  ところが変われば、食習慣も異なるものだ。日本でもトリフは採れるが、それを熱心に探す人の姿を見たことがない。

⇒1日(土)夜・金沢の天気   くもり

☆デープな能登=4=

☆デープな能登=4=

 同じ石川県でも能登と金沢では随分と考え方、言葉、習慣が異なる。能登で生まれた私は15歳から金沢で下宿をして高校に通った。下宿先は金沢市寺町の民家だった。賄いつきだったので、その家族と接することになり、それが金沢の人との生活上の出会いとなった。

     子猫がじゃれるような…

  下宿先のおばさんは「・・・ながや」「・・・しまっし」と話す。語尾にアクセントをつけ、念を押すような典型的な金沢言葉を話す人だった。当初慣れない間は、しかられているような錯覚に陥ったものだ。というのも、逆に能登の言葉は語尾を消すように、フェイドアウトさせるので、優しい言葉に聞こえる。

  後に学んだことだが、この違いは歴史に由来する。金沢の場合は、前田利家が家臣団を引き連れて築いた、百万石という強大な「財政」をハンドリングする武家社会だ。この社会では上意下達、命令をしっかり伝えるために語尾をはっきりさせる。こためにアクセントをつける、あるいは言葉にアンカーを打つような言い回しになる。ところが、能登はフラットな農漁村である。争いを避けるため、言葉の角を取るように話す。むしろ能登の言葉は、福井や富山の隣県で話されている言葉に近い。たとえば、「疲れた」という言葉は能登ではチキナイ、富山でもチキナイ、福井ではテキナイと話す。金沢はシンドイである。歴史的に言えば、北陸は新潟を含めた同じ「越の国」なのだが、金沢だけが異文化社会だった。

  宗教観でも異なる。北陸は「百姓の持ちたる国」の浄土真宗だ。ところが武家社会だった金沢は曹洞宗、つまり禅宗の家が多い。この2つの宗教観の違いは葬儀に参列すれば理解できる。能登だと、「亡くなられたこの家の主は若いときに両親を亡くされ、とても苦労されたが、その分、極楽浄土に行かれて・・・」などと弔辞を読む。ところが、金沢の曹洞宗のお坊さんは「この世も修行、あの世も修行」と言って、死者にエイッと大声で喝を入れる。曹洞宗が武家社会に受け入れられた理由はこの「修行」がキーワードなのだろうと解釈している。

  この異なる宗教観がどのように日常に表れるかというと、たとえば、「能登の人は我慢強い」とよく言われるように、逆境に耐え黙々と働くような強さがある。金沢の人にはストイックな強さがある。このストイックさは、たとえば、礼儀作法が厳しい茶道など習い事の師弟関係の世界で生きているとの印象を持っている。

  ところで、能登の言葉は優しいと述べた。実は、この言葉ではディスカッションで論理的に追及する、あるいは理論を構築していくという作業ができない。論理だけではなく、たとえば大きな組織の運営、あるいは緻密さを要求される共同作業といったリレーションは難しい。なぜなら語尾にフェイドアウトの「逃げ」があり、コミュニケーションで誤解が生じ易い言葉だからである。逆に、「もてなし」や「癒し」という雰囲気を醸し出すには耳触りのよい言葉である。

 能登、とくに奥能登は「ニャニャ言葉」とも称される。語尾をノキャーと軽く薄く引っ張りながら消す。土地の人の会話を聞いていると、まるで子猫がじゃれあっているようにも聞こえる。

 ※写真は、伝統的な能登の「かやぶき民家」

⇒31日(金)夜・金沢の天気   くもり

★割込企画「北海道異聞」特

★割込企画「北海道異聞」特

 北海道旅行で撮った写真から、何点かを紹介する。題して、北海道の写真グラフ3題。

         ◇

 クマどころじゃないよ… 北海道三笠市の桂沢公園。ダムの完成によりできた大人造湖があり、湖の周囲は62キロもある。原生林に囲まれ、道立自然公園に指定されている。桂沢湖周辺は化石の宝庫として知られ、アンモナイトや生物の化石が多数発見されている。この太古の化石発見を記念して、高さ5、6㍍の恐竜の像が置物として公園の中ほどにドンと鎮座している。

 キャンプ施設もあるのだが、最近、ヒグマが出没して、ここで泊まろうという勇気のある人は少ないらしい。もともとキャンパーが残した食べ物をあさりにヒグマが出没してる。クマ注意を呼びかける看板には「生ゴミの容器などは放置しないで」と書かれている。でも、この看板と恐竜の像が妙に面白くて上記のタイトルをつけた。
                   
 えっ、またクマの看板が… もう一つクマの話題。昔、北海道の森に住んでいたと伝えられる、森の知恵者「ニングル」をテーマにしたミニテーマパークがある。「新富良野プリンスホテル」横の深い森に広がる「ニングルテラス」がそれ。作家の倉本聰氏のプロデュースのもとつくられたという。

 ここにも「熊出没注意」の看板が。ところが、この看板をよく見ると、本来明記されているはずの看板の発信元がない。つまり、土産物なのだ。北海道ではクマ出没が、野生的な北海道らしさをイメージさせる売りとなっている。それにしても紛らわしい。

 こんなに公衆電話はいらない、それより… 最後に千歳空港の搭乗口の待合ロビーでのこと。壁側に公衆電話がズラリと並んでいる。そこで30分間観察していたが、利用した人はゼロ。ということは、ここにこれだけの数の公衆電話を置く経済的理由はないと判断してよいだろう。

 というのも、パソコンデスクを探したのだが、これが一つもない。この公衆電話のせめて半分でもパソコンデスクになっていればどれだけ便利か、と考えたのがこの写真を撮影したモチーフだった。

⇒25日(土)夜・金沢の天気  はれ