☆メディアのこと‐上‐

☆メディアのこと‐上‐

 前回、アメリカのレイチェル・カーソンの名著「サイレント・スプリング(沈黙の春)」(1962年)を取り上げた。「春になっても鳥は鳴かず、生きものが静かにいなくなってしまった」の一文は、環境以外にもいろいろな解釈ができる。たとえば、テレビメディアだ。画面は華やかだけれども、現場のプライドは薄れ、制作者はいなくなった・・・と。07年1月に捏造問題が発覚した番組「発掘!あるある大辞典」の調査報告書を読み返してみて、ふとそんなことを考えた。

      制作の矛盾が番組に曝露するとき

  組織には何がしかの光と影がある。テレビ局の場合、どれだけ視聴率を取って、スポットライトを浴びた番組であっても、影の部分を残したまま増幅させてしまうと、その矛盾がいつかは番組に曝露してしまうものだ。520回余り続き、平均視聴率15%も取った「発掘!あるある大辞典」が問題発覚からわずか6日で番組打ち切りが宣言された。その影とは下請け問題だった。調査報告書によると、関西テレビから元請け会社(テレワーク)に渡った制作費は1本当たり3162万円だったが、孫請け会社(アジトなど9社)へは887万円だった。テレワークの粗利益率は18.6%あったという。しかし、孫請け会社は過酷な条件下に置かれた。

  その第一は、納品された放送制作物の委託料の支払いが、納期日からではなく、放送日の月末締めで翌々月の10日だった。捏造が問題となった納豆ダイエットをテーマにした番組は07年1月7日放送だったので、委託料の支払いは3月10日となり、納期日からなんと75日後ということになる。改正下請代金遅延等防止法では、元請けに対し、納品から60日以内、しかもできるだけ速やかな支払い求めているので、これだけでも違法であり、不当である。財務余力がある大企業ならいざ知らず、番組制作会社には零細企業が多く、資金繰りは相当苦しかったに違いない。

  さらに、孫請け会社が元請け会社に「専従義務」を負い、にもかかわらず、死亡や負傷、疾病には、元請けは一切責任を負わないこことになっていた。ことほどさように、元請けは孫請けに対して優越的地位を濫用したのである。  調査報告書は「下請け条件を課されながら仕事をしなければならないという環境が、末端の制作現場で番組制作に携わる制作者からプライドを失わせ…」「期日どおりにやり抜かなければならないという点にのみ神経が集中してしまう傾向を醸し出した」と断じている。そして、制作責任があるキー局側に番組の内容をしっかりと見回す人がいない状態が生じたとき、捏造が起きた。つまり、矛盾が曝露したのである。別の表現をすれば、番組制作上の膿(うみ)が一気に噴出し、最終的に番組そのものが消えてしまった。

  最近、TBS番組「サンデー・ジャポン」の捏造シーン問題など、放送倫理・番組向上機構(BPO)による勧告が相次いでいる。「発掘!あるある大辞典」と同根の問題がテレビ業界全体に横たわっているのではないかと睨んでいる。

 ⇒10日(月)夜・金沢の天気  くもり 

★生物多様性のこと

★生物多様性のこと

 盛夏のころだというのに一日中雨か曇り、朝が晴れでも昼には雨だ。太陽が照りつける夏らしい天気は数日あったかどうか。海面水温の高い状態が半年以上続くエルニーニョ現象で、日本の場合、梅雨明けの時期が遅れ、冷夏や暖冬になりやすいとか。そんな空模様を気にしながら、8月頭に、金沢大学が主催して環境イベントを打った。「2デイ・エコツアー」と銘打った「能登エコ・スタジアム2009」のこと。8月1日と2日の両日、「里山里海の生業(なりわい)と生物多様性」をテーマに開催した。

 初日は、金沢からバスで出発し、石川県七尾市の能登演劇堂で開催された「環境国際シンポジウムin能登」に参加した。ノーベル平和賞を受賞した国連組織「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)のラジェンドラ・パチャウリ議長の基調講演を楽しみにしていたが、博士は体調不良を理由に欠席。その代わり、ビデオレターが上映され、その中で「今、何かの手を打たなければ、多くの生態系が危機にさらされる」と訴えていた。翌朝は船に乗り、ぐるりと能登島を回る七尾湾洋上コースと能登島をバスで巡るコースに分かれてのエクスカ-ション。能登島のカタネという入り江にミナミバンドウイルカのファミリーの親子(5頭)がコロニーをつくっていて、船からは、時折背ビレを海面に突き出して回遊する様子を見ることができた。午後からは、奥能登・珠洲で実施されている「生き物田んぼ」を見学し、直播(じかまき)の水田で水生昆虫の調査の説明を聞いた=写真=。両日とも雨にたたられずに済んだ。

 能登の里山と里海を眺めながら、あの名著のことを思い出した。高校生のころ読んだ、アメリカのレイチェル・カーソンの「サイレント・スプリング(沈黙の春)」(1962年)。「春になっても鳥は鳴かず、生きものが静かにいなくなってしまった」の一文は脳裏に焼きついている。農薬や殺虫剤による環境汚染に警鐘を鳴らした原典ともなった。人間は衣、食、住のほか、薬剤などの必需品を何千種もの植物、動物から入手している。にもかかわらず、人は未だに乱開発や多量の農薬散布、海洋汚染や大気汚染など自然環境に過度の負荷をかけている。

 人間と自然との共生という点で、日本の里山はお手本だった。しかし、終戦後から、化石燃料を使った生活が目指すべき文明社会と喧伝され、炭や薪といった木質エネルギーは疎んじられてきた。その結果、森林は荒れ、里山から若者がいなくなった。過疎高齢化で休耕田や放置された森林がさらに増え、生物多様性が減少しているといわれている。レイチェル・カーソンは「私たちはどちらの道をとるのか」と警鐘を鳴らした。40年余りも前にである。そして、この30年で、3万種もの生物が絶滅したともいわれる。今年は、「種の起源」を著したチャールズ・ダーウィンの生誕200年に当たる。

 とはいえ、いまさら昔ながらの里山に戻ることはできない。ノスタルジーでは生きてはいけない。21世紀型の里山の生活スタイル、ないしは価値観、さらに産業イノベーションがどうしても必要なのだ。

⇒9日(日)夜・金沢の天気 あめ  

☆日経新聞と農業

☆日経新聞と農業

  最近、日本経済新聞を読むと、一瞬、日本農業新聞と錯覚しそうなくらいに農業に関する記事が多い。7月18日付もそうだった。一面トップの見出しは、「企業の農業参入加速」だった。イオンなど小売や、外食・食品、それにJRなどの交通分野の企業までもが農業参入を目指している。ある大手の外食産業は現在480㌶のファームを今後600㌶に広げる計画だと報じていた。

   その日の日経新聞の別刷り面では、「夏休みに行きたい農園レストラン」のランキングが掲載されていた。1位の山形県鶴岡市の農家レストランは「農村の隠れ家」と紹介され、農業のサービス産業化を強調するような内容だった。農業参入にしても、農家レストランにしても何も珍しいことではないが、日経がこのように農業関連の記事を正面から取り上げること自体に何か新鮮さを感じる。

  農業関連の記事を日経新聞が取り上げるのにはいくつか背景があるようだ。一つは、食の安全を巡る問題が連日のように報じられ、企業が生産履歴のはっきりをしていないものを扱わないようになっている。むしろ、「自社ブランド」とPRする絶好に機会になっている。二つめに、食料自給が40%を割り、耕作放棄地が増える中、国民は国の農業政策にば漠然とした不安を持っている。21世紀に生きる企業として、農業への新規参入は消費者に「たくましい企業」のように思える。三つめに、国が農地法を改正し、企業が農地を賃借する際の規制を緩和したことだろう。今後、企業の農業分野への参入はトレンドになるだろう。

  そして、日経の記者にとってみれば、取材先の企業と同様に農業は新規分野であり、すべてのものが可能性に満ちている、そんな視線ではないか。メディアが新たな取材フィールドを得たという意義は大きい。というのも、日経の記事を丹念に読むと、その視点は、プロダクツ(商品・サービス)、プライス(価格・ロット)、プレイス(販路・流通)のビジネスモデルを今後、企業がいかにして農業分野で事業設計していくかという点である。

   取材を受けるが側の企業も新規分野だけに真剣である。昨年、金沢大学の「地域づくり講座」で、農業参入を果たした水産物加工会社の社長に、農業参入をテーマに講義をお願いしたことがある。すると、「事業的には黒字になっていないので・・・」と謝絶された。この企業は能登半島で25㌶規模の計画に着手している。綿密な計画で3年がかりでここまで持ってきた。社長の断りの言葉に、農業参入への「本気度」を感じたものだ。

   東京・丸の内の企業などが農村に本格的に目を向けるようになれば、日本の農業の風景は劇的に変わるに違いない。そんな視点で時折、日経新聞を読んでいる。

 ⇒20日(祝)夜・金沢の天気   くもり

★七尾湾のゲストブック

★七尾湾のゲストブック

 地図を眺めると、能登半島が大きな口を開け、食べようとしているのが能登島である。そんな風に見える。能登島は周囲72km。口の部分を七尾湾と呼び、島で3つの支湾に仕切られる。南湾に加え西湾、北湾を総称して七尾湾と言う。かつて、能登半島の地図を眺め、その奇妙なカタチに興味を抱いて七尾湾を訪れた外国人がいた。

 今からちょうど120年前の明治22年(1889)5月、東京に滞在していたアメリカの天文学者パーシバル・ローエル(1855-1916)は能登半島の地形とNOTOという地名の語感に惹(ひ)かれ、鉄道や人力車を乗り継いで当地にやってきた。七尾湾では魚の見張り台である「ボラ待ち櫓(やぐら)」によじ登り、「ここは、フランスの小説でも読んでおればいい場所」と、後に著した「NOTO: An Unexplored Corner of Japan」(1891)で記した。ローエルが述べた「フランスの小説」とは、当時流行したエミ-ル・ガボリオの「ルコック探偵」など探偵小説のことを指すのだろうか。ローエルの好奇心のたくましさはその後、宇宙へと向かって行く。

 1893年に帰国したローエルはアリゾナ州に天文台を創設し、火星の研究に没頭する。その成果である「Mars(火星)」を発表し、火星の表面に見える細線状のものは運河であり、火星には高等生物が存在すると唱えた。ローエルの説は、H・G・ウエルズの「宇宙戦争」などアメリカのSF小説に影響力を与えていく。ローエルは1916年に海王星の彼方に惑星Xが存在と予知し、他界する。その弟子クライド・トンボーが1930年にローエルの予知通りに新惑星の発見し、プルートー(冥王星)と名付けた(2006年の分類変更で「準惑星」に)。初の冥王星探査機、NASAのニュー・ホライズンズは2006年1月に打ち上げられ、2015年7月14日に最接近する。

万葉の歌人、大友家持も七尾湾を船で訪れている。家持は29歳の時、当時、都があった平城京から越中国(現在の富山県と能登半島)へ、国守として赴任してきた。赴任3年目の天平20年(748)に能登を巡る。春に農民に種籾(たねもみ)を貸し出し、秋になって貸した分と利息分を合わせて徴収する、いわゆる公出挙(くすいこ)のため。七尾湾では、「香島より熊来(くまき)を指して漕ぐ船の楫(かじ)取る間なく都し思ほゆ」(「万葉集」巻17-4027)、「鳥総(とぶさ)立て船木伐(ふなきき)るといふ能登の島山今日見れば木立(こだち)繁(しげ)しも幾代神(いくよかむ)びそ 」(「万葉集」巻17-4026)と詠んでいる。「鳥総」の歌は、七尾湾周辺で当時、造船が行われていたことが読み取れる。

 七尾湾に今、珍客が訪れている。北湾の通称「カタネ」と呼ばれる地域の入り江に、野生のイルカ(ミナミハンドウイルカ)がファミリー5匹でコロニーを作って生息している。観光ツアーの遊漁船や漁船が近づくと伴走してくれる。その様子は陸からでも観察することができる。石川県水産総合センター水産部能登島事業所の永田房雄さんによると、もともと島原半島の南端にある有明湾のコロニーにいたペアがやってきたのではないか、という。

   能登には、さまざまな客人を引き寄せ、その客人の才能を開花させるような、土壌がある。それがその地に住む人々なのか、自然なのか、あるいは地勢なのか定かではない。ひょっとすると三位一体となった、創発的な不思議な仕掛け=システムなのかもしれない。

 【お知らせ】七尾湾を船で周遊し、海の生物多様性を考察する「能登エコ・スタジアム2009」を8月2日実施します。野生イルカのコロニーも訪ねます。詳細は7月16日付の読売新聞石川版で記事紹介されました。

⇒19日(日)朝・金沢の天気  くもり 

☆オクトパス伝説

☆オクトパス伝説

 前回に引き続き、七尾市能登島での話題。16日に訪れた能登島で、「ちょっと面白いから」と石川県水産総合センター水産部能登島事業所の永田房雄さんに誘われて行った先が、野崎地区にあるタコの蓄養所、通称「タコ牧場」だった。個人の漁協者の経営で、タコ壺漁などで採れたマダコを一箇所に集め、大きく太らせてから出荷する。5メートル四方ほどの水槽がいくつかあり、常時、数百匹のタコが飼われている。

 なぜ蓄養かというと、市場では小さなタコは値がしない。すくなくとも1キロは必要で、キロ1000円が相場。難しいのは、水温が上がるとタコが弱ってしまうこと。このタコ牧場では海水をそのまま汲み上げている。太平洋側に比べ、日本海側は海水温が一定していない。そこで、水温が高くなるころを見計らって、大きなものから出荷する調整も必要とのこと。タコを飼うのも簡単ではない。

 ところで、「イモ、タコ、ナンキン」と呼ばれるくらい、日本人にとってタコはお気に入りの食材である。が、ヨーロッパやアフリカでは、タコやイカを「デビル・フィッシュ」(悪魔の魚)と呼び、忌み嫌う。海底の大ダコや大イカが人間を襲うという設定の映画もあるくらいで、まるで怪物か怪獣の扱い。前回のブログを読んでくれた友人から、「能登島ではタコは神様ですよ」とメールをもらった。以下、要約して紹介する。

 能登島・向田地区の愛宕(あたご)神社で執り行われる蛸祭。11月3日の祭りは神官の家から飯びつに2升に飯を盛り、蛸の頭の形にして、3日の未明に神社近くの中屋家のカマドの上に黙って置いてくる。家の主(あるじ)がこれでおにぎりを作り、隣近所に配る。300年ほど前の昔、向田地区で大火が相次いだ。すると、大ダコに乗った神様が中屋家にやってきて、「高台に祠(ほこら)を造れ」と告げた。当主がその通りすると、同地区では火災など災害がピタリと止んだという伝説である。以来、中屋家ではタコを食べることをタブーとしている。その祠が愛宕神社の由来だという。

⇒18日(土)朝・珠洲の天気  あめ

★「子落とし」狛犬の話

★「子落とし」狛犬の話

 神社の神殿や社寺の前庭には、さまざまな表情をした一対の狛犬(こまいぬ)が置かれているものだ。きょう(6月16日)訪ねた、石川県七尾市能登島の大宮神社の狛犬は凄みがあった。「獅子の子落とし」がモチーフなのである。

  大宮神社の狛犬は、獅子(ライオン)が千尋の谷に子供を落として、その子供を見守っているという姿で、左手の子は千尋の谷に落ちて仰向けになり、右手の子供は崖を這い上がっているという構図=写真=になっている。説明書きには、台座に使われている岩は富士山から運んだ溶岩であると記されている。これが黒く、ゴツゴツした感じで、崖というイメージにぴったり合っている。

  「獅子の子落とし」は、自分の子供に厳しい試練を与えて、立派な人間に育て上げることのたとえで使われる。インターネットで検索をかけてみると、「子落とし」をモチーフにした狛犬は、東京・赤坂の氷川神社など関東地方にいくつかある。この狛犬の寄進者が裏面に記されている。昭和14年(1939)、東京・亀戸の「野中菊太郎」となっている。ちょうど70年前のことだ。今回ガイド役を引き受けてくれた県水産総合センター水産部能登島事業所の永田房雄所長の話だと、野中は当地出身という。財を成して、生まれ故郷に報いたのだろう。

  内湾のため穏やかな七尾湾と海辺に青々と広がる田の海。のどかな半農半漁の里に似つかわしくない、激しいモチーフである。ただ、写真のように、崖を這い上がる子をじっと見守る親の表情がどことなく優しい。能登人の気風にあっているのかもしれない。

                  ◇

  ここからはお知らせ。では、なぜ能登島を訪ねたかというと、金沢大学と石川県が主催して実施する環境ツアー「能登エコ・スタジアム2009」の見学コースの確定のため。ツアーの詳細はきょう16日付の読売新聞石川版で記事紹介された。この狛犬はツアー2日目、午前の能登島バスめぐりのコースで見学できる。

⇒16日(木)夜・金沢の天気  あめ

☆「忘れざる日々」

☆「忘れざる日々」

 6月20日の75歳の誕生日を前にして一人のジャーナリストが逝った。鳥毛佳宣(とりげ・よしのり)さん。中日新聞の記者として、石川と東京で政経、文化、事件を担当した。後に文化事業も担当し、北陸で初めての開催となる中華人民共和国展覧会を誘致するなど腕利きのプロモーターでもあった。退職後に記者生活30年余の回想をつづった本を著した。そのタイトルが「忘れざる日々」(1994年6月出版)である。出版のときに贈呈されたその本を読み返して、故人を偲んだ。

 記者の生活には日曜日や休み、時間外、オフという概念がない。いつでも、どこでも事件は記者を駆り立てる。そのエピソードが「忘れざる日々」で紹介されている。鳥毛さんが結婚して間もなく金沢市内で3日続けて深夜の火災があった。警察担当だったが、一夜、二夜とも気づかず、出社して先輩記者に大目玉を食らった。しかし、さすがに三夜目は「きょうは寝ない」と覚悟を決めた。事件に予定はないが、消防団の半鐘が鳴り、鳥毛さんは真っ先に現場に駆けつけた。記者としての瞬発力は定評だったが、若き日の苦い経験をバネとした。東京報道時代にはホテルニュージャパンの火災、日航機の墜落事故などを担当した。このエピードは妻の美智子さんが本のあとがきで紹介している。

 鳥毛さんはある意味で目利きだった。筋をきっちりと掴んで真贋を見分けていく。「忘れざる日々」で面白い記事が紹介されている。「禅の壁」というコラムで、金沢・湯涌にある康楽寺のことを書いている。昭和19年に建てられたその寺は、仏教王国と称される北陸では「乳飲み子」のような歴史しか持たない。が、この寺はかつて加賀藩前田家の重臣、横山章家氏の別邸だったもので、明治時代の金沢の代表的な建物だった。それを戦前の政治家、桜井兵五郎氏(1880‐1951年)が譲り受け、同氏が経営する白雲楼ホテル(今は廃業)の近くに寺として再建した。鳥毛氏の謎解きはここから始まる。なぜ寺としたのか、釈迦の遺骨と称されるものをビルマの要人からもらった桜井氏が寺を建て安泰したと、桜井氏の関係者から取材している。おそらく普通の記者だったら、このエピソードを持って、この取材は終わっていたかもしれない。鳥毛氏の真骨頂はここからである。その関係者から「昭和40年4月に東京・三越本店で開催された鶴見・総持寺展で展示された仏像10体のうち7体がこの康楽寺のものだった」と聞きつける。さらに、東急電鉄の創業者で美術品収集家として知られた五島慶太氏(1882-1959年)が寺の愛染明王像を所望したが、適わなかったとのエピソードを五島氏の周辺に取材して紹介している。寺とは言え、実質的に個人が収集した仏教美術の「倉庫」と化している寺の有り様に、鳥毛氏は「言い表せないむなしさを覚えた」とジャーナリスとしての感性をこぼしている。

 鳥毛さんは1934年6月20日、東京生まれ。戦時下の空襲で父方の親戚を頼って、能登半島・柳田村(現・能登町)に疎開し、終戦を迎える。その縁で、「故郷は柳田」と言い、能登半島にも眼差しを注いだ。私が鳥毛さんと親しくさせてもらったのも、同郷のよしみだった。

 病の床でうわごとのように「つくづく疲れた、精も根も」と言っていたと、美智子さんは19日の通夜の式場で話した。全力投球するタイプ、そんな記者時代の思い出の一つ一つが走馬灯のように死の直前の脳裏を駆け巡っていたのだろうか。

※写真は鳥毛さんが愛用したペンと原稿=「忘れざる日々」より。

⇒6月20日(日)朝・金沢の天気 はれ

★ワンセグとNHK

★ワンセグとNHK

  金沢大学で「マスメディアと現代を読み解く」というメディア論の講義を担当している。先日の授業で、「地上デジタル放送の問題点」をテーマに2011年7月24日のアナログ波停止、それに伴う「地デジ難民」の発生、ワンセグ放送などメリットとデメリットを織り交ぜて話し、最後に学生に感想文を書いてもらった。この日の出席は145人だったが、10人余りがNHKのワンセグ放送の受信契約について記していた。その内容に驚いた。「NHKの集金人(※NHKと業務委託契約を結んだ「地域スタッフ」)がアパートにやってきて、テレビはないと応えると、パソコンのTV線は、ケータイのワンセグはとしつこく聞かれました」(理系の1年女子)、「一人暮らしは受信料を払うべきでしょうか。実家の自分の部屋にテレビを持つのとの同じことだから払う必要はないのでは」(理系の1年男子)と、NHKの受信契約のストームに学生たちが戸惑っている様子が浮かび上がってきた。

  ワンセグの受信契約についてNHKのホームページで確認すると、「ワンセグ受信機も受信契約の対象です。ただし、ご家庭ですでに受信契約をいただいている場合には、新たにワンセグの受信機を購入されたとしても、改めて受信契約をしていただく必要はありません」と記載されている。問題は、一人暮らしの学生の場合である。そこで、視聴者コールセンターに電話(5月11日)をして、①学生は勉強をするために大学にきているので、受信料契約は親元がしていれば、親と同一生計である学生は契約する必要がないのではないか②携帯電話(ワンセグ付き)の購入の際、受信契約の説明が何もないのもおかしい、携帯所持後に受信契約を云々するのでは誰も納得しないーとの2点を、学生たちの声を代弁するつもりで問うてみた。すると、電話口の男性氏は「ワンセグの受信契約の対象になります。いろいろご事情はあるかと思いますが、別居の学生さんの場合は家族割引(2ヵ月で1345円)がありますのでご利用ください」と、要約すればこのような言葉を繰り返した。

  放送法第32条では、「受信設備を設置した者は、(日本放送)協会とその放送の受信についての契約をしなければならない」とあり、地域スタッフはこの部分を全面的に押し出して、一人暮らしの学生に契約を迫っているようだ。中には、「受信機の設置と携帯は違う、納得できない」と拒み、地域スッタフを追い返したという猛者もいるが、年上の大人が法律をかさに着て迫れば、新入生などは渋々と契約に応じる。電話の翌日(5月12日)の授業で、地域スタッフの訪問を受け、ワンセグの受信契約に応じた学生に挙手してもらったところ、20人ほどの手が上がった。「学生が狙いうちされている」と私は直感した。NHK資料(平成19年6月)によれば、契約対象4704万件のうち、契約しているものの不払いと、未契約が計1384万件にも上り、契約対象の29%を占める。つまり3件に1件が払っていない計算だ。一般家庭の未契約と不払いはそれぞれに「払えない」「払わない」「契約しない」の主張がはっきりしているので、地域スタッフにとってはここを説得してもなかなか成績が上がらない。ところが、学生ならば攻めやすいということだろう。

  私は学生たちに不払いを奨励しているのではない。契約は納得して応じるべきで、決してうやむやのうちにハンコを押してはならない、後悔する契約はしてはならないと説明しているのである。地域スタッフから「経営の安定がNHKの放送の自由度を高める」といった本来されるべき説明は受けていないようだ。いきなり「ワンセグ付いたケータイ持っているか」では、学生は納得しない。それより何より、親元と同一生計にある一人暮らしの学生に関しては、ワンセグ、一般受信機を含めて受信料を取るべきではないと考える。

☆再訪・琉球考-下-

☆再訪・琉球考-下-

那覇市の国際通りで、昼食を取るためレストランに入った。首里城正殿をイジージした構えの店で1階が土産品、2階がレストランになっている。メニューでお勧めとして大きく写真入りで出ていたタコライスを注文した。タコライスは、もともとメシキコ料理だが、アメリカ版タコスの具(挽肉、チーズ、レタス、トマト)を米飯の上に載せた沖縄料理と説明書きがあった。辛みをつけたサルサ(ソース)を乗せて食べる。このタコライスのメニューは名護市のドライブインにもあった。アメリカの影響を受け、沖縄流にアレンジした料理として定着しているようだ。

         琉球=沖縄の気分

  戦後長らくアメリカの占領下にあり、1950年に朝鮮戦争が、1959年にはベトナム戦争が起き、戦時の緊張感を沖縄の人たちも同時に余儀なくされ、日本への復帰は1972年(昭和47年)5月15日である。しかも県内各地にアメリカ軍基地があり、沖縄県の総面積に10%余りを占める(沖縄県基地対策課「平成19年版沖縄の米軍及び自衛隊基地」)。時折、新聞で掲載される沖縄の反戦や反基地の気運は、北陸や東京に住む者にはリアリティとして伝わりにくい。沖縄は今でも闘っている。

  2007年11月に完成した沖縄県立博物館・美術館を訪れた。美術館を見れば、その土地の文化が理解できる。琉球=沖縄は日本の最南ではあるものの、沖縄の人たちの地理感覚では日本、韓国、台湾、中国に隣接する東アジアの真ん中に位置する。歴史的にも交流があり、外交的にも気遣ってきたのだろう。その一端が美術館コレクションギャラリー「ベトナム現代絵画展~漆絵の可能性~」から伝わってきた。パンフレットに開催趣旨が記されている。「中国の影響を受けながら自らの文化を築いてきたベトナムは、同様の背景を持つ沖縄と共通するものが多く見られ、私たちにとって最も身近な国のひとつです。しかしながら、多くの米軍基地を抱える沖縄は、ベトナム戦争では米軍の後方支援基地となる時期もありました。その不幸な歴史を乗り越え・・・」。ベトナム戦争における「米軍の後方支援基地」は沖縄の人々の責任ではない。それでも、あえて文言に入れて、ベトナムと沖縄の友好関係を求める。パンフとはいえ、これをそのまま政府間文書にしてもよいくらいに外交感覚にあふれる。そしてベトナムの暮らしぶりを描いた数々の漆絵の中に、さりげなくホー・チミンが読書をする姿を描いた作品(1982年制作)を1点入れているところは、すこぶる政治的でもある。

  沖縄県立博物館・美術館のメインの展示は「アトミックサンシャインの中へin沖縄~日本国平和憲法第九条下における戦後美術」(4月11日-5月17日)。ニューヨーク、東京での巡回展の作品に加え、沖縄現地のアーチストの作品を含めて展示している。「第九条と戦後美術」というテーマ。作品の展示に当たっては、当初、昭和天皇の写真をコラージュにした版画作品がリストにあり、美術館・県教委側とプロモーター側との事前交渉で展示から外すという経緯があった、と琉球新報インターネット版が伝えている。さまざまな経緯はあるものの、美術館側が主催者となって、「第九条と戦後美術」を開催するというところに今の「沖縄の気分」が見て取れる。

 那覇市内をドライブすると、道路沿いに、青地に「琉球独立」と書かれた何本もの旗が目についた。ホテルに帰ってインターネットで調べると、旗の主は2006年の県知事選、2008年の県議選にそれぞれぞ立候補して惨敗している男性だった。供託金も没収されるほどの負け方で、「琉球独立」は沖縄の民意とほど遠い。ただ、道州制論議が注目される日本にあって、「独立」を政治スローガンに掲げる候補者がいるのも、また沖縄=琉球の気分ではある。

※写真・上は、沖縄県立博物館・美術館の中庭。日差しの陰影もアートに組み込んでいる。
※写真・下は、国際通りのレストランで見かけた絵画。糸満の漁師を描いていて、眼光が鋭い。

 ⇒10日(日)午後・金沢の転機  はれ

★再訪・琉球考-中-

★再訪・琉球考-中-

 宿泊した那覇市のホテルのレストランに入った。店の入り口には朱塗りの酒器がディスプレイとなっていて、屋号も「泉亭」とあったので、てっきり和食の店かと思っていた。ところが、メニューは「日本・琉球・中国料理」だった。和食をと思っていたのだが、せっかく沖縄にやってきたので琉球料理も食べたい、どうしようかと迷って、「琉球会席」というコースがあるのが目にとまり注文した。飲み物は30度の泡盛のロックにした。

          チャンプル・イノベーション

  ミミガーやピーナツ豆腐、チャンプルーがどんどんと出てくるのかと思ったら、そうではない。食前酒(泡盛カクテル)、先付け(ミミガー、苦瓜の香味浸し、ピーナツ豆腐)、前菜(豆腐よう和え、塩豚、島ラッキョ、昆布巻き)、造り(イラブチャー=白身魚)、蓋物(ラフティー=豚の角煮)などと、確かに金沢の料理屋で味わうのと同じように少量の盛り付けで、しかも粋な器は見る楽しみがあった。日本料理のスタイルで味わう琉球料理なのだ。

  「日本・琉球・中国料理」の文字をメニューで見れば、専門性がない、何でもありの食堂をイメージしてしまうかもしれない。ここからは推論だ。北陸や東京の感覚では、沖縄は日本の最南である。ところが、沖縄の人たちの地理感覚では日本、韓国、台湾、中国に隣接する東アジアの真ん中に位置する。歴史的にも交流があり、外交的にも気遣ってきたのだろう。沖縄にはチャンプル料理がある。野菜や豆腐に限らず、様々な材料を一緒にして炒める料理で、ゴーヤーチャンプル、ソーミンチャンプルなどは北陸でもスーパーの惣菜売り場に並ぶようになった。チャンプルは沖縄の方言で「混ぜこぜ」の意味。このチャンプ料理をもじって、沖縄の文化のことを、東南アジアや日本、中国、アメリカの風物や歴史文化が入り交じった「チャンプル文化」とも。

  6年ぶりに沖縄を入り、このチャンプル文化にある種のイノベーションを感じた。イノベーションとは、発明や技術革新だけではない、既存のモノに創意工夫を加えることで生み出す新たな価値でもある。先のレストランでの琉球会席でも、和食を主張しているのではなく、和のスタイルに見事にアレンジした琉球料理なのである。その斬新さが「おいしい」という価値を生んでいる。沖縄の場合、独自の文化資源を主体にスタイルを日本、中国、東南アジアに変幻自在に変えて見せるその器用さである。これは沖縄の観光産業における「チャンプル・イノベーション」と言えるかもしれない。

  那覇市の目抜き通り「国際通り」=写真・上=でこのイノベーションの息吹を感じた。かつては雑貨的な土産品が軒を連ねていたが、今回は沖縄オリジルの主張が目立った。沖縄の特産野菜「紅イモ」を使った「紅いもタルト」が人気の土産商品。伝統の沖縄菓子「ちんすこ」を使った「ちんすこショコラ」の店=写真・下=も。キューピー人形が沖縄の衣装をまとって「沖縄限定コスチューム・キューピー」に。なんとこれが1700種類もある。ゴールデンウイークの人混み、そして南国の日差しは強く、すっかり沖縄の熱気に当てられた。

 ⇒9日(土)朝・金沢の天気  はれ