☆コウノトリのいる風景

☆コウノトリのいる風景

 能登半島の先端の水田にコウノトリが飛来しているというので、先日、観察にでかけた。昼過ぎだったが、あいにくお目にかかれなかった。近所の人の話だと、午前か夕方の方が現れる確立が高いという。

 飛来しているコウノトリには足環がないことから、兵庫県豊岡市で野生放鳥されているコウノトリではなく、どうやら大陸から飛んできたらしい。2005年7月にも飛来が確認されていて、3年ぶりということになる。近所の人の話が面白い。この水田地帯にはサギ類も多くエサをついばみにきている。羽を広げると幅2mにもなるコウノトリが優雅に舞い降りると、先にエサを漁っていたサギはサッと退く。そして、身じろぎもせず、コウノトリが採餌する様子を窺っているそうだ。ライオンがやってくると、退くハイエナの群れを想像してしまった。サギ類はコウノトリ目サギ科の鳥である。

 今回のコウノトリの滞在は前回より長い。前回は2週間ほど姿を見せただけだった。今回は、5月中ごろからなのでもう2ヵ月ほどになる。おろらくいつか飛び立っていくだろう。今度くるときは、パートナーを連れてきてほしい。近所の人たちは、そんな話をしている。(写真は、坂本好二氏撮影・6月9日)

⇒9日(水)夜・金沢の天気  はれ

☆ドイツ黙視録‐5-

☆ドイツ黙視録‐5-

  5月27日、アイシャーシャイド村の生け垣の景観を眺めながら、愛用のICレコーダーで聴いたベートーベンのシンフォニー第6番「田園」。その日の夕方、生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)の関連会議が開かれるボンに入った。午後7時半から開催される、ボン市長のベルベル・ディークマン女史主催のディナーレセプションに出席するためだ。会場となったのはボン大学付属植物園だった。18世紀に造られたという宮殿とその庭園がいまは植物園になっている。ハスの池からはカエルの鳴き声が聞こえ、ここにいても「田園」の心象風景がぴったりくる。おそらく、レセプション会場を選定するにあたって、COP9の開催地を相当意識してこの場を選んだのだろうと、市長の心意気を感じた。25ヵ国80人ほどがガーデンパーティーを楽しんだ。

           ボンの謎、ベートーベンとワイン

  このパーティーが始まる前、少し時間があったのでボン大学近くにあるベートーベンの生家=写真・上=を訪ねた。夕方であいにく閉まっていた。外観だけの見学となった。ベートーベンの誕生は1770年12月16日。通称「ベートーベンハウス」は、注意していないと見落とすくらい街に溶け込んで、日本でいう町家という感じ。ガイドブックに載っていた、ベートーベンが使ったバイオリンやピアノ、ラッパのように大きな補聴器をぜひ見たいと思ったのだが。それにしても、ベートーベンは意外と「都会っ子」だったのだと認識を新たにした。

  その時代をウイキペディアなどで調べてみた。18歳のベートーベンはケルン選帝侯マキシミリアン・フランツが開いたとされるボン大学の聴講生となる(1789年5月)。その翌年90年にボンに演奏にやってきたハイドンと出会う。1792年11月、ハイドンに師事する許しを選帝侯から得て、ボンからウィーンへ旅立つ。青年ベートーベンは人生の選択をしたのである。フランス革命が派手に展開し、ルイ16世がジロンド派による人民投票でわずか1票差でギロチン台に上がったのは3ヵ月ほどたった93年1月21日のことである。

 ベートーベンが大学の聴講生だったころによく通ったという書店兼レストラン(現在はレストランのみ)=写真・下=が今でもあり、ボン市長主催のガーデンパーティーの後に訪れた。奥の広まったホールの一角に、ベートーベンがよくすわっていたという座席があった。その場所にベートーベンの肖像がかかっている。読書会によく参加していたらしい。1389年に創業したというその店の自慢は牛肉をワインで漬けて煮込んだもの。それに自家製の白ワイン。かつてベートーベンも愛飲したというシロモノで、味わい深く飲んだ。

  ところで、20代後半から難聴に悩まされたベートーベン。確か中学校のころに音楽の先生から学んだ記憶では、父親ヨハンから音楽のスパルタ教育を受け、たびたび頬をぶたれたことが聴覚障害の原因と脳裏に刷り込まれている。ところがウイキペディアでは、若いころ愛飲したワインに起因する新説が出ている。それは、最近の研究で、「ベートーベンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出され、これが肝硬変を悪化させ死期を早めた(ベートーヴェンはワインが好物で常飲していたが、当時のワインには酢酸鉛を含んだ甘味料が加えられており、鉛はこの酢酸鉛に由来する)とも」と。

 当時のワインが聴覚障害を引き起こす原因になったとは信じ難い。が、くだんの店で飲んだあのワインがひょっとして、と思うと少々複雑な気分に陥った。

⇒21日(土)夜・金沢の天気  くもり

★ドイツ黙視録‐4‐

★ドイツ黙視録‐4‐

 前回も述べたようにミュンスターば「ウェストファリア条約」が締結された地。1618年から30年間続いたヨーロッパにおけるカトリックとプロテスタントによる宗教戦争が話し合いによって解決した。そのウェストファリア条約が結ばれた歴史的な建造物が今はミュンスター市役所となっている。その1階の「フリ-デンスザール(平和の間)」=写真=で歴史的な誓約調印が行なわれた。チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世がこのフリ-デンスザールを訪れたのは昨年(07年9月20日)のこと。

        ミュンスターの「平和の間」とダライ・ラマ

  実は、ダライ・ラマはヨーロッパで抜群の集客力を誇る仏教徒だ。ことし5月13日から23日にイギリスとドイツを巡った折、ブランデンブルクの集会には2万人を集めたという。しかも、講演会形式で日本円換算で数千円を払ってである。ダイラ・ラマは、経済のグローバル化が進展するのであれば、それにふさわしい倫理もまた必要と説いたそうだ。ダライ・ラマは1973年に初めてヨーロッパの地を踏んで、毎年のように欧米を訪れ一般市民らと対話を交わしてきた。確固たる人気は、その積み重ねなのだろう。しかも、異教の地で。北京オリンピックの聖火リレーで反中国の狼煙(のろし)が上がり、妨害が先鋭化したのはヨーロッパだった。中国政府がダライ・ラマをバッシングすれば反中国のリアクションがヨーロッパで起きるという構図が出来上がっているかのようである。

  5月23日、そのフリ-デンスザール(平和の間)に入った。ミュンスター市副市長、カルン・ライスマン女史が石川からの訪問団をこの部屋で迎えてくれた。この部屋の家具はオリジナルで、第二次世界大戦の間は疎開して、連合軍の空爆を免れたことなどの説明があった。部屋の壁面にはウェストファリア条約の締結に立ち会った各国の代表の肖像画が掲げられている。何か、「歴史の舞台」という重厚さを感じた。

  その後、ミュンスターで3番目に古いというビアホールに入り、食事を取った。ライスマン女史も同席されたので、ちょっと意地悪な質問を試みた。「中国政府はダライ・ラマ氏について中国政府は中国分断を図る活動家と評しているが、あなたはどう思うか」と。ちょっとためらいながらライスマン女史は「その質問は答えにくい。ドイツ、そしてミュンスターの企業も中国に進出している。そうした事情を察してほしい。ただ、チベットの問題は話し合いで解決してほしい」とだけ。ライスマン女史はキリスト教民主同盟の市議会議員のリーダーで副市長。副市長という立場ではそこから先の言葉は控えたのだろう。

 食後、お別れの握手した折、何か言いたそうだったが、通訳の女性がたまたま離れていて言葉を交わすことができなかった。

 ⇒15日(日)夜・金沢の天気   くもり

☆ドイツ黙視録‐3-

☆ドイツ黙視録‐3-

 ドイツでミュンスターといば、世界史の教科書に「ウェストファリア条約」が締結された地として出てくる。1618年から30年間続いたヨーロッパにおけるカトリックとプロテスタントによる宗教戦争が講和条約の締結によって終止符が打たれた。つまり、戦争が話し合いによって解決した史上初のケースとなり、内政不干渉など近代国際法の原型ともなった条約、とここまでは世界史で習った。ウェストファリア条約から350周年を祝う行事が1998年10月、ミュンスターで開かれた。条約の調印に参加した各国代表の子孫たちが集まり、単一通貨ユーロの導入(99年1月)に至るまでに結束した欧州連合(EU)の発展を祝ったのである。

     ミュンスター・「環境首都」の試み

  そのミュスターでいま注目されるのが環境である。その取り組みを象徴する言葉として、自転車、エネルギー・パス、エコ・プロフィットがある。以下は、ミュスター市環境保全局長のハイナー・ブルンス氏の説明による。同市は、ドイツのNGOであるドイツ環境支援支援協会(DUH)が選ぶ「ドイツ気候保護首都」に1997年と2006年の2回認定された。2004年には国連環境計画暮らしやすい街コンテストで金賞も得ている。とにかく、省エネルギーを徹底している。ミュスターでは住宅でも古い建物が多く、これをリフォームによって高気密・高断熱化することでエネルギー効率を高めようという政策である。窓を2重、3重ガラスにしたり、外壁の断熱材を10㎝から15cmに、また屋根にも断熱材を入れて熱を逃がさない。

  何しろドイツでは9月ごろから徐々に寒くなり、冬は11月から3月と長い。この間は暖房に頼った生活になる。ドイツ全体では、二酸化炭素の排出量の約3分の1が室内暖房や温水利用に起因とすると言われている。しかもエネルギー料金は確実に値上がりしており、暖房費をいかに安く抑えることができるかということに自然と市民の関心も集まる。さらに、市では住宅改修の補助金を、改修前と比較した建築物の省エネルギー率を高めるほど補助金額が高くなる仕組み(1997年‐2005年)にした。ちなみに省エネ率を30%以上にすると、補助金率15%(上限約350万円)だ。また、毎年、「ハウス・オブ・ザ・イヤー」賞を設け、優れた改築を行なった住宅を表彰している。

  2004年、EUは「建築物における総合エネルギー効率に関する指令」によって、ヨーロッパの建築物の所有者は、エネルギー消費量等を示した「エネルギーパス」を住宅の購買や賃貸契約の際に提示することを義務付けた。エネルギーパスは建築物に関する情報の他に、エネルギー需要のレベルや年間の暖房需要量、最終エネルギー消費量、二酸化炭素の排出量などが明記される。これを受けて、ミュンスターでは、住宅のエネルギー消費量を、自主的なレベルで、住民が知ることができる仕組みを作った。これには意外な効果があった。省エネ率が高ければ高いほど家賃が高く取れることにもなり、ビルのオ-ナーたちがこぞって省エネのために改修投資をし、「雇用の創出にもなった」(ブルンス局長)。

  続いて、ミュンスター単科工科大学を訪れた。この大学は「エコ大学」としての取り組みを行なっている。たとえば、学生たちに「窓を開けたら、暖房を消せ」と注意するステッカーを窓に貼っている。乾電池やプリンターカートリッジを所定の箱に入れて電気店に持っていくと、抽選でプレゼントが当たるお楽しみをつける。トイレで流す水を雨水にし、紙タオルを布タオルに替えた。さらにゴミの分別を徹底するなど生きた環境教育を8000人の学生に施している。そして、環境マネジメントシステム「エコプロフィット」の認証を取得した。エコプロフィットは、「統合的環境技術のためのエコロジープロジェクト」の略称。ミュンスター市の主導によって、地域の企業が、環境専門機関の指導を受け、環境保護と光熱費といった経費の削減を実現することを目的にした環境マネジメントシステムのこと。同市内の企業の10%余りが認証を受けている。

  さらに同市にはドイツで最も先進的といわれる熱電供給プラント(天然ガス使用)や、風力発電は22基、ソーラー発電にも取り組んでいる。こうやって、ミュンスター市では1990年を基準に2005年までに21%の二酸化炭素削減に成功し、2020年までに40%の削減を目指している。

  最後に面白い話を聞いた。ミュンスターは別名「自転車の首都」とも言われている。何しろ人口28万人に対し30万台以上の自転車があり、職場や学校に、買い物にと、老若男女、市長もシスターもパトロール中の警官も、多くの人々が自転車で移動している。ブルンス局長ももちろん愛用の自転車で通勤している。

 ⇒3日(火)夜・金沢の天気   くもり 

★ドイツ黙視録‐2-

★ドイツ黙視録‐2-

 ドイツを訪れるに際して、ベートーベンのシンフォニー3番、5番、6番、7番、8番がダビングしてある愛用のICレコーダーを携えた。故・岩城宏之が05年12月31日の大晦日に東京芸術劇場で指揮したベートーベン全交響曲のライブ演奏を私的に録画したものだ。ケルンの街には5番が合うなどと思いながら、移動のバスやホテルの窓から街を眺め、そして街を歩きながらイヤホーンを耳に聴いていた。中でも、5月27日に訪れたアイシャーシャイド村は、6番の心象風景にぴったりだった。

     アイシャーシャイド・美しすぎる村

  アイシャーシャイド村は、生け垣の景観を生かした村づくりで、ドイツ連邦が制定している「わが村は美しく~わが村には未来がある」コンクールの金賞を受賞(07年)した、名誉ある村である。景観という視点で地域づくりを積極的に行なっている村の政策や経緯を知りたいというのが知事ミッションがこの村を訪れた理由だ。

  人口1300人ほどの村が一丸となって取り組んだ美しい村づくりとはこんなふうだった。クリ、カシ、ブナなどを利用した「緑のフェンス」が家々にある。高いもので8mほどにもなる。コンクリートや高層住宅はなく、切妻屋根の伝統的な家屋がほどよい距離を置いて並ぶ。村長のギュンター・シャイドさんが語った。昔は周辺の村でも風除けの生け垣があったが、戦後、人工のフェンスなどに取り替わった。ところが、アイシャーシャイドの村人は先祖から受け継いだその生け垣を律儀に守った。そして、人工フェンスにした家には説得を重ね、苗木を無料で配布して生け垣にしてもらった。景観保全の取り組みは生け垣だけでなく、一度アスファルト舗装にした道路を剥がして、石畳にする工事を進めている。こうした地道な村ぐるみの運動が実って、見事グランプリに輝いた。

  おそらくこの村には北ヨーロッパの三圃式農業の伝統があるのだろう。かつて村人は、地力低下を防ぐために冬穀・夏穀・休耕地(放牧地)とローテーションを組んで農地を区分し、共同で耕作することを基本とした。このため伝統的に共同体意識が強い。案内された集会場にはダンスホールが併設され、バーの施設もある。ここで人々は寄り合い、話し合い、宴席が繰り広げられるのだという。おそらく濃密な人間関係が醸し出されているに違いない。ベートーベンの6番「田園」の情景はアイシャーシャイド村そのものである。第1楽章は「田舎に到着したときの晴れやかな気分」、第2楽章「小川のほとりの情景」、第3楽章「農民達の楽しい集い」・・・。のどかな田園に栄える美しきドイツのコミュミティーなのである。

  しかし、私には「わが村は美しすぎる」と感じた。濃密な人間関係で築かれた美観というのはどこか息苦しさを感じさせる。次元は異なるかもしれないが、金沢の町内会で道路の一斉除雪に参加しないと近所から白い目で見られるような、そんな雰囲気がひょっとしてあるのではないか、と…。

⇒31日(土)夜・金沢の天気  くもり 

☆ドイツ黙視録‐1‐

☆ドイツ黙視録‐1‐

 石川県知事の訪独ミッション(5月22日から30日)に加わり、ドイツの環境政策の現場や大学における環境教育の取り組みを見学させてもらった。28日には生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)の関連会議に参加した。「ドイツは環境先進国」と呼ばれるが、どの点が先進なのかつぶさに観察を試みた。題して「ドイツ黙視録」-。

        シュバルツバルトの爪痕

  5月25日、ドイツの南西部に位置するオーバタール村にバスは着いた。ドイツの里山とも言えるシュバルツバルト(黒い森)が広がる。これまで勘違いをしていた。第二次大戦後、スイスやフランスの工業地帯と接しているため、酸性雨の被害によって、多くのシュバルツバルトの木々が枯死した。黒い森とはこうした状況を指しているのかと思っていた。が、黒い森はかつてモミの木が生い茂り山々が黒く見えたことから付いた名称なのである。黒い森と名付けたのはローマ人という説もあるくらい、昔からの呼称だった。

  案内してくれたバーデン=ヴュルテンベルク州森林局長、フロイデンシュタット氏は「昔から森の木々は私たちのパンなんです」とドイツ人と森のかかわりについて話してくれた。ドイツ人はもともと「森に入る民」だった。木を切り、建築材やエネルギー(薪など)を産出した。切った跡には牧草を植え、ヤギやヒツジを飼った。シュバルツバルトは200年ほど前まで牧草地が広がっていた。産業革命の波がヨーロッパにも及び、森にはトウヒ(唐檜)が計画的に植林され、良質の建材、電柱、船のマスト、楽器の素材を産出する一大植林地帯へと変貌していく。現在、山の木の70%が植林によるトウヒだ。かつてシュバツルバツトの語源ともなったモミの木は20%、マツは10%、ブナ3%とすっかり山の様相が変わった。

  「森の木々はパン」のお手本のような森林産業がシュバルツバルトに実現したのだった。ところが、人の手によって、トウヒの森へとモノカルチャー化した山々にはさまざまな問題が生じるようになる。密植により、低木に光が当たらなくなり、保水性が失われた山肌には地滑りが頻発するようになった。そして戦後の経済成長に伴って、酸性雨の問題が生じる。さらに、気候変動によって嵐が襲うようになったのはここ10年ほどのこと。1999年のクリスマスにやってきた「ローター(Lothar)」と呼ばれた大嵐による森林被害の爪痕(つめあと)は1万haにも及んだ。

  その大嵐の被害状況を保存し、記念公園にした「Lothar pfad(ローターの足跡)」をフロイデンシュタット氏に案内してもらった。「根こそぎ」とはこの状態を言うのだろう。直系6mにも広がるトウヒが根ごと倒れている=写真=。トウヒの根はもともと浅い。深く根をはるはモミの木などは途中でボキリと折れた。このときのトウヒやモミの森林被害は3000万立米と推測され、シュバルツバルトの20年分の木材出荷量に相当する損害となった。トウヒは種が取りやすく大規模な植林に適しているものの、根が浅く風に弱い。その盲点を突くかのように大嵐が数年に一度の割で襲ってくる。当然、単一樹林化への反省が生まれ、森林局では複層林へと森林政策の転換を図っている。

  ここで疑問が湧いた。根こそぎ倒れ荒廃した森林を公園として見せる価値はあるのだろうか。まして、キクイムシなどの害虫が異常繁殖すれば2次被害が生じる。この質問にフロイデンシュタット氏はニコリと笑って、我々にこう説明した。「幸いキクイムシの2次被害はいまのところ出ていない。それより、倒れた木の間に若い木が伸びてきているでしょう。私たちは森の自然の治癒力というものを子供たちに学んでほしいと思いこの一角を保存したのです」と。確かに倒木の隙間からトウヒやモミなどの針葉樹のほか、ナナカマドやブナなどの広葉樹の若木が育っている。倒木の根に巣をかけた鳥たちのさえずりもにぎやかだ。

  この「Lothar pfad」には年間5万人の見学者がやってくるという。カタストロフィ(破壊)から再生へ。大嵐の爪痕は生きた環境教育の場として生かされている。

 ⇒30日(金)夜・金沢の天気   くもり

★「能登の花ヨメ」の完成度

★「能登の花ヨメ」の完成度

 「ご当地映画」とでも言おうか、住む土地が主な映画のロケ地になった場合、地元の人たちはそのような表現をする。その言葉には、映画に対する愛着とちょっとした気恥ずかしさがこもっているものだ。全国上映に先駆けて、石川県で先行上映会がきのう10日から始まった、「能登の花ヨメ」もそのご当地映画の一つ。

 この映画制作にはまったく関わりがないが、ちょっとした縁がある。去年秋、私は大学コンソーシアム石川の事業「地域課題ゼミナール」で能登半島の珠洲市をテーマにケーブルテレビ向けの番組をつくった。お祭りのシーンの撮影は同市三崎町小泊地区のキリコ祭り=写真=だった。その撮影が終わった1ヵ月後、今度は、「能登の花ヨメ」の撮影が始まり、小泊地区では映画撮影用のお祭りが行なわれた。小泊の住人のひとたちは「年に2度、まっつり(祭り)が来た。こんなうれしいことはない」ととても喜んでいたのを思い出す。

 先行上映の封切りの日、きのうさっそく「能登の花ヨメ」を鑑賞に行った。そのストーリーを簡単に説明する。映画は女性の人間模様と能登の祭りがテーマ。ヒロイン役の田中美里が演じるのは東京のキャリアウーマン。結婚式を前に、泉ピン子が演じる婚約者の母が交通事故でけがをする。あいにく、海外出張でフィアンセは母がいる能登には行けない。そこで、代わりに看病のために能登へ行くというところから物語は始まる。都会育ちの女性にとって能登は刺激がなく、しかも慣れない人づき合い、大きな田舎造りの家の掃除、ヤギの世話…。しかも、姑(しゅうとめ)となる母親はつっけんどん。でも、能登には震災にもめげず、心根が優しい、自然をいつくしむ人たちがいて、都会にはない豊かさがあると気付く。

 親しくなって、キノコ採りを教わった近所のおばあちゃん(内海桂子)からキリコ祭りを楽しみにしているという話を聞かされた。その数日後、おばあちゃんは急逝する。季節は秋へと移り、お祭りのシーズンがやってくる。地震で仮設住宅の人たちもいるのにお祭りはできるのか…。しかも、キリコは担ぎ手が不足していて、ここ数年は出していない。土地の人たちはキリコ祭りを楽しみにしているのにどこか遠慮している。そこで、都会からきた花嫁がキリコ祭りの復活を呼びかけて立ち上がる。

 監督は白羽弥仁(しらは・みつひと)氏。3年も前から能登に通って、映画の構想を温めてきたという。そして撮影を始めようとする矢先に能登半島地震(07年3月25日)が起きた。神戸出身で自ら被災経験がある白羽監督はその2日後に被災地に駆けつけた。そして、映画づくりを続行すべきかどうか迷っていたときに、これまで協力してきた能登の人たちから「こんなときにこそ映画を撮って」と要望され、撮影を決断したという。映画が完成するまでの経緯がまるでストーリー仕立てのようだ。

 冒頭でご当地映画には気恥ずかしさがあると述べた。それは方言のことである。方言は内々の言葉で、ほかの地域の人が聞けば野暮ったいものだ。「能登の花ヨメ」では能登弁を上手にさらけ出している。それが映画の味にもなっているのだが、能登出身者とするとちょっと気恥ずかしい。逆に言えば、能登人の言葉と心の襞(ひだ)までが映像表現されて完成度は高い。

⇒11日(日)朝・金沢の天気   くもり

☆こいのぼりは絶滅危惧種か

☆こいのぼりは絶滅危惧種か

 この1週間で石川県内の能登、加賀を巡った。能登へはこの秋に予定しているスタディ・ツアーの打ち合わせに、加賀へは連休を利用して「九谷茶碗まつり」(能美市)と「山中漆器祭」(加賀市)に出かけた。乗用車を走らせながらふと気づいたことなのだが、沿道の民家でこいのぼりが泳ぐのを見ることは稀だった。きょうは「こどもの日」、こいのぼりについて考えてみる。

 こいのぼりが揚がらなくなった理由として、住宅が狭くこいのぼりを揚げるスペースがないとよくいわれる。でも、能登や加賀の広々とした家並みでも見かけるのは稀だ。それは少子化で揚がらなくなったのでは、という人もいるだろう。能登地区は確かに少子高齢化だが、地域をつぶさに眺めると、公園などで遊んでいる小さな男の子たちは案外多い。まして、加賀地区で少子高齢化の現象は顕著ではない。でも不思議とこいのぼりを揚げる家は極少ないのだ。

 では、こいのぼりはどこへ行ったのかというと、イベント会場に集められ、群れをなして泳いでいる。写真は、珠洲市大谷川で毎年開催されるこいのぼりの川渡し。実に350本のこいのぼりが泳ぐ。いまやGWのイベント会場のディスプレーとして、こいのぼりの存在感があるよう。

 過日、能登のお宅を訪ねると、五月人形(鎧)が早々と飾ってあった。家人に聞くと、かつては端午の節句にこいのぼりも揚げていた。ところが、その家の男の子が中学生なったころに「こいのぼりはガキっぽいからやめてれ」と言い出し、五月人形を飾るだけにしたという。確かに子どもたちが抱くこいのぼりのイメージには「お父さん、お母さんといっしょ」という、どちらかというと幼稚くささが付きまとう。中学生ともなるとこの幼稚くささを外に向かってアピールするというのは耐えられない、というわけだ。それに比べ、武者人形はいかめしさがあり、許容範囲なのかもしれない。ただし、五月人形が鯉を抱く金太郎ならば、中学生は「もうしまってくれ」と言い出すかもしれない。

 コイの滝登りは立身出世の象徴であり、江戸時代の武家では男の子が生まれると真鯉のこいのぼりを揚げたという。その風習が大衆化したのは戦後、高度成長で人口が増え、こいのぼりもにぎやかにカラフルになった。東レなどの繊維メーカーは新素材を駆使して、軽量で絡まず、風によく泳ぐこいのぼりを市場に出した。イーデス・ハンソンのナレーションによる、「東レの太郎鯉はよく泳ぐ」のテレビCMは今でも耳に残っている。大阪万博(1970年)で太陽の塔をデザインした岡本太郎が監修した目玉の大きな「太郎鯉」はヒット商品となった。でも、このころ住宅は高層化し、せいぜいがベランダ用のこいのぼりが出回った程度。地方の広々とした住宅でも、くだんの中学生のように「もうやめてくれ」となる。家庭でのこいのぼりの寿命は短く、行き場がない。だから、地域のイベントとなると天日干しを兼ねて、年に一度群れをなして出てくる。

 「屋根より高い」と歌われた、家庭用のこいのぼり。「文化・風習のレッドデータブック」があるとすると、おそらく「絶滅危惧種」になるに違いない。

⇒5日(祝)朝・金沢の天気  くもり

★ベートーベン「熱狂の日」

★ベートーベン「熱狂の日」

 「クラシックの民主化」を掲げたイベントが4月29日から金沢市で始まった。ラ・フォル・ジュルネ金沢「熱狂の日」音楽祭2008がそれ。5月5日まで、石川県立音楽堂とJR金沢駅周辺で80公演が予定されている。

 どこが「クラシックの民主化」なのかというと、①短時間で聴くクラシック②低料金で聴くクラシック③子どもも参加するクラシック・・・の3点に特徴があるそうだ。民主化というより、クラシックの裾野を広げるための音楽祭ともいえる。1995年にフランスのナント市で始まった音楽祭。この音楽祭の開催は世界で6番目、日本では東京に次いで2番目とか。

 今回のテーマはベートーベン。おやっと思ったのはポスターや看板=写真=に描かれているベートーベンの肖像画だ。広告物のデザインはフランスの音楽プロデューサー、ルネ・マルタン氏の手による。日本人がベートーベンで思い出す肖像は、いかにも神経質でいかめしそうな顔つき。しかし、「民主化」をめざす音楽祭では、参加者の心を解きほぐさなければならない。柔和な顔つきのベートーベンが広告物に描かれた訳はこんなところか。

1日夜、県立音楽堂で開かれた公開マスタークラス&レクチャーコンサートに出かけた。「『月光』の日」と銘打った催し。ピアニストのクレール・デゼールさん(パリ国立高等音楽院教授)が若手のピアニストやピアニストの卵に「月光」をレッスンするというもの。受講者の平野加奈さん(東京芸大2年生)が曲を一通り弾く。その後の通訳つきのレクチャーが面白い。「あなたの1楽章はショパンっぽい感じがした。左と右の手がどちらか遅いとロマンチックになる。でも、ベートーベンは左と右が同時なのよ。するともっと深くなる。ベートーベンらしくなるのよ」「ここはアジダートなの。そうね、怯えるって感じかしら。台風が突然やってきて、心臓がバクバクする。そんな不気味な感じね」

 クレールさんの公開ピアノレッスンを聞きながら、指揮者の岩城宏之さん(06年6月逝去)が生前語った言葉を思い出した。岩城さんはベートーベンのシンフォニー1番から9番を一夜で連続演奏するという「離れ業」を2年連続(04年と05年の大晦日)やってのけた。私はこの2回の番組制作に関わり、東京で「振るマラソン」を聴くことができた。思い出したのは、その時、ステージで語った岩城さんの言葉だ。コンサートのプロデューサーである三枝成彰さんから、岩城さんに「ところで岩城さんが好きなシンフォニーは何番なの」と水が向けられた。すると、岩城さんは「最近は8番かな。5番や7番、9番のように前衛的ではないけれど、コントラストが鮮やか。作曲技法が駆使されていて、4楽章なんかフレーズの入り組みがとても精緻。円熟しきった作曲家ベートーベンの会心の出来が8番なんだね」と。このとき、プロ中のプロのお気に入りは8番なのだ、と印象づけられたものだ。

 ピアニストのクレールさん、指揮者の岩城さんの2人の言葉から伝わってきたものは、演奏する側を介した等身大のベートーベンの姿ではないだろうか。凄みをきかせたベートーベンがほらそこにいるよ見てごらん、という臨場感だ。

⇒2日(金)夜・金沢の天気   はれ

☆こいのぼりと気球

☆こいのぼりと気球

 このところ、こいのぼりを揚げるのが日課になった。自宅ではなく、私のオフィスである金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」のこいのぼりのこと。地域のボランティアの人たちが毎年この時節になると、こいのぼり用の掲揚ポール(竹製)を立ててくれる。昔揚げたというこいのぼりのお古をもって来てくれる。「あとは晴れたら、大学のスタッフのみなさんで揚げてね」という暗黙の了解がすでにできている。

 朝の日課なので、青空に映えるこいのぼりを見るとすがすがしい。通りがかりの学生たちが「こいのぼりをこんなに間近に見るのは初めて」とか「大学でこいのぼりを揚げているのは金大だけとちがうか…」などと言いながら見上げている。聖火リレーをめぐる騒ぎに比べれば、実にのどかな光景ではある。

 ところで、金沢大学では気球も上げる。金沢大フロンティアサイエンス機構の研究者たちが、能登半島・珠洲市で黄砂に関する大気環境のモニタリングの拠点づくりを計画している。日本海に面して大陸からやってくる空気をいち早くキャッチできる能登半島は黄砂研究には持ってこいという訳で、三井物産環境基金を得て、高度の大気観測を可能とする大気観測サイトを構築中だ。この研究プログラムを称して「大気観測・能登スーパーサイト」。運営が軌道に乗れば世界から黄砂研究者が集まってくる、そんな研究拠点となるはずだ。

 手始めとして、黄砂バイオエアロゾル研究チームによるサンプリング(気球による黄砂の採取)を行う。黄砂バイオエアロゾルというのは、黄砂にのって浮遊する微生物、花粉、有機粉塵などを指す。ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠から舞い上がった黄砂が日本海上空で水蒸気と絡まって能登半島辺りから落ちてくる。これをサンプリングして研究するのだ。さらに海に落ちた黄砂はどのように変容し、海洋生物に影響を与えるのか、などが研究対象となる。気球を上げる場所は、珠洲市三崎町の金沢大学能登学舎(旧・小泊小学校)のグラウンドで。5月7日から9日の時間を見計らって気球によるサンプリングが行われる。

 能登半島では、金沢大学の別の研究班がすでに生物多様性の調査を行っていて、「研究フロンティア能登」の様相を呈している。生物多様性も黄砂も環境がテーマである。そこでもう一歩踏み込んで、東アジアにおける「環境センサー」としての能登半島という役割があるのでは、と密かに思っている。青空に泳ぐこいのぼりから話がえらく飛躍した。

⇒29日(祝)朝・金沢の天気  はれ