☆地デジ、東京の陣・下
「武蔵の国」では地デジは2度切り替わる
すでに観光名所になっているスカイツリー本来の役割はテレビ塔としての機能である。問題は、「本家テレビ塔」の東京タワーとの電波の切り替えだ。ことし2011年7月24日正午にアナログが停波された後は、東京タワーから地デジの電波が発射されるが、来年2012年春にスカイツリーがオ-プンすれば、試験放送期間を経て、地デジの電波は東京タワーからスカイツリーにスイッチされる。つまり、武蔵の国では地デジは2度切り替わる。
スカイツリーのもともとの建設目的は、都心部に建てられる超高層ビルが増え、東京タワーからの送信が電波障害を生じるようになったからで、地デジのために建設計画が持ち上がったわけではない。というもの、関東地区で地デジをスタ-トさせた2003年12月にNHKと在京民放キー局5社が600㍍級の新電波塔を求めて、「在京6社新タワー推進プロジェクト」を発足したのがきっかけだった。2006年3月に建設地が決まった。当初は2011年7月に間に合わせようとしたがスケジュールがずれた。
ここで懸念される問題がある。東京タワーにアンテナを向けて地デジを視聴している世帯が、来春の東京スカイツリー切り替え時に、アンテナの向きを調整しなくていいのかという問題だ。総務省は情報通信審議会情報通信政策部会の「地上デジタル放送推進に関する検討委員会」(第42回・2009年1月16日)で、関東広域圏の地デジの発射局(親局)が東京タワーから東京スカイツリーに移行することが視聴者にほとんど影響を与えないという見解を示している。また、 情報通信審議会の第6次中間答申(2009年5月25日)でも、 東京スカイツリーへの親局移転にかかわる影響について、「移転による受信設備への影響はほとんどなく、デジタル対応した設備がそのまま使えること」「影響が発生した場合には、放送事業者による対策等がなされること」が記載された。
本当に影響はないのだろうか。確かに、地デジはビル陰であっても、近隣のビルで反射された波(反射波)を受信できてしまうので、電波の比較的強い地域の場合では、アンテナの向きが違っていても反射波を拾って地デジが映ることもある。 ただ、常識的に考えて、現在の東京タワーに向けている家庭用のUHFアンテナを来春にはスカイツリーに向けてアンテナを調整をした方がより良い画質が得られるのはは当然だろう。とくに東京タワーとスカイツリーを直線でつないだ中間の地域の場合は逆向きになる。地デジが2度切り替わることの影響については、来春のスカイツリーのオ-プン後、試験電波を発射し、測定車で受信する検証作業が行われるので、それまでは憶測でしかない。
もし、それで影響が出てテレビ視聴に混乱が生じた際は、「放送事業者による対策等がなされること」(前出の第6次中間答申)になっている。今さら蒸す返すのも大人げないが、スカイツリーの開業と、アナログ停波の順番が逆になっていることがそもそもの原因だ。
そして、このことは関東エリアの多くの視聴者の関心事なのだが、NHKと在京民放キー局5社のホームページを閲覧しても、東京タワーとスカイツリーで地デジが2度切り替わることの視聴者への影響についてはよく説明やPRがされていない(見落としかもしれないが)。おそらく、キー局側とすれば、まず東京タワーでの完全地デジ化(7月24日)を乗り切って、その次にスカイツリー対策に重点を置くという戦略なのだろう。確かに視聴者は2重の混乱に陥るものの、それだったら、そのように順序だてて説明をすればよいのではないだろうか。
⇒13日(日)朝・金沢の天気 ゆき
1月17日は東京へ日帰り出張だった。先日から大雪となり、風も風も強かったので、早朝JR金沢駅から「はくたか1号」に乗った。乗り換え駅の越後湯沢付近は1㍍を超える積雪で、屋根雪を下ろす人々の姿が車窓から見えた。上越新幹線で長野を過ぎると、とたんに顔空になった。目的地の市ヶ谷では駅のプラットホームから釣り堀が見え、のんびりと釣り糸を垂れる人々の姿があった。越後湯沢で見た屋根雪下ろしの光景と余りにも対照的だった。人は生まれた環境に育まれる。粘り強く、持続性がある北陸の人の行動パターンは案外、雪が育んでいるのかもしれない。
東京の空をにぎわせているスカイツリー。正式には「東京スカイツリー」。高さ634㍍の世界一の電波塔を目指している。ことし12月に完成、来年春に開業を予定している。NHKと在京民放5局が利用する。総事業費は650億円。このツリーを下から眺めると、いろいろなことを思う。その一つが、「電波は空から降ってくる」という発想は、東京のものだ、と。東京タワー(333㍍)しかり、東京にいるとシャワーを浴びるように、電波が空から降ってくる。もちろん一部にビル陰による電波障害があり、そのビル陰の障害を極力減らすために600㍍級のタワーが構想された。まるで「恐竜進化論」だ。電波塔(東京タワー)が立つ。周囲に200㍍を超える超高層ビルが林立するようになる。すると今度は、さらに高い電波塔(スカイツリー)を立てなければならないと、どんどんと図体が大きくなってきた。「電波を空から降らせる」ために、限りなく巨大化し続けているのだ。
珠洲モデルというのは、地域の電器店15軒が手分けして、高齢者世帯などを一軒一軒回り、アナログ受信機(テレビ)にチューナーの取り付けをした。ボランティアではない。ただ、お年寄り宅を何度も訪ね、丁寧に対応し、見事に地デジ化のウイークポイントといわれた高齢者世帯の普及に成し遂げたと評価された。記念セレモニーでは、デジタル放送推進協議会の木村政孝理事が一人ひとり電器店の店主の名前を読み上げ感謝状を贈ったほどだ=写真=。
では、能登半島が先行モデル地区として役割は果たせたのだろうかと振り返ってみる。丘の上から珠洲市内を眺めると、受信障害となるような高いビルはないし、当地の民放4局のうち3局がいわゆる「Uチャン」なのでアンテナ交換の必要もない。都市型の地デジ問題とは一見かけ離れているようにも思えるが、山陰や北風・塩害問題による共聴施設が市内で36ヵ所あり、市の世帯の40%をカバーしていた。しかも、珠洲市の場合、65歳以上の最高齢者率は40%を超え、高齢者のみの世帯率は36%、さらに高齢者世帯の半分1000世帯余りが独居のまさに過疎・高齢化の地域だ。電波障害による共聴と高齢者宅の対策は地デジの2大問題で、それを乗り切った能登の先行実施は「モデル」といえるだろう。
法律家であるミラー氏は、「日本の場合はテレビを受信することは権利」とらえられているが、アメリカでは受信するかしないかは個人の自由という受け止め方になる」と話す。隣地にビルが建って電波が受信できなければ、日本では民法上で権利として主張できる。アメリカの場合は、コモン・ロー(判例法)をルーツとしており、権利的な保護はなく、あくまでも受信者の責任と負担で、となる。これを地デジの現場に当てはめれば、アメリカでは困っている人を助けるという発想でボランティア活動が活発だった。一方日本では、政府による「新たな難視」を出さないためのあらゆる手が打たれ、自治体も手を差し伸べているが、アメリカのような地域のNPOや民間団体による支援の動きは目立っていない。日本では、「地デジは国が責任を持って行うもの」との雰囲気が強いからだ。
ミラー氏を講師に招いた理由が2つある。1つ目は、FCCのスタッフとして、アメリカの西海岸(オレゴン州ポートランドなど)に出向き、地デジの広報活動や視聴者対応の現場にかかわってきたこと。2つ目は、 マンスフィールドフェローシップ・プログラム(連邦政府職員の日本研修)の一員として、2004年から2006年の足掛け3年、 総務省(総合通信基盤局電波部)や経済産業省、知的財産高等裁判所などで知見を広め、日本の電波行政やコンテンツ政策にも明るいこと。ちなみに、私はミラー氏の金沢でのプログラム(2005年)で知己を得た。
現実に目を向けてみよう。地デジの世帯普及率は、昨年3月の総務省の調査では、薄型テレビなどのデジタル対応受信機の世帯普及率は83.8%だ。これ以降で、テレビの買い替えが進んでいるとしても90%に届いているかどうか。さらに、ビル陰による受信障害が約319万世帯、山間部のデジタル波が届かない地域は72万世帯にも上る。さらに、地デジに対応しないVHFアンテナしかない世帯は大都市圏を中心に220万世帯から460万世帯もあるとされる。これら問題が解決されないと、「7月24日」に仮に10%の世帯が取り残されたとして、全国約5千万世帯のうち500万世帯の「テレビ難民」が発生する。
国の特別名勝である兼六園。最近では、ミシュラン仏語ガイド『ボワイヤジェ・プラティック・ジャポン』(2007)で「三つ星」の最高ランクを得た。広さ約3万坪、170年もの歳月をかけて作庭された兼六園の名木のスターと言えば、唐崎松(からさきのまつ)である。高さ9㍍、20㍍も伸びた枝ぶり。冬場の湿った重い雪から名木を守るために施される雪吊りはまず唐崎松から始まる。このプライオリティ(優先度)の高さがスターたるゆえんでもある。唐崎松は、加賀藩の第13代藩主・前田斉泰(1811~84)が琵琶湖の唐崎神社境内(大津市)の「唐崎の松」から種子を取り寄せて植えたもので、樹齢180年と推定される。近江の唐崎の松は、松尾芭蕉(1644-94)の「辛崎( からさき )の松は花より朧(おぼろ)にて」という句でも有名だ。
昔々、大西山に善重郎というその名の通り善良なサルがいた。善重郎は大西山のサルたちの頭領だったが、配下に一匹の荒くれ者のサルがいた。そのサルは善重郎の目を盗み、近辺の民家に悪さをしていた。ある日それが善重郎の知るところとなり、大西山を追い出された。あわてて逃げたサルが踏みつけた岩が三つに割れた。現在その岩は、「三つ岩」と呼ばれている。
奥能登・珠洲市の旧家で、江戸時代から伝わるという「猿回しの翁(おきな)」の置き物=写真=を見せていただいたことがある。チョンマゲの翁は太鼓を抱えて切り株に座り、その左肩に子ザルがのっている。陶器でできていて、なかなか味わい深い。古来からサルは水の神の使いとされ、農村では歓迎された。能登もため池による水田稲作が盛んで、猿使いたちの巡り先だった。猿使いたちは神社の境内などで演じ、老若男女の笑いや好奇心を誘ったことだろう。代々床の間に飾られるこの猿回しの翁の置き物は、その時代の農村の風景を彷彿(ほうふつ)させる。
ことし8月、その輪島市西山町大西山=写真=を訪ねた。山間地の斜面に古民家が点在する、『日本昔話』のような里山だ。能登で有名な猿鬼伝説の発祥の地でもある。曲がりくねった路上で老婆と会うと、向こうから会釈する。能登も随分と様変わりしつつあるが、この地は原風景のままという感じがした。