☆日本を洗濯-2-

☆日本を洗濯-2-

 震災で日々伝えられていることをつぶさに読み、視聴すると物事は大胆にスピーディにやった方が評価は高まる。「石原軍団」と称される石原プロモーション(渡哲也社長)が4月14日、東日本大震災で被災した宮城・石巻市を訪問し、大規模な炊き出しを行ったと報じられた。20日までの1週間分で、カレーやおでんなど1万5000食を被災者に振る舞った。トラックにして28台分に及ぶ。渡社長らは寝袋で泊まり込んだ。1995年の阪神・淡路大震災でも石原軍団が活躍した。

         情報発信に問題はないか、そのタイミングやネーミング

 「トモダチ作戦」と呼ばれる在日アメリカ軍による被災者の救援活動も印象に残る。沖縄の普天間基地から来たヘリコプターや貨物輸送機などが、物資を厚木基地から山形空港や東北沖にいる空母ロナルド・レーガンなどに輸送した。また、一時使用できなくなった仙台空港の瓦礫の撤去作業など行った。ロナルド・レーガンは原子力空母であり、平時だったらメディアでも問題視されいたことだろう。それを差し引いてもその迅速な救援活動は好印象で伝えられた。

 それにしても不思議に思うこと。それは当然やっているだろと思いつく人が行動を起こしていないことだ。甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市は民主党の小沢一郎元代表のかつての選挙地盤だった。その小沢氏が岩手入りしたのは3月28日だった。岩手県知事と会談した。それ以前もそれ以降も小沢氏の被災地にかかわる動きはメディアを通しては見えてこない。小沢氏の公式サイトをのぞいても、4月27日に予定していた「第62回小沢一郎政経フォーラム」の延期のお知らせ以外は、被災地での活動が記載されていない。

 日本相撲協会は3月24日と25日に東京都内で街頭募金活動をした。25日に上野の松坂屋前で募金箱を首からぶらさげた高見盛が「首が重い」と善意に感謝した様子がテレビで映し出されていたが、それ以外、力士が被災地で炊き出しを行ったというような大相撲協会の救援活動が見えてこない。力士には東北出身者も多いはずである。そのくらいのことは当然していると思ったのだが。

 物事にはタイミングというものがある。タイミングが悪いとあらぬ誤解を受けたりする。4月12日、日本政府は福島第1原子力発電所の事故評価をチェルノブイリと同等の「レベル7」に引き上げると発表した。当初は「レベル4」だと発表していた。ここに来て一気に「レベル7」に引き上げた。これが国内外に不信を招いた。「日本政府は原子炉について事実を公開していないのではないか」、「何らかの事故に対する隠蔽工作があったのではないか」・・・。結果的に、「やはり日本政府は隠していたのか」との不信を煽る結果になった。

 もう一つ、ネーミングの問題がある。地震が発生した3月11日、気象庁はこの地震を「東北地方太平洋沖地震」と命名した。その後、日本政府は4月1日の閣議で震災の名称を「東日本大震災」とすることで了解した。新聞やテレビはこれ以降、「東日本大震災」の名称に統一した。政府とすれば、広範囲な名称で激甚災害の大きさを強調した方が今後復興に向けた取り組みで行いやすいと判断したようだ。ところが、これが海外からすると「日本の東半分は地震でやられた」との印象を与えている。今回の震災では原発事故とセットで被害を受けたとのイメージもあり、日本海側の東北地方や北海道などでも外国人旅行客が激減するなど風評被害が起きている。

 震災をめぐる一連の動きで感じるのは、情報の発信力やコミュニケーション能力の落差である。発表のタイミングや、情報の伝え方は誤解や過剰反応を生む原因にもなる。逆に、うまく伝えれば評価を上げたり、汚名返上にもなりうる。野球賭博や八百長問題があったとしても、大相撲協会は力士を被災地に派遣して、避難所でちゃんこ鍋の炊き出しなどの救援活動をすると喜ばれるのではないだろうか。

⇒24日(日)朝・金沢の天気  はれ 

★日本を洗濯-1-

★日本を洗濯-1-

 明治維新の立役者、坂本龍馬が姉の岡上乙女に宛てた文久3年(1863)6月29日付の手紙で「日本を今一度洗濯いたし申すことにすべきこと神願」と書いた。同月に起きた長州藩と、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの列強四国との間の武力衝突(下関攘夷戦争)について、幕府は列強の船を江戸で修復させ、再び下関に送り出していることを知り、「幕府側の腹黒い売国奸物官僚」の仕業と憤った。他国の武力を使って長州を成敗させるほどに幕府は腐敗していると感じ、「日本を洗濯」と述べたものだ。今回の東日本大震災を通して、日本の政治や経済のあり様がさまざまな矛盾というカタチで噴出し始めている。それをいくつか取り上げてみたい。この際、日本を洗濯しよう。

         外国人の帰国ラッシュから透ける「人を安使いする社会」

 震災後から始まった外国人の帰国ラッシュ。身近でも、能登半島の観光施設で働いていたアメリカ人女性が最近タイに移った。両親から勧められたらしい。「日本にいては危ない」と。悲惨な津波の様子や原発事故は世界中のテレビで繰り返し流れている。それを視聴すれば、普通の親だった日本にいる娘や息子の身を案じるだろう。まして、政府が帰国を勧めれば、在日外国人の日本脱出は当然の成り行きだ。ただ、そこから浮き上がってくる問題がある。

 たとえば、日本全国の繊維産業で中国から「研修生」と称する数万人規模の労働者がいる。3年の間研修と実習を行うが、研修というより現場になくてはならない労働力となっている。この労働者の大半が帰国し、ニットを中心とする縫製業の中小企業が操業がままならない状態に陥っているという。繊維産業以外でも、飲食店やコンビニなどがある。たとえば、牛丼の吉野家は14日の決算発表の会見で、首都圏で働く外国人アルバイトの4分の1に相当する約200人が退職したと明らかにした。これ以外にも、自動車部品業界でも多くの中国人ほか外国動労者が帰国したと報じられている。

 日本企業が安価な外国の労働力に頼り切っていた中で今回のようなことが起きた。もちろん、その背景には日本の若者が中小零細企業に見向きもしなくなっていたという状況もあるだろう。一方で高校、大学の就職は「超氷河期」と呼ばれている現実がある。細かな理由はどうあれ大きな矛盾、ひずみが生じている。

 日本を脱出している外国人の多くは正社員ではなく、アルバイトである。能登半島で働いていた女性もパートだった。報道では、コンビニのローソンでは、中国に帰国した正社員は1人もいなかったものの、アルバイトに関しては急きょ、人材派遣会社を通じて日本人のアルバイトを補填したという。ここから見えてくるのは、日本企業は研修生やアルバイト、パートとった労働力を安易に使っているから、外国人も不安定な研修生やアルバイトには見切るをつける。つまり、外国人が逃げたのではなく、見切りをつけられたのだ。これは外国人だけに限らない。日本の派遣労働にも通じる。労働形態の多様性はあるべきだと考えるが、雇う側に「人を便利に安く使う」という発想に慣れきっていることが根底にあるのではないか。

 おそらく、外国人が去るとき、日本人経営者は「君たちがいなければわが社は困る」と正面切って慰留できなかっただろう。研修生やアルバイトにそう言えるはずもない。今回を一時的な現象とせずに、日本再生のために雇用そのもののあり方を再考する機会にすべきだと考える。

⇒15日(金)朝・金沢の天気   はれ

☆震災とマスメディア-9-

☆震災とマスメディア-9-

 昨夜(7日)午後11時32分に東北地方で強い揺れがあり、仙台市など震度6強、盛岡市などで震度5強を観測した。震度6強は民家は半壊あるいは全壊するくらいの激しい揺れだ。復興に向け、被災地の人々の心がまとまり始めていた矢先に追い打ちをかけるようにして起きた。

         メディアの現場も戦場と化している

 先ほど、知り合いの月刊ニューメディア編集長、吉井勇氏からメールでニュースレターをいただいた。その中で、東北の民放テレビ局関係者からテレビの現場の様子を取材した一文があったので以下抜粋する。要約すると、テレビの現場もガソリンの確保、食糧の確保、そして取材者たちの精神的疲労が募っているとの内容だ。

「震災直後の停電は、放送局の使命である電波を出す作業も際どいという、自家発の油入手との戦いだったそうだ。八方どころか、32方にも及んだ油作戦は、裏技も駆使しながら確保できたという。放送局は取材ができないと、ただの送信局設備になってしまう。ここでも中継車、取材車、ローカル応援局の取材車などのガソリンが必要・・・」

「食糧事情も厳しい。物流が途絶えたため、約340食を用意するのもギリギリ。炊き出し部隊はおにぎり一つでしのいだそうだ。物流が途絶えた中での、これも戦い。」

「一番気にかけたのは、取材先、つまり被災者たちのあまりにもむごい現実に向き合うことで、取材者自身が夜に眠りきれないなど、精神的に疲労してきているという。PTSD(心的外傷後ストレス障害)の心配も、被災地にある局だから真剣に対応すべき問題なのであるだろう。」

 以上が東北ローカル局の生々しい実情である。

 東北太平洋側のテレビ局記者・カメラマンはまさに「戦場のカメラマン」状態だと思う。おそらく毎日が「悲惨な事故現場」での取材の連続だろう。私自信も記者時代(新聞、テレビ)に自殺、交通死亡事故、水難事故など人が死ぬという現場を取材してきた。今回の東日本大震災の映像をテレビで見るたびに、遺体は映し出されてはいないものの、当時の現場がフラッシュバックで蘇ってくる。「現場」というのもはそれほど心に深く刻まれ、ときに連想で追いかけてくる。

 ただ、現場にいるのは記者とカメラマンだけではない。検死に立ち会う医者、警察、消防、自衛隊などがいる。記者はその遺体を自らの腕で抱きかかえ運ぶということはしない。記者やカメランマンのPTSD(心的外傷後ストレス障害)が時折問題となるものの、現場の後処理をしなければならない警察や消防のことを考えると、PTSDをメディアの中で問題化することにちょっと引け目を感じる。これは自分自身の体験からの思いである。

 心情支援しか送れないが、現場で奮戦する記者、カメラマン、技術スタッフ、ロジを担当する総務のスタッフ・・・。10年、20年の長い戦いになる。未来を信じて、メディアそしてジャーナリズムの職務をまっとうしてほしいと思う。

※写真は、2007年3月の能登半島地震の被災地(輪島市門前町)。寺院は全壊したが、地蔵は倒れず残った。

⇒8日(金)朝・金沢の天気   くもり

★震災とマスメディア-8-

★震災とマスメディア-8-

 東日本大震災(2011年3月11日)と新潟県中越沖地震(2007年7月16日)のメディアの取材テーマに類似点がある。それは、被災地の原子力発電所に損傷が及んだという点である。能登半島地震(2007年3月25日)でも震源近くに北陸電力志賀原発1・2号機があったが、ともに点検などのため停止中だったので、メディアの取材が集中するということはなかった。

       メディアの取材資源には限りがある

 新潟県中越沖地震では、東京電力柏崎刈羽原発3号機から火災が発生した。放射能漏れは当初確認されなかったが、NHKのヘリコプターが火災現場の空撮を行った。この原発火災の映像が全国ニュースで放映され、視聴者は不安を募らせた。この火災では、東電職員4人が現場に駆けつけたものの、消火用配管が壊れていて、消火活動は行われなかった。また、地震の影響で地元消防署との専用電話は使用できず、消防隊の到着が遅れ、鎮火までに2時間近くかかった。メディアの取材は東電の初期消火の体制と地元消防署との連携の不手際に集中した。当然、柏崎市など行政の対応も震災と原発に2分化された。その後の調査で、少量の放射性物質の漏れが確認されたが、人体や環境に影響はないレベルとされた。もし放射性物質の漏れが火災の発生と相まっていたら騒ぎはさらに大きくなっていたかもしれない。

 私が柏崎市を取材に訪れたのは震災から3ヵ月余りたった10月下旬だった。住宅街には倒壊したままの家屋が散見され、メインストリートの駅前の商店街の歩道はあちこちでひずみが残っていて歩きにくかった=写真=。復旧半ばという印象だった。能登半島地震の復旧に比べ、そのテンポの遅さを感じたのが正直な印象だった。事実、取材した被災者の人たちも「原発対応に追われ、復旧に行政の目が行き届いていない」と不満を述べていた。当時のニュースの露出も原発関連が先にあり、後に震災関連という順位だったと記憶している。

 当時、原発火災は「あってならないことが起きた」というインパクトを周辺住民にも全国の視聴者にも与えた。したがって、メディアの取材が原発関連に集中したのも不思議ではなかった。が、メディアの取材資源(マンパワーと機材)も無限ではない。地域のテレビ局にしても、もっと被災者の生活や被災地のインフラの復旧状況を取材したいと思っても、原発関連に人と機材が割かれるという場面も相当あったろうと想像する。

 では、今回の東日本大震災の場合はどうだろう。全国ニュースで見る限り、テレビ画面や紙面からの印象として「福島」に集中してはいないだろうか、「宮城」「岩手」は手薄くなってはいないだろうか。ニュースの露出の多寡によって復旧や復興のテンポに地域格差や温度差が出てはならない。復旧が遅れると、それだけその地域の人々の不満や疲労度は募る。メディアは復旧のシンボルは取材するが、それ以外には取材資源を割けないのである。

⇒4日(月)朝・金沢の天気  はれ

☆震災とマスメディア-7-

☆震災とマスメディア-7-

 2007年3月25日の能登半島地震では、被災者110人にアンケート調査をお願いした。その中で、「メディアに対する問題点や要望」を聞いた。手厳しい意見があった。紹介しておきたい。「朝から夕方までヘリコプターが飛び、地震の音と重なり、屋根に上っていて恐怖感を感じた」(54歳・男性)、「震災報道をドラマチックに演出するようなことはやめてほしい」(30歳・男性)、「特にひどい被災状況ばかりを報道し、かえってまわりを心配させている」(32歳・女性)。

         被災地に向けて情報をフィードバックすべき

 こうした被災者の声は誇張ではなく、感じたままを吐露したものだ。そして、阪神淡路大震災や新潟県中越地震など震災のたびに繰り返されてきた被災者の意見だろうと想像する。

 震災時のメディアへの意見は、今回の東日本大震災でも散見される。被災地からはメディアはどのように見えているのだろうか。「週刊現代」(4月2日号)で、仙台市在住の作家、伊集院静氏はこのように述べている。「まだ孤立して飢えと寒さに震えている子供がいるのに厚化粧して被災地のレポートをする女子アナ」、「テレビのキャスターの一人が『あの波が押し寄せる光景はまるで映画を見ているようです』と口にした。これほどの人々を呑み込んだ津波を、まるで映画を見ているような、とは、ナンナノダ? 君にとってこの惨事は劇場の椅子にふんぞり返って眺めるものなのか。言葉の間違いというより、人としての倫理の欠落、無人格以外のなにものでもなかろう。日本人はここまで落ち果てたか。」。視聴者はテレビを見ているのではない。伝え手であるメディアを見ているのだ。

 誰しもが一瞬にして「情報弱者」になるのが震災である。被災者にどう情報をフィードバックしていくか、メディアが問われている。現実は、メディアは被災地から情報を吸い上げて全国に向けて発信しているが、被災地に向けたフィードバックが少ない。

 避難所の様子を映したテレビ画面を見て気づいた。大人も子どもも携帯電話のワンセグ放送でニュースをチェックしている姿だ。災害情報を得るための防災グッズといえば、携帯ラジオが定番となっていたが、様変わりした。いま手元のメディアツールは携帯電話のワンセグ放送なのだ。これだったら、車載のカーナビゲーションでも受信できる。2008年4月に放送法が改正され、ワンセグ放送の独立利用が可能になった。ワンセグ放送を災害復旧に役立てない手はない。被災地のための臨時放送局をテレビ各社が共同運営してはどうだろうか。

 また、新聞社は協力して避難住民向けのタブロイド判をつくったらどうだろう。決して広くない避難所でタブロイド判は理にかなっている。メディア同士はよきライバルであるべきだと思うが、災害時には協力して被災地に向けて情報をフィードバックすべきだ。

⇒1日(金)朝・金沢の天気  はれ

★震災とマスメディア-6-

★震災とマスメディア-6-

 2007年7月16日、能登半島地震と同じ日本海側で新潟県中越沖地震が発生し、新潟県や長野県が震度6強の激しい揺れに見舞われた。震源に近く、被害が大きかった新潟県柏崎市は原子力発電所の立地場所でもあり、地震と原発がメディアの取材のポイントとなっていた。そんな中で、「情報こそライフライン」と被災者向けの情報に徹底し、24時間の生放送を41日間続けたコミュニティー放送(FM)があった。このコミュニティー放送が何をどのように被災者に向け発信したのか、具体事例を通して「震災とメディア」を考察したい。

      「メディアにできること」の可能性を追求したFMピッカラ

 震災から3ヵ月後、被災地を取材に訪れた。住宅街には倒壊したままの家屋が散見され、柏崎駅前の商店街の歩道はあちこちでひずみが残っていて歩きにくかった。復旧半ばという印象だった。コミュニティー放送「FMピッカラ」はそうした商店街の一角にあった。祝日の午前の静けさを破る震度6強の揺れがあったのは午前10時13分ごろ。その1分45秒後には、「お聞きの放送は76.3メガヘルツ。ただいま大きな揺れを感じましたが、皆さんは大丈夫ですか」と緊急放送に入った。午前11時から始まるレギュラーの生番組の準備をしていたタイミングだったので立ち上がりは速かった。

 通常のピッカラの生放送は平日およそ9時間だが、災害時の緊急編成は24時間の生放送。柏崎市では75ヵ所、およそ6000人が避難所生活を余儀なくされた。このため、市の災害対策本部にスタッフを常駐させ、被災者が当面最も必要とする避難所や炊き出し、仮設の風呂の場所などライフライン情報を中心に4人のパーソナリティーが交代で流し続けた。

 コミュニティー放送局であるがゆえに「被災者のための情報」に徹することができたといえるかもしれない。インタビューに応じてくれた、パーソナリティーで放送部長の船崎幸子さんは「放送は双方向でより深まった」と振り返った。ピッカラは一方的に行政からの情報を流すのではなく、市民からの声を吸い上げることでより被災者にとって価値のある情報として伝えた。たとえば、水道やガスの復旧が遅れ、夏場だけに洗髪に不自由さを感じた人も多かった。「水を使わないシャンプーはどこに行けばありますか」という被災者からの質問を放送で紹介。すると、リスナーから「○○のお店に行けばあります」などの情報が寄せられた。行政から得られない細やかな情報である。

 また、知人の消息を知りたいと「尋ね人」の電話やメールも寄せられた。放送を通して安否情報や生活情報をリスナー同士がキャッチボールした。市民からの問い合わせや情報はNHKや民放では内容の信憑性などの点から扱いにくいものだ。しかし、船崎さんは「地震発生直後の電話やメールに関しては情報を探す人の切実な気持ちが伝わってきた。それを切り捨てるわけにはいかなかった」と話した。

 7月24日にはカバーエリアを広げるために臨時災害放送局を申請したため、24時間放送の緊急編成をさらに1ヵ月間延長し8月25日午後6時までとした。応援スタッフのオファーも他のFM局からあったが、4人のパーソナリティーは交代しなかった。「聞き慣れた声が被災者に安心感を与える」(船崎さん)という理由だった。このため、リスナーから「疲れはないの、大丈夫ですか」とスタッフを気遣うメールが届いたほどだった。

 ピッカラの放送は情報を送るだけに止まらなかった。夜になると、「元気が出る曲」をテーマにリクエストを募集した。その中でリクエストが多かったのが、女性シンガー・ソングライターのKOKIAの「私にできること」=写真=だった。実は、東京在住のKOKIAが柏崎在住の女性ファンから届いたメールに応え、震災を乗り越えてほしいとのメッセージを込めて作った曲だった。KOKIAからのメールで音声ファイルを受け取った女性はそれをFMピッカラに持ち込んだ。「つらい時こそ誰かと支えあって…」とやさしく励ますKOKIAの歌は、不安で眠れぬ夜を過ごす多くの被災者を和ませた。そして、ピッカラが放送を通じて呼びかけた、KOKIAによる復興記念コンサート(8月6日)には3千人もの市民が集まった。人々の連携が放送局を介して被災地を勇気づけたのだった。

 ピッカラの災害放送対応を他のコミュニティー放送が真似ようとしても、おそらく難しいだろう。コミュニティー放送局そのものが被災した場合、放送したくても放送施設が十分確保されないケースもある。そして、災害の発生時、その場所、その状況によって放送する人員が確保されない場合もあり、すべてのコミュニティー放送局が災害放送に対応できるとは限らない。その意味で、発生から1分45秒後に放送ができた「FMピッカラ」は幸運だったともいえる。そして、「情報こそライフライン」に徹して、コミュニティー放送の役割を見事に果たした事例としてピッカラは評価される。

⇒30日(水)朝・金沢の天気  はれ

☆震災とマスメディア-5-

☆震災とマスメディア-5-

 28日付の産経新聞インターネット版で「『避難所にテレビを』岩手出身の小笠原が“お願い”」との見出しが目に留まった。記事によると、Jリーグ選抜の小笠原満男選手は「ひとつお願いがあるんですが…」と報道陣に切り出し、「被災地ではテレビを見られない人もたくさんいるんです。より多くの人に見てもらえる方法を協力してもらえませんか。避難所に小さなテレビを持ち込むとか…」と呼びかけたという。小笠原選手は、今月18日に高校時代を過ごした岩手県大船渡市と妻の実家がある陸前高田市の避難所を訪れている。「現地の実情を知るからこそ、の言葉だった。」と記事は報じている。

      「避難所にテレビを」放送インフラを急げ

 被災地に放送が果たす役割は大きいが、なんといってもインフラの整備だ。テレビを視聴できるようにすることだ。2007年3月25日、震度6強の能登半島地震では全体で避難住民は2100人余りに及んだ。多くの住民は避難所でテレビやラジオのメディアと接触することになった。注目すべきことがった、被害が大きかった輪島市門前町を含め45ヵ所の避難所すべてにテレビが完備されていたことだ=写真=。地震で屋根のテレビアンテナは傾き、壊れたテレビもあったはず。一体誰が。

 この「テレビインフラ」をわずか2日間で整えたのはNHK金沢放送局だった。翌日26日から能登の全避難所45カ所を3班に別れて巡回し、アンテナなどの受信状態を修復し、さらにテレビのない避難所や人数が多い避難所には台数を増やし、合計12台のテレビを設置した。用意周到だったのは、2006年5月に金沢放送局では災害時に指定される予定の避難所にテレビが設置されているかどうか各自治体に対し予備調査を行っていた。このデータをもとにいち早く対応したのだった。

 NHKは報道機関では唯一「災害対策基本法」が定める国の指定公共機関であり、災害報道と併せハード面のバックアップは両輪である。が、それだけではない。金沢放送局はこんなアフターフォローも行った。地震が起きたのは3月の最終週に入る日曜日とあって、被災者から当時人気だった連続テレビ小説「芋たこなんきん」の最終週分を見たいとの要望や、大河ドラマ「風林火山」を見損ねたとの声があり、著作権をクリアにした上で、要望があった13カ所の避難所に収録テープを届け、またビデオの備えがない7カ所にビデオデッキを届けた。こうした被災者のニーズを取り入れた細やかな活動があったことはテレビ画面からは見えにくいが、避難住民を和ませたのだった。

 しかし、東日本大震災は能登半島地震に比べとてつもなく広範囲だ。避難所は2100ヵ所もある。さらに、中継鉄塔などが損傷し、その対策も追われ、すべての避難所にNHK技術陣の手が回りきれていないのだと想像する。避難所にテレビがなく、情報が入らなければ余計に不安が増す。小笠原選手が取材陣に述べた「避難所に小さなテレビを持ち込むとか・・・」は、技術陣だけでなく、現地を取材するNHKや民放の記者やカメラマンにもできることだ。

⇒29日(火)朝・金沢の天気  はれ

★震災とマスメディア-4-

★震災とマスメディア-4-

 メーリングリストで、福島県の「里山のアトリエ坂本分校」支援物資会津基地のスタッフからこんなメールが届いた。「必要なものをタイミングよく必要なところに送らないと、相手方が保管する場所もない所が多いので迷惑になります。会津基地では新品・未使用・一箱一品目、リスト付を原則にしています。とにかく、仕分けの労力は大変です。長期戦になります。冷静に行動して判断、と思うのですがなかなか難しいです。」

       避難所に必要なのは「かわら版」的な情報ペーパー

 2007年3月25日の能登半島地震から4年になる。現地でのボンラティア活動でも上記と同じ思いをした。各地からさまざま善意が届けられる。しかし、それを受ける現地の状況が理解されていないために、返って混乱を招いている。私が目撃した一つの例を述べる。被災者の避難所には毎日、新聞各紙がどっさりと届けられる。ところが、避難所となっている地区の集会場は体育館のように大きくはない。被災者は肩を寄せ合っている状態だ。そこに新聞が山積みされても、まず新聞を広げて読むスペースが十分にない。しかも、新聞を広げても被災者が欲しい情報、たとえば回診や被災相談などの細かな情報は掲載されていない。読まれない新聞が日々どっさりとたまる。それを廃棄場所に持って行き始末するのはボランティアの役目だった。

 そのような事情の中で、被災者が「かわら瓦」と呼んで手にしていたのは朝日新聞社が避難住民向けに発行した「能登半島地震救援号外」=写真=だった。タブロイド判の裏表1枚紙で、文字が大きく行間がゆったりしている。住民が「役に立った」というのは、災害が最も大きかった被災地・輪島のライフライン情報に特化した「ミニコミ紙」だったからだ。救援号外は、朝日新聞が阪神淡路大震災の体験から、より被災者に役立つ情報をと2004年10月の新潟県中越地震で初めて発行した。能登半島地震では、カラー写真を入れるなど、より読みやすく工夫された。

 日々改良も加えられた。1号(3月26日付)で掲載された、給水車から水を運ぶおばあさんの顔が下向きで暗かった。これでは被災者のモチベーションが下がるのではないかとの配慮から、2号からは笑顔にこだわり、『毎号1笑顔』を編集方針に掲げた。さらに、長引く避難所生活では、血行不良で血が固まり、肺の血管に詰まるエコノミークラス症候群に罹りやすいので「生活不活発病」の特集を5号(3月30日付)で組んだ。義援金の芳名などは掲載せず、被災地の現場感覚でつくる新聞を心がけ、ごみ処理や入浴、医療診断の案内など生活情報を掲載した。

 カラーコピー機を搭載した車両を輪島市内に置き、「現地印刷」をした。ピーク時には2000部を発行し、7人から8人の印刷・配達スタッフが手分けして避難所に配った。夕方の作業だった。地震直後、同市内では5500戸で断水した。救援号外は震災翌日の3月26日から毎日夕方に避難所に届けられ、給水のライフラインが回復した4月7日をもって終わる。13号まで続いた「避難所新聞」だった。

 これは提案だが、新聞各社がそれぞれにこうした「避難所新聞」をつくってはどうだろうか。いまからでも遅くはない。ただ、東日本大震災では2100ヵ所の避難所がある。各紙が話し合って配付地域を決めて実施してはどうだろうかと提案したい。

⇒28日(月)朝・金沢の天気  はれ
 

☆震災とマスメディア-3-

☆震災とマスメディア-3-

  今回の震災で、これまでのテレビ局画面と違うことがいくつかある。連日の放送体制でNHK、民放とも生放送の番組を拡大させている。そんな中、字幕の放送を積極的に行っていることだ=写真=。リアルタイムで話すインタビュー内容も「生字幕」化している。これは放送で一番難しいといわれてきたことだ。日本語特有の同音異義や、専門用語の表記の対応、誤植や誤記を行わない確認体制が必要となる。聴覚障がいの人はもちろんのこと、耳に不自由を感じる高齢者、さらに避難所で1台のテレビを見るときは遠巻きの健常者にとっても字幕表示は役立つ。夜、周囲で寝ている人がいて音声を絞る場合に字幕は見やすい。

       ユニバーサル・サービスに好感、では7・24はどうなる

  健常者でも障がい者で同じようにマスメディアから情報を得ることをユニバーサル・サービスという。内閣の、たとえば総理や官房長官の会見では、小画面に手話通訳者が出ている。会見場に手話通訳があることで、聴覚障がい者がリアルタイムでテレビから情報を得ることができる。今回の震災は原発事故と連動したため、メディアによるリアルタイムの放送に被災者の耳目が集まる。内閣の伝えようとする意志が見える。災害会見の手話放送はこれ以降、定番化するのではないだろうか。

 好感の持てることばかりではない。震災でCMスポンサーが減っているせいで、CMの空き枠に公共広告機構(AC)のCMがやたらと入っている。しかも、「思いやり」や「生物多様性」など種類が少なく、繰り返しの放送で、このACが画面に流れると、チャンネルサーフィン(切り替え)を始めてしまう。もう条件反射のようになっている。それに、最後の「AC」というサウンドがうるさいと思う。これは視聴者が誰しも感じていることではないだろうか。番組のフォーマットでCM枠がすでに固定化されているので、CMスポンサーが少ないからと言って、CM枠を間引くことはできないのだ。民放の宿命だろう。

 被災地の民放には同情する。放送そのものもさることながら、電波を視聴者に届ける前線である中継設備では、ミニサテと呼ぶ小さな局が多数損傷を受けているだろうことは想像に難くない。電気不通によるトラブル、それをカバーする自家発の燃料を届けられないこともあるだろう。テレビ局には、国の放送免許と引き換えに放送電波を人々が「あまねく」受信できるように設備を整えることが使命として課せられている(放送法第2条の6)。震災という困難なときほど使命が問われる。

 3月17日、民放連会長による定例会見があった。注目されたのは、ことし7月24日に予定されているアナログ停波(デジタル完全移行)のスケジュールをそのままで進めるのかという点だった。東北地方はデジタル未対応の世帯が少なくない。広瀬道貞会長は「7月24日に(アナログ波を)停波できるような環境作りに対し、歩みを止める必要はない。全国一斉が原則。私自身は(震災でも)引き延ばす理由はないと思っている」、「人とお金をかけ、(地デジへの)切り替えができる環境を作ることが大切」とし、支援策としてデジタル対応テレビを支給するよう政府に求めていきたいと述べた(毎日新聞インターネット版)。難題が次々と。

⇒22日(火)朝・金沢の天気  くもり

★震災とマスメディア-2-

★震災とマスメディア-2-

 私は大学を卒業してから満50歳になるまで、新聞記者とテレビ局報道のセクションに携わった。津波も経験した。日本海中部地震。1983年(昭和58年)5月26日11時59分に秋田県能代市沖の日本海側で発生した地震で、10㍍を超える津波で国内での死者は104人に上ったが、そのうち100人が津波による犠牲者だった。

      報道目線と被災者目線のギャップをどう埋めたらよいのか

 そのころ、能登半島の輪島市で記者活動をしていた。デスクから電話があり、輪島漁港に行ってみると、足元まで波が来て、危うく逃げ遅れるところだった。1枚だけ撮った、渦に飲み込まれる寸前の漁船の写真は翌日の一面を飾った。2004年にテレビ局を退職し、大学の地域連携コーディネーターという仕事をしている。2007年3月25日の能登半島地震(震度6強)、翌日26日に被害がもっとも大きかった輪島市門前町に現地入りした。そこで見たある光景がきっかけで、「震災とメディア」をテーマに調査研究を実施することになる。

 震災当日からテレビ系列が大挙して同町に陣取っていた。前回のコラムで述べた現場中継のため、倒壊家屋に横付けされた民放テレビ局のSNG(Satellite News Gathering)車をいぶかしげに見ている被災者の姿があった。この惨事は全国中継されるが、被災地の人たちは視聴できないのではないか。心象的だったのは、半壊の家屋の前で茫然(ぼうぜん)と立ちつくすお年寄り、そしてその半壊の家屋が壊れるシーンを撮影しようと身構えるカメラマンのグループがそこにあった=写真=。「でかいのがこないかな」という言葉が聞こえてきた。「でかいの」とは余震のこと。余震で、家が倒壊する瞬間を狙っているのである。周囲では余震におののいて子どもが泣き叫ぶ声も聞こえる。カメラマンのこの身構える姿は被災者の人たちにどう映っただろうか。

 私が前職(テレビ局報道担当)だったら、違和感を感じなかっただろう。むしろ、「倒壊の瞬間を撮ったら、すぐネット上げ(全国放送)だ」とカメラマンや記者に発破をかけていただろう。もともと26日現地を訪れたのは学生ボランティアの派遣が可能かどうかの見極めだったので、被災者の目線だった。報道目線と被災者目線はこれだけ違うのである。もちろん、被災者目線を大切にしたいというカメラマンもいた。共同通信の腕章をしたカメラマンは、半壊となり、割れたガラスが散乱している被災者宅でも、決して靴で上がろうとはしなかった。靴を脱いで、被災者に許可を得て、家屋に上がった。ちょっとした被災者への気遣いで十分なのだ。

 そのようなことを「震災とメディア」の調査報告にまとめた。報告書では以下のような提案もした。「(今回のメディアのありようは)阪神淡路大震災や新潟県中越地震など震災のたびに繰り返されてきた光景だろうと想像する。最後に、『被災地に取材に入ったら、帰り際の一日ぐらい休暇を取って、救援ボランティアとして被災者と同じ目線で、現場で汗を流したらいい』と若い記者やカメラマンに勧めたい。被災者の目線はこれまで見えなかった報道の視点として生かされるはずである」(「金沢大学能登半島地震学術調査部会平成19年度報告書」より)

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