☆畠山重篤さんのこと
東日本大震災の後、NPO法人「森は海の恋人」の畠山重篤さん(宮城県気仙沼市在住)にお会いするのは2度目だ。最初は5月12日。有志から募った義援金を持参し、東京・八重洲で会った。このときの畠山さんは頭髪、ひげがかなり伸びていて、まるで仙人のような風貌だった。黄色いヤッケを着ていた本人は「ホームレスに間違われるかもな…」と笑っていた。この折に、9月2日に能登半島の輪島市で「復興と再生」をテーマにシンポジウムで講演をお願いし、了承を得た。そして今回、9月2日。畠山さんを輪島に招いての講演が実現した。さすがにこのときは講演を意識されたのか、頭髪もひげも整髪されていて、こざっぱりとした感じになっていた。
「地域再生人材大学サミットin能登j。畠山氏をお招きしたステージだ。地域再生のための人材養成に関わる全国の大学関係者らが集った全国会議のシンポジウム。シンポジウムは一般公開としたので、市民も聴講に訪れ、定員1200人のホール(輪島市文化会館)はいっぱいとなった。講演は40分、気仙沼の漁師としての思い、森は海の恋人の提唱者としてのこれからを語ってもらった。
【畠山重篤氏の講演要旨】 昨日、輪島に来て案内されたホテルの窓から眼下に海原が広がるので津波が来たら危ないと思った。部屋が8階と聞いて少し安心した。津波では、20㍍の高台にある自宅のギリギリまで波がきた。津波の怖いところは、生死がはっきりと分かれるところだ。津波で陸はすっかり様変わりしたしたが、1ヵ月ほどして、海が少しずつ澄んできた。ハゼのような小魚など日を追うごとに魚の種類も海藻も増えてきた。京都大学が海底の調査をしたところ、土壌もそれほど変化していないことが分かった。つまり大津波によって海が壊れたわけではない。生き物を育む海はそのままで、カキの養殖も再開できると思ったとき、勇気がわいてきた。
海は森の恋人運動は、気仙沼の湾に注ぐ大川の上流で植林活動を20年余り続け、約5万本の広葉樹を植えた。赤潮でカキの身が赤くなったのかきっかけで運動を始めた。スタート当時、科学的な裏付けは何一つなく、魚付林(うおつきりん)があるとよい漁場になるという漁師の経験と勘にもとづく運動だった。お願いした北海道大学水産学部の松永
勝彦教授(当時)によって、植物プランクトンや海藻の生育に欠かせないフルボ酸鉄(腐葉土にある鉄イオンがフルボ酸と結合した物質)が大川を通じて湾内に注ぎ込まれていることを解明された。漁師の運動に科学的な論拠を与えてもらった。このおかげで、大川上流のダム建設計画も中止となった。植樹活動には子供たちを参加させている。かつて植樹に参加した子供たちの中には、いま生態学者を志す者もいる。森と川と海をつなげる森は海の恋人運動は、漁師の利害ではなく、未来の地球の環境を守るための「人々の心に木を植える」教育活動だと考えている。
⇒3日(土)朝・輪島の天気 くもり
昨日のTBS系のニュース番組で紹介されていた。アメリカ・メリーランド州のコンビニエンスストアの防犯カメラがとらえた映像。店に突然、男女数十が入ってきて、次々に商品をつかむと、そのまま金も払わず店の外へと消えていく。集団が襲ったのは午前2時前、店員は1人で対抗措置を取ることができなかった。治安が悪い地区で起きているわけではない。静かなふつうの都市で起きている犯罪なのだ。
若者が暴走するのは世の常だ。ただし、警官による黒人男性射殺に端を発したイギリスの若者の暴動は理解を超えている。報道によれば、暴動に加わった若者の行動パターンは3つに分類されるという。それは「略奪」「放火などの破壊行為」「警察への攻撃」だ。貧民街での暴動で、停職をもたない若者の不満が爆発したのかと短絡的に考えていたがそうではないらいい。逮捕され裁判所に出廷した容疑者は、裕福な女子大生やグラフィックデザイナー、小学校の補助教員、しかも人種も多様なようだ。中には、11歳の少年もいるという。
先月7月23日、中国・浙江省温州市付近で、高速鉄道「D3115」が脱線事故を起こし、車両4両が高架橋から転落し、多数の死傷者を出した。また、事故後に転落した車両を検証することもなく、地中に埋めるという当局の行為がニュースとして世界を駆け巡った。事故の一連のニュースで感じたことは、日本や諸外国の新幹線を形だけ真似しても、その安全性に対する考え方やスケジュール管理の具体的な方法などを学んでいなかったのはないかということだ。冒頭で述べた、真似ればよいというレベルでとどまっていたとうことになる。
幼いころ読んだイソップ寓話に「アリとキリギリス」がある。夏の間、アリたちは冬の間の食料をためるために働き続け、キリギリスは歌を歌って遊び、働かない。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、アリたちに頼んで、食べ物を分けてもらおうとする。しかし、アリたちは「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだ」と皮肉を込めて断る下りをいまでも覚えている。ことほどさように、アリは働き者というイメージが世界で共有されている。
その熊楠がクジラの塩干しを炭火であぶって、よく酒を飲んだと著書にあり、この塩干しが食べたくなった。和歌山県太地町から「鯨塩干」を取り寄せた。黒くてフワフワ感がある。これをオーブンで5分間焼く=写真=。「これが熊楠の好物だったクジラの塩干しか」とわくわくしながら口にした。どこか覚えのある味だった。スルメイカの一夜干しのあぶったものと歯触りや味がそっくりなのだ。
先のブログで紹介したミラー・ジェームス弁護士によると、アメリカの「2009年6月12日」では当日31万7000件の問い合わせがコールセンターに寄せられたという。地上波をアンテナで直接受信する世帯はアメリカで15%、およそ4500万人。日本では76%(2009年統計)が直接受信なので、およそ9600万人となり、アメリカの2倍以上となる。相談件数で見る限り、少なくとも日本はアメリカより混乱は少なかったといえる。
オバマの「チェンジ!」の掛け声はFCCにも及び、スタッフ部門1900人のうち300人ほどが地域に派遣され、視聴者へのサポートに入った。ミラー氏は2008年11月から地デジ移行後の7月中旬まで、カリフォニア州北部、シアトル、ポートランドに派遣された。その目的は「コミュニティー・アウトリーチ」と呼ばれた。アウトリーチは、援助を求めている人のところに援助者の方から出向くこと。つまり、地域社会に入り、連携して支援することだ。
25日付の新聞報道によると、24日未明から同日午後6時までに総務省のコールセンターには9万8千件の電話相談や苦情があった。NHKには午後8時までに3万1千件、民放各社には午後7時までに1万6千件、まとめると14万5千件に上る。
私が生まれた1954年の1年前に日本のテレビ放送は開始した。1926年に高柳健次郎がブラウン管に「イ」の字を映すことに成功し、日本のテレビ映像の黎明期が始まった。1929年、すでに開始されいたNHKラジオの子供向けテキストに「未来のテレビ」をテーマにしたイラストが描かれた。当時、完成するであろうブラウン管は丸いカタチで想像されていた。東京オリンピック(1940年に予定していたが日本が返上)を目指してテレビ開発は急ピッチで進んだが、戦時体制に入り中断した。高柳博士の成功から28年かかってテレビ放送は開始されたことになる。
【翻訳文】 石川県知事、能登の市長町長、武内(和彦)教授、政府関係者や地域の皆さん、そして友人知人の皆さんの前で、能登半島が世界的に重要な農業遺産システムとして世界農業遺産に登録される大変素晴らしいお祝いの日に、FAO(国連食糧農業機関)を代表してお話しできるのは、私にとって光栄で名誉なことです。
次の段階は、GIAHSの原則を地域の方針と実践の中に取り入れることです。これは、生物多様性や文化的多様性を大切にし、地域固有の知識を保護し、美意識を大切にすることを意味します。それはすなわち、地域社会の強化であり、ブランド化やエコツーリズム、若者の移住やその生活といった新たな機会を提供するために、地域社会を整備・支援することです。