☆能登から金沢への視線

☆能登から金沢への視線

 金沢に住んで、能登を仕事で行き来しながら最近思うようになった。「金沢のこの停滞感は何だろう」と。能登、とくに奥能登の自治体(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)の首長たちの迫力が違う。「珠洲市が乗るか反るか、この10年が勝負です」と泉谷満寿裕市長は4年前に名刺交換をしたときに語った。それから、金沢大学のプログラム誘致に動いた。奥能登には高等教育機関がなく、「大学を」との地域のニーズとマッチしたことが背景にある。さらに、大学が研究交流施設として使いやすいようにと、改修工事のため4600万円の予算付けに市長自ら動いた。決して楽ではない財政の中でのやり繰りに、自治体の期待と熱意が伝わってきた。

 昭和29年(1954年)の合併時に3万8千人だった人口が半世紀余りで1万7千人と2万1千人も減った。そして高齢化も急テンポです進む。ことし7月に全国に先駆けて地上デジタル放送への完全移行を成功させたのも、高齢世帯の対策をどうするかということが市長自らを走らせた。6月に再選を果たした泉谷氏は「あと6年」と自ら到達年を設定して、手探りながら環境問題や財政建て直しなど次世代に引き継ぐ政策を打つ。市長だけではない。市職員からも切実感が伝わってくる。大学のプログラムに参加する都会からの移住者への対応も実に丁寧だ。

 そんな珠洲市のいまの姿を見ていると、金沢市のことが気になる。行政や商店街からは「金沢が停滞しているのは、金沢大学が郊外に移転したからだ」「2014年に新幹線が開通すれば景気浮揚のチャンスだ」との声が聞かれる。この言葉を聞いただけで、「金沢はいつから他人依存症になったのだろう」と愕然してしまう。

 歴史や文化的な背景を探ると、金沢は2度没落している。明治維新後と戦後だ。武家社会に成り立った政治経済の構造は根底から崩れた。映画化され話題になっている著書『武士の家計簿』を読めば、その悲惨さがにじみ出ている。武士の惨憺たる姿である。そして戦後、陸軍第九師団司令部があり「軍都」と名乗った時代が去り、一時低迷した。こうして振り返ってみると、金沢の人々がオリジナルに創り上げた地域再生のための独自の工夫というのは一体どこにあるのだろうかと考えてしまう。殿様任せ、国政任せ、奇妙な風土が定着した観があると感じるのは私だけだろうか。

 新幹線が来るのならば、どう魅力的な街づくりをしたらよいのか、市民サイドから湧き上がるアイデアが必要だ。官製ではなく、民が動く仕組みを。あす28日は金沢市長選だ。そんなことを考えて、一票を投じたい。

※写真は加賀藩大名の隠居所・成巽閣(せいそんかく)の石垣

⇒27日(土)・七尾市の天気  くもり
  

★対岸の戦火

★対岸の戦火

 昨夜、中国に出張している知人からメールがあった。「北朝鮮の件の影響で、上海空港で飛行機の中に2時間以上缶詰になってました。おかげで仕事ははかどりましたが。地球環境うんぬん以前の問題が、まだ地球上には山積みのようですね」と。課題の優先順位から言えば、地球環境問題というのは、平和が達成されないと難しいとの感想だ。

 それにしても、「戦争」を伝えるメディアは内容もすさまじい。以下は、各紙の引用だ。

 「これは訓練ではない。実戦だ」と呼び掛ける放送が響き、何の前触れもなく砲弾が降ってきた。北朝鮮の朝鮮人民軍による砲撃を受けた韓国・延坪島。集落では次々と火柱が上がり、韓国メディアは、なすすべもなく逃げ惑う住民の様子を伝えた。(24日付・フヤーでの「共同通信」記事)

 韓国大統領府によると、李明博(イミョンバク)大統領は、北朝鮮の砲撃直後、韓国軍合同参謀本部とのテレビ会議で、「何倍でもやり返せ」と指示し、強硬姿勢を示した。3月の北朝鮮による韓国海軍哨戒艦「天安(チョンアン)」沈没事件では46人が死亡しており、再び被害を出す事態は看過できないからだ。(24日付・読売新聞インターネット版)

 24日の東京株式市場で、日経平均株価は朝鮮半島情勢の緊迫化を嫌気して3営業日ぶりに1万円を割って取引が始まった。(24日付・朝日新聞インターネット版)

 「戦闘状態」に入り、すべてのニュースが対岸(朝鮮半島)の火に目を向けている。メディアは、閣僚の放言など問題にしている暇はないとばかりに、報道姿勢が「戦時モード」になる。おそらくこれで、菅内閣はホッと胸をなでおろしているに違いない。そして、有事では現政権というのは結束して「磐石」になるものだ。

 結論を急ぐが、私は「メディアの限界は戦争にある」と思う。メディアの絶対価値というのがあって、何が何でも一面トップの記事はすでに決まっている。「大地震」「政権交代」「天皇崩御」、そ市て「戦争」だ。ニュースというのは、優先順位がつけられていること、内容が裏づけされていること、速報することで価値が高まる。しかし、ひとつのニュースが日常化されたかのように報じられると、取材する側も視聴・読者側もそのほかのニュース感覚がマヒしてくる。

 近年では湾岸戦争、同時多発テロ、イラク戦争などにわれわれは毎日、まるでエンターテイメントのように関心を示したものだ。こうした「戦争報道」の裏で、本来ニュースとして価値のあるも出来事がどれほど葬り去れたことか。

⇒24日(水)朝・金沢の天気 くもり

☆小さな夢の可能性

☆小さな夢の可能性

 金沢大学が能登半島の先端で開講している社会人プログラム「能登里山マイスター」養成プログラムには県内外からの受講生が現在45人が毎週土曜日を中心に学んでいる。受講の可否は、一人一人の面接で最終決めている。45人の中にはIターン、Jターン、Uターンが13人もいる。都会での生活に終止符を打って、能登での新たな人生設計の夢を抱いてやってきた人たちだ。面接で語られるその期待度は高い。ただ、つぶさに話を聞くと、実現不可能な夢ではなく、本人の努力と周囲のちょっとした支援があれば実現しそうな夢もある。

 36歳のKさんは、神奈川県でIT企業に勤めていた。「歩くツーリズム」を自分で企画することが夢で能登のやってきた。昨年、パートナーといっしょにスペインのカミーノ・デ・サンティアゴという道を850㌔歩く旅をし、「豊かな自然、人、文化を歩いて旅をし、味わう道をつくりたい」と面接で熱く語った。4月に夫妻で能登に移住した。そのKさんは、ノルディックウォーキング「SUZUあるき」という企画を仲間たちとつくっている。珠洲市の自然資源を自分の足で感じつつ、地域の人々と参加者同士で交流し、汗を流したあとは季節の味覚を味わうという毎月開催のイベントだ。

 私にも案内メールが来た。今回のコース(11月28日)は、珠洲市野々江町。秋の紅葉の中、田園と池を爽やかに歩きます。八丁田で白鳥観察、亀ケ谷池での野鳥観察と、渡り鳥ウォッチングの予定。ノルディック・ウォーキングの後は、古民家レストランで昼食という内容だ。私は、2008年5月にドイツのシュバルツバルトの森を訪ねた折、泊まったホテルの企画で体験した。スキーのストックを手に山を登り、中腹の山小屋で食事をしながら語らい、そして戻るという往復7㌔ほどのコースだった。

 Kさんの夢はほんの入り口だろう。受講生たちは、自己実現を図ろうとしている。一見、ささやかな夢、小さな事業であったとしても、そこには計り知れない社会的価値が存在するのではないか。近い将来、こうした60人の里山マイスターたちが能登の風景を明るく変えていくのではないかと楽しみにしている。

※写真はチラシの一部、【問い合わせ】090-9762-3298 加藤 【メールアドレス】
suzu.nordic.walking@gmail.com

⇒22日(月)夜・珠洲市の天気   くもり

★こだわり農家の未来

★こだわり農家の未来

 能登半島の北の方は「奥能登」と呼ばれる。自治体で言えば、輪島市、珠洲市、穴水町、能登町となる。この2市2町の人口は現在7万9100人だが、10年後の2020年には21%減の6万2500人、高齢化率(65歳以上の年齢割合)は46%を占めると予測されている(「石川県長寿社会プラン2009」より)。過疎化が進む理由には、若者の働き場所が少ないなどの条件不利地という面がある。ただ、日本地図を広げて、日本海に突き出た能登半島は実にわかりやすい。「能登産」という食材はスーパーマーケットなどでは通りがよい。

 奥能登で生産された米の販売会が、20日と21日に金沢市にあるスーパー「どんたく金沢西南部店」であった。店頭に並んだ奥能登の米は、海洋深層水を利用したもの、鶏ふんなどの有機肥料を用いたり、棚田ではざ干し、女性たちが耕す棚田米などそれぞれ特徴を打ち出した「こだわり米」なのだ。NPOや農業法人、生産組合など10つの団体が出品した=写真=。

 どのくらいのこだわりかいくつか紹介する。農業法人すえひろ(珠洲市)が耕す田んぼは見ればわかる。一面に稲のじゅうたんの水田で飛びぬけて草(ヒエなど)が生えている田んぼがそれ。「農家では普通3回、除草剤をまくが、うちは1回しかまかないから」(北風八紘さん)。さらに売りは「完熟堆肥」だ。。牛ふんにもみ殻や糠(ぬか)、小豆の殻を入れて混ぜ、それを一冬寝かせて堆肥をつくる。完熟した堆肥は臭みがほとんどない。この堆肥を、苗を植える前の春先に田んぼに混ぜて土づくりを行う。いまでは350戸から耕作委託を受け、水田を65㌶に広げている。

 川原農産(輪島市)のこだわりは、米も人間と同様に「伸び伸びと元気良く育てる」をモットーとしてる。稲株の間隔を広げ、葉っぱを伸ばさせる植え方をしている。一坪(3.3平方㍍)で45株が目安だ。普通は60から70株と言われるので、随分ゆとりある環境だ。自家製の堆肥は米糠ともみ殻を使い、田んぼに還元するやりかた。売れ筋は「能登ひかり」だ。一昔前まで能登の気候に合う品種ということで生産されていたが、モチモチ感のあるコシヒカリに押されて生産する農家は少なくなった。ところが、京都や大阪といった関西の寿司屋から見直されている。「ベタベタとした粘りがない分、握りやすく、食べたときにも口中でパラッとバラけるので、寿司によいのだという」(講談社新書『日本一おいしい米の秘密』)。さらに、このバラける食感がスープ料理にも合うということで、川原農産の能登ひかりは金沢市のレストラン「ポトフぅ」(同市里見町)で使用されている。

 さらなるこだわりが、川原伸章さんにはある。「能登の米がおいしいのは、新潟・魚沼地方と同じ緯度にあるからって、よく農家自身が説明するでしょう。でも、こんな表現をしたらいつまでたっても能登の米は魚沼を超えられない。一番になれない」と心意気にもこだわる。川原農産も耕作委託を受け、水田を20㌶に広げている。平地に比べ、条件不利地であるがゆえに奥能登の生産農家はこだわらなければ生きていけない。その精神がものづくりのマインドを高める。

 TPP(環太平洋経済協定)の論議が白熱している。加盟国間で取引される全品目の関税が2015年を目標に撤廃される。もし日本がTPPに加盟すれば、農家が生き抜く道は2つだろう。経営の大規模化か、黒毛和牛のような高品質の「こだわり農産品」だろう。面白いことに、先に紹介した「すえひろ」「川原農産」のように、こだわった米づくりに挑戦し続ける農家には耕作委託が舞い込み、期せずして経営規模も広がる傾向にある。これは奥能登だけでなく全国の傾向だろう。TPP時代のパイオニアとして光り輝き、生き抜くのはこうした「こだわり農家」ではないだろうか。そんなことをスーパーの店頭で思った。

⇒21日(日)夜・金沢の天気  はれ

☆生きるセンス

☆生きるセンス

 今夜、「生きるセンス」をテーマにした講演会が能登半島の珠洲市の農家民宿であった。金沢大学医薬保健学域・教授の天野良平氏が主宰する催しで、声がかかり立ち寄った。講演はリレートーク方式で、3人が15分ほどずつスピーチをする。聞き書き作家の小田豊二氏、珠洲市長の泉谷満寿裕氏、保健師の榊原千秋氏と話がバトンタッチされていく。

 小田さんは、登山家の長谷川恒夫が「生きぬことが冒険」と語ったその生涯を紹介しながら話した。彼の登山人生は15歳のときにはじめて丹沢に登り、17歳で岩登りを知ることから始まる。26歳のとき、エベレスト登山隊に参加した。48人という大所帯での登山で、サミッター(登頂者)の生還を助けたが、自身の登頂はならならずに「組織登山」から、単独登山を志す。31歳で、アルプス三大北壁冬期単独登頂を果たし有名となる。その後も、アコンカグア南壁フランスルート冬期単独初登頂。その後、ダウラギリ、エベレストなどを目指したが敗退の連続で、ヒマラヤではサミッターにはなれなかった。1991年に未踏峰ウルタルIIに挑戦し、雪崩に巻き込まれ亡くなる。43歳だった。「挑戦し続ける人生こそ」と小田さんは言う。最後に、「好きこそものの上手なれ」という有名な言葉の説明をした。これには前文があり、「器用さ、稽古と好きのうち、好きこそものの上手なれ」だ。つまり、最初は下手でも、「好き」という人が最終的に名人になる。「好きなことに挑戦し続けよう、これが生きるセンス」と結んだ。

 泉谷さんが、36歳にして初めての市長選に臨んだ2000年6月。現職に挑戦し、敗退した。「そのとき、人格のすべてが否定されたように思った」と。泉谷さんは話の中では触れなかったが、当時、最大の争点だった原発建設計画の「一時凍結」を訴え、反原発グループと政策協定を結んで戦った。が、推進派の現職9300票、泉谷6690票で敗れた。その後、2003年12月に電力側が「原発の凍結」を市に申し入れ、原発計画に終止符が打たれた。初めての選挙で敗退者となり、落ち込んでいた泉谷さんに励ましの声をかけてくれる人々もいて、人の気持ちのありがたさを知った。泉谷さんは、明治の政治家・陸奥宗光の言葉を座右の銘にしているという。「政治はアートなり。サイエンスにあらず」。費用対効果など統計や数字を持ち出して語る政治ではなく、人々の心の動きが読める政治をしたいと語った。

 榊原さんは、ふっくらとした面持ちで、演歌の天童よしみ似が第一印象だった。33歳のときに凍結路面で交通事故に遭い、九死に一生を得る。「右手の中指からチカラがスッと抜けました。死はここから始まると思いました」。難病の人たちの願いを地域の人たちとかなえる「命に優しい街づくり」「ホスピタリティな街」を小松市で実践している。ガン患者とスープをつくり、飲む集いなども主催している。話の最後に締めくくった言葉。「喜べば、喜び事が喜んで、喜び連れて、喜びに来る」。自ら死線をさまよった経験を持ち、生き抜きたいと願う人々に手を差し伸べる。人生の本当の喜びとは一体何かを考えさせてくれる言葉だった。

⇒20日(土)夜・金沢の天気  はれ

 

★「魂の酒」が語ったこと

★「魂の酒」が語ったこと

 金沢大学の共通教育授業として「いしかわ新情報書府学」という科目を担当している。「映像と語りで学ぶ地域学」をテーマに、石川県が情報書府事業で作成したビデオ(自然、文化、工芸、産業、歴史など)を学生に視聴してもらい、その後、関係者から話を聞くことで理解を深めるという授業だ。履修する学生は290人。ただでさえ、暑さを感じる講義室に、きのう17日は熱気が漂った。著書『魂の酒』で知られる、能登杜氏の農口尚彦氏を迎えた日だった。授業が始まる直前に、農口氏が持参した日本酒2本を学生たちの前に並べた。すると、学生たちがザワザワとし始めた。

 授業の冒頭に説明した。日本酒は欧米でちょっとしたブームだ。ワインやブランデー、ウイスキーなどの醸造方法より格段に人手をかけて醸す日本酒を世界が評価しているのだ、と。その後、農口氏を紹介するビデオを流し、「神技」とも評される酒造りの工程を学生に見せた。

 日本酒の原料は米だ。農口氏は、米のうまみを極限まで引き出す技を持っている。それは、米を洗う時間を秒単位で細かく調整することから始まる。米に含まれる水分の違いが、酒造りを左右するからだ。米の品種や産地、状態を調べ、さらには、洗米を行うその日の気温、水温などを総合的に判断し、洗う時間を決める。勘や経験で判断しない。これまで、綿密につけてきたデータをもとにした作業だ。

 酒蔵に住み込む農口氏は、夜中でも米と向き合い、米を噛み締める。持てる五感を集中させて、手触り、香り、味など米の変化を感じ取る。そのため、40代にして歯を失った。次に行うべき適切な仕事とは何かを判断するためだ。農口氏は言う。「自分の都合を米や麹(こうじ)に押し付けてはならない。己を無にして、米と麹が醸しやすいベストな状態をつくらなければ、決して良い酒は出来ない」

 農口氏は謙虚だ。というもの、自身は下戸(酒が飲めない)なので、酒の出来栄えや批評は、飲める人の声に耳を傾ける。それでも、「一生かかっても恐らく、酒造りは分からない。それをつかもうと夢中になってやっているだけです」と能登方言を交えて語った。「魂の酒」のゆえんはここにある。そして、学生の心を打ったのだろう、学生たちの眼差しは農口氏に集中した。

 授業の最後に、農口氏の酒を何人かの学生にテイスティングしてもらった。「芳醇な香り」「ほんのり感が漂う」「よく分からないけど、のどを通るときにふくよかな甘さを感じる」・・・。最近の学生は意外と言葉が豊富だと思った。授業に酒を持ち込むなんて、と言わないでほしい。これも、「生きた授業」なのである。

⇒18日(木)夜・金沢の天気 はれ

☆晩秋の黄砂

☆晩秋の黄砂

 きょう(12日)16時ごろ、能登半島の穴水湾沿いを車で走っていて、太陽が薄くオブラートに包まれて、満月のようになっているのに気がついた。写真は、穴水町の観光名所「ボラ待ち櫓(やぐら)」のポケットパークから撮影したものだ。海は穏やかでカキの養殖棚が浮かぶ。太陽も山々も霞(かすみ)がかかったようにぼんやりと。撮影時間は16時20分。

 西日本や東日本の各地で12日、黄砂が観測されたと夕方のNHKニュースで知った。気象庁によると、東京都心で秋(9~11月)に黄砂が観測されたのは記録が電子化された1967年以降で初めてという。12月も含めると28年ぶり2回目という。そんな記録的なことだとは知らなかったが、穴水湾で見た霞がかった光景も「そういえば黄砂か」と、このニュースを見て改めて気づいたのだった。

 黄砂は12日午前に西日本一帯に飛来し、夕方に東京に達した日本から3千kmも離れた中国北部のゴビ砂漠やタクラマカン砂漠を低気圧が通過し、黄砂を発生させ、偏西風に乗って日本に運ばれた。普通は、植物が地表を覆わない2月から5月にかけて黄砂が発生する。中国北部で乾燥化が一段と進んでいるのか、と推測してしまう。「季節外れ」と言ってしまえばそれまでだが、何か気候変動のようなものも予感させる。

 洗濯物が汚れる、車のウインドーが白くなるなど、黄砂は何かと悪者扱いされる。ただ、金沢大学の大気観測の研究者に聞いた話では、一概に害を及ぼすとも限らない。日本海に魚の量と種類が豊富なのは、黄砂にはミネラル成分が含まれ、それが海に落ちて植物性プランクトンの発生を促し、それを動物性プランクトンが食べ、さらに魚が食べと食物連鎖があるからだとの研究もある。

⇒12日(金)夜・七尾市の天気 はれ

 

★ロシアという隣人

★ロシアという隣人

 もう25年ほど前の話だ。新聞記者の時代に輪島の海女さんたちを取材した。当時、73歳の海女から「樺太へ行ったとも。しょっぱい川を2つ越えてな」と、戦前、夏場の樺太(サハリン)に出稼ぎに行った話を聞いた。「しょっぱい川」とは、津軽海峡と宗谷海峡のこと。稚内の港から樺太に渡って、ウニ漁をした。樺太に着いて、さらに漁場である本斗(ネベリスク)の岩場を眺めて、驚いたことが2つあったと身振り手振りで思い出を語った姿が今でも忘れられない。突堤のような岩場に岩ノリがびっしりとついていたこと、そして、アザラシが何百頭といたことだった。いかに気丈な海女さんでもアザラシの海に潜るのには、少々腰が引けたのだろう。でも、コンブの林をかき分けると、そこにはウニがぞろぞろいて、まさに豊穣の海だった。

 その豊穣の海は、その後に争いの海となる。1945年(昭和20年)8月11日にソビエト連邦軍が侵攻し、樺太の戦いが勃発し全島が制圧された。8月14日午後11時に日本がポツダム宣言の受諾を連合国に通達した。降伏の意図を明確に表明したあとにソ連軍が北方四島に侵攻し、8月28日から9月5日にかけて、択捉、国後、色丹島、歯舞群島を占領した。日本人の島民を強制的に追い出し、さらには北方四島を一方的にソ連領に編入した。

 ロシアのメドベージェフ大統領はきょう(1日)、北方領土の国後島を訪問するため、極東サハリン州を経由して、現地に到着した。旧ソ連時代を含め、ロシア国家元首による訪問は初めてだ。日本のメディアは、学校や幼稚園、病院、アパートなどを視察すると見られると伝えているが、その狙いは明らかだ。民主党が政権を奪取する以前の去年5月12日に当時の小沢一郎代表は、ロシアのプーチン首相と東京都内で会談し、両国が友好関係を深めながら北方領土問題を解決するアプローチを取るべきだという認識で一致し、日露協力について意見交換している。

 ところが、メドベージェフ大統領はことし9月末に中国を訪問し、胡錦濤国家主席との会談で領有権に関する対日強硬姿勢を互いに確認したとメディアは伝えている。メドベージェフ大統領にすれば、プーチン首相とは外交のスタンスが違うとばかりに日本を刺激してくる。おそらく、今月中旬、アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議出席のため訪日する予定だが、その前後にも北方領土を訪問するとの観測が出ているとメディアは報じている。

 「火事場ドロボウ」のように北方四島を奪取した信頼感がない国が、今度は何をしでかすか分からないと、その歴史を知らない若者たちも感じ始めている。かつて、日本人は中国人とロシア人を口汚くののしった。いまでもそう言っている人たちがいるが、それはそれなりに理由があるのだ。歴史は繰り返す、時代は経れども国民性は変わらない。変わったのは日本人だけかもしれない。隣人ロシアとの付き合い方が難しくなってきている。

⇒1日(月)朝・金沢の天気  あめ

☆中国との未来関係

☆中国との未来関係

 先日、医学部の教授と話してして、「新型うつ病」という言葉を初めて聞いた。かつてのうつ病は攻撃が内側に向かうことが多く、自分を責めるというカタチで現れたが、最近の新型うつ病は攻撃が外に向かっているのが特徴という。若い人たちに多いらしい。たとえば、「オレがこうなったのはアイツのせいだ」と執拗に攻撃するのだという。性格障害とも言うらしい。

  その話を聞いて、こんなニュースが気になった。東南アジア諸国連合(ASEAN)会議出席のためにベトナムを訪問した菅直人・温家宝首相の会談を中国側が拒否したことについて、中国側外交部が「日本側はASEANの会議期間中に、中国の主権の領土の完備性を侵犯する発言を、メディアを通じてまき散らし、両国の首脳が意思疎通をする雰囲気をぶち壊した。その結果は日本側がすべて責任を負わねばならない」と述べたという。

 また、関連して、「日本側はASEANの会議期間中、メディアを通じて、中国の主権を侵犯する発言を、まき散らしつづけた。日本の外交責任者は、釣魚島(尖閣諸島)の問題をあおりたてた」、さらに「両国首脳がハノイで会談する雰囲気をぶち壊した。その結果、発生した責任は日本側にある」と中国側が主張したという。この言葉を聞いて、冒頭の性格障害をイメージした。アイツが悪いと断言しているのである。これは国としての外交的な言葉なのだろうか。

 おそらく、日本人にとって一連のメディア報道で、中国は「傍若無人」という思いを印象づけたと思う。このままで日本と中国との経済、外交分野での「未来関係」は成立するのだろうか、といぶかる人も多いのではないだろうか。

 「中華思想」という言葉を思い出す。いまの中国の外交姿勢は昔と変わらないのはないか。かつて、福沢諭吉が「脱亜論」を唱えた。専制的なアジアの政治制度に限界を感じて見限った。彼は言った。「悪友を親しむ者は、共に悪名を免かる可らず。我れは心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」(鈴木隆敏著『新聞人福澤諭吉に学ぶ』)。当時の日本は民主国家ではなかったが、それでも中国などアジアの近隣国の政治体制は古臭く、嫌気を感じたのだろう。中華思想の悪臭を、現代の日本人も感じ始めている。

 日本のメディアの論調は、すでに中国との関係性を見切っているようにも思える。ベトナム政府が予定している原子力発電所建設計画について、日本が「協力パートナー」とすることで合意し、日本の受注が事実上決まったと大々的に報じた。日本が新興国で原発建設を受注するのは初めて。さらに、省エネ家電などの部品に不可欠なレアアース(希土類)についても共同開発で合意した。経済面の記事として、「中国依存」から脱却を図る論調がこれからも頻繁になっていくのでははないだろうか。

 だからかと言って、癖の強い隣人との関係を絶つわけにはいかない。今後のどうつきあえばよいのか、ある意味で本当の外交がこれから始まる。

⇒31日(日)夜・金沢の天気  あめ

 

★COP10の風~下~

★COP10の風~下~

 それでは、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で金沢大学はどのようにかかわったのか、プログラムを中心に紹介する。まず、サブイベントへの出席で際立ったことが2つ。日本の里山をモデルに人と自然の共生を目指す国際組織「SATOYAMAイニシアティブ国際パートナーシップ(IPSI)」の発足式典が19日開かれ、金沢大学から中村浩二教授、中山節子特任助教が出席した。里山イニシアティブは生態系を守りながら漁業や農業の営みを続ける「持続可能な利用」という概念であり、今後、生態系保全を考える上で世界共通の基本認識となる見込み。中村教授は「海外の研究者を能登に招いて、能登で育まれた里山保全のノウハウを途上国にも伝えたい」と席上抱負を述べた。

        金沢大学はどうかかわったのか

 もう一つのサブイベント。国連大学高等研究所などが中心になって、研究者や行政担当者ら200人が携わった研究「日本の里山・里海評価(JSSA)」の成果報告会が22日に開催された=写真・上=。評価の中核を担う「科学評価パネル」の共同議長を務める中村教授が総括発言を行った。2007年にスタートしたJSSAは過去50年の国内の里山里海をテーマに自然がもたらす生態系サービス(恩恵)の変化を調べたもので、日本人の思い入れが深い里山里海について、初めて科学的な分析でまとめられたことになる。評価は、従来の研究や数値データを集約する手法で、里山や里海の荒廃と生態系サービスの劣化が日本各地で広がっている状況が裏づけられました。総括の中で、中村教授は「今後10年間の研究プログラムを組み、政策提言することが必要」と述べた。

 次にブース展開。石川県・国際生物多様性年クロージングイベント開催実行委員会のブースで「金沢大学の日」(21日、22日)を設け、里山里海プロジェクト(代表・中村教授)の取り組みをPRした=写真・中=。ブースでは、プロジェクトの「能登里山マイスター」養成プログラムや里山里海アクティビティ、里山里海自然学校、角間の里山自然学校、いきものマイスター養成講座などを円形写真を使って紹介。見学者へのノベルティでつくった「能登ゴマ」が人気だった。演出は、輪島市在住のデザイナーの萩野由紀さんに協力いただいた。

 COP10公認の「石川エクスカーション」が23日と24日の2日間の日程で開催された。石川県の自然の魅力や保全の努力をアピールしようと石川県が企画、金沢大学が支援した。参加したのは、世界17カ国の研究者や環境NGO(非政府組織)メンバーら約50人。能登町の長龍寺本堂で行われた里山里海セミナーでは中村教授が金沢大学の能登半島での取り組みを紹介した。参加者から、どのような仕組みで大学と地域が連携するのかについて質問も。地元の地域起こしの組織「春蘭の里実行委員会」のメンバーが手入れしたアカマツ林のキノコ山を見学した。少々旬は過ぎていたが、見事なサマツがあちこちに。昼食では地元の人々たちの心尽くしの山菜料理を味わった。赤御膳が外国人には珍しく、会話が弾んだ=写真・下=。

 バスでの別れ際、お世話いただた地元の人たちが続々と集まって、参加者に手を振った。日本人の目線からすると、人情が厚い人たちなのだ。情の厚さは、自然へのまなざしにも通じる。これが自然と共生する能登の人々の姿である。

⇒26日(火)夜・金沢の天気   くもり