☆生物多様性年のこと

☆生物多様性年のこと

 国連が定めた国際生物多様性年の総括と、来年の国際森林年への橋渡しをするイベントがきょう18日、石川県立音楽堂邦楽ホール(金沢市)で開幕した。国連の関係者、2人の大臣を招いての国際会議はどのようなイベントであったのか、発言者の言葉を拾って紹介する。

 アフメド・ジョグラフ生物多様性条約事務局長:生物多様性条約第10回締約国(COP10・名古屋市)では、遺伝子資源の利用と利益をめぐる配分(ABS)の国際ルール「名古屋議定書」と生態系保全の目標「愛知ターゲット」が採択された。これは条約参加国が生物と人が共生する世界を築きたいと心をそろえたから実現できたこと。(パン・ギムン国連事務総長のメッセージを紹介して)今年、名古屋で築いた絆を大切にしていきたい。そしてこの機運を生かして、今後10年の取り組みを成功させたい

 松本龍環境大臣:国際生物多様性年の機運が世界を駆け巡り、緑の波が会場に押し寄せる息吹を感じた。先進国と途上国がABSをめぐる対立を乗り越えたのは、各国がぎりぎりのところで譲歩して、一つ一つ利益を積み重ねたからだ。議長として、私が木槌を振り下ろしたとき、会場が一つになっていた。生物多様性の損失を止めるためには、今後10年の行動が重要になる。人類の英知を集めて、行動を起こしていきましょう

 鹿野道彦農林水産大臣:里山と里海の重要性はCOP10ですでに世界の共通認識となった

 谷本正憲石川県知事:石川の県土の6割が里山であるものの、生活の変化や過疎・高齢化で荒廃が問題となっている。石川はトキが暮らせる自然環境を再生して未来に引き継ぐこと、さらにトキが舞う豊かな里山や里海を再生することが人と自然の共生につながる。そのためには一過性ではなく、永続的な取り組みが必要だ。地球規模の課題テーマである生物多様性の保全にローカルな立場から貢献していきたい

 ジャン・マッカルパイン国連森林フォーラム事務局長:国際生物多様性年のクロージング式典は、森林にとっても、生物多様性にとっても、ビギニングのセレモニーでもある。石川県の知事から里山里海の説明を聞いた。日本人はうまく人と農業、自然の関係を守ってきたと思う。人と森の関係もそうあるべきで、森林年では相互依存の関係を再確認したい

※写真は、国際生物多様性年と国際森林年の国連関係者や日本政府の関係者が集まった式典=石川県立音楽堂

★未だネット選挙解禁せず

★未だネット選挙解禁せず

世界に向かって大声で言えない3つのことがあると個人的に思っている。一つは、自由貿易を目指すべき日本が環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)をためらっていること、日米安保条約のもとで巣ごもり状態の日本の防衛のこと、そして日本の選挙ではインターネットの利用が禁止されていること、である。最初と2つめについては世論が割れる。ただ、3つめは有権者なら誰しも不可解に思っているだろう。なぜなら、有権者の間で是非をめぐる論争は聞いたことがない。政治家が決断できずに先送りしているだけなのだ。

 世界から嘲笑が聞こえる。「ネットを政治や選挙に活用できなくて、何がICT(情報通信技術)先進国だ、笑わせるな」と。アメリカでも韓国でも、「YouTube選挙」と言われるくらいに選挙でネット動画が盛んに利用されている。一方、日本の選挙で唯一の動画ツールである政見放送などは視聴率数%の低レベルだ。税金を無駄遣いするなと言いたくなる。

 ネット利用が公職選挙法で違法という意味合いは実に消極的な理由だ。現行法では、選挙期間中に、法定ビラなどを除きチラシやポスターなどの図画の頒布が制限されているからだ。公選法第142条(文書図画の頒布)では、衆院選(小選挙区)で使える選挙ツールは候補者1人につき、通常葉書35000枚と選管に届け出た2種類以内のビラ7万枚と決まっている。これ以外は選挙期間中使えないのだ。ネットが出始めた平成8年(1996)に総務省は「パソコン画面上の文字や写真は文書図画に該当」との見解を出し、今でも選挙期間中にホームページやブログを更新することや、電子メールを送信することを「不特定多数への文書図画の頒布」とみなして禁止している。選管などがチェックしている。

 ネットの選挙利用に政治家が消極的な理由として、政党や候補者になりすましたメールが出回ったり、ネットで政党や候補者の誹謗中傷が想定されるからだ。また、他国の国益に反する公約を掲げた候補が国外からのサーバ攻撃にさらされることを危惧する向きもある。

 とはいえ、ネット選挙は時代の流れであり、ことし7月の参院選前には解禁するよう与野党でガイドラインがまとめられたが、鳩山退陣など政局で混乱があり、公選法改正は先送りとなった。現在の公選法は1950年に制定されたもの。この60年も前の縛りで、当時はテレビやインターネットを使用した選挙活動は視野に入っていなかったが、21世紀に入ってもネットの解禁どころか、「政見放送」(第150条)によって、候補者はテレビ広告すら流せないでいる。

 さる11月28日投開票の金沢市長選の期間中に、初当選を果たした山野之義市長の支持者がツイッターで投票を呼びかけたとして、市選管がこの支持者に削除を求めていたとの記事が14日付の新聞各紙で掲載された。山野氏本人は告示後、ブログ、ツイッターとも更新していない。石川県警は警視庁と相談し、「(ネット利用を解禁する)公選法改正の動きがある微妙な時期なので立件は難しい」と警告などの措置は見送りと判断した。

 アメリカは1996年の大統領選挙が実質的な「ネット解禁」元年だった。アメリカに遅れること14年。さらに日本でのインターネットの利用者数が9408万人、人口普及率が78.0%(総務省「2009年通信利用動向調査」)に達しても、まだ法が現実に追いついていない。問題にすべきはこの点ではないか。

⇒14日(火)夜・金沢の天気   くもり

☆武士の家計簿

☆武士の家計簿

 金沢市片町2丁目にかつて老舗の喫茶店があった。朝7時半から営業していて、広い店内には早くから客が入っていた。客の中にはいくつグループがあって、目つきが鋭い人たちがいた。金沢市内の不動産の情報を交わす人たち、あるいは骨董や古美術の会話をするグループもいた。それぞれのプロたちによる朝のミーティングだったのだろう。20年以上も前、「バブル経済」の時代の話だ。その喫茶店の名前は「ぼたん」。2006年の冬だったろうか、創業60年の暦を刻んで店じまいしてしまった。今、その店が営業を続けていれば、おそらく全国から客が訪れていた違いない。幕末、加賀藩の「そろばん侍」といわれた下級武士の暮らしを描いた映画『武士の家計簿』の主人公、猪山直之・成之家が実際にあった場所である。

 原作は磯田道史著『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』(新潮新書)である。2003年に出版された当時読んだ。それこそ今の言葉で表現すれば、政権交代、経済破綻、地価下落、リストラ、教育問題など現代の日本が直面している問題を、140年ほど前に大政奉還後の武士たちや商人が経験していた。江戸時代から明治へと近代日本の姿が一つの家族を通して見えてくる。そんな著書だ。

 ある意味で、そろばん侍の出世物語でもある。参勤交代で加賀藩の2000人もの武士たちが金沢と江戸を往復した。加賀藩の御算用者はその宿泊費、交通費などのロジスティック、軍事用語で「兵站(へいたん)」の会計を担当した。猪山直之の息子・成之はこのロジの緻密な計算力が買われて、海軍主計という職にありついた。薩摩、長州の官軍の武士たちは勇猛で、時代の功績者ではあるものの、それだけでは国家規模の軍隊は動かせない。近代の軍隊へと脱皮するためには、西洋式兵法と並んで、組織を経理面でも動かす実務経験者が必要だったのである。これは時代のニーズだった。

 著書の中で、新しい時代に適応した猪山家とは対照的に、時代に逆らった不平士族たちがいた。金沢で三光寺派と呼ばれたグループで、リーダー格は元加賀藩士の島田一郎だった。明治11年(1878年)5月、大久保利通を東京・紀尾井坂で暗殺した。島田らは自首し、同年7月に斬首刑に処される。その島田の遺骸を引き取りに赴いたのは成之だった。著書の中で、私が一番注目したのはこの下りだった。明治維新の元勲を殺害した逆賊の遺骸を引き取りにいくだけでも、帝国の軍人としてリスクは伴ったことは想像に難くない。が、誹(そし)りを受けるのを覚悟で、本懐を遂げた島田の最期を、同郷の侍の一人としてと弔った。人生の損得のそろばん勘定を超えた、人間的な眼差しを評価するのである。

⇒13日(月)朝・金沢の天気  くもり

★清張、荒波の情景

★清張、荒波の情景

 景勝地の能登金剛は、松本清張の推理小説『ゼロの焦点』の舞台となった場所だ。清張生誕100年を記念し、昨年(2009年)11月に広末涼子らが出演して再映画化された。この地には、清張の歌碑がある。「雲たれて ひとり たけれる 荒波を かなしと思へり 能登の初旅」。歌碑は昭和36年(1961)に建てられた。

 この短歌の意味は、現場に立てばイメージがわいてくる。『ゼロの焦点』のシーンにある冬の日本海の荒波。その波は大きくうねり、そして岩に砕け散る。その砕け方は一瞬の飛び散りだ。この荒海の様子をじっと眺めていると、「人間と同じだ」と思えてくる。人は出世欲、金銭欲、さまざまは欲望をうねらせて突き進むが、最後には自らの矛盾や人間関係、社会制度に突き当たって一瞬にして砕け散る。清張が能登金剛を取材に訪れたとき、日本海の荒波はそのような情景に映ったのではないか。そして「かなしと思へり」と感じた。清張の小説を読めば、欲望と矛盾がサスペンスを生んでいる。

 2010年は激動の一年だった。いや、波乱の幕開けなのだろう。住友生命保険が今年の世相を四文字で表現する「創作四字熟語」を発表し、10日付の各紙朝刊で掲載された。優秀作品の「三見立体(さんみりったい)」は、3D映像の映画やテレビがブームになったことを「三位一体」にもじって表現したもの。案外面白いのは、ちょっとスパイスが効いた入選作品だ。鳩山前総理のとき、アメリカ軍普天間飛行場移設問題で「最低でも県外」と言ったのに、それが「知れば知るほど」に海兵隊の重要性がわかり、その後に沖縄県内の「辺野古」にプランが戻った。それを揶揄して「棄想県外(きそうけんがい)」の作品ができた。その混迷の結果が、「菅鳩交代(かんきゅうこうたい)」だった。

 人々の絆が薄れた社会は「無縁社会」と呼ばれている。高齢者の所在不明が相次ぎ、「戸籍騒然(こせきそうぜん)」となった。その後に、年金詐欺問題が続々と出てきた。もう一つ。「熱烈歓元(ねつれつかんげん)」は「熱烈歓迎」をもじったものだが、「歓元」にひねりが効いている。消費欲が盛んな中国人観光客が日本を訪れているが、歓迎しているのは中国の人より、お金という意味だろう。

 再び、清張の「かなしと思へり 能登の初旅」の歌。今の欲望社会を満たし続けるのはもう限界ではないのか。いつかクラッシュがくる。清張のテーマは単なる小説の題材ではなく、社会への警鐘だと感じている。

※写真は、能登半島・珠洲市真浦町の海岸

⇒10日(金)夜・能登の天気 はれ
 

☆「老兵」は能登で復権

☆「老兵」は能登で復権

 愛車について。2004年に購入した「アベンシス」は、当時、トヨタがイギリスで生産している「欧州車」が売りだった。購入の動機は、デザインがよかったからだ。当時49歳という年齢でもあって、派手さはなく、どちらかと言えば渋めでトータルデザインが落ち着いて、飽きがこない車を求めていた。何台か見て周り、その中でアベンシスが一番しっくりときた。車体の色は濃紺にした。

  デザインだけではなかった。乗り心地もよかった。車の基本性能の面でも、シートはしっかりとしていて、操縦に安定性がり、遮音の良さ、ドアを閉める時にボンと心地よく響く。ただ一つ不満があった。それは燃費だった。レギュラーガソリンでの市内走行は、1㍑当たり7㌔がせいぜい。2、3年前からそろそろハイブリッド車にとの思いが募っていた。

 そのころから大学のブログラムを運営するために能登通いが始まった。当初は大学の共有車(プリウスやプレサージュなど)を予約を入れて使っていた。その能登通いも頻繁になる連れて、予約もままならぬようになってきた。そこで、昨年秋ごろから、アベンシスを能登の往復用に使うことにした。大学から能登半島の目的地までざっと150㌔の距離になる。往復で300㌔だ。6年目の「老兵」に、わが身をだぶらせながらムチ打つつもりで使い始めた。

 ところが、これがよく走る。金沢の山側環状道路から白尾インターチェンジを経由して能登有料道路を走るが、能登空港までの約100㌔は信号がない(料金所は4ヵ所ある)。さらに半島の先端・珠洲市まで主要地方道を使うが、信号は数えるくらいだ。セルフの石油スタンドで満タンにして往復し、また満タンにしてガソリン消費量と走行距離とを計算すると1㍑当たり20㌔なのだ。

 今ごろになって調べてみると、エンジンは直噴式ガソリン仕様の2Lエンジンとの説明がある。特徴は、排出ガスのクリーンさで、超-低排出ガスレベルを達成しているという。確かに欧州の排出基準をクリアしたとの「三ツ星」のステッカーが貼ってある。さらに、連続高速走行の多い道路では、抜群の安定感と燃費を発揮する、とある。つまり、金沢のような城下町の都市構造はクネクネとした、信号だらけの道路で、アベンシスが持っている本来の性能が発揮できないのだ。

 さらに、往復300㌔運転しても疲れないのだ。大学の共有車のプリウスで何度も通ったが、疲労感が出る。ところが、アベンシスはシートのしっかり感と、操縦の安定性、遮音の良さで体と精神への負荷が少ないことに気がついた。

 気づかなかった。見た目のスタイルだけで判断して購入していた。市内走行で燃費が悪いとグチッていた。本来の車の走りについてもっと知るべきだった、と今さらながら反省の弁だ。こうなると、不思議と「老兵」に対する敬意やら、いとおしさが出てくる。老兵は能登で復権したのだ。輸入採算性の悪化で、トヨタはイギリスからの輸入を2008年に停止すると発表している。もうしばらく、いたわりながら能登の往復300㌔を走らせてやりたい思っている。

※写真は、輪島市曽々木海岸をバックにした愛車

⇒9日(木)夜・金沢の天気  雷雨

★むべなるかな

★むべなるかな

 ムベという果実をご存知だろうか。先日、その実を初めて食べた。アケビ科なのだが、熟すると裂けるアケビとは違って、ムベは赤くなるが裂けない。筋目を読んで両手で裂くと、半透明の果肉をまとった小さな黒い種子が多数あり、ほのかに香りを漂わせている。これをアケビのように種子ごとほうばるようにして口に入れる。甘い果汁が口の中で広がる。

 ムベは、いただいた能登半島の珠洲市でオンベと呼ばれている。インターネットで方言名を調べていると、グベ(長崎県諫早地方)、フユビ(島根県隠岐郡)などいろいろある。ニホンザルが好んで食べる、とある。「むべ」の語源を示唆するようなページもあった。面白いので、以下、引用して紹介する。

 琵琶湖のほとりに位置する滋賀県近江八幡市の北津田町には古い伝説が残っているそうだ。7世紀のこと。狩りに出かけた天智天皇がこの地で、8人の男子を持つ老夫婦に出会った。「汝ら如何(いか)に斯(か)く長寿ぞ」と尋ねたところ、夫婦はこの地で取れる珍しい果物が無病長寿の果実であり、毎年秋にこれを食するためと答えた。これを賞味した天皇は「むべなるかな」と納得して、「斯くの如き霊果は例年貢進せよ」と命じた、という。そのころから、この果実をムベと呼ぶようになったという。10世紀の「延喜式」には、諸国からの供え物を紹介した「宮内省諸国例貢御贄(れいくみにえ)」に、近江の国からムベがフナ、マスなど、琵琶湖の魚と一緒に朝廷へ献上されていたという記録が残っているそうだ。この地域からのムベの献上は1982年まで続いた。

 「むべなるかな」は、「まったくそのとおり」の意味で使う。大量のアメリカ外交公電を公表し、オバマ政権と世界の外交当局を揺るがせている内部告発サイト「Wikileaks(ウィキリークス)」。外交公電のほとんどは、過去3年間にアメリカ国務省と270の在外公館の間で交わされたもので、大使館員らと駐在国の閣僚や政府高官の会話が中心となっている。では、ウィキリークスで公表された内容は果たして内部告発なのか。4日付の各紙によると、中国の外務次官が2009年4月にアメリカ大使館幹部に「北朝鮮は大人の気を引く『駄々っ子』のような行動をする」「中国も北朝鮮のことが好きではないかもしれない」と語ったとの公電が暴露されたとあった。中国高官が本音を語ったものだが、「むべなるかな」ではないのか。普段ニュースに接していれば、誰だってそう思うだろう。どこに告発性があるのか。

 アメリカ政府の外交公電流出については、イラク駐留当時に秘密文書を閲覧できる立場にあった陸軍上等兵の関与が濃厚になっている。25万点という数には驚くが、ロシアのプーチン首相の評価「プーチン首相がバットマンでメドベーチェフ大統領は相棒のロビン」、イタリアのベルルスコーニ首相の評価「軽率でうぬぼれが強い」、北朝鮮の金正日総書記の評価「体がたるんだ年寄り、精神的、肉体的なトラウマを抱える」などは、どれも「むべなるかな」であり、どこに機密性があるのだろうか。ただ、アメリカの外交公電とは、悪口に満ちた外交官の内緒の話だとうことはよく理解できた。

 内部告発は、ある種の目的を持って発掘するものだろう。歴史の舞台裏で権力者によって隠されていた事実を赤裸々にしてこそ価値がある。内部告発サイトならば、「むべなるかな」ではなく、「げにあるまじきこと」の暴露だ。

⇒5日(日)夜・金沢の天気  はれ

☆街のつぶやき

☆街のつぶやき

 今回も金沢市長選(11月28日)の話だ。選挙の前日、金沢市役所の近くにある商店街の世話役がこんなことをつぶやいていた。「山出さん(現職)の取り巻きに危機感がないね。応援演説で『絶対的な多数で再選をお願いします』と言っていた。あれじゃ、当選確実と言っているようなもので、演説を聴いている人は投票場に行こうという気が削がれるね」。その言葉は的中した。投票率は、現職が5選を果たした前回(2006年)を8・54ポイント上回る35.93%だったが、現職は1万2千票近くも得票を減らし、新人に1364票差で破れた。

 共産以外の各政党の支援を受け、県会議員と市会議員40人ほどが支える山出陣営は当初から「横綱相撲」と言われていた。候補者は79歳、6期目への挑戦だった。今回の選挙は「多選」というより、「高齢」の是非が大きな焦点となった。新人の山野之義氏(48)は「79歳の市長と古い政治を続けるか。48歳の私と一緒に新しい市をつくるか」と訴えていた。私が投票場(小学校)への道を歩いていると、前を歩いていた3人の中高年の女性たちから「コウキコウレイシャ(後期高齢者)やね・・・」という言葉が漏れていた。続く言葉は聞こえなかったが、後期高齢者はよいイメージで使われることはないので想像はついた。

 現職に不利な訃報もあった。金沢市と隣接する白山市の現職市長が急性心臓疾患のため死去した。79歳。金沢市長選のほぼ1ヵ月前の10月24日のこと。女性たちが話していたのはこのことだったかもしれない。

 告示前、「山野不利」との下馬評だった。今回の市長選では市議39人のうち、過半数を超える議員が現職・山出氏を支援し、山野氏についたのはわずか8人の一期目の若手市議だったからだ。ことしの9月議会でこの若手市議グループが市長の任期を原則3期12年とする「市長の在任期間に関する条例案」を提出し、否決された。最終的にこの若手市議グループが山野氏出馬を後押しするカタチとなった。裏を返して言えば、若くて勢いはあるが、強力な支持基盤も動員力もなかった。

 当然、選挙運動は組織動員を頼む個人演説が中心の現職と、街頭演説が中心の新人の対照が際立った。多い1日で40回も街頭に立った新人には、神奈川県の松沢成文知事、前横浜市長の中田宏氏らが相次いで応援に駆けつけ、多選批判を訴えた。また、日本創新党(党首は前東京都杉並区長の山田宏氏)の単独推薦を受けており、山田党首らも最終日に訪れ、歯切れのよい演説をぶった。一方の現職の戦いぶりについて、冒頭の商店街の世話役は「個人演説会のたびに候補者を紹介するビデオを見せられた。われわれのような動員組は4回、5回と見せられ、さすがに嫌になったよ」と。

 厳しい言い方をすれば、35.93%の投票率であり、新人は戦いには勝ったかもしれないが、選挙で勝ったといえるかどうか。一方、6選を目指した現職の敗因は高齢・多選のせいだけだろうか。これまで勝ちパターンだった組織選挙は今では旧態依然として、あるいは制度疲労を起こしているようにも思える。組織への帰属意識より、有権者としての個の意識だ。金沢の選挙のスタイルもようやく普通になった、ということか・・・。

⇒2日(木)夜・能登の天気  はれ

★流れ行く記憶

★流れ行く記憶

 当時は「ワッカマワシ」と言っていたような記憶がかすかにある。昭和33年(1958)年に日本の子供たちの間で大流行した、腰を使って回すフラフープのことである。ワッカとは輪のことで、それを回すのでワッカマワシ。当時、幼稚園だったお寺の渡り廊下で遊んでいた。フラフープというしゃれた呼び名ではなかったように思うが、4、5歳ころの記憶で定かではない。

 過日、能登半島・輪島市の公園を通りかかると、子供たちがフラフープに興じていた=写真=。腰を振って、実に楽しそうにこちらに手を振ってくれたので、思わずカメラに収めた。昔取った杵柄(きねづか)で、いまでも自分もできそうだと思うのが不思議だ。フラフープが再び日本でブームになっているようだ。

 記憶がまた蘇る。当時、そのフラフープが突然消えた。幼稚園の遊具場に朝一番乗りでやってきた数人が「ワッカがない」と叫んでいた。記憶はそこまでだ。それ以降、フラフープは脳裏からぷっつりと消えるのだ。

 その理由を先日の新聞紙面(11月28日付・朝日新聞)で知った。記事によると、1958年11月に千葉県内の小学校が「フラフープ禁止令」を出した。腰で回すことで「おなかが痛くなった」と病院で手当てを受ける子どもが各地で出た。腸捻転(ねんてん)を起こすなどの風評が広がり、旧厚生省もフラフープの人体への影響を検討する事態になった。それが新聞やラジオ、まだ黎明期だったテレビなどのメディアで報じられ、健康被害をもたらすという根拠のない風評でブームはあっという間に去った、というのだ。

 当時から、健康に関する情報伝達は異常に速かったのだろう。その状況はいまも変わらない。健康の悪い情報に加え、メタポリック症候群(腹囲の基準に加えて、高脂血症、糖尿病、高血圧のうち2つ以上に該当)によいとか、ダイエットによいとかといった情報まで含めると、流行り廃れが実に激しい。昭和40年代、健康食品としてブームとなった紅茶キノコもそうだろう。結局、一杯も口にすることがなく流行は去った。「紅茶キノコ」という名前だけが脳裏に記憶されている。

 人はブームに踊らされ、そして移り気だ。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」という一文(松尾芭蕉『奥の細道』)がある。これになぞらえば、ブームというのは永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人である。だから「流れ行く」と書く。そのブームの対象に健康だけでなく、政治も入るようになった観があり怖い。

⇒1日(水)朝・金沢の天気  はれ

☆多選と民意

☆多選と民意

 地域の政治的な風土にはタイプがある。首長が一期か二期ごとに交代する「共和国タイプ」と、一度決まると長期政権化する「君主国タイプ」である。君主国タイプは、既に定められた政策を維持して不測の事態に対処するだけで統治は事足りて、この場合、首長は平均的な能力さえ持てば有権者にも好感を持たれる。ただ、行政機構の中では、首長が多選化する過程で絶対権力化し、行政職員は有権者や市民の民意より、首長の意図を読むようになり、「(首長の)ご意向はこうだろう」などと忖度(そんたく)し合っている。金沢という土地柄は加賀藩の膝元にあったせいか、君主国タイプである。有権者もまた、首長の政策的な個性より、「間違いがない人」という安定的な首長を選んできた。その金沢の政治的な風土が破られた。

 任期満了にともなう金沢市長選挙は28日投票が行われ、無所属の新人で元金沢市議会議員の山野之義氏(48)が初当選を果たした。5万8204票と5万6840票。現職で6選をめざす山出保氏(79)と1364票の僅差だった。投票率は前回に比べ8.5ポイント高い35.9%だった。

 今回の市長選には面白い構図があった。山野氏は自民党の市議だったが今回は無所属で出馬した。山出氏は社会民主党、国民新党、民主党石川県連の推薦を受けた。地元財界人も山出支援に動いた。自民党県連は自主投票だった。選挙前から山出氏有利が伝えられていた。そんな中で、山野氏を応援をしたのは、自民党を含む若手の市議会議員(とくに一期目)のグループだった。

 山出氏は市の助役から選挙を経て市長の座に就いた。そのころから、市長は職員人事を掌握し、労組との関係も手堅かった。ところが、冒頭に述べた君主国タイプの「異臭」を放つようになってきた。それは、同じ庁舎にある議会で活動する市議だったら、とくに、一期目の新人だったらその異臭を敏感に感じ取ったはずだ。若手グループの一人は「いつまでも殿様政治やっていたら、金沢市は潰れてしまう。全国の笑いものや」と私に語っていた。若手の市議会議員のグループはそれほど現市政の有り様に危機感を持っていた。つまり、山出VS山野の対決構図は、市長VS議会若手グループでもあったのだ。
 
 山野氏は金沢市出身。IT企業「ソフトバンク」の社員を経て、平成7年から金沢市議会議員を4期連続で務めた。慶応大学時代には弁論部に所属し、街頭に立って市民に直接訴えると言うノウハウを身に着けた。出馬表明が遅れたことによる知名度不足をカバーするため、選挙戦では市内各地で街頭演説をする戦法に徹して、多い日には40回も街頭に立ち有権者に政策を訴えた。金沢における「高齢・多選」の弊害と、「世代交代」を訴えて街頭に立つ手法は、いわゆる無党派層からの支持を受けた。それは、午後から投票率から伸びるという現象でも見て取れた。

 山野氏は自らのマフェストでこう述べている。「月1回の定例記者会見を実施します」「市長多選自粛条例を制定します」「市民ブレイン制度を導入します」「市内公衆無線LAN化を実現します」など。そして、市の動きを分かりやすく市民に伝えるため、広報システムを見直し、「広報プロデューサー制度」を導入するという。情報発信力を高める必要がある。同時に、市内公衆無線LAN化は、ネット環境を整えるためにぜひと願う。ハコモノ行政ではなく、時代のニーズに合うインフラこそ急ぐべきだ。時代を先取りした、市民に分かりやすい政治を期待したい。

※写真は、山野氏のマニフェストより

⇒29日(月)朝・金沢の天気 はれ

★里山イニシアティブ

★里山イニシアティブ

 この「自在コラム」の2010年10月26日付「COP10の風~下~」で「里山SATOYAMAイニシアティブ」について紹介した。里山イニシアティブは生態系を守りながら漁業や農業の営みを続ける「持続可能な自然資源利用」という概念で、今後、生態系保全を考える上で世界共通の基本認識となりつつある。

 その背景には、国際条約への流れがある。2008年5月に神戸で開催されたG8環境大臣会合で里山イニシアティブの国際的な推進が合意され、ドイツ・ボンでの生物多様性条約COP9では日本がその促進を国際社会に表明し、2009年4月にイタリア・シチリアで開催されたG8環境大臣会合でもシラクサ宣言に盛り込まれた。そしてことし10月、名古屋で開催されたCOP10では、世界各地域の自然共生の事例をもとに、二次的な自然資源管理の考え方や具体的な方法を整理し、自然資源管理の国際モデルとして里山イニシアティブを促進する決議案が採択された。

 決議案の採択と並行して、COP10会場で国際組織「里山イニシアティブ国際パートナーシップ(IPSI)」が発足した。国際パートナーシップは、里山イニシアティブを提唱する日本政府が呼び掛けで、アジア・アフリカなど9ヵ国の政府や企業、非政府組織(NGO)や研究機関など51団体が参加した。その中には金沢大学も名を連ねる。その国際パートナーシップの第一弾とも言える「JICA研修プログラム」がさっそく実施され、JICA(国際協力機構)の招きでアジアやアフリカ、中南米13ヵ国の14人が今月17日から3週間の日程で石川県を訪れている。もちろん、金沢大学も協力している。

 JICAの研修員はそれぞれの国の政府の自然保全や環境担当の専門官やマネージャー、生物資源研究所の研究員だ。石川プログラムのテーマは「持続可能な自然資源管理による生物多様性保全と地域振興~『SATOYAMA イニシアティブ』の推進~」。能登半島や白山ろくで、日本の里山や里海の伝統的知識や生物多様性に配慮した農林漁業の取り組みを学んでいる。25日は能登の炭焼きの窯場や塩田を訪ね、26日は実際に漁船に乗って、富山湾の定置網漁の現場に出た。雨降る早朝3時。網を引くとことろから、魚の選別、出荷までを見学し、定置網のどこが環境に優しく持続可能なのか、魚の品質管理とその経済性について、400年続く日本の漁業の知恵を学んだ。

 そして、きのう27日は輪島市にある「石川県健康の森」交流センターでJICA主催のシンポジウムが開かれた。アカマツ林に囲まれたホール。シンポジウムのテーマは「世界は里山里海に何を学ぶのか」。国連大学高等研究所上席局員研究員の名執芳博氏、金沢大学教授・学長補佐の中村浩二氏が講演した。パネルディスカッションは壮観だった。先述の両氏のほか環境省自然環境局、石川県環境部、国際協力機構地球環境部の職員ほか、研修を受けれた製炭工場の経営者、製塩会社のスタッフ、これに研修生14人が加わり、総勢22人のパネリストが「SATOYAMA イニシアティブの実践に向けて~地域のそれぞれの立場から~」をテーマに報告や意見交換をした=写真=。

 自身これまでシンポジウムを含め5つのプログラムに参加し、うち2つのプログラムでは講師やパネル討論のコーディネターとしてかかわった。彼らの質問が経済合理性や科学的論拠など多岐にわたる。「SATOYAMAイニシアティブの到達目標はどこにあるのか、そのイメージを示してほしい」と質問をされたとき、私自身がドキリとした。確かに、その解はまだ誰からも提示されていないのだ。「伝統的に磨かれた里山の知恵や技術を、21世紀型の持続可能な英知としてさらに磨きをかけていきましょう」と答えるのがせいぜいだった。以下は質疑応答のやり取りの一例だ。

イスタント氏 (インドネシア林業省国立公園長):SATOYAMAイニシアティブ(SI)というのはEcosystemの一つだと思う。里山における生物多様性を守るためのガイドラインのようなものはあるのか。
宇野:ガイドラインはないと思う。地域の人々の自然と共生しようという気があるかないかによって、生物多様性を守ることができる。
ジャイシャンカ氏(インド国立生物多様性局技術支援員):日本のSIは現在どの段階か。
宇野:能登は日本の産業化の影に隠れていた。石油の問題や地球温暖化などにより、今は持続可能な利用や人と自然が共生している能登のスタイルが見直されている。日本ではSIはまだイントロダクションの段階だと思う。
ジャイシャンカ氏:イニシアティブを始めるときに共通の課題はあるか。
宇野:現地の人の生活や考えを尊重する必要がある、SIという概念を押し付けてはいけない。
ジャイシャンカ氏:では、SIを市民にどう教えますか、具体的な行動は・・・。

 上記のように里山イニシアティブへの具体論な質問がどんどんと投げかけられる。世界には里山と同じような地域(ランドスケープ)があり、フランスでは「テロワール」、スペインでは「デヘサ」、フィリピンでは「ムヨン」、韓国では「マウル」と呼ばれている。こうした地域には共通して、市場合理性の波や、若者が都市に流出するなどの現象が表れている。

 シンポジウムでふと考えた。里山イニシアティブをこんな言葉で表現してみるとどうだろう。「里山イニシアティブは世界の地域興しだ」と。地域興しなら日本は長年やっている。地域興しの3つの条件がある。「若者」「よそ者」「バカ者」の3つの人的ファクターだ。若者は地域の担い手、よそ者は客観的な価値判断、バカ者は専門性が特徴だ。ならば、よそ者を外国人、バカ者を大学・研究機関の研究者に置き換えて、世界の人々と協力して里山イニシアティブ=世界の地域興しをやっていきましょう、と。

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