☆地デジ、アメリカ流~下

☆地デジ、アメリカ流~下

 では、ミラー・ジェームス氏はアウトリーチでどのような活動をしたのだろうか。自身が地元のテレビ局に出演して、地デジをPRしたり、家電量販店に出向いて、コンバーターの在庫は何個あるのかを確認した。また、ボーイスカウトや工業高校の生徒や大学生が高齢者世帯で、UHFアンテナを設置するボランティアをしたり、NG0や電機メーカーの社員がコンバーターの取り付けや説明に行ったりと、行政ではカバーしきれないことを地域の住民や団体が連携してサポートした。そうした行政以外の支援を活用するコーディネーションをミラー氏は現地で行った。

       日本のテレビ局はもっと地域に入り普及活動を

 法律家であるミラー氏は、「日本の場合はテレビを受信することは権利」とらえられているが、アメリカでは受信するかしないかは個人の自由という受け止め方になる」と話す。隣地にビルが建って電波が受信できなければ、日本では民法上で権利として主張できる。アメリカの場合は、コモン・ロー(判例法)をルーツとしており、権利的な保護はなく、あくまでも受信者の責任と負担で、となる。これを地デジの現場に当てはめれば、アメリカでは困っている人を助けるという発想でボランティア活動が活発だった。一方日本では、政府による「新たな難視」を出さないためのあらゆる手が打たれ、自治体も手を差し伸べているが、アメリカのような地域のNPOや民間団体による支援の動きは目立っていない。日本では、「地デジは国が責任を持って行うもの」との雰囲気が強いからだ。

 そうした日米の意識や文化の違いのツボを押さえると、アメリカと日本の地デジの課題と現状がよく見えてくる。2009年6月12日に地デジ移行を終えたアメリカでは、地デジ未対応の世帯は貧困層を中心にまだある。クーポン配布プログラムは7月末で受け付けを終えた。下院からは、アンテナ救済とクーポン延長の法案が出されたが、廃案に終わった。この時点で申し込みがないとすれば、後は「受信するかしないかは個人の自由」との解釈になる。では、テレビが完全に視聴できなくなったのかというとそうではない。デジタル化の対象外である、宗教団体や自治体、学校などが運営するLPTV(低出力のコミュニティー局)が地域にある。こうしたローカルな番組はアナログのテレビで視聴ができるのだ。

 最後にミラー氏は、1年後に地デジ移行する日本へのアドバイスとして次のことを挙げた。「地デジ移行は官製のキャンペーンだけではなく、例えば大学に働きかけて、お年寄り宅の地デジ化をサポートする学生ボランティアの輪を広げるなど、もっと民間のチカラを活用すべきだ」と。また、テレビ局に対しては、「地デジはテレビの魅力やパワーを訴えるよいチャンスととらえて、テレビ局の人たち自身がもっと地域に入ってキャンペーンを繰り広げてはどうか」と提案し、講演を締めくくった。日本の地デジ移行では、行政と視聴者の中間で動く地域団体やNPO、ボランティアの存在が成否のカギとなるに違いない。

※写真はポートランドの学生による手作りのアンテナ。学生ボランティアとして高齢者宅などに設置した(ミラー氏提供)

⇒8日(土)朝・金沢の天気  はれ

★地デジ、アメリカ流~上

★地デジ、アメリカ流~上

 アメリカは日本よりひと足早く2009年6月12日に地上デジタル放送(DTV)への移行を終えた。アメリカの地デジ移行はさほど混乱はなかったというのが定評となっているが、果たしてそうだったのか。ことし7月24日に地デジ移行を控える日本の現状を見るについそんなことを考えてしまう。アメリカのどのようなパワーがあって地デジ移行を終えることができたのか。友人でもあるアメリカ連邦通信委員会(FCC)工学技術部の法律顧間であるミラー・ジェームス弁護士を昨年7月、金沢大学に招きセミナーを開催した。そのときの講義メモを紹介する。

       地域の中に入り支援するアウトリーチという考え

  ミラー氏を講師に招いた理由が2つある。1つ目は、FCCのスタッフとして、アメリカの西海岸(オレゴン州ポートランドなど)に出向き、地デジの広報活動や視聴者対応の現場にかかわってきたこと。2つ目は、 マンスフィールドフェローシップ・プログラム(連邦政府職員の日本研修)の一員として、2004年から2006年の足掛け3年、 総務省(総合通信基盤局電波部)や経済産業省、知的財産高等裁判所などで知見を広め、日本の電波行政やコンテンツ政策にも明るいこと。ちなみに、私はミラー氏の金沢でのプログラム(2005年)で知己を得た。

 1996年のアメリカの通信法の改正で「アナログ停波、デジタルヘの移行義務」が定められた。その目的は、日本と同様に電波割り当ての再編だった。例えば、FCCは放送に割り当てていたUHF帯域を縮小し、24MHz帯幅のチャンネルを警察など公安利用に割り当てる一方で、固定通信や移動通信、放送などに開放し、競売で免許交付を行った。当初、アメリカは地デジ移行に楽観的だった。何しろアンテナ受信が日本に比べ少ない。アメリカの場合、85%の家庭はケーブルテレビなどで視聴しており(2009年統計)、 アンテナで見るのは15%だったからだ。逆に、日本の場合は76%がアンテナでの視聴となる(2009年統計)。これを人口で換算すると、 日本(人口1億2700万人)のうち約9600万人、アメリカ(同3億900万人)は約4600万人がアンテナで視聴していることになる。このため、アメリカでは移行の時期について、当初「視聴世帯の80%Jがデジタル対応の準備を終えていることを目安にし、段階的に2006年までにアナログを停波するとしていた。ところが、2005年の調査で視聴世帯のわずか3.3%しか地デジの準備がされておらず、2006年の法改正では「2009年2月17日」をハードデートとして無条件に地デジヘ移行する日と決めた。

 2008年元旦から、アメリカ商務省電気通信情報局(NTIA)がデジタルからアナログヘの専用コンバーター購入用クーポン券の申請受け付けを始めた。アメリカ政府は40ドルのクーポンを1世帯2枚まで補助することにした。2009年に入り、クーポン配布プログラムの予算が上限に達してしまい、230万世帯(410万枚分)のクーポン申請者が待機リストに残されるという事態が起きた。オバマ大統領(当時は政権移行チーム)は連邦議会に対して、DTV移行完了期日の延期案を可決するように要請した。同時にDTV移行完了によって空くことになる周波数オークションの落札者だったAT&Tとベライゾンの同意を得て、4ヵ月間延期して「6月12日」とする法案が審議、可決された。FCCの定めた手続きでは、「2月17日」の期限を待たずにアナログ放送を打ち切ることができるため、この時点ですでにアメリカの1759の放送局(フル出力局)の36%にあたる641局がアナログ放送を停止していた。

 オバマの「チェンジ!」の掛け声はFCCこも及び、スタッフ部門1900人のうち300人ほどが地域に派遣され、視聴者へのサポートに入った。ミラー氏は2008年11月から地デジ移行後の7月中旬まで、カリフォニア州北部、シアトル、ポートランドに派遣された。その目的は「コミュニティー・アウトリーチ」と呼ばれるもので、アウトリーチとは援助を求めている人のところに援助者の方から出向くこと。つまり、地域社会に入り、連携して支援することだった。

※写真は、ポートランドで地デジの説明会を開くミラー氏。高齢者や貧困層への対応が課題だった(同氏提供)

⇒7日(金)朝・能登の天気  はれ

☆地デジ伸るか反るか

☆地デジ伸るか反るか

 2011年7月24日正午に地上波テレビのアナログ波が停止し、デジタル放送に完全移行する。地デジ完全移行後のアナログ対応テレビは「砂嵐」のような画面になる。NHKと民放の各局はこの画面のイメージを今月から告知番組で繰り返し流し始める予定だ。

 現実に目を向けてみよう。地デジの世帯普及率は、昨年3月の総務省の調査では、薄型テレビなどのデジタル対応受信機の世帯普及率は83.8%だ。これ以降で、テレビの買い替えが進んでいるとしても90%に届いているかどうか。さらに、ビル陰による受信障害が約319万世帯、山間部のデジタル波が届かない地域は72万世帯にも上る。さらに、地デジに対応しないVHFアンテナしかない世帯は大都市圏を中心に220万世帯から460万世帯もあるとされる。これら問題が解決されないと、「7月24日」に仮に10%の世帯が取り残されたとして、全国約5千万世帯のうち500万世帯の「テレビ難民」が発生する。

 2009年6月12日に地デジ移行したアメリカはもともとケーブルテレビ局の普及が85%もあり、無理なく移行できると踏んでいたが、それでも2度延期した。デジタル放送を従来のアナログ受信機で視聴できように変換するデジタル・コンバーターを購入するクーポン券(40㌦)を1世帯2枚まで発行した。コンバーターは1台40㌦からあるので無料で、あるいは10㌦を家庭が負担すればよいコンバーターが買える仕組みだが、それでも最終的に2.5%に相当する280万世帯は取り残された。ただ、アメリカの判断は日本と違って、「アメリカでは受信するかしないかは個人の自由という受け止め方」(FCC法律顧問ミラー・ジェームス氏)と割り切る。現実に、クーポンの発行延長も議会では否決された。ところが、日本では地デジを視聴することは「国民の権利」と見なされている。それゆえ、生活保護世帯や独居老人宅には無料でチューナーが配布される。

 生活保護世帯などに無料でチューナーが配布されれば準備万端かというと、それほど単純な話ではない。チューナーが渡されるが、セットアップまでケアしていない。取り付け、新たなリモコンの操作が分からない人が実に多い。1つのチューナーで家庭のテレビすべてが視聴できるようになると勘違いしている人も多いのが現状だ。さらに、生活保護世帯はある意味で把握しやすいが、生活困窮のボーダーランにいて生活保護も受けることができず、チューナーを入手できない、地デジ対応テレビも購入できない層は数知れないのだ。そうしたボーダーライン層の声は国や地方自治体に届いていない。仮に、声が自治体に届いても、驚くことに、地デジ対策は自治体の仕事ではなく、国とテレビ局の仕事だと反発している自治体もある。

 そして、問題なのは、地デジ移行の本来の目的が国民の間で十分に理解されていないことだ。こうなると、電波の再編ために、高価な地デジ対応テレビの購入を国民に負担させるのかという論議が台頭し蒸し返される。こうした様々な後ろ向きの論議が「7月24日」に向けて、沸き起こってくるだろう。そのときに、懸命になって対応するのは一体誰なのか、政府か、テレビ業界か、自治体か・・・。果たして「7月24日」を突破できるのだろうか。あるいは延長法案の提出か。日本の地デジ、伸るか反るかの正念場だ。

※写真は、アメリカの地デジのキャンペーン。デジタル・コンバーターの普及に向け、設置の仕方を説明するTVアナウンサー(2009年)=ミラー・ジェームス氏提供

⇒3日(月)午後・金沢の天気  はれ

★兼六園スター物語

★兼六園スター物語

 2011年元旦、兼六園と同じ敷地にある金沢神社に初詣に出かけた。午前中の氷雨で人出は例年より少なく、列をなすほどではなかった。金沢神社の鳥居の近くにある木造の金沢城・兼六園管理事務所分室を立ち寄った。この建物そのものが文化財級の武家屋敷(旧・津田玄蕃邸)で、武家書院造りは風格がある。初詣もそこそこに立ち寄ったのは、ふとした思い付きだった。300年、400年後の「兼六園のスター」を見たい、と。

 国の特別名勝である兼六園。最近では、ミシュラン仏語ガイド『ボワイヤジェ・プラティック・ジャポン』(2007)で「三つ星」の最高ランクを得た。広さ約3万坪、170年もの歳月をかけて作庭された兼六園の名木のスターと言えば、唐崎松(からさきのまつ)である。高さ9㍍、20㍍も伸びた枝ぶり。冬場の湿った重い雪から名木を守るために施される雪吊りはまず唐崎松から始まる。このプライオリティ(優先度)の高さがスターたるゆえんでもある。唐崎松は、加賀藩の第13代藩主・前田斉泰(1811~84)が琵琶湖の唐崎神社境内(大津市)の「唐崎の松」から種子を取り寄せて植えたもので、樹齢180年と推定される。近江の唐崎の松は、松尾芭蕉(1644-94)の「辛崎( からさき )の松は花より朧(おぼろ)にて」という句でも有名だ。

 いくらスターであって、保護が行き届いていても、植物はいつかは枯れる。あるいは、枯れなくても、台風で折れたり、倒れば、そのときにスターの寿命は終わる。名園の美観上、傷ついた名木を人目にさらすわけにはいかないのだ。その処理は粛々と行われ、跡地には次なる唐崎松が植えられることになる。そこで、話は冒頭に戻る。金沢城・兼六園管理事務所分室の隣地には唐崎松の「2世」がすでにスタンバイしている=写真=。事務所では「後継木(こうけいぼく)」と呼ぶ。すでに高さ3㍍余りあるだろうか。幹の根の辺りがくねって、すでに名木の片鱗を感じさせている。お世継ぎとあって保護され、雪吊りも施されている。この松は「実子」ではなく、かつて加賀藩主がそうしたように、大津市の唐崎の松の実生である。つまり「本家」からの世継なのだ。

 ただ、名園の世界にあっては「2世」だからと言って、スターの座を確保できるというわけではない。その時代に、園を訪れる人たちが「枝ぶりがいい」「樹勢(オーラ)を感じる」と評価するかどうか、だ。現在の唐崎松も脇役の時代があり、戦後のスターである。それ以前は、桜の2大スターが人気を競っていた。旭桜(あさひざくら)は、白い大きな花を付け、樹齢500年ともいわれた園内随一の老大木だった。明治の中頃から樹勢が衰え、昭和12年(1937)に枯死した。泉鏡花が大正4年(1915)に発表した小説『櫻心中』で、名木から飛び出した桜の精の悲恋物語を描いているが、その中で出てくる男役「富士見桜」が旭桜だ。小説のモチーフにもなっていたのだ。その旭桜と競っていたのが、兼六園では旭桜に次ぐ老木とされた塩釜桜(しおがまざくら)だった。こちらは、昭和32年(1957)に枯死してしまった。唐崎松がスターダムにのし上がったのはそれ以降だ。

 しかし、唐崎松のスターの座も不動ではない。かつてのスター、旭桜のひこばえが成長し、今や2代目の大樹となっている。さらに、塩釜桜も2001年に宮城・塩釜神社から苗を取り寄せ、その若木が見事な花を付けている。100年、200年後に唐崎松の樹勢が衰え、これら桜木が競って兼六園を彩る時代を予感させる。唐崎松の「2世」をじっと眺め、兼六園の300、400年後に、この2世はスターの座を確保できるだろうか。人の世とだぶらせて思いをめぐらせると、それだけでも楽しい。そして、その時代になっても、樹木を愛でる人々の気持ちは変わらないで欲しいと願う。

⇒1日(元旦)夜・金沢の天気 くもり

☆備忘録・猿鬼の伝説

☆備忘録・猿鬼の伝説

 前回のコラムで紹介した輪島市西山町大西山は能登町柳田(旧・柳田村)は互いに山を背にした隣の集落地域である。ここにサルにまつわる有名な伝説がある。能登では知られる「猿鬼伝説」である。集落における、人々の関係性、精神的な相克が見えて興味深い。以下、伝説の概略である。

 昔々、大西山に善重郎というその名の通り善良なサルがいた。善重郎は大西山のサルたちの頭領だったが、配下に一匹の荒くれ者のサルがいた。そのサルは善重郎の目を盗み、近辺の民家に悪さをしていた。ある日それが善重郎の知るところとなり、大西山を追い出された。あわてて逃げたサルが踏みつけた岩が三つに割れた。現在その岩は、「三つ岩」と呼ばれている。

 大西山を逃げ出したサルは、柳田の岩井戸という在所の岩穴をねぐらとするようになり、何時しか化け物になっていく。それから配下のサルたちをひきつれて、能登の農作物や馬や牛を食い荒らし、人をさらうなどして、人々に「猿鬼」と呼ばれ、恐れられるようになった。耐え切れなくなった村人たちは、大幡神社の杉神姫に助けを求めた。杉神姫は願いを聞き入れ、弓矢を準備しつつ、猿鬼たちの隙をうかがっていた。

 ある日、猿鬼が病にかかったという噂を聞いた杉神姫は、岩井戸の岩穴の近くで猿鬼の様子をうかがっていた。岩穴からは猿鬼のうめき声が聞こえてきた。そのうち岩穴から病身の猿鬼が出てきたので、杉神姫は猿鬼に向かって矢を放ったが、なぜか命中しない。さらに杉神姫は剣で猿鬼に切りつけたが、剣は真二つに折れてしまった。仕方なく杉神姫は大幡神社に逃げ帰り、神無月に出雲へ行った際に他の神々に相談しようと思いました。

 神無月となり、出雲で猿鬼退治の話し合いがなされた。その中で能登羽咋(はくい)の気多大社の祭神、気多大明神を将軍、杉神姫を副将軍として、能登の神々で協力し猿鬼を退治することが決まった。作戦会議をする中で、村人が猿鬼に矢が当たらない理由として、猿鬼が自分の体毛に漆を塗りつけていることを神々に知らせまた。それを聞いた杉神姫は、矢に毒を塗り、漆を塗っていない猿鬼の目を狙うことを思いつきました。村人たちは毒草を集め、それを煮詰めて毒を抽出し、矢に塗りつけた。そしてその矢を携え、気多大明神をはじめとする神々は猿鬼の住む岩井戸の岩穴に向かった。

 岩穴から猿鬼たちをおびき出すため、杉神姫は、村人が作った白い布を身にまとい、神々が囲むなかで踊りった。この挑発にのって猿鬼が配下のサルたちを従え岩穴から出てきた。神々と猿鬼たちの戦いが始まり、神々が一斉に毒矢を猿鬼たちに向けて放った。しかし、猿鬼は矢をはたき落とし、なかなか目に命中しなかった。少し離れた所から猿鬼を狙っていた杉神姫が、猿鬼の目に狙いを定め、矢を放つと、見事、猿鬼の目を射抜いた。猿鬼は叫び声をあげて逃げ出しました。それを神々が追いかけた。そして杉神姫がもつ名刀・鬼切丸によって猿鬼の首は切られた。ドス黒い血が近くの川を流れ、川は黒々と汚れた。以来この川を黒川(くろがわ)と呼ぶようになった。退治された猿鬼は神々によって葬られ、現在その地は鬼塚と呼ばれている。その塚を荒らすと大雨が降るといういわれがある。猿鬼退治の軍を興した気多大明神は猿鬼が根城とした岩穴の前に祀られ、岩井戸神社と呼ばれている=写真=。

 この猿鬼伝説と、大西山が猿回しの終焉の地であることと直接は関係性はない。が、何か因縁めいて面白い。この話は、『妖怪・神様に出会える異界(ところ)』(水木しげる著・PHP研究所)にも掲載されている。

⇒31日(金)夜・金沢の天気  くもり

★備忘録・トキと猿回し

★備忘録・トキと猿回し

 奥能登・珠洲市の旧家で、江戸時代から伝わるという「猿回しの翁(おきな)」の置き物=写真=を見せていただいたことがある。チョンマゲの翁は太鼓を抱えて切り株に座り、その左肩に子ザルがのっている。陶器でできていて、なかなか味わい深い。古来からサルは水の神の使いとされ、農村では歓迎された。能登もため池による水田稲作が盛んで、猿使いたちの巡り先だった。猿使いたちは神社の境内などで演じ、老若男女の笑いや好奇心を誘ったことだろう。代々床の間に飾られるこの猿回しの翁の置き物は、その時代の農村の風景を彷彿(ほうふつ)させる。

 以下は、ことし金沢大学の「能登里山マイスター」養成プログラムで講義(5月29日)いただいた村崎修二さんから聞いた話である。村崎さんは途絶えていた周防の猿回し芸を1982年に復活させた人である。かつて猿回し師たちが根拠としていた周防高森(現・山口県岩国市周東町)に居を構え、息子で跡継ぎの耕平さんと全国を旅する。村崎さんの芸は「本仕込み」と呼ばれるもの。サルと仲間的関係になって芸を行わせる手法で、仕込んだサルは「花猿(はなざる)」と呼ばれる。毛並みにつやがある。同じ猿回し芸でも、芸能のプロに徹してサルを調教する手法とは一線を画し、「里めぐり」という伝統的な猿回し芸にこだわっている。

 村崎さんは、民俗学者の宮本常一(故人)に師事し、また京都大学霊長類研究所を設立した今西錦司(同)と知遇を得て、1978年から10年の間、霊長類研究所の研究員として猿回しに関する調査活動も行っている。講義の中で、意外な話が飛び出した。「江戸時代から連綿と続いた周防の猿回しが途絶えたのは昭和42年(1967)でした。佐々木組という一座がいて、最後に演じた場所が能登半島の輪島市大西山町です。ここで解散し、途絶えたのです」と。ではなぜ能登が終焉の地となったのか。「かつて、猿回しの旅の一座を無料で泊めてくれる家を善根宿(ぜんこんやど)と呼んでいました。泊める方の家も、泊めるとご利益があると思っていたようです。しかし、戦後の高度成長期、そのような善根宿は全国的に少なくなった。時代は変わったのです。でも能登は猿回しの旅芸人を快く迎えてくれ、最後まで残ったのだと思います」と。

 ことし8月、その輪島市西山町大西山=写真=を訪ねた。山間地の斜面に古民家が点在する、『日本昔話』のような里山だ。能登で有名な猿鬼伝説の発祥の地でもある。曲がりくねった路上で老婆と会うと、向こうから会釈する。能登も随分と様変わりしつつあるが、この地は原風景のままという感じがした。

 直接関連はないが、能登に生息した本州最後の一羽のトキ(愛称「能里=のり、オス」)が捕獲されたのは昭和45年(1970)だ。佐渡のトキ保護センターに繁殖のため送られ、翌年死んで、本州のトキは絶滅した。解剖された能里からは有機水銀が検出され、繁殖障害を起こしていたとされる。昭和40年代というのは、芸にとっても、種にとっても一つの転換期だったのだろうか。それにしても、猿回しの解散と本州最後のトキが能登というのも偶然だろうか。

⇒30日(木)朝・金沢の天気  くもり

☆備忘録・japan=漆器

☆備忘録・japan=漆器

  地域の自然や文化、歴史を学ぶ「いしかわ新情報書府学」という科目を金沢大学で担当している。石川県が「石川新情報書府」という事業でDVDを制作した。輪島塗や山中漆器、九谷焼、加賀友禅に代表される伝統工芸、能楽や邦楽、舞踊といった伝統芸能など世界に誇れる文化資産をデジタル情報化したものだ。石川新情報書府のネーミングは、江戸時代の儒学者である新井白石が「加賀は天下の書府なり」と蔵書の多さや、多彩な芸能文化を評価したことにちなむ。そのDVDを学生たちに視聴してもらい、続いて関係者に講義をしてもらうという授業内容だ。

 先日(12月8日、15日)、輪島塗についての講義を大向稔氏(大向高洲堂社長)からいただいた。「和食という文化の特徴は、食器を持つことなんです」。漆器と言うのは持つことを前提にその手触り、器としてのカタチの丸みが計算されている。さらに、手から落ちることを前提に器のエッジ(縁)が欠けないような、堅さの工夫がされている。たとえば、輪島塗は椀の縁を「布着せ」といって、布を被せて漆を塗ることで、落下の衝撃で欠けないようにしてある。話の一つ一つに人の知恵と言うものが感じられる。伝統知、あるいは文化とはこうした知恵と工夫の結晶なのだろうと今さらながら感じ入る。「日本人はちょっとでも欠けた器を極端に嫌うでしょう。そんな器は危ない、唇や手が切れる、と本能的に判断しているのです」

 授業では、学生たちに、一つ70万円の器(煮物椀)を実際に手にしてもらった=写真=。学生たちは恐る恐る。金蒔(まき)絵で伝統の図柄(花鳥風月)をあしらったいかにも高価という器である。そこで大向氏は学生に「器に爪を立ててごらん」と。学生からはエエッと驚きの声が。試した学生の爪は器では滑るだけだ。それもそのはず。鉛筆の硬さで表した「鉛筆硬度」でいえば、爪は2Hぐらい。漆器は堅いもので30Hにも。学生が手にした器は15Hぐらいという。漆は年代を重ねればそれだけ堅くなる性質がある。丸木舟が出土したことで知られる福井県若狭町の鳥浜貝塚遺跡からは、縄文前期(6000-5000年前)ごろの朱色の漆(うるし)が塗られた祭祀用の櫛(くし)が出土している。大向氏はその実物の写真を学生に見せた。朱の色は何千年を経ても鮮明である。堅さも。漆が持つ特性は計り知れない。それを器に活用した人の知恵の見事さではある。それを縄文人が証明してくれている。

 「では、いつごろから輪島塗なのか」と授業の締めに入った。2007年にブランド総合研究所(東京)が発表した地域ブランド産品によると、非食品分野でブランドものと想起されるものに「輪島塗」が1位、有田焼が2位という順位がついた。1805年に輪島で「大黒講」という組織がつくられた。このときに、製造方法の基準、価格の統一、販売エリアの割り振りなどが決められた。販売エリアは北海道の松前から琉球まで101に分割された。それを105軒の塗師屋(製造と販売)が担当した。いわゆる品質保証、競争による価格下落の防止などの製造と販売のル-ルが確立された。200年以上も前に今でいうマーケティング戦略が練られ、輪島塗のブランド化を確立した。同時に、曹洞宗の修行僧が総持寺(輪島市門前町)に集まり、全国の末寺に散ったことも、葬儀の膳に輪島塗を使うことの普及になつがった、という。

 いま輪島塗の技術は器のほか、家具や美術といった異業種への転用が盛んだ。コンサートホールでの音響効果や、カメラのボディにも使われている。時空を超えて語られるjapan=漆器の世界に興味は尽きなかった。

⇒29日(水)朝・金沢の天気  ゆき

★ジョグラフ氏のこと

★ジョグラフ氏のこと

 12月18日開幕した国際生物多様性年クロージングイベントは、参加者による20日の能登オプショナルツアーで終了した。ツアーバスには朝7時半から8ヵ国の駐日大使や環境問題の担当者18人が乗り込んで、七尾湾のカキ養殖場や野鳥公園を見学し、輪島市では輪島塗工房、酒蔵などを見学した。野鳥公園では、双眼鏡をのぞいていた参加者が渡り鳥のタゲリを見つけ、「Pee Weeがいる」と喜んでいた。ネコのような鳴き方するので、ヨーロッパでも親しまれている鳥なのだ。

 ところで、今回の国際生物多様性年クロージングイベントがなぜ石川県で開催されたのか、なぜ東京や生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)の開催地、名古屋ではなかったのか。これが一番のナゾだと、開催期間中に県内外の参加者から聞かれた。そのナゾを、生物多様性条約事務局長のアフメド・ジョグラ氏と石川県のかかわりを振り返りながら解いてみたい。

 実は、3人の仕掛け人がいる。谷本正憲・石川県知事、中村浩二教授(金沢大学)、あん・まくどなるど所長(国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット)である。2008年5月24日、3人の姿はドイツのボンにあった。開催中だった生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)にジョグラフ氏を訪ね、COP10での関連会議の開催をぜひ石川にと要請した。谷本知事は「能登半島にはすばらしいSATOYAMAとSATOUMIがある。一度見に来てほしい」と力説した。さらに、あん所長は通訳という立場だったが、知事以上に身振り手振りで話し、右手薬指からポロリと指輪が抜け落ちるほどだった。3人の熱心な説明に心が動いたのか、ジョグラフ氏から前向きな返答を得ることができた。トップセールスの手ごたえをつかんだのである。

 その3日後、27日にはCOP9に訪れた環境省の黒田大三郎審議官(当時)にもCOP10関連会議の誘致を根回し。翌日28日、日本の環境省と国連大学高等研究所が主催するCOP9サイドイベント「日本の里山里海における生物多様性」でスピーチをした谷本知事は「石川の里山里海は世界に誇りうる財産である」と強調し、森林環境税の創設による森林整備、条例の制定、景観の面からの保全など様々な取り組みを展開していくと述べた。同時通訳を介してジョグラフ氏は知事のスピーチに聞き入っていた。ジョグラフ氏の石川県・能登半島の訪問はその4ヵ月後に実現した。

 2008年9月13日と14日にジョグラフ氏は名古屋市で開催された第16回アジア太平洋環境会議(エコアジア)に出席した後、15日に石川県入り、16日と17日に能登を視察した。初日は能登町の「春蘭の里」、輪島市の千枚田、珠洲市のビオトープと金沢大学の能登学舎、能登町の旅館「百楽荘」で宿泊し、2日目は「のと海洋ふれあいセンター」、輪島の金蔵地区を訪れた。珠洲の休耕田をビオトープとして再生し、子供たちへの環境教育に活用している加藤秀夫氏から説明を受けたジョグラフ氏は「Good job(よい仕事)」を連発して、持参のカメラでビオトープを撮影した。ジョグラフ氏も子供たちへの環境教育に熱心で、アジアやアフリカの小学校に植樹する「グリーンウェーブ」を提唱している。翌日、輪島市金蔵地区を訪れ、里山に広がる棚田で稲刈りをする人々の姿を見たジョグラフ氏は「日本の里山の精神がここに生きている」と述べた。金蔵の里山に多様な生物が生息しており、自然と共生し生きる人々の姿に感動したのだった。

 2009年5月23日、ジョグラフ氏が金沢大学を訪れ、小学生や学生たちと「グリーン・ウェイブの日」を記念して植樹をした。5月22日は国連の「生物多様性の日」と定められ、ジョグラフ氏は東京での催しに参加し、翌日金沢大学を訪れた。中村信一学長のほか谷本知事、あん所長、中村教授、環境省生物多様性地球戦略企画室の徳丸久衛室長(当時)、学生と近隣の小学生50人余りがコナラとクヌギの苗木を植えた。その際のジョグラフ氏は記念スピーチで、「植樹活動は運動というより教育活動と考えており、大学が積極的に関わる意義は大きい」「平和を築くことは自然保護を抜きにしては考えられない」と話した。

 2009年6月ごろ、生物多様性条約事務局(モントリオール)は190余りの加盟国に対し、2010年国際生物多様性年に関連するスケジュールを通知している。1月11日・キックオフイベント(ベルリン)、1月21日、22日・キックオフイベント(パリ)、9月・国連総会(ニューヨーク)、10月11日-29日・MOP5とCOP10(名古屋)、12月18日、19日・クロージングイベント(金沢)

 国際生物多様性年の2010年。2月6日、金沢市で開催された「にほんの里から世界の里へ」と題したシンポジウム(総合地球環境学研究所、金沢大学など主催)に、ジョグラフ氏からビデオ・メッセージをいただいた。その中で語ったことは哲学的だった。Born and raised in Kanazawa, the great Japanese thinker Daisetsu Teitaro Suzuki said that life ought to be lived as a bird flies through the air, or as a fish swims in the water. Suzuki was encouraging us to live as naturally as possible, which, at a different level, is one of the themes of the International Year of Biodiversity in 2010. (金沢に生まれ育った偉大な思想家・鈴木大拙は、「(禅においては)鳥が空を飛び、魚が水に游(およ)ぐように生活されねばならない」と言っています。鈴木大拙は人々に、「できるだけ自然に生きなさい」と奨めているのですが、それは、見方を変えれば、2010年の国際生物多様性年のテーマの一つでもあります)

 こうしたジョグラフ氏と石川県とのかかわりの中から、国際生物多様性年クロージングイベントの石川開催が実現した。12月19日の記念シンポジウムで、ジョグラフ氏は谷本知事に対し、生物多様性年に貢献したとしてアワード(功労賞)を贈呈した。そして、「2008年5月に彼(知事)と始めて会った。里山や里海が生物多様性の保全にどれだけ役立つか熱っぽく語ってくれた。本来、政治家だったらクロージングイベントではなく、キックオフイベントの誘致を望んだろう。しかし、彼はCOP10を機に世界の流れが生物多様性に大きく動き出すことを読んで、今回のクロージングイベントこそが生物多様性の新たな時代へのキックオフだと快く引き受けてくれた。感謝する」と言葉を添えた。

⇒21日(火)朝・金沢の天気  くもり

☆生態系サービスのこと

☆生態系サービスのこと

 19日の国際生物多様性年クロージングイベント「記念シンポジウム」(石川県立音楽堂)で、新鮮だったのは、スタンフォード大学(アメリカ)のグレッチェン・カーラ・デイリー(Gretchen C. Daily)教授=写真=の言葉だった。「中国政府はこれまでに1000億㌦を投じて生態補償を行っています。生態系サービスの供給を強化するとともに、貧困の軽減を目指しているのです。・・・日本にはすでに人と自然が調和するシステムを里山で実現していますね」。今回の記念シンポジウムでは、パネル討論の参加で、7、8分ほどのスピーチながら、それでも生物多様性の新たな可能性を切り開く示唆に満ちた語りだった。

 デイリー氏の業績は、われわれがよく言葉にする「自然の恵み」を経済に、政策的に組み込むことなのだ。「市場を使って自然を守る」と言ったほうがよいかもしれない。1997年の著書『生態系サービス(Nature’s Services)』で生態系の恩恵を体系的に整理し、過小評価されてきた価値を明らかにした。これにより、生態系や生物多様性の保全の必要性がより鮮明になったのだ。

 生態系と生態系サービスの変化が人間生活に与える影響を評価するため、国連の呼び掛けで実施された「ミレニアム生態系評価」(2001-2005年)では、生態系サービスの概念構築と定量的評価に重要な役割を果たした。この結果、ミレニアム生態系評価では、水の供給や気候の調整など24項目の生態系サービスのうち半数以上で質が低下していると指摘されたのだ。2006年から国連大学高等研究所などが中心となって取り組んだ日本の里山・里海評価(JSSA)はその国内版でもある。

 デイリー氏は短いスピーチの中で、時間を惜しむように話を続けた。生態学と経済学を統合し、自然を保全することが利益をもたらす「自然資本プロジェクト」を立ち上げた。ハワイ・オアフ島でのプロジェクトでは、105平方㎞におよぶ地域を「インベスト(InVEST:Integrated Valuation of Ecosystem Services & Tradeoffs)」と呼ぶソフトウエアを用い、生態系サービスのマッピングと評価を行い、その科学的データをもとに政策を立案した。土壌改良による生産性の高い農地をつくることや、風力・ソーラー発電、環境教育といった事業が同時に進められた。そしてさらに巨費投じているのが、冒頭で紹介した中国プロジェクトである。

 生態系サービス、そして自然資本という概念を実践することで定着させた偉大な科学者といえるかもしれない。生態学と経済学を統合するという壮大なプランは実証の裏付けがされれば、「ノーベル賞級」とも評される。

⇒20日(月)朝・金沢の天気  くもり

★GIAHSのこと

★GIAHSのこと

 きょう19日の国際生物多様性年クロージングイベント「記念シンポジウム」で、石川県の取り組みを発表した谷本正憲知事は聞き慣れない言葉を打ち上げた。「ジアス(GIAHS)に能登の里山里海を登録したい」と。参加者はきょとんした表情だった。それもそのはず、登録が実現すれば日本では第1号であり、おそらく日本のほとんどの人は初耳だろう。

 GIAHSって何だろう。正式には、Globally lmportant Agricultural Heritage Systems、世界重要農業資産システムと呼ばれる。これでも理解が進まないので、分かりやすく「世界農業遺産」や「農業の世界遺産」と呼ばれたりする。国連食糧農業機関(FAO)が認定するもので、2002年に創設された。未来に引き継ぐに値する伝統的な農法や景観、文化(農耕儀礼など)に加え、生物多様性の保全と活用が重視される。能登半島の農耕儀礼「あえのこと」が昨年9月、ユネスコの無形文化遺産に指定され文化面で、人と農業にかかわる「資産」を持っている。また、輪島の千枚田=写真=に代表されるように、リアス式海岸が連なる条件不利地のため、ため池をつくり、谷あいに棚田を形成して里山里海が独特の景観を醸し出している。また、ため池農業による生物多様性は、二次的自然の上に成立していることから、農業の継続が生物多様性存続の基盤となっている。

 知事と同じく記念シンポジウムで生物多様性の成果報告をした武内和彦国連大学副学長(東大教授)によると、能登と同時に、新潟県佐渡市も「トキを育む農業」をGIAHSに登録申請した。また、これまでGIAHSに登録されてる地域は、チリのチロエ諸島で200種のイモを栽培する「チロエ農業」や、イタリアのソレント海岸で栽培されている「レモン園」、フィリピンのルソン島イフガオの傾斜地に展開する棚田(1995年・ユネスコ世界遺産)など8ヵ所である。

 申請主体は、羽咋以北の4市4町(七尾市、輪島市、羽咋市、珠洲市、能登町、穴水町、志賀町、中能登町)となる。では、登録されることでどのようなメリットがあるのか。正直、これは申請主体の活動次第だ。農産物の付加価値やグリーン・ツーリズム、国際的なネットワークでの情報発信など多様な活用方法があるだろう。

 正式な登録は来年夏ごろであり、登録が決まった訳ではない。が、動き出した。類(たぐい)希なる農業資産を祖先から受け継ぐ能登半島は「過疎・高齢化のトップランナー」でもある。このまま座して死を待つのか、あるいは世界とリンクしながら、生物多様性を育む農業を現代に生かす努力を重ね新たなステージを切り拓いていくのか、その岐路に立っている。

⇒19日(日)午後・金沢の天気  はれ