★「見える」の意味
能登半島はにその地形からいろいろな伝説がある。『妖怪・神様に出会える異界(ところ)』(水木しげる著・PHP研究所)にも掲載されている「猿鬼伝説」はその一例だ。能登羽咋(はくい)の気多大社の祭神、気多大明神を将軍として、能登の神々が協力し猿鬼(さるおに)の一軍を退治する物語だ。この猿鬼には矢が当たらない。その理由として、猿鬼が自分の体毛に漆を塗りつけていて、矢を跳ね返す。そこで、矢に毒を塗り、漆を塗っていない猿鬼の目を狙う。毒矢を携え、神々は猿鬼の住む奥能登の岩井戸へ出陣するという話だ。伝説からは、大陸と向き合う能登半島に入ってきた「毛むくじゃら」の異民族との戦いをほうふつさせる。
さらに、能登にはUFO伝説がある。羽咋市に伝わる昔話の中にある「そうちぼん伝説」がそれ。そうちぼんとは、仏教で使われる仏具のことで、楽器のシンバルのような形をしている。伝説は、そうちぼんが同市の北部にある眉丈山(びじょうざん)の中腹を夜に怪火を発して飛んでいたというのだ。この眉丈山の辺りには、「ナベが空から降ってきて人をさらう」神隠し伝説も残っているという。同市の正覚院という寺の『気多古縁起』という巻物にも、神力自在に飛ぶ物体が登場する(宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」のホームページより)。
作家の田口ランディさんはこのUFO伝説に満ちた羽咋に滞在して、小説『マアジナル』(角川書店)=写真=を書き上げた。マアジナルは、「marginal 【形容詞】 辺境の、周辺部の、縁にある、末端の、ぎりぎりの。二つの社会・文化に属するが、どちらにも十分には同化していない、境界的な」という意味を持つ(『リーダーズ英和辞典』)。物語は、「こっくりさん」が流行した1980年代、UFOを目たという少年が中心になって少年少女6人がある日、手を取り合って輪を作り、夏の夜空にUFOが現るのを祈った。その直後、そのうちの1人の女子生徒が消息不明となる。この夜をきっかけに、彼らの運命の歯車は少しずつ狂い始める。UFOや宇宙人を内容とする雑誌「マアジナル」編集部にたまたま入った羽咋出身の編集者がこの運命の糸をたぐり始める。すると、残りの5人の人生が再び交錯し始める…。小説の400ページは出張中の新幹線、飛行機の中で読んだのである意味「臨場感」を持って読めた。
この物語で意外な実在の人物が登場する。アメリカの天文学者パーシバル・ローエルだ。ローエルは冥王星の存在を予測したことで天文学史上で名前を残したが、ほかにも火星に運河が張り巡らされていると主張し、火星人説も打ち立て論争を起こした。アメリカ人を宇宙開発に傾斜させるきっかけをつくった一人でもある。明治時代、そのローエルが東京滞在中に地図を眺めていて、日本海沿岸に突き出た能登半島の形に関心を抱き、そしてNOTOの語感に揺さぶられて、1889年5月に能登を訪れた。後にローエルは随筆本『NOTO: An Unexplored Corner of Japan』(NOTO―能登・人に知られぬ日本の辺境)を1891年に出版する。能登を英文で世界に紹介した初めての人物だ。そして、そのころに能登を辺境=マアジナルと感じた最初の人なのだ。
小説の中で、6人の少年少女の中で精神科医になった男性が交通事故に遭い、幽体離脱してローエルと対面し問答する下りがある。ローエルは「人間とは、ここがあれば、ここ以外の何かが存在すると考える存在なのです」と述べる。デカルトの「我思うゆえに我あり」を引き合いに出して語るシーンである。そして男性は望遠鏡を覗き込みながら、「あの雲がUFOの出入り口なのですか」と尋ねる。でも、ローエルは「さて、どうでしょうかね。私はそれを見たことがないのでわかりません」と肩をすくめて淋しそうに笑う。この小説は、UFOが見えるか見えないか、我思うゆえに我あり、哲学書にも似た大いなる問答集なのである。
⇒15日(水)朝・金沢の天気 くもり
シンポジウム参加のため、冬の帯広にやって来た。帯広畜産大学と帯広市が主催する「第5回十勝アグリバイオ産業創出のための人材育成シンポジウム~十勝の『食』を支える人づくり~フードバレーとかちのさらなる前進を目指して~」(1月26日、ホテル日航ノースランド帯広)。シンポジウムの講評をお願いしたいと依頼があり、引き受けた。帯広畜産大学は帯広市と連携して、平成19年度から5年計画で「地域再生のための人材養成」のプログラム「十勝アグリバイオ産業創出のための人材育成事業」を実施している。社会人を対象に、十勝地方で産する農畜産物に付加価値の高い製品を産み出す人材を養成しようと取り組んでいる。今回のシンポジウムはいわばこの5年間のまとめのシンポジウムでもある。帯広市(人口16万)を中心とする十勝地方(19市町村)の農業産出額は北海道全体の4分の1を占め、一戸あたりの農家の平均耕作面積は40㌶に及び、全体でも26万㌶、全国の耕地の5%に相当する。食料自給率は1100%、小麦やスイートコーン、長芋などは全国トップクラスの生産量を誇る。年間2000時間を超える日照時間も強みだ。帯広畜産大学の取り組みはこうした恵まれた環境に甘んじることなく、「さらに十勝の農力を伸ばせ」と人づくりにチカラを注いでいる。
世界遺産でもあるイフガオの棚田でブランド米と呼ばれるのが、「WONDER」の米。赤米で、粒が日本のジャポニカ米と似てどちらかといえば丸い。値段は1㌔100ペソ。マニラのマーケットでは米は1㌔35ペソから40ペソなので、ざっと3倍くらいの値段だ。この米をアメリカのNGOなどが買い付けてイフガオの棚田耕作者の支援に動いているという。もう一つ、「棚田米ワイン」も味わった。甘い味でのど越しが粘つく。アルコール度数は表示されてなかったが25~30度くらいはありそうだ。ブタ肉のバーベキューと合いそうだ。イフガオでは棚田米に付加価値をつけて販売する動き出ているのだ。こうした取り組みが一つ、また一つと成功することを願う。
ちの田から心が離れてしまっていることではないかという印象を受けたのですが、そういう解釈でよいか」と質問を投げた。
いまでもイフガオ族には一神教には違和感を持つ人が多いといわれる。コメに木に神が宿る「八百万の神」を信じるイフガオ族にとって、一神教は受け入れ難い。一方で、それゆえに少数民族が住む小中学校では、欧米の思想をベースとした文明化の教育、「エデュケーション(Education)」が徹底されてきた。今回の訪問では、14日に現地イフガオ州立大学で世界農業遺産(GIAHS)をテーマにしたフォラーム「世界農業遺産GIAHSとフィリピン・イフガオ棚田:現状・課題・発展性」(金沢大学、フィリピン大学、イフガオ州立大学主催)を開催したが、発表者からはこのクリスチャニティとエデュケーションの言葉が多く出てきた。どんな場面で出てくるのかというと、「イフガオの若い人たちが棚田の農業に従事したがらず、耕作放棄が増えるのは特にエデュケーション、そしてクリスチャニティに起因するのではないか」と。
られたとされる棚田は「天国への階段」とも呼ばれ、イフガオ族が神への捧げものとして造ったとの神話があるという。村々の様子はまるで、私が物心ついた、50年前の奥能登の農村の光景である。男の子は青ばなを垂らして鬼ごっこに興じている。女子はたらいと板で洗濯をしている。赤ん坊をおんぶしながら。車が通ると車道に木の枝を置き、タイヤが踏むバキッという音を楽しんいる子がいる。家はどこも掘っ建て小屋のようで、中にはおらくそ3世代の大家族が暮らしている。ニワトリは放し飼いでエサをついばんでいる。器用にガケに登るニワトリもいる。七面鳥も放し飼い、ヤギも。家族の様子、動物たちの様子は冒頭に述べた「昭和30年代の明るい農村」なのだ。イフガオの今の光景である。
つぶさにその様子を観察していると一つだけ気になることがあった。人と犬の関係が離れている。子供の後をついてきたり、子供が犬を抱きかかえたり、「人の友は犬」という光景ではないのだ。今回の訪問に同行してくれた、イフガオの農村を研究しているA氏にそのことを尋ねると、こともなげに「イフガオでは犬も家畜なんですよ。それが理由ですかね…」と答えた。人という友を失ったせいか、その運命を悟っているのか、犬たちに元気がない、そしてどれも痩せている。気のせいか。
ちで車が停まると、少女が手作りのネックスレのよなものを売りに来た。初めてのフィリピン、初日からカルチャーショックを受けた。それにしても、フィリピンは新旧、貧富がはっきりと浮かび上がる都市だ=写真=。
羽柴秀吉の時代の地震が中心に書かれている。秀吉は2度、度胆を抜かれる地震を経験している。1度目は1586年1月18日、中部地方から近畿東部が激しく揺れた天正地震。越中の佐々成政を攻めて、大阪城への帰路、琵琶湖南西岸の坂本城にいた。揺れは4日間も続き、その後、秀吉は馬を乗り継いで大阪に逃げるようにして帰った。この坂本城はもともと明智光秀が築いた城だった。光秀は、本能寺の変を起こし、秀吉に敗れて近江に逃れる途中で殺された(1582年7月)。著者も「明智光秀ゆかりの城にいて、大地の怒りに触れた瞬間、どのような思いが胸をよぎっただろうか」と書いているように、秀吉には因縁めいて居心地が悪くなったに違いない。この地震では、岐阜県白川郷にあったとされる帰雲城(かえりくもじょう)が山崩れで埋まり、城主の内ヶ島氏理ら一族が一瞬にして絶えた。
元旦の朝は、金沢・兼六園にある金沢神社に初もうでに家族と出かけた。時折晴れ間ものぞく小春日和だった。列につくのだが、近年の傾向だとそれほど列は長くはない。金沢神社は菅原道真を祀っていて、受験生とその家族が多いのだが、かつてほどの熱気が感じられない。天気がよいにもかかわらず、列の長さがさほどではないということは、受験に縁起を担ぐ時代はもう終わったのかも知れない。列についていると、家族がふと、「この灯篭の彫り物は竜だね=写真=、ことしのエトだから一枚写真を撮っておこう」と。その言葉でことしは辰(たつ)年かと初めて気が付いた。辰年は上昇の年とされるがどんな年になるのだろう。12年前の平成12年(2000)は、三宅島が噴火し、ITバブルが崩壊した年、その前の昭和63年(1988)はバブル経済の真っ盛りで東証株価3万円、そして政界の金にまつわるスキャンダルのリクルート事件が発覚した年だった。辰年は、こうしてみると浮くか沈むかの明暗がはっきりする年。ことしはどちらだ。ひょっとして大底か。
その年から29年たった2011年は、東日本大震災による被災や外国為替市場での歴史的な円高水準の定着、世界的な景気後退など、日本の経済を圧迫する不安材料がいくつも重なった。当然、投資家の心理も冷え込み、株価を押し下げた。欧州の財政危機の長期化懸念も広がっている。
相当な影響だろう。イタリア経済はギリシャとは比べものにならない、ドイツ、フランスに次ぐユーロ圏3位の経済力を持つ国なのだ。さらにギリシャはすでにデフォルト(破綻)していると見方がある。実際、ギリシャ10年債利回りは30%を超えている。欧州首脳会談では、ギリシャの国債の50%の元本減免されたが、残り50%も支払われるかどうかはもわからない。これが危機感の連鎖をもたらしている。