★「Iターンの島」~1
島根県松江市に来ている。初めて山陰地方に足を運んだ。一度訪ねたいと思っていた地域だった。8日夜は、金沢から京都駅、新幹線で岡山駅と乗り継いで、松江駅に到着したのは夜11時ごろだった。きょうから梅雨入りで、どんよりと曇っている。なぜ、北陸から山陰にやってきたのか。視察である。「場の学び」にやってきたのは松江ではない。松江は通過地点で、さらにこれから船で隠岐島・海士町(あまちょう)=写真・上=を目指す。
いざ、隠岐の海士町へ
金沢大学と石川県立大学、金沢星稜大学、石川県、能登の2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)で構成してる「能登キャンパス構想推進協議会」の事業の一環として、共同調査事業を行っている。大学と地域が知恵を出し合って、どのように地域づくりや活性化を目指せばよいのか、そんなテーマで自治体とともに調査研究を行っているのだ。今回は、島根県隠岐郡の町、海士町(あまちょう)を目指してやってきた。隠岐諸島の島前三島のひとつ・中ノ島に位置する。面積33.5平方キロ、世帯数1100、人口2300人ほどの町だ。人口は1950年代に7000
人ほどだったが、今ではその3分の1ほどまで減少した典型的な過疎地域だ。この島の小さな町が全国から地域おこしの町として注目されているのだ。
「海士ブランド」と呼ばれる、地域でつくった品々である=写真・下=。「さざえカレー」、「隠岐牛」、CAS凍結商品「島風便」、「海士乃塩」、「ふくぎ茶」など島づくりで全国に売り出す。これまでの農産物や海産物を本土に送るだけでなく、加工して流通ルートに乗せる、そんな「6次化」産品に乗り出し、成功を収めている町なのだ。そして、都会からの若者たち移住者(Iターン)も増えている。
個人的な興味もある。もう25年前にもなるが、新聞記者時代に能登半島の輪島市の海士町(あままち)を2年間かけて取材した。連載した記事は後に『能登 舳倉の海びと』(北國新聞社編集局編)のタイトルで一冊の本にまとめられた(執筆分担)。その経験から、「海士町」という文字には反応する。今回の調査ための視察は即決だった。
輪島の海士町のルーツは360年余り前にさかのぼる。北九州の筑前鐘ヶ崎(玄海町)の海女漁の一族は日本海の磯にアワビ漁に出かけていた。そのうちの一門が加賀藩に土地の拝領を願い出て輪島に定住したのは慶安2年(1649)だった。確かに、海士町の人々が言葉は九州っぽい感じがする。では、隠岐の海士町との関連性はと考えると興味深いのだ。
今回は11日までの3泊4日の学びの旅。題して、「Iターンの島」と題してルポする。
⇒8日(金)夜・松江市の天気 あめ
北京の認定会議では、日本の2件のほか、中国・貴州省従江の案件(カモ・養魚・稲作の循環型農業)とインド・カシミールのサフラン農業も登録に追加された。この4件が加わり、GIAHS認定サイト(地域)は世界で12となった。中には、フィリピンのイフガオの棚田のようにユネスコの世界遺産と同時に認定を受けているサイトもある。認定会議は隔年ごとに開催され、次回2013年はアメリカ・カリフォルニアかアフリカで開催される予定と紹介された。
ージングイベントはGIAHS会議と同様に、2008年5月、谷本知事が生物多様性条約第9回締約国会議が開催されていたドイツのボン市に自ら乗り込み、条約事務局長だったアフメド・ジョグラフ氏と直接交渉し=写真・下=、「第10回締約国会議は2010年に名古屋市で開催させると聞いている。ぜひその一連の国際会議を石川県で開催していほしい」と口説いて誘致した会議だった。実際、ジョグラフ氏はその後、石川県を「下見」に2度訪れ、能登半島や兼六園を巡っている。
その記事を要約すると。問題のポスター=写真=の図柄で、坂本龍馬姿の尾崎正直知事がスクーターに乗る写真が、静岡県焼津市の彫刻家、岩崎祐司氏の作品に「イメージがよく似ている」と、高知県に指摘があった、という。岩崎氏の木彫作品は龍馬がバイクに乗り、題も「リョーマの休日」だ。一方、県がポスターを制作した経緯はこうだ。県が観光特使に任命したタレント・大橋巨泉氏から「女性の憧れは昔はローマの休日、今はリョーマの休日」と発案があったという。
5日午後、愛媛県松山市にある正宗寺に「子規堂」を訪ねた。あの正岡子規が17歳で上京するまで住んだ住宅を移築したものと説明板に書いてある。火災で一度焼けたが、間取り図をもとに再建したものだ。玄関左手の三畳間=写真=が子規の書斎。子規はこの部屋に閉じこもって、本や書類を乱雑にしていた。勉強もさることながら、小学校のころから新聞づくり、松山中学時代には友人たちと回覧形式の雑誌づくりに励んでいたらしい。雑誌は美濃半紙を四つ折りにし、毛筆の細字で丹念に書いたものだった。子規にとって、この三畳間は「編集室」だった。後に俳句、短歌、文章を「写生」という感覚で革新した子規の原点だったのかもしれない。
記者魂がみなぎっていたのだろう、周囲の反対を押し切って、明治28年(1895)、前年に勃発した日清戦争の従軍記者として中国・旅順などを巡った。が、休戦中で1ヵ月もしないうちに講和条約が批准され、戦地リポートを書くことはなかった(『子規の生涯』)。この中国行きが禍して、帰りの船で吐血が激しくなり神戸港に着き入院する。この後に松山に帰省し、英語教師として松山に赴任していた漱石と再会し、貸家にした漱石宅に52日間居候する。このころ松山の俳句仲間が集い、漱石もサークルに加わる。
「一生に一度は、こんぴらさんへ」と金毘羅参りが盛んになったのは江戸中期以後のこと。金刀比羅宮は、昔から海の安全、五穀豊穰、大漁祈願、商売繁盛など様々なご利益のある神様として年間300万人もの参拝客(観光客)を集めている。参道沿いには茶店・土産物店が並び、歴史を感じさせる。それにしても、参道口から本宮=写真=までは785段、奥社までは1368段の石段があり、相当な覚悟が必要だ。今回は時間の都合もあり、本宮まで登った。
帰りはむしろゆっくりと「下山の心」で石段を降りる。途中、面白いオブジェがあるのに気がついた。立札には「アフリカ象」と書いてあり、東京の男性が昭和30年(1955)5月に奉納となっている。なぜアフリカ像なのか気になっていた。
昨日は小松空港、羽田空港、高知龍馬空港と空の便を乗り継いで高知に降り立った。空港や高知市内の街角などは観光キャンペーン「リョーマ(RYOMA)の休日」のポスターであふれていた。リョーマは幕末の志士、坂本龍馬のこと。オードリー・ヘプバーン主演の映画「ローマの休日」とひっかけている。
次に、山内一豊が築いた高知城を見て回った。印象的だったのはしっかりした野面積みの石垣だ。説明看板を読むと、安土城築城で有名な石垣集団の穴太(あのう)衆が工事に加わっていたという。穴太衆を使って強固な石垣を築こうとした一豊の動機は、戦(いくさ)もさることながら、地震の備えでもあったのではないかと推測した。
先日、能登空港の観光ガイドコーナーで『Fのさかな‐22号』という無料の冊子を手にした。特集が鯔(ぼら)だった。この冊子の名前が面白い。「F」はフィッシュ(魚)やフード(食)、フレンド(友)の意味合いや、能登半島の地形も「F」に似ているので、さまざまな意味をかけているらしい。要するに「能登半島の魚」という意味だ。石川県漁業協同組合などがスポンサーになっている。ボラの特集記事は読み応えがある。いくつか抜粋しながら、寿司屋での談義として再構成してみた。
14日から兼六園では無料開放が始まった。そぞろ歩きで、名園を彩るソメイヨシノや遅咲きの梅の花に見入った。兼六園の無料開放は今月22日までだが、私はむしろ晩春の桜が好きだ。
今月5日、久々に兼六園を歩いた。桜(ソメイヨシノ)の蕾(つぼみ)は硬かった。兼六園近くのなじみの料理屋に入ると、女将が言った。「いくらなんでも春が遅い」と。例年ならこの時期、開花宣言が出て週末には兼六園はにぎわいを見せる時節なのに、との女将のぼやきだ。そしてきょう(7日)雪が降り、屋根に積もった。写真は朝8時50分ごろ、自宅(金沢市)の2階から撮影した。
本棚の『共同幻想論』=写真・表紙=を再び手に取ってページをめくってみると、ラインを入れたり、書き込みもあって当時はそれなりに読み込んだ形跡がある。思い出しながら、共同幻想を一言で表現すれば、社会は言葉で創った幻想の世界を共同で信じ、それを実体のものと思い込んで暮らしている、ということか。言葉で編み込まれた世界を「現実そのもの」といったん勘違いすると、そこから抜け出すのは困難だ。相対化、客観化が難しいのである。今の言葉でたとえれば、マインドコントロールの状態か。遠野物語や古事記の2つの文献の分析を通して、共同幻想、対幻想、自己幻想という3つの幻想領域を想定し、吉本隆明の考える幻想領域の意味を次第に明確化し、古代国家成立の考察に至る過程は当時新鮮だった。