☆猛暑は読書に限る

☆猛暑は読書に限る

 連日気温30度を超える。こんな日は、あちこちと動き回るより、じっと読書していた方がしのぎやすい。最近読んだ本の中から、2冊を取り上げる。

【『働かないアリに意義がある』(長谷川英祐著、メディアファクトリー新書)】

 幼いころ読んだイソップ寓話に「アリとキリギリス」がある。夏の間、アリたちは冬の間の食料をためるために働き続け、キリギリスは歌を歌って遊び、働かない。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、アリたちに頼んで、食べ物を分けてもらおうとする。しかし、アリたちは「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだ」と皮肉を込めて断る下りをいまでも覚えている。ことほどさように、アリは働き者というイメージが世界で共有されている。

 ところが、この本のタイトルにあるように、「働かないアリ」がいる。その実態は、働きアリの7割はボーっとしており、1割は一生働かないというのだ。働き者で知られるアリに共感する我々人間にとって意外だ。しかも、働かないアリがいるからこそ、アリの組織は存続できるという。これも意外だ。以下、著書の中からその理由を引用する。

 昆虫社会には人間社会のように上司というリーダーはいない。その代わり、昆虫に用意されているプログラムが「反応閾値(いきち)」である。昆虫が集団行動を制御する仕組みの一つといわれる。たとえば、ミツバチは口に触れた液体にショ糖が含まれていると舌を伸ばして吸おうとする。しかし、どの程度の濃度の糖が含まれていると反応が始まるかは、個体によって決まっている。この、刺激に対して行動を起こすのに必要な刺激量の限界値が反応閾値である。人間でいえば、「仕事に対する腰の軽さの個体差」である。きれい好きな人は、すぐ片づける。必ずしもそうでない人は散らかりに鈍感だ。働きアリの採餌や子育ても同じで、先に動いたアリが一定の作業量をこなして、動きが鈍くなってくると、今度は「腰の重い」アリたち反応して動き出すことで組織が維持される。人間社会のように、意識的な怠けものがいるわけではない。

 著者の進化生物学者の長谷川氏は北海道大学の准教授で、アリやハチなど社会性昆虫の研究が専門。実験から「働かないアリだけで集団をつくると、やがて働くものが現れる」などの研究成果を導き出している。

【『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』(神坂次郎著、新潮文庫)】

 異常な記憶力、超人的な行動力で知られる、博物学者であり、生物学者(特に菌類学)であり、民俗学者の南方熊楠。明治19年(1886)にアメリカに渡り、粘菌類の採取研究を進める。さらにロンドンの大英博物館に勤務し、中国の革命家、孫文らと親交を結ぶ。著者は、論文や随筆、書簡や日記などたどり、波乱の生涯を浮かびあがらせている。

 面白いのは熊楠の悲憤慷慨(こうがい)ぶりである。頭に血が上ると、止まらない。和歌山県田辺の隣人の材木成金が傍若無人の態度を取るので、鉄砲を持った仲間を呼び寄せ「戦闘態勢」に入った。警察官も入る騒動となり、2年間も隣人争いを続ける。この成金が破産して戦(いくさ)は幕を閉じる。著書を読む限り、熊楠の悲憤慷慨は常勝である。

 その熊楠がクジラの塩干しを炭火であぶって、よく酒を飲んだと著書にあり、この塩干しが食べたくなった。和歌山県太地町から「鯨塩干」を取り寄せた。黒くてフワフワ感がある。これをオーブンで5分間焼く=写真=。「これが熊楠の好物だったクジラの塩干しか」とわくわくしながら口にした。どこか覚えのある味だった。スルメイカの一夜干しのあぶったものと歯触りや味がそっくりなのだ。

⇒3日(水)朝・金沢の天気  はれ

★「地デジ」以降‐下‐

★「地デジ」以降‐下‐

 アナログ停波の日(7月24日)に総務省テレビ受信者支援センター(通称「デジサポ」)への電話相談は12万4000件(0時~24時)と発表された。電話内容の多くは地デジ対応テレビやチューナーの接続方法などで、中には「チューナを買いたいが売っていなかった」といった苦情もあった。NHKのコールセンターには同日4万9千件、停波が延期された東北3県を除く44都道府県の地上民放テレビ115社に寄せられた電話での問い合わせは、24日の業務開始から25日14時の時点で2万1000件と発表されている。相談内容の分析はおそらくこれからされるだろうが、件数でいえばざっと19万余件が寄せられたことになる。この件数をどう見るか。

          アメリカに比べ混乱は少なかったが…

 先のブログで紹介したミラー・ジェームス弁護士によると、アメリカの「2009年6月12日」では当日31万7000件の問い合わせがコールセンターに寄せられたという。地上波をアンテナで直接受信する世帯はアメリカで15%、およそ4500万人。日本では76%(2009年統計)が直接受信なので、およそ9600万人となり、アメリカの2倍以上となる。相談件数で見る限り、少なくとも日本はアメリカより混乱は少なかったといえる。

 相談内容では、アメリカの場合、受信機の使用についてが28%ともっとも多かった。これは日本と同じだ。ただ、日本と違った点は「特定のチャンネルの映りが悪い」26%もあったことだ。これは送信するテレビ局側の技術的な問題だった。

 24日に記者会見した片山善博総務大臣は「想定の範囲内の件数」と述べた。言い換えれば、やれやれと何とかうまくいったとの意味だろう。しかし。問題はこれからだろう。先に述べたように、80歳以上の独り暮らし世帯が全国150万ともいわれ、文句も言わないサイレント層がいる。未対応世帯は大都市圏に多いという観測もある。この層をどうケアするのか。

 テレビ局自身もこれからが大変だ。アメリカでは景気後退でテレビ局の経営が行き詰まり、身売りや合併が相次ぐ。記憶に新しいところでは、ことし1月、ケーブルテレビの最大手コムキャストがNBCユニバーサルの経営権を取得したことがニュースで流れた。NBCはアメリカ3大ネットワークの一つである。従来のCMを中心とした地上テレビ局のビジネスモデルだけでは成り立たなくなっている。さらに、アメリカではこうした買収などによるメディア集中の問題が浮上しており、メディアの多様性、市場原理、地域コンテンツをどう確保していくか、「地デジ」以降の問題が山積する。日本も同じだ。地デジが終わったのではなく、始まったのである。

⇒28日(木)朝・金沢の天気    あめ

☆「地デジ」以降‐中‐

☆「地デジ」以降‐中‐

 2009年6月12日、アメリカは日本よりひと足早く地上デジタル放送(DTV)への移行を終えた。アメリカの地デジ移行はさほど混乱はなかったというのが定評となっているが、果たしてそうだったのか、その後、どうなっているのか。また、日本とアメリカの地デジを比較して何がどう違うのかについて話をしてもらうため、きょう26日、アメリカ連邦通信委員会(FCC)工学技術部の法律顧問であるミラー・ジェームス弁護士を金沢大学に招き、メディアの授業に話してもらった。以下、講義内容を要約して紹介する。

        アメリカの「2009年6月12日」

 アメリカではケーブルテレビやBS放送の加入者が多く、アンテナを立てて地上波を直接受信している家庭は全体の15%とされていた。人口でいえば4500万人の市場規模となる。そのアメリカでは「2009年2月17日」がハードデイト(固い約束の日)として無条件に地デジへ移行する日と決められていた。これに合わせ、2008年元旦から、商務省電気通信情報局(NTIA)がデジタルからアナログへの専用コンバーター購入用クーポン券の申請受付を始めた。政府は40ドルのクーポンを1世帯2枚まで補助することにした。2009年に入り、クーポン配布プログラムの予算が上限に達してしまい、230万世帯(410万枚分)のクーポン申請者が待機リストに残こされるという事態が起きた。

 オバマ大統領(当時は政権移行チーム)は連邦議会に対して、DTV移行完了期日の延期案を可決するように要請した。同時にDTV移行完了によって空くことになる周波数オークションの落札者だったAT&Tとベライゾンの同意を得て、4ヵ月間延期して「6月12日」とする法案が審議、可決された。FCCの定めた手続きでは、「2月17日」の期限を待たずにアナログ放送を打ち切ることができるため、この時点ですでにアメリカの1759の放送局(フル出力局)の36%にあたる641局がアナログ放送を停止していた。

 オバマの「チェンジ!」の掛け声はFCCにも及び、スタッフ部門1900人のうち300人ほどが地域に派遣され、視聴者へのサポートに入った。ミラー氏は2008年11月から地デジ移行後の7月中旬まで、カリフォニア州北部、シアトル、ポートランドに派遣された。その目的は「コミュニティー・アウトリーチ」と呼ばれた。アウトリーチは、援助を求めている人のところに援助者の方から出向くこと。つまり、地域社会に入り、連携して支援することだ。

 ミラー氏自身が地元のテレビ局に出演して、地デジをPRしたり、家電量販店に出向いて、コンバーターの在庫は何個あるのか確認した。また、ボーイスカウトや工業高校の学生が高齢者世帯でUHFアンテナを手作りで設置するボランティアをしたり、NGOや電機メーカーの社員がコンバーターの取り付けや説明に行ったりと、行政ではカバーしきれないことを地域が連携してサポートした。そうした行政以外の支援を活用するコーディネーションも現地で行った。

 ボーイスカウトや高校生、メーカー社員も参加して「地デジボランティア」が繰り広げられた。アメリカの場合は移民が多く、多言語である。英語以外の言語(スペイン語、ロシア語、中国語など)に堪能な大学生たちはコールセンターで待機し、移民の人々から相談対応に当たったという。アメリカではアメリカなりのさまざま対応があった。

 2009年6月12日以降、アメリカで地デジ未対応は貧困層を中心にあったものの、同年7月いっぱいでクーポンの配布も終了した。では、アメリカでアナログ放送は完全に視聴できなくなったかというとそうではない。宗教団体や自治体が独自に電波を出す低出力テレビ(LPTV)がある。このLPTVも2015年9月1日に停波が決まっていて、この日がアメリカにおける「地デジ完全移行」となる。

※写真は、移民者への地デジ説明の様子(ミラー氏提供)

⇒26日(火)夜・金沢の天気   はれ

★「地デジ」以降‐上‐

★「地デジ」以降‐上‐

 7月24日、アナログ停波の日。東北の被災3県(岩手、宮城、福島)を除く44都道府県で、NHKと民放115社、BSアナログ放送(NHKとWOWOW)のアナログ放送での番組が正午12時でブルーバックに切り替わり、午後11時59分に地上アナログ放送の電波、その1分前にBSアナログ放送の電波のスイッチがオフになった。後は砂嵐状態に。

        サイレント層へのケア
 25日付の新聞報道によると、24日未明から同日午後6時までに総務省のコールセンターには9万8千件の電話相談や苦情があった。NHKには午後8時までに3万1千件、民放各社には午後7時までに1万6千件、まとめると14万5千件に上る。

 24日午後4時からNHK・民間放送連盟(民放連)による記者会見があった。月刊ニューメディアの吉井勇編集長からのメールレターによると、「12時以降に電話が殺到しましたが、時間を経るに従い、通常の範囲のコールになった」(松本NHK会長)、「心配していた混乱もなく、しっかりとした対応をいただいた」(廣瀬民放連会長)とメディア側は、地デジに向けた最大の転換であるアナログ停波が無事に成し遂げたということに安どの表情を浮かべた。

 問題は、電話をかける人ではなく、電話をかけないサイレント層である。目に浮かぶのは、「テレビはついているだけでいい」という独り暮らしのお年寄り世帯だ。たとえば、能登地方の夜道を歩くと、玄関や居間の電気は消され、テレビの画面だけがまるでホタルの光のようにポツンとついている様子が窓越しにうかがえる。80歳以上の独り暮らし世帯が全国150万ともいわれている。文句も言わず、細々と生きている。気がかりなのはこうした層である。民生委員の手でチューナーは届けられているかもしれないが、はたしてうまく設置させているだろうか。特に都市部は「無縁社会」という言葉もあるように、お年寄りの死すら気づかれないほどに人々の関係性が希薄である。

 テレビは単に電波政策上ではなく、お年寄りの福祉という観点でとらえる必要がある。このブログで何度か書いたが、昨年7月24日に全国に先駆けてアロナグを停波した能登半島・珠洲地区ではこうしたお年寄りの単身世帯を中心に街の電器屋がローラーをかけてチューナーを取り付け、リモコンの操作説明をした。4回も通ってようやくリモコン操作が可能になったお宅があった、との話も聞いた。このような手厚いケアが全国でなされたのだろうか。

⇒25日(月)夜・金沢の天気 くもり

☆アナログ停波の日に

☆アナログ停波の日に

 きょう24日正午にアナログ放送が終わった。深夜零時には停波する。NHKも民放も正午を期して一斉に「ご覧のアナログ放送の番組は本日正午に終了しました」のテロップをブルーバックで掲載している。アナログ放送終了の瞬間を家族で見守った。そして、ブルーバックになったのを見届けて、ワインで乾杯した。新しいデジタルの夜明けにではなく、ちょっとノスタルジックに「アナログ放送お疲れさま」と。

 私が生まれた1954年の1年前に日本のテレビ放送は開始した。1926年に高柳健次郎がブラウン管に「イ」の字を映すことに成功し、日本のテレビ映像の黎明期が始まった。1929年、すでに開始されいたNHKラジオの子供向けテキストに「未来のテレビ」をテーマにしたイラストが描かれた。当時、完成するであろうブラウン管は丸いカタチで想像されていた。東京オリンピック(1940年に予定していたが日本が返上)を目指してテレビ開発は急ピッチで進んだが、戦時体制に入り中断した。高柳博士の成功から28年かかってテレビ放送は開始されたことになる。

 テレビ放送は開始されたが、国産テレビはシャープ製(14インチ)で当時17万5000円もした。大卒の初任給が5000円の時代で、庶民には高根の花だった。そこで、テレビは街頭に出た。ちょっとした街の広場にテレビが置かれ、帰宅途中のサラリーマンがプロレス中継など観戦した。テレビが急激に普及したのはミッチーブームのおかげだろう。現天皇皇后両陛下のご成婚である。美智子さまは当時、ミッチーと庶民から愛され、当時の皇太子は「語らいを重ねゆきつつ気がつきぬわれのこころに開きたる窓」と和歌をよみ、お二人のラブロマンスが共感を呼んだ。このころ日本経済は高度成長期と称され、テレビが爆発的に売れる。1962年には1000万台(普及率50%)の大台に乗った。

 かつてのテレビ映像でいまも脳裏に焼き付いているは、1964年の東京オリンピック、とくに東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボールである。当時、スローVTRが挿入され、その活躍ぶりには心を躍らされた。先般の女子サッカー「なでしこジャパン」の活躍とイメージがだぶる。1969年、アポロ11号のアームストロング船長が月面に第一歩を記したとき、私は中学3年生だった。テレビは38万キロ先の月面の画像をリアルタイムに映し出していた。今年いっぱいで番組が終了する水戸黄門が始まったのも1969年だった。1983年にNHKで放送された「おしん」のストーリーは60ヵ国以上で放送されているという。山形の寒村に生まれたヒロインが、明治から昭和まで80余年を懸命に生きるた人間ドラマ。外国人も涙を流すという、人類の共通の涙腺はとは何か。2001年9月11日、ニューヨークで起きた同時多発テロも、テレビ朝日「ニュースステーション」の途中ライブ映像で見た。一機目の衝突は事故だろうと思った。二機目が衝突して身震いした。これがテロか、と。

 日本や世界の出来事の断片をテレビで知り、そして脳裏に現代という歴史を刻んできた。それぞれの感性は異なるだろうが、テレビ映像は同時代の共通の話題やアイデンティティになった。そして私もかつて「テレビ屋」で14年間業界に籍を置いた。アナログ放送が終わりワインで乾杯したのも、ドラマ、スポーツ中継、ニュース、情報番組、バラエティ番組を通じてさまざまな情報(映像)を届けてくれたアナログ映像の向こう側にいるテレビスタッフの姿に感謝したかったからだ。

⇒24日(日)夜・金沢の天気   はれ

★GIAHS能登対話‐訳版

★GIAHS能登対話‐訳版

 世界農業遺産(GIAHS)のことが6月9日のテレビ朝日報道ステーションで取りあげられたり、共同通信の配信があったりしたおかげか、自在コラムへのアクセスが6月5日から25日までの集計で4900(訪問者数)にも上った。ところで6月18日付で国連食糧農業機関(FAO、本部ローマ)のGIAHS事務局長、パルビス・クーハフカン氏がGIAHS認証セレモニーに出席のため能登入りしたことを伝えた。そのときに、パルビス氏の演説(英文)を掲載したところ、友人たちから「そこまでやるんだったら、日本語も掲載しろ」としかられた。そこで今回は、その翻訳版を掲載したい。

 【翻訳文】 石川県知事、能登の市長町長、武内(和彦)教授、政府関係者や地域の皆さん、そして友人知人の皆さんの前で、能登半島が世界的に重要な農業遺産システムとして世界農業遺産に登録される大変素晴らしいお祝いの日に、FAO(国連食糧農業機関)を代表してお話しできるのは、私にとって光栄で名誉なことです。

 皆さんにぜひとも知ってもらいたいのは、世界農業遺産は過去についてではなく、未来についてのものであるということです。人類は、多くの困難に直面しています。金融経済危機、食糧、治安、貧困、環境悪化、気候変動、人口動態の均衡、そのほかにも多くの困難があります。現在の私たちの開発手法の土台が疑問視されており、グローバル化は地域の価値観に多くのひずみをもたらしています。そして、私たちの次世代の向かう先も疑問視されています。多くの科学者などが近年認めているように、私たちは新しい未来を築くために基本原則へ立ち返る必要があるのです。

 GIAHS(世界重要農業資産システム)とは、生態学的、経済的、社会的な持続可能性の柱です。すなわち、地産地消、地域社会の強化、カーボンフットプリントの削減といったものです。それは、自然と調和して生きるための能力を使いこなし、向上させるために、地域固有の知を活用し、生物多様性の保全と持続可能な利用をすることです。それは、文化的多様性や、私たちの持つ深い信念や価値観を促進することであり、また美意識であり、私たちの深い信念を守ることであり、私たちの風景、つまり私たちの里山を評価することでもあります。世界農業遺産になるということは、名誉なことであると同時に、責任を負うことでもあるのです。

 GIAHS地域の一員として活動する最初の段階は、利害関係者との協議、および事前のインフォームド・コンセントです。この原則は、生物多様性条約の主要原則の一つです。つまり、政治家、意思決定者、政府関係者は、地域社会や市民と共に議論し決定する必要があるということです。

 次の段階は、GIAHSの原則を地域の方針と実践の中に取り入れることです。これは、生物多様性や文化的多様性を大切にし、地域固有の知識を保護し、美意識を大切にすることを意味します。それはすなわち、地域社会の強化であり、ブランド化やエコツーリズム、若者の移住やその生活といった新たな機会を提供するために、地域社会を整備・支援することです。

 日本、中国、インド、そしてチリのような大国、およびその他の多くの国々が農業遺産を大切にしていることを非常に嬉しく思っています。しかし、これは無条件にそう認識されているわけではありません。GIAHSの原則をお手本のように実践している農場や農家を見定める必要があります。こうした人々・グループを支援し、生業がよくなるための手段を提供することによって、誰もがその生活や危機的状況を改善することができるでしょう。私たちには、環境志向経済の時代における環境志向農業が必要です。こうした目的の達成に向けて私たちが互いに協力し、さらに子供たちや若者世代の人たちが(農業に)戻ってきてこそ、私たちが本来目指す幸福な取り組みになると確信しています。どうもありがとうございました。

※写真(下)は、珠洲市の塩田村を見学するパルビス氏(6月17日)

⇒29日(水)朝・金沢の天気  くもり

☆GIAHS能登対話

☆GIAHS能登対話

 国連食糧農業機関(FAO、本部ローマ)のGIAHS事務局長、パルビス・クーハフカン氏が17日、認証セレモニーに出席のため能登入りした。パルビス氏が能登を訪問したは昨年6月以来、2度目となる。前回は金沢でのシンポジウム出席のため、ついでに能登の里山里海の視察で訪れた。金沢大学の能登学舎では、環境配慮型農業の社会人養成コース「能登里山マイスター養成プログラム」のカリキュラムと水田での生物多様性実習などについて説明を受け、それについて鋭く質問を浴びせた。さらに、実際に能登の田んぼで採集され昆虫の標本を食い入るように見ていた=写真=。パルビス氏が説く農業と環境の共存という主張は、本物だとこのとき私自身実感した。いまにして思えば、彼にとってもこのときの能登視察の第一印象が鮮明に残ったに違いない。言葉の端々に「N0TO」が出てくる。

 パルビス氏は能登空港で開催された認証セレモニーで「GIAHSは過去についてではなく、未来についてがテーマである。これが終わりではなく、始まりなのだ」と語った=写真・下=。氏の演説を録音起こしした早業の女史がいる。その原稿をいただいたので、そのまま掲載する。

 Honorable Governor of Ishikawa Prefecture, Mayor of Noto, Proffessor Takeuchi, members of government, and local community, colleagues and friends, It is an honor and privilege for me to represent the (聞き落とし) of FAO, food and agricultural organization of the United Nations, in this very happy day of celebration of designation of noto peninsula as a globally important agricultural heritage system, or world agricultural heritage.

Dear friends and colleagues, please note Word Agricultural Heritage is not about the past but about the future.
Humanity faces many challenges: financial and economic crises, food and security and poverty, environmental degradation, climate change, and balance population dynamics and many other challenges.
The foundations of our modern development patterns are questioned and globalization is creating many distortions in local values, and direction of our future generation is questioned.
As many scientists and others agree these days, we need to go back to our basic principle to build a new future.
GIAHS is about pillars of sustainability–ecological, economical, and social. It is about local food production and consumption, empowerment of local community, and reduction of our carbon footprint.
It’s about conservation of sustainable utilization of our biodiversity, using our local knowledge to manage and enhance our capacity to live in harmony with nature.

It is about the promotion of cultural diversity, and our deep beliefs and values, and it is about our aesthetic values and conservation of our landscapes or our satoyama.
Becoming a World Agricultural Heritage is both a privilege, but particularly, it is a responsibility.
The first step in working as members of GIAHS community, is stake-holder consultation, and prior informed consent.
This principle is one of the major principles of the convention on biological diversity.
This means, politicians, decision makers, members of the government need to discuss, and decide together with local communities and citizens.

The second step is the mainstreaming of the principles of GIAHS in our policies and practices.
This means cherishing our biodiversity, cherishing our cultural diversity, taking care of our indigenous knowledge, and cherishing our aesthetic values.
It is about empowering local communities, and preparing and assisting them in providing new opportunities, such as labeling, such as eco-tourism, such as installation of young people, and preparation of livelihood order.
I’m very pleased that big nations such as Japan, China, India, and Chile, and many countries are cherishing in agricultural heritage, but this is not an automatic recognition.
We need to identify model farms and model farmers, who are integrating all these principles―principles of GIAHS―into their practices and policies.
And by providing capacity building and helping these communities that everybody could include their livelihood system and crises.
We need a green agriculture in an era of green economy.
I’m confident that we will work together in achieving these objectives and goals, and our children and youngest generation will come back and join our effort in this happiness.
Thank you very much.

⇒18日(土)・金沢の天気  くもり

★GIAHS北京対話-下-

★GIAHS北京対話-下-

 その歌声は懐かしい響きがした。北京で開かれているGIAHS(世界重要農業資産システム)国際フォーラムの11日夜の懇親会でのこと。中国ハニ族の人たちがステージに上がり土地の民謡を歌った後、能登半島・七尾市から武元文平市長に随行してきた市職員が祝い歌「七尾まだら」を披露した=写真=。武元氏もステージに上がり手拍子を打った。朗々と歌うそのシーンは感動ものだった。会場が沸いた。すると、すかさずケニア・マサイ族、ナイジェリアと参加者が続々とステージに上がり土地の歌を披露した。佐渡市長の高野宏一郎氏は「佐渡おけさ」を歌い、職員2人が踊った。ステージは国際民謡大会の様相だった。国際親善とは本来このような在り様なのだろう。

         生物多様性保全と持続可能な農業、手を携えるパートナーとして

 11日午前9時から開かれた認証式で、能登半島の「能登の里山里海」と、佐渡市の「トキと共生する佐渡の里山」が正式にGIAHS(通称:世界農業遺産)の登録が認められ、授与式があった。武元氏は「大変名誉ある認証をいただき、とてもうれしい。日本の中でも遅れているといわれてきた地域が評価された。豊かな自然、文化、農林水産業が営々と続いている。先人の営みがまとめて評価された。今後は能登と佐渡が手を携えて、環境に配慮した農林水産業の地域づくりにまい進したい」と語った。

 
 そして、高野氏は受賞の喜びをこう語った。「世界農業遺産(GIAHS)の登録はゴールではなく、新たなスタートです。この認定を誇りに思うとともに、佐渡島民は受け継いできたこの農業の価値を認識し、より一層の持続可能な農業生産活動と里山、自然、文化の保全そしてトキをシンボルとした生物多様性保全に取り組みを進めなければなりません。登録を契機に佐渡GIAHSプロジェクトアクションプランを策定し、市民の皆様と産官学の連携を構築し、佐渡島が一体となって、環境再生と経済発展の仕組みが強固となるよう推進し、人と自然が共生する里山の風景、文化、生物多様性保全の新しいモデルとして佐渡の取り組みが確立されるよう努力を続けたいと決意を新たにしているところです」

 今後、能登と佐渡が同じステージに立ち、生物多様性保全と持続可能な農業と地域づくり、そして国際交流、国際貢献とともに手を携えて進むパートナーとなる。

⇒12日(日)朝・北京の朝   はれ

☆GIAHS北京対話-中-

☆GIAHS北京対話-中-

 その瞬間に立ち会えて、北京に来た甲斐があったと感じた。きのう10日午後4時30分から始まった国連食糧農業機関(FAO)主催の「GIAHS国際フォーラム」の委員会で能登半島と佐渡のGIAHS(世界重要農業資産システム)認定が決まった。FAO側の責任者、GIAHSコーディネーターのパルビス氏が「日本からエントリーがあった能登半島と佐渡の申請に対して、拍手をもって同意を求めたい」と提案すると、20人の委員が拍手で採択した。能登地域GIAHS推進協議会(七尾市など4市4町)と佐渡市は去年12月17日にローマのFAOに申請登録書を提出していた。日本の2件のほか、中国・貴州省従江の案件(カモ・養魚・稲作の循環型農業)とインド・カシミールのサフラン農業も今回登録に追加された。

        農山漁村の国際ネットワークをつくろう

 GIAHSはFAOが2002年に設けた制度だ。伝統的な農業の営みや生物多様性が守られた重要な土地利用システムを登録し、農山漁村の持続的な発展を支援する仕組みで、ペルー、チリ、中国、フィリピン、チュニジア、アルジェリア、ケニア、タンザニアのパイロット地区8件が登録されている。もう少し詳しくこの制度を説明すると、1)食料安全保障と人間の福利を確保しながら、農業のシステムと生物多様性を育み適応させる、2)生物多様性と伝統的な知識を元の場所で保護するのと同時に、保護的な政府の政策やインセンティブを支援する、3)食料への権利、文化的な多様性、地元コミュニティーやその地域の人々の成果を評価し認識する、4)天然資源の管理のため、遺伝資源を元の場所で保護するという考え方に、さらに伝統知識や地元の慣例を統合していくというアプローチが必要であることを明確にする(「FAOホームページ」より)。簡単な話でいえば、共通の視点で、農山漁村の国際ネットワークをつくろうとうことなのだ。

 能登半島の場合、ユネスコの無形文化遺産として登録されている農耕儀礼「田の神アエノコト」を始めとして、1300年以上の歴史を持つため池と棚田の稲作、揚げ浜式の製塩技術など伝統と文化を売りとしている。農林水産業をベースとして、生物多様性や自然環境を守り、新たな価値を創造したいとの思いがある。フォーラムの2日目の10日、申請者の武元文平氏(石川県七尾市長)と高野宏一郎氏(新潟県佐渡市長)はそれぞれ能登と佐渡の農業を中心とした歴史や文化、将来展望などGIAHS申請の背景を英語でプレゼンテーションを行った。これ自体が画期的なことだ。

 選定のための委員会を傍聴して感じたことがある。当初非公開の会議と聞いていたが、オープンであり、撮影もとくに問題はなかった。足を引っ張る意見もなく、未来志向で人々と農業と環境の明日を考える、という雰囲気が漂っていた。きょう11日午前中に認証状の授与式がある。

※写真は、選定のための委員会で日本からの能登と佐渡のGIAHS登録を拍手で採択
⇒11日(土)朝・北京の天気  くもり

★GIAHS北京対話-上-

★GIAHS北京対話-上-

 中国・北京に来ている。この国際フォーラムのテーマが面白い。「Dialougue among agricultural civilization」。中国で開催されているので中国語訳は「農業文明之間的対話」となる。国連食糧農業機関(FAO)が主催する「GIAHS国際フォーラム」のことだ。やぶっからにローマ字が出てきて読みにくいが、GIAHSについては以前の「自在コラム」で書いた。

         里山イニシアティブとの相乗効果
 GIAHSは、Globally Important Agricultural Heritage Systems(GIAHS). 「世界農業遺産」とも呼ばれる「世界重要農業資産システム」のことだ。GIAHSは地域の環境を生かした伝統的な農法や、生物多様性が守られた土地利用システムを後世に残し、また世界に広めることを目的に、FAOが2002年に設立した。現在、世界遺産にも登録されているフィリピンのイフガオ州の棚田など8件が認定されている。

 昨年12月、先進国では初めて日本として、石川県能登半島の4市4町、それに新潟県佐渡市が同時に登録申請した。GIAHSは世界遺産の陰に隠れて目立たない存在だが、国連大学サステイナビリティと平和研究所などが生物多様性条約第10回締約国会議(COP10、昨年10月、名古屋市)で注目された里山イニシアティブとの相乗効果を高めようと動いて日本の申請が実現した。

 フォーラムの討議はきのう9日から始まり、きょう午前、申請者の武元文平氏(石川県七尾市長)と高野宏一郎氏(新潟県佐渡市長)がそれぞれ能登と佐渡の農業を中心とした歴史や文化、将来展望などGIAHS申請の背景を英語で紹介した。その内容を要約する。能登の七尾市など4市4町は、1300年の歴史を持つため池と棚田の稲作、沿岸部での製塩技術などを「里山里海」「半農半漁」の生業(なりわい)、ユネスコの無形文化遺産として登録されている農耕儀礼「田の神をもてなすアエノコト」を申請書に盛り込んだ。武元氏は「能登の8つの市と町がいっしょになって農林水産業をベースとした持続可能な地域づくりを行いたい」「GIAHS認定を契機として先祖から引き継いだ生物多様性や自然環境を守り、新たな価値を創造して次世代につなげたい」と述べた。

 高野氏は、国際保護鳥トキの放鳥で減農薬の稲作農法が広まったことを紹介し、「トキの餌場となる水田が増え、農家は収入も増えた。生物多様性と農業のよい循環が起きている」とブランド化の成果を説明した。「トキを守ることは人間の生活の糧を守ることと位置づけたい」と生物多様性と農業の将来戦略を語った。

 会場からは、「エコツーリズムも盛んになり、よいことだが、人が都会から押し寄せ、環境破壊などが起こらないか」などの質問があった。きょう10日午後4時半からGIAHS認定に関する運営委員会があり、能登と佐渡の登録が承認される見込み。あす11日午前にも認証状の授与式がある。

※写真(下)は会場からの質問に答える武元七尾市長(左)と高野佐渡市長(右から3人目)

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