★現代版「竹取物語」
その紙から、里山の問題を考えさせるセミナーが昨日(10月31日)、金沢大学角間キャンパスであった。企画したのは香坂玲准教授。講師は、中越パルプ工業の西村修・企画営業部長。同社は、竹紙(たけがみ)を生産している。竹の伐採や運搬、原料チップの加工など、竹は木材に比べ効率が悪く、コスト面で不利とされてきたが、あえてそれに挑んだ。地域の住民や、チップ工場などの協力を得ながら集荷体制を築き、竹パルプ10%配合の製品を開発。さらに工場設備を増強し、2009年は国産竹100%の紙を販売。封筒やはし袋、コップといったほかに、パンフレットやカレンダー、名刺やノートなど使用用途を広げるために工夫をこらしてきた。現在、年間で2万㌧(67万本相当)の竹を使う。日本の竹のみを原料とする紙を「マスプロ製品」として生産する唯一の会社といってよい。
では、なぜパルプ原料を竹にこだわるのか。モウソウ竹などは、タケノコなどの食材や、竹垣など家屋、また工芸品などとして現在でも広く使われ、日本人の食と生活、文化に密接している。が、そうした「竹の需要」は全体的に減っている。また、竹林を管理する人が高齢化し、後継者も少なくなっている。その結果、放置された竹林が森林を侵食して荒廃させる問題が全国的に起きている。金沢大学の山林でも、竹林は年間6㍍のペースで広がっていると指摘する人もいる。さらに、金沢のかつてのタケノコの産地だったいくつかの山々はすっぽりと竹に覆い尽くされてもいる。根が浅い竹林では豪雨による土砂崩れの事例も聞く。
竹林を放置するのではなく、活用できないか。西村氏は「竹の活用用途を考えた場合、多くは量的に期待できない。紙原料だったら、竹を大量に使う」と同社が社会貢献としてこの事業に取り組んでいることを強調した。ただ、難点はまだ生産コストが高いこと。普通紙の倍以上はかかる。同社では、寄付金付き国産材活用ペーパーとして「里山物語」を商品化している。用紙価格に上乗せた寄付金を、NPO法人を通じて里山の再生と保全活動をサポートするために使っている。使い捨ての紙であるがゆえに必要とされる大量の竹、その薄い紙に込めた製紙会社の里山保全への想いが伝わってくる。現代版「竹取物語」といえないか。
⇒1日(木)朝・金沢の天気 雷雨
新聞社のウエッブニュースを検索すると、盛んに取り上げられている。被告は、イタリアを代表する国立地球物理学火山学研究所の所長(当時)や、記者会見で事実上の「安全宣言」をした政府防災局の副長官(同)で、マグニチュード6.3の地震が発生する直前の「高リスク検討会」に出席した7人。求刑の禁錮4年を上回る重い判決で、執行猶予はついていない。被告側は控訴するという。
キノコ狩りのマニアは、クマとの遭遇を嫌って加賀地方の山々を敬遠する。そこで、クマの出没情報が少ない能登地方の山々へとキノコ狩りの人々の流れが変わってきている。本来、能登地方の人々にとっては迷惑な話なのだが。
ドイツで9月25日から28日にかけて、東部のブランデンブルグ州やザクセン州計5州の学校や幼稚園で園児や小学生1万1千人以上が給食の食材からノロウィルスに感染し、下痢や吐き気などの症状を訴え32人が入院する過去最大規模の食中毒事件が起きた。ドイツ政府がロベルト・コッホ研究所などに委託した調査で、給食に使われた中国産の冷凍イチゴからノロウィルスが検出された。
人口1300人ほどの村が一丸となって取り組んだ美しい村づくりとはこんなふうだった。クリ、カシ、ブナなどを利用した「緑のフェンス」(生け垣)が家々にある=写真=。高いもので8mほどにもなる。コンクリートや高層住宅はなく、切妻屋根の伝統的な家屋がほどよい距離を置いて並ぶ。村長のギュンター・シャイドさんが語った。昔は周辺の村でも風除けの生け垣があったが、戦後、人工のフェンスなどに取り替わった。ところが、アイシャーシャイドの村人は先祖から受け継いだその生け垣を律儀に守った。そして、人工フェンスにした家には説得を重ね、苗木を無料で配布して生け垣にしてもらった。景観保全の取り組みは生け垣だけでなく、一度アスファルト舗装にした道路を剥がして、石畳にする工事を進めていた。こうした地道な村ぐるみの運動が実って、見事グランプリに輝いたのだった。
最近読んだ『なぜイタリアの村は美しく元気なのか~市民のスロー志向に応えた農村の選択~』(宗田好史著・学芸出版社)にかかれている状況は、現在の日本のそれと同じだ。イタリアの農業生産はGDPの2.3%、農家は全世帯の3.8%に減った(2009年)。日本は、GDPに占める農業の割合は0.9%だが、農家の全世帯に占める割合は4.5%だ。ただし、農家一戸当たりの耕作面積は日本1.6㌶、イタリア7.9㌶と比較にならないほどイタリアの農家は土地持ちだ。土地面積は少なくとも農業人口の比率はイタリアより多いのでうまく農業経営をやっているとのだと思ってしまうが、日本の場合は農業補助金が現在でも5.5兆円あるので、補助金でなんとか農業人口を支えていると表現した方が良さそうだ。
日本と中国は明治以降、日清戦争、日中戦争と戦火を交えた。戦後、中国共産党が政権を奪取して、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。しかし、日本はアメリカとともに、共産党との内戦で台湾に渡った中華民国の蒋介石政権を中国の代表とした。当時の国際情勢は、アメリカなど欧米や日本などの資本主義陣営と、ソ連や東欧、中国などの共産主義陣営に分かれて対立していた。しかし1960年代に入ると、同じ共産主義陣営のソ連と中国の対立が鮮明になり、中国の方がソ連に対抗するために、アメリカや日本との関係改善を望んでいた。米ソ対立を有利に進めたいアメリカは1971年7月、ニクソン大統領が中国訪問を「電撃発表」し、翌1972年2月にニクソン大統領の訪中が実現した。この間、71年10月に中華人民共和国が国際連合に加盟し、台湾から代表権が移った。
「日本製品ボイコット」を叫びながら日系スーパーをことごとく襲い商品を略奪する。「反日無罪」を叫びながら日本の自動車メーカーの車を焼き、日系ディーラーの建物を破壊する。日本料理店を襲う。テレビで見る中国の反日デモは単なる暴徒にしか見えない。おそらく常識ある中国の人々は恥じているに違いない。
元亀2年(1571)、織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、僧侶などを皆殺しにしたといわれている。後世の人々は、丸腰の坊さんや罪のなき人たちを皆殺しにしたことから織田信長は残酷残忍で、宗教弾圧を行った人と脳裏に焼き付けている。では、当時、坊さんたちは丸腰だったのか。比叡山延暦寺は「天文法華の乱」という、京都の法華寺院を焼き討ちし大量虐殺を行っている。広辞苑ではこう記されている。「天文五年(1536)、比叡山延暦寺の僧徒ら18万人が京都の法華宗徒を襲撃した事件。日蓮宗21寺が焼き払われ、洛中ほとんど焦土と化した。天文法難。」と。平安時代中ごろから「強訴(ごうそ)」と呼ばれた威圧的なデモンストレーション(僧兵が神輿を担いで都に押し掛ける)を通じて朝廷に圧力をあけるいったこともやっていた。その延長線上に天文法華の乱がある。