☆上勝 奇跡の葉っぱ-下-

☆上勝 奇跡の葉っぱ-下-

  上勝町に宿泊して一番美味と感じたのは「かみカツ」だった。豚カツではない。地場産品の肉厚のシイタケをカツで揚げたものだ。上勝の地名とひっかけたネーミングなのだが、この「かみカツ丼」=写真=がお吸い物付きで800円。シイタケがかつ丼に化けるのである。こんなアイデアがこの地では次々と生まれている。全国的に上勝町といってもまだ知名度は低いが、「葉っぱビジネス」なら知名度は抜群だ。このビジネスはいろいろ考えさせてくれる。女性や高齢年齢層の住民を組織し、生きがいを与えるということ。「つま物」を農産物と同等扱いで農協を通じて全国に流通するとうこと。ビジネスの仕組みを創り上げたこと。たとえば、注文から出荷までの時間が非常に短い。畑に木を植えて収穫する。山に入って見つけていたのでは時間のロスが多いからだ。ただし、市場原理でいえば、つま物の需要が高くなって価格が跳ね上がることはありえないだろう。

    過疎地における公共とは何か、何をしなければならないのか

 上勝は葉っぱビジネスだけではない。バイオマスエネルギーにも取り組んでいる。上勝町の面積の89%が森林。この資源を有効利用するため、間伐材などの未利用の木材をチップ化して燃料にしている。町の宿泊施設「月ヶ谷温泉・月の宿」ではこれまでの重油ボイラーに替えて、ドイツ製の木質チップボイラーを導入し、温泉や暖房設備に利用している=写真=。重油ボイラーは補助的に使っている。木質チップは1日約1.2トン使われ、すべて同町産でまかなわれている。チップ製造者の販売価格はチップ1t当たり16,000円。重油を使っていたころに比べ、3分の2程度のコストで済む。町内では薪(まき)燃料の供給システムのほか、都市在住の薪ストーブユーザーへ薪を供給することも試みている。地域内で燃料を供給する仕組みを構築することで、化石燃料の使用削減によるCO2排出抑制を図り、地域経済も好循環するまちづくりを目指している。さらに、森林の管理と整備が進むことになり、イノシシなどの獣害対策にもなる。

 上勝ではさらに再生可能エネルギーの開発を進めている。風力、小水力、バイオマスの三本柱。最大の課題は経済性という。風力は初期投資が大きいので、どのように資金調達をし、どう返済していくか。水力は風と違って変動が小さいが、渇水期もあるので、季節による水量と発電量を推測し、そこから収益可能性を考えていくというシュミレーションは今後の課題としてあるようだ。さらに、土石流でこわれた場合にはどうするかなど。風力発電は地権者との話し合い、土地の境界確定も必要となる。小水力についても、地元との水利権の交渉も必要となる。そして、再生可能エネルギーが開発されたとしても、これだけでは上勝の特徴は出ない。エネルギー事業に観光ビジネスをかみ合わせて、多様な雇用・収入源を得ていく。地域が生き残っていくための仕組みづくりをどう構築するか、だ。これが、葉っぱビジネスから再生可能エネルギーへの上勝の次なるステップなのだろう。

 上勝町を視察して思うことは、過疎地における公共とは何か、何をしなければならないのかということだ。人々の生きがい、経済の活性化、移住で若者人口を増やすなど取り組むべき課題はいくつもある。これを突き詰めていくと、採算が困難な事業分野で、いかに経済と調整して事業を進めるのかということになる。そうしないと持続可能ではないからだ。その解は、単独ではできないので、他と連携していく、外需へのアプローチということになる。これを横石氏は「ハブとスポークの発想」にたとえた。いかに広げ、域内に人を呼び込むか、共感を得るか、だ。これにまい進する上勝の人々の努力を讃えたい、そして見習いたい。

⇒3日(土)朝・金沢の天気 くもり

★上勝 奇跡の葉っぱ-中-

★上勝 奇跡の葉っぱ-中-

 「葉っぱビジネス」のカリスマ、横石知二氏=写真=の話ぶりは明確で、修羅場をくぐってきた人生経験に裏打ちされた言葉は蓮田のように深い。28日の講演は以下続く。

 葉っぱビジネスは軌道に乗っているものの、平均年齢70歳、高齢化比率49%の上勝町はいまでも危機感を募らせている。が、世の中の風の流れが変化し、3年ほど前から「田舎暮らし」のニーズが強くなってきた。昨年、上勝町での就業や起業、定住を目指す学生・社会人のインターンシップを募集したところ、260人(18-65歳)の参加があった。うち実際に移住したのは16人だった。そのほとんどが社会性や地域性を目的とし、社会に貢献したいという気持ちを持つ若者たちだ。つまり、彼らが来る目的は、自分が何をやりたいというよりも、社会に役にたつ、認められたいというのが動機のように思える。

     応援ではなく、共感を得る時代

 ところが、彼らには自分が起業するという意識は薄く、自身が会社を立ち上げる、新しく仕事を創るという発想に乏しい。日本全体がチャレンジ性が薄まっている中、受け身型になっていると常々考えている。事業をすることで地域が活性化し、社会貢献の意識があっても事業性がなければ継続しない。しかし、社会貢献をしようという若者を受け入れることは大いにプラスである。それはなぜか、現代は「役割ビジネス」だと思うからだ。

 では、「役割ビジネス」とは何か。地域にとって必要なソーシャルビジネスやコミュニティビジネスの担い手は少ないが、それは現在の社会自体が人材養成をする環境にないからだ。リスクを避けている。ただ、あなただったらこの仕事ができるというビジネスだったら、UターンやIターンの人材はその能力を発揮する。ITやデザインなど、個々の若者たちが有する能力は優れている。これが役割ビジネスだ。ただ、「横石知二」の替わりをやってくれと言われたら、皆ここから離れていくだろう。そこが難しいところだ。やはり、ステップバイステップで人間力を高めていく、仕事を教えるのではなく、生活のなかで生きる力をつけてもらうことが肝心なのだ。

 役割ビジネスは 一人ひとりの社員に役割を持たせるというもの。横並びではない。また、誰にでもできるというものでは稼げない。横並びは安いコストへの競争となっていくので、横並びから抜け出ていかなければならない。上勝ほど地域を看板に成功しているところは他にない、と確信している。所得も高く、1200万を超える収入の農家もある。要は「個」の力をいかに発揮させるか、持っている力の最大限を追求する、それによって人間は変わってくる。人間の力、10の能力がある人が競争心を失っていくと生産量が落ちるものだ。

 モノをつくるところからの発想ではなく、この人だったら何ができるかというところからの発想が必要だ。人と地域と商品が輝く舞台づくりができたのが、上勝の成功要因だと考えている。昔、棚田は荒れていたが、現在はそこの米が高く売れるようになった。そこにはハブとスポークの発想がある。棚田を耕すという発想がまずあるのではなく、棚田で幸せを実現するという目標(ハブ)を置き、そこから棚田のファン、オーナー、研究、ゾーン、インターン等の複数のスポークを作る。いろいろなスポークをつくり、多くの人とつながることによって交流・循環ができてくる。それにはリーダー型プロデューサーが必要だ。

 いいモノをつくっても売れない時代でもある。むしろ、共感を得ることで応援団ができ、いいモノが売れるような時代になってきている。「あなたが作ったものだったら買いたい」という共感。そういう時代になってきた。価値が品質以外のところに生まれてきている。共感する人をどれだけ自分の地域に引っ張ってくるか、だ。

⇒2日(金)朝・金沢の天気   はれ

☆上勝 奇跡の葉っぱ-上-

☆上勝 奇跡の葉っぱ-上-

 29日朝、徳島県の山間部にある上勝町(かみかつちょう)は雪だった=写真=。28日夜からの寒波のせいで積雪は5㌢ほどだが、まるで水墨画のような光景である。ただ、土地の人達にとって、この寒波は31年前の出来事を思い起こさせたことだろう。1981年2月2月、マイナス13度という異常寒波が谷あいの上勝地区を襲い、ほとんどのミカンの木が枯死した。当時、主な産物であった木材や温州みかんは輸入自由化や産地間競争が激しく、伸び悩んでいた。売上は約半分にまで減少し、上勝の農業は打撃を受けていた。そこへ追い打ちをかけるように強力な寒波が襲ったのだ。主力農産品を失って過疎化に拍車がかかった。若年人口が流出し、1950年に6356人あった上勝町の人口は一気に減り、2011年には1890人にまで低下した。高齢化率は49%となった。人口の半分が65歳以上の超高齢化社会がやってきた。

           葉っぱを農産物に、お年寄りにタブレット端末を

 上勝町を訪れたのは2月27日から3日間。金沢大学と能登半島の自治体(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)でつくる任意団体「能登キャンパス構想推進協議会」(会長は金沢大学社会貢献担当理事・副学長)の共同調査研究事業の一環として、研究者と自治体の若手職員が調査のため視察に訪れた。地場産品をいかにマーケットに乗せて流通させ、シェアをとり、ブランド化するかという「6次化」をテーマとした先進地調査だった。事前に本を読み、話し合い、勉強もた。27日に上勝をバスで訪れて、現地に降りた。ある職員がつぶやいた。「これは厳しいな。能登と比べものにならない」と。谷が深く、平地が少ない。当然日照時間も平地より少ない。農業にとっては明らかに条件不利地である。しかも、労働力人口の半分は65歳以上の高齢者だ。

 しかし、上勝には奇跡が起きた。高齢者が主体となって年間で2億6千万円も売り上げる産品を見つけた。多い人で年収1200万円。94歳のおばさんが木に登って採取し、タブレット端末で受注する。そして今年秋には、その高齢者たちが生き生きと働く様子が『人生、いろどり』というタイトル名の映画にもなるという。主演は、吉行和子や富司純子、中尾ミエら。絶望の町に奇跡を起こした産品とは「葉っぱ」である。

 「彩(いろどり)」とブランド名がついている。もみじや柿、南天、椿の葉っぱや、梅や桜、桃の花などを料理のつま物として商品化したもの。山あいの村では自生しているが、市場出荷が本格的になるにつれ、栽培も盛んに行われるようになった。採取は掘り起こしたり、機械を用いない。しかも、野菜などと比べて軽くて小さいので高齢者には打ってつけの仕事なのである。懐石料理など日本食には欠かせない、このつま物はこれまで店が近くの農家と契約したり、料理人が山に取りに行ったりすることが多かった。これを市場参入させたのが当時、農協の営農指導担当だった横石知二氏(1958年生)=写真=だった。

 つま物を市場参入させるひらめきのきっかけはこうだった。以下、横石氏の講演から抜粋する。1987年ごろ、ミカン栽培に見切るをつけて何を町の特産品にしたらよいか悩んでいた。たまたま大阪の寿司屋で2人の若い女性客が、添え物として皿に飾られていた葉っぱを手にしているのを見た。そしてこんな会話が耳に入ってきた。「きれいね。家に持って帰ろうか」と。横石氏はひらめいた。「つま物で何かできるかもしれない」。山あいの上勝町には、和食に添えられる季節の葉っぱや花はいくらでもある。このひらめきをビジネスに育て上げるまでが大変だった。地元の農家に説明しても、初めの頃は「葉っぱが金に化けるなんて考えられない」といった拒絶反応がほとんどだった。農家を説得して回り、ようやく葉っぱを商品として出荷することにこぎつけたものの売れなかった。横石氏は当時を振り返り、「利用者のニーズを把握できてなかったんです」と。そこで自腹を切って、全国の料亭や料理屋を訪ねて、どんなつまものだったら買ってもらえるのか、ユーザーの声を聞いて回った。

 こうした横石氏の地道な努力が実を結び、上勝町の「葉っぱビジネス」は見事に成功。現在は、200の生産農家(70-80歳代)が、320種類のつまものを「彩いろどりブランド」として全国に出荷する。農協で収集した販売単価や出荷数量などのデータを横石氏が社長を務める株式会社いろどりで分析し、農家へ伝達。農家はこれを分析し、翌日の牛産量や品目の選定の目安にしている。また、出荷・受注業務を効率化するため、FAXやパソコン、最近ではNTTドコモとタイップしてタブレット端末を積極的に導入している。農産物史上で葉っぱを商品化し、IT史上で高齢者がビジネスとして使う地域の事例があっただろうか。奇跡なのである。

⇒1日(木)朝・金沢の天気  はれ

★続「災害は進化する」

★続「災害は進化する」

 『日本災害史』(2006、北原糸子編・吉川弘文館)を読んで、ふと思った。なぜ日本人は災害が来ることを忘れるのか。地震情報はこれまで新聞メディアなどに取り上げられ、注意喚起されても、その時代の雰囲気の中でかき消されていつの間にか遠ざかっていく。そして、震災や津波がある日、突然起きて「天災は忘れたころにやってくる」(寺田寅彦の言葉とされる)という状態が繰り返される。

 著書の中で興味深い下りがある。「地震情報が、いわゆる『予言』に近い情報から、純粋科学情報に移行しつつあった時代だったのだが、行政も企業も『予言時代』そのままの対応をしたのであった」「市民は、家具の固定といった、きわめて狭い範囲の防衛策であったとはいえ、生活レベルでの対応を始める兆しがみえるが、行政、企業は、そうした具体的防御策への想像力を全く欠いていた」。これは阪神・大震災(1995年1月17日)が起きる10日前に神戸新聞の一面で報じていた、当時兵庫県猪名川町で続発していた群発地震に触れ「いつM7級の大地震が起きても不思議ではない」との専門家の見方を警告として発していたものだ。しかし、パブル経済の崩壊で行政も企業も内需拡大策、開発に神経を集中していた。むしろ、この記事に反応していたのは市民だったという。

 それにしても人々は忘れっぽい。災害が起きると世界中の人達が同情し、一時的に自らのこととしてとらえるが、「こうした人道的感情がひとたび麗しくも語られてしまうと、あたかもこんな出来事がぜんぜん突発しなかったかのごとく、以前と同様の気楽さで、人々は自分自身の仕事なり娯楽なりを続け、休息し、気晴らしをやる。彼自身に関して起こる最もささいな災禍のほうがはるかに彼の心を乱すものとなるのである」(経済学者アダム・スミス『道徳感情論』)。この忘れっぽさは、日本人だけではなく、しかもいつの世でも同じなのだ。

 では、忘れっぽい我々は次に、ひょっとして明日にもやって来る災害にどのような心構えを持たねばならないのか。それは、著書に述べられているように「減災の思想」だろう。「一人でも多くの命を助け、一戸でも多くの家・建物を守り、一ヵ所でも多くの都市装置の破壊を防ぎ、一円でも多くの経済損失を軽減する」、そのためにどうすればよいのか常日頃、四六時中考えるということだ。このような言葉を述べると、「では昔の非文明社会に戻れということか」との反論もあろう。そうではない、たとえば一極集中型の都市構造を改造する、高速道路を都市のど真ん中に通さないなど、人間生活が機能不全に陥ることを避ける方策を常に考えるということだ。都市を巨大なコンクリート防波堤で囲って、これで津波は大丈夫だ安全という発想ではない。

※写真は、能登半島地震の被災現場(2007年3月25日、輪島市門前町)

⇒25日(土)夜・金沢の天気  くもり 

☆「災害は進化する」

☆「災害は進化する」

 けさ(17日)は金沢の自宅周辺でも30㌢の積雪となった。2月2日以来、2週間ぶりの銀世界だ。ただ寒気が少々緩く、雪が融け始めている。屋根から雨だれがパラパラと落ちる。早朝から「雪すかし」(除雪のこと)だ。この季節、スコップで道路を除雪すると響く、ザッ、ザッッという音を耳にすると北陸の人は居ても立ってもいられなくなる。「お隣さんが雪すかしを始めた。我が家もしなければ」と、寝ていても目覚めるのだ。そして誰かが始めて30分もすると、近所中で雪すかしをしている光景が見られるようになる。簡単に近所同士で挨拶はするが、皆黙々と除雪を進める。雪すかしには、決まりや町の会則というものがあるわけではない。あたかも、DNAが目覚めるがごとくその行動は始まるのだ。

 この本の出だしがまずショッキングだ。「災害は進化する」とある。続けて「という」とあるから科学に裏打ちされた法則のようなものではなく、言葉のたとえとして紹介している。確かに、江戸時代では「地震と火災」はセットだったが、それにも増して現代は「地震と原発」など、被害を受ける社会の構造そのものが変化し、放射能汚染など被害が高度に拡大(進化)している。地震をコントロールできない上に、文明の逆襲にでも遭ったかのごとく、この「災害は進化する」という言葉はパラドックス(逆説)として脳に響く。

 原発だけでなく、高層ビルもまた進化する災害(=文明のパラドックス的逆襲)になりうる。2月13日放送のNHK「クローズアップ現代」でも紹介されたように、東日本大震災では、震源から遠い場所(大阪など)にある高層ビルが大きく揺れたり、同じ敷地にありながら特定の建物だけに被害が出たりするなどの不可解な現象が起きたのだ。原因は、建物と地盤の「固有周期」が一致することで起きた「共振現象」と見られている。事例として紹介されていた、震源から770㌔離れた大阪府の咲州庁舎(地上55階地下3階、高さ256㍍)の揺れ幅は3㍍にも。そのとき大阪府は震度3だった。1995年の阪神淡路大震災では、街中を走る阪神高速道路の高架橋が橋脚ごと横倒しとなった。

 『日本災害史』(北原糸子編・吉川弘文館)の執筆陣は歴史学だけでなく、理学や工学の研究者やジャーナリストらで構成されている。テーマは地震だけでなく噴火、洪水などにわたる。この本を読んで、むなしくなる。日本では災害はいつでもどこでも起きる。たとえば近畿を揺るがした地震だけでも1498年・明応地震、1586年・天正大地震、1596年・慶長伏見地震、1605年・慶長大地震、1662年・近江山城地震など、震災は繰り返しやってくる。さらに、津波も。こうした災害と復興を繰り返すことで、日本人の人生観や倫理観、生命観、宗教観などがカタチづくられてきたのではないかと思ったりもする。この本で述べられているように、被災者の救済を第一とする為政者の意識は形成されていて、「お救い小屋」や「お救い米」など避難所や食糧支援の救済マニュアルは江戸幕府にもあった。

 民のレベルでも、相互扶助という意識があり、「施行(せぎょう)」と呼ばれる義援金を力のある商人たちが拠出した。冒頭で述べた「雪すかしのDNA」というのはひょっとすると、過去から現在まで連綿と伝わる、雪国独特の雪害に対処する無意識の連帯行動なのかもしれない。

⇒17日(金)朝・金沢の天気  くもり

★「見える」の意味

★「見える」の意味

 能登半島はにその地形からいろいろな伝説がある。『妖怪・神様に出会える異界(ところ)』(水木しげる著・PHP研究所)にも掲載されている「猿鬼伝説」はその一例だ。能登羽咋(はくい)の気多大社の祭神、気多大明神を将軍として、能登の神々が協力し猿鬼(さるおに)の一軍を退治する物語だ。この猿鬼には矢が当たらない。その理由として、猿鬼が自分の体毛に漆を塗りつけていて、矢を跳ね返す。そこで、矢に毒を塗り、漆を塗っていない猿鬼の目を狙う。毒矢を携え、神々は猿鬼の住む奥能登の岩井戸へ出陣するという話だ。伝説からは、大陸と向き合う能登半島に入ってきた「毛むくじゃら」の異民族との戦いをほうふつさせる。

 さらに、能登にはUFO伝説がある。羽咋市に伝わる昔話の中にある「そうちぼん伝説」がそれ。そうちぼんとは、仏教で使われる仏具のことで、楽器のシンバルのような形をしている。伝説は、そうちぼんが同市の北部にある眉丈山(びじょうざん)の中腹を夜に怪火を発して飛んでいたというのだ。この眉丈山の辺りには、「ナベが空から降ってきて人をさらう」神隠し伝説も残っているという。同市の正覚院という寺の『気多古縁起』という巻物にも、神力自在に飛ぶ物体が登場する(宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」のホームページより)。

 作家の田口ランディさんはこのUFO伝説に満ちた羽咋に滞在して、小説『マアジナル』(角川書店)=写真=を書き上げた。マアジナルは、「marginal 【形容詞】 辺境の、周辺部の、縁にある、末端の、ぎりぎりの。二つの社会・文化に属するが、どちらにも十分には同化していない、境界的な」という意味を持つ(『リーダーズ英和辞典』)。物語は、「こっくりさん」が流行した1980年代、UFOを目たという少年が中心になって少年少女6人がある日、手を取り合って輪を作り、夏の夜空にUFOが現るのを祈った。その直後、そのうちの1人の女子生徒が消息不明となる。この夜をきっかけに、彼らの運命の歯車は少しずつ狂い始める。UFOや宇宙人を内容とする雑誌「マアジナル」編集部にたまたま入った羽咋出身の編集者がこの運命の糸をたぐり始める。すると、残りの5人の人生が再び交錯し始める…。小説の400ページは出張中の新幹線、飛行機の中で読んだのである意味「臨場感」を持って読めた。

 この物語で意外な実在の人物が登場する。アメリカの天文学者パーシバル・ローエルだ。ローエルは冥王星の存在を予測したことで天文学史上で名前を残したが、ほかにも火星に運河が張り巡らされていると主張し、火星人説も打ち立て論争を起こした。アメリカ人を宇宙開発に傾斜させるきっかけをつくった一人でもある。明治時代、そのローエルが東京滞在中に地図を眺めていて、日本海沿岸に突き出た能登半島の形に関心を抱き、そしてNOTOの語感に揺さぶられて、1889年5月に能登を訪れた。後にローエルは随筆本『NOTO: An Unexplored Corner of Japan』(NOTO―能登・人に知られぬ日本の辺境)を1891年に出版する。能登を英文で世界に紹介した初めての人物だ。そして、そのころに能登を辺境=マアジナルと感じた最初の人なのだ。

 小説の中で、6人の少年少女の中で精神科医になった男性が交通事故に遭い、幽体離脱してローエルと対面し問答する下りがある。ローエルは「人間とは、ここがあれば、ここ以外の何かが存在すると考える存在なのです」と述べる。デカルトの「我思うゆえに我あり」を引き合いに出して語るシーンである。そして男性は望遠鏡を覗き込みながら、「あの雲がUFOの出入り口なのですか」と尋ねる。でも、ローエルは「さて、どうでしょうかね。私はそれを見たことがないのでわかりません」と肩をすくめて淋しそうに笑う。この小説は、UFOが見えるか見えないか、我思うゆえに我あり、哲学書にも似た大いなる問答集なのである。

⇒15日(水)朝・金沢の天気   くもり

☆フードバレー十勝の農力

☆フードバレー十勝の農力

 気温マイナス20度を初めて体験した。冷気を吸って気管支が縮むのか、ちょっと息苦しい感じがした。25日に訪れた北海道・帯広市でのこと。夜中に小腹がすいて、コンビニに買い物に外出したときだった。金沢ではマイナス1度か2度で寒いと感じるが、帯広では身を切る寒さを実感した。翌朝のNHKのロ-カルニュースでマイナス20度と知って、2度身震いした。

 シンポジウム参加のため、冬の帯広にやって来た。帯広畜産大学と帯広市が主催する「第5回十勝アグリバイオ産業創出のための人材育成シンポジウム~十勝の『食』を支える人づくり~フードバレーとかちのさらなる前進を目指して~」(1月26日、ホテル日航ノースランド帯広)。シンポジウムの講評をお願いしたいと依頼があり、引き受けた。帯広畜産大学は帯広市と連携して、平成19年度から5年計画で「地域再生のための人材養成」のプログラム「十勝アグリバイオ産業創出のための人材育成事業」を実施している。社会人を対象に、十勝地方で産する農畜産物に付加価値の高い製品を産み出す人材を養成しようと取り組んでいる。今回のシンポジウムはいわばこの5年間のまとめのシンポジウムでもある。帯広市(人口16万)を中心とする十勝地方(19市町村)の農業産出額は北海道全体の4分の1を占め、一戸あたりの農家の平均耕作面積は40㌶に及び、全体でも26万㌶、全国の耕地の5%に相当する。食料自給率は1100%、小麦やスイートコーン、長芋などは全国トップクラスの生産量を誇る。年間2000時間を超える日照時間も強みだ。帯広畜産大学の取り組みはこうした恵まれた環境に甘んじることなく、「さらに十勝の農力を伸ばせ」と人づくりにチカラを注いでいる。

 十勝の自治体も合併ではなく、近接する市町村が様々な分野で相互に連携・協力する「定住自立圏形成協定」を結び、さらに農業経済を活性化かせるために「フードバレーとかち推進協議会」(19市町村、大学、農業研究機関、金融機関など41団体)を結成。フードバレーとはフード(food=食べ物)とバレー(valley=谷、渓谷)の造語だが、オランダが発祥地。バレーといっても谷がある訳ではなく、食に関する専門知識の集積地を目指しているのだ。さらに、昨年12月には食の生産性と付加価値を高めることで国際競争力の強化を先駆的に推進する国の国際戦略総合特区に指定されている。食へのこだわりを生産地からとことん追求する、そんな印象だ。シンポジウムも、気温マイナスにもかかわず、会場は熱気があった。

 気になった点が一つあった。27日付の読売新聞北海道版で、「カナダの団体とTPP反対で一致 JA道中央会長」の見出しのベタ記事だ。JA道中央会長がの記者会見で「カナダの農業団体と協力してTPP(環太平洋経済連携協定)に反対する」と述べたとの記事内容。一戸あたりの農家の平均耕作面積が40㌶に及ぶ十勝地方、さらに北海道の農業が国の国際戦略総合特区に指定されたのも、TPPを迎え撃つ準備かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。関税の撤廃で、酪農や小麦の生産が打撃を受けるとの懸念があるようだ。

 過疎化が進む、本州や四国、九州の農業と違って、すでに大規模農業で有利な北海道から農業革命を起こし日本の農業をリードしてほしい、と願う。シンポジウムの熱気からそんなことを感じた。

※写真は、街角の氷の彫刻。気温が日中でもマイナス10度ほどあり融けない=帯広市内

⇒27日(金)朝・帯広の天気  はれ

★IRTイフガオ考~4~

★IRTイフガオ考~4~

 世界遺産でもあるイフガオの棚田でブランド米と呼ばれるのが、「WONDER」の米。赤米で、粒が日本のジャポニカ米と似てどちらかといえば丸い。値段は1㌔100ペソ。マニラのマーケットでは米は1㌔35ペソから40ペソなので、ざっと3倍くらいの値段だ。この米をアメリカのNGOなどが買い付けてイフガオの棚田耕作者の支援に動いているという。もう一つ、「棚田米ワイン」も味わった。甘い味でのど越しが粘つく。アルコール度数は表示されてなかったが25~30度くらいはありそうだ。ブタ肉のバーベキューと合いそうだ。イフガオでは棚田米に付加価値をつけて販売する動き出ているのだ。こうした取り組みが一つ、また一つと成功することを願う。

      「イフガオ棚田の誇り、それは人々が平等な関係でつくりあげたことだ」

 イフガオでは何人かの「親日家」と話すことができた。親日という意味合いは、かつて日本の大学で留学経験があり、日本とフィリピンの関係を前向きに考えているとの意味だ。「私は純イフガオでございます」と話しかけてくれたのはフィリピン大学のシルバノ・マヒュー教授だった。国際関係論が専門で、日本には2度にわたって13年の留学経験を持つ。イフガオ州立大学で開催した国際フォーラム「世界農業遺産GIAHSとフィリピン・イフガオ棚田:現状・課題・発展性」では、「THE IFUGAO RICE TERRACES: A Socio-Cultural & Globalization Perspective」のタイトルで講演もいただいた。

 「純イフガオ」という通り、本人はイフガオ族の出身で両親はいまでもイフガオで田畑を耕している。彼に、ICレコーダーを向けて、イフガオの問題についてインタビューした。快く答えてくれた。質問のその1は、今回のフォーラムの開催の意義について感想を聞いた。

 「(世界遺産、あるいは世界農業遺産など)文化遺産に関するシンポジウムで本当に意義のあることは、例えば日本とフィリピンが国境や社会を超えて語り合う、あるいは、知恵・知識・技術などの諸問題について情報を交換し、お互いに知り合うことだと思います。これこそがグローバリゼーション、国際化であり、学問の世界、行政の世界、NPOやNGOにはそれぞれの立場がありますが、やはり文化遺産を保全・維持するためには、日本とフィリピン、あるいはアジア地域でもいいのでグローバルに話し合う会議を開催することは大変大事だと私は思います」

 質問その2はイフオガの問題について、「フォーラムの講演でマヒュー教授は、今、イフガオの人たちが抱える一番の問題は、田んぼをつくる人たちの田から心が離れてしまっていることではないかという印象を受けたのですが、そういう解釈でよいか」と質問を投げた。

 「イフガオ族には歴史上、王政というものはなかった。奴隷のような強制労働はなく、人々は平等な関係と意志で営々と棚田をつくり上げた。われわれイフガオの民はそのことに誇りに思っている。しかし、現代文明の中で、世界中どこでもそうだと思いますが、イフガオでもそうした昔のことを忘れてしまっています。昔と今とのギャップがどんどん開いていくと、保存する価値は薄くなってしまいます。ですから、例えばイフガオの人が、自分は別の所に住みたいと言って、祖先から伝えられた土地を忘れて離れていってしまうという問題を解決する方法があればいいと切に願っています」「日本でも同じようなことが農村地域で起きていると昨日のフォーラムで指摘がありましたが、日本とフィリピンで共通するこの問題をどのようにそれを防ぐかです。もちろん国際化した中では、どこにでも行けるようになっていますが、せっかく昔々の祖先につくってもらったものはやはり大事にしなければならないと思います」

 質問その3として、「日本の能登と佐渡、イフガオが今度どのように交流を持てばよいか。日本に期待することは何か」と。

 「まず、日本とイフガオということより、ご承知のように、フィリピン全体に対してイフガオは文化的にも少し特別な部分を持っています。イフガオ族の文化と、日本の昔の文化には共通点があると思います。そういうものを忘れないために、交流が必要です。これから、遺産の保存技術も含めた日本の優れた技術、あるいはお互いの考え方や価値観に関する交流をすれば、もっともっと文化遺産の保存に役立つと思います。日本の知恵とイフガオの知恵をお互いに考えながらやると、もっと効果的かと思います。そういう意味で、これから本当に日本とフィリピンが文化遺産保存のコンソーシアムという形で定期的にやれば、あるいはもうもっと広く言えば、アジアの文化遺産を一緒に考えながらやっていったら、組織化することも含めて進めばいいと思います」

 マヒュー教授の提案は具体的だった。共通する文化があれば、国境を越えて、グローバルに話し合いましょう、知恵を出しましょうと。そして国内問題や政治問題として矮小化しないこと。問題の解はその先に見えてくる。

⇒22日(日)夜・金沢の天気  はれ

☆IRTイフガオ考~3~

☆IRTイフガオ考~3~

 フィリピンは多民族国家だが、9400万人の人口の8割はキリスト教徒という。それは、16世紀から始まるスペインの植民地化や、20世紀に入ってからのアメリカの支配による欧米化でキリスト教化されていったからだ。イフガオ族は歴史的にこうしたキリスト教化、地元でよくいわれる「クリスチャニティ(Christianity)」とは距離を置いてきた。それはルソン島中央を走るコルディレラ山脈の中央に位置し、宣教もしにくかったということもあるが、拒んできたからだとも言われている。なぜか。

         棚田保全をどのように進めたらよいのか、現地で考える

 いまでもイフガオ族には一神教には違和感を持つ人が多いといわれる。コメに木に神が宿る「八百万の神」を信じるイフガオ族にとって、一神教は受け入れ難い。一方で、それゆえに少数民族が住む小中学校では、欧米の思想をベースとした文明化の教育、「エデュケーション(Education)」が徹底されてきた。今回の訪問では、14日に現地イフガオ州立大学で世界農業遺産(GIAHS)をテーマにしたフォラーム「世界農業遺産GIAHSとフィリピン・イフガオ棚田:現状・課題・発展性」(金沢大学、フィリピン大学、イフガオ州立大学主催)を開催したが、発表者からはこのクリスチャニティとエデュケーションの言葉が多く出てきた。どんな場面で出てくるのかというと、「イフガオの若い人たちが棚田の農業に従事したがらず、耕作放棄が増えるのは特にエデュケーション、そしてクリスチャニティに起因するのではないか」と。

 世界遺産としての棚田景観が後継者不足による棚田放棄、転作による景観維持への影響があるとし、2001年には「危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)」に登録されている。そこまでなる耕作放棄の問題は深刻なのだ。もちろん、日本の地方の田畑も同様である。同じイフガオの棚田が展開するキアンガン市の村で農業青年と言葉を交わした。伝統的な農法は一期作だが、品種改良の稲で二期作化も進んでいる。しかし、稲作では食べるので精一杯、「No hope」と言った青年もいた。現実的な話ではある。確かに耕運機が入らず機械化されにくい棚田での労働はきついだろう。ところが、棚田を見学にやってくる観光客を乗せるトライサイクル(3輪車)は1時間30ペソである。この30ペソは現在のルート換算(1ペソ=1.75円)として50円余りだ。小売で精米1㌔の値段では35ペソなので、若者にとってトライサイクルは稲作より魅力的なのだろう。バナウエにしても、青年たちは農業から観光業(土産物販売、リライサイクルによる観光案内、宿泊業、木彫りなど土産物製造など)に従事する人たちが増えている。

 ここで考えなければならないのは、観光業に収入に依存をすればすれほど、今度は担い手がいなくなり耕作放棄で棚田が荒れ、その結果として観光地としての魅力が薄れる。そうすれば観光客そのものが減少するという、まるでデフレスパイラルの現象に陥ることは目に見えている。フォーラムでは、さまざまな提言や研究があった。

 農村のツーリズムを研究しているカゼム・バファダリ氏(FAO特任研究員、立命館アジア太平洋大学講師)は農家が潤う観光に転換をと提言した。「イフガオの農家も農業だけでは生活できない現状がある。しかし、素晴らしい環境で景色もいい、世界的に有名なので、このキャパシィーを農家が潤うツーリズムとして再構築すれば、農家の人も元気になる。日本の能登半島では、農家がホストとなる農家民宿の取り組みがある。イフガオの棚田ではこの農家民宿が見当たらない。地元の主導する観光、CBT(Community Based Tourism)として、これからの可能性は十分ありる。イフガオバージョンの観光プランを提案してみたい。イフガオのライステラスのモデルは可能ではないか」。イフガオでは従来型の観光にとどまっているので、体験や農家で宿泊するノウハウを取り入れてはどうかとの提案だった。

 佐渡市から参加した高野宏一郎市長は棚田保全について提言した。「今回のイフガオ訪問では、erosionと言いますか、大事な遺産が耕作放棄などで傷んでいるのを見て少し心が痛みました。しかし、きょうのフォーラムでは地域の研究者や行政の方々の熱気のあるparticipantというか、守ろうとする意欲に、これは大丈夫だなという自信が持てました。イフガオの棚田再生に必要なのは、どのようにコストを循環型にするか、つまりイフガオの田んぼの価値を認めてもらう世界中の人にお金を出してもらいながら保全していく方法です。たとえばプレミアム米を販売し、その売上の一部を棚田の保全のために使うという方法は佐渡でも行っている。そのノウハウならばわれわれも協力できます」と。

 イフガオと佐渡、能登の共通の問題をそれぞれに理解し合えたフォーラムだった。いくつか具体的な提案もあった。交流のスタートに立てたと思いがした。

※(写真・上)バナウエでは耕作放棄された土地の一部で宅地化が進んでいる、(写真・下)土産物で売られているキリストの12使徒の最期の晩餐の木彫。イフガオでもクリスチャニティは徐々に進んでいる

⇒21日(土)夜・金沢の天気   くもり

★IRTイフガオ考~2~

★IRTイフガオ考~2~

バナウエはルソン島中央を走るコルディレラ山脈の中央に位置するイフガオ族の村だ。2000年前に造られたとされる棚田は「天国への階段」とも呼ばれ、イフガオ族が神への捧げものとして造ったとの神話があるという。村々の様子はまるで、私が物心ついた、50年前の奥能登の農村の光景である。男の子は青ばなを垂らして鬼ごっこに興じている。女子はたらいと板で洗濯をしている。赤ん坊をおんぶしながら。車が通ると車道に木の枝を置き、タイヤが踏むバキッという音を楽しんいる子がいる。家はどこも掘っ建て小屋のようで、中にはおらくそ3世代の大家族が暮らしている。ニワトリは放し飼いでエサをついばんでいる。器用にガケに登るニワトリもいる。七面鳥も放し飼い、ヤギも。家族の様子、動物たちの様子は冒頭に述べた「昭和30年代の明るい農村」なのだ。イフガオの今の光景である。

           世界遺産であり、危機遺産でもあり

 つぶさにその様子を観察していると一つだけ気になることがあった。人と犬の関係が離れている。子供の後をついてきたり、子供が犬を抱きかかえたり、「人の友は犬」という光景ではないのだ。今回の訪問に同行してくれた、イフガオの農村を研究しているA氏にそのことを尋ねると、こともなげに「イフガオでは犬も家畜なんですよ。それが理由ですかね…」と答えた。人という友を失ったせいか、その運命を悟っているのか、犬たちに元気がない、そしてどれも痩せている。気のせいか。

 世界遺産の登録(1995年)、世界農業遺産(GIAHS)の認定(2005年)でイフガオの棚田でもっとも観光客が訪れるバナウエ市。13日、ジェリー・ダリボグ市長を表敬に訪れた。訪れたのは、同日オフガオ視察と交流に合流した同じ世界農業遺産の佐渡市の高野宏一郎市長、それに金沢大学の中村浩二教授、石川県の関係者、国連食糧農業(本部・ローマ)のGIAHS担当スタッフだ。バナウエは人口2万余りの農村。平野がほとんどない山地なので、田ぼはすべて棚田だ。バナウエだけでその面積は1155㌶(水稲と陸稲の合計)に及ぶ。市長によると、残念ながらその棚田は徐々に減る傾向にある。耕作放棄は332㌶もある。さらに驚くことに専業の農家270軒だという。マニラなどの大都市に出稼ぎに出ているオーナー(地主)も多い。耕作放棄された棚田を農家が借り受ける場合、最初の2年間は収穫の100%は耕作者側に、以降は耕作者とオーナーがそれぞれ50%を取り分とするルールがある。市長は「棚田の労働はきつい上に、水管理や上流の森林管理など大変なんだ」と話す。農業人口の減少、耕作放棄など、平地が少ない能登とイフガオで同じ現象が起きていると感じた。

 バナウエの棚田を見渡すと奇妙な光景もある。棚田のど真ん中にぽつりと一軒家が立っていたり、振興住宅のように数十軒が軒を並べたり、棚田が一部に宅地化して、世界遺産や世界農業遺産の景観と不釣り合いなのだ。A氏に聞くと、ここ10年余りで棚田に造成されたものだという。実は人口自体は増える傾向にある。観光業者を営む人々が増えているのだ。統計によると、2001年にイフガオを訪れた観光客は5万3000人、2010年では10万3000人と倍増した。国内の観光客は一定して5万人ほどと変わらないが、2004年ごろから外国人客が急増し、2008年からは国内客を上回るようになった。バナウエでは沿道に土産物店が軒を連ねる。バイクの横に1人乗りの籠(かご)をくつけた、「トライサイクル」と呼ばれる3輪車が数多く走り回っている。ジープニーと呼ばれる派手なデザインの小型バスも。イフガオではトライサイクルの料金は1時間30ペソ(マニラは60ペソ)だ。精米されたコメが1㌔おおよそ35ペソで市販される。コメをつくりより、トライサイクルを走らせた方が稼げると考える若者が増えている。

 こうした兆候は1995年に世界遺産に登録されたころからすでに出始めており、2001年には世界遺産としての棚田景観が後継者不足による棚田放棄、転作による景観維持への影響があるとし、「危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)」に登録されている。

⇒13日(金)夜・バナウエの天気  くもり