☆「場」立ち考~上

☆「場」立ち考~上

 人は視覚的な景観を「場所」と感じている。城のある町、山の中腹にある大社、江戸時代風の街並み、そうした場所は理解しやすい。ただ、景観としての場所はそれほど単純で明快なわけでもない。旅人が単純に誤解していることもある。その場に立って、文化や風土を理解しないと分からないことも多い。この大型連休を利用して、四国を家族で旅してる。名所を巡りながら、「場」を考える。題して、「場」立ち考…。

       ~ 高知・桂浜の龍馬像はどこを向いている ~

 昨日は小松空港、羽田空港、高知龍馬空港と空の便を乗り継いで高知に降り立った。空港や高知市内の街角などは観光キャンペーン「リョーマ(RYOMA)の休日」のポスターであふれていた。リョーマは幕末の志士、坂本龍馬のこと。オードリー・ヘプバーン主演の映画「ローマの休日」とひっかけている。

 きょう4日午前中は桂浜を訪れた。太平洋を臨む砂浜なのだが、潮流が速く遊泳は禁止されている。台風の接近時によくテレビ中継されることでも知られる。一帯は桂浜公園となっていて、松林の高台に坂本龍馬の銅像がある。右腕を懐に、ブーツ姿の龍馬ははるか太平洋の彼方を見つめている。像の高さは5.3㍍、台座を含めると13.5㍍にもなる。キャンペーンの一環で「龍馬に最接近」と銘打ってこの龍馬像の横に展望台を設置し、龍馬と同じ目線で太平洋を眺めることができる。その銅像は、龍馬が海を眺めながら「日本を今一度洗濯いたし申すことにすべきこと神願」(姉の岡上乙女に宛てた手紙)とつぶやく姿をほうふつさせる。実に絵になるのである。

 すると、龍馬像に案内してくれたタクシー運転手がこんなことを話した。「きょうは珍しく室戸岬が見えますね。年に何回もないですよ。龍馬の目線は室戸岬に向いているんです。室戸岬には中岡慎太郎の銅像があるんです」と。確かに、龍馬の目線をたどると室戸岬の方角だ。中岡慎太郎も幕末を駆け抜けた土佐の志士。龍馬と手を組み、薩長同盟を成立させた。大政奉還から1ヵ月後の慶応3年(1867)11月15日、2人は京都の近江屋で刺客により襲撃され命を落とす。龍馬は享年33歳、慎太郎は29歳だった。

 龍馬像の近くに坂本龍馬記念館の資料によると、龍馬の銅像は昭和3年(1928)5月に、慎太郎の銅像は昭和10年(1935)5月にそれぞれ地元の青年たちが中心となって建立した。戦時中の国家総動員法にもとづく金属類回収令による供出でも、2人の銅像は供出を免れた。それなりの理由があったのだろう。慎太郎の銅像は実際に見ていないのでどの方角を向いているのか確認できてはいない。ただ、海を隔てて2人の志士が会話をしているようにも思え、何を話しているのか想像をたくましくさせる。

 次に、山内一豊が築いた高知城を見て回った。印象的だったのはしっかりした野面積みの石垣だ。説明看板を読むと、安土城築城で有名な石垣集団の穴太(あのう)衆が工事に加わっていたという。穴太衆を使って強固な石垣を築こうとした一豊の動機は、戦(いくさ)もさることながら、地震の備えでもあったのではないかと推測した。

 『秀吉を襲った大地震~地震考古学で戦国史を読む』(寒川旭著、平凡社新書)によると、秀吉の家臣として活躍した一豊は近江長浜城主となり2万石を領した。が、1586年の天正大地震によって城が崩れ、一人娘の与祢(よね)を亡くす。この頃は地震の活動期だった。一豊が高知城で没したのは慶長10年9月20日(1605年11月1日)だが、その9ヵ月前の1605年2月3日には南海トラフのプレート境界に起こったM7・9の慶長大地震と津波で、多くの領民が死んでいる。関ヶ原などの大戦(おおいくさ)と天正と慶長の大地震(おおじしん)、波乱万丈の世の中を生き抜いたサムライの一人が一豊だったのかもしれない。 

⇒4日(みどりの日)夜・香川県琴平町の天気  はれ

★ボラの話

★ボラの話

 石川県の能登半島に穴水(あなみず)町がある。昨年暮れ、友人に連れられて、「幸寿し(こうずし)」という店に入った。寿司屋には珍しくワインが飲める店という。ワインに合うつまみを頼むと、カラスミが出された。カラスミは地元で獲れる魚のボラの卵巣を塩漬けにして陰干ししたもので、珍味として知られる。この店がつくるカラスミは柔らかく、まるでチーズのような濃厚な風味なのである。友人はシャルドネ(白)が合うといい、私はヤマソービニオン(赤)だろうといい、地元で醸造されているワインをオーダーして、カラスミをつまみながら話が盛り上がった。それ以来、ボラのことが気になっていた。

 先日、能登空港の観光ガイドコーナーで『Fのさかな‐22号』という無料の冊子を手にした。特集が鯔(ぼら)だった。この冊子の名前が面白い。「F」はフィッシュ(魚)やフード(食)、フレンド(友)の意味合いや、能登半島の地形も「F」に似ているので、さまざまな意味をかけているらしい。要するに「能登半島の魚」という意味だ。石川県漁業協同組合などがスポンサーになっている。ボラの特集記事は読み応えがある。いくつか抜粋しながら、寿司屋での談義として再構成してみた。

<熊五郎(熊さん)>
3・11後の景気はどうだい。ギリシアやイタリアもガタガタ、中国も冷めてるね。
<八五郎(ハつあん)>
久しぶりに会ったというのにのっけから景気の悪い話だな。どうだい、駅前の寿司屋でワインでもひっかけるか。
<ハつあん>おやじ、上モノは入っているかい。まず、カラスミ出してくれ。オレはいつものシャルドネ、熊さんは赤かい…。
<熊さん>
このカラスミは味わい深いね、ミモレットなんかよりずっとチーズらしい。
<ハつあん>
ところで、このカラスミは穴水でとれたボラの卵巣なんだ。長崎と違って少々小ぶり。ボラはオボコ、イナッコ、スバシリ、イナ、ボラ、トドと成長につれて呼び名がかわるからめでたいね。
<熊さん>
とどのつまりが出世魚というわけかい、ブリと同じく。
<ハつあん>
そう、その「とどのつまり」がボラのトドから由来している。これ以上、大きくならない、行き着くところがという意味なんだ。
<熊さん>
おやじ、ソービニオンをボトルで出してくれ。へえ~、ハつあんは物知りだね。ほかにどんなボラ由来の言葉があるんだい。
<ハつあん>
青二才というのがあるだろう、あれ伊勢で若いボラをニサイと呼ぶんだ。さらに未熟を意味する青をくつけて、アオニサイとういわけ。からっきし世間を知らない若者という意味かな。
<熊さん>
いい調子になってきたね。おやじ、シャルドネもボトルで。
<ハつあん>
熊さん、注文っぷりがいいね。粋だね。勢いがあって、ちょっと斜に構えた感じのことを「いなせな」というだろう。あれもボラだよ。昔ね、江戸の日本橋の魚河岸に集まる若い衆がピチピチした若いボラ(イナ)の背姿に似た鯔背銀杏(いなせいちょう)のマゲを結ったんだ。そこからきているね。
<熊さん>
ハつあん、名調子だね。ささ、ずずっと・・・。

⇒1日(火)朝・金沢の天気  はれ

☆桜の役どころ

☆桜の役どころ

 金沢では平年より3日遅れて13日が桜(ソメイヨシノ)が満開となった。ただ、うすら寒く、金沢の日中の最高気温も13度と平年より4度ほど低く、3月下旬並み。

 14日から兼六園では無料開放が始まった。そぞろ歩きで、名園を彩るソメイヨシノや遅咲きの梅の花に見入った。兼六園の無料開放は今月22日までだが、私はむしろ晩春の桜が好きだ。

 代々の加賀藩主の収集好きは兼六園の植物にも及び、たとえば桜だけでも20種410本に及ぶ。一重桜、八重桜、菊桜と花弁の数によって分けられている桜。中でも「国宝級」は曲水の千歳橋近くにある兼六園菊桜(けんろくえんきくざくら)である。学名にもなっている。「国宝級」というのも、国の天然記念物に指定されていた初代の兼六園菊桜(樹齢250年)は昭和45年(1970)に枯れ、現在あるのは接ぎ木によって生まれた二代目なのである。

 この兼六園菊桜の見事さは、花弁が300枚にもなる生命力、咲き始めから散るまでに3度色を変える華やかさ、そして花が柄ごと散る潔さである。兼六園の桜の季節を200本のヨメイヨシノが一気に盛り上げ、兼六園菊桜が晩春を締めくくる。桜にも役どころというものがある。

 季節には早いが、金沢の人々の兼六園に対するこだわりは、5月中ごろかもしれない。カキツバタが咲く曲水の周囲には早朝から市民が三々五々訪れる。かがんで耳に手をあて、じっと眺めている人もいる。地元の人の話では、「カキツバタは夜明けに咲く。その時に、ポッとかすかな音がする」という。人々はその花の音を聞きにやってくるのである。

 その話を聞き、私自身2度、3度早朝に兼六園を訪れてみたが、花音の確認はできなかった。そのうち、カキツバタの花音は単なる噂(うわさ)話ではないかと思うようになり脳裏から消えていった。かつて、地元の民放テレビ局がその花音を検証しようと、集音マイクを立てて番組にした。その時は、聞こえたような聞こえないような、かすかに空気が揺らぐような、そんな微妙な「音」だった。番組のディレクターがたまたま知り合いだったので確認した。「カキツバタの花音は、開くときに花弁がずれる音だと推測しマイクを立てましたが、現場では聞こえませんでした」とあっさり。ハイテク機器を持ってしても、実際の音にはならなかったのである。

 でも、よく考えてみれば、早朝に集まる人々にとってはカキツバタの花音がしたか、しなかったは別にして、「兼六園にカキツバタの花音を聞きにいく」と家族に告げて早朝の散歩に出かける。それだけでいいのである。兼六園がある金沢らしい風流な暮らしぶりの一端だと思えば、この話の角は立たない。(※写真は、金沢市内の浅野川べりでの花見の様子)

⇒15日(日)夜・金沢の天気   はれ

★春の雪、嵐、夏日

★春の雪、嵐、夏日

 今月5日、久々に兼六園を歩いた。桜(ソメイヨシノ)の蕾(つぼみ)は硬かった。兼六園近くのなじみの料理屋に入ると、女将が言った。「いくらなんでも春が遅い」と。例年ならこの時期、開花宣言が出て週末には兼六園はにぎわいを見せる時節なのに、との女将のぼやきだ。そしてきょう(7日)雪が降り、屋根に積もった。写真は朝8時50分ごろ、自宅(金沢市)の2階から撮影した。

 名残雪(なごりゆき)という言葉がある。3月下旬に三寒四温が「二寒五温」くらいになる。そんな時に雪がチラリと降ることがある。「冬はこれで終わりです。来年もよろしく」という空からのメッセージのようなもので、北陸の住む身としては風情というものを感じる。スノータイヤの交換や雪吊りの庭作業、雪すかし(除雪)などこの冬のできごとを走馬灯のようにいろいろと思い起こさせてくれる。この名残雪がある意味で次の季節、春へのスイッチとなる。ノーマルタイヤへの交換や、雪吊り外しなど名実ともに気持ちが入れ替わる。

 4月に入っても、三寒四温どころか、「四寒三温」だ。昨日(6日)夕方に帰宅し、庭の手入れをしようと草むしりをすると手がかじかんできて30分ほどで作業を止めた。晴れてはいたが、土に温もりがない。確かに「寒の戻り」や「春の淡雪(あわゆき)」といった冬への逆戻りを指す言葉はもともとあるが、きょうの雪はちょっと気が滅入る。金沢地方気象台による兼六園の梅の開花宣言は3月22日だった。平年より24日遅い、この25年間ではもっとも遅い開花だった。

 かと思えば、今月3日の「春の嵐」はどうだ。南から暖かな風が吹きこみ、金沢市ではこの時期では異例の25.4度、夏日(なつび)を記録したのだ。最大瞬間風速は同市内で33.1㍍、まるで台風だった。小松市内の国道8号で風にあおられた4㌧トラックが横転した。金沢大学では午後1時過ぎごろに、「暴風等に伴う帰宅対応について」と教職員に対し帰宅するようメールで呼びかけがあった。帰宅困難者を出さないための、この時期にしては異例の措置だった。

 4月に入ってからのこの1週間で冬と夏を体感したようなものだ。ところで、気になる兼六園の桜(ソメイヨシノ)の開花予想はどうか。ウエザーニューズ社の「さくら開花情報」サイトを閲覧すると、開花予想は4月13日、五部咲きが17日、満開20日から、桜が散る桜吹雪が24日と託宣されている。ちなみに、どのような基準で「開花日」とするかについては、気象庁の場合、標準木(観察を続けている木)5、6輪以上の花が咲いた場合を開花日としている。ウエザ-ニューズ社の場合は、1輪開花を開花日としている。「春よ桜とともに来い」。今回のブログはぼやきになった。

⇒7日(土)午前・金沢の天気   ゆき、くもり

☆続々・トクソウの落とし穴

☆続々・トクソウの落とし穴

 「戦後思想界の巨人」や「戦後最大の思想家」、「知のカリスマ」などと称された吉本隆明(よしもと・たかあき)氏が87歳で死去した(3月16日)。私のイメージで言えば、ヨシモトリュウメイは詩人であり評論家であり、大学などに足場を置くことはなく、在野から国家や言語について考察する思想家だった。ただ、個人的な蔵書には『共同幻想論』(1968年・河出書房新社)と『最後の親鸞』(1976年・春秋社)の2冊しかない。学生時代を過ごした1970年代中ごろ、ヨシモトリュウメイにはそれほど強いシンパシーを抱いていなかったのかもしれない。

 本棚の『共同幻想論』=写真・表紙=を再び手に取ってページをめくってみると、ラインを入れたり、書き込みもあって当時はそれなりに読み込んだ形跡がある。思い出しながら、共同幻想を一言で表現すれば、社会は言葉で創った幻想の世界を共同で信じ、それを実体のものと思い込んで暮らしている、ということか。言葉で編み込まれた世界を「現実そのもの」といったん勘違いすると、そこから抜け出すのは困難だ。相対化、客観化が難しいのである。今の言葉でたとえれば、マインドコントロールの状態か。遠野物語や古事記の2つの文献の分析を通して、共同幻想、対幻想、自己幻想という3つの幻想領域を想定し、吉本隆明の考える幻想領域の意味を次第に明確化し、古代国家成立の考察に至る過程は当時新鮮だった。

 その時代、既存政党では前衛(知識人)が大衆を先導するマルクス主義が盛り上がっていた。このとき、ヨシモトリュウメイは「大衆の原像」というキーワードを掲げ、大衆を取り込め、大衆に寄り添えとダイナミズムを煽り、一時代の思想を築いた…。ここまで、書いて、ふと思った。共同幻想論はまだ生きているのでないか、と。地検特捜部の事件のことである。

  「正義の地検」「泣く子も黙る鬼の特捜」、そんな言葉の呪縛。判決文にあるように、「特捜部の威信や組織防衛を過度に重要視する風潮が検察庁内にあったことを否定できず、特捜部が逮捕した以上は有罪を得なければならいないとの偏った考え方が当時の特捜部内に根付いていたことも見てとれる。犯行は、組織の病弊ともいうべき当時の特捜部の体質が生み出したともいうことができ、被告両名ばかりを責めるのも酷ということができる」(3月31日付朝日新聞より)。これはトクソウ村の共同幻想、とたとえたら言い過ぎか。素朴に自らの使命をまっとうするプロ集団であれば、とくに不正も生まれないだろう。判決文が指摘するような「特捜部の威信」や「組織防衛」といった政治的文脈を隠し持つ組織に変容していたのであれば、組織はバランスを欠き一方向に傾く。検察の自浄作用があるのか、ないのか。

⇒4日(水)朝・金沢の天気  くもり

★続・トクソウの落とし穴

★続・トクソウの落とし穴

 たまたま見た30日夜のNHK-BSプレミアムの映画は、五社英雄監督の代表作『御用金』(19:30-21:35)だった。1969年作で、小道具に至るまで時代の感覚や仕草など時代考証がしっかりしていて、リアル感がある。たとえば、お歯黒の女性などは、今の時代劇では時代の感覚に合わないなどの理由で出さないだろう。

 ストーリーが凝っていた。時代は天保2年(1831年)。越前国鯖井藩(鯖江藩をイメージした架空の地)、雪が降る日本海側の漁村で、村人が一夜のうちに姿を消すという「神隠し」が起きた。それは、御用金を積載した佐渡からの幕府の船が嵐で難破し、その御用金を漁民たちに引き揚げさせ、盗みとりした挙句に漁民たちを皆殺しにするという藩家老・六郷帯刀(丹波哲郎)のシナリオだった。藩の悪行を目撃し、脱藩した脇坂孫兵衛(仲代達矢)は3年後、家老の帯刀が再び神隠しを企てていることを知り、藩に赴き悪に立ち向かうという筋立てだ。幕府の船の難破は偶然ではなく、岬の位置を知らせるかがり火の場所を操作することで、船を座礁させるという手の込んだ仕掛けだった。なぜ2度も藩家老は悪のシナリオを描いたのか。「藩の財政窮乏の折、藩を守るため」と称し、新田開発の資金に充てようとしたのだ。藩を守るため、御用金を略奪して、領民を皆殺しにする。藩の武士たちは「藩のため、忠義」と孫兵衛に斬りかかる。浪人である脇坂は「罪なき人を殺(あや)めるな」と剣を抜く。脇坂が斬ったのは、病巣と化した組織防衛論だった。

 けさ新聞を広げて「検察組織の病弊」「組織守るため犯行」「特捜の病巣 断罪」の見出しが目に飛び込んできた=写真=。一瞬、映画のシーンと脳裏でだぶった。昨日(30日)、有罪判決となった大阪地検特捜部のフロッピーディスク(FD)改ざん事件の犯人隠避罪に問われた元特捜部長と元副部長の裁判。けさ各紙が一斉に報じている。前代未聞と称される大阪地検特捜部による改ざん事件が起きた背景について、判決文の中でこう述べられているのだ。

 「特捜部の威信や組織防衛を過度に重要視する風潮が検察庁内にあったことを否定できず、特捜部が逮捕した以上は有罪を得なければならいないとの偏った考え方が当時の特捜部内に根付いていたことも見てとれる。犯行は、組織の病弊ともいうべき当時の特捜部の体質が生み出したともいうことができ、被告両名ばかりを責めるのも酷ということができる」(31日付朝日新聞より)

 2010年1月30日、FDデータを改ざんした前田恒彦検事(当時)から電話で報告を受けた佐賀元明副部長(当時)は2月1日に大坪弘道部長(当時)に庁内で報告した。ところが、2人は前田検事にデータの改変は過誤(うっかりミス)だとする上申書を作成するように指示し、地検検事正にも虚偽の報告をした。判決では、証拠隠滅罪の犯人である前田検事を捜査することなく隠避した、と事実認定した。

 検察の「悪行」はこれだけではない。記憶に新しいところでは、去年12月、小沢一郎民主党元代表の公判で、東京地検特捜部の検事が捜査報告書に架空の記載をしたことが発覚した。こうした一連の検察不祥事で、巨悪に斬りこむ「検察正義」のイメージが変化し、逮捕した以上は何が何でも有罪にしてみせる「むき出しの検察威信」の印象が国民の間でも広がった。ストーリーと事件の構図をきれいに描くから矛盾が噴き出す。そのために改ざんや架空の記載が隠密裏に施される。そして人はなぜ組織とその威信を守るために、人を貶(おとし)めるのか。特捜の落とし穴は広く、深い。

⇒31日(土)昼・金沢の天気  あめ

☆トクソウの落とし穴

☆トクソウの落とし穴

 大阪地検特捜部のフロッピーディスク(FD)改ざん事件を隠したとして、犯人隠避罪に問われた元特捜部長と元副部長の判決が30日午後、大阪地裁であった。裁判長は2人に懲役1年6ヵ月、執行猶予3年を言い渡した。2人は即日控訴した。

 政治家汚職、大型脱税、経済事件を独自に捜査するのが地検特捜部だ。東京地検特捜部が発足したのが1947年。10年後の1957年に大阪地検特捜部ができた。さらに39年後の1996年に名古屋地検にも特捜部が置かれ、「3特捜」の態勢となった。

 名古屋地検特捜部が発足した翌年、さっそく「手柄」を立てた。1997年10月、当時北國銀行(金沢市)の現役の頭取であった本陣靖司氏(2005年11月無罪確定)と石川県信用保証協会役員3人を背任行為で逮捕したのだった。容疑はこうだった。1993年、北國銀行が同県の機械メーカーに8000万円の融資をしていたが、このメーカーが倒産。信用保証協会は、担保不足などを理由に代位弁済(負債の肩代わり)をいったん拒否したが、後になって応じた。この背景には、頭取が協会に対し、「(信用保証協会への)拠出金の負担に応じない」などと圧力をかけた上で代位弁済をさせ、損害を与えたと特捜部は判断。信用保証協会に対する背任の共同正犯としたのだった。

 一審(金沢地裁)では、本陣氏と協会役員らに執行猶予付きの有罪判決。「役員と頭取が共犯関係になって信用保証協会に圧力をかけて不正に肩代わりさせ、8000万円もの損害を出した」と認定した。この判決に対して協会役員3人は有罪判決を受け入れたが、本陣氏のみが控訴した。二審(名古屋高裁)では、協会役員でなく、代位弁済にかかわれる存在でもなかった本陣氏が役員らと共謀する「身分なき共犯」が成り立つかどうかが争われた。判決は一審判決を支持して懲役2年6ヵ月、執行猶予4年の有罪判決。本陣氏側はこの判決を不服として上告した。

 裁判の流れは最高裁で逆転する。2004年9月10日、最高裁第二小法廷は、事実誤認があるとして二審への差し戻した。当時の新聞報道によると、(1)石川県内の自治体や金融機関が応分の負担をするなかで、北国銀行だけが拠出金を出さないという態度を実際に取り得たのかどうか疑問がある、(2)協会役員は利害得失を総合的に判断して態度を決定する立場にあり、代位弁済が背任行為だったとは速断できない、(3)代位弁済を拒否するという事務担当者間の決定を役員交渉で覆したことを不当とはいえない―などと指摘。有罪とした二審判決について「事実を誤認し、法律の解釈適用を誤った疑いがある」と検察側が主張する事件の構図そのものに疑問を投げかけたのだった。

 2005年10月、差し戻し控訴審となる二審(名古屋高裁)では、「当時頭取が協会役員と背任の共謀を遂げたと認定するには合理的な疑いが残る」と判断して無罪判決を下した。一方、既に有罪判決が確定していた協会役員に対しては、背任罪が成り立つとした。同年11月、名古屋高検は「適法な上告理由を見出せなかった」として上告を断念、本陣氏の無罪が確定した。

 逮捕当時、メディアの論調はどうだったのか。「銀行の現職頭取が逮捕されるのは極めて異例のことで、大きな注目を集めたが、この事件は単なる銀行トップの不祥事にとどまらない。事件の背景には、地銀と信用保証協会の間の密接な関係がある…」などと最初から「地域の癒着」を匂わせる論調もあった。ただ、頭取の逮捕直後、名古屋の地検回りの知り合いの記者から「トクソウでは『ちょっと無理があったかも知れない』とささやかれている」との話を聞いた。さらに記者に尋ねると、当時は名古屋地検に特捜部が発足したばかりで、「東証一部の上場企業で、しかも現役の頭取なら大きな手柄になるので、功をあせったのではないか」との解説してくれた。

 単純な話だ。特捜部というセクションがあるから、配属された検事は手柄を挙げたいと職業意識をかきたてる。政治家汚職、高級官僚が介在する事件、大型脱税、経済事件…。メディアもこぞって注目する。そこで、特捜は分かりやすく、きれいな事件のストーリーや構図を描こうとする。ただ、現実をすべてストーリーや構図にあてはめようとすれば必ず無理が生じる。しかし、もう後戻りができない。そこで、そのギャップを埋めようと必死になり、大阪のようなFD改ざんや、名古屋のような「身分なき共犯」のこじつけ、となる。人間くさい話だが、構造的な落とし穴かもしれない。もちろん、この落とし穴は「特捜部廃止」で問題の解決などと言っているのではなく、取り調べの可視化(録画・録音)など多様な視点と改革を経なければ改善できないことは言うまでもない。

⇒30日(金)夜・金沢の天気  あめ

★畠山重篤氏の森への想い

★畠山重篤氏の森への想い

 「森は海の恋人」運動の提唱者で、気仙沼市在住の畠山重篤さんが、2011年の国際森林年を記念した国連森林フォーラム(UNFF)のフォレストヒーロー(世界で6人)に選ばれ、先月9日、ニューヨークの国連本部で表彰された。畠山さんは20年以上も前から広葉樹の植林を通じて森の環境を育て、川をきれいに保ち、カキ養殖の海を健康にしてきたことで知られる。

 震災後、畠山さんとは3回お話をさせていただくチャンスを得た。1回目は震災2ヵ月後の5月12日にJR東京駅でコーヒーを飲みながら近況を聞かせていただき、9月に開催するシンポジウムでの基調講演をお願いした。その時に、間伐もされないまま放置されている山林の木をどう復興に活用すればよいか、どう住宅材として活かすか、まずはカキ筏(いかだ)に木材を使いたいと、長く伸びたあごひげをなでながら語っておられた。2回目は9月2日、輪島市で開催したシンポジウム「地域再生人材大学サミットin能登」(主催:能登キャンパス構想推進協議会)で。シンポジウムが終わり、居酒屋で地域の人たちと畠山さんを囲んで話し込んだ。3回目はことし2月2日、仙台市でのシンポジウム「市民による東日本大震災からの復興~創造と連携~」(主催:三井物産)の交流会で。9月のシンポジウムのお礼の挨拶をした。すると畠山さんの方から、「内緒なんだけれど、今度ニューヨークに表彰式があるんだ」とうれしそうに話された。UNFFのフォレストヒーローのことが新聞記事になったのはその数日後だった。

 しかし、畠山さんの受賞の喜びは半ばだろう、と想像している。輪島での講演でこう述べていた。「戦後の拡大造林計画により雑木林が広がっていたのですが、エネルギー革命により薪炭林が役に立たなくなり、お金になるスギ、ヒノキを植えることになったのです。問題は木の種類ではなく、きちんと管理されているかどうかです。昨夕(9月1日)、飛行機に乗って上空から見ていたら、能登半島でもいかに真っ黒の山が多いかがよく分かります。つまり、貿易の自由化と為替などの問題があり、外材を買った方が安い時代になったため、せっかく植えたスギが伐期を迎えているのに、山に全然手が入らず、枝と枝が重なって日の光が差し込まない、下草が生えない、雨が降れば赤土が一気に流れる。つまり、海にとって良くないことばかりが川の流域にはあるということです」。受賞はしたものの、日本の山林では問題が山積している、と忸怩(じくじ)たる思いがあるのではと察している。5月12日にお会いしたとき、山林をもう一度何とかしたいと語っておられたことと重なる。

 「森は海の恋人運動」を続けてきた畠山さん。海の復興、山の復権、地域の再生、どれも重いテーマを訴えて全国各地で講演が続く。来たる4月3日、受賞を記念して畠山さんの「海と共に生きる~よみがえる海の生き物・復興へのメッセージ~」と題した講演が日経ホール(東京)である。(※写真は、2月2日、仙台市でのシンポジウムでパネリストとして意見を述べる畠山重篤氏)

⇒20日(祝)夜・金沢の天気  くもり

☆3・11から考える

☆3・11から考える

 東日本大震災(3月11日午後2時46分)が起きたとき、金沢市内の金沢大学サテライトプラザで「事業企画・広報力向上セミナー」の講師として、「広報の裏ワザ教えます」「マスコミを通していかに広報するか」と題して講演とワークショップを開いていた。社会人30人ほどの参加があり、立ちながらの講演だったせいか、金沢での揺れ(震度3)にはまったく気づかなかった。午後3時ごろの休憩時間に、「東北でかなり大きな地震があって大変なことになっている」と別の教授が耳打ちしてくれた。自宅に帰って、テレビで流されるNHKのヘリコプターからの空撮映像にくぎ付けになった。あの衝撃から1年が経った。

 昨年5月に実際に訪れた気仙沼市で、津波によって湾岸の陸に打ち上げられた漁船=写真=に目を見張った。この世のものとは思えない光景だった。その船は巨大ながれきと化して今もその姿をさらしているようだ。復旧の道すらまだ遠いのか。

 今回の大震災から学んだことが多々ある。その一つが日本は「災害列島」であるということだ。地震だけではない。津波、水害、雪害、火災、落雷などさまざまな災害がある。「天災は忘れたころにやってくる」(寺田寅彦の言葉とされる)は現代人への災害に備えよとの戒めの言葉だろう。改めてかみしめる言葉だ。

 二つ目は「災害は身の回りで起きる」ということだ。金沢は「加賀百万石」の優雅な伝統と文化の雰囲気が漂う街と思われている。一方で、江戸時代からの防災の街でもある。加賀鳶(とび)に代表される金沢の自主防災組織がある。もともと、加賀藩が江戸本郷の藩邸に出入りの鳶職人で編成した消防夫が始まりで、大名火消し組織の中でも威勢の良さ、火消しの技術で名高かったとされる。また、金沢市内には「広見(ひろみ)」と呼ばれる街中の空間が何ヵ所かある。ここは、江戸時代から火災の延焼を防ぐため火除け地としての役割があったとされる。また、城下町独特の細い路地がある町内会では、「火災のときは家財道具を持ち出すな」というルールが伝えられている。

 なぜそこまで、と考える向きもあるだろう。気象庁の雷日数(雷を観測した日の合計)の平年値(1971~2000年)によると、全国で年間の雷日数がもっとも多いは金沢の37.4日となっている。雷が起きれば、落雷も伴う。1602年(慶長7)に金沢城の天守閣が落雷による火災で焼失した。石川県の消防防災年報によると、県内の落雷による火災発生件数は年5、6件だが、多い年で2002年(平成14)に12件発生した。1月や2月の冬場に集中している。雷が人々の恐怖心を煽るのはその音だけではなく、落雷はどこに落ちるか予想がつかないという点だ。

 そして、三つ目は「災害の多様性」である。たとえば金沢は落雷だけではない、地震もある。直下型地震を起こすとされる、長さ20㌔ほどの「森本・富樫断層帯」が市内の中心地を走っている。中心地を走っているというのは、かつて断層でずれたくぼ地などを道路として街が形成されたようだ。その市街地を襲った地震が、1799年(寛政11)6月29日の金沢地震だ。この地震の推定マグニチュードは6.0、金沢城下を中心に多くの被害が出た。金沢城でもこのとき一部石垣が崩れ、塀が倒壊した。森本・富樫断層帯は、2001 年からの30 年間に地震が発生する可能性は0~5%で、日本の主な活断層の中でも可能性の高いグループとされている(地震調査研究推進本部地震調査委員会)。

 金沢市では、この断層でマグニチュード7.2規模の直下型地震が起きた場合、避難者数19万人、死傷者数1万2千人と想定している。金沢は戦災を免れた分、古い家屋が残る街並みである。決して非現実的な数字ではないだろう。日本人の宿命として、災害とどう向き合うか。

⇒11日(日)夜・金沢の天気  あめ

★冬の終わりにBBCの本

★冬の終わりにBBCの本

 1月11日から16日にフィリピン・ルソン島のマニラやイフガオの棚田(1995年世界遺産、2005年世界農業遺産)を調査研究に関する交流で訪れた。その折は、気温が30度余りあった。このころから体の調子を少々崩した。帰国してから9日後の25日に北海道の帯広市をシンポジウム参加のため訪れた。この日の夜中、小腹がすいてホテル近くのコンビニに買い物に出かけた。冷気を吸って気管支が縮むのか、ちょっと息苦しい感じがした。翌日のニュースで気温マイナス20度だったことが分かった。フィリピンと帯広の気温差は50度。これが決定的となったのか、その後も京都(1月31日)、仙台(2月2日、3日)などと続いたせいか、熱が出るやら、終日咳き込むやらで調子が悪い。いまも続いている。家族からはマスク(飛沫ウイルスを通さないWブロックの、高機能フィルタータイプの…)の着用令が出ている。

  もう一つ。ことし金沢の自宅周辺は雪が多かった。スコップでの除雪は、2月前半は来る日も来る日もだった。そのうち、右肩が上がらなくなってきた。軽い腱鞘炎だと自己判断している。カバンがいつもより重い。テーブルに座って、ワインのボトルを持って、グラスに注ぐのでさえ痛みがある。57歳の身にとって、数日安静にして、休養すればよいのに、不徳のいたすところで、毎日酒は欠かさず、夜中に起きてはPCに向かってもいる。

 そんな中、時間を見つけて『公共放送BBCの研究』(原麻里子・柴山哲也編著、ミネルヴァ書房)を読んでいる。まだ読み終えてはいない。イギリスのBBC(英国放送協会)は、メディア論やジャーナリズム論の研究者だったら、ぜひとも調査したいテーマの一つだろう。何しろ、公共放送のモデルとして、ジャーナリズムの姿勢や、知的で教養高い番組は高く評価されている。ただ、BBCは「巨大」であり、さまざま顔を持っている。その一つが、世界に対するリーチ・アウト、つまり手を差し伸べるということだろう。実はこれがこの本を手にするきっかけともなった。

  世界の地域おこしを目指す草の根活動を表彰するBBCの番組「ワールドチャレンジ」。世界中から毎年600以上のプロジェクトの応募がある。最優秀賞(1組)には賞金2万ドル、優秀賞には1万ドルが贈られる。2011年のこの企画に私の身近な能登半島の能登町「春蘭の里」が最終選考(12組)に残った。日本の団体が最終選考に残ったのは初めてだった。惜しくも結果は4位だったが、地元は「BBCに認められた」と鼻息が荒い。春蘭の里は30の農家民宿が実行委員会をつくって里山ツアーや体験型の修学旅行の受けれを積極的に行っている。驚いたのは、BBCに取り上げられてからというもの、実行委員会の役員たちの名刺の裏は英語表記に、そして英語に堪能なスタッフも入れて、来るべき「国際化」に備えているのである。そのような心がけに能登の人を導くほどに、BBCの名はインパクトがあったのだ。これがアメリカのCNNであったら、ここまで本気にさせただろうか。

  さて、BBCの名を高めたエピソードに、あのサッチャー首相(当時)との確執がある。1982年のフォークランド紛争(諸島をめぐるイギリスとアルゼンチンの武力衝突)の折、BBCはイギリスの軍隊を「イギリス軍」と呼んだ。サッチャーにすればイギリスの公共放送なのだから「自軍」と呼ぶべきではないのか、一体どこの国のテレビ局なのか、とかみついたのだ。さらに北アイルランド問題ではBBCのドキュメンタリーやインタビュー番組が「放映は敵に宣伝のための酸素を与える」として、放送禁止令が発動された(1988年)。こうした露骨な政府介入が、かえって世界では名声を上げることに。

 一方で、第二次世界対戦を扱った番組では、日本批判は容赦ない。「日本人は非人道的、残忍、非文明的」だっとという元捕虜のインタビューを印象付ける(2005年『東洋の恐怖』p169)という側面もあるようだ。信頼度の高いBBCがそのように放送すれば、世界の人々の日本への印象もそのように固まる。咳き込みながら冬の終わりに読んでいるこの本は何とも複雑な心境にさせてくれる。

 ⇒10日(土)夜・金沢の天気  くもり