★世界を変えた書物

★世界を変えた書物

 その部屋に入ると、何か歴史の匂いがした。古い建物ではないが、そこに所蔵されている書物から沸き立つオーラのようなものが充満している。その陳列ケースを眺めていくうちに、これが世界を変えた書物だと実感する。先日(25日)、金沢工業大学でのある研究会に参加した折、同大学ライブラリーセンター=写真=にある「工学の曙(あけぼの)文庫」に案内された。ここではグーテンベルグによる活版印刷技術の実用化(1450年ごろ)以降に出版された科学技術に関する重要な発見や発明を記した初版本が収集されている。

 この文庫のコンセプトそのものが意義深い。ヨーロッパでは、中世まですべての知識は口伝か写本として伝達されるのみだった。つまり、知識は限られた人々の占有物だった。ところが、グーテンベルクの活版印刷術の発明によって、知識の流通量が爆発的に広がった。科学と技術の発展の速さは知識の伝達の速さに関係するとも言われる。つまり、「グーテンベルク以降」が科学・工学の夜明けという訳である。

 43人の科学者や技術者の初版本が所蔵されている。いくつか紹介すると、白熱球など発明したエジソンの『ダイナモ発電機・特許説明書・特許番号No.297.584、1884年』、電話機のベルの『電話の研究、1877年』、ラジウムのマリー・キュリーの『ピッチブレントの中に含まれている新種の放射性物質について、1898年』、電磁波のヘルツの『非常に速い電気的振動について、1887年』、X線のレントゲンの『新種の輻射線について、1896-1897年』、 オームの法則のオームの『数学的に取扱ったガルヴァーニ電池、1827年』、電池を発見したボルタの『異種の導体の単なる接触により起る電気、1800年』、万有引力のニュートンの『自然哲学の数学的原理(プリンキピア)、1687年』、重力加速度や望遠鏡のガレリオの『世界二大体系についての対話、1632年』など、歴史に輝く科学の星たちの名前が目に飛び込んでくる。

 面白いのは書物に添えられた解説である。引用しながら一つ紹介する。『電話の研究』のアレクサンダー・グラハム・ベル(1847-1922)。ベルの父親は聾唖(ろうあ)者に発声法を教える専門家だった。ベルもロンドン大学などで発声法を学び、父を継いで聴覚に障害を持った人々に発声を教えていた。1871年にスコットランドからアメリカへ移住し、73年にボストン大学で発声生理学の教授となる。このころ、ベルはヘルムホルツの音響理論を知り、機械的に音声を再現することに興味を持った。ベルの着想は、音の変化が電流の変化に変換でき、またその逆を行うことができれば、電流を用いてリアルタイムで会話を電線を通じて伝達できるのではないかとのアイデアだった。76年にベルは初めて音声を「波状電流」に変えることに成功する。最初の電話でのメッセージは、助手を呼ぶ「ワトスン君ちょっと来てくれ」だった。電話機はその後、エジソンらによって炭素粒を用いた、より再生能力の高い送受信機に改良され、世界に広がっていく。

 電話の発明者としてベルは知られるが、生涯にわたって聴覚障害児の教育をライフワークとした。かのヘレン・ケラーに「サリバン先生」ことアン・サリバンを紹介したものベルだった。科学と人との出会い、そして科学への熱情。書物の背景にある偉人たちの生き様までもが伝わってくるライブラリーなのだ。

⇒28日(金)朝・金沢の天気  はれ

☆九谷をまとった虫たち

☆九谷をまとった虫たち

 赤絵の小紋、金蘭(きんらん)の花模様、まさに豪華絢爛の衣装をまとったカブトムシ…。これらの昆虫を眺めていると、地上ではない、まるで別世界にジャンプしたような感覚になるから不思議だ。能美市九谷焼資料館(石川県能美市)で開催されている、陶器の置物展「九谷焼の未来を切り拓く先駆者たち~九谷塾展~」(11月20日まで)を見てきた。

 九谷焼の若手の絵付職人、造形作家、問屋、北陸先端大学の研究者らが集まり、現代人のニーズやライフスタイルに合った九谷焼をつくろうと創作した作品が並ぶ。九谷焼といえば皿や花器などをイメージするが、置物、それも昆虫のオブジェだ。

 体長9㌢ほどの7匹のカブトムシや3匹のクワガタ、18匹のカタツムリ。それぞれの作品に、金で立体感のある装飾を描く「金盛(きんもり)」や、四季の花で陶器を埋め尽くす「花詰(はなづめ)」、九谷焼独特の和絵の具で小紋を描く「彩九谷(さいくたに)」、小倉百人一首を書いた「毛筆細字(もうひつさいじ)」など九谷焼の伝統技法と色彩表現を結集させている。毛筆細字は九谷焼における、もっとも難易度が高い技法の一つといわれる。

 一般的に昆虫をモチーフとしたアート作品は写実的であったり、グロテスクであったり、アニメ風なのだが、昆虫の形状を忠実に再現し、その完成度の高いボディに九谷の技術を駆使することで、実物以上の存在感を引き立たせる。たとえて言えば、妙齢の女性が色鮮やかな友禅を羽織る、そんなイメージ。つまり色香を放つ。九谷焼の新たなアート分野を開拓しようという意気込みを感じさせる作品展だ。

 写真は九谷焼資料館のチラシを抜粋させてもらった。上が赤絵の小紋、金蘭の小紋・花模様、青粒(あおちぶ)が描かれ、下は金地に極小文字の毛筆細字のカブトムシ。1体の昆虫に九谷350年の技法を惜しみなく注ぎ込んでいる。実物を見れば、もっと衝撃を受ける。

⇒19日(水)朝・金沢の天気 はれ

★白川郷でどぶろくを飲む

★白川郷でどぶろくを飲む

 その酒のアルコール度は17度、ちょっと酸っぱさを感じる。杯(さかずき)で8杯飲んだ。足元が少々ぐらついた。16日(日)午後に訪れた岐阜・白川郷の鳩谷八幡(はとがやはちまん)神社の「どぶろく祭り」に参加した。

 世界遺産の合掌集落で知られる白川村。1300年続くとされる祭りは、秋の豊作を喜び、五穀豊穣を祈る祭り。酒造メーカーではなく、神社の酒蔵で造られるのがどぶろくだ。冬場に蒸した酒米に麹(こうじ)、水を混ぜ、春に熟成するのを待つ。ろ過はしないため白く濁るため「濁り酒」とも呼ばれる。その年の気温によって味やアルコール度数に違いが生じる。暖冬だとアルコール度数が落ち、酸っぱさが増す。村内にはどぶろくを造る神社が鳩谷を含め3ヵ所あり、祭りは出来、不出来の品評会にもなる。だからつい飲み過ぎて、腰が立たなく人が多ければ多いほど、どぶろくを造る杜氏(とうじ)はほくそ笑むらしい。「杜氏みょうりに尽きる」と。どぶろく一升(1.8㍑)飲めば、間違いなく三日酔いだとか。そんな話をしてくれたのは、腰かけた境内の石段の隣に座った村の年配男性だった。

 午後3時半すぎ、参拝者がゴザに座って陣取る。神社の拝殿の軒下では、酒だるのふたが開けられ、「どぶろくの儀」がしめやかに営まれた。キッタテという酌用の容器にどぶろくが移されると、かっぽう着姿の地元女性が注ぎに回る=写真=。この白のかっぽう着がなんともまぶしい。つい、もう一杯と杯を差し出す。

 どぶろくが回り始めころ。境内のステージでは、「白川輪島」という芸能が子供たちによって披露された。「輪島出てから 今年で四年 もとの輪島へ 帰りたい 山で床とりゃ 木の根が枕 落ちる木の葉が 夜具となる・・・泣くな鶏 まだ夜は明けぬ 明けりゃお寺の 鐘が鳴る お前百まで わしゃ九十九まで 共に白髪の 生えるまで」。哀調を帯びた労働歌なのだろう。もともとは素麺(そうめん)づくりの「粉ひき唄」が五箇山や白川に伝えられたといわれる。どぶろくの振る舞いは30分も経つと絶好調になった。

 浴衣を着こんで妙に日本語が上手なアメリカ人が斜め向かいに座った。顔を真っ赤にして、杯を重ねる。「ロッキー(山脈)でワインを飲んだ感じだ。オレはパッピーだ」とかっぽう着の女性に投げキッスをするほどテンションが高い。「相当ヤバイことになりそう」と周囲の案じる声が聞こえた。こうして天下の奇祭「どぶろく祭り」の終宴が近づいた。

⇒17日(月)夜・金沢の天気   くもり

☆「ミクロ」の輝き4

☆「ミクロ」の輝き4

 よく手入れされた山が能登半島にある。中でも、能登町宮地・鮭尾地区はキノコが採れる山で知られる。この山を生かして、いろいろな体験ができる=写真=。山菜採り体験、ツリーハウス作り体験、炭焼き体験など都会ではできないコンテンツだ。能登町の農家民宿群「春蘭(しゅんらん)の里」。いまこの集落が注目されている。

       英・BBC放送に挑戦した「春蘭の里 持続可能な田舎のコミュニティ」

 地域おこしを目指す草の根活動を表彰するイギリス・BBC放送の番組「ワールドチャレンジ」。世界中から600以上のプロジェクトの応募があり、「春蘭の里」が最終選考(12組)に残った。題して「春蘭の里 持続可能な田舎のコミュニティ~日本~」。日本の団体が最終選考に残ったのは初めてという。BBCでは現在、12組の取り組みを放映中で、内容は特設サイトでも見られる。投票は同サイトで11月11日まで受け付け、結果は12月に放送される予定。最優秀賞(1組)には賞金2万ドル、優秀賞には1万ドルが贈られる。最優秀賞をかけたインターネット投票を実施中で、地元は「能登の魅力を世界に発信するチャンス。ぜひ投票して欲しい」と訴えている。 

 能登町はことし2月の国勢調査の速報値でも、前回(5年前)調査に比べ人口が10%現象するなど過疎化が起きている。そこで、同町のDさん(63)ら有志が住民が実行委員会を設立し、「春蘭の里」づくりを始めた。1996年のことだ。春蘭の里のキャッチフレーズは「何にもない春蘭の里へようこそ」だが、30の農家民宿がそれぞれ「1日1組」限定で宿泊客を迎え、囲炉裏を囲んだ夕食でもてなす。くだんの炭焼きや山菜採り、魚釣りなどの体験もできることから人気を集め、去年およそ5000人が泊まった。

 春蘭の里実行委員会がBBC放送にエントリーしたのは、突飛な話ではない。去年10月、名古屋市で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)の公認エクスカーション(石川コース)では、世界17ヵ国の研究者や環境NGO(非政府組織)メンバーら50人が参加し、春欄の里でワークショップを繰り広げた。そして今年6月、北京での国連食糧農業機関の会議で「能登の里山里海」が世界農業遺産(GIAHS)に認証され、能登にはある意味での世界とつながるチャンスが訪れている。春蘭の里はこの機会を見逃さずにエントリーしたのだ。

 とはいえ、他の11組は強敵ぞろいだ。ナイル川に咲くスイレンや稲わらなど1050 万トンの農業廃棄物を利用して、ギフトボックスやランプシェイドなどの高級な紙製品を作るエジプトの非営利企業や、パラグアイの先住民と企業が協力して熱帯雨林でハーブティーなどを育てる取り組み、ニューヨークのビルの屋上スペースで農業を行う取り組みが選ばれている。そのほか、「バイオガスエナジー~インド~」、「燃費の良いコンロ~ウガンダ~」、「電気ごみリサイクル~チリ~」、「ユキヒョウを守れ~モンゴル~」、「中古車リサイクル~イギリス~」などがある。予断は許さない。いつも大声のDさんは「番組のアピール効果は大きい。ぜひトップを狙いたい。そして能登に外国人がもっと来てほしい」と投票依頼に余念がない

 春蘭の里の世界への挑戦。地域のチャレンジは人々の輝きでもある。

⇒16日(日)朝・珠洲の天気  はれ

★「ミクロ」の輝き3

★「ミクロ」の輝き3

 去年5月のこと。映画監督を名乗る31歳の女性が珠洲市にある製塩施設「塩田村」を訪ねてきた。人と塩をテーマに映画をつくりたいという。聞けば、スポンサーとなる映画配給会社や広告代理店もない。地元の人は当初、疑心暗鬼だった。でも、近くの民家を間借りして、撮影が始まった。監督自ら炊き出しをしながら(地元からいただた魚や海藻で)、カメラや音声のスタッフとともに炎天下の塩づくりを熱心に撮影し続けた。

          「ひとにぎりの塩」が問う、現代人の忘れもの

 能登の製塩方法は「揚げ浜塩田」と呼ばれる。塩をつくる場合、瀬戸内海では潮の干満が大きいので、満潮時に広い塩田に海水を取り込み、引き潮になればその水門を閉めればいい。ところが、日本海は潮の干満が差がさほどないため、満潮とともに海水が自然に塩田に入ってくることはない。そこで、浜から塩田まですべて人力で海水を汲んで揚げる。揚げ浜というのは、人力が伴う。しかも野外での仕事なので、天気との見合いだ。監督のCさんが魅せられたのは、条件不利地ながら自然と向き合う人々の姿だった。

 今では動力ポンプで海水を揚げている製塩業者もいるが、かたくなに伝統の製法を守る塩士(しおじ、塩づくりに携わる人々)もいる。人がそれこそ手塩にかけてつくる塩、それは人が生きる上で不可欠にして量産には限度がある。これこそ人がつくり出すモノの「最高傑作」ではないのかと、Cさんは気づく。これを数百年間つくり続ける能登の人々。ひとにぎりの塩をつくるために、人はどのように空を眺め、海水を汲み、知恵を絞り汗して、火を燃やし続けるのか。現代人が忘れた、愚直で無欲でしたたかな労働とは何か、と問い続けた。

 さらにことし3月11日、東京で大地震に遭った。電気が止まり、バスや電車がストップした。都市基盤の弱さ。なすすべなく、黙々と歩くしかない人々。Cさんは思った。「脆(もろ)い」。現代文明は市場で約束されたことしかできない。売り買いが成立しなければ、生活すら危うい。それに比べ、能登で目にする人々の生活は売り買いの契約ではなく、「贈与」にあふれている。野菜を魚を、互いに裾分けして助け合う。似ているが物々交換とも異なる。強いていえば、無償の隣人愛なのかと。

 足かけ2年、つい先日、映画は完成した。ドキュメンタリー映画「ひとにぎりの塩」。私はまだ映画を観ていない。ただ、Cさんとの会話から、映画のストーリーを勝手に脳裏に浮かべている。映画には英語字幕もつける予定で、作品を世界に問う。ひょっとして、この映画、現代文明への大いなる問いかけにかるかもしれない。そして、日本人が「能登が日本にあってよかった」と感想を漏らすかもしれない。先行上映会が10月8日に珠洲市である。楽しみにしている。※写真は、「塩田村」のホームページから

⇒4日(火)朝・金沢の天気   はれ

☆「ミクロ」の輝き2

☆「ミクロ」の輝き2

 講演会のチラシなどで、ソーシャル・ビジネス(SB)という言葉を最近よく目にする。地域社会の問題をビジネスを通して解決していくという意味合いだ。では、過疎・高齢化が進む地域ではどのようなビジネスを新たに興せば、その地域が活性化していくのだろうか。これから示す例がSBに当たるかどうか分からない。が、お年寄りたちの目が輝き始めている。

      お年寄りの目を輝かせたい、能登の「サカキビジネス」 

 Bさん(28)は金沢市内の生花店に勤める男性だ。週2日ほど能登半島の北部、能登町で借りている家にやってくる。今年2月に発表された国勢調査の速報値でも、能登半島の北部、「奥能登」と呼ばれる2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)は軒並み5年前の調査に比べ、人口が10%減少している。高齢化率も35%を超え、人手が足りなくなった田畑の耕作放棄率も30%を超える地域だ。

 奥能登では、Bさんの仕事は「サカキビジネス」と呼ばれている。里山の集落を回って、サカキの出荷を呼びかけている=写真=。サカキは、古くから神事に用いられる植物であり、「榊」という漢字があてられる。家庭の神棚や仏壇に供えられ、月に2度ほど取り替える習わしがある。このサカキは金沢などでも庭先に植えている家庭が多い。種類は、ホンサカキとヒサカキの2種がある。

 Bさんのサカキビジネスをさらに詳しく見てみよう。能登では裏山にヒサカキが自生している。これを摘んで束ねて出荷してもらうのだ。サカキは摘みやすく、高齢者でも比較的楽な作業である。これを「山どり」と呼んでいる。さらに、Bさんは、計画出荷ができるようにと、耕作放棄地の田畑に挿し木で植えて栽培することを農家に勧めている。

 この能登産のサカキは、金沢市内では一束150円ほどで販売されている。実は、ス-パーなど市場に出回っているサカキの90%以上は中国産だ。「地元産のサカキに合掌したいというニーズもあるはず」と、Bさんは能登産に狙いをつけた。過疎や高齢化で進む耕作放棄地と、お年寄りの労働力があればビジネスは成立するのではないか、と。徐々に出荷するグループが増え、4、5人のお年寄り仲間で年間出荷額100万円を売り上げるところも出てきた。こんなグループが10できれば1000万円、100できれば1億円の売り上げになる。お年寄りにすれば「小遣い稼ぎ」ではあるが、点が面になったときに産地化する。

 山の葉っぱを集めて料理屋に卸す徳島県上勝町の「彩(いろどり)事業」は葉っぱビジネスとして知られる。上勝町が取り扱う、南天や紅葉の葉、柿の葉は320種類になる。この事業を支えているのはお年寄りだ。都会には季節感が薄く、料理屋からの葉っぱのニーズは高い。上勝町では町長らが音頭をとって支援している。能登産サカキも、最近になって農協(JA)がサカキ生産部会を組織して、集団で栽培に取り組むようになってきた。Bさんのまいたタネは広がっている。

 初対面はBさんが24歳のとき。話ぶりはぼくとつとして言葉も粗く、とても人前で話せるようなタイプではないと思っていた。ところが、最近ではパワーポントを使って説明会もこなしている。まだまだだが、確実に成長している。地域の活性化をしっかりと支えるのはカリスマではなく、むしろ若くぼくとつしたタイプなのかもしれない。

⇒2日(日)夜・金沢の天気  くもり

★「ミクロ」の輝き1

★「ミクロ」の輝き1

 市井でオーラを放ち、その生き方に共感する人々に影響を与え続ける人こそ本来の輝きと私は思っている。人の輝きを見つめないと、いつまでたってもトレンドやマーケットに踊らされるばかりだ。人の活動の本質が見えてこない。私が知る、狭い範囲でも輝いている人は何人もいる。肩書きがつく偉い人ではない、マーケットを左右するような人でもはない。おそらく歴史の中で埋もれゆく人たちである。ただ、いま輝く人とはこのような人たちだ。ローカルの話である。題して「ミクロ」の輝き。

          CO2排出の収支計算をして変わった炭焼き人生

 自分の職業が環境にどのような影響を与えているだろうか。たとえば二酸化炭素。これを空中や社会にまき散らし、「儲かった、儲かった」と喜んでいる人たちは多い。環境に謙虚な気持ちを持つ人々ならこれを疑問に考えるだろう。それに真剣に取り組んでいる人の話だ。

 能登半島の先端・珠洲市に在住するAさん(34)。日本でも数少ない炭焼きの専業者だ。「自分の仕事は、巷間で言われているように本当にカーボンオフセットなのか。違うのではないか」。木炭は、二酸化炭素を吸収した樹木を焼くので本来ならば二酸化炭素の排出はゼロである。ところが、炭焼きという仕事となると、木の切り出しにガソリン使用のをチェーンソーを使い、運搬や出荷にトラックを使用するのでトータルでは二酸化炭素を排出していることになる。Aさんは悩んだ。そして大学の門をたたいた。

 大学の教員とともに、ライフサイクルアセスメント(LCA=環境影響評価)の手法を用い、自らの2004-2009年にかけての製造、輸送、販売、使用、廃棄、再利用までの各段階における環境負荷をコツコツと帳簿をひっくり返しながら計算することになる。さらに、自らの炭焼きよるCO2の排出量と、植林や木炭の不燃焼利用によるCO2固定量を比較することで、炭焼きによるCO2削減効果の検証を行った。また環境ラベリング制度であるカーボンフットプリントを用いたCO2排出・固定量の可視化による、木炭の環境的な付加価値化の可能性をとことん探った。仕事の合間で2年かけ、2010年2月に二酸化炭素の排出量の収支計算をはじき出すことができた。

 その結論。彼の炭焼き工場の場合、不燃焼利用の製品割合が約2割を超えていれば、木炭の生産時に排出されるCO2量を相殺できるということを計算上で明らかにした。不燃焼利用とは、木炭を土壌改良剤や建築材として製品出荷すること。つまり、燃やさず固定するのである。彼はさらにカーボンマイナスへの可能性を探る。つまり、植林によって新たなCO2吸収源を拡大し、CO2 固定量を増やすのだ。このあたりから、Aさんの目は輝き始めた。自らの業(なりわい)に確信が生まれたのだ。

 彼は今、6000本を目標にクヌギの木の植林運動を進めている=写真=。クヌギの木は茶道用に使う「お茶炭」の材料となる。次なる目標は環境と経済の両立だ。付加価値の高い木炭を生産することで目標突破を目指す。彼の考えに賛同し、支援する人も増えてきた。来る11月6日(日)のクヌギの木の植林活動には手弁当で150人もの人たちが珠洲の山中に集まる。金沢や東京からも。

⇒29日(木)夜・金沢の天気  あめ

☆この「マクロ」の暗さよ

☆この「マクロ」の暗さよ

 なぜイギリスはEUに加盟していながら、通貨はユーロ圏に入らないのか、不思議だったが、いまにして思えば、ぼんやりとながら輪郭が描ける。経済はドミノ倒しのリスクがあるからだ。私自身、マクロ経済に関心があるわけでも、造詣が深いわけでもないが、こうも連日のようにギリシャの財政危機などが新聞などで報道されるとつい見入ってしまう。

 ギリシャ国債のデフォルト(債務不履行)が不可避の状況となってきたようだ。1年物国債の利回りは一時117%と急上昇した。つまり、1年で元本が倍になる金利を付けても購入されないということなのだ。同じユーロ圏の支援国のドイツとフランスは、ギリシャ救済に自国の税金が使われることに対する世論の反発が強いことを恐れ、思い切った打開策を打てないでいる。もちろん、ギリシアがデフォルトに陥れば、ギリシャの国債を有するヨーロッパの金融機関は巨額の損失が発生し、金融危機へと連鎖するだろう。そうなれば、同じく膨大な債務を抱えるイタリアやスペインの国債破綻へとドミノ倒しとなる。ちょうど3年前の9月に起きたアメリカ発のリーマン・ショックの欧州版となる。

 だからといって、イギリスのポンドがユーロ圏のドミノ倒しから逃れ、安定していのかと言えばそうでもなさそうだ。金利を上げ下げしながら、イギリス製品の輸出を刺激するためにポンド安をなんとか誘導している。要は、綱渡りの上手な国なのだ。もちろん、イギリス連邦(54ヵ国加盟)の宗主国としての通貨のプライドもあろう。
 
 では、アメリカはどうか。「政府が中心になって景気回復を」というオバマプランで膨大な出費をして経済対策を打ってきたが、手詰まりの状態に。そして、つい先日(19日)、今後10年間で3兆ドル(日本円にして230兆円)の財政赤字を削減する方針を示した。驚きだったのは、半分に当たる1兆5千億ドルを富裕層や石油会社などに対する増税による歳入の増加で賄い、さらにイラクやアフガニスタンからのアメリカ軍撤退によって軍事費を1兆1千億ドル削減するというのだ。結局のところ、これまでの、「ばらまき」で経済を刺激しても景気が回復する兆しは見えない。そこで、増税と軍事費の削減で財政の立て直しをやると宣言したようだ。ただ、大規模な増税を実施すれば、経済成長は望めず、財政赤字の削減にはつながらないというのは本来の見方なのだが。

 私見だが、アメリカにしてもヨーロッパにしても、政治家に悲壮感が漂っていて、気が気ではない。オバマにいたっては、最近言葉に張りすらなくなっているようにも思える。かつてのクリントンのように明るくなれないのだろうか。アメリカの魅力を世界に伝えれば、世界中からお金を集めることは可能だろう。たとえば、当時のアル・ゴア副大統領が情報スーパー・ハイウェイ構想をブチ上げた。だから新しい時代のアメリカに期待して金が集まった。ところが、「国が大変だ」と叫んで、ゼロ金利にしてお金をばらまくから逆にお金が逃げいていった。そんな感じだ。

 もちろん、日本も同じだ。失われた20年で経済はデフレに陥っている。金利を上げれば、お金は国債から離れるので、国はじっとしている。座して死を待つようなものだ。そして、「増税」の新聞見出しが日増しに大きくなっている。出口が見えないから国民は憂うつだ。マクロの視点から見た世界と未来はかくも暗い。それに比べ、「それはそれでええじゃないか」と個人の頑張りで輝いているミクロの動きが面白い。次回からそんな特集をつづってみたい。

⇒22日(木)午後・金沢の天気   あめ

★佐渡とグアムの島旅5

★佐渡とグアムの島旅5

 水質調査をした訳ではないが、ジャングルの豊富な栄養分をタロフォフォ川が湾に注ぎ、川だけではなく、外洋の植物プロンクトンの増殖に影響を与えているのではないか。ガイド役のジョンは、川の流れが注ぐタロフォフォ湾には多くの魚が生息していて、「ちょっと深いところにはイルカもいる」と話した。湾は海の水と川の水が混じる汽水域(きすいいき)と呼ばれる。畠山重篤氏は著書『鉄は魔法つかい』の中で「川の水が注ぐ海、汽水域は、フルボ酸鉄が注ぎこむので海藻と魚介類が育ち、人間と生き物たちが交錯するところです」((P.190)と述べている。察するに、タロフォフォ湾やその周辺、さらにグラム島は古代より格好の漁場なのかもしれない。

            ~ 海の民・古代チャモロ人の姿をほうふつと ~

 グアム政府観光局のホームページは、グラムの豊かな海について紹介している。「海中を彩っているのは、魚達だけではありません。様々な形で海中に素晴らしい造型美を見せてくれるサンゴはもちろん、赤や黄色、白など、豊かな色彩で海中の花園を造っている、イソバナやウミンダ、妖しい美しさのイソギンチャクも。現在、グアムの海には約300種類のサンゴと、50種類におよぶソフトコーラル類が生息しています」と。

 では、「川は海の母」と語るチャモロ人は海とどうかかわってきたのだろうか。『Island Time(アイランド タイム)vol.17』というグアム情報誌に、「スピアフィッシング 先祖の暮らしを支えた海に今、再び潜る」という特集があり、そこにはチャモロ人の漁労の歴史が詳しく述べられている。かいつまんで紹介する。古代チャモロ人の生活は海からの恵みによって支えられていた。人々は海に潜ってモリ=チャモロ語でフィスガ=で魚を捕まえ、暮らしの糧としていた。モリの刃には動物の骨が使われていたが、1600年代にスペイン人がグアムに金属を持ち込み、金属製の刃が使われるようになって、モリで魚を仕留める技術は格段に進歩した。漁場では、ココナッツの葉などを燃やし、その灯りで魚をおびき寄せるスロという呼ばれる漁法も用いていた。チャモロ人は、必要以上には捕獲せず、その日の食べる分だけ捕獲し、食べ物を分け合うという精神を育んだ。先のグアム政府観光局のホームページでも、「グアムの漁師は、今でも古代チャモロ人が編み出した方法(投げ縄)で漁を行っています」と。伝統は脈々と受け継がれている。

 グアム国際空港で、古代チャモロ人の漁労のいでたちを描いたポスター=写真・右=が貼ってある。右手にフィスガを持ち、まるで戦士のような勇壮な姿である。ちなみCHAIFIとは「友達になる」というチャロモ語らしい。そして、タモン湾地区のマクドナルドの店では、古代チャモロ人のイルカ漁を描いた絵画=写真・左=が掛けてあった。丸木舟でイルカを追いかけ、若者が潜ってイルカを捕まえる。想像画ではあるが、海洋の民・チャモロ人の姿をほうふつさせる。
 
 グアムの旅の最終日(19日)、ホテル近くの水族館を見学した。海底を再現した巨大な水槽の下を歩く。その名も「トンネル水族館 アンダーウォーターワールド」。100㍍の「海底トンネル」からは、パンフによると「100種類4000匹」の魚が観察でき、中にはハタ、ウミガメ、サメ、エイなど大型の海洋生物なども見ることができる。立ち止まってよく見ると、海に沈んだ旧日本軍の戦闘機や沈没船とおぼしき残骸=写真=もあり、鑑賞する人によっては痛々しく感じるだろう。が、それらは魚たちの魚礁にもなっていて、複雑な思いだ。

 15日の佐渡の天然杉の見学から始まって、19日のトンネル水族館まで、5日間の島旅は山と海の生態系、そして人の関わりを考えるよいテーマに恵まれた。

⇒20日(火)朝・金沢の天気 あめ

☆佐渡とグアムの島旅4

☆佐渡とグアムの島旅4

 グアム島の地図を眺めていると、ぽってりとした芋虫の這う姿に似ている。その西側はフィリピン海、東側は太平洋である。ホテルがあるタモン湾はフィリピン海に面している。18日午後から島の南、太平洋側に注ぐタロフォフォ川をさかのぼるリバー・クルーズのツアーに参加した。ここで思いがけず「グアムの森は海の恋人」を目の当たりにすることになった。

         ~ 「母なる川」と呼ばれるタロフォフォ川 ~

  クルーズのガイドはジョンとマンティギという先住民チャモロ人の血を引く男性2人だ。クルーズはジャングルの中を縫うように流れるタロフォフォ川をさかのぼり、途中、川沿いの古代チャモロ村落跡を訪ね、ラッテ・ストーン(建造物の土台)などの遺跡を見学するほか、ハイビスカスの乾木を使った伝統的な火おこしやヤシの葉編みのアトラクションを見学するという4時間ほどのツアーだ。

  川の流れはタロフォフォ湾に注ぐ、グアムでも比較的な大きな川だ。上流へとさかのぼるにつれ、うっそうとしたジャングルの樹木の枝が川面に垂れ、遊覧船はそれを押しのけるようにして進む。ジョンが「この川にはワニはいないけど、大きなマナズがいるんだ。あそこにうようよいる」と流ちょうな日本語で指をさした。そしてあらかじめ用意してあったパンをちぎって川面に投げると70~80㌢はあるナマズやサヨリに似た小魚の群れがワッと集まり=写真=、辺りが黒くなるほどだ。ブラックバスやウナギなどもこの川には豊富にいる、という。

  ジョンが「ヨコイはこの川の上流で28年間も自給自足の生活をしていたんだ。彼が発見されて、この川のナマズの焼いたのがうまかったと言っていたらしい」と解説した。クルーズに参加した10人のほとんどは若いカップルや家族で、おそらく若い世代にはヨコイは何者か理解できなかったはずだ。横井庄一(1915‐1997年)、元日本兵。終戦後も配属先のグアムに潜み、1972年にタラフォフォ川でエビを採っていたところを現地の猟師に見つかった。彼はグアムでは英雄だ。28年間も完全自給自足、究極のサバイバルに挑んだ男として。横井が暮らした穴居は「Yokoi Caves」として観光マップにも掲載されている。

  興味を持ったのは、ヨコイも漁をしたタロフォフォ川だ。この川の水はうす茶色だ。ジョンとマンティギに「上流で工事をしているか」と尋ねたところ、「昔からこんな色の川だ」との返事だった。そこで思い出したのが畠山重篤氏の『鉄は魔法つかい』の中で北海道・襟裳岬の「はげ山復旧事業」を紹介した下りだ。「うす茶の色は、まちがいなくフルボ酸鉄の色です。復活した森の中で生まれたフルボ酸鉄が、ゆっくり地下に浸透し、水路から海に流れ出しているのです。森の土は、粒子が細かく赤茶けていて、鉄分が多そうでした」(P.177)。川の水が茶色に濁っているのは、フルボ酸鉄(腐葉土にある鉄イオンがフルボ酸と結合した物質)を多く含むからだ。そしてフルボ酸鉄は、植物プランクトンや海藻の生育に欠かせない。この川にナマズやウナギ、エビなどの魚介類が多く見られるのは本来の豊かな川なのだと気がついた。そして切り立った川べりの土を見ると鉄分を多く含む赤土だった。

  そこでジョンとマンティギに聞いた。「この川は海にも恵みをもたらしているのではないか」と。するとジョンは「そうだ。チャモロ人は昔から母なる川と呼んでいるよ」と。グアムでは、「森は海の恋人」ではなく「川は海の母」なのだ。

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