☆GIAHS国際会議の視座‐1

☆GIAHS国際会議の視座‐1

  国連食糧農業機関(FAO)が出しているペーパーは「International Forum on Globally Important Agricultural Heritage Systems (GIAHS)」。直訳すれば、「世界重要農業遺産システム(GIAHS)国際フォーラム」となるが、日本では「世界農業遺産国際会議」となる。来週5月29日から31日まで石川県七尾市の和倉温泉で開催される。2011年6月、FAOから、能登半島の「能登の里山里海」と佐渡市の「トキと共生する佐渡の里山」が同時にGIAHSに認定されて丸2年、様々な動きが始まっている。認定以来の最大の動きが今回の国際フォーラムの能登誘致なのだろうか。シリーズで今回の国際フォーラムのこれまでに動き、そして今後の展開を見つめてみたい。

          GIAHSへの流れをトップセールスから読み解く

  ローマのFAO本部にジョゼ・グラジアノ・ダ・シルバ事務局長を、石川県の谷本正憲知事が訪ねたのは昨年2012年5月23日だった。このときの会談で、谷本知事は次回2013年のGIAHS国際会議フォーラムを石川県で開催したい旨を提案した。これに対し、グラジアノ・ダ・シルバ事務局長は、この知事提案を歓迎する旨を表明した。このニュースは知事に同行した石川県の地元紙が翌日一面で伝えた。

  紙面を見て意外だったことがある。私は2011年6月の北京開催のGIAHS国際フォーラムに出席した。そのとき、パルビス・クーハフカンGIAHS事務局長は閉会式で、「次回はカリフォルニアで開催を予定している」と述べていた。カリフォルニアワインの代名詞となっているナパ・バレーは、高級ワインの産地として知られると同時に有機栽培のブドウ園が多くある。パルビス氏は講演などで、ナパ・バレーのことを引き合いに出して、「農業と生物多様性が共存するアメリカの現代の里山」と高く評価している。「The farmer gets his reward, not only he produces good things but also he maintains the ecology and biodiversity. You can call this an American modern Satoyama.」(2013年2月19日)

  上記のようなパルビス氏の思い入れもあり、てっきり2013年のGIAHS国際フォーラムはカリフォルニア開催と思っていた関係者も多かったと思う。逆に言えば、谷本知事のトップセールスが熱心だったのだろう。国際会議を誘致する知事のトップセールスの腕前はこれだけではない。2008年5月24日、ドイツのボンで開催中だった生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)の現地事務局に条約事務局長のアフメド・ジョグラフ氏を知事は訪ねた。このときすでに、2010年のCOP10の名古屋開催が内定していたので、「2010国際生物多様性年」のオープニングイベントなど関連会議を「ぜひ石川に」と売り込んだのだ=写真・上=。このとき、国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットのあん・まくどなるど所長(当時)が通訳にあたり、「石川、能登半島にはすばらしいSatoyamaとSatoumiがある。一度見に来てほしい」と力説した。27日にはCOP9に訪れた環境省の黒田大三郎審議官(当時)にCOP10関連会議の誘致を根回した。

  ジョグラフ氏は実際に石川、能登を訪れた。知事のトップセールスから4ヵ月後の2008年9月15‐17日の旅程だった。名古屋市で開催された第16回アジア太平洋環境会議(通称「エコアジア」、9月13日・14日)に出席した後、金沢に入り、16日と17日に能登半島の里山里海を見学した。能登町九十九湾の旅館に泊まったジョグラフ氏は17日の早朝、一人で奇岩や絶壁のある湾の名所を散策した。その後、国際生物多様性年のオープニングイベントはベルリン、そしてクロージングイベントは金沢開催(12月18、19日)と決まった。知事のトップセールスは実を結んだのである。

  金沢で開催された国際生物多様性年のクロージングイベントは翌年の「2011国際森林年」にちなんだ式典でもあった=写真・下=。印象的だったのは、各国の大使クラスの参加者が参加した兼六園への散歩コース。雪つりを終えていた兼六園の樹木を眺めながら、海外からの来賓たちが「木の保護の仕方が独特。300年以上生きている木があることは驚き。これこそ日本の遺産だ」と絶賛していた。

  実は、12月19日の国際生物多様性年クロージングイベントの記念シンポジウム(県立音楽堂)で「次の一手」を谷本知事を打ち上げる。「生物多様性の保全に向けたいしかわの挑戦」と題して、石川県が取り組む里山・里海の保全政策のプレゼンテーションを行った中で、過疎高齢化で里山が危機にあり、持続可能な形で利用保全していくことが大事」と述べ、「能登の里山里海が、国連食糧農業機関の農業版世界遺産に立候補した」と明らかにした。ちょうど2日前の17日、能登半島の8つの自治体でつくるGIAHS推進協議会が申請書をFAO日本事務所(横浜市)に提出した。FAOへの申請は県が主導したわけでもなかったが、知事をその動きを察知して、代弁したカタチで公表したのである。当時、国内で初めての申請であり、GIAHSの認知度はないに等しかった。GIAHSは「農業版世界遺産」と当時言われていた。

⇒23日(木)朝・金沢の天気  はれ

★道央走春‐追記‐

★道央走春‐追記‐

  北海道旅行の4日目(5月6日)は札幌を巡った。朝は気温が5度と低く、吐く息が白い。市内全体がガスがかかった感じで、テレビ塔(147.2㍍)=写真・上=もかすんで見える。オホーツク海に停滞している低気圧の影響で上空に寒気が流れ込んでいるためらしい。午前中のニュースでは、北海道の東部が雪に見舞われ、帯広では積雪3㌢となり、5月としては2008年以来の積雪を観測した、と。3日に新千歳空港に到着してからずっと春冷えで、まるで冬を追いかけてきたようだ。

       ビールの歴史、ワインのメッセージ、北の酔い

  けさの地元紙、北海道新聞の一面トップは「検証4・2日ロ首脳会談 譲歩か見せ球か 大統領が過去の領土解決例」との特集だ。安倍総理がプーチン大統領を訪問したとき、領土問題の解決にプーチンが力を注いできたことに水を向けたときの様子が述べられている。以下、記事を引用する。

  「プーチンはとうとうと語り始めた。中国とアムール川などの中州にある島の面積をほぼ2等分したこと。ノルウェーとも大陸棚の海域をほぼ2等分したこと…。『難しかった。だけど最後はフィフティ・フィフティ(50対50)で解決したんだ』」、「(昼食会で)プーチンは突然、1855年産のワインを手に立ち上がり、『下田条約(日露通好条約)が結ばれた年だ』と、安倍に振る舞った」(敬称略)

  上記のプーチンの言動を分析して、日本へ譲歩を示すシグナルか、見せ球かと北海道新聞はさらに言及する。北方領土問題で歯舞と色丹の2島の日本への引き渡しを明記した1956年の「日ソ共同宣言」の有効性を確認した「イルクーツク声明」(2001年、森喜朗総理とプーチン大統領が署名)の具体的な言及をプーチン大統領は避けたが、それでも、別れ際に「日本のことが好きだ。行くのを楽しみにしている」と安倍総理にささやいたとのエピソードを掲載している。探り合いながらも、両国が前向きの姿勢で領土問題の解決に可能性を見出している、との新聞を読んでの印象だ。それにしても、1855年産のワインはロシアからの相当前向きなメッセージではないだろうか。

  昼食を取りにサッポロビール園=写真・下=を訪れた。博物館では、北海道でビール作りが始まったエピソードが紹介されている。明治5年(1872)に北海道開拓使が招いた「お雇い外国人」の一人、トーマス・アンチセルが岩内で野生のホップを発見する。これがきっけで試験栽培が始まった。開拓使の幹部たちは東京での醸造所を計画するが、醸造には氷が不可欠と現地での醸造を主張する現場の課長たちが巻き返す。東京での着工が迫った明治9年(1876)に開拓使のトップだった黒田清隆が最終的に北海道での醸造所建設を決断する、というストーリーだ。そのとき、元薩摩藩士だった黒田は西郷隆盛らとにらみ合っており、明治10年(1877年)に西南戦争が起きると、黒田は鹿児島に赴く。激動する明治の歴史の中でささやかに北海道でビールは誕生したのである。

  北海道の旅ではビールもワインも十分に堪能した。この日は新千歳空港を18時00分発の便で羽田空港へ。乗り継ぎで小松空港へ。北陸に戻ったのは21時過ぎだった。

⇒6日(月)夜・金沢の天気    はれ 

☆道央走春-下-

☆道央走春-下-

  小樽に着いて2日目、小樽がかつて商業の都として栄えた理由を知りたい思い、その手がかりとして、小樽市内にある2つの国指定重要文化財を巡った。1つが、同市色内3丁目の旧・日本郵船小樽支店、もう一つが、同市手宮1丁目の旧・手宮鉄道施設だ。

          小樽の2つの文化財から見えること

  小樽は、江戸時代の北方探検家の近藤重蔵が「 エゾ地西海岸第一の良港 」と称した天然の良港だった。北海道の西海岸を北上するニシンを追って、松前、江差方面から人が集まり始めたのは江戸期の後半だった。ここが商都として注目をされたのは、明治13年(1880)に開通した幌内鉄道(手宮-札幌間36㌔)によってだ。石狩・空知地方からの石炭積み出しや、北海道開拓に必要な生活物資と生産資材の道内各地への輸送など海陸交通の接点としての小樽の位置づけがあった。この鉄道は、新橋−横浜間、神戸−大阪間に継ぐ、日本では3番目の本格的な鉄道だった。

  こうした北海道の海陸の接点が重視され、金融や輸送の関連企業が続々と小樽に集まってくることになる。もう一つの国指定重要文化財である旧・日本郵船小樽支店=写真=は、日露戦争直後の明治39年(1906)に完成した。石造2階建て、ルネッサンス様式の重厚な建築だ。この建物が注目されたのは、日露戦争の勝利だ。明治38年(1905)9月5日締結のポーツマス条約で樺太の南半分が日本の領土となり、翌年明治39年の11月13日、その条約に基づく国境画定会議が日本郵船小樽支店の2階会議室で開かれたのである。このとき、ロシア側の交渉団の委員長が宴席のスピーチで「北海道は日本の新天地なり」と褒めちぎったといわれる。すなわち、北海道内の物流の結節点だけでなく、大陸貿易の窓口としての機能に期待が膨らんだのである。

  明治初期に石炭の積み出し港として開け、さらに大正から昭和初期にかけて大陸貿易の窓口として小樽は繁栄することになる。小樽運河も、その時期の繁栄の産物だ。小樽には移住も増え、大正9年(1920)の人口比較で、小樽10万8千人で札幌より5千人余り多かったほど(「統計で見るわが街おたる」など参照)。小樽の土産で有名なのガラス工芸は、たとえば明治時代から作られてきた石油ランプや漁網用の浮き球にルーツがあり、1970年代に入ってランプを装飾品として購入する観光客に注目され、光が当たった。

  ここでふと考えた。敗戦、そして戦後の東西冷戦で商都としての小樽は色あせた。4月29日、ロシアを訪問した安倍総理とプーチン大統領は焦点の北方領土問題について「交渉を加速化させる」とし、平和条約交渉を再開させ、また安全保障協議委員会を設置することなども盛り込んだ共同声明を発表した。日本とロシア双方が本気で日本との領土問題を決着させ、日露平和条約を結ぶプロセスが見えてくれば、イルクーツクやハバロフスクなど極東ロシアの経済開発の機運が一気に浮上する。日本海側に面し、札幌とも近い距離にある小樽のポジションを考えれば、歴史の中で再度脚光をあびるときがくるのではないか。「北海道は日本の新天地なり」再びである。

⇒5日(日)夜・札幌の天気   あめ

★道央走春-中-

★道央走春-中-

  道央自動車道を走り、登別から小樽に着いた(4日)。予約しておいた小樽運河沿いのホテルにレンタカーを停め、周辺を散策した=写真・上=。2007年8月にも家族で小樽に来ているので、5年9ヵ月ぶりになる。で、小樽はどうのように変わったのか印象を述べてみたい。

      どこか似てきた小樽と湯布院の街並み

  その前に小樽の成り立ちをたどってみる。大正12年(1923年)に完成した小樽運河は、かつて「北のウォール街」と呼ばれたこの地に莫大な富をもたらした。日本銀行のほか、大手銀行が支店を出し、総合商社も軒を連ねた。戦後、物流の機能を失った。保存論議の末に昭和58年(1983年)から埋め立て工事がスタートし、運河は幅が半分になり、道路ができた。小樽の観光戦略は旧銀行や倉庫、商家の建物が中心だ。街全体が「レトロな観光土産市場」という感じだ。ガラス細工、オルゴール、カニ、寿司、チョコレート…、オール北海道という感じは変わらない。ただ、一部はブランド化して新しい提案型のショップへと変貌しているものもある。街をそぞろ歩きしていると、中国語の会話をしながらワイワイと歩くグループとよく会う。海外からも観光客を呼び込む戦略も成功しているのだろう。

  個人的な印象を少々辛口で言えば、「小樽も湯布院も同じ」である。小樽観光のメインである静屋(しずや)通りが俗っぽい。観光客向けの全国どこの観光地にもある、雑貨店やギャラリー、カフェなど若者、女性向けのものが多く、個性のない店が多い。人力車も走り回っていた=写真・中=。これは昨年10月に訪ねた湯布院でも見た光景だ。さらに、小樽は寿司を売りにして、あちこちに寿司店がありにぎわっている。ただ、小樽の寿司の売りがなんだか理解できない。きょう入った寿司店で、メニューに目を凝らしたのだが、「運河にぎり」などとメニューにはそれらしいことは書いてあるが。結局のところ、マグロ、ウニ、イクラ、イカ、エビではないか。おそらく、ネタは新鮮で魚介類が豊富なことは間違いないだろう。だとすれば、北海道どこでも味わえるのではないか。その土地で磨かれた文化としての食はどこのあるのだろうか。

  ところで、奇妙な光景、小樽らしいといえば小樽らしい光景がある。ギリシャ建築様式の昭和初期の典型的な銀行建築。内部は銀行らしい回廊付きの吹き抜け。かつての財閥、旧安田銀行小樽支店(1930年に建築)だ。戦後、富士銀行が継承した後に地元の経済新聞社の社屋として使われた。それが今、和食レストランチェーンの店舗となっている=写真・下=。化粧室が金庫室内にある。小樽市の歴史的建造物に指定されているこの建物。金融の歴史遺産とロマン、今風の居酒屋、港町の潮の香りと魚臭さが混じり合って、何か今の小樽の姿を映すシンポリックな存在に思える。店自体は客待ちが出るほどにぎわっていた。

⇒4日(土)午後・北海道小樽の天気     あめ

☆道央走春-上-

☆道央走春-上-

  ゴールデンウイークを利用して、家族で北海道旅行を楽しんでいる。今朝(3日)小松空港を8時45分発のフライトで新千歳空港へ。佐渡上空を通過する日本海ルートで、1時間35分の空の旅だ。千歳空港に到着し外に出て、思わず「寒い」と口にした。北海道は1年4ヵ月ぶりだったが、前回も同じ言葉を口にしたのを思い出した。

          登別温泉から見えるアジアの観光地・北海道

  昨年1月11日から16日にフィリピン・ルソン島のイフガオ棚田(1995年世界遺産、2005年世界農業遺産)を調査研究に訪れ、気温が30度余りの中をあちこち歩き、帰国後に北陸の寒さに少々体調を崩した。そして、9日後の25日に北海道の帯広市をシンポジウム参加のため訪れた。この日の帯広の最低気温はマイナス20度だった。フィリピンと帯広の気温差は50度。これが決定的となったのか、熱が出るやら咳き込むやらで体長不良に陥った。季節は春とは言え、今回の寒さは、地元紙の北海道新聞にも「札幌 21年ぶり5月の雪観測」(3日付)と1面の見出しで、2日夜に札幌でみぞれが降り、積雪(1㌢未満)を観測した、季節外れの戻り寒波を記していた。タマネギやジャガイモを作付する道内の農家が「寒い春」の影響で低温と日照不足を案じる声も記事にされていた。

  今回の3泊4日の北海道旅行はレンタカーで移動する。千歳空港のカウンターで予約していたレンタカーの手続きを取り、マイクロバスで「モータープール」に車を受け取りに行った。そのマイクロバスの車中でのこと。家族連れのグループの小学校低学年とおぼしき女の子が母親に尋ねている。「あの看板の人は誰なの、北朝鮮の人なの」と近いづいてきたレンタカー会社の屋上看板を女の子が指差しているのである。私も「北朝鮮」の言葉がはっきりと聞こえたので、不可解に思って指差す方向をつい見てしまった。

  確かに、このところニュースで頻繁に出てくる北朝鮮関連のニュース映像に出てくる英雄の像のポーズとよく似た人物像が写真の看板が掲げられている。その人物像はひげを蓄え、コートを羽織って、右腕を上げて革命を指導している姿にも見える。ただ、女の子が「誰なの」と母親や家族に問うているのに、しばらくは沈黙が続いた。私自身もその看板を見ただけでは分からなかった。すると、その家族の後部座席にいたシアニ世代の男性がその様子を見かねたように、「あれはクラーク博士ですよ」と教えてくれた。すると、女の子の父親が「そうか」と文字通り膝を打って、男性にお礼を言い、女の子に言い含めるように「あの人は、少年よ大志を抱け…」などと説明を始めたのだ。しかし、あの英雄的なポーズから人物名を言い当てる日本人はどれほどいるだろうか。ただ、看板になるくらいだから、当地の人にとっては見慣れたポーズなのだろう。

  レンターカーを受け取り、道央自動車道を今夜の宿泊地である登別に車を走らせた。道路の路のサイドがずっと黄色になっていた。春の季語で「竹の秋」がある。モウソウチクなど竹類の葉が5月から6月に黄葉して落葉する時節を指す。道路から見えるイエローベルトは竹ではなく笹、おそらくクマザサ。季節の移ろいを感じさせる光景だ。

  登別温泉に到着して。さっそく地獄谷を見学に行った。硫黄のにおいが立ち込め、いまも水蒸気を噴き上げている。「地熱注意」の看板も目につく。下に降りると、薬師如来の御堂がある。看板が書きに江戸時代に南部藩が火薬の原料となる硫黄を採取した、とある。そしてところどころに、閻魔大王の像やら漫画風のキャラクターが温泉街を彩っている。そして、楽しそうに写真を撮影しているグループの中には中国語が飛び交っている。

  昼食を食べようと入った店が「地獄ラーメン」を売りにするラーメン店だった。満員状態だ。我々の後に入ってきたカップルは中国語だった。間もなく店員が近づいて注文を取りにきた。地獄ラーメンを注文した。横のカップルに店員が「Where you come from ?」と声をかけ、「Taiwan」と聞くと、さっと中国語の閻魔帳(メニュー表)を持ってきた。そして、メニュー番号を尋ね、チャーシュー麺をカウンターの料理人に告げた。その一連のやり取りがスムーズなのに驚いた。相当慣れているとの印象だ。北海道は中国、韓国からの旅行者に人気が高い。アジアの観光地としての北海道、そんな心象をここ登別温泉で得た。

⇒3日(金)午後・北海道登別の天気  くもり時々あめ

★春の霰(あられ)

★春の霰(あられ)

  昨日から金沢では時折、雷が鳴り、荒れ模様の天気となった。そしてきょう27日は先ほど7時50分ごろに激しく「あられ」が降った。数分間だったが叩きつけるような激しい降りだった。金沢地方気象台の気象予報では、きょう27日は、上空に強い寒気を伴う気圧の谷が本州付近を通過するため、石川県では昼前まで雨や雷雨となる所がある、と。

  ゲリラ的な雷雨だったのだろうか、霰(あられ)が降ってきたので、カメラを持って、外に飛び出した。その一枚の写真である。自宅の敷地が一瞬白く覆われた=写真=。まもなく天気が回復して消えた。

  春のあられは何も珍しいことではない。俳句の季語にも登場する。「春の霰(あられ)」のほか、「春の霜(しも)」「春の霙(みぞれ)」など。ただ、不思議なことに、この時期に降るあられは粒が大きく感じる。そして、やっかいなのは木の芽や若葉を傷めることである。先日、モクレン科の受咲大山蓮華(ウケザキオオヤマレンゲ)とバラ科の利休梅(リキュウバイ)の幼木を植えたばかり。木の芽が出ていたので、芽が育つかどうか気がかりになってきた。

⇒27日(土)朝・金沢の天気  雷雨

☆海女、美のフォルム

☆海女、美のフォルム

  「海女さん」が注目されている。今月から始まった、NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」は初回視聴率20.1%(ビデオリサーチ・関東地区)で、2006年の「芋たこなんきん」以来の20%超だそうだ。ドラマの舞台は三陸地方の海女の町で、ヒロイン天野アキ(能年玲奈)が海女をめざし、地元のアイドルになって町を元気にしていくという単純なストーリーなのだが、明るくほのぼのとしている。連続テレビ小説と言えば、1週間の間に起承転結があって、暗い場面があるが、その点、この「あまちゃん」は楽しく明るいのだ。

  朝日新聞の書評欄に『海女(あま)のいる風景』(大崎映晋著・自由国民社)=写真=を見つけ、本を書店に注文した。大正9年(1934)生まれで、水中撮影家でもある著者は昭和30年代から全国の海女村に取材に出向き、特に石川県輪島市の舳倉島(へぐらじま)に通い、当時は普通だった裸海女の仕事ぶりを撮影した。その写真が多数収録されているというので、価値があると思い、注文した。当時の裸海女の写真はモノクロではいくつか本がある。ただ、カラー写真はお目にかかったことがない。届いた本の写真は予想通りカラーだった。水中を潜る裸海女の写真は、まるで人魚のような美しさである。それはまったく無駄のない、潜水技術の洗練されたフォルムなのである。素潜りで数分のうちに、岩にへばりついたアワビを見つけ、剥ぎ取るのである。採取ではない、海底でへばりついたアワビと格闘する、まさに自らの命をかけた狩猟なのである。英語での表記は female shell diver だ。

  自分自身も新聞記者時代に舳倉の海女さんたちをルポールタージュ形式で取材した。1983年ごろ、今から30年も前の話になる。いまでも、輪島市では200人余りがいる。もうそのころは『海女(あま)のいる風景』で紹介されているような裸海女ではない。ウエットスーツを着用していた。もちろん素潜りである。そのころ、18㍍の水深を潜ってアワビ漁をしていた海女さんたちがいた。このように深く潜る海女さんたちは「ジョウアマ」あるいは「オオアマ」と呼ばれていた。重りを身に付けているので、これだけ深く潜ると自力で浮上できない。そこで、夫が船上で、命綱からクイクイと引きの合図があるのを待って、妻でもある海女を引き上げるのだ。こうして夫婦2人でアワビ漁をすることを「夫婦船(めおとぶね)」と今でも呼ばれている。

  海女さんから一つ、怖い話を聞いたことがある。アワビが大好物なのは人間だけではない。ウミガメも大好きなのだ。海女さんが採ったアワビをめがけてウミガメが食らいついてくることがある。そんなときは、アワビを捨てて逃げるのだそうだ。アワビが分厚い殻で岩にへばりつくのも、大敵ウミガメから身を守ることだったのだとこのとき知った。

  海女さんという生業(なりわい)は注目されている。2010年6月、「輪島海女採りあわび」「輪島海女採りさざえ」が商標登録された。アワビとサザエの商標登録は国内で初めてだそうで、ブランド化するまでになった。また、ことし10月に輪島市で、全国各地の海女さんたちが集う「海女サミット」が開催されると報じられている。海女の伝統漁法と文化を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産登録を目指している。

  私が知る海女さんたちは実に気高く、人に媚びようとしない。素潜りにより自然と向き合い、共生しながら漁をする海女さんたちの生き様、その知恵がもっと見直されていい。

⇒25日(木)夜・金沢に天気   はれ

★「里山海道」への道~下

★「里山海道」への道~下

   石川県の谷本知事のトップセールが奏功し、国連国際生物多様性年だった2010年のクロージングのイベント(生物多様性条約事務局、日本政府主催)が12月18、19日の両日、石川県で開催された。この国際生物多様性年のキックオフイベントは1月11日にベルリンで、10月18-29日の生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)は名古屋市で開催された。石川でのクロージングイベントは締め括りであり、2011年の国際森林年への橋渡しのイベントでもあった=写真・上=。COP10では「SATOYAMAイニシアティブ」が採択され、里山が国際用語として認知された。そして、能登半島がSATOYAMAのエクスカーション(視察旅行)の公認コースになった。

   クロージングイベントの表舞台では、国際イベントが打ち上げられる一方、能登の里山をめぐる別の動きが舞台裏で進行していた。12月17日の締め切りを目指して、農林水産省北陸農政局、石川県庁、能登の8市町の行政マンたちが、国連食糧農業機関(FAO、本部ローマ)に提出する申請書類の準備に追われていた。世界農業遺産(GIAHS=Globally Important Agricultural Heritage Systems)の申請書類である。申請名は「Noto’s Satoyama and Satoumi(能登の里山里海)」。

   GIAHS(ジアス)という言葉を私自身が初めて耳にしたのは2010年6月だった。国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットのあん・まくどなるど所長が案内役となって、FAOのパルビス・クーハフカンGIAHS事務局長が能登を視察に訪れた。金沢大学の「能登里山マイスター」養成プログラムの取り組みを案内してほしいと依頼があり、里山と里海の景観が広がる金沢大学能登学舎(珠洲市)や輪島市金蔵(かなくら)地区を回り、古いたたずまいの農家レストランで昼食をご相伴させていただいた。パルビス氏は里山マイスターの授業で取り組んでいる水田での生物多様性実習について説明を受け、能登の田んぼで採集され昆虫の標本を食い入るように見ていたのが印象的だった=写真・中=。この翌日(6月5日)、国連大学の武内和彦副学長(東京大学教授)やパルビス氏、あん所長、中村浩二金沢大学教授、農林水産省北陸農政局の角田豊局長が出席して「里山とGIAHS」をテーマに金沢市文化ホールでワークショップが開催された。この視察とワークショップがGIAHSへのキックオフであり、1年後にGIAHS認定にこぎつけた。

   2011年6月11日、中国・北京。国連食糧農業機関(FAO)主催のGIAHS国際フォーラム3日目、この日は午前9時からGIAHSの認証式=写真・下=があり、新たに日本から申請していた能登4市4町の「能登の里山里海」と佐渡市の「トキと共生する佐渡の里山」のほか、インド・カシミールと中国・貴州省従江の農村の代表にそれぞれ認定書が授与された。同日の夜の懇親会はまるで「世界民謡大会」の様相を呈していた。ホスト国の中国ハニ族の人たちがステージに上がり土地の民謡を歌うと、続いて能登半島・七尾市から武元文平市長に随行してきた市職員が祝い歌「七尾まだら」を披露した。武元氏もステージに上がり手拍子を打った。朗々としたその歌はどこか懐かしい響きがした。そして、ケニア・マサイ族、ナイジェリアの参加者が続々とステージに上がり土地の歌を披露したのだ。最後に佐渡市の高野宏一郎市長が「佐渡おけさ」を歌い、市職員2人が踊り、ステージを締めくくった。会場は盛り上がった。その後、ハニ族の参加者代表が武元氏の元に駆け寄ってきて、「気持ちが通じ合いますね」と握手を求めた。

   能登の里山里海がGIAHS認定された意義は大きい。上述したように、COP10で「SATOYAMAイニシアティブ」が採択され、里山はもはや国際語である。SATOYAMAが海外で広く紹介されたのは1999年のこと。イギリスBBC放送が、NHKのドキュメンタリー番組『映像詩 里山』を動物学者で番組プロデューサーのD・アッテンボロー氏のナレーションで吹き替えて、番組『SATOYAMA』として放送したところ、これが欧米で反響を呼んだ。日本の里山の国際評価として「能登の里山里海」と「トキと共生する佐渡の里山」がある。つまり、日本の里山の代名詞として能登と佐渡がある。

   ところで、GIAHSを直訳すれば「世界重要農業資産システム」である。今は通称「世界農業遺産」と呼ばれている。では、最初にそう呼んだのは誰か。国連大学の武内氏である。「石川県の谷本知事とGIAHSの呼び名について話していて、世界重要農業資産システムだと日本国内ではピンとこない。そこで、世界農業遺産だったら知名度が上がるかもしれないと・・・」(2012年7月17日、佐渡市での第2回生物の多様性を育む農業国際会議の基調講演)。

   里山里海をキーワードに「のと里山海道」の名称の由来を出来事を中心にたどってみた。そして来月5月29日にGIAHS国際フォーラムが能登半島・七尾市の和倉温泉で開催される。新たなGIAHSの認定地などが採択される。同フォーラムは、2007年のローマ、2009年のブエノスアイレス、2011年の北京に続き4回目の開催となる。11ヵ国の認定地の人々が「のと里山海道」を伝って能登のフォーラム会場にやってくる。

⇒18日(木)朝・金沢の天気    はれ

☆「里山海道」への道~中

☆「里山海道」への道~中

  能登半島は過疎・高齢化が進み、耕作放棄地も目立っている。追い打ちをかけるように2007年3月25日、能登半島地震(震度6強)が起き、2千もの家屋が全半壊した。能登の地域再生は待ったなしとなった。このタイミングで、文部科学省科学技術振興調整費のプログラム「地域再生人材創出拠点の形成」に申請していた「能登里山マイスター」養成プログラムが採択された。このプログラムのミッションを地域と連携して遂行するため、金沢大学と石川県立大学、そして能登にある輪島市、珠洲市、穴水町、能登町の2市2町の自治体の6者が「地域づくり連携協定」(2007年7月13日)を結び=写真・上=、同年10月に「能登里山マイスター」養成プログラムの開講にこぎ着けた。過疎地で大学できること、それは人材養成、あるいは人材開発しかないという中村浩二教授を中心としたチームのアイデアだった。というより、大学の教員・スタッフができることは地域のニーズに応じたカリキュラムをつくり、教育を施す、これしかないのである。

自治体には受講生の募集業務や、移住してくる受講生の居住の窓口として協力を願った。この地域づくり連携協定の締結によって、「里山」ないし「里山マイスター」の言葉と意味合いがさらに広く認知されるようになる。予想外に、都市圏からの移住者の参加(計14人)もあり62人が修了した。「能登里山マイスター」養成プログラムは5年間で終了したが、連携する自治体からの要望もあり、継続事業として2012年10月、能登「里山里海マイスター」育成プログラムとして再スタートしている。

  2008年、今度は石川県が「里山里海」に身を乗り出してくる。同年4月4日、石川県環境部長、水野裕志氏が中村浩二教授の研究室を訪れた。その内容は、5月28日にドイツのボンで開催される生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)のサイドイベントで谷本正憲知事がスピーチを行うチャンスに恵まれた。県としては「里山景観条例」など里山に公益性をもたせるという画期的な内容の条例つくるというアピールを世界に向けて発信したい、と。それに向けて、里山をテーマとしたブレーンストーミングを知事を囲んで行いたいので出席してほしいとの依頼だった。ブレーンストーミングは4月28日午前10時から知事室で行われた。谷本知事は茨城県環境局長など環境畑を経験しており、マツタケの生育環境などについて実に詳しく、中村教授の生物多様性と里山の保全活用に関するレクチャーも熱心にメモをとっていた。

  同じ4月18日、国連大学等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットが金沢市に開設された。石川県と金沢市が誘致した国連大学高等研究所の拠点施設(世界で6番目、国内初)だ。初代所長に、あん・まくどなるど氏が就任した。そのミッションは、環境と持続可能な開発(特に里山・里海の保全活用、伝統文化の継承など)や人材育成活動である。また当時、国連大学高等研究所を中心に日本の生態学者、行政関係者らによる「日本の里山里海評価(JSSA)」(2007-2010年)の作業行われ、この50-60年間で起きた里山里海の変化について調査、検証をしていた。国連は2005年に地球規模の生態系の現状と今後の変化傾向を科学的に診断した「ミレニアム生態系評価」(MA)を公表しており、その後、世界各域でサブグローバル評価が実施され、JSSAは日本初のサブグローバル評価として注目されていた。石川県はその調査拠点の一つでもあった。

  谷本知事のボン行きは、スピーチだけではなく、トップセールスを兼ねていた。5月24日、開催中だったCOP9の現地事務局に条約事務局長のアフメド・ジョグラフ氏を訪ねた。中村教授がアドバイザ-として、あん所長が通訳としてそれぞれ同行した。知事は、当時名古屋開催がすでに内定していたCOP10での関連会議の開催をぜひ石川にと要請した=写真・中=。あん所長は知事の通訳という立場だったが、身を乗り出して「能登半島にはすばらしいSATOYAMAとSATOUMIがある。一度見に来てほしい」と力説した。このとき、身振り手振りで話すあん所長の右手薬指からポロリと指輪が抜け落ちたのだった。3人の熱心な説明に心が動いたのか、ジョグラフ氏から前向きな返答を得ることができた。27日にはCOP9に訪れた環境省の黒田大三郎審議官(当時)にもCOP10関連会議の誘致を根回し。翌日28日、日本の環境省と国連大学高等研究所が主催するCOP9サイドイベント「日本の里山里海における生物多様性」でスピーチをした谷本知事は「石川の里山里海は世界に誇りうる財産である」と強調し、森林環境税の創設による森林整備、条例の制定、景観の面からの保全など様々な取り組みを展開していくと述べた。同時通訳を介してジョグラフ氏は知事のスピーチに聞き入っていた。ジョグラフ氏の能登視察はその4ヵ月後に実現した。

  ジョグラフ氏が能登を訪れたのは2008年9月16日と17日の1泊2日の旅程だった。名古屋市で開催された第16回アジア太平洋環境会議(エコアジア、9月13日・14日)に出席した後、15日に石川県入りした。初日は能登町の「春蘭の里」、輪島市の千枚田、珠洲市のビオトープと金沢大学の能登学舎、能登町の旅館「百楽荘」で宿泊し、2日目は「のと海洋ふれあいセンター」、輪島の金蔵地区を訪れた。珠洲の休耕田をビオトープとして再生し、子供たちへの環境教育に活用している加藤秀夫氏(当時・小学校長)から説明を受けたジョグラフ氏は「Good job」を連発して、持参したカメラでビオトープを撮影した=写真・下=。ジョグラフ氏も子供たちへの環境教育に熱心で、アジアやアフリカの小学校で植樹する「グリーンウェーブ」を提唱していた。

   能登が印象に残ったのか、ジョグラフ氏がその後、生物多様性の国際会議で能登の取り組みをスピーチの中で紹介しているようだと何度か側聞した。

⇒17日(水)夜・金沢の天気    はれ

★「里山海道」への道~上

★「里山海道」への道~上

   先にこのブログで紹介した、能登有料道路が「のと里山海道」=写真・上=に生まれ変わり2週間がたった。さっそく車で走行した知人たちと話していると、無料化のことより、案外と「のと里山海道(さとやまかいどう)」のネーミングが話題となっている。「季節が冬から春になったせいもあるが、走りの感覚と、里山海道の語感がぴったりとくる」と。全長83㌔は信号機もなく、料金所という停止のバリアもなくなり、時速80㌔での走りは確かに爽快である。

  滑り出しは上々かもしれない。パーキングエリア(PA)がどこもにぎわっている。先日、志雄PAで地域の名物として売り出し中のオムライス弁当を買おうとしたら売り切れていた。西山PAでは、駐車場(収容20台)が満杯で停めることができなかった。逆に、のと里山海道に利用客を奪われた国道249号や159号沿いのレストランやコンビニエンスストアは悲鳴を上げているに違いない。

   ところで、この「のと里山海道」のネーミングの由来にについて考察したい。名称は公募で選定されたものだが、おそらくこのネーミングのモチーフ(主題)にあるのは「能登の里山里海の道」ということだろう。「里」の字の重なりを避け、「海道」を充てることで上手に短縮した。「のと」としたのは「能登里山海道」では漢字ばかり6字も並んで読み難い上、硬いイメージを避けたいとの配慮からか。「能登の里山里海」は間違いなく、2011年6月に国連食糧農業機関(FAO、本部ローマ)によって世界農業遺産(GIAHS、Globally Important Agricultural Heritage Systems)の認定名「Noto’s Satoyama and Satoumi」=写真・中=から由来している。

   では、GIAHSの認定名となった「能登の里山里海」についてさらに考えをめぐらす。能登には「農山漁村」はあったが、「里山里海」という概念はなかった。能登に初めて「里山里海」の言葉と概念を持ち込んだのは金沢大学の中村浩二教授だった。今から7年前の2006年10月、能登半島の北端の珠洲市三崎町で「能登半島 里山里海自然学校」という環境保全プロジェクトを中村教授が中心となって立ち上げた=写真・下=。三井物産環境基金の支援資金を得てである。

    生態学者である、中村教授は生物多様性を育む里山や里海という概念に注目していた。里山里海自然学校では、博士研究員が現地に常駐し、地域住民の協力を得ながら生物多様性調査を行うことをメインに、地域の子供たちへの環境教育も実施した。主な取り組みを整理すると3つになる。1)里山里海の生物多様性や人々の生業についての現状調査、2)地域や大学,都市住民のボランティアによる里山里海の保全活動、3)地域の小中学校,高校や大学,地域住民を対象とした環境教育。能登では、単発的に研究者が訪れ調査をしていく、いわゆる「訪問型研究者」による調査研究がされてきた。しかし、里山里海自然学校の設置により、地域社会の中に定住して研究を行う「レジデント型研究者」を置くことになる。これが地域にインパクトを与えた。博士研究員(生態学)が「里山里海自然学校」の名刺を持ち地域と交流を重ねることで、生物多様性を包含した里山里海の言葉の意味が徐々に地域に浸透していくことになる。

   そのインパクトは、学術面でも現れる。博士研究員の専門はキノコ類である。地域の人たちと山歩きをする中で、コノミタケと呼ばれるホウキタケの仲間があり、すき焼きの具材として能登で珍重されていることを知る。鳥取大学の研究者とDNA解析をすること新種であることが分かり、「ラマリア・ノトエンシス(能登のホウキタケ)」(和名:コノミタケ)と学名を付けることになった。現場に足を運んで得られた臨地的研究の一つの成果であり、地域にとっても能登の名が冠せられた学名は誇りともなった。

   活動拠点となったのは旧小学校(小泊小学校)の廃校舎である。かつて地域住民が親しんだ、思い出の詰まる場所だけに、大学の活動拠点という「敷居の高さ」は低くなり、気軽に地域の人たちとの交流の場ともなった。それが地域に活動が浸透していくことに役立った面もある。

⇒14日(日)朝・金沢の天気    はれ