★解散・総選挙への一日

★解散・総選挙への一日

 きょう(14日)午前、石川県内のある市長と面談する機会があった。市長は元県議会議員で、「政局」を読むに敏感だと定評があるので、あえて水を向けてみた。「年末の解散、総選挙など政局はどう動きますか」と。即答だった。「結局、民主党は大分裂を起こして選挙突入だね」と。この後、午後の党首討論で「16日に解散してもよい」との野田総理の発言が出て、解散(11月16日)・総選挙(12月4日公示、16日投開票)の嵐が吹き始めた。

 市長が「大分裂」と言ったのは、決議支持率が低迷する中の解散・総選挙では民主の苦戦が必至で、すでに同党の一部議員による新党結成や、有力議員の日本維新の会への合流など離党の動きが出ている。そこで、13日の民主党常任幹事会で「党の総意」として年内解散に反対する方針で合意していた。にもかかわらず、野田総理は党の分裂を覚悟で、「16日解散」を表明したのである。市長の読みは的中したことになる。

 きょう午後の党首討論の様子をテレビで視聴して、どちらが役者が上か考えた。総理は衆院小選挙区の「1票の格差」を是正するための「0増5減」の法改正を今国会で成立させ、かつ来年の通常国会で「比例代表定数の40削減」(民主案)など大幅な定数削減を条件にあげ、それを自民党の安倍総裁が確約すれば「16日に解散してもいい」と提案したのだった。安倍総裁は即答できなかった。党首討論後に自民党は定数削減に関しても協力する考えを表明、これで解散の条件が整ったと言える。

 役者とすれば野田総理が上だろう。これまで「近いうち解散」を言いながら延び延びとなっていて、12日の衆院予算委員会では石破自民幹事長から「うそつき」とまで。そこまで言われて、総理は攻勢に出た。今度は、自民党に定数削減の確約を迫ったのである。解散は総理の専権事項であり、野田氏は主役を演じきった。それにしても異例の「解散宣言」だった。

 きょう午後8時前、知り合いの新聞記者からメールが届いた。「12月16日の晩」に選挙調査で学生を紹介して欲しいとの依頼だった。「開披台(かいひだい)調査」のアルバイトである。選挙でで出口調査は知られているものの、開披台調査は一般では聞きなれない。投票が締め切られる午後8時以降、各投票場から投票箱が続々と開票場に集まってくる。そして9時過ぎごろから実際の開票が始まる。投票箱が開けられ、票がばらまかれる台は「開披台」と呼ばれる。その票を自治体の職員が候補者ごとに仕分けしていく。調査のアルバイトはペアを組んで、その職員の手元を双眼鏡で覗き、どの候補者が何票得ているかカウントする。「A候補が50、B候補が40、C候補が10」というように、軸となるA候補が50になるまでカウントして、その他の候補の数字と比較する。

 こうしたペアが同じ開票場に10数組配置され、それぞれ異なった開披台を調査する。電話でデータ集計本部に連絡される。この調査では、A候補が2000になった時点で、実際の開票終了時との集計誤差はプラス、マイナス3%にまで高められるとされる。この調査に、大学生らが新聞-テレビの1系列で全国で数千人規模でアルバト動員される。

 総選挙になると、「元新聞屋・テレビ屋」の血が騒ぐ。2012年末まで政局は一気に走る。

⇒14日(水)夜・金沢の天気   雷雨

☆「京」の強さ

☆「京」の強さ

 今朝のメディアで気になるニュ-スから。スーパーコンピューターの計算速度を競う世界ランキング最新版で、これまで2位だった理化学研究所の「京(けい)」が3位に順位を落としたとのニュースが流れている。ニュースをそのまま読んでしまえば残念な話に思えるが。

 首位は、オークリッジ国立研究所(アメリカ)の「タイタン」。1秒間に1京(京は1兆の1万倍)7590兆回の計算速度を記録したという。3位の「京」は1京510兆回。速さだけを競うのであれば「3位」だが、実用的という意味では「京」は優れている。計算科学研究機構(AICS)のホームページで掲載されている立花隆氏(ジャーナリスト)の文が分かりやすいので、以下部分引用させていただく。

 「もともとの設計性能が10ペタだったとはいえ、こんなに早くトップ性能が引き出せた背景には関係者のなみなみならぬ努力があったことと思う。これもひとえに斬新な富士通の高性能低電力消費型チップ(SPARC64TM VIIIfx)と6次元メッシュトーラスという独特のアーキテクチャ構造をとることで、高速性と高信頼性(壊れても全面的には壊れない。すぐ自己修復する)を同時に達成するという優れたハードウェア技術が見事に功を奏したが故にだと思う。次のステップは、このすぐれたハードを見事に使いこなして、ソフトウェア(アプリケーション)と計算実績の面でも、世界一の業績を次々にあげていくことだ。それが実現できたら、ケタちがいの計算力を利用したケタちがいのシミュレーション力(速度と精度)で、日本の科学技術力と産業力を数倍レベルアップすることができる。日本の国力を数十倍にしていくことができる。」

 上記の「産業力を数倍レベルアップすることができる」というところがポイントだと思う。ことし9月から本格稼働が始まり、大学や国立の研究所だけでなく、産業界の研究にも門戸が開かれている。公募に対して製薬や化学、ゼネコン、自動車メーカーなど、産業界から25件が採択され、利用が始まってる。

 産業や研究に役立つ、とはどういうことなのか。参考例として、2010年のノーベル化学賞の根岸・鈴木博士のクロスカップリング反応がある。有機化合物と別の有機化合物を触媒のパラジウムによりカップリンングし、ビアリール化合物という新たな有機化合物をつくっていく。パラジウムという触媒は自体はカップリングが成功すると、さっと離れて、次なるカップリングに動く。新しくできた化合物はテレビの液晶材料や抗がん剤など幅広く使われる。鈴木・根岸博士のカップリング反応というのは、原料が安定していて扱いやすい、化学反応が穏和で操作が簡単、有害な廃棄物をほとんどださない。つまり配合を間違えても爆発しない、猛毒を発生させないので、扱いやすい。だから産業に役立つ、扱いやすいということなのだ。スーパーコンピューターも同じで、計算が速いだけでなく、「壊れても全面的には壊れない、すぐ自己修復する」という高信頼性が伴わなければ活用できないのだ。

 このようなスパコンをアメリカでは製造できるのだろうか。メディアは「3位に転落」などと見出しで報じている。視点を変えれば、評価は一転する。

※写真は、スーパーコンピューター「京」を製造している富士通ITプロダクツ=石川県かほく市

⇒13日(火)朝・金沢の天気  はれ

 
 

★現代版「竹取物語」

★現代版「竹取物語」

 新聞記者時代に新人研修として新聞用紙の生産現場を訪れたことが記憶にある。富山県高岡市にある中越パルプ工業伏木工場だった。1978年(昭和53年)のことだ。鉄製の狭い階段をアップダウンしながら工場をひと回りした。覗き込んだ大きなタンクの底にある白い液体、これが紙になるのか、と。日本の経済成長を支えてきたのは、ある意味で紙だ。新聞というメディア、紙幣だってそうだ、契約文書、書籍、チラシ、そしてテッシュペーパーやトイレットペーパーなど生活用品にいたるまで。しかし、紙幣や文書、書籍は別として、われわれのイメージとして、紙は「使い捨て」の代名詞でもある。

 その紙から、里山の問題を考えさせるセミナーが昨日(10月31日)、金沢大学角間キャンパスであった。企画したのは香坂玲准教授。講師は、中越パルプ工業の西村修・企画営業部長。同社は、竹紙(たけがみ)を生産している。竹の伐採や運搬、原料チップの加工など、竹は木材に比べ効率が悪く、コスト面で不利とされてきたが、あえてそれに挑んだ。地域の住民や、チップ工場などの協力を得ながら集荷体制を築き、竹パルプ10%配合の製品を開発。さらに工場設備を増強し、2009年は国産竹100%の紙を販売。封筒やはし袋、コップといったほかに、パンフレットやカレンダー、名刺やノートなど使用用途を広げるために工夫をこらしてきた。現在、年間で2万㌧(67万本相当)の竹を使う。日本の竹のみを原料とする紙を「マスプロ製品」として生産する唯一の会社といってよい。

 では、なぜパルプ原料を竹にこだわるのか。モウソウ竹などは、タケノコなどの食材や、竹垣など家屋、また工芸品などとして現在でも広く使われ、日本人の食と生活、文化に密接している。が、そうした「竹の需要」は全体的に減っている。また、竹林を管理する人が高齢化し、後継者も少なくなっている。その結果、放置された竹林が森林を侵食して荒廃させる問題が全国的に起きている。金沢大学の山林でも、竹林は年間6㍍のペースで広がっていると指摘する人もいる。さらに、金沢のかつてのタケノコの産地だったいくつかの山々はすっぽりと竹に覆い尽くされてもいる。根が浅い竹林では豪雨による土砂崩れの事例も聞く。

 竹林を放置するのではなく、活用できないか。西村氏は「竹の活用用途を考えた場合、多くは量的に期待できない。紙原料だったら、竹を大量に使う」と同社が社会貢献としてこの事業に取り組んでいることを強調した。ただ、難点はまだ生産コストが高いこと。普通紙の倍以上はかかる。同社では、寄付金付き国産材活用ペーパーとして「里山物語」を商品化している。用紙価格に上乗せた寄付金を、NPO法人を通じて里山の再生と保全活動をサポートするために使っている。使い捨ての紙であるがゆえに必要とされる大量の竹、その薄い紙に込めた製紙会社の里山保全への想いが伝わってくる。現代版「竹取物語」といえないか。

⇒1日(木)朝・金沢の天気  雷雨

☆地震予知と異端審問

☆地震予知と異端審問

 「こんなに科学が進んで、宇宙に人工衛星まで飛ばして、いまだに、なぜ正確な地震の予知ができないのか」。人はおそらく1度くらいは思うはずだ。非科学的といわれる「地震雲」などがテレビなどに紹介されたりするのは、そうした人々のもどかしさのせいかもしれない。きょう(23日)のニュースで、300人以上が死亡した2009年4月6日のイタリア中部ラクイラの地震で、「安全宣言」が被害を広げたとして過失致死罪に問われた学者や政府担当者ら7人に対し、現地の地裁が禁錮6年の有罪判決を言い渡したとのニュースが目に飛び込んできた。

 新聞社のウエッブニュースを検索すると、盛んに取り上げられている。被告は、イタリアを代表する国立地球物理学火山学研究所の所長(当時)や、記者会見で事実上の「安全宣言」をした政府防災局の副長官(同)で、マグニチュード6.3の地震が発生する直前の「高リスク検討会」に出席した7人。求刑の禁錮4年を上回る重い判決で、執行猶予はついていない。被告側は控訴するという。

 記事を総合すると話をラクイラ一帯では当時、弱いながらも群発地震が続きており、「大地震」を警告する学者もいた。高リスク検討会の学者らは「大地震がないとは断定できない」としながらも、「群発地震を大地震の予兆とする根拠はない」と議事録に残していた。裁判では、学者側は「行政に科学的な知見を伝えただけだ」と主張、行政当局は「根拠のない『予知』をとめるためだった」などと無罪を訴えた。これに対し、検察は情報提供のあり方を問題視した。政府の防災局は市民の動揺を静めようと3月31日、高リスク検討会の後の記者会見で事実上の「安全宣言」をした。この発表を受けて、屋外避難を取りやめて犠牲になった人もいたという。

 学者が「地震が来るかわからない」と言い、行政当局は数ヵ月前から続いていた群発地震による住民の動揺を鎮めるために、それを「安全だ」と発表した。言葉の誤謬が生んだ悲劇か、学者と行政のミスなのか。このニュースを読んで、カトリック教会の異端審問を連想した。ローマなどでは、中世以降のカトリック教会で正統信仰に反する教えを持つ「異端」という疑いを受けた者を裁判するために設けられたシステムだ。地震学者として、行政担当者としてその言葉がふさわしかったか、どうか。科学者を入れた検討会で、その発した言葉が罪になるとすれば、科学者は口をつぐむだろう。こうなると「言葉狩り」になってしまう。

⇒23日(火)朝・金沢の天気  あめ

★愛されるキノコ

★愛されるキノコ

 能登半島の秋はキノコのシーズンだ。けさ(13日)、金沢から能登有料道路、主要地方道「珠洲道路」を経由して、半島の先端・珠洲市に着いた。沿道のあちこちに車が止まっていた。おそらくキノコ狩りの車だ。また、沿道近くの山ではビニールテープが張り巡らされている。これは、ナワバリ(縄張り)と言って、山林の所有者が「縄が張ってあるでしょう。立ち入ってはいけません」とキノコ狩りに人々に注意を促すものだ。つまり、マツタケ山の囲いなのだ。

 キノコ狩りのマニアは、クマとの遭遇を嫌って加賀地方の山々を敬遠する。そこで、クマの出没情報が少ない能登地方の山々へとキノコ狩りの人々の流れが変わってきている。本来、能登地方の人々にとっては迷惑な話なのだが。

 能登の人たちが「山のダイヤ」と呼ぶキノコがある。コノミタケだ。ホウキダケの仲間で暗がりの森の中で大きな房(ふさ)がほんのりと光って見える。見つけると、土地の人たちは目が潤むくらいにうれしいそうだ。「ありがたや」と拝むお年寄りもいるとか。1㌔7000円から1万円ほどで取り引きされ、マツタケより市場価値が高い。高値の理由は、コノミタケはスキヤキの具材になる。能登牛(黒毛)との相性がよく、肉汁をよく含み旨味で出て、香りがよい。能登の人たちは、キノコのことをコケと呼ぶが、コノミタケとマツタケをコケと呼び、それ以外はゾウゴケ(雑ゴケ)と呼んで区別している。加賀からキノコ狩りにやってくる人たちのお目当ては、シバタケだ。アミタケと呼ぶ地域もある。お吸い物や大根のあえものに使う。でも、能登に人たちにとってはゾウゴケなのだ。コノミタケへの思い入れはそれほど強い。

 能登で愛されるコノミタケは能登独特の呼び名だ。でも詳しいことは分かっていなかったので、金沢大学の研究員が調べた。能登町や輪島市の里山林に発生しているコノミタケの分類学的研究を行ったところ、ホウキタケの一種でかつて薪炭林として利用されてきたコナラやミズナラ林などの二次林に発生していることが分かった。研究者は鳥取大学附属菌類きのこ遺伝資源研究センターや石川県林業試験場と協働で調査を進め、表現形質の解析および複数の遺伝子領域を用いた分子系統解析を進めたところ、コノミタケが他のホウキタケ類とは独立した種であることが確認されのである。そこで、ラマリア・ノトエンシス(Ramaria notoensis、能登のホウキタケ)という学名を付け、コノミタケを標準和名とすることを、2010年5月に日本菌学会第54回大会(東京)で発表した。

 学名は付いた。しかし、コノミタケは発生量が減少傾向にある。発生地である薪炭林の老齢化や荒廃化により生息地が縮小しているのだ。

⇒13日(土)朝・金沢の天気   はれ

☆イチゴと給食問題

☆イチゴと給食問題

 ヨーロッパでのスローフードや村づくりに関するコラムをこれまで2回書いてきた。それに関連して、10日付の新聞各紙の紙面やWebで目に留まったニュースを一つ。

 ドイツで9月25日から28日にかけて、東部のブランデンブルグ州やザクセン州計5州の学校や幼稚園で園児や小学生1万1千人以上が給食の食材からノロウィルスに感染し、下痢や吐き気などの症状を訴え32人が入院する過去最大規模の食中毒事件が起きた。ドイツ政府がロベルト・コッホ研究所などに委託した調査で、給食に使われた中国産の冷凍イチゴからノロウィルスが検出された。

 ドイツの連邦消費者保護・食品安全庁の調査によると、給食は世界最大手の給食業者であるフランスのソデクソ社が提供したもので、イチゴはドイツ国内の給食センターで砂糖煮に調理された。しかし、加熱が不十分だったためノロウィルスが死滅しなかったのが原因と分かった。当初食中毒の関連を否定していたソデクソ社は「子どもたちの回復を願う」として陳謝し、補償として被害者に計55万ユーロ(5500万円)相当の商品券(1人5000円相当)を送る予定という。問題のイチゴは回収が進み、被害の拡大は食い止められたが、「中国産」がクローズアップされ政治の舞台でこの問題が取り上げられた。

 現在のイチゴは、18世紀にオランダで南アメリカ原産のチリ種と北アメリカ原産のバージニア種が交配されて生まれ、さらにフランスやイギリスで品種改良された(農水省ホームページより)。いわば、ヨーロッパ人の知恵と工夫で栽培された果物である。イチゴのシャルロッテはドイツ人が考案した子どもも大人も好きなデザートだ。今回問題となった「中国産」を、連合・緑の党がやり玉にあげた。「なぜ子どもたちが中国産イチゴを食べているのか。この季節、新鮮な地元のリンゴの砂糖煮を食べればよいのではないか」(エズデミル代表)と。これに対し、政府の食料・農業・消費者保護大臣は「地元の食材を食べるべきだ」と同調した(10日付・中日新聞記事より)。

 上記記事の簡略化された発言内容では前後の言葉のニュアンスが使わってこないが、ドイツの政治関係者がショックを受けているのは、輸入食品の安全性もさることながら、子どもたちに与える給食の食材をなぜわざわざ、東アジアの中国から輸入しなけらばならなかったのかという点だろう。しかも、季節外れの食材をなぜ、と。学校給食の食の在り方を論じている。これは健全な議論である。給食は、栄養価と大量仕入れがカギとなる。レモンを上回るとされるイチゴのビタミンCを摂取し、しかも大量仕入れとなると、旬の地元のリンゴより、中国産の輸入イチゴにドイツの給食業者は魅力を感じたのだろう。スローフード、反ファストフード、反・食のグローバル化の意識が広がるヨーロッパでも、これが足元の学校給食の現実なのかもしれない。

 日本でも同じように学校給食が問われている。食糧自給率が40%の日本で、せめて子どもたちの学校給食だけでも地産地消をと頑張っている自治体もある。しかし、それでも「地産地消率」40%を超えるところは全国的に見ても多くはない。ドイツと同じ問題が起きる要素は日本の方が十分はらんでいる。

⇒10日(水)夜・金沢の天気   はれ

★ドイツの美しき村

★ドイツの美しき村

  ドイツも田園景観に力を入れている国だ。4年前(2008年)に訪れたアイシャーシャイド村は、生け垣の景観を生かした村づくりが特徴だった。ドイツが制定している「わが村は美しく~わが村には未来がある」コンクールの金賞を受賞(07年)した、名誉ある村である。この制度は40年も前からある。

 人口1300人ほどの村が一丸となって取り組んだ美しい村づくりとはこんなふうだった。クリ、カシ、ブナなどを利用した「緑のフェンス」(生け垣)が家々にある=写真=。高いもので8mほどにもなる。コンクリートや高層住宅はなく、切妻屋根の伝統的な家屋がほどよい距離を置いて並ぶ。村長のギュンター・シャイドさんが語った。昔は周辺の村でも風除けの生け垣があったが、戦後、人工のフェンスなどに取り替わった。ところが、アイシャーシャイドの村人は先祖から受け継いだその生け垣を律儀に守った。そして、人工フェンスにした家には説得を重ね、苗木を無料で配布して生け垣にしてもらった。景観保全の取り組みは生け垣だけでなく、一度アスファルト舗装にした道路を剥がして、石畳にする工事を進めていた。こうした地道な村ぐるみの運動が実って、見事グランプリに輝いたのだった。

 この村には北ヨーロッパの三圃式農業の伝統がある。かつて村人は、地力低下を防ぐために冬穀・夏穀・休耕地(放牧地)とローテーションを組んで農地を区分し、共同で耕作することを基本とした。このため伝統的に共同体意識が強い。案内された集会場にはダンスホールが併設され、バーの施設もある。ここで人々は寄り合い、話し合い、宴席が繰り広げられるのだという。おそらく濃密な人間関係が醸し出されていた。ベートーベンの6番「田園」の情景はアイシャーシャイド村そのものである。第1楽章は「田舎に到着したときの晴れやかな気分」、第2楽章「小川のほとりの情景」、第3楽章「農民達の楽しい集い」・・・。のどかな田園に栄える美しきドイツのコミュミティーなのである。

 当時、村長から「日本の村はどうだい」と尋ねられたが、ちょっと言葉に窮した。日本の村では、個々の家で生け垣は残るものの、村の景観を地域ぐるみで美しくしようという運動は当時認識が浅かったせいか、聞いたことがなかった。前回紹介した『なぜイタリアの村は美しく元気なのか~市民のスロー志向に応えた農村の選択~』(宗田好史著・学芸出版社)によると、農村振興を狙いとした「美しい村」の認定制度は日本にもある。

 ただ制度は国によって異なる。フランスの場合は、人口2000人未満の地域、最低2つの文化遺産があること、土地利用計画で規制があることなどをクリアしなけらばならない。現在150余りの町村が認定されている。ドイツのアイシャーシャイド村の場合、まず景観を良くする、次いで伝統文化の保全と食文化を振興するという村長の話だった。これは私見だが、美しい村へのアプローチは、「文化から入るイタリア」、「景観から入るドイツ」、「制度から入るフランス」と多様な価値観があって面白い。

⇒8日(月・祝)朝・金沢の天気   はれ

☆美しいイタリア農村

☆美しいイタリア農村

 「イタリアの農村の過疎化は、日本以上に深刻だった。農業人口は劇的に減少した。しかし、50年代の奇跡の経済成長が終った後、長年穏やかなまま、、地方都市では多くの工場が閉鎖された。その跡地にディスコやホテルが建った時代もあった。しかし、直ぐ廃墟になった。今では、レストランの一部が残っているだけである。例外は一部の有名なリゾート地だけ、空きあ家だらけの農村では投機はあまねく失敗した。」

 最近読んだ『なぜイタリアの村は美しく元気なのか~市民のスロー志向に応えた農村の選択~』(宗田好史著・学芸出版社)にかかれている状況は、現在の日本のそれと同じだ。イタリアの農業生産はGDPの2.3%、農家は全世帯の3.8%に減った(2009年)。日本は、GDPに占める農業の割合は0.9%だが、農家の全世帯に占める割合は4.5%だ。ただし、農家一戸当たりの耕作面積は日本1.6㌶、イタリア7.9㌶と比較にならないほどイタリアの農家は土地持ちだ。土地面積は少なくとも農業人口の比率はイタリアより多いのでうまく農業経営をやっているとのだと思ってしまうが、日本の場合は農業補助金が現在でも5.5兆円あるので、補助金でなんとか農業人口を支えていると表現した方が良さそうだ。

 本書によると、そのイタリアが変わった。「最近になって、アグリツーリズモが盛んになり、地方小都市へ移住する人も増えた。」という。日本ではアグリツーリズムとも紹介されている。発祥地とされているトスカーナ地方では、もともと農業や畜産の手伝いを泊まり込みで体験するものだったが、現在は大自然をバックにした田園風景の中の「農家ホテル」の機能と、その土地の食材でつくられた料理を堪能できるスタイルだ。本の写真に掲載されているような、納屋を改造したレストランなどは一度入ってみたいと思わせるような造りである。

 上記の記載だと商売上手なやり手の農家が考えそうで、日本にいくつでも事例はあるという人もいるだろう。ところが、イタリアのスローフドは「運動」としてある。1986年、ローマでは「イタリアの子供からマンマのパスタを奪うな」と猛烈な反マクドナルド進出阻止運動が起きたのである。こういった草の根的な文化復興運動が起きるのがイタリアである。著者は、フランス革命時代に活躍した政治家で美食家のジャン・アンテルム・ブリア・サヴァラン(1755-1826)の著書『美食礼賛』の影響を受けているという。すなわち、「人は喜ぶ権利をもっている」として、食の問題を人権思想に結び付けている。これがマクドナルドなどファーストフード化への根付強い反対運動に連鎖しているというのだ。

 そのような思想的な下地があり、イタリアのアグリツーリズモは広がりを見せている。ヨーロッパの成熟したバカンスは田園に、そしてアグリツーリリズムに向かっている。経営者として、都会からの受け入れる感性を持った女性たちが活躍しているという。トスカーナ州で4060余りもの施設がある。イタリア全体の2割だそうだ。日本のアグリツーリズモは農家民宿ということになるが、全国で総数2000軒ほどと言われているので、イタリアの勢いが見てとれる。

 それにしても筆者は建築家であるだけに、建築規制など法的な側面からもきちんと解説していいて、分かりやすい。イタリアがかつて景観破壊を招いたリゾート法によるホテル乱立という事態を防ぐため、規制緩和には厳しいが、納屋や馬小屋ならば宿泊棟やレストランに用途変更できるように工夫している点など丁寧に解説している。

⇒7日(日)朝・金沢の天気   くもり

★能登の栗物語

★能登の栗物語

 俳句の同好会に参加していることは以前述べた。俳句は「5・7・5」という字数の決まりごとがあり、季語を入れる。心象風景などを表現するが、面白のは同じものを見ても、見る人によってその心象が違うことだ。自我流の俳句だが、いくつか紹介する。今回は能登に関するものがテーマだ。

⇒ 華やかな マロングラッセや 能登の栗(2012年9月句会)
 金沢市内のデパートの食品売り場や高級洋菓子店で最近、「能登産栗」のマロングラッセが並んでいるのを見かける。能登の山の中で栽培された栗が大きく実り、都会に出てマロングラッセとして洋菓子になり、金紙や銀紙に包まれ華やかに店頭を飾る。まるでシンデレラの物語のようではないか。栽培現場を見ているので私自身もうれしい。ましてや、生産者はわが子のことのように誇らしく思っているに違いない。

⇒ 栗食ひをる 放牧の豚 丸々と(同上)
 能登半島の穴水町で養豚業を営む道坂一美さんは「のと猪部里児(いべりこ)」の商標登録を最近得た。エコフィード(食品残さ飼料化)による養豚を目指し、エサには多種類の野菜やワイン製造過程で出るブドウの搾りかすを使う。秋のこの時季になると放牧場と隣接する森に豚を放ち、落ちているドングリや栗を食べさせる。山のタンニンなどの栄養で肉質がしまる。「里山で生まれた高級食材として付加価値をつけて売り込んでいきたい」と道坂さんは話している。

⇒ カキ殻播く 畑の葡萄 赤々と(同上)
 同じ穴水町では「能登ワイン」のワイナリーやブドウ畑が見学できる。穴水湾で生産されるカキの殻を1年間天日干しにして砕きブドウ畑に入れる。すると能登特有の赤土の土壌が中和され、またミネラルが補強されて、ヤマソービニオンなど品質のよい醸造用ワインのブドウができる。最近、国産ワインのコンテストで銀賞を獲得するなど注目されている。そのブドウの搾りかすを道下一美さんたちが回収して豚に食べさせ大きく育てている。この循環が物語になり、ワインを飲んでも、豚を食べてもおいしく感じる。この話に感動した金沢のワインのソムリエ辻健一さんは、道下さんが生産した豚肉のバーベキューと能登のワインを楽しむ「マリアージュ・ツアー」(2012年11月11日)を企画している。念のため、マリアージュ(mariage)は、男女のお見合いではなく、ワインと食べ合わせのよい料理という意味で使っている。

⇒25日(火)朝・金沢の天気  はれ

☆戦後賠償と国民感情

☆戦後賠償と国民感情

 アサヒ・コムなど新聞系のウエッブページはきょうの夕方、中日友好協会が27日に中国・人民大会堂で予定していた国交正常化40周年記念レセプションを中止することを決めた、と報じている。確か、今月19日には、中国側は「予定通り行う」と日本側に伝えたと報じられていたので、相当の混乱が先方にあるのだろう。「開催日を再調整する」と中国側は伝えているようだが、それにしても異例だ。

 日本と中国は明治以降、日清戦争、日中戦争と戦火を交えた。戦後、中国共産党が政権を奪取して、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。しかし、日本はアメリカとともに、共産党との内戦で台湾に渡った中華民国の蒋介石政権を中国の代表とした。当時の国際情勢は、アメリカなど欧米や日本などの資本主義陣営と、ソ連や東欧、中国などの共産主義陣営に分かれて対立していた。しかし1960年代に入ると、同じ共産主義陣営のソ連と中国の対立が鮮明になり、中国の方がソ連に対抗するために、アメリカや日本との関係改善を望んでいた。米ソ対立を有利に進めたいアメリカは1971年7月、ニクソン大統領が中国訪問を「電撃発表」し、翌1972年2月にニクソン大統領の訪中が実現した。この間、71年10月に中華人民共和国が国際連合に加盟し、台湾から代表権が移った。

 日本もこの潮目に乗じた。ニクソン訪中の7ヵ月後、1972年9月29日、田中角栄首相と周恩来首相が日中共同声明に調印した。内容は、日本が国交のあった台湾と断交し、中国は戦争で受けた損害の賠償請求を放棄することで合意した。この「賠償請求の放棄」が問題含みではなかったか。諸説ある。中国はサンフランシスコ平和条約の締約国ではないが、同条約第21条の規定により、日本政府と日本国民が中国(東部内モンゴルおよび満州含む)に有していた財産、鉱業権、鉄道権益などを放棄し、中国は相当の日本資産を得たとされる。とくに、南満州鉄道を始めとした重工業施設、公共施設、軍事施設など。その上で、中国側とすれば賠償請求より「恩を売る」というカタチがよいとの判断だったとされる。その後、1978年には日中平和友好条約が結ばれ、日本は中国への円借款を始め、2007年度の終了までに3兆円を投じ中国の産業発展に貢献した。

 以下想像を膨らませる。どのような理由があれ、戦勝国の国民は「賠償請求の放棄」を許さないものだ。こんな事例が日本にある。1905年9月5日の「日比谷焼打ち事件」だ。日露戦争でかろうじて勝った日本側が最終的に「金が欲しくて戦争した訳ではない」と賠償金を放棄してポーツマス講和条約を結んだことで、当時の日本国民の多くは、どうして賠償金を放棄しなければならないのかと憤り、東京の日比谷公園で全権大使の小村寿太郎を弾劾する国民大会が開かれた。これを解散させようとする警官隊と群衆が衝突し、さらに数万が首相官邸などに押しかけて、政府高官の邸宅など襲撃、交番や電車を焼き打ちするなどの暴動が発生した。「主張する正当性は我にあり」式の弾劾である。この時、ニコライ堂も標的になったが近衛兵の護衛で難を免れたが、講和を斡旋したアメリカにも怒りは向けられ、東京のアメリカ公使館やアメリカ人牧師がいるキリスト教会までも襲撃の対象となったとされる。東京は無政府状態となり、戒厳令が敷かれた。神戸、横浜でも暴動が起きた。こうした世論を煽ったのは新聞だった。

 さらに日本の群衆の怒りがアメリカにも向けられたことで、アメリカ国内では、アジア人への差別感を表現する「黄禍論」の世論が沸騰した。また、対日感情が悪化してアメリカ国内で日本人排斥運動が起こる一因となったとされる。このように国民感情は「悪のスパイラル」へと連鎖していった。 

 話を戻す。中国国民はいまだに「賠償請求の放棄」を許していないのではないか。「愛国無罪」というスローガンを根っこのところで考えると「賠償請求の放棄」の拒否にまで行き着くのではないかと想像する。中国では国を責めると反乱罪になるので、あえて日本と日系企業にその思いをぶつけ暴れる、そのような根深い国民感情があるのではないか。40年たった今でも、その思いは煮えたぎっているのではないか。

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