☆夏安居(げあんご)

☆夏安居(げあんご)

    今回も庭での話。先日、草むしりをしていて、夏安居(げあんご)という言葉を思い出した。30度を超す暑さの中、地面と向きあい、手を動かしていると、頭の中で湯気が湧き立つような不快感がよぎって、家に入った。汗びっしょりで、シャワーを浴びても、腕から汗がたらたらと落ちた。もし、変に頑張っていたら熱中症で倒れて病院行きだったかもしれない…。「夏安居とはよく言ったものだ。夏は家の中にいるのが一番」とつい言葉が出た。

  夏安居は仏教用語。インドの夏は雨期で、仏教僧がその間外出すると草木虫などを踏み殺すおそれがあるとして寺などにこもって修行したことに始まる(三省堂「大辞林」)。雨安居(うあんご)という言葉もある。もう少し解説すると、夏は動植物たちの営みが盛んな季節なので、そんな草原や山中に人間が入ってもろくなことがない。だから夏は寺に戻り、修行をするのがよい、という意味だろう。

  仏教は頭の中でつくり上げたイマジネーションなどではなく、山の暮らしの中で動植物の観察の中から、自然と人がどう共存するかという知恵のようなもの。修行僧が山にこもるのも、自然から教えを請うためだ。ところが、夏は動物や虫たちの動きが活発になるので、刺されたり、噛まれたり、暑さで体調を崩したりするので無視しない、寺に戻り修行せよということになる。いわば経験則だ。

   現代風に言えば、熱中症が怖いので、外出は避け、家のエアコンで涼んで酷暑が去るのを待とう、それが自分なりの「夏安居」の解釈だ。還暦を過ぎて何事も無理しないという勝手解釈でもある。夏安居、なんて奥深く、使い勝手がよく、有難い言葉であることか。草むしりやをやめて、エアコンの効いた室内から庭を眺めながら、ウイスキーの水割りを飲んで、ついうとうとしてしまった。外気温は33度だった。

⇒10日(月)朝・金沢の天気    はれ

★金沢の「透かし」剪定

★金沢の「透かし」剪定


  先日、夏恒例の庭木の刈り込み(剪定)をいつもの造園業者にお願いした。若手の庭師4人が2日がかりで作業をしてくれた。すると不思議なもので、庭だけでなく、お願いしたこちらも心がすっきりとするのだ。

  庭木は自然に任せると、3、4ヵ月で枝が込み入り、葉が繁り放題になる。庭木として形状を保つためには、刈り込みが欠かせない。剪定によって樹木の内側まで光があたるようになるため、樹木が丈夫に育つともいわれる。また、特定の庭木だけではなく、全体の刈り込みで庭の調和をはかる。2日間はどうしても必要な作業日程なのだ。

  たとえば、生垣。刈り込むことにより芽を詰まらせて、街路からの目隠しとしての役割を果たす。庭木は、形状を整え、樹木が有する本来の美しさを保つ。もう一つの剪定の効果は、刈り込みで病害虫を防ぐことである。日当たりや風通しを良くすることで、害虫をつきにくくするのだ。というのも、庭木への害虫には、葉を食う毛虫類や、幹に穴をあける害虫などがあり、多くは葉の裏に潜んでいたりする。こうした刈り込み作業を毎年夏のお盆前ごころに依頼している。

  ある造園業者の方と話していたら、面白い話を聞いた。「金沢では、庭木をいじめ限界にまで刈り込む昔からの伝統がある」というのだ。そんなに強く刈り込むと、へたをすると枯れるのではないか」と尋ねると、「むしろ、きれいな花を咲かせる」という。それを、金沢では「透かし」と言って、枝が重なり合っている部分の、不要な枝をとことん切り落として透かし、内部まで風が通るようにする。これは、上記の害虫対策だけでなく、べったりと重い金沢の積雪から庭木の枝を守るための知恵なのだという。

  ただ枝葉を剪定するのではなく、庭木への積雪をイメージ(意識)して、剪定を行うということに金沢の庭職人の心得や技というものを感じる。「金沢の強刈り込み」「金沢のいじめ剪定」という言い方をする人もいるが、悪い意味はなく、庭木本来の美しい形状を保つための金沢ならでは剪定技巧なのである。積雪から枝を守る「雪吊り」と合わせて考えるると庭木に対する人の奥深い思い入れを感じる。

⇒8日(土)朝・金沢の天気   はれ

☆天国への階段を守る

☆天国への階段を守る

  7月30日のNHK-BS1番組「国際報道2015」で、金沢大学が取り組んでいる、フィリピンのユネスコ世界文化遺産、FAO世界農業遺産の「イフガオの棚田」での人材養成プログラムが紹介された。午後10時40分からのワールド・ラウンジのコーナーで10分ほどの特集だった=写真=。タイトル「〝天国への階段〟を守るために」。7月25日には地上デジタルのNHK「おはよう日本」でも紹介されていて、知人からは「テレビ見たよ」とメールをいただいた。

  このプログラムは、金沢大学がフィリピン・ルソン島イフガオで実施している国際協力機構(JICA)草の根技術協力事業「世界農業遺産(GIAHS)イフガオの棚田の持続的発展のための人材養成プログラムの構築支援事業」(通称:イフガオ里山マイスター養成プログラム)だ。2013年5月、能登で世界農業遺産国際フォーラムが開催され、そのときに能登コミュニケ(共同声明)が採択された。その内容は「先進国と開発途上国の間の認定地域の結びつきを促進する」などの勧告だった。このコミュニケを今後の能登にどう活かせばよいのか。金沢大学里山里海プロジェクトの代表、中村浩二教授と思案をめぐらし、フィリピンのイフガオ棚田との連携を思い立った。

  イフガオの棚田は、ユネスコや国連食糧農業機関(FAO)により国際的に評価を受けているものの、若者の農業離れや都市部への流出により、耕作放棄地の増加が懸念されている。4分の1が耕作放棄地になりつつあるとの指摘もある。地域の生活・文化を守り、継承していく若者も減っている。さらに、絶景で「天国への階段」とも称される棚田が崩れることもままある。そのために、JICAや世界のNGOが懸命になって、地域を支援している。ただ、土地には土地の人の考えがあり、そう簡単ではない。

  実は、同様の課題を有しているのが、能登半島だ。担い手が減り、田んぼを始め、山林や畑、地域の祭り文化も後継者がいないというところが目立っている。若者たちにもう一度地域の価値を理解してもらい、地域をどのように活用すればよいか、そのようなことを考え、実践する人材を育てている。金沢大学が地域の自治体とともに取り組んでいる、「能登里山里海マイスター」育成プログラムがそれだ。もう8年間続け、修了生(マイスター)は107人になった。各地で107人の活動は能登を明るくしていると自負している。

  イフガオの話は金沢大学の中村教授が勝手に進めたのではなく、フィリピン大学の教授たちから、能登の人材養成を取り組みをぜひイフガオで活かしたいとのオファーが中村教授にあり、どうノウハウを移転すればよいか、JICA北陸や同じ世界農業遺産の佐渡の人たちと連携を進めた結果なのだ。

  そのイフガオ里山マイスター養成プログラムが昨年4月に始まり、2年目にしてさまざまな成果が表れてきた。番組で紹介されたマイラ・ワチャイナさん(29)のライス・ワイン。当地では伝統的な酒づくり。大鍋を使って米を火で炒(い)る。こんがりきつね色になるまで炒って、水を入れて炊きく。そこに昔から伝わるイースト菌を入れてバナナの葉でくるみ、5日間発酵させれば出来上がり。イフガオ伝統のティブンと呼ばれるライスワイン。酸味が効いて、甘味があり、確かに日本酒よりもワインに似た味だ。これまでは各家の地酒だった。それを品質を統一して共同出荷することでイフガオブランドの酒として地元のホテルや海外に出荷できないか視野が広がってきた。昨年9月、能登研修で造り酒屋を見学したマイラさんは酒瓶のラベルに注目していた。自作のラベルを考案して、酒瓶に貼って、共同出荷する。もともと有機栽培のイフガオの米はもっと世界に売れてよい、さらにライスワインが売れれば、土地の誇りにもなり、棚田を耕そうとする若者も増える、そうマイラさんは考えているのだ。

     また、有機の水田を活用したドジョウの養殖も番組では紹介された。ライスワインとドジョウ、地道なビジネスかもしれないが地に足をつけた、可能性のあるビジネスだ。

  イフガオ里山マイスター養成プログラムはそういったアイデアを持った若者たちの夢や希望を育む場、なのである。同じく若者たちが都会に流失して田んぼが荒れていることを憂う能登里山里海マイスター育成プログラムの受講生たちとは相通じるマインドがそこにある。まさに棚田を救う天国への階段、NHKが2度も放送した価値はそこにあるのだろう。

⇒2日(日)午後・金沢の天気  はれ

★「金沢空襲」計画

★「金沢空襲」計画

  戦争ネタが新聞やテレビに載りやすい夏の時期、ちょっと意外な記事があった。1945年7月にアメリカ軍によって「金沢空襲」が計画された、というのだ(7月26日付・北陸中日新聞)。金沢に住んでいる者の根拠のない共通の理解として、金沢は京都と同じく文化財的な街並みや寺院が多く、空襲の対象にはならなかったという認識を有している。その証拠に、金沢市郊外の湯涌温泉にかつてあった「白雲楼ホテル」は戦後、GHQ(連合軍総司令部)のリゾートホテルとして接収され、マッカーサー元帥らアメリカ軍将兵が訪れていた、と。

新聞記事を以下引用する。太平洋のマリアナ諸島から出撃するアメリカ軍の日本空襲は1944年11月に開始され、東京や大阪、名古屋などの大都市攻撃がほぼ終了した45年6月からはその標的が地方都市に移った。北陸地方で最初の空襲は同年7月12日の福井県敦賀市、日本海側の空襲はとくに7月中旬から8月上旬に集中した。その後は、爆撃目標が市街地から港湾や鉄道に変更された。

アメリカ軍が金沢市を攻撃目標とする空襲計画を立てていたことが分かったのは、アメリカ軍資料を収集する徳山高専元教授の工藤洋三氏(65)=山口県周南市=が分析したもの。金沢空襲の計画書は1945年7月20日付で作成され、同年8月1日夜に甚大な被害が出た富山大空襲の計画書が作られたのと同じ日だったという。一方で、同じく8月1日に空襲を受けた新潟県長岡市の計画書は、金沢より遅い7月24日付で作成されている。

金沢空襲の計画書によると、攻撃目標は北緯36.34度、東経136.40度。現在の座標とは数100㍍の差異があるが、旧日本軍の司令部があった金沢城付近を狙ったとみられる。高度4500㍍ほどから爆弾を投下し、70分以内で攻撃を完了する計画だったようだ。

記事では金沢への爆撃ルートも紹介されている。攻撃隊はまずグアム島の基地から出撃。硫黄島や現在の静岡県御前崎市上空を通過し、富山県黒部市付近で進路を北西に変える。石川県の穴水町あたり周回し、金沢に向かって南下。空襲後は再び、御前崎市や硫黄島の上空を通って帰還するルート想定だった、という。

7月19日には福井市が焦土と化していたので、次は金沢と誰もが覚悟したことだろう。8月1日、B29の爆撃編隊は、金沢の上空を通り過ぎて、富山市に1万2000発余りの焼夷弾を投下した。11万人が焼け出され、2700人余りの死者が出た。実際は金沢に空襲はなかった。計画が実行されていれば金沢市の中心分は灰じんに帰していたことだろう。

なぜ金沢は空襲を免れたのだろうか。そのヒントは北陸で最初に空襲を受けた敦賀市の事例にあるのかと考える。敦賀市では当時、日本海側の主要港湾で、大阪周辺で被災した軍事施設が疎開していたといわれる。また、富山には発電所を基盤とした重工業の工場が立地していた。ところが、当時の金沢は陸軍第九師団が置かれていたものの、産業といえば繊維が主だった。しかも、九師団の兵は台湾などに赴いていた。総合的に考察すれば、空襲の計画はされたものの、軍事的な価値では優先度が低かったのではないか。

しかし、富山の場合は工場が集中的に目標になったのではなく全市が標的になった。いわゆる「無差別攻撃」である。この意味では金沢も攻撃対象になり得たのではないか。その後、8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下される。無差別攻撃は一気にエスカレートしたのである。

⇒31日(金)朝・金沢の天気    はれ

☆「酒蔵の科学者」の引退

☆「酒蔵の科学者」の引退

 昨日の地元紙の朝刊に、酒造りの名人と言われた農口尚彦(のぐち・なおひこ)さん(82歳)が杜氏(とうじ)を引退したとの記事が掲載されていて、能登町のご自宅を訪ねた。金沢大学の共通教育授業として「いしかわ新情報書府学」という科目を担当していて、非常勤講師として農口さんに語ってもらったことが縁でこれまでご自宅や酒蔵を何度か訪ねた。

 日本酒の原料は米だ。農口さんは、米のうまみを極限まで引き出す技を持っている。それは、米を洗う時間を秒単位で細かく調整することから始まる。米に含まれる水分の違いが、酒造りを左右するからだ。米の品種や産地、状態を調べ、さらには、洗米を行うその日の気温、水温などを総合的に判断し、洗う時間を決める。勘や経験で判断しない。これまで、綿密につけてきたデータをもとにした作業だ。酒造りのデータを熱心に記録する姿を見て、「酒蔵の科学者」との印象を強くしたものだ。

 冬場は酒蔵に住み込む農口さんは、夜中でも米と向き合い、米を噛み締める。持てる五感を集中させて、手触り、香り、味など米の変化を感じ取る。そのため、40代にして歯を失った。次に行うべき適切な仕事とは何かを判断するためだ。農口さんは言う。「自分の都合を米や麹(こうじ)に押し付けてはならない。己を無にして、米と麹が醸しやすいベストな状態をつくらなければ、決して良い酒は出来ない」。酒造りに生涯をささげた人の言葉はふくいくとした深みがある。農口さんは全国新酒鑑評会で連続12回、通算27回の金賞に輝き、「四天王」や「魂の酒造り」「酒の神」と呼ばれるまでになった。

 農口さん自身は下戸(酒が飲めない)なので、酒の出来栄えや批評は、飲める人の声に耳を傾ける。それでも、「一生かかっても恐らく、酒造りは分からない。それをつかもうと夢中になってやっているだけです」と能登方言を交えた語りがいまでも耳に残っている。「魂の酒造り」のゆえんはここにある。日本酒は欧米でちょっとしたブームだ。ワインやブランデー、ウイスキーなどの醸造方法より格段に手間ヒマをかけて醸す日本酒を世界が評価しているのだ。

 授業では、農口さんを紹介するビデオを流し、「神技」とも評される酒造りの工程を学生に見せた。授業の終わりに、農口さんが持参した酒を何人かの学生にテイスティングしてもらった。「芳醇な香り」「ほんのり感が漂う」「よく分からないけど、のどを通るときにふくよかな甘さを感じる」。最近の学生は意外と言葉が豊富だ。「生きた授業」になった。訪れたご自宅ではそんな懐かしい話もさせていただいた。

 自宅を辞するとき、農口さんから「これ一本持って行きなさい。これで最後だよ」と生原酒をいただいた。名工の最後の一本、ありがたく頂戴した。(※写真は、金沢大学の授業で学生たちと語り合う農口尚彦さん=右)

⇒21日(祝)夜・金沢の天気    はれ

★歴史家の「闘争」

★歴史家の「闘争」

  かつて新聞記者としての経験から、インタビューには緊張があり、また相手から画期的な証言を引き出したときの醍醐味、そしてそれが記事になって世間に出た時の言い知れぬ喜び、というものがある。それはアカデミズムの世界でも共通なのだと実感した。人と向き合い、話を引き出すというのはある意味で闘争でもある。伊藤隆著『歴史と私~史料と歩んだ歴史家の回想~』(中公新書)を読み終えて、「老兵は死なず」の言葉を思い出し、著者に敬服した。

  現在80歳超えた著者は東京大学や政策研究大学院大学で、日本近現代史を切り開いた研究者である。本の帯にも書かれている通り、若き日の共産党体験や、歴史観をめぐる論争、伊藤博文から佐藤栄作にいたる史料収集と編纂の経緯を回想している。著書の後半では、岸信介や後藤田正晴、竹下登らへのオーラル・ヒストリーの秘話やエピソードが綴られていて興味深い。

  歴史学では主として文献から歴史を調べてゆくが、文献資料から知られる内容には限りがある。例えば、政策決定の過程を検討しようとしても、文献としては公表された結果のみで、どのようにそうした決定が行われたのかは、文書が残っていないことが多い(「ウィキペディア」引用)。オーラル・ヒストリー(oral history)は、当時の関係者にインタビューを行うことで、文書が残っていないことや、史料や文献からはわからないことを質問して、その史実や政策の過程などを埋めていく研究手法である。

  このコラムの冒頭で「闘争」と表現したのも、インタビューする側とされる側は常に向き合い、対峙する場面もあるからだ。著書でも、元警察庁長官で中曽根内閣の官房長官をつとめた後藤田正晴氏へのインタビューでは、「なんで君たちは俺の話を聞くのか」と何度も逆に尋ねられたり、「突っかかってくるような感じだった」と。そして、後に著者の身元調査もされたことが後藤田氏本人から告げられ、著者は「後藤田さんはハト派だけれども、やっぱり警察なんだなと、思ったものです」とエピソードを述べている。インタビュー相手から逆に調べられるといった緊張感は、文献を漁る研究では得ることができない、フィールド研究の醍醐味なのだ。このほかにも、「昭和の妖怪」と呼ばれた政治家・岸信介やのオーラル・ヒストリーのエピソードも紹介している。内幕話では、読売新聞の渡邊恒雄氏へのインタビュー(1998年)がきっかけで、その連載を企画した中央公論社が読売新聞社に合併されるという「事件」も起きたこと。海千山千、手練手管の人物と貴重な証言を求めて対峙した回想録でもある。

  著書は、こうしたエピソードや秘話、個人史を織り交ぜながら、日本の近現代史の面白さを伝えているだけでなく、最後の部分にあるように、膨大な史料を次世代へ引き継ぐ歴史家の責任も語っている。史料を発掘し、歴史を描き、そして史料を保存して公開する。著者の歴史家としての闘争はまだ続いていると察した。

⇒5日(日)朝・金沢の天気    くもり

☆「花燃ゆ」スペクタクル

☆「花燃ゆ」スペクタクル

  NHK大河ドラマ「花燃ゆ」をほぼ毎回見ている。司馬遼太郎の小説「世に棲む日日」(文春文庫)をかつて読んだことがあり、吉田松陰の生涯、そしてその弟子たちの躍動を当時のイメージと重ね合わせて楽しんでいる。視聴率は12%前後とそれほど勢いはないようだが、毎回視聴するたびに、幕末の志士たちの、人々の生きざまが胸を打つ。実際もおそらくこうだったのだろう、と。

  6月28日の第26話は緊張感があった。近藤勇ら新選組が襲撃した池田屋事件で、吉田稔麿ら多くの長州藩の志士が逝った。それを受けて、戦後武将のような勢いのある来島又兵衛、久坂玄瑞らが1500人の兵をともなって京に登る。久坂玄瑞は、兵を連れて天王山に陣取るが、戦は避けて、孝明天皇への嘆願が叶うよう動く。長崎に左遷されていた小田村伊之助は、グラバーから西洋式の兵器の調達をする。長州藩の命運をかけた軍議が石清水八幡宮で開かれた。来島又兵衛は御所に進軍、また、久坂玄瑞は戦を避けたいと、意見が真っ向対立するが、結局、京にいる1500人の長州藩兵だけで、御所へ進軍することに決した。一方、西郷吉之助(隆盛)が薩摩藩兵を京に送り、幕府側は諸藩の兵あわせて2万人の大軍で御所の守り固める。

  そんな中、英国、アメリカ、フランス、オランダの軍艦20隻が、下関に向かっているとの情報がもたらされ、長州藩は大混乱に陥る。このようなことになったのは、久坂玄瑞のせいだと藩内で怨嗟の声が起きる。まるで、歴史のスペクタルをタイムトンネルでスリップして、現場でその動きを見ているようで、実にダイナミックなのだ。

  そこで、ふと、この歴史スペクタクルを4Kテレビで見たいとの衝動にかられている。4Kテレビはすでに出荷台数が50万台を超えたようだ。先日も、近所の家電量販店を訪ねると、店のフロントは50型以上の4Kテレビが占拠している。50型だと、25万円程度。店員は、「ボーナス商戦の後だともう少し安くなりますよ」と薦めてくれたが、逆になんと商売っ気のないこと。

    ところで次回27話は内戦に突入する、いわゆる「禁門の変」が描かれる。1864年7月19日、長州藩は会津藩などと京都の蛤門付近=写真=で激突する。長州藩が門を突破し京都御所に入るものの、西郷吉之助の率いる薩摩藩がこの戦いに介入して、長州藩の形勢は逆転する。この禁門の変で長州勢が火を放ち京の街は大火事、さらに御所に向け発砲したことから「朝敵」となる。その後、長州藩は長州征伐や外国船20隻の砲撃の報復で打ちのめされる。が、長州藩の藩論が倒幕に傾き、敵対していた薩摩藩との薩長同盟が実現し、倒幕の道を歩んでいくのだ。紆余曲折油を経て、新たな歴史が拓かれ、日本が動くシーンである。

⇒28日(日)夜・金沢の天気    はれ

★「奇跡のイラスト」

★「奇跡のイラスト」

  今年度から小学校で使われている1年生の国語の教科書に、制作上のミスから腕が3本あるように見える女の子が描かれたイラストが掲載されていたとして、発行元の三省堂が自主回収と交換を始めたとニュースになっている。「まさか」と一瞬思った。文字一句でも厳しい、あの教科書検定のチェックをスルリとかいくぐって、である。※掲載画像と本文はリンクしていません。

  ニュースを総合すると、女の子が花輪を両手で持っているにもかかわらず、もう1本の手が背後の机にあり、腕が3本あるように見えるという不思議な状態になっていた。教科書は、東京都世田谷区などの小学校で使用されていて、世田谷区の教育委員会から5月に、「イラストの子供の腕が3本あるように見える」と三省堂に連絡が入り、イラストを調べたところ、下書きを消し忘れたままの状態で印刷されたことが分かった、という。

  三省堂では、文部科学省への訂正の申請を行い、誤りを正した教科書1万冊を、教科書を使用している地区・学校に連絡し、順次、新しい教科書への差し替えを行っていく予定だという。三省堂のホームページを調べると、真摯なお詫びのコメントを掲載されていた。以下。

      『しょうがくせいのこくご 一年上』イラストの誤りについてのお詫び

 このたび、弊社の国語教科書『しょうがくせいのこくご 一年上』5ページの絵に誤った箇所が見つかりました。教科書において、このような誤りを起こしてしまいましたことを衷心よりお詫びいたします。誠に申し訳ございませんでした。つきましては、文部科学省に訂正の申請を行い、誤りを正した新しい教科書をご用意いたしました。弊社の教科書をお使いいただいている地区・学校にご連絡して、順次、新しい教科書に差し替えさせていただく所存です。児童の皆さま、そして保護者の皆さまには多大なご迷惑をおかけすることになりますが、どうかお許しください。

 今後はこのようなことを起こさぬよう、全社をあげて慎重に編集作業に取り組んでまいりますので、何卒ご容赦のほどお願い申し上げます。

  以上がコメントである。とくに「どうかお許しください」「何卒ご容赦のほどお願い申し上げます」と丁寧に謝っているのが印象的だ。出版社は文字表現で生業(なりわい)を立てている。言葉でその真摯な気持ちが伝われなければ企業としての価値はないと思い、あえて謝罪のコメントをチェックした次第である。

  ところで、教科書は文部科学省の管理下にある。学校教育法により、小・中・高等学校の教科書については教科書検定制度が採用されている。教科書の検定は、民間で著作・編集された図書について、文部科学大臣が教科書として適切か否かを審査し、これに合格したものを教科書として使用することを認める制度だ。今回の教科書にしても、何人もの検定員の目で確認されているはずだ。その目をかいくぐって、世に出たイラストとなる。もう少しうがった見方をすると、文章表現は一字一句を細かくチェックするが、イラストなど図や写真に対してはそんなに厳しくないということか。

  それにしても、このイラスト、教科書検定制度下にあって、ある意味で奇跡のデビューを果たしたと言えなくもない。

⇒24日(水)朝・金沢の天気    はれ

☆USJ、見て歩き

☆USJ、見て歩き

  GW旅行の3日目は大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)に行った。1日しか時間が取れなかったので、エクスプレスパス(税込7200)をあらかじめ購入して主なところを回った。ハリーポッター・アンド・ザ・フォービドゥン・ジャーニーやバックドラフト、バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド、アメージング・アドベンチャー・オブ・スパーダーマンTM・ザ・ライド、ウオーター・ワールドなど。

  東京ディズニーリゾートはこれまで計5回、かたや、USJは今回初めて。この2大テーマパークのコンセプトの違いは何だろうか。USJは、炎を使った演出が多い、ディズニーリゾートでも炎を使った演出はあるが、USJは過剰なくらいに演出がされている。もう一つが、サーカスと思えるほどの空中を舞うアクションの迫力さだ。ちょっとでもミスしたら惨事になりかねないと思えるほど。迫真の演技はディズニーリゾートではお目にかかれない。

  炎の演出は、バックドラフト。果敢な消防士の物語を描いた映画「バックドラフ」をテーマにしている。入場すると、3つの部屋に分かれていて、AD(アシスタント・ディレクター)と称する女性が案内してくれる。1番目の部屋では映画「バックドラフト」の説明を。2番目の部屋では「映画のロケとは何か」の説明を映画のキャストのVTRを交えて。そして3番目の部屋が「映画シーンの再現」だ。化学工場の火災を再現して、タンクや貯蔵庫などいろいろな場所から炎と火花が飛び散り、その炎の勢いは本物の火災のよう。最後に、頭上からパイプが落ちてきて、ガクンと実際の床が下がり、キャーと観客(ゲスト)の悲鳴がする。自分自身もちょっと肝をつぶした。

  迫真の演技は、ウォーターワールド=写真=。1995年のSF映画が題材で、地球温暖化によって北極と南極の氷が溶けて海面が上昇し、海だけが広がる海洋惑星となったとの想定。陸地「ドライ・ランド」の情報をめぐって、武装集団が押しかけて来るとのシナリオ。面白いのが座席の色だ。水色は前方、茶色は後方に設置されていて、水色は「濡れる危険が大」の座席で、茶色は「濡れる危険が小」の席となっている。水色の席に座るゲストはビニールのポンチョを頭からかぶっている人がほとんど。そして、仕掛けが大きい。飛行機がシアターに突っ込んでくるシーンもある。水上バイクがステージを勢いよく走り回り、その水しぶきが前列にいる水色の座席のゲストにかかるのだ。炎と水しぶき、USJのアトラクションを表現すればこれに限る。

  東京ディズニーリゾートとUSJの違いの気になったもう一つは再入場のこと。USJは再入場ができないのだ。その理由を考察すると、おそらく再入場を可能とすると、観客の多くはテーマパークの外の飲食街で食事を済ませてしまうからではないか。かたや、ディズニーリゾートは再入場は可能となっている。これはすぐ近くに飲食店街がないからだろう。もし近場にファミレスなどがあれば、再入場はNGになっていたかもしれない。儲けのためのシナリオも抜け目ない。

⇒4日(月)夜・金沢の天気   くもり   

★南紀白浜、見て歩き

★南紀白浜、見て歩き

  2日と3日の両日、ゴールデン・ウイークの連休を利用して南紀白浜を旅行した。特急「くろしお」の車窓からは、コバルトブルーの海とリアス式海岸の絶景が広がる。万葉の時代から、人々を感動させてきた絶景だ。

  「み熊野の浦の浜木綿 百重(ももへ)なす 心は思へど ただに逢はぬかも」は万葉集の歌人、柿本人麻呂が詠んだ歌。海辺を彩る涼しげなハマユウの花が人麻呂の想像をかき立てたのだろう。藤原京に出仕していた時代、気になるのはどのようにして「熊野の浦」にたどり着いたのだろうか。海岸の道を歩き、山を越えるルートは、熊野へ詣でる都人にとってまさしく苦行の旅だったろう。そのときに浜辺のハマユウの白い花がなんともいとおしく思えた、そんな歌だったのだろうか。

  JR白浜駅で下車して、バスで白良浜に向かった。白良浜(しららはま)の石英砂は目にまぶしい。ちょうど夕日が落ちるころだった。北陸の海岸でも、こんなに白い浜は見たことがない。明治から大正にかけてはガラス原料として採取されていたほど豊富だったが、現在は浜が痩せ、オーストラリア産の珪砂が入れられているとか。

  白良浜から徒歩3分、海を望む高台に建つホテルがきょうの宿だ。最上階の露天風呂や貸切風呂からの眺めも格別だ。夕食に赤ワインを飲むと一気に眠気が襲ってきた。ズボンを穿いたままそのまま寝込んでしまった。夜中の11時ごろだったろうか、ふと気が付くとドアをコンコンコンと小刻みにノックをする音がする。スコープのないドアなので、「誰ですか」と問うと、女性の声で「ドアを開けてください」との声がする。私はピンときた。その筋の人だな、と。古い温泉街の夜のビジネスが今でも生きているのだ、と。なので、放っておいた。その後はノックもなく。また、寝込んでしまった。後で思えば、その女性は同じフロアの客で部屋を間違えてノックしたのかもしれない、とも思った。これは自分自身も経験があるからだ。

  翌日(3日)朝、白良浜へ散歩に行くと、人が群れていた。水着になっている子供たちもいる。「海開き」と看板が出ていた。おそらく本州で最も早い海開きではないか。北陸だと7月だ。フラダンスの女性たちもいてなんともにぎやかしそう。その開放感に、さすが、南紀白浜だと実感した。

  バスで「アドベンチャーワールド」に出かけた。動物園と水族館、遊園地がまじりあった混合施設のよう。ここの名物のパンダは行列が長すぎて遠目で見ただけだった。メインイベントが動物たちのパレードだ。ペンギンやラクダが大音響のBGMのもとでエントランスの広場を行進するのだ。子供たちは目を爛々と輝かせながら見つめている。ただ、私には「動物虐待」という四文字が脳裏によぎった。

  夕方、アドベンチャーワールドから路線バスで白浜駅に向かった。車中はほぼ満員だ。出発するとき、運転手がこう説明した。「道路がとても混みあっているので、迂回して、まず白浜駅に行きます」と。このバスは路線バスなのになぜ迂回するのかと不思議に思った。道路運送法の違反だろう、と。ただ、多くの客は白浜駅に降りるので、客とすればその方がありがたいのだ、が。このとき、作家の司馬遼太郎の著書の記述を思い出した。「紀州方言には敬語がない」と。明治初めに紀州や土佐で自由民権運動が起こったのも、ある意味で合理的な考えの持ち主が多かったからだろう、と。

⇒3日(日)朝・大阪の天気  くもり