★能登地震の被災者の語り 「長靴の恩返し」「ペチャンコの家」「DMATに感謝」

★能登地震の被災者の語り 「長靴の恩返し」「ペチャンコの家」「DMATに感謝」

  元日の能登半島地震で被災し、仮設住宅で生活している人たちから直接話を聴く機会がこれまで何度かあった。そのなかからリアルな話をいくつか。「家がペチャンコになった」から始まった話があった。ペチャンコは潰れて平になるとの意味。能登半島では2020年12月以降、地震が頻発するようになった。揺れに慣れてきて、「また地震か」という気持ちになっていた。この気の緩みのせいで、いざというときに持ち出す貴重品の置き場を定めておくのを失念していた。元日に大きな揺れが来て、貴重品どころか逃げ出すのがやっとだった。ペチャンコになった家からは貴重品を取り出せず、公費解体に立ち会うことにしていて、順番をひたすら待っている。

  別の被災者の話。元日の夕方の揺れで、慌てて外に出た。「家にまだ人がいます。誰か助けてください」とひたすら叫んでいた。すると一台の車が止まった。小学生の子供ら家族が乗っていた。30代くらいの女性が車の中から出てきて、「これを履いてください」と長靴をくれた。靴を履かずに靴下で外に出ていたことに気がついていなかった。女性は「東京に帰りますので」と言い、そのまま去った。そのときお礼も十分にできずにいた。その長靴の恩はいまも忘れられない。色とりどりの円模様が入った黒長靴だ。「お礼をしたい」と繰り返し話していた。

  ほかにも地震にまつわるさまざまな話を聴いた。地震で家屋がきしむギシギシという音を思い出して、いまも身震いすることがある。地震で物が落ちると言うが、元日の震度7の揺れではじつに奇妙な落ち方だった。棚の上にあった電子レンジが一瞬、宙に舞うようにして落ちた。

  避難所生活の話。学校の体育館で避難生活を続けていた、もともと独り暮らしのシニアの話。体育館では、小さな子どもたちも一緒に避難所で生活していたので、走り回ったり、騒いだり、その姿にむしろ元気をもらった。困った話も。シニア層はトイレの回数が多く、夜中もトイレに何度か行く人もいる。トイレの帰りに手洗いをしない人も多く、問題になっていた。避難所にやってきたDMAT(災害派遣医療チーム)の看護師に相談すると、消毒液スプレーを配置してくれた。これをみんなが使うようになり、安心した。

  震災の環境での暮らしで被災者には新たな発見や悩み事などさまざまにある。これまで話を聴かせてもらい、むしろ被災者から元気をもらったり、知恵を授かったりすることが多い。これからも被災者の話に耳を傾けていきたい。

⇒24日(日)夜・金沢の天気    くもり   

☆きょう二十四節季の「小雪」 凍結や積雪への心構えが問われる日

☆きょう二十四節季の「小雪」 凍結や積雪への心構えが問われる日

  きょうは二十四節季の「小雪」。寒さが進み、そろそろ雪が降り始めるころとされるが、金沢は朝から雨模様だが、最高気温は15度、最低気温は9度となっていて、寒さを感じるほどではない。例年、小雪のころから冬の訪れを告げるかのように雷が鳴り始める。きょう金沢では雷注意報が出ていて、午後6時前ごろに雷鳴がとどろいていた。今月28日と29日にも雷マークが出ている。北陸ではこの時季の雷を「冬季雷(とうきらい)」、能登では「雪だしの雷」と言ったりする。ブリが能登半島に回遊してくるころと重なる。

  きのう夕方、金沢と能登を結ぶ自動車専用道路「のと里山海道」を走っていると、「スノータイヤ 早めに装着」と電光掲示板が出ていた=写真=。ノーマルタイヤからスノータイヤへの履き替えを促している。寒波が吹き込むと、のと里山海道の路面は凍結や積雪におおわれる。海岸沿いの道路は凍結し、山沿いの道路は積雪となる。なので、スノータイヤへの交換は北陸の冬では必須だ。冬の時季、のと里山海道や北陸自動車道で事故が多いのが県外ナンバーの車だ。スタッドレスなど冬用タイヤを装着していなかったために追突やスリップ事故などに遭遇する。そもそも、凍結や雪道での運転に慣れていないせいもあるだろう。話が逸れた。

  元日の能登地震で奥能登(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)では、道路に敷設された消雪装置の大半が壊れたままとなっていて、その路線が延べ40㌔ににもおよぶと、地元メディアが報じている(21日付)。中でも、半島の尖端に位置する珠洲市では市内の国道、県道、市道の合わせて25㌔の消雪装置が壊れたままとなっている。消雪装置は市内のメイン道路に設置されていて、冬場の通勤や通学の道路には欠かせない。同市では上下水道の復旧を最優先で取り組んでいて、道路の消雪装置の修繕の見通しは立っていないようだ。車道に雪が残れば、スタッドレスタイヤを装着した車でもスタック(立ち往生)が格段に増える。

  報道によると、同市では消雪装置が使えない分を除雪車を増やして対応する予定で、前の冬から10台増やし190台で対応する。また、国道では積雪5㌢で除雪車が出動するが、一部の県道でも国道と同じ基準で除雪を行う。雪道では車道、歩道問わず事故が発生しやすい。いよいよその季節がやってくる。

⇒22日(金)夜・金沢の天気    あめ

★能登半島の尖端・珠洲市で見た坂茂氏の3作品 込められた建築家の美学と使命感

★能登半島の尖端・珠洲市で見た坂茂氏の3作品 込められた建築家の美学と使命感

  優れた芸術家に贈られる第35回高松宮殿下記念世界文化賞(日本美術協会主催)に建築家の坂茂(ばん・しげる)氏ら5人が選ばれ、今月19日に授賞式が東京で開催された。坂氏は建築作品をつくりながら、自然災害や戦争の被災者の住環境を改善する活動家でも知られる。報道によると、受賞者を代表してあいさつした坂氏は「受賞されたみなさんも美しいものを追求しているだけではなく、社会的な問題を批判したり、その解決策を提案しているアーティストだと思う」と述べ、「受賞を励みに世界中で社会貢献活動をしていきたい」と力を込めた。

このニュースを見て、坂氏の受賞を喜んでいるのは能登半島の尖端、珠洲市の泉谷満寿裕市長ではないだろうかとふと思った。このブログで何度か取り上げたが、同市と坂氏の関わりは深い。自身が初めて坂氏の作品を見学したのは去年5月15日だった。その10日前の5日に同市で震度6強の地震があった。被災地を歩ていると、泉谷市長から声をかけられた。同市とは金沢大学の地域連携プロジェクトで協力関係にあったので、これまでも市長から何度か声をかけていただいた。

立ち話で「バンさんのマジキリがすごいので見に行かれたらいい」と。「バンさんのマジキリ」の意味が最初は分からなかったが、とりあえず近くの公民館に見に行った。公民館は被災者の避難所になっていた。館内を見ると、マジキリは避難所のパーテーションのことだった。常駐スタッフの説明では、建築家の坂茂氏が被災した人々にプライバシーを確保する避難所用の「間仕切り」の支援活動を行っていて、同市に寄贈されたものだった。間仕切りは木製やプラスティックなどではなく、ダンボール製の簡単な仕組み。カーテン布が張られているが、プライバシー確保のために透けない=写真・上=。中にあるベッドもダンボールだ。環境と人権に配慮した建築家の工夫がそこに見えた。

坂氏は1995年の阪神大震災を契機に災害支援に取り組んでいて、珠洲市での地震でもいち早く行動を起こした。これがきっかけで、坂氏の名前を初めて知った。(※マジキリはその後、公民館から撤去されている)

再び坂氏の作品を目にしたのはその年の秋に珠洲市で開催された「奥能登国際芸術祭2023」だった。急な坂道を上り、丘の上に立つと眼下に日本海の絶景が見渡せる。海岸線に沿うように長さ40㍍、幅5㍍の細長い建物「潮騒レストラン」があった。一見して鉄骨を感じさせる構造だが、よく見るとすべて木製だ。公式ガイドブックによると、ヒノキの木を圧縮して強度を上げた木材を、鉄骨などで用いられる「トラス構造」で設計した日本初の建造物、とある。日本海の強風に耐えるため本来は鉄骨構造が必要なのかもしれないが、それでは芸術祭にふさわしくない。そこで、鉄骨のような形状をした木製という稀にみる構造体になった。まさにこの発想がアートだと感じ入った。

話は前後するが、5月の地震でのマジキリは、坂氏が芸術祭の作品の打ち合わせで以前から珠洲市の現地を訪れていたこともあり、設置の話がスピード感をもって進んだようだ。

もう一点。元日の最大震度7の能登地震で、珠洲市に坂氏が監修した仮設住宅が整備された=写真・下=。木造2階建ての仮設住宅は木の板に棒状の木材を差し込んでつなげる「DLT材」を積み上げ、箱形のユニットとなっている。石川県産のスギを使い、木のぬくもりが活かされた内装となっている。観光名所でもある見附島近くあり、外装の色合いも周囲の松の木と妙にマッチしていて、まるで海辺の別荘地のような雰囲気を醸し出していた。

能登の尖端で見た3作品から、世界中で社会貢献をしていきたいと提案型の作品をつくり続ける坂氏の建築家としての美学、そして使命感が伝わってくるようだった。

⇒21日(木)夜・金沢の天気    あめ

☆能登半島の沖に連なる「178㌔の海域活断層」 原発にどう向き合うのか

☆能登半島の沖に連なる「178㌔の海域活断層」 原発にどう向き合うのか

  能登地方では2018年から小規模な地震活動が確認され、2020年12月以降で活発化し、ことし元日にマグニチュード7.6、最大震度7の地震となった。震度7の観測地点は輪島市門前町走出と志賀町香能の2ヵ所。半島の中で隣接するこの輪島市門前町と志賀町はこれまでも大きな地震に見舞われている。自身の記憶にあるのは2007年3月25日に門前沖を震源とするマグニチュード6.9、震度6強の揺れ。過去には、1892年12月9日に志賀町沖を震源とするマグニチュード6.4の地震が起きている(政府の地震調査委員会資料より)。志賀町には北陸電力の志賀原発の1号機・2号機=写真=があり、現在は2機とも停止中なのだが、現地の人たちにとっては揺れが起きるたびに気が気ではないだろう。

  けさ(20日)の地元紙によると、北陸電力は元日の地震を受け、志賀原発2号機の再稼働に向けた原子力規制委員会の審査(今月6日)で、能登半島北部に連なる海域の活断層をこれまでの96㌔から178㌔に修正して見直していることが分かった。活断層が連動する長さをこれまでの1.8倍とすることで、原発で想定する揺れや津波の大きさに影響することになる。

  この記事を読んで、電力側の対応が遅いのではないかというのが県民の一人としての自身の感想だ。今回の地震では、すでに政府の地震調査委員会は半島の北東から南西にのびる150㌔の活断層がずれ動いたことを指摘している。元日から4日間の揺れは、1日が358回、2日が387回、3日が135回、4日が65回の計945回におよんだ(気象庁の報道発表、図はウエザーニュース公式ホームページより)。半島の尖端部分で起きた主破壊は西と東に分かれ、それぞれ向きや傾斜の異なる断層を次々と破壊しながら大きく成長していった様子が明らかになっている。また、研究論文「2024 年 Mw 7.5 能登半島地震における複雑な断層ネットワークと前駆的群発地震によって制御される複合的な破壊成長過程」(研究者代表:奥脇亮・筑波大学生命環境系助教、深畑幸俊・京都大学防災研究所附属地震災害研究センター教授)は、「長く静かに始まり、向きや傾斜の異なる断層を次々と破壊した」と表現している。

  これまでの2号機の再稼働に向けた審査の中で、電力側は原発敷地内を通る10本の断層は「活断層でない」と主張し、これを受けて原子力規制委員会は2023年3月3日の会合でその主張を妥当と判断し、2号機再稼働への道を開いた。ところが、今回の地震で原発周辺の海域で活断層が連動することがはっきりした。実際、元日の地震では原発敷地の地下で震度5強を観測。変圧器が故障し、外部電源の一部が使えない状況が続いている。また、この日に4㍍の津波が周辺を押し寄せた。

  敷地内の断層が「活断層でない」から原発が安心安全なのではなく、半島の沖にある178㌔もの連動した活断層にどう対応するのか、揺れや津波想定をどう算出していくのか、この壮大な難問に向き合うことになるのだろう。正直、志賀原発が止まっていてよかったというのが県民の思いではないだろうか。

⇒20日(水)夜・金沢の天気     くもり

★「コロナ」から5年、ワクチン接種8回目 マスクはすっかり日常に定着

★「コロナ」から5年、ワクチン接種8回目 マスクはすっかり日常に定着

  打つか打たないか少々迷ったが、結局、打つことにした。きのう(18日)金沢市内のクリニックで新型コロナウィルスのワクチン接種をしてきた。新型コロナウイルスの感染症法上の位置づけが2023年5月に5類に移行して、単なる風邪くらいのイメージだったが、5類以降でコロナに罹った知人から発熱とのどの痛みに悩まされ続けたと聞かされ不安に思ったことがある。なので5類以降も、接種の案内が市役所から届くたびに律儀に接種を続けてきた。ただ今回市役所から案内で迷ったのは、前回去年11月13日に接種したのが最後だったので、あれから11ヵ月も経っている。「もういいだろ」と「いちおう念のため」の思いが交錯した次第。

  1年ぶりの接種、8回目だった。医師は右肩にさりげなく接種。これまでは、15分ほど待合室で待機して、何もなければ退室だったので、今回も「このまま15分待っていればいいですか」と医療スタッフに問うと、「そのままお帰りください」とのことだった。新型コロナワクチンは、2023年度までは全額公費負担で無料接種が行われてきたが、今年度はインフルエンザと同じ予防接種扱い。なので自己負担、2300円だった。(※写真・上は、ファイザー社のワクチン=同社の公式ホームページより)

  間もなく師走。年の瀬ともなれば年末の行事や買い物など忙しくなり、人と会う機会も格段に増えるだろう。で、「やっぱり打ってよかった」といま思っている。ワクチ接種に理由はない。要は自己防衛の本能なのだろう。

  日本人と新型コロナウイルスとの長い戦いは2020年4月に政府から出された「緊急事態宣言」から始まった。国民生活や経済に甚大な影響をおよぼす恐れがあるとして、総理大臣が宣言を行い、緊急的な措置を取る期間や区域を指定した。5年が経ち、あのころとまったく変わっていない光景がある。マスク着用のことだ。5類に移行してある意味で平時に戻って、世の中全体が肩の荷を下ろしたように楽になった。感染症法に基づく外出自粛要請や濃厚接触者の特定などは廃止となり、マスク着用も個人の判断に委ねられるようになった。ところが、電車やバスの中はもちろんのこと、金沢の街を歩いていてもすれ違うほとんどの人がマスクを着用している。(※写真・下は、2020年4月に当時の安倍総理が1世帯2枚のマスクを配布すると説明=首相官邸公式ホームページ)

  マスクへの執着は弊害を生むこともあった。2020年の非常事態宣言後の夏にマスク着用者に熱中症が続出し、厚生労働省と環境省は「マスクをはずしましょう」とポスターで呼びかけた。マスクを着けたままだと、自らがはいた熱い息を吸うことで、熱中症のリスクが高まる、というのだ。そこで、人と人の間で2㍍以上の十分な距離がとれるのであれば、「マスクをはずしましょう」となる。あれから5年経っても、夏マスクを着けている人は多い。

  コロナ感染が世の中からなくなったわけではないので着用は当然なのかもしれない。コロナ禍でマスクがすっかり日常に定着した。これも自己防衛の本能なのだろう。

⇒19日(火)午後・金沢の天気     くもり

☆豪雨でドロ沼となった輪島の仮設住宅を復旧 キッチンカーや移動販売車が行き交う

☆豪雨でドロ沼となった輪島の仮設住宅を復旧 キッチンカーや移動販売車が行き交う

  前回の続き。輪島市は二重被災地でもある。元日に最大震度7の地震、そして9月に48時間で498㍉という記録的な大雨に見舞われた。市役所に近い宅田町の仮設住宅では、地震の被災者が住んでいた182戸が近くを流れる河原田川が豪雨で氾濫して一帯が冠水した。仮設住宅に土砂が流れ込み、水が引いても一帯はドロ沼の状態だった=写真・上、9月22日撮影=。この豪雨でほとんどの世帯は近くの小学校体育館などの避難所に身を寄せている。今月15日に現地を訪れると、住宅の床や壁の取り換えや、泥を落とす作業、消毒などが行われていた=写真・中=。

  仮設住宅を管轄する石川県庁では、被災者には再入居してもらうことを前提に年内をめどに仮設住宅の復旧作業を急いでいる。それにしても、被災者は元日の震災で避難所生活となり、7月上旬にようやく仮設住宅入居したものの、その3ヵ月後に豪雨で再び避難所生活を余儀なくされている。度重なる自然災害に翻弄され、心痛はいかばかりか。

  河原田川の上流にある小学校グラウンドの仮設住宅を訪ねた。時間は正午過ぎで、仮設住宅地の入り口にキッチンカーが駐車していて、人の列ができていた=写真・下の㊤=。「スパイスカレー」の看板が見えた。このカレーの匂いに誘われて列ができたのだろうか。キッチンカーの場合は、食品衛生管理者講習を受講し、その後に飲食店営業許可(食品衛生法に基づく許可)を取得すれば開業できるので、震災以降ずいぶんと増えているように思える。

  仮設住宅をめぐるとキッチンカーのほかにも、食料品や日用品を積んだ移動販売車=写真・下の㊦=をよく見かける。輪島市内の商店や飲食店の多くはシャッターが閉められていて、被災地の人にとっては、ある意味で便利な存在かもしれない。

  地震の被災者用に整備された仮設住宅は七尾市、輪島市、珠洲市、羽咋市など能登を中心に10市町で6882戸(159ヵ所)におよび、今月12日時点で6671戸が完成している(石川県まとめ)。また、豪雨の被災者用に輪島市で264戸、珠洲市で22戸の整備が進んでいる。供与期間は原則として仮設住宅の完成から2年間となるが、住宅の新築など個別の事情に応じて延長できる。まもなく寒波とともに冬の季節がやってくる。被災者への手厚い対応を行政に望みたい。

⇒18日(月)夜・金沢の天気    あめ

★震災で倒壊した輪島の7階建てビルを解体 焦土と化した朝市通りは更地に

★震災で倒壊した輪島の7階建てビルを解体 焦土と化した朝市通りは更地に

  輪島の漁港で漁船の水揚げの様子を見た後、元日の最大震度7の能登地震で倒壊した7階建てビルや、200棟の店舗・住宅が全焼した朝市通りをめぐった。横倒しとなった7階建ての輪島塗製造販売会社「五島屋」ビルは能登震災のシンボルのような光景となっていて、現地に行くと周囲には十数人が見学に訪れていた。さりげなく「どこから」と尋ねると、九州から来た行政関係者だった。

  現地では、パワーショベルなど重機が3台が動いていた=写真・上=。行政による公費解体で、2棟ある五島屋ビルのうち倒壊を免れた3階建てのビルは解体が終わり、市道にはみ出している7階建てビルの解体が始まっていた。解体と合わせて、国交省は倒壊原因について基礎部分の調査を現在行っている。解体は当初、上部から段階的に輪切りにして解体していく予定だったが、周囲への安全面に配慮して側面から崩すように作業を変更した。3階以上は年内に、ビル全体は年度内に作業を終えるようだ(17日付・地元メディア各社の報道)。

  震災のもう一つのシンボルとなっていた焦土と化した朝市通りはほぼ更地にようになっていた=写真・下=。朝市組合の関係者は震災以降は金沢などで出張朝市などを続けてきたが、最近では「カムバック朝市」を目指して、朝市通りの近くにある輪島市マリンタウンの特設会場で1日限定のイベントを催したり、地元での屋外開催を増やしている。

  震災前は360㍍の通りに200余りの露店が並び、地元で獲れた魚介類や魚の干物、野菜、民芸品などがずらりと並んでいた。おなじみのオレンジ色のテントが並ぶと、中から「買うてくだー」と声掛けがある。売り手と買い手のおばさんたちの楽しそうなやり取りが目に浮かぶ。市民生活を日常に戻すためにも、一日も早い朝市通りの復興を願う。

⇒17日(日)午後・金沢の天気  あめ  

☆10ヵ月ぶり出漁で活気づく輪島の漁港 ノドグロやズワイガニが並ぶ

☆10ヵ月ぶり出漁で活気づく輪島の漁港 ノドグロやズワイガニが並ぶ

  この時季の漁港は、ズワイガニや寒ブリなどで港が活気づく。元日の能登地震で漁港に海底隆起が起きて漁船が港から出れなくなっていた輪島漁港では、海底の土砂をすくい取る浚渫工事が進み10ヵ月ぶりに出漁ができるようになった。きのう(15日)現場を見に行った。午前11時ごろに漁港に行くと、刺し網漁船が水揚げをしていた。氷の入ったカゴにごっそりと入っていたのはノドグロだった=写真・上=。

  ノドグロは金沢ではもともとアカムツと呼んでいて、庶民の魚だった。ところが、2014年のテニスの全米オープンで準優勝した錦織圭選手が記者会見で、「ノドグロが食べたい」と答えたことがきっかけで、焼き魚と言えばノドグロが一気に「出世魚」となった。さらにブームに拍車をかけたのが、翌2015年3月の北陸新幹線の金沢開業だった。観光客が急激に増え、金沢での食べ歩きや土産の需要として、ノドグロ人気が一気に高まった。関東からの観光客にとっては、北陸と山陰は同じロケーションで、金沢に行けばノドグロが食えると思われたに違いない。当時、知人らと「あのアカムツがノドグロに化けて、えらい人気やな」と笑っていた。ところが、値段も高騰して、いつの間にか「超高級魚」の様相になって、笑えなくなった。ちなみに金沢の居酒屋で焼き物一匹は4000円ほどだ。「錦織以前」は確か600円ほどだったと記憶している。

  話が逸れた。さらに漁協の荷捌き場に入ると、ズワイガニのメスの香箱ガニが発砲スチロールの箱に段積みになっていた=写真・中=。これを見て、いよいよ「かに面」の季節だと心が騒いだ。かに面は、これも有名な「金沢おでん」の季節限定のメニューだ。香箱ガニの身と内子、外子などを一度甲羅から外して詰め直したものを蒸し上げておでんのだし汁で味付けするという、かなり手の込んだもの=写真・下=。香箱ガニの漁期は資源保護政策で11月6日から12月29日までと限られている。なので、金沢のおでん屋でかに面を食することができる期間は2ヵ月ほど。期限が限定されたメニューとあって、この時季には金沢おでんの店には行列ができる。これがすっかり金沢の繁華街の季節の風物詩になっている。

  香箱ガニの話に集中したが、オスの加能ガニも人気だ。地元メディア各社の報道(15日付)によると、加能ガニの中でも重さ1.5㌔以上、甲羅幅14.5㌢など基準をクリアしたものは「輝(かがやき)」の最高級ブランド名が与えられ、きのう今季初めて1匹が認定され、金沢港かなざわ総合市場での競りで18万円の値がついた。メスの香箱ガニの最高級ブランド名は「輝姫」でこれは4万円。能登の漁業の再起に向けた第一歩となってほしいと願う。

⇒16日(土)夜・金沢の天気    くもり

★能登に伝わる奇怪なUFO伝説、そして火星人説のルーツとなった能登の海

★能登に伝わる奇怪なUFO伝説、そして火星人説のルーツとなった能登の海

  NHKにしては珍しいUFOのニュースがきょう流れていた。アメリカ国防総省が14日に発表したUFOに関する年次報告書によると、ことし6月までの1年間でアメリカや中東、東アジアなどを中心にUFOの目撃情報が757件あった。そのうち300件については、気球や鳥、無人機などと判断。また、アメリカのスペースXが開発した衛星通信網「スターリンク」の人工衛星を誤ってUFOとして報告するケースも増えている。国防総省の報道官は記者会見で、「これまでのところ、地球外生命体やその活動と技術の存在を示す証拠は見つかっていない」と述べた。国防総省では、UFOかどうか特定ができていないケースについて引き続き分析を続けるとしている。

  このニュースを視聴して、つい能登のUFO伝説を思い起こした。羽咋市に伝わる昔話の中に「そうちぼん伝説」がある。「そうちぼん」とは、仏教で使われる仏具のことで、楽器のシンバルのような形をしている。伝説では、そうちぼんが羽咋の北部にある眉丈山(びじょうざん)の中腹を夜に怪火を発して飛んでいたと伝えられている。さらに、眉丈山の辺りには「ナベが空から降ってきて人をさらう」という神隠し伝説もある。また、羽咋の正覚院という寺の『気多古縁起』という巻物には、神力自在に飛ぶ物体について書かれている(宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」のホームページより)。

  さらにUFOを連想させる奇怪な伝説が能登にある。神から十戒を授かった聖者モーゼが、宝達志水町にある能登で一番高い山、宝達山(637㍍)の山麓、三ツ子塚古墳群の中に葬られているという伝説だ。モーゼは40年の歳月をかけ、ユダヤの民衆をイスラエルの地へ導いた後、シナイ山に登った。そこから「天浮船」(UFO)に乗ったモーゼは宝達山にたどり着き、583歳までの余生をこの地で過ごしたという伝説だ。同町には聖者モーゼが眠るされる伝説の森公園「モーゼパーク」がある=写真・上=。

  そして、宇宙人説も能登がある意味で発祥の地だ。アメリカの天文学者パーシバル・ローエル(1855-1916)は冥王星の存在を予測したことで天文学史上で名前を残したが、ほかにも火星に運河が張り巡らされていると主張し、火星人説を打ち立て論争を巻き起こしたことで知られる。

  そのローエルは滞在していた東京で日本地図を眺め、能登半島の形に関心を抱き、「NOTO」の語感に惹(ひ)かれて1889年5月に能登を訪れた。能登の湾では魚の見張り台である「ボラ待ち櫓(やぐら)」によじ登り、「ここではフランスの小説でも読んでおればいい場所」と一日を過ごした。その訪問記は随筆本『NOTO: An Unexplored Corner of Japan』(1891、「NOTO:能登、知られざる日本の辺境」)で著されている。ローエル研究者のウィリアム・シーハンは論文『To Mars by way of NOTO』(2005)で能登の海での体験から火星の運河説を着想したのではないかと述べている。

  ローエルの火星人説はその後、アメリカにSFブームを巻き起こす。1938年10月、俳優であり監督のオーソン・ウエルズが、ラジオ番組で小説『宇宙戦争』をドラマ化するなど、アメリカでは宇宙への関心が高まり、戦後はソ連との宇宙開発競争へと突き進んでいく。(※写真・下は、能登半島・穴水町にあるパーシバル・ローエルの来訪記念碑)

⇒15日(金)夜・金沢の天気    はれ

☆紅葉の景色あれこれ 1週間遅れの見ごろ、間もなく落ち葉の季節に

☆紅葉の景色あれこれ 1週間遅れの見ごろ、間もなく落ち葉の季節に

  金沢市内の紅葉の写真をけさ10時半ごろに撮影した。並木道のカエデが紅く色づき=写真・上=、イチョウは黄色く=写真・下=、それぞれ青空をバックに映えている。この色彩感のある風景を仰ぎ見ると、晩秋の訪れを感じる。ただ、立冬の頃とは言え、きのう金沢の最高気温は21度、そしてきょうの予想最高気温は18度だ。撮影にダウンのベストを着て外出したが、脱いだ方がよいかどうかと迷った。11月半ばのこの時節、平年だと11度か12度なのでベストは欠かせない。地球の温暖化を肌で感じる。

  去年もそうだったが、温暖化のせいなのか紅葉の季節が遅れている。先月下旬に 長野県大町市で開催された「北アルプス国際芸術祭」を鑑賞に訪れときも、ガイドのスタッフが「芸術作品と紅葉の風景が混ざると面白いのですが、ことしの紅葉は1週間ほど遅れてますね」と話していた。山々は薄く色づいていたものの、全体として緑の景色だった。大町市の公式観光サイト「信濃大町なび」を検索すると、「11月10日現在、全体的に紅葉真っ盛りの大町市です。」とある。紅葉シーズンの遅れは全国的な傾向のようだ。

  遅い紅葉もさることながら、紅葉の樹木を見て感じることは、色づきが見事ではない。紅葉したばかりなのに、黒ずみが混じっているなど染まりが悪いように感じるのは自身だけだろうか。

  そして間もなくすると、紅葉は道路や広場、駐車場などいたるところに舞い落ちていく。落ち葉の季節だ。ある意味で落ち葉は、緑の街である金沢らしい晩秋の光景でもある。この時節の仕事は落ち葉かき。一度すっきりと掃いても、数日たつとまた降り積もり落ち葉かきに追われる。週間天気を見ると、金沢はあさって15日から週明け月曜日まで雨模様が続く。厄介な「ぬれ落ち葉」の季節がやってくる。水気のある舗装面などに張りついて、ほうきで掃いてもなかなか剥がれない。結局、手で一枚一枚取ることになる。紅葉を眺めながら、いろいろ季節のイメージを膨らませてみた。

⇒13日(水)夜・金沢の天気   はれ