☆論点のずれ

☆論点のずれ

  高市総務大臣による「放送局の電波停止の可能性」について、テレビの著名なキャスターやコメンテーター、評論家から「政治家の発言は現場の萎縮を招く」や「権力の言論への介入は許さない」といった批判が相次いでいる。検証したい。

  3月24日、田原総一郎氏や鳥越俊太郎氏らが外国特派員協会で記者会見したとの報道があったので、各紙の記事をつぶさに読むと、以下のようなことが書かれてあった。

  会見に臨んだコメンテーターらは「高市総務大臣の発言は黙って聞き逃すことのできない暴言だ」と述べ、「政権がおかしな方向に行ったときはそれをチェックし、ブレーキをかけるのがジャーナリズムの使命。それが果たせなかったとすればジャーナリズムは死んだもと同じだ」と。田原氏らは「テレビ局の上層部が萎縮してしまう」と指摘した。しかし特派員から質疑応答が始まると、逆に鋭い質問が会見者側に向けられた、という。

  前ニューヨーク・タイムズ東京支局長は「圧力というが、中国のように政権を批判すると逮捕されるわけではない。なぜ、日本のメディアはこんなに萎縮するのか。どのような圧力がかかるのか、そのメカニズムを教えて欲しい」と。インターネットニュースの記者は「高市発言、あの程度のことでなぜそこまで萎縮しなければならないか。NHKは人事や予算が国会に握られているから政権に弱腰なのはわかるが」と。

  さらにきつい一発が飛んだ。香港のテレビ局の東京支局長は「そもそもみなさんは記者クラブ制度をどう考えているのか。また、日本の場合は電波を少数のメディアが握っているため規制を受けている。この放送法の枠組みをどう思うのか」と。

  会見者側は、国による電波停止の発言はジャーナリズムの危機だと訴えたかったのだが、話はむしろ日本のジャーナリズムの異質性や矛盾へと展開していく。とくに記者クラブに関しては日本独特の制度でもある。公的な機関の中で、クラブというマスメディア(新聞・テレビ・通信社)の拠点がある。もともとメディア間の親睦組織だ。記者はよく「虎穴入らずんば虎児を得ず」と言う。ジャーナリズムを名乗る以上、政治との間に明確な一線を引き、緊張感のある関係を維持しなければ、権力監視の役割などできるはずもないのだが、記者クラブはまさに「虎穴」の入口のようでもある。公的な機関の幹部との懇談なども記者クラブが窓口になっている。その記者クラブには他のメディアは実施的に入れないので、排他性や多様性の無さが問題となっているのだ。

  そうした日本固有のジャーナリズムの在り様や現実問題には触れずに、「報道現場が委縮すると」「権力の言論への介入」と言ってみたところで、違和感を感じるのは外国特派員だけではないだろう。記者クラブだけでなく、ある新聞社が購読料を一律に読者に請求する再販制度、あるいは香港のテレビ局の東京支局長が指摘したように、新聞社が系列のテレビ局をつくり、持ち株や人事など支配するクロスオーナシップなどは、少数のマスメディアの特権と化していると言っても過言ではない。

  誤解のないように言うが、記者クラブを廃止せよと主張しているわけでない。新聞社とテレビ局、通信社が独占的に運用している記者クラブの制度に問題があるのではないかと問うている。誘拐事件のとき、人命尊重を優先させるため報道を控えるという記者クラブと警察当局による報道協定などメリットなども否定しているわけではない。

  よれより何より、高市発言で一番の論点は、電波停止の可能性の発言で本来、異議申し立てすべきテレビ局の動きが目立たないことだ。3月17日、民間放送連盟の井上弘会長(TBS会長)は定例の記者会見で、電波停止発言について、「放送事業者は放送法以前に、民放連や各社の放送基準から逸脱しないよう努力している。(電波停止という)非常事態に至ることは想像していない」と述べた。また、テレビ業界で萎縮が広がっているのかという記者の質問に対して「そんな雰囲気はない」と否定している。会見の場で高市発言に真っ向反対の意見を期待した記者団は肩透かしだったに違いない。この高市発言の論点の何かがずれている。

⇒6日(水)朝・金沢の天気   はれ

★旅の目線で東京を-下

★旅の目線で東京を-下

  3日間の東京ツアーで美術館を3ヵ所訪れた。初日は表参道にある根津美術館。これが正面の入口かと思わせる、ひっそりとした正門をくぐる。右に曲がると、左手が竹でおおわれた壁面、右手が竹の植栽、まさに「竹の回廊」となっている。都会の喧騒から遮断するかのように、不思議な静寂感に包まれる。まるで、茶室に続く庭「露地(ろじ)」を歩いているような感覚である。和風家屋のような大屋根の本館は建築家・隈研吾氏の設計によるもの。隈氏は2020東京五輪・パラリンピックの主会場となる新国立競技場のデザインを手掛ける。

     実物が放つ作品の価値と歴史の輝き

  「青山荘(せいざんそう)」の扁額がかかった展示室に入った。内部には茶室が再現されていて、展示室全体の名称が「青山荘」という。「春情の茶の湯」と銘打った茶道具の展示されていた。春の情景をイメージした日差し、花木が芽吹き、生命力ある季節の情景に似合う茶道具が陳列されている。面白い盆があった。漆芸家、柴田是真(しばた・ぜしん、1807-1891)の作品「蝶漆絵瓢盆」。ヒョウタンを輪切りにして、底をつけて盆にする。全体におうとつがある不思議なカタチの形状だ。盆にを漆を盛り付けて浮かせるようにしてチョウを描く。春に舞うアゲハチョウだろうか。そのチョウは、盆の縁の内側から外にまではみ出て、躍動感がある構図だ。時間がなく、庭と茶室をじっくり拝見できなかったのが心残り。

  2日目は赤坂のサントリー美術館だ。陶芸家、宮川香山(みやがわ・こうざん、1842-1916)の没後100年の企画展だった。解説書によると、香山は明治維新を機に京都を離れ、当時、文明開化の拠点だった横浜に向かった。明治政府は外貨獲得の手段として陶磁器や漆器など工芸品の輸出を国策として推進した。香山は、その波に乗って、ヨ-ロッパやアメリカの西洋の趣向に応える美を創り出す。陶器の表面を写実的な造形物で飾る高浮彫(たかうきぼり)の独自の世界を築く。フィラデルフィア万博(1876)、パリ万博(1878)などで受賞して内外の称賛を浴びた。

  その代表作が「褐釉高浮彫蟹花瓶」(1881、重要文化財)や「高浮彫牡丹ニ眠猫覚醒蓋付水指」(明治時代前期)=チラシの写真=といわれる。初めて高浮彫牡丹ニ眠猫覚醒蓋付水指を鑑賞して、そのリアリティさにはドキリとさせられた。紅白のボタンが描かれた胴部と、うずくまる猫の蓋、その猫は前足を耳元にまで上げ、今まさに目覚めた様子で、ニャーンと鳴き声を出しそうなのである。

  3日目は世田谷の静嘉堂文庫美術館を訪ねた。美術館の茶道具は三菱の岩崎家の父子2代、60年にわたって収集したもの。訪れた日はリニューアルオープン展第2弾「茶の湯の美、煎茶の美」の最終日だった。真っ先に国宝「曜変天目」に目を奪われた。漆黒に大小の斑文(はんもん)が浮かび上がる。その周囲に藍や金色の光彩を放つ。「曜変」の「曜」とは星や輝くという意味なのだそうだ。中国・南宋時代(12-13世紀)の作品といわれる。かの徳川3代将軍の家光、その乳母の春日局も手に取ったとされる絶品だ。

  「目を肥やす」という言葉がある。実物を見なければ理解できない作品の価値、歴史に磨かれた輝きがあるのだと実感した。

⇒22日(火)夜・金沢の天気   はれ

  

  

  
  

☆旅の目線で東京を-上

☆旅の目線で東京を-上

  3月19日から3日間の連休を東京で過ごしている。これまで何度も出張で来ているが、その目的が交渉であったり、会議であったりと、説明であったりする。すると、出張では旅の目線で東京を眺めるということができないものだ。もちろん、中には頭の切り替えが速く、器用な人は出張目的が終われば、半日でも旅人の目線で巡る人がいる。残念ながら、私はそんな器用さを持ち合わせてはいない。

   空中と水上のパノラマ、地上とはまったく違って見えるTOKYO

  北陸新幹線で金沢駅から東京駅へは2時間半。初日と2日目の宿は浅草なので、東京駅から秋葉原駅に行き、そこから「つくばエクスプレス」に乗り換えて浅草駅へ。なぜ浅草に。せっかくだから景色のよいところをと旅行会社と打ち合わせをして予約してもらった。あの東京スカイツリーが目の前に見えるホテルの10階だった。スカイツリーは初めて。初日午後、さっそくシャトルバスで向かう。到着すると聞きしに勝る込み具合だった。しかも、あちこちから中国語、英語、そしてフランス語が飛び交っている。これだけでも随分と旅気分になれるから不思議だ。TOKYOに来た気分だ。

  スカイツリー初登り。展望台へのシャトル(エレベーター)の内装が凝っていた。4基のシャトルはそれぞれ東京の四季が表現されていて、たまたま乗ったものは夏をイメージした「隅田川の花火の空」がモチーフだった。電飾でキラキラと花火のように輝く。使われているのはガラスで、伝統的ガラス細工「江戸切子」と、添乗員の女性が説明してくれた。見事な照明演出だ。みとれている間に350㍍の「天望デッキ」に到着。シャトルの名の通り、分速600㍍の高速であっという間だった。

  デッキに出て、眼下のTOKYOの街と富士山を眺めようとしたが、あいにくの曇天で視界はゼロ。雲の中にいる感じだ。ぐるり360度回ったが、白の世界が広がるのみ。さらに高見の450㍍の「天望回廊」に上ったが、同じ状況だった。3090円の入場チケットが惜しくなってきた。こうした事態に備えて客をがっかりさせない工夫もある。デッキから一望できる眺望を52型モニターで映し出す「時空ナビ」など。意外と面白いのが「江戸一目図屏風」だった。パンフによれば、江戸時代の浮世絵師、鍬形慧斎(くわがた・けいさい)による鳥瞰図が圧巻だ。江戸城を中心に描かれた想像上の江戸の街のパノラマなのだが、目線がちょうど同じ位置にあり、まるで200年後の東京スカイツリーのために描いたような絵なのだ。

  20日は隅田川の水上バスを楽しむ。ホテルから歩いて、混雑する雷門の前を通って、浅草の吾妻橋のたもとにある発着場まで20分。川向うのビルの上に雲のような形をした奇妙な金色のオブジェがある。ビール製造販売会社が聖火台と炎をイメージして造ったものでかつて話題になったことを思い出した。

  水上バスはほぼ満員。隅田川に架かる清洲橋、永代橋、勝鬨(かちどき)橋といった国の重要文化財(建造物)に指定される橋の下をくぐり川を下る。川から眺望する橋と周囲の街並みのカメラアングルは地上で見る東京とはまったく別の都市の光景だと気づいた。

  上記のビール製造販売会社の関連会社が製造した地ビール「隅田川ヴァイツエン」(1杯600円)を片手に、12の橋をくぐり、「日の出桟橋」に到着した。向こうに海にかかるレインボーブリッジが見える。周囲を360度見渡してみる。水上の都TOKYOだ。

⇒20日(日)夜・東京の天気  くもり

★北陸新幹線のストロー現象

★北陸新幹線のストロー現象

   昨日3月14日は北陸新幹線の「長野-金沢間」が開業して1周年だった。東京から金沢までの所要時間は最速で2時間26分に。新幹線の利用客は在来線特急が走っていたころに比べて3倍に増えた。ここ数日の新聞報道=写真=などによると、去年4月から今年1月の観光客数は、兼六園が前年同期比で1.6倍に増えて、NHKの連続テレビ小説「まれ」のロケ地となった輪島市では、朝市の入込客数が1.3倍になってという。

   上記は誰もが予想した新幹線効果だったが、意外なこともあった。首都圏からの乗客が増えたのだとばかり思っていたら、仙台方面からの客が激増していたことだった。石川県が去年4-6月の3ヵ月で観光客の居住地を調べたところ、前年比の伸び率は関東圏からは180%、宮城県も180%と同じく増加している。確かに仙台駅から大宮駅(埼玉)で乗り換えれば、金沢駅まで乗車時間3時間25分で到着する。これは兼六園で実感した。料金所の近くで立っていると、中国語や英語に混じって、東北なまりの言葉もよく聞こえるのだ。団体客だったので余計目立ったのかもしれない。

   北陸新幹線で喜んでばかりはいられない統計もある。3月1日に石川労働局が発表した、石川県内の卒業予定の大学生、短大生、高専生、専修学校生ら学生の就職内定率だ。全体としては、内定率89.8%と、1996年から調査を始めて過去最高との数字だった。数字だと、就職希望者6436人のうち5780人が内定を得た(1月末調べ)。ところが、さらく詳しく数字を拾ってみると、大学生の県内内定者が減っているのだ。大学生の就職内定者3585人、うち県内内定者は1376人、割割り合いにして35.6%。昨年同期では1327人で38.3%だったので、2.7%の落ち込み。この数字は過去5年間で最低なのだ。これは一体どういうことか。

   「ストロー現象」だ。北陸新幹線の沿線(東京や長野方面)からの求人数が増加している。まるでストローに吸い込まれるようにして、就職する学生が関東方面へと逆流している、と言える。どれだけの求人数があったかは、統計的に定かではない。「リクナビ」など求人情報サイトを経由した就活が主流になってきて、実態が見えるのは、結果の統計だけだ。

   首都圏などからの求人が増え、学生たちの就活の選択肢が増えることはいいことに違いない。ただ、これが現象として、あるいはトレンドになって加速すると、地域を担う若者たちが減少することを危惧するのである。

⇒15日(火)朝・金沢の天気   くもり

☆「災害は復興を待たず」

☆「災害は復興を待たず」

  きょう「3月11日」、東日本大震災が起きて満5年になる。その時、私は大学の公開講座で社会人を対象に広報の在り方について講義をしていた。「東北が地震と津波で大変なことになっている」とテレビを見た公開講座の担当教授が血相を変えて講義室に駆け込んで、耳打ちしてくれたことを覚えている。

  2ヵ月後の5月11日に仙台市と気仙沼市を調査取材に訪れた。当時、気仙沼の街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていたので、歩くことはできた。岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船「第十八共徳丸」(330トン)があった。津波のすさまじさを思い知らされた。

  昨年15年2月10日、再度気仙沼を訪れた。同市に住む、「森は海の恋人」運動の提唱者の畠山重篤氏に講演をお願いするためだった。畠山氏との交渉を終えて、前回訪れた市内の同じ場所に立ってみた。「第十八共徳丸」はすでに解体されてすでになかった。が、震災から2ヵ月後の街並みの記憶とそう違わない。今でも街のあちこちでガレキの処理が行われていた=写真=。復興という想いを抱いて来たので、現地を眺めて愕然としたのだった。

  復興計画は一体どうなっているのかと考えてしまう。聞けば、高台移転で住民のコンセンサスが得られていないという。過日の報道で、元の場所に戻って住みたい人が3分の1、二度と元の場所には戻りたくない人が3分の1、高台に住みたいという人が3分の1と被災地の人々の思いは3つどもえになっている。海を生業(なりわい)とする人々が多い地域では、高台移転のコンセンサスは難しいのかもしれない。でも、安全な高台に町ごと移す復興計画を実施しなければ復興計画は前に進まない。危険を覚悟で海辺に住みたいのなら、それは自己責任で住むということにすればよいのではないだろうか。

   それにしても、復興工事そのものが進んでいない。一つには、土木・建築系の職員数が集まらないという現実があるようだ。行政のマンパワーだけでなく、被災地は建設工事ラッシュなので、漁港施設、海岸、道路、河川、土地区画整理、宅地造成、下水道等の工事が同時進行している。しかも、国や県、各自治体が一斉に工事を発注するので、建設会社の落札に至らないというケースがあるようだ。工事ができず、さらに工期が伸びるとうい悪循環が起きている。さらに、アベノミクスの「国土強靭化計画」で全国で工事ラッシュが起きている。優先させるべき復興作業の現場では作業員が不足している。採石、生コン、コンパネなどの建築資材や建設機械の不足もあるだろう。

  復興はスピードが肝心だと考える。1923年の関東大震災では、東京市長で震災後に内務大臣と帝都復興院総裁を務めた後藤新平は復興計画を自らの手で書き上げたといわれる。まずガレキをいち早く横浜に持って行った。それが今の山下公園になっている。阪神淡路大震災後は、ほぼ1年半で復興したと高く評価されている。

  今は復興財源については手が尽くされている。震災から4年間の累計で総額が29兆円、さらに、新年度から5年間で6.5兆円を手当てしている。問題は「災害は復興を待たず」である。次なる災害に備えて、ピッチを上げて今の復興を進めなければ、もし不幸にして「次」が起きた場合どうなることか。一つ言えることは、国家の財政破綻という「二次災害」が起きることだけは間違いない。

⇒11日(金)朝・金沢の天気    はれ

★ニュース現場の凄み

★ニュース現場の凄み

  新聞とテレビの取材経験から、現場の迫力や凄(すご)みというものを十分に感じてきた。現場でしか実感できない怒りや悲しみ、有難さというものがあるものだ。だから、今でも現場に行きたいという欲求が湧いてくる。

  昨年9月22日、沖縄旅行で辺野古の現場に行った。翁長知事がジュネーブでの国連人権理事会でアメリカ軍基地の県内移設は「政府は沖縄をないがしろにしている」とスピーチを行った後のことで、連日100人ほどの基地反対派がアメリカ軍基地キャンプ・シュワブのゲート前に集まり、集会を開いていた。

  キャンプ・シュワブのゲート前、現場はものものしい雰囲気が漂っていた。正門の道路を挟んだ向こう側には基地反対派のテントが張られて入れ替わり、立ち代わり大音響でアジ演説が飛び交っていた。タクシーでその前を走行すると、「辺野古新基地NO!」などのプラカードが車から見えるように道路側に差し出される。車との接触が危ない。正面で陣取っていた人がいた。「辺野古埋立阻止」のプラカードを持って椅子に腰かけている。基地と歩道の境界線である黄色い線を超えないように公道スレスレのところでアピールしていた=写真・上=。数センチでも基地側に入れば、おそらく逮捕されるだろう。まさにギリギリの抗議行動がここで見えた。このような絵(映像写り)にならないシーンはテレビメディアでは放送されないだろう。

  国政選挙にはよく行く。夜だ。21時30分、金沢市の開票作業が始まるのに合わせて、金沢市営中央市民体育館に出かける。持参した双眼鏡で何か所かの開披台をのぞいて、開票者(自治体職員)の手元で裁かれる候補者名をチェックすれば、自分なりに候補者の「当落」の判断がつく。あるいは、ちょっとずるいが、テレビ局や新聞社の調査でアルバイトにきている学生たちが双眼鏡をのぞきこみながら=写真・中=、襟元の無線マイクで候補者名を本社に伝えているので、傍らにいれば自ずと聞こえる。どの候補者が現在優勢かということも判断できる。選挙は結果をいち速く知るというリアルタイムの凄みがこの場で体験できる。もちろん、開票作業は公正さを保つという意味で双眼鏡で開票者の手元をのぞくことは違法ではない。バードウオッチィングのようで楽しくもある。

    外国人の活動家が絡むニュースの現場に赴いたのは2011年5月5日だった。和歌山県の南紀に旅行した折に太地町に足を運んだ。日本のイルカ漁を批判したアメリカ映画「ザ・コーヴ」の舞台となった入り江へ。前日にイルカが網にかかっており、あす市場が再開するのでイルカを運搬するというその日だった。おそらく反捕鯨団体シーシェパードのスタッフをみられる外国人2人がカメラ撮影に来ていた。また、入り江の漁を監視する姿もあった=写真・下=。「和歌山県警」の腕章をつけた人も随所に配置されていて、入り江はものものしい緊張感が漂っていた。漁協の前では、外国人数人が、車から漁師風の男が下車するたびに近寄って、たどたどしい日本語で「イルカ漁をやめてほしい」とお札を数枚差し出していた。猟師は無視して漁協に向かった。

  この後、太地町の「くじらの博物館」を見て回った。古式捕鯨などがなぜ途絶えたかというと、これまで見たことない巨大なクジラがきて、漁師100人以上が犠牲になったと説明されていた。自然への恐れや畏怖の念を抱きながら、それでも太地の人たちは海からの恵みを得ようと歴史を刻んできた。そんな様子が見て取れた。

⇒5日(土)朝・金沢の天気   あめ

☆トランプと異次元の世界秩序

☆トランプと異次元の世界秩序

    アメリカ大統領選挙の序盤の戦いをこんなにぞくぞくした思いで日々テレビ画面をみつめたことは過去にない。それほど面白い。そのポイントは、ドナルド・トランプが勝つか、ヒラリー・クリントンが勝つかではなく、トランプが大統領になったらどんな世界になるのだろうか、との近未来の国際政治の組み立てが脳裏を駆け巡るからだ。

  3月1日の「スーパー・チューズデー」、共和、民主両党の大統領候補指名獲得争いの今後の方向性を決める予備選挙、党員集会がアメリカ10州で実施され、共和党では595名、民主党では865名の代議員がそれぞれ選出。そして、共和党ではドナルド・トランプが、また、民主党ではヒラリー・クリントンが他候補を寄せ付けず、それぞれ指名獲得に向け大きく踏み出す結果となった。

  トランプの支持層は、ムードではなく、強固な支持層を基盤にしていることが分かる。過日のネバダ州党員集会での出口調査では、トランプを支持しているのは保守穏健派、キリスト教福音派(エヴァンジェリカル)、若年層、高齢者、高学歴層、低学歴層、ヒスパニック系といった様々な有権者層なのである。

  そのトランプの演説で繰り返されるのが次のフレーズだ。「すべてのイスラム教徒のアメリカ入国を拒否すべきだ」「メキシコ人は麻薬や犯罪を持ち込む。国境に万里の長城を築こう」 と。宗教や人種差別、暴言が物議をかもしているのだが、その乱暴な言葉は日本に対しても向けられている。「日本はアメリカに何百万台もの車を送ってくるが、東京でシボレーを見たことがありますか。我々は日本人には叩かれっぱなしだ」「中国、日本、メキシコからアメリカに雇用を取り戻す」と。

  通常だったら、このようなヘイトスピーチめいた言葉が予備選挙とは言え、有権者が集う政治の舞台で平気でまかり通ること自体に、国連人権委員会が動き出してもよいと思うのだが、そうはならない。また、日本のマスメディア(新聞・テレビ)でもトランプ演説に正面切って論評していない。

  トランプ人気の背景には、今アメリカに沸き起こっている「政治家嫌い」があるのではないかと推測する。今のオバマ政権下で貧富の格差が拡大し、さらにミドルクラスの生活も落ち込み始めている。保守層を中心に現在のアメリカの政治システムに裏切られたと感じている、あるいは、懸命に働けばきっと成功するという「アメリカンドリーム」は消滅したとの絶望感があるのではないか。その反動で、「偉大なアメリカを取り戻す」とトランプが豪言壮語すれば、白人労働階級の支持が集まるという構図だ。「理想主義を世界に振りまく政治家たちは嫌いだ、良きアメリカを立て直す改革者に一票を投じたい」という声がアメリカの民衆の中でうねっているのではないか、と。

  トランプが大統領になれば、世界の政治的な価値観は激変する。トランプはオバマ大統領がリーダーシップを発揮してきたTPP(環太平洋経済連携協定)に対して、これまで「TPPはアメリカのビジネスへの攻撃だ」と激しく批判を展開してきた。また、日米同盟でも「日本はアメリカを守らない」と繰り返し述べている。予測可能なこの近未来に日本は、そして世界各国はどう対応するのか。異次元の国際秩序が展開するのではないか。大統領選に関するニュースから目が離せない。

⇒3日(木)夜・金沢の天気   くもり

★テレビはスターだった

★テレビはスターだった

    金沢大学の総合科目の授業「マスメディアと現代を読み解く」を担当している。講義の中で、1953年(昭和28年)に日本でテレビ放送が始まったときの様子を学生たちにこう話す。「そのころテレビは国民のスターだった。黎明期はまだまだ家庭に普及せず、街頭テレビの時代だった。繁華街や鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所にテレビが設置され、大勢の人たちが群がった。テレビは憧れの的だった」と。学生たちの反応は「信じられない」といった様子だ。

  国産のテレビを最初に市場に送り込んだのはシャープだった。14インチで当時の価格は17万5000円だった。大卒の銀行マンの初任給が5600円の時代だ。庶民から遠い存在だったテレビが徐々に普及していった。NHKの「にっぽん くらしの記憶」のチラシ=写真=に掲載されている写真を見ると、子どもたちが大相撲の中継を夢中になって見ている。このチラシに写っているテレビがシャープ製の日本初のテレビだ。テレビが家庭に普及するとともに、シャープは家電事業の土台を固めて、成長の足場を築いたのだった。

  日本でテレビ放送がスタートして63年後、そのシャープが「身売り」することになった。メディア各社の報道によりと、シャープは台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業に、「支援」といわれながら、実質的に買収されることになった。鴻海の郭台銘会長は、カリスマ経営者でワンマンと言われる。シャープの経営陣はどのように対応しているのだろうか。知る由もないが、向かう先は一つだろう。

  鴻海はもともとアップルの下請け、その脱皮を狙っている。つまり、独自技術を手に入れ、自社ブランドを作ることにある。そのキーポイントが、シャープの液晶技術ということだろう。シャープの液晶技術は「主要ディスプレイ厚み20ミリ」「コントラスト比10万対1」などオンリーワンと言える。

  シャープの創業者の早川徳次は立志伝中の人だ。シャープペンシルの事業を関東大震災(1923年)で工場を失い、その事業を社員に引き渡して、自らは身ひとつで大阪へ赴く。当時、政府は災害報道に速報性が必要だとラジオ放送の開局を急いでいた。ここ注目した早川徳次は、1925年に国産第1号となる鉱石ラジオを製造し、同じ年にテレビ放送が始まった。鉱石ラジオを真空管ラジオへ進化させていく。戦後になり、テレビの国産第1号を世に送り出した。シャープは常にメディアツール(ラジオ、テレビ)のパイオニアだった。

  先端技術の流失などいろいろ議論はあるものの、鴻海とシャープが組んで次世代の画期的なメディアツールを開発してほしいと願う。

⇒2日(火)午後・金沢の天気   はれ

☆鴨足黄連

☆鴨足黄連

  我が家の鉢植えのカモアシオウレンが小さな花をつけた=写真=。毎年、春一番に咲かせる花だ。漢字表記で鴨足黄連と書く。葉っぱの形状がカモの足のような面白いな形をしている。花は白い梅の花のようなので、「梅花オウレン」とも呼ばれる。もともと、中国の四川省や雲南省の高い標高で分布している植物、と図鑑に書かれている。花が少ないこの季節、ちょっとした心の安らぎになる。

  昨日(22日付)の朝日新聞『天声人語』に目をやると、金沢のことが書かれてあった。以下引用させていただく。「鮮やかな色彩の記憶がある。以前、金沢のひがし茶屋街を歩き、加賀藩時代の面影を残すお茶屋の中を見学した。かつて舞や三弦が披露されただろうお座敷の壁は、紅殻(べんがら)で塗られ、あでやかな赤だった▼「はなれ」と呼ばれる奥の座敷に進んで驚いた。一転して群青色に彩られた空間である。宴の場に似つかわしくない印象も持ったが、引き込まれるような心地よい感覚があった。聞けば前田のお殿様も愛(め)でた色とのこと。赤と青の競演を堪能した…」

  金沢で特徴ある色彩は紅殻と群青だ。『天声人語』では赤と青の2色を、彩色と人々の心と行動の関係性へと文を展開している。

  ふと思った。最近報道されるニュースはグレイばかり。まるで、北陸の冬の空模様だ。丸川環境大臣が「環境の日」(6月5日)を「6月1日」と誤って国会で答弁した、とか。重箱の隅をつつくような話から、IS(イスラミックステイト)がシリアで連続自爆テロ攻撃を強めているとか、ロンドン市長がEU離脱を支持、覚せい剤で清原容疑者を再逮捕など、まるで色彩がないニュースばかりだ。

  なぜだろう。面白いと印象に残る、エッジの効いたニュースが薄いのだ。これは記者のニュースの発掘力が低下しているからなのか、あるいは、世の中がこうしたグレイのニュースを好んでいるのか、はたまた自らのニュースの読み込みが甘いのか。我が家で春一番で咲いたカモアシオウレンを眺めながら、世情をふと思いやった。空を見上げると、金沢はきょうも曇りだ。春はまだ少し先か。

⇒23日(火)朝・金沢の天気   くもり 

★質問の価値

★質問の価値

   還暦も過ぎると、世の中の見方が変わるものだ。最近、同年代の友人の会話の中で「ニュース断ち」という言葉があった。「最近の新聞やテレビのニュースは気分が悪い。別に見なくてもよいので、ニュース断ちをしている」と言う。聞けば、ここ数か月テレビも新聞も見ていないのだとか。確かに、最近のニュースは気分はよくない。親の子殺し、SMAP騒動、元プロ野球選手の覚せい剤、北朝鮮による水爆実験・ミサイル発射、世の中が殺伐とした雰囲気だ。でも、私は言葉を返した。「ニュースを知識のワクチンだと思えば、苦にならないだろう」と。気分の悪いニュースも見ておけば、心の耐性ができる。もっと悪いニュースが起きて、心がインフルエンザに罹るよりはましではないか、と論を述べた。すると友人は「なるほど」と笑った。

   きょう(9日)は朝から雷鳴がとどろき、庭の木々もうっすらと雪化粧のたたずまいだ=写真=。さて、朝刊のニュースは何だろうと新聞を手に取る。目にとまったのが、高市総務大臣が8日の衆院予算委員会で、テレビ局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合には、「放送法4条」違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性もあると言及したという記事だ。民主党の議員が放送法の規定を引いて「政権に批判的な番組を流しただけで停波が起こりうるのか」との質問に答えたものだ。

   民主党の議員の質問の前段には、週刊誌報道で、安倍政権に批判的とされる番組の看板キャスターが相次いで降板するとあり、それを質問のネタにしたものだ。この記事を読んで思い出したのが、「椿(つばき)発言」だ。

   1993年、テレビ朝日の取締報道局長だった椿貞良氏(2015年12月死去、享年79)が日本民間放送連盟の勉強会で、総選挙報道について「反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようではないかと報道内部で話した」などと発言した。当時、非自民政権が樹立され、細川内閣が発足していた。この内輪の会合の椿氏の発言が大きく新聞で報じられ、同氏は責任をとって辞任。その後、マスメディア関係者として初めて、国会に証人喚問され、テレビ報道の公平公正が問われた。このとき、初めて放送法違反による放送免許取消し処分が本格的に検討されたが、視聴者へのインパクトも大きいとして、行政処分にとどまった。

   つまり、民主党の議員が週刊誌報道を引用し、軽々と「電波停止はあるのか」と質問をしたが、こうした椿発言のような事例を踏まえての質問だったのか、どうか。降板が相次ぐ看板キャスターがこれまで、国会に証人として引っ張り出されるような国政を揺るがす発言したのであれば、その質問も価値があろう。

   しかし、週刊誌の記事引用で、電波停止を質問をするというのは少々軽い。質問の価値というのはどこにあるのだろかと疑ってしまった。

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