☆「ラニーニャ」冬将軍来る

☆「ラニーニャ」冬将軍来る

    能登半島の先端、珠洲市ではこんな観天望気の言い伝えがある。「ユズと柿が豊作の秋は冬が大雪だ」と。確かに今年秋は柿が豊作だ。どこも枝が折れそうなくらいに実っていた。ということは、この冬は大雪なのか、と思っていたところ、気象庁が太平洋の南米ペルー沖の監視水域で海面水温が低い状態が続き、世界的な異常気象の原因となる「ラニーニャ現象」が発生したとみられると監視速報を発表した(今月11日)。

    これは大雪になるぞ、と予感していたが、きょう(17日)北陸は大雪に見舞われた。午前、「のと里山海道」を車で走行したときに、路面が完全に雪に覆われていた。海岸沿いの道路なのだが、対馬暖流の影響でめったに雪は積もらない。点々と4台の乗用車がスリップ事故などを起こしていた。深夜から降り始め、金沢周辺で正午現在で30㌢だ。商店街の街路樹も樹氷と化していた=写真、車内から撮影=。

    帰宅後、さっそく「雪すかし」をした。玄関前の側溝に道路の雪をスコップで落とし込んでいく。それでも、スペースが足りないので、コンクート塀付近に雪を積み上げていく。1時間余りで作業を終えた。でも、雪はしんしんと降っている。この先、どこまで積もるのか。

           気象庁のホームページによると、ラニーニャ現象が発生すると、日本では上空で偏西風が蛇行して寒気が流れ込みやすく冬型の気圧配置が強まり、冬の気温が平年より低くなる傾向があるという。「平成18年(2006)豪雪」では前年の12月から1月にかけて強い冬型の気圧配置が続き、日本海側で記録的な大雪となった、とある。この下りを見て、大雪の記憶が蘇った。2006年1月14日からイタリアのフィレンツェに出張したが、その前日13日が大雪。自宅の屋根雪を夕方から夜中までかかって降ろし、バテ気味で小松空港に向かったことを覚えている。あの昭和38年(1963)の「三八豪雪」もラニーニャ現象と言われている。幼いころの記憶だが、自宅前に落ちた屋根雪で「かまくら」(雪洞)を初めてつくった。

    この2つの思い出だけでも、ラニーニャ現象が本格化するこれからの白い世界に身震いする。「ラニーニャ」冬将軍、いよいよ来たる。来るなら来い。こちらも戦闘態勢だ。「冬来たりなば、春遠からじ」(「If Winter comes, can Spring be far behind ?」イギリスの詩人シェリー「西風に寄せる歌」)という言葉があるではないか。

⇒17日(日)夜・金沢の天気    ゆき

★白濁りの幸福感

★白濁りの幸福感

  「どぶろく」という言葉を見聞きして脳裏に何が浮かぶだろうか。私は「岐阜・白川郷のどぶろく祭り」と「どぶろく裁判」の2つのキーワードを思い浮かべる。

   もう6年前になるが、2011年10月、白川郷の鳩谷八幡神社の「どぶろく祭り」に参加した。杯を400円で購入し、9杯飲んだところで酔いがぐらりと回ってきたことを覚えている。「どぶろく裁判」は、社会運動家の前田俊彦氏(故人)が公然とどぶろくを造り、仲間に飲ませて酒税法違反容疑で起訴され、「憲法で保障された幸福追求の権利だ」と反論し争った。1989年12月、最高裁は「自家生産の禁止は税収確保の見地より行政の裁量内」との判断を示し、前田氏の上告を棄却した。世の中は移り変わり、農業者が自家産米で仕込み、自ら経営する民宿などで提供することを条件に酒造りの免許を取得できる「どぶろく特区」制度が2003年に始まり、今では地域起こしの食文化資源になっている。

    前書きが長くなった。きょう能登半島の中ほどにある中能登町の天日陰比咩(あまひかげひめ)神社で「どぶろく祭り」が初めて開催されると誘いを受けて出かけた。もちろん、ノーカーで。午後6時、神社拝殿では創作の舞や雅楽「越天楽(えてんらく)」など生演奏で始まり、同40分からは三尺玉の花火が冬の夜空に10発上がり、ムードが盛り上がった。拝殿ではどぶろくが振る舞われ、列についた。禰宜(ねぎ)の方は「50年前は全国で43の神社がどぶろくの醸造免許を持っていたが、現在では30社ほどに減りました。造るには手間はかかるのですが、これは神社の伝統ですからね」と語った。ここで小さな紙コップで3杯いただいた。

   社務所に特設された「どぶろくミュージアム」では、醸造方法や江戸時代から続く歴史を示す古文書の内容について解説があった。神社の酒蔵(みくりや)で造られる=写真=。冬場に蒸した酒米に麹、水を混ぜ、熟成するのを待つ。ろ過はしないため白く濁る。「濁り酒」とも呼ばれる。その年の気温によって味やアルコール度数に違いが生じる。暖冬だとアルコール度数が落ち、酸っぱさが増すそうだ。毎年12月5日の新嘗祭で参拝客に振る舞われる。今年はこれまで最高の333㍑を造った。初詣にかけて「どぶろく参拝」が年々増えているそうだ。

   一つ質問をした。「天日陰比咩神社は2千年余りの歴史をもつ延喜式内社ですが、どぶろくは江戸時代から造られていると説明がありました。どぶろくの歴史は浅いような感じがするのですが」と。すると、解説を担当した禰宜の船木清祟さんは「文書の記録として残っているのは江戸期なんです。天正年(1574)の上杉謙信による能登侵攻で社殿は焼失しており、江戸期以前のどぶろく関連の文書がないのです」と。

   神社境内で、農家民宿を経営する田中良夫さんが、自家製のどぶろくを振る舞っていた。「どぶろく 太郎右衛門」というボトルが販売されていたので買い求めた。農薬も化学肥料も使わない自然農法で栽培した酒米「五百万石」で酒麹をつくり、コシヒカリ、酵母、ミネラル分が豊かな井戸水を使用して醸造している。神社のどぶろくより甘味があった。田中さんは「コシヒカリを入れると甘みがつくんです」と。ここで6杯飲んだ。白川郷での経験から9杯で酔いがぐらりと回ってくるので、ここで自ら「お開き」とした。泊まった民宿では白濁りの幸福感に包まれながら爆睡した。

⇒16日(土)夜・中能登町の天気   くもりのち雨

☆「快楽的持続可能性」

☆「快楽的持続可能性」

   最近よく目にし耳にする言葉に「持続可能性(Sustainability)」がある。私自身よく使う。講義などで「自然と共生するという言葉は持続可能な社会づくりのポイントだ」「国連の持続可能な開発目標(SDGs)は発展途上国のみならず、先進国自身が取り組む普遍的なもの」などなど。しかし、自ら語りながら、その言葉を使うことに若干のわだかまりがないわけでもなかった。

   たとえば、持続可能性を高めるにあたって、国連から「日本は電気、ガソリンを使いすぎる。これでは持続可能な国際社会は創れない。日本人はエネルギー使用量を3分の1に削減すべきだ」といった要求が突きつけられたら、果たして耐えうるだろうか。冬だったら暖房の温度を下げて時間制にする。車も距離制にして乗らない日を設けてひたすらストイックな生活をして持続可能な国際社会に貢献する、といったイメージだ。

    そうなったら日本中で大混乱が起きるだろう。高齢化社会で寒さに耐えることは可能か、車社会の中で通勤はどうなるのか、高度成長前の質素な社会に戻るのか、なぜこそまでして国連に従うのか、と議論は沸騰するだろう。『人類の未来』(吉成真由美編、NHK出版新書)を読んでいて、考えるヒントもらった。「第4章都市とライフスタイルのゆくえ」にある、建築家ビャルケ・インゲルス氏の考察と実践だ。

   彼はインタビューで述べている。「持続可能性というチャレンジを、政治的なジレンマではなくデザイン上のチャレンジとして受け止めとようということです。実際に都市や建物を作るにあたって、持続可能性を実現するために、例えば冷たいシャワーを使わなければならないというような、様々な場面での生活の質を落とした妥協の産物にするのではなく、もっと積極的なアイディアを出して、持続可能な都市はそうでないものよりずっと快適だというふうに発想転換したものです」

   著書では、コペンハーゲン・ハーバー・バス(港を海水浴できる場所に変えるプロジェクト)を事例に、生活の質と環境の質を同時に引き上げることは可能だと説いている。インゲルス氏はそれを「快楽的持続可能性(Hedonistic Sustainability)と表現している。人は課題を突きつけられると、つい比較論で考えてしまう。「日本人は確かに他の国よりエネルギー消費は多いので、少し減らそうか」と。しかし、いったん生活の切り詰めに妥協してしまうと際限がなくなるのが世の常だ。そこを突破するキーワードが快楽的持続可能性ではないだろうか。

   「人類は生活を向上させることこそが進歩だ、日本には省エネで効率のよい生活を送る技術と知恵がある」と言い切って、その技術と知恵を世界に提供すればよいのではないだろうか。快楽的持続可能性、この言葉がわだかまりを解いた。

⇒12日(火)午後・金沢の天気  みぞれ
   

★この判決はオワコンか

★この判決はオワコンか

   大学で学生たちとメディア論の話をしていて、「NHK」の言葉に過敏に反応する学生たちが何人かいた。「なぜ」と尋ねると、彼らの話はこうだ。先日、NHKの契約社員という中年男性がアパ-トに来て、「部屋にテレビがありますか」と聞いてきたのでドアを開けた。「テレビはありません」と返答すると、さらに「それでは、パソコンやスマホのワンセグでテレビが見ることができますか」と聞いてきたので、「それは見ることができます」と返答すると、「それだったらNHKと受信契約を結んでくださいと迫ってきた」と。学生は「スマホでNHKは見ていませんよ」と言うと、契約社員は「ワンセグを見ることができればスマホもテレビと同じで、NHKを見ても見なくても受信契約が必要です」と迫ってきた。学生が「親と相談しますから、帰ってください」と言うと、契約社員は「契約しないと法律違反になりますよ」とニコッと笑ってドアを閉めた。「本当に気分が悪くなった」

    実はこのたぐいの話は毎年学生から聞く。上記の学生は親と相談して、受信契約を結ぶことにした。親は「法律を犯すことはない」と契約を勧めたという。でも、本人は今でも「スマホでちょっとテレビを見るだけなのに」と納得はしていない。NHK受信料制度が契約の自由を保障する憲法に違反するのかどうかが争われた裁判で、最高裁大法廷は合憲と判断した(6日)。選挙速報や異常気象、災害、地震の情報など民放では速報できないニュースを、NHKがカバーしており、その公共性の高さを考えれば、放送法64条にあるテレビが自宅に設置されていれば、受信料契約ならびに支払いは社会的にも認められると考える。

    問題は、最高裁判決がどこまでテレビとするのか「テレビの概念」にまで踏み込まなかったことだ。最高裁は「お茶の間のテレビ」を対象として支払い義務があるとの判断が下されたにすぎない。では、ワンセグ付きのスマホ(携帯電話)はどうのか。電話にテレビの受信機能があるだけでテレビと言えるのか。64条では「受信設備を設置した者は受信契約をしなければならない」と定めている。NHKは「設置」には「携帯」の意味も含まれてと主張していてい、冒頭の学生に契約社員は「法律違反になる」と契約を迫った。ところが、社会通念としても、個人的な感覚としても「茶の間のテレビ」は視聴が目的、「スマホのワンセグ」は機能の一部にすぎない。

    ワンセグのNHK受信料をめぐる裁判では、2016年8月26日のさいたま地裁判決で「受信契約の義務はない」との判断を、ことし5月25日の水戸地裁では「所有者に支払いの義務がある」と判断している。もし、今回の最高裁判決で「ワンセグはテレビ」あるいは「ワンセグはテレビではない」のどちらかの判断が示されていたら、ひょっとして画期的な裁判になったかもしれない。示されなかったことで、今回の最高裁判決はオワコン(終わったコンテンツ)と呼ばれても仕方ない。

⇒10日(日)午前・金沢の天気    くもりのちはれ

☆そこにブログがあるから

☆そこにブログがあるから

            ブログ「自在コラム」を元に構成した出版した『実装的ブログ論 日常的価値観を言語化する』(幻冬舎ルネッサンス新書)の帯封に書かれている「ニュースはいつも自分のなかにある」は出版社が考えたチャッチフレーズだが、まさに私が言いたいことのポイントだ。

    日常には多彩なニュースであふれていると思って、周囲を観察するとさまざなことが見えてくるのだ。それをニュースとしてブログにする。雪の日の朝のご近所さんとの会話から、街の除雪のルールや金沢人の季節感を描くことできる。庭に咲く花から、茶道の文化を語るきっかけになることもある。冬型の気圧配置が続いている日本海の荒波が押し寄せてる能登の海岸を眺めれば、国際ニュースにもなっている北朝鮮の木造漁船はさらに転覆軒数が増えるのではないかと不安がよぎる。それはまさに自分の中にあるニュースだ。

    私が大学のプログラムで通っている能登を眺めれば、少子高齢化や若者の農業・地方離れといった多くの地方が抱える問題がそのまま見えてくる。この問題は能登だけでなく東南アジアや欧米でも起こっているのだ。グローバルな課題が能登で見えるではないか。だったら、「課題先進国」ニッポンとして、世界に向けて問題解決へのアプローチをいち早く提案してもよい。その取り組みが実施にそこで行われているのだから。

    ところが、ニュースは新聞やテレビにお任せになっている。ニュースは視聴するものだ、読むものだという感覚に私たちは慣れ切ってしまっている。しかも、マスメディアは東京目線のニュースの価値付けに偏っている。東京にばかり目を向けず、しっかりと日常や地方にも目を向ける必要がある。もちろん、地方には新聞社もテレビもある。ニュースはマスメディアにお任せではなく、自分のニュースを発信しようという発想でなのだ。そこにブログがある。これを使わない手はない。

    話は少々くどくなるが、本作のタイトルにもある「日常的価値観の言語化」はごく簡単に言えば、自ら日頃考えていること、思うことを言葉として伝えることである。つまり、ブログのように文章化して、読み手に自分の考えを伝えることだ。文書の構成は起承転結でなくてもよい。結論を先に持ってくる逆ピラミッド型もありだ。問題は読み手に伝える技術である。言葉に皮膚感覚や、明確な事実関係の構成がなければ伝わらない。実際に見聞きしたこと、肌で感じたこと、地域での暮らしの感覚、日頃自ら学んだことというのは揺るがないものだ。

    それらは日常で得た自らの価値観なのである。その価値観を持って、思うこと、考えることを自分の言葉で組み立てることが「実装」なのだ。ブログを書く作業は、他のSNS と違って実に孤独だ。ただ、誰にも気兼ねせず、邪魔されずに自分の価値観を言語として実装するには最高の場でもある。

⇒7日(木)夜・金沢の天気   くもり

 

★ブログを書籍化するきっかけ

★ブログを書籍化するきっかけ

    ブログ「自在コラム」を始めたのが2005年4月なので、丸12年になる。ことし2月に出版社から誘いを受けた。「近年は研究書の枠に収まらず、生活に役立つ実用書やドキュメンタリー風に仕上げた書籍もよく売れていて、そうしたお話しにご興味をお持ちでしたら…」とのことだった。メールでのやり取りだったので、3月に出版社(東京)に出向き編集者と面談して、ブログ論をテーマとすることにした。「自在コラム」は1000回を超えていて、その文章に込めた思いを書籍というカタチで表現してみたかったからだ。その後、コンセプトを巡るやり取り、ブログから原稿のチョイス(選択)、著書のタイトル、原稿の校正と10ヵ月を経て、きょう5日にようやく出版にこぎつけた。

   幻冬舎ルネッサンス新書『実装的ブログ論 日常的価値観を言語化する』。基本的にはここ4年間のブログの中から編集者が読んで面白いと思ってくれたものを原稿にした。自分としては1時間あれば読み切れるものにとの思いがあったので140ページにした。これは学生たちへのメッセージだと思っている。「日ごろ思っていること、感じていること、それを言葉にしてごらん、文章にしてごらん」と薦めたいのである。以下、前書きの抜粋。

                 ◇

   今日ほどインターネット上のソーシャルメディアが注目されている時代はないだろう。情報発信のツールとして認知され、政治家や芸能人、スポーツ選手がブログやSNS(Social Networking Service)のFacebook やTwitter で意見や近況を書きこむ、あるいは動画を掲載すると、それをマスメディア(新聞やテレビ、週刊誌など)が取り上げる。NHKや民放局、新聞社ではネット上からニュースのネタ(主に事件や事故)をリサーチする専門チームも編成されている。そんな時代だ。

   私自身がブログを書き始めたのは2005年4月、金沢大学に再就職したときだった。きっかけは、テレビ局時代から懇意にしていた秋田県の民放テレビ局の番組プロデューサーから、「宇野ちゃんは元新聞記者だから、書き始めるときっとはまるよ」と勧められ、こちらも軽い乗りでブログの世界に片足を突っ込んだ。あれから12年。ブログのアップロード回数も1160を超えた(2017年10月現在)。勧めてくれたプロデューサー氏はブログからミクシィ、Twitter、Facebook と乗り換えている。その意味では、どっぷり12年のブログ歴というのは確かに「はまった」のかもしれない。

   ブログはもともとウェブログ(Web Log)の略で、ウェブサイトにログ(記録)すること、つまり「書き溜め型」のソーシャルメディアであり、不特定多数のネットユーザーに情報発信をするものだ。これに対し、Facebook やTwitter などのSNSは人とのつながりをベースに会話するかのように使われるコミュニケーション型のソーシャルメディアだ。私はパソコンに向かって新聞記事を書くように、投稿した記事を積み上げている。まるで、炭焼き窯に向かう職人のように黙々と。仕上がりは充足感、いや自己満足かもしれない。SNSのような会話風の楽しみとは異なる喜びだ。社交的なプロデューサー氏がブログからSNSの世界に入ったのと対比すると、その分岐点は性格の違いにあったのかもしれない。

   では、12 年も地道にパソコンに向かって何を書き続けてきたのか。過去の心象にこだわって随筆風に書き溜めてきた訳ではない。日々のニュースを綴ってきたと説明した方が分かりやすいかもしれない。日常生活や職場である金沢大学での個人的なニュースから、政治や経済など世の中のニュース、紛争や外交など世界のニュースなど。要は自分がニュースだと感じたことをその都度、ブログで表現してきた。別の言い方をすれば、日頃の自らの感性や思考をニュースだと発想して、それを文字で表現した。さらに詰めて、「日常的価値観の言語化」と言ってよいだろう。

   最近、何年も前にアップロードした自らの記事が検索エンジンでヒットすることがある。書いたことすら忘れてしまっている記事がいきなり検索画面に表れてくると、「記事は生きている」と実感する。インターネットの普及期に読んだ、立花隆著『インターネットはグローバル・ブレイン』(1997)を思い起こす。著書名の通り、地球を生命体と見立てればインターネットは頭脳であり、私のブログサイトはその神経細胞の一つかもしれないというものだ。その細胞を活性化させることは、いかにして質の高い記事をアップロードし続けるかにある。ブログ=日常的価値観の言語化とは、パーソナル・ブレーンを生き生きとさせるツールでもあるのだ。

   私は、その自身のパーソナル・ブレーンを多くの人に共有してもらいたいという気持ちから、今回の出版を決めた。

⇒5日(火)夜・金沢の天気   あめ

☆北の難破船、いつまで続く

☆北の難破船、いつまで続く

   北朝鮮による新型ICBM(大陸間弾道ミサイル)の発射、そして、日本海沿岸に次々と流れ着く転覆した木造船、今後さらに何が日本海で起きるのか。金沢大学の能登学舎(珠洲市三崎町)で同僚たちと北朝鮮問題について話す機会も多いのだが、すぐ目の前の海に「北の船」が現実に現れたのには驚いた。

    先月27日午前8時40分ごろ、同市三崎町の小泊漁港500㍍沖で木造船が浮いているのが発見された。七尾海上保安部と珠洲警察署などが捜索。報道によると、木造船は全長12㍍、幅2.6㍍で、船内に人影はなく、船内からは網などの漁具のほか、ハングル文字で書かれたタバコの箱やビニール袋などが見つかった。能登半島沖300㌔の好漁場、大和堆あたりで漁をしていて、難破したものと見られる。

   漂着した北朝鮮の漁船の写真を提供いただいた。船の前方にはすでに藻がこびりついていて、「556—60268」という数字が書かれている。木造の船体はいかにも古そうで、荒れた海では波をまともにかぶりそうだ。

   今回特徴的なことは、遺留品にハングル文字で「264軍部隊」と文字が記されたカードがあったことだ。漁民が軍から船を借り受けた際に与えられた証明書との見方がなされている。さらにここから深読みすると、軍から船を借りてまで日本のEEZ(排他的経済水域)に向かう国家の現状だ。北朝鮮の慢性的な食糧不足は想像に難くない。いわゆる国策として漁業を奨励し、「冬季漁獲戦闘」と鼓舞して波の高い冬場も無理して船を出しているようだ。報道によると、朝鮮労働党機関紙「労働新聞」(電子版、11月7日付)の社説 で「漁船は祖国と. 人民を守る軍艦であり、魚は軍と人民に送る銃弾・ 砲弾と同じだ」と出漁を呼びかけている。

   北朝鮮は沿岸付近の漁業権を中国企業に売却しており、漁師たちは遠洋に出ざるを得ない状況に置かれていると一部報じられている。それにしても、冬型の気圧配置で、北風で波が高くなるこの時期、いくら食糧確保のためとはいえ、古い木造船で出漁を煽るとは、難破の悲劇をわざわざつくり出しているようなものだ。これが北朝鮮の現実なのだ。漂流や漂着、どこまで続くのか。(※写真提供:一般社団法人能登里海教育研究所 浦田慎氏)

⇒2日(土)夜・金沢の天気   はれ

★ベトナム「戦地」巡礼-下

★ベトナム「戦地」巡礼-下

           25日はサイゴン市内を巡った。気温30度で蒸し暑く、ハノイと比べるとサイゴンは北海道と九州くらいの気温差があるかもしれない。現地でバンをチャーターし、日本語が堪能な男性ガイドが案内してくれた。気になることがあった。ガイド氏は「サイゴンでは・・」「それはサイゴンの・・・」といった言い方をする。サイゴンはホーチミンと市名が変更されたはず。それがいまだに「サイゴン」なのだ。

         悲喜こもごもサイゴンでの捕虜生活

    あのベトナム戦争では、アメリカとサイゴン政権、北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線が戦い、北ベトナムがアメリカを相手に世界史に残る戦争を繰り広げ、統一を果たした。サイゴンからホーチミンへの市の改名は1975年5月だった。40年余りもたって、まだサイゴンとは。ガイド氏の解説ではいくつか理由がある。

    一つは、読みの問題。ホーチミンはもともとベトナム革命を指導した建国の父である指導者、ホー・チ・ミンに由来する。そこで、市名と人名が混同しないように市名を語る場合は「カイフォ・ホー・チ・ミン」(ホーチミン市)と言う。長いのだ。それに比べ「サイ・ゴン」は言いやすく、短い。2つめは、ハノイとサイゴンの文化などを語る際、ハノイの人は「サイゴン人は甘党だ」といった言い方をする。サイゴンの人は「ハノイ人は辛党だ」と返す。こうした文化比較の中では「ホーチミン人は・・・」などの言い方はしない。3つめが少々複雑だ。市場開放政策でサイゴンの経済は活気に満ちている。「もし、アメリカと組んだままだったらサイゴンはもっと発展していたに違いない」などと、ハノイとの経済比較で語られる。こういった語り合いの中では「カイフォ・ホー・チ・ミン」は出てこない。

            午前中、市内のラジオ局に向かった。街路樹の下のことろどころにニトベギクが黄色い花をつけている。父の部隊は敗戦の報をカンボジアとの国境の町、ロクニンで聞き、その後サイゴンで翌年5月まで捕虜生活を送った。捕虜収容所があった場所がかつての「無線台敷地」、現在のラジオ局の周辺だった。生活ぶりは「捕虜生活は意外と寛大で監視兵すらおらず、食事も大隊独自の自炊で、外出できる平常の兵営生活であった」(冊子『中隊誌(戦歴とあゆみ)』)。無線台敷地の周囲で畑をつくり、近くの川で魚を釣りながら、戦闘のない日常を楽しんでいたようだ。

    ラジオ局の近くを流れるのはティ・ゲー川。生前父から見せてもらった捕虜生活の写真が数枚あり、その一枚がこの川で魚釣りをしている写真だった。兄弟で川の遊覧船に乗った=写真=。ゆったりとした川の流れ、川面を走る風が顔をなでるように心地よい。父の捕虜生活の様子が思い浮かぶ。

    1946年5月に日本への帰還が迫ったころ、事件が起きる。中隊の少尉ら3名が、ベトナム解放のゲリラ部隊に参加した兵士たちに帰順を呼びかけに出かけたまま全員帰らぬ人となった。中隊では「ミイラ取りがミイラになった」と諦めムードの中、5月2日にサイゴン港で帰還の船に乗り込んだ。乗船の際は、一人一人が名前を大声で名乗りタラップを上った。地元民に危害を加えた者がいないか、民衆が見守る中、「首実験」が行われたのだ。父が所属した部隊では「戦犯者」はいなかった。

    かつて父から聞いた話だが、別の部隊では軍属として働いていた地元民にゴボウの煮つけを出したことがある炊事兵が、乗船の際に「あいつはオレらに木の根っこを食わせた」と地元民が叫び、イギリス軍によりタラップから引きづリ降ろされた。そう語る父の残念そうな顔を今でも覚えている。我々兄弟のベトナム巡礼の旅はこの港で締めくくった。当日夕方に飛行機でハイノに戻り、26日帰国の途に就いた。

    父は同月13日に鹿児島に上陸。ここで復員が完結し部隊は検疫を済ませた後に解散した。画才を磨こうと横浜の看板店に一時勤めたが、能登半島に戻り結婚。1949年に兄が、私は54年に、そして弟は58年に生まれた。

⇒26日(日)午後・羽田空港の天気    はれ      

☆ベトナム「戦地」巡礼-中

☆ベトナム「戦地」巡礼-中

    先の大戦で父が所属したのは歩兵第八十三連隊第六中隊。この中隊の戦友会が後にまとめた冊子『中隊誌(戦歴とあゆみ)』(1979年作成)によると、日本の敗戦色が濃くなった昭和20年1月、それまでハノイに駐屯していた部隊は「明号作戦」と呼ばれた戦いに入る。フランスと協定したインドシナでの平和進駐から一転、フランス軍の討伐を目指してサイゴンへと鉄道での移動が始まった。

      「革命烈士の墓」に眠る残留日本兵  

    途中、日本軍の南下の動きを察知したアメリカ軍機による空爆があり、ところどころ鉄橋などが破壊された。行軍と鉄路での移動を繰り返しながらサイゴンに到着。3月9日にはフランス軍兵舎に奇襲攻撃をかけた。逃げるフランス軍を追ってカンボジアとの国境の町、ロクニンに転戦する。ところが、8月15日、終戦の詔勅をこの地で聞くことになる。終戦処理の占領軍はイギリスがあたり、父の部隊はサイゴンで捕虜となる。

    このころから部隊を逃亡する兵士が続出した。その多くは、ベトナムの解放をスローガンに掲げる現地のゲリラ組織に加わり、再植民地化をもくろむフランス軍との戦いに加わった。中にはベトナム独立同盟(ベトミン)の解放軍の中核として作戦を指揮する同僚もいた、と『中隊誌』には記されている。

    24日午前、兄弟3人でハノイから100㌔ほど離れたハナム省モックバック村に向かった。ここに「革命烈士の墓」=写真=がある。ベトナム解放の戦死者が眠る。その中に日本人の墓があり、線香を手向けた。日本名は分からないが、ベトナム独立のために命を捧げた日本人であると墓地の管理人の女性が案内してくれた。ベトナムは1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスを破り、その後、ベトナム戦争でアメリカを相手に壮絶な戦いを繰り広げた。革命烈士の墓は普段は入口の門の鍵がかかる、まさに聖地なのだ。父がもしベトナムを訪れていたら、かつての同僚だった残留日本兵にどう思いを馳せただろうか。

    ここでベトナムの風習を体験した。墓地の近くには花や線香を売る商店があり、線香を買い求めると、長さ25㌢ほどもある長い線香が30本ほど束になっていた。ベトナムではお参りした墓の周辺の墓にも線香を手向けるの習慣だとドライバー氏が話してくれた。「ベトナムでは墓は亡くなった人が帰る家です。ご近所さんにご挨拶するのが当然でしょう」と。この論法は私にも理解ができ、なるほどと腑に落ちた。ベトナムは社会主義の国だが仏教が主流だ。そして、ベトナムで仏教を信仰する多くの人々は月2回(1日と15日)に精進料理を食べることも習慣となっているのだ、とか。

    午後にはハノイの南東で600年の歴史を刻む陶器の村、バットチャーンを訪ねた。1800度で焼きしめた個性的な形状と色使いに見入る。ベトナム陶器の本場だ。夕方、ハノイ空港からホーチミン市に移動した。

⇒24日(金)夜・ホーチミン市の天気   はれ

★ベトナム「戦地」巡礼-上

★ベトナム「戦地」巡礼-上

   きょう23日、ベトナム旅行に出かけた。午前11時10分のフライトで小松空港から羽田空港へ。国際線でハイノ行きのベトナム航空機に乗った。午後4時35分発のフライトで、ハイノイ到着までほぼ6時間。初めてのベトナム行きだ。

        巡礼の旅は「蓮の花」から始まる

    機内ではシートのモニターで映画を自由に見ることができた。リストを見て、ことし6月に封切りの映画『花戦さ(はないくさ)』があったので、機内サービスの赤ワインを片手に鑑賞した。物語は、京の花僧、池坊専好が時の覇者、織田信長のために花を生けに岐阜城に行くところから始まる。信長は専好の活けた松を気に入るが、その時、松の枝が重さに耐え切れず継ぎ目が折れるハプニングが。従者たちは信長の怒りを恐れて言葉を失うが、豊臣秀吉が「扇ひとつで松を落とすとは、神業」と機転で信長をたたえてその場を治める。狂言師の野村萬斎が主演で、その仕草や笑いの表情が時代劇にはそぐわない感じもするが、個性がにじんで面白い。

   クライマックスのシーンは、活けた松で秀吉の暴君ぶりを諭すところ。ここでも、松の枝が折れて、笑いでオチがつく。ところで、数多ある邦画の中でなぜベトナム航空で『花戦さ』が採用されたのか、その理由は何かと思いをめぐらしているうちにハイノに到着した。

   きょうの気温は最高でも14度、街にはジャンパー姿も目立った。ところで、空港でハノイの中国語表記は漢字で「河内」だ。日本では人名や地名でこの漢字に馴染みがあり、カワチと読んでしまう。ハノイに「河内」と表記されると、今一つピンと来ない。ハノイ空港から市内へのバスに乗った。市内に入りしばらくすると、夜中のバザールのようなにぎわっているところがあった。40代前半の男性ガイド氏は「あれは花市場ですよ。夜に花の市場が開かれるのです。ベトナム人は花が大好きです。そう、ベトナム航空のロゴマークは蓮(はす)の花をデザインしたものですよ」と得意げに話した。

   路上を見ると、女性や男性がバイクや軽トラックで次々と花の束を持ち込んで、とても活気がある。ピンと来た。映画『花戦さ』では、池坊専好が河原に捨てられている娘・れんを助けるストーリーがある。れんは言葉を発せず、部屋の片隅にうずくまっているが、蓮の開花とともに画才を発揮し、寺の襖(ふすま)に蓮の花を描く迫力のシーンは印象に残る。東映がこの映画を売り込んだのかどうか定かではないが、ベトナム航空が採用した理由はこのシーンにあるのだろう、と。

   蓮は日本では仏花を代表する花だ。ベトナムでも同様のステータスがある花だ。ところで、ベトナムに来た理由。ちょうど15年前、平成14年(2002)8月に父が他界した。亡くなる前、「一度仏印に連れて行ってほしい。空の上からでもいい」と病床で懇願された。仏印は戦時中の仏領インドシナ、つまりベトナムのことだ。父の所属した連隊はハノイ、サイゴンと転戦し、フランス軍と戦った。同時に多くの戦友たちを失ってもいる。父はベトナムに亡き戦友たちの慰霊に訪れたかったのだろう。兄弟3人が集い、そのベトナムへの想いをかなえようと父の遺影を持参して今回ベトナムを訪れた。われわれにとっては巡礼の旅でもある。

⇒23日(祝)夜・ハノイの天気    くもり