☆そこにブログがあるから

☆そこにブログがあるから

            ブログ「自在コラム」を元に構成した出版した『実装的ブログ論 日常的価値観を言語化する』(幻冬舎ルネッサンス新書)の帯封に書かれている「ニュースはいつも自分のなかにある」は出版社が考えたチャッチフレーズだが、まさに私が言いたいことのポイントだ。

    日常には多彩なニュースであふれていると思って、周囲を観察するとさまざなことが見えてくるのだ。それをニュースとしてブログにする。雪の日の朝のご近所さんとの会話から、街の除雪のルールや金沢人の季節感を描くことできる。庭に咲く花から、茶道の文化を語るきっかけになることもある。冬型の気圧配置が続いている日本海の荒波が押し寄せてる能登の海岸を眺めれば、国際ニュースにもなっている北朝鮮の木造漁船はさらに転覆軒数が増えるのではないかと不安がよぎる。それはまさに自分の中にあるニュースだ。

    私が大学のプログラムで通っている能登を眺めれば、少子高齢化や若者の農業・地方離れといった多くの地方が抱える問題がそのまま見えてくる。この問題は能登だけでなく東南アジアや欧米でも起こっているのだ。グローバルな課題が能登で見えるではないか。だったら、「課題先進国」ニッポンとして、世界に向けて問題解決へのアプローチをいち早く提案してもよい。その取り組みが実施にそこで行われているのだから。

    ところが、ニュースは新聞やテレビにお任せになっている。ニュースは視聴するものだ、読むものだという感覚に私たちは慣れ切ってしまっている。しかも、マスメディアは東京目線のニュースの価値付けに偏っている。東京にばかり目を向けず、しっかりと日常や地方にも目を向ける必要がある。もちろん、地方には新聞社もテレビもある。ニュースはマスメディアにお任せではなく、自分のニュースを発信しようという発想でなのだ。そこにブログがある。これを使わない手はない。

    話は少々くどくなるが、本作のタイトルにもある「日常的価値観の言語化」はごく簡単に言えば、自ら日頃考えていること、思うことを言葉として伝えることである。つまり、ブログのように文章化して、読み手に自分の考えを伝えることだ。文書の構成は起承転結でなくてもよい。結論を先に持ってくる逆ピラミッド型もありだ。問題は読み手に伝える技術である。言葉に皮膚感覚や、明確な事実関係の構成がなければ伝わらない。実際に見聞きしたこと、肌で感じたこと、地域での暮らしの感覚、日頃自ら学んだことというのは揺るがないものだ。

    それらは日常で得た自らの価値観なのである。その価値観を持って、思うこと、考えることを自分の言葉で組み立てることが「実装」なのだ。ブログを書く作業は、他のSNS と違って実に孤独だ。ただ、誰にも気兼ねせず、邪魔されずに自分の価値観を言語として実装するには最高の場でもある。

⇒7日(木)夜・金沢の天気   くもり

 

★ブログを書籍化するきっかけ

★ブログを書籍化するきっかけ

    ブログ「自在コラム」を始めたのが2005年4月なので、丸12年になる。ことし2月に出版社から誘いを受けた。「近年は研究書の枠に収まらず、生活に役立つ実用書やドキュメンタリー風に仕上げた書籍もよく売れていて、そうしたお話しにご興味をお持ちでしたら…」とのことだった。メールでのやり取りだったので、3月に出版社(東京)に出向き編集者と面談して、ブログ論をテーマとすることにした。「自在コラム」は1000回を超えていて、その文章に込めた思いを書籍というカタチで表現してみたかったからだ。その後、コンセプトを巡るやり取り、ブログから原稿のチョイス(選択)、著書のタイトル、原稿の校正と10ヵ月を経て、きょう5日にようやく出版にこぎつけた。

   幻冬舎ルネッサンス新書『実装的ブログ論 日常的価値観を言語化する』。基本的にはここ4年間のブログの中から編集者が読んで面白いと思ってくれたものを原稿にした。自分としては1時間あれば読み切れるものにとの思いがあったので140ページにした。これは学生たちへのメッセージだと思っている。「日ごろ思っていること、感じていること、それを言葉にしてごらん、文章にしてごらん」と薦めたいのである。以下、前書きの抜粋。

                 ◇

   今日ほどインターネット上のソーシャルメディアが注目されている時代はないだろう。情報発信のツールとして認知され、政治家や芸能人、スポーツ選手がブログやSNS(Social Networking Service)のFacebook やTwitter で意見や近況を書きこむ、あるいは動画を掲載すると、それをマスメディア(新聞やテレビ、週刊誌など)が取り上げる。NHKや民放局、新聞社ではネット上からニュースのネタ(主に事件や事故)をリサーチする専門チームも編成されている。そんな時代だ。

   私自身がブログを書き始めたのは2005年4月、金沢大学に再就職したときだった。きっかけは、テレビ局時代から懇意にしていた秋田県の民放テレビ局の番組プロデューサーから、「宇野ちゃんは元新聞記者だから、書き始めるときっとはまるよ」と勧められ、こちらも軽い乗りでブログの世界に片足を突っ込んだ。あれから12年。ブログのアップロード回数も1160を超えた(2017年10月現在)。勧めてくれたプロデューサー氏はブログからミクシィ、Twitter、Facebook と乗り換えている。その意味では、どっぷり12年のブログ歴というのは確かに「はまった」のかもしれない。

   ブログはもともとウェブログ(Web Log)の略で、ウェブサイトにログ(記録)すること、つまり「書き溜め型」のソーシャルメディアであり、不特定多数のネットユーザーに情報発信をするものだ。これに対し、Facebook やTwitter などのSNSは人とのつながりをベースに会話するかのように使われるコミュニケーション型のソーシャルメディアだ。私はパソコンに向かって新聞記事を書くように、投稿した記事を積み上げている。まるで、炭焼き窯に向かう職人のように黙々と。仕上がりは充足感、いや自己満足かもしれない。SNSのような会話風の楽しみとは異なる喜びだ。社交的なプロデューサー氏がブログからSNSの世界に入ったのと対比すると、その分岐点は性格の違いにあったのかもしれない。

   では、12 年も地道にパソコンに向かって何を書き続けてきたのか。過去の心象にこだわって随筆風に書き溜めてきた訳ではない。日々のニュースを綴ってきたと説明した方が分かりやすいかもしれない。日常生活や職場である金沢大学での個人的なニュースから、政治や経済など世の中のニュース、紛争や外交など世界のニュースなど。要は自分がニュースだと感じたことをその都度、ブログで表現してきた。別の言い方をすれば、日頃の自らの感性や思考をニュースだと発想して、それを文字で表現した。さらに詰めて、「日常的価値観の言語化」と言ってよいだろう。

   最近、何年も前にアップロードした自らの記事が検索エンジンでヒットすることがある。書いたことすら忘れてしまっている記事がいきなり検索画面に表れてくると、「記事は生きている」と実感する。インターネットの普及期に読んだ、立花隆著『インターネットはグローバル・ブレイン』(1997)を思い起こす。著書名の通り、地球を生命体と見立てればインターネットは頭脳であり、私のブログサイトはその神経細胞の一つかもしれないというものだ。その細胞を活性化させることは、いかにして質の高い記事をアップロードし続けるかにある。ブログ=日常的価値観の言語化とは、パーソナル・ブレーンを生き生きとさせるツールでもあるのだ。

   私は、その自身のパーソナル・ブレーンを多くの人に共有してもらいたいという気持ちから、今回の出版を決めた。

⇒5日(火)夜・金沢の天気   あめ

☆北の難破船、いつまで続く

☆北の難破船、いつまで続く

   北朝鮮による新型ICBM(大陸間弾道ミサイル)の発射、そして、日本海沿岸に次々と流れ着く転覆した木造船、今後さらに何が日本海で起きるのか。金沢大学の能登学舎(珠洲市三崎町)で同僚たちと北朝鮮問題について話す機会も多いのだが、すぐ目の前の海に「北の船」が現実に現れたのには驚いた。

    先月27日午前8時40分ごろ、同市三崎町の小泊漁港500㍍沖で木造船が浮いているのが発見された。七尾海上保安部と珠洲警察署などが捜索。報道によると、木造船は全長12㍍、幅2.6㍍で、船内に人影はなく、船内からは網などの漁具のほか、ハングル文字で書かれたタバコの箱やビニール袋などが見つかった。能登半島沖300㌔の好漁場、大和堆あたりで漁をしていて、難破したものと見られる。

   漂着した北朝鮮の漁船の写真を提供いただいた。船の前方にはすでに藻がこびりついていて、「556—60268」という数字が書かれている。木造の船体はいかにも古そうで、荒れた海では波をまともにかぶりそうだ。

   今回特徴的なことは、遺留品にハングル文字で「264軍部隊」と文字が記されたカードがあったことだ。漁民が軍から船を借り受けた際に与えられた証明書との見方がなされている。さらにここから深読みすると、軍から船を借りてまで日本のEEZ(排他的経済水域)に向かう国家の現状だ。北朝鮮の慢性的な食糧不足は想像に難くない。いわゆる国策として漁業を奨励し、「冬季漁獲戦闘」と鼓舞して波の高い冬場も無理して船を出しているようだ。報道によると、朝鮮労働党機関紙「労働新聞」(電子版、11月7日付)の社説 で「漁船は祖国と. 人民を守る軍艦であり、魚は軍と人民に送る銃弾・ 砲弾と同じだ」と出漁を呼びかけている。

   北朝鮮は沿岸付近の漁業権を中国企業に売却しており、漁師たちは遠洋に出ざるを得ない状況に置かれていると一部報じられている。それにしても、冬型の気圧配置で、北風で波が高くなるこの時期、いくら食糧確保のためとはいえ、古い木造船で出漁を煽るとは、難破の悲劇をわざわざつくり出しているようなものだ。これが北朝鮮の現実なのだ。漂流や漂着、どこまで続くのか。(※写真提供:一般社団法人能登里海教育研究所 浦田慎氏)

⇒2日(土)夜・金沢の天気   はれ

★ベトナム「戦地」巡礼-下

★ベトナム「戦地」巡礼-下

           25日はサイゴン市内を巡った。気温30度で蒸し暑く、ハノイと比べるとサイゴンは北海道と九州くらいの気温差があるかもしれない。現地でバンをチャーターし、日本語が堪能な男性ガイドが案内してくれた。気になることがあった。ガイド氏は「サイゴンでは・・」「それはサイゴンの・・・」といった言い方をする。サイゴンはホーチミンと市名が変更されたはず。それがいまだに「サイゴン」なのだ。

         悲喜こもごもサイゴンでの捕虜生活

    あのベトナム戦争では、アメリカとサイゴン政権、北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線が戦い、北ベトナムがアメリカを相手に世界史に残る戦争を繰り広げ、統一を果たした。サイゴンからホーチミンへの市の改名は1975年5月だった。40年余りもたって、まだサイゴンとは。ガイド氏の解説ではいくつか理由がある。

    一つは、読みの問題。ホーチミンはもともとベトナム革命を指導した建国の父である指導者、ホー・チ・ミンに由来する。そこで、市名と人名が混同しないように市名を語る場合は「カイフォ・ホー・チ・ミン」(ホーチミン市)と言う。長いのだ。それに比べ「サイ・ゴン」は言いやすく、短い。2つめは、ハノイとサイゴンの文化などを語る際、ハノイの人は「サイゴン人は甘党だ」といった言い方をする。サイゴンの人は「ハノイ人は辛党だ」と返す。こうした文化比較の中では「ホーチミン人は・・・」などの言い方はしない。3つめが少々複雑だ。市場開放政策でサイゴンの経済は活気に満ちている。「もし、アメリカと組んだままだったらサイゴンはもっと発展していたに違いない」などと、ハノイとの経済比較で語られる。こういった語り合いの中では「カイフォ・ホー・チ・ミン」は出てこない。

            午前中、市内のラジオ局に向かった。街路樹の下のことろどころにニトベギクが黄色い花をつけている。父の部隊は敗戦の報をカンボジアとの国境の町、ロクニンで聞き、その後サイゴンで翌年5月まで捕虜生活を送った。捕虜収容所があった場所がかつての「無線台敷地」、現在のラジオ局の周辺だった。生活ぶりは「捕虜生活は意外と寛大で監視兵すらおらず、食事も大隊独自の自炊で、外出できる平常の兵営生活であった」(冊子『中隊誌(戦歴とあゆみ)』)。無線台敷地の周囲で畑をつくり、近くの川で魚を釣りながら、戦闘のない日常を楽しんでいたようだ。

    ラジオ局の近くを流れるのはティ・ゲー川。生前父から見せてもらった捕虜生活の写真が数枚あり、その一枚がこの川で魚釣りをしている写真だった。兄弟で川の遊覧船に乗った=写真=。ゆったりとした川の流れ、川面を走る風が顔をなでるように心地よい。父の捕虜生活の様子が思い浮かぶ。

    1946年5月に日本への帰還が迫ったころ、事件が起きる。中隊の少尉ら3名が、ベトナム解放のゲリラ部隊に参加した兵士たちに帰順を呼びかけに出かけたまま全員帰らぬ人となった。中隊では「ミイラ取りがミイラになった」と諦めムードの中、5月2日にサイゴン港で帰還の船に乗り込んだ。乗船の際は、一人一人が名前を大声で名乗りタラップを上った。地元民に危害を加えた者がいないか、民衆が見守る中、「首実験」が行われたのだ。父が所属した部隊では「戦犯者」はいなかった。

    かつて父から聞いた話だが、別の部隊では軍属として働いていた地元民にゴボウの煮つけを出したことがある炊事兵が、乗船の際に「あいつはオレらに木の根っこを食わせた」と地元民が叫び、イギリス軍によりタラップから引きづリ降ろされた。そう語る父の残念そうな顔を今でも覚えている。我々兄弟のベトナム巡礼の旅はこの港で締めくくった。当日夕方に飛行機でハイノに戻り、26日帰国の途に就いた。

    父は同月13日に鹿児島に上陸。ここで復員が完結し部隊は検疫を済ませた後に解散した。画才を磨こうと横浜の看板店に一時勤めたが、能登半島に戻り結婚。1949年に兄が、私は54年に、そして弟は58年に生まれた。

⇒26日(日)午後・羽田空港の天気    はれ      

☆ベトナム「戦地」巡礼-中

☆ベトナム「戦地」巡礼-中

    先の大戦で父が所属したのは歩兵第八十三連隊第六中隊。この中隊の戦友会が後にまとめた冊子『中隊誌(戦歴とあゆみ)』(1979年作成)によると、日本の敗戦色が濃くなった昭和20年1月、それまでハノイに駐屯していた部隊は「明号作戦」と呼ばれた戦いに入る。フランスと協定したインドシナでの平和進駐から一転、フランス軍の討伐を目指してサイゴンへと鉄道での移動が始まった。

      「革命烈士の墓」に眠る残留日本兵  

    途中、日本軍の南下の動きを察知したアメリカ軍機による空爆があり、ところどころ鉄橋などが破壊された。行軍と鉄路での移動を繰り返しながらサイゴンに到着。3月9日にはフランス軍兵舎に奇襲攻撃をかけた。逃げるフランス軍を追ってカンボジアとの国境の町、ロクニンに転戦する。ところが、8月15日、終戦の詔勅をこの地で聞くことになる。終戦処理の占領軍はイギリスがあたり、父の部隊はサイゴンで捕虜となる。

    このころから部隊を逃亡する兵士が続出した。その多くは、ベトナムの解放をスローガンに掲げる現地のゲリラ組織に加わり、再植民地化をもくろむフランス軍との戦いに加わった。中にはベトナム独立同盟(ベトミン)の解放軍の中核として作戦を指揮する同僚もいた、と『中隊誌』には記されている。

    24日午前、兄弟3人でハノイから100㌔ほど離れたハナム省モックバック村に向かった。ここに「革命烈士の墓」=写真=がある。ベトナム解放の戦死者が眠る。その中に日本人の墓があり、線香を手向けた。日本名は分からないが、ベトナム独立のために命を捧げた日本人であると墓地の管理人の女性が案内してくれた。ベトナムは1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスを破り、その後、ベトナム戦争でアメリカを相手に壮絶な戦いを繰り広げた。革命烈士の墓は普段は入口の門の鍵がかかる、まさに聖地なのだ。父がもしベトナムを訪れていたら、かつての同僚だった残留日本兵にどう思いを馳せただろうか。

    ここでベトナムの風習を体験した。墓地の近くには花や線香を売る商店があり、線香を買い求めると、長さ25㌢ほどもある長い線香が30本ほど束になっていた。ベトナムではお参りした墓の周辺の墓にも線香を手向けるの習慣だとドライバー氏が話してくれた。「ベトナムでは墓は亡くなった人が帰る家です。ご近所さんにご挨拶するのが当然でしょう」と。この論法は私にも理解ができ、なるほどと腑に落ちた。ベトナムは社会主義の国だが仏教が主流だ。そして、ベトナムで仏教を信仰する多くの人々は月2回(1日と15日)に精進料理を食べることも習慣となっているのだ、とか。

    午後にはハノイの南東で600年の歴史を刻む陶器の村、バットチャーンを訪ねた。1800度で焼きしめた個性的な形状と色使いに見入る。ベトナム陶器の本場だ。夕方、ハノイ空港からホーチミン市に移動した。

⇒24日(金)夜・ホーチミン市の天気   はれ

★ベトナム「戦地」巡礼-上

★ベトナム「戦地」巡礼-上

   きょう23日、ベトナム旅行に出かけた。午前11時10分のフライトで小松空港から羽田空港へ。国際線でハイノ行きのベトナム航空機に乗った。午後4時35分発のフライトで、ハイノイ到着までほぼ6時間。初めてのベトナム行きだ。

        巡礼の旅は「蓮の花」から始まる

    機内ではシートのモニターで映画を自由に見ることができた。リストを見て、ことし6月に封切りの映画『花戦さ(はないくさ)』があったので、機内サービスの赤ワインを片手に鑑賞した。物語は、京の花僧、池坊専好が時の覇者、織田信長のために花を生けに岐阜城に行くところから始まる。信長は専好の活けた松を気に入るが、その時、松の枝が重さに耐え切れず継ぎ目が折れるハプニングが。従者たちは信長の怒りを恐れて言葉を失うが、豊臣秀吉が「扇ひとつで松を落とすとは、神業」と機転で信長をたたえてその場を治める。狂言師の野村萬斎が主演で、その仕草や笑いの表情が時代劇にはそぐわない感じもするが、個性がにじんで面白い。

   クライマックスのシーンは、活けた松で秀吉の暴君ぶりを諭すところ。ここでも、松の枝が折れて、笑いでオチがつく。ところで、数多ある邦画の中でなぜベトナム航空で『花戦さ』が採用されたのか、その理由は何かと思いをめぐらしているうちにハイノに到着した。

   きょうの気温は最高でも14度、街にはジャンパー姿も目立った。ところで、空港でハノイの中国語表記は漢字で「河内」だ。日本では人名や地名でこの漢字に馴染みがあり、カワチと読んでしまう。ハノイに「河内」と表記されると、今一つピンと来ない。ハノイ空港から市内へのバスに乗った。市内に入りしばらくすると、夜中のバザールのようなにぎわっているところがあった。40代前半の男性ガイド氏は「あれは花市場ですよ。夜に花の市場が開かれるのです。ベトナム人は花が大好きです。そう、ベトナム航空のロゴマークは蓮(はす)の花をデザインしたものですよ」と得意げに話した。

   路上を見ると、女性や男性がバイクや軽トラックで次々と花の束を持ち込んで、とても活気がある。ピンと来た。映画『花戦さ』では、池坊専好が河原に捨てられている娘・れんを助けるストーリーがある。れんは言葉を発せず、部屋の片隅にうずくまっているが、蓮の開花とともに画才を発揮し、寺の襖(ふすま)に蓮の花を描く迫力のシーンは印象に残る。東映がこの映画を売り込んだのかどうか定かではないが、ベトナム航空が採用した理由はこのシーンにあるのだろう、と。

   蓮は日本では仏花を代表する花だ。ベトナムでも同様のステータスがある花だ。ところで、ベトナムに来た理由。ちょうど15年前、平成14年(2002)8月に父が他界した。亡くなる前、「一度仏印に連れて行ってほしい。空の上からでもいい」と病床で懇願された。仏印は戦時中の仏領インドシナ、つまりベトナムのことだ。父の所属した連隊はハノイ、サイゴンと転戦し、フランス軍と戦った。同時に多くの戦友たちを失ってもいる。父はベトナムに亡き戦友たちの慰霊に訪れたかったのだろう。兄弟3人が集い、そのベトナムへの想いをかなえようと父の遺影を持参して今回ベトナムを訪れた。われわれにとっては巡礼の旅でもある。

⇒23日(祝)夜・ハノイの天気    くもり

☆ブリ起こしの雷

☆ブリ起こしの雷

    きのう20日の天気は落雷や突風、急な強い雨が降るとても不安定な天気だった。何しろ、天気予報では能登半島の先端、輪島の上空5千㍍でマイナス30℃以下の真冬並みの寒気が入り込んで、まさに大荒れの天気だった。荒れ模様の天気の中を車で走りながら、ある言葉が思い浮かんだ。「ブリ起こしの雷」。石川や富山など北陸ではこの時期、雷が鳴ると「寒ブリ」が揚がるとの言い伝えがある。

    その言い伝えは的中した。きょう21日朝、能登町沖の定置網で寒ブリ550本が水揚げされ、金沢市中央卸売市場では仲買人たちの威勢のいい声が飛び交い、次々と競り落とされたと昼のニュースで。体長90㌢、重さ10㌔の大物などが揚がっていて、シーズンの先駆けとなったようだ。この時期に能登半島沿岸で水揚げされた重さ7㌔以上のブリを「のと寒ぶり」のブランド名を付けて売られている。10㌔以上ともなると特上品だ。

では、なぜこの時期「ブリ起こしの雷」と言うのか。よく誤解されるのは、雷鳴に驚いて、ブリが能登沖や富山湾に逃げ込んで来るという説。むしろ、時化(しけ)で日本海も荒れるので、イワシといった魚が沿岸に寄って来る。それをブリが追いかけて網にかかるという説の方が納得がいく。

    タイミングよく、「かぶら鮨」の予約販売の案内が郵送で自宅に届いた。このかぶら鮨は、青カブに寒ブリの切り身をはさんで甘糀(あまこうじ)で漬け込む。漬け込みは2週間余り。金沢の冬の味覚の代名詞にもなっている。保存料などの添加物を使っていない手造り限定品なので、「桶上げ」という発送の日が決まっている。価格は簡易箱詰めの3枚入りが5400円、贈答用の化粧木樽詰めの3枚入りが5940円となっている。金沢に住んでいるとこれを食さないと正月が来ない。

    九谷焼の皿にかぶら鮨を盛って、辛口の吟醸酒でも飲めば、天下でも取ったような高揚感に満たされる。最近気ぜわしい浮世のニュースが目に余る。大相撲の横綱・日馬富士が幕内の貴ノ岩に暴行を加えたといわれる問題でテレビの報道番組のキャスターがああでもない、こうでもないと口をとがらせている。「良きに計らえ」とおおらかな心になりたいものだ。正月を楽しみに「12月27日発送分、簡易箱詰めの3枚入り5400円」の注文書をFAXにかけた。

⇒21日(火)夜・金沢の天気    はれ

★「国難の海」の現実

★「国難の海」の現実

    最近のニュースで解せない点が、このブログで何度か取り上げた、北朝鮮の漁船による能登半島沖の大和堆(日本のEEZ=排他的経済水域)での違法操業だ。地元紙は「1千隻規模の不審船がレーダーなどで確認している。夏より多い」との漁業関係者の憤りの声を記事にしている。しかし、9月の国連安全保障理事会による北朝鮮への追加制裁決議で、漁船の燃料となる原油や石油製品の規制を設けたはずだ。

    追加制裁では、原油輸出は採択後の12ヵ月間の総量を採択前の12ヵ月間の実績を超えない、石油精製品の輸出量は2017年10-12月50万バレル、18年以降は年間上限を200万バレルに設定した。加盟国には北朝鮮への輸出量を毎月報告するよう求めた。追加制裁が額面通り実施されていれば、ガソリンなどは軍事優先で占められ、漁船への配分は限られると推測する。にもかかわらず、「夏より多い」とはどういうことだろうか。海上保安庁は8月までに延べ820隻の違法操業船を警告や散水して退去させたと発表している。

    この背景は何だろう。追加制裁がまさにザル法と化して、漁業者に潤沢にガソリンが提供されているということなのか、あるいは食料自給が水産物に頼らざるを得なくなり国策として、漁業者に優先的にガソリンを回しているのか。

            15日午後、能登半島沖360㌔のEEZ外で漁船が転覆してるのを海上自衛隊の航空機が発見し、海上保安庁の巡視船が乗組員を救助したとニュースがあった。救助された乗組員は北朝鮮籍の男性3人。漁船は小型船で15人が乗っていたという。残りの12人は不明で捜査が続けられている。乗組員は10月24日に北朝鮮北東部の清洋港を出港し、日本海で操業、寄港する途中にに転覆した。3人は帰国を希望しており、別の北朝鮮船籍の漁船に引き渡された。海上保安庁は新たに能登沖340㌔で別の船が転覆しているのを発見している。相次ぐ転覆。勘ぐれば、大和堆でスルメイカを獲り過ぎて漁船はバランスを崩したのか。

    同じ日の15日、石川県漁協のイカ釣り漁関係者が水産庁を訪れ、北朝鮮による違法操業への取り締まりの強化を水産庁長官に要望した。能登半島のイカ釣り漁の拠点である小木漁協では、最盛期の11月でも水揚げ額は2億円、これは昨年の3割でしかなかく、「死活問題になっている」と窮状を訴えたと報じられている。イカ釣り漁関係者の一行は外務省や海上保安庁の担当者にも同様の訴えを行ったが、臨検や拿捕といった取り締まりの強化策には言及はなかったという。

    これらの報道に目を通せば、日本海で今起きていることの現実が見えてくる。大量の北朝鮮漁船に違法操業の現実、国連安保理による経済制裁の実効性への疑念、北朝鮮漁船の帰港途中の転覆事故、日本漁船の水揚げ急減の窮状、懸念される所轄官庁の反応。日本海は日増しに「国難の海」へと状況が加速している。

⇒16日(木)夜・金沢の天気   あめ

☆「うるさい」雪吊り

☆「うるさい」雪吊り

テレビと新聞の週間天気予報を見て少々焦った。金沢の天気が19日(日)は「雪マーク」が付いているのだ。北陸の住む者にとって、その焦りの原因は少なくとも2つある。まずは自家用車のノーマルタイヤからスノータイヤへの交換だ。積雪で路面がアイスバーン(凍結)状態になると交通事故のもとだ。もう一つ。これは少数派かもしれないが、庭木の雪吊りだ。北陸の雪はパウダースノーではなく、湿気を含んで重い。雪の重みで庭木の枝が折れたりする。金沢の兼六園では毎年11月1日に雪吊りを施し積雪に備える。

    我が家の場合、庭木の剪定も雪吊りも造園業者に依頼している。天気予想を見て、さっそく電話。13、14日の両日に職人が来てくれた。雪吊りの話を関東の友人たちと話をしていて、よく誤解されることがある。「長期予報で北陸が暖冬だったら、わざわざ雪吊りはしなくてよいのでは」と。確かにある意味で理にかなっているのだが、冬の現実はそう単純ではない。暖冬と予想されたとしても、一夜で大雪になることがある。記憶に残っているのが2007年2月の大雪。1月は金沢は「雪なし暖冬」で観測史上の新記録だった。ところが、2月1日からシンシンと雪が降り始め、市内で50㌢にもなった。冬将軍は突然やってくるのだ。

   毎年依頼している造園業者は雪吊りにかけてはなかなか「うるさい」(技が優れている)。雪吊りには木の種類や形状、枝ぶりによって実に11種もの技法がある。庭木に雪が積もりと、「雪圧」「雪倒」「雪折れ」「雪曲」と言って、樹木の形状によってさまざま雪害が起きる。樹木の姿を見てプロは「雪吊り」「雪棚」「雪囲い」の手法の判断をするようだ。毎年見慣れている雪吊りの光景だが、縄の結び方なども異なるようだ。

   雪吊りで有名なのは「りんご吊り」。我が家では五葉松などの高木に施されている=写真=。マツの木の横に孟宗竹の芯(しん)柱を立てて、柱の先頭から縄を17本たらして枝を吊る。パラソル状になっていることろが、アートなのだ。「りんご吊り」の名称については、金沢では江戸時代から実のなる木の一つとしてリンゴの木があった。果実がたわわに実ると枝が折れるのを補強するため同様な手法を用いたとかつて聞いたことがあるが、定かではない。

   低木に施される雪吊りが「竹又吊り」。ツツジの木に竹を3本、等間隔に立てて上部で結んだ縄を下げて吊る。庭職人の親方から聞いた話だ。秋ごろには庭木の枝葉を剪定してもらっているが、ベテランの職人は庭木への積雪をイメージ(意識)して、剪定を行うという話だった。このために強く刈り込みを施すこともある。ゆるく刈り込みをすると、それだけ枝が不必要に伸び、雪害の要因にもなる。庭木本来の美しい形状を保つために、常に雪のことが配慮される。「うるさい」理由はどうやらここにあるようだ。

⇒15日(水)朝・金沢の天気  くもり時々はれ

★ニュースのサイコパス

★ニュースのサイコパス

   テレビのニュース価値は下がるばかりだ。おそらくテレビ局側も現場は士気が下がっているのではないだろうか。今月6日夜、札幌のススキノからタクシーに乗った男が運転手が道順を巡って、タクシーの防護板を足でけって破壊する様子が今でも繰り返し番組で流されている。男は990円の料金を払わずにタクシーを降り、スマートフォンを投げつけた。その後、ネット上では早々と、この男が札幌弁護士会に所属する30代の弁護士だと実名出ていた。

    そこで、札幌弁護士会のホームページを確認すると今日(13日)、「市民の皆様へ」と、札幌弁護士会の会長のコメントが掲載されていた。「当会の会員が、タクシー乗車中、車内の器物を損壊する等に及んだことが報道されております。事実であれば、断じてあってはならないことであり、極めて遺憾というほかありません。当会としても、必要な情報収集を行い,会員の非違行為が確認できた場合には,厳正に対応する所存です。」と。

   このコメント自体に違和感を感じるというか、「ぬるい」。「会員の非違行為が確認できた場合には,厳正に対応する所存です」との部分だ。非違行為は非法行為と違法行為のことだが、あの映像は誰が視聴しても破壊行為であり、暴力行為だ。運転中のドラバーの後ろのシートを蹴っているので、道路交通法違反(運転妨害)でもあるだろう。単なる、器物損壊ではない。それを「会員の非違行為が確認できた場合には、」などとコメントすること自体、違和感を増幅させる。「厳正に対応する所存です。」でよいのではないか。

   テレビのニュース価値を下げている、もう一つのニュースがサイコパス(精神病質者)的な犯罪と言われる神奈川県座間市の連続殺人事件。先月31日に事件が発覚して以来、その事件の異常性が伝えられている。その惨状を想像すると嫌悪感がわく。知り合いは「最近テレビのチャンネルを変えるどころか、テレビそのものを見たくない」と拒否反応の様子だ。

   そうした視聴者の心境を察してか、テレビ局はこぞって、トランプ大統領と娘のイヴァンカ大統領補佐官の来日(それぞれ今月5-7日、2-4日)を競うように明るい話題として扱った。それも、メラニア大統領夫人のファッションがどうだこうだ、と。日本政府主催の「国際女性会議WAW!」で、イヴァンカ氏が「アベノミクスはウーマノミクスである」とスピーチをすると、父親のトランプより演説のレベルが高いなどと番組のコメンテーターが褒めそやす。そんな程度なのだ。

   7日にトランプ大統領が離日、するとまた座間の連続殺人の続報、それに札幌のタクシー事件が加わった。それにしても、座間事件は9人も殺害された凄惨な事件だ。果たして裁判員裁判が成立するのか。裁判員を辞退するのは3人に2人といわれる。その理由に、遺体写真を見てトラウマ(心的外傷)になることを恐れる人が多い。もし、私にこの事件の裁判員の通知が届いたらどう判断するだろうか。そんな余計なことまで考えてしまう。
   
⇒13日(月)夜・金沢の天気   はれ