☆歩きスマホと二宮金次郎

☆歩きスマホと二宮金次郎

   「みなさんはご存知ですか。二宮金次郎の像は高さが1㍍ということを」。先日、学生たちと能登半島の珠洲市をインターンシップで訪れた。元小学校の跡地に建てられた保育所は数年で閉鎖され、昨年開催された奥能登国際芸術祭の作品(塩田千春作『時を運ぶ船』)の展示会場として活用されている。会場の入口付近に小学校の名残をとどめる二宮金次郎像がある。冒頭の言葉は、地域を案内いただいた地元の方の説明だった。この方は中学校の元校長で教育に詳しい。

    学生たちは「知らなかった、そんな1㍍という決まりはなぜあるのですか」と質問した。すると元校長氏は「私も詳しくは分かりません。ただ、一説に昔の尺貫法からメートル法に変わる時に、子どもたちが1㍍はどのくらいか判断できるようにと工夫されて造られたようです」と。あの薪(まき)を背負って歩きながら本を読んでいる金次郎像は、貧しい環境にありながらも自己実現に向かって勉学に励むモデルではなかったのか。それが、メートル法の周知のために造られたのか、意外だった。確かに2、3㍍の大きな金次郎像は見たことがない。統一されたサイズかもしれない。

   長さに尺(しゃく)、質量に貫(かん)を用いた日本固有の単位系が
メートル法へとシフトしたのは、明治8年(1875)に明治政府が度量衡制度を設け、メートル条約を締結したのが始まりとされる。独自の経済圏で栄えた鎖国だったが、1853年にアメリカのペリー提督が「黒船」で交易を求めて横浜・浦賀沖に来航した。外国の圧倒的な技術力や軍事力を見せつけられ、開国へ進む。西欧の技術力を導入するためにメートル法による度量衡制度が必要だった。そのメートル法が一般に普及し、尺貫法が法律上で廃止されたは昭和34年(1959)だった。金次郎像はその間に普及したのだろうか。

   学生からさらに質問が出た。「いまはメートル法が当たり前なので、二宮金次郎像は過去の遺物と解釈していいですね」と。この質問に対して他の学生から意見が出た。「薪を背負う子どもが読書しながら歩く姿は戦時中の教育といった感じで、いまの子どもたちは薪すら何なのか理解できない。でも、小学校に寄付してくださった方の気持ちを『過去の遺物』と簡単に決めつけてよいのでしょうか」と。別の学生は「歩いてマンガ本を読むのは転ぶから危険だよと小さいころに親から言われた。校庭にいたので、親が二宮金次郎の像を指さしていた。歩きスマホは危険と反面教師として金次郎像を活用すればどうでしょうか」と。このコメントは笑いを誘った。

   すると元校長氏は「珠洲市と姉妹提携を結んでいるブラジルのペロタス市から教育関係者が学校を訪れた折に、二宮金次郎の像を見て、知的な少年像ですね、教育熱心な日本のシンボルですね、と言われました。このようなモチーフの像は世界はないそうです」と。二宮金次郎像をめぐる会話はここで終わり。

   時間にして5分もなかったが、世代を超えた共通価値としての二宮金次郎像はそれなりに話題を提供してくれる。スマホと本を両手で掲げて未来を向く、そんな現代版金次郎像があってもよいのかもしれない。

⇒21日(火)夜・金沢の天気    はれ(猛暑日)

★「山一つ」「海二つ」曳山の醍醐味-下

★「山一つ」「海二つ」曳山の醍醐味-下

   学生たちが祭りで担う役割はとてもシステマチックに構成されている。曳山の運行で方向転換など担う「舵棒取り」に2基の曳山にそれぞれ男子学生10人が配置された。祭りの舞台となる黒島の街並みは重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)に選定されていて、しかも道幅は狭いところで4㍍ほどである。ここを曳山が巡行するので道路沿いの家の屋根部分に接触しないよう舵取りが必要となる。そこに学生たちの活躍の場がある。巡行する街路は山と海それぞれに平行に走っている。地元のベテランの舵取り担当が「山一つ」と声を上げると、学生たちが一斉に山側に舵棒を1回押す。すると、曳山の車輪は海側に10度ほど舵を切ることができる=写真=。「海二つ」と声が上がると、海側に2回押して山側に20度ほど舵を切る。この作業を繰り返しながら、曳山は曲線道路を器用に巡行する。

     祭礼の人出不足、その地域課題にどう向き合うか

   女子学生は行列の先頭で枠旗を持ちや奴振りの扇ぎ手を担当する。地域の子どもたちが扮する奴振り行列では、子どもたちに歌舞伎役者のような化粧が施される。ところが顔に汗が出ると化粧が崩れてくるためにウチワで顔を扇ぐ。獅子舞係の男子学生は地元の若手といっしょになって路上でパフォーマンスを演じる。とくに、「お立ち」と呼ぶ行列の出発を神輿の担ぎ手に催促したりする。

   祭りで学生たちがそれぞれの役割を演じると、活き活きとした表情になる。この意味で、学生たちが地域の伝統文化をフィールドで学ぶ、教育的な体験プログラムにもなっている。地域にとっても、今年5月に日本遺産「北前船寄港地・船主集落」に追加認定されてから初めての天領祭だったので、妙に街全体が盛り上がっていて、参加者、見学者ともに例年に比べ多いように思えた。

   能登だけではなく、日本の多くの過疎地で祭礼の人手不足現象が起きていることは想像に難くない。一方で祭りが大好きな都会人や、日本で文化体験をしたいインバウンド観光客は大勢いるはずだ。人手不足の祭礼と、参加したい人たちとのマッチングをどう図るか、まさに課題解決型のプランが求められていると実感している。

⇒19日(日)午後・金沢の天気    はれ

☆「山一つ」「海二つ」曳山の醍醐味-上

☆「山一つ」「海二つ」曳山の醍醐味-上

   この季節、能登でよく使われる言葉がある。「盆や正月に帰らんでいい。祭りには帰っておいで」と。これは古里を離れて都会などで暮らす子どもたちに対して親が使う。この言葉には2つの意味があると土地の人たちから教わった。能登の夏祭りや秋祭りでは「キリコ」と呼ぶ高さ10㍍ほどの奉灯(ほうとう)や、曳山(ひきやま)を動かす。祭りは地域や集落ごとに執り行われ、それぞれの家では親戚などを招いてご馳走でもてなすヨバレがある。年に一度の「我が家のビックイベント」でもあるので、子どもたちにも参加を呼びかける。

       粋な能登の祭り「黒島天領祭」に学生と行く

  もう一つの意味がキリコや曳山を動かす担ぎ手としての役割である。担ぎ手は1軒ごとに2人、あるいは3人と割り当てがある。かつては大家族だったので担ぎ手には不自由しなかったろう。今では能登でも核家族化が進み、さらに少子化でどこの地域や集落でも若い担ぎ手が不足している。この「盆や正月に帰らんでいい。祭りには帰っておいで」は親の願いであり、地域の願いでもあるのだ。

    輪島市門前町黒島の祭礼「黒島天領祭」(17、18日)に学生43人を連れて参加した。かつて北前船船主が集住した黒島は貞享元年(1684)に江戸幕府の天領(直轄地)となり、立葵(たちあおい)の紋が贈られたことを祝って始まった祭礼とされる。祭りはキリコを担ぐ能登のほかの祭りとは異なり、都(みやこ)風な趣がある。2基の曳山は輪島塗に金箔銀箔を貼りつけた豪華さ、「百貫」(375㌔㌘)の神輿(みこし)、小学生による奴(やっこ)振り道中など。地元の人たちは麻の黒い半纏(はんてん)を粋に羽織っている。

   2011年から黒島天領祭にかかわってる。きっけは2007年3月の能登半島地震だった。奥能登を中心に家屋が多く損壊し、過疎化に拍車がかかった。11年3月に奥能登の2市2町(輪島、珠洲、穴水、能登)と大学(金沢大、県立大学、看護大、星稜大)で構成する能登キャンパス構想推進協議会を発足させ、事業テーマの一つとして学生たちが能登の祭りを支援すると同時に祭りを通じて能登の歴史文化を学ぶことを掲げた。すると、黒島の祭礼実行委員会から真っ先に「学生のチカラを借りたい」とSOSの手が上がった。それ以来のかかわりとなった。

⇒18日(土)夜・金沢の天気     はれ

★塩田村と塩田さん

★塩田村と塩田さん

    盆休みを利用してゆっくりと能登めぐりを楽しんだ。海の幸と山の幸の物々交換がルーツとされ、千年の歴史を有する輪島朝市。1個1万2千円の「蒸しアワビ」(120㌘)を思い切って買った。別の店では1個700円のカラスミ(ボラの卵巣の塩漬け)を「2個ください」と言うと、おばあさんが「3個でおまけ」と差し出したので手に取ると、すかさず「100円おまけで2000円」と請求された。2個買ったので1個はおまけだと受け取ったのに、「100円まけるから3個買って」という意味だった。朝市という場を少々甘く勘違いしたのかもしれない。かなり高齢に見えたが、言葉の手練手管には舌を巻いて買ってしまった。

    次に向かった輪島の白米千枚田は駐車場が満杯だったので、車中から横目で見ながら珠洲市の塩田村(えんでんむら)に車を走らせた。「揚げ浜式塩田」と呼ばれ、400年の伝統を受け継いでいる。塩をつくる場合、瀬戸内海では潮の干満が大きいので、満潮時に広い塩田に海水を取り込み、引き潮になれば水門を閉める(入り浜式塩田)。ところが、日本海は潮の干満が差がさほどないため、満潮とともに海水が自然に塩田に入ってくることはない。そこで、浜から塩田まですべて人力で海水を汲んで揚げる(揚げ浜式塩田)。揚げ浜というのは、人力が伴う。しかも野外での仕事なので、天気との見合いだ。

    今では動力ポンプで海水を揚げている製塩業者もいるが、かたくなに伝統の製法を守る塩士(しおじ=塩づくりに携わる人)もいる。人がそれこそ手塩にかけてつくる塩は量産に限度がある。条件不利地ながら自然と向き合う人々の姿だ。ひとにぎりの塩をつくるために、人はどのように空を眺め、海水を汲み、知恵を絞り汗して、火を燃やし続ける。機械化のモノづくりに慣れた現代人が忘れた、愚直で無欲でしたたかな労働の姿でもある。

    この塩田での作業を見て芸術作品を創ったのが、ドイツ・ベルリン在住の現代美術家、塩田千春(しおた・ちはる)氏だった。昨年(2017)珠洲市で開催された奥能登国際芸術祭の作品を創作するために珠洲を訪れた塩田さんは、400年続く揚げ浜式塩田が日本で唯一残る当地に、自分のルーツにつながるインスピレーション(ひらめき)を感じて迷わず創作活動に入ったという。作品名は『時を運ぶ船』。戦時中、ある塩士が軍から塩づくりを命じられ、出征を免れた。戦争で多くの友が命を落とし、塩士は「命ある限り塩田を守る」と決意する。戦後、塩士はたった一人となったが伝統の製塩技法を守り抜き、その後の塩田復興に大きく貢献した。作品名はこの歴史秘話から名付けられた。

    塩田作品が今も展示されている旧・清水保育所に行く。舟から噴き出すように赤いアクリルの毛糸が網状に張り巡らされた室内空間。赤い毛糸は毛細血管のようにも見え、まるで母体の子宮の中の胎盤のようでもある。しばらく「胎盤」の中に身を置いてみる。一つ一つに心血を注いでモノづくりをする。一日一日を丁寧に暮らす。それが人として生きるということなのだ、と作品を眺めているうちに目頭が熱くなってきた。

    現代文明は脆(もろ)い。市場で約束されたことしかできない。売り買いが成立しなければ、生活すら危うい。それに比べ、塩田村で目にした塩士たちの姿は生命力にあふれている。

⇒15日(水)朝・金沢の天気    はれ

☆石破語録「よそ者、若者、ばか者」

☆石破語録「よそ者、若者、ばか者」

   きょう(10日)自民党の石破茂氏が午後4時から国会内で記者会見し、9月の党総裁選への立候補を正式に表明した。連続3選を目指す安倍晋三氏との一騎打ちとなる公算が大きいとメディア各社が報じている。党総裁選は6年ぶりの選挙戦となる見通し。前回2015年9月は無投票で安倍氏が再選、2012年9月は決戦投票で「安倍108、石破89」の接戦だった。安倍氏も石破氏の政治手腕や見識を評価していて、党幹事長や内閣府特命担当大臣(地方創生担当)に抜擢している。

   その石破氏とちょっとした出会いがある。私は大学で大学版地方創生推進事業(COC+)を担当しており、学生たちに授業の一環として視聴してもらうビデオ「地域創生概論-いしかわで学ぶ未来可能性」を作成していたときだ。地方創生大臣だった石破氏が講演に金沢市を訪れるとの情報を得て、内閣府を通じてインタビューを申し込み承諾された。インタビューは2016年2月7日、 場所は障がい者施設や児童養護施設、ケア付高齢者住宅などの複合型施設「シェア金沢」で。

Q:地方創生にはどのような人材が必要なのですか
石破大臣:昔から地域を変えるのは「よそ者、若者、ばか者」と言われ、外から新鮮な目で見ることが一つの要素なんです。若い感性とは、たとえばPCが使える、外国語が使えること。ばか者はこれまでの既成概念にとらわれない新しい考え方を持つこと。学生はそのすべてを持っている人が多いし、チャレンジ精神旺盛な方を求めたい。

Q:地域で活躍する若者に対して期待することは何ですか
石破大臣:地方は東京と違い、行政との距離が近い。地域の特性を最大限に活かして金沢の大学が未来を作っていくのか。この国の未来は「学生」に創ってもらわないといけない、今はそんな時代です。明治維新など、歴史の変わり目に常に若者がいるというのはそういうことなんです。

Q:地域の大学に期待することは何ですか
石破大臣:「象牙の塔」にならないこと。大学が持つ本来の真実を探求する心は忘れないでほしい。今は「地方が日本を変える時代」、その責任感や使命感、学生にはそんな感性を持って欲しい。

   10分足らずの単独インタビューだったが、石破氏は淡々と答えた。無駄のない、理路整然とし、そして奥が深い内容だった。冒頭での「よそ者、若者、ばか者」は意外な言葉だったが、印象的だった。確かに、よそ者=客観性、ばか者=専門性、若者=エネルギーは歴史の転換点を担ってきた。石破氏もテレビ出演などで「国防がライフワーク」と語ってきたように、外交や安全保障に精通する政策通で、ある意味で「ばか者」ぶりを印象付けてきた。 

   9月の総裁選に向けて、石破氏は「ばか者」ぶりを発揮すればよいではないか。つまり、外交や安全保障政策について、安倍政権の不確実性を指摘して、トランプ大統領との日米同盟でこの国の安全保障を真に託せるのかと問うべきだ。そこを突けるのは石破氏しかいない。報道では、森友・加計学園問題をめぐる安倍総理の政権運営を念頭に、石破氏が「正直、公正」な政治姿勢を対立軸に据えるとしているが、野党の使い古しで争点とすれば弱い。むしろ「いつまでトランプに頼っているのか」と安倍氏の外交・安全保障を対立軸として明確にすれば、党内でも議論が起き、総裁選も面白くなるのではないか。私は一票を持っていないが。

⇒10日(金)夜・金沢の天気     くもり

★マスメディア論と学生たち-5-

★マスメディア論と学生たち-5-

        そもそも学生たちのマスメディア(新聞・テレビ)への接触度はどの程度なのか。そこで、第1回「マスメディアの成り立ち」(6月13日)でアンケートを実施した。「あなたは新聞を読みますか 1・毎日読む 2・週に2、3度 3・まったく読まない」「あなたはテレビを見ますか 1・毎日見る 2・週に2、3度 3・まったく見ない」の簡単な項目。102人の学生から回答があった。そこから見えてきたこと、とは。

     下げ止まった「新聞離れ」、加速する「テレビ離れ」・・・アンケートから

    まずは新聞から。「毎日読む」10%、「週に2、3度」15%、「まったく読まない」75%だった。予想した通り、新聞への接触度は低い。その理由で目立ったのは「一人暮らしをしているため(実家にいる時には毎日読んでいた)。新聞はお金がかかるから。携帯のニュースで社会の出来事はある程度わかるから」(法・1年)や「テレビと違って、新聞は『ながら』で読むことができないので、読む時間を確保しなけらばならない」(学校教育・1年)、なかには「活字を追うのが苦痛」や「手が汚れる」といった生理的な拒否反応もある。一方で、「時事問題に強くなりたいと思っている。法学類なので、法案の改正や裁判の判決、政治の問題にも興味がある」(法・3年)と積極的な活用派もいる。

    まったく同じ内容のアンケートを2016年から実施して、ことしで3回目なのだが、「まったく読まない」は16年78%、17年と18年が75%。「毎日読む」は16年6%、17年7%、18年10%だ。学生たちの「新聞離れ」が限りなく100%に近づいているのではなく、下げ止まっていて、「毎日読む」が若干だが増えているのだ。私見だが、インターネット上では、いわゆるフェイクニュースなどがさまざまな場面で問題になってる。信頼できるニュースや情報を求める雰囲気が学生たちの中で出てきたのではないかと、前述の法学類の学生のコメントなどから読み取っている。

    テレビの結果は新聞とは真逆で学生たちのテレビ離れが加速している。「毎日見る」49%、「週に2、3度」34%、「まったく見ない」17%だった。これは2016年では65%、23%、12%だった。2年のうちに「毎日見る」が16%も減り、「まったく見ない」が5%も増えている。「テレビは、スマホでドラマを見たり、ニュースを閲覧するので見ない」(経済・1年)というコメントが散見される。学生たちの間では、動画はネットで見るものという習慣になりつつある。これが、放送と通信の同時配信が進めばさらに加速するのではないだろうか。

    テレビのコンテンツだったスポーツ中継なども、たとえばJリ-グのようにネット動画配信サービスへとなだれ込んでいる。オリンピックイヤーの2020年でその流れがさらに加速するだろう。テレビの敵はもはやテレビではない。

⇒9日(木)朝・金沢の天気     あめ後くもり

☆マスメディア論と学生たち-4-

☆マスメディア論と学生たち-4-

        きのう(6日)大学からの一斉メールで注意文が届いた。学生と教職員にあてたものだ。「カルト団体・悪質商法などについて以前から注意を促しているところですが、夏休み期間は勧誘の動きが活発化する恐れがあります。そのような団体・活動に関わると、学業・生活が破綻するまで追い込まれてしまいます。つきましては、以下のことに十分ご注意ください。」と。

    オウム真理教事件の死刑執行、それでも「カルト」はなくならない       

   さらに引用する。注意すべき点として、●カルト団体・悪質商法などは、本当の姿を隠して、言葉巧みに皆さんに近づいてきます。●身分を明らかにしないで声をかけてくる人物には注意が必要です。(身分を明らかにしていても、勧誘のために声をかけてくる人物には注意が必要です。)●国際交流やボランティア、医療・福祉など、一見普通の話題で近づいてくるケースがほとんどです。アンケートの回答依頼をはじめ、勉強会・集会・講演会・合宿・施設見学の誘いや、 教材・機器のモニター依頼には十分注意してください。●電子メールやFACEBOOK、LINE、Twitterなどの各種SNSを用いた勧誘もみられますので注意してください。その際は、名前や住所・電話番号、LINEのID等個人情報を安易に他人に言わないよう、注意してください。

   キャンパス近くの路上で学生たちに誘いかけをしているグループを時折見かける。「国際ボランティア」と称する少し怪しげなチラシが貼ってあったり、置いてあったりする。注意文にもあるように、そうした動きが最近活発なのではないかと感じることがある。ひょっとして宗教ブームが再び起きているのか。

   「マスメディアと現代を読み解く」の第5回「取材し伝えるメディアの技術」(7月11日)で、オウム真理教事件の関係者7人の死刑執行(7月6日)について取り上げた。オウム真理教が盛んに信者を獲得していた1990年代初頭はまさしく宗教ブームだった。1991年9月に放送されたテレビ朝日「朝まで生テレビ」では「激論 宗教と若者」と題しての討論に麻原彰晃が生出演した。部下だった上祐史浩、村井秀夫らの論客も出演し、他の新興宗教と激論を交わして、無名に近かったオウム真理教が一気に注目されるきっかとなった。いわば、「メディアに乗った」のである。ただし、このとき1989年11月に横浜市で起きた、坂本堤弁護士一家殺害事件にオウム真理教が絡んでいたことはメディアも知る由もなかった。

   当時、北陸朝日放送の報道デスクを担当していた私は取材を通じてオウム真理教と2度関わることになる。一度目は1992年10月。麻原彰晃が突然、石川県能美市で記者会見を行った。油圧シリンダーメーカーの社長に就任するという内容だった。メーカーの前社長はオウム真理教の信者で、資金繰りが悪化したために麻原が社長に就いた。間もなく会社は倒産し、金属加工機械などは山梨県上九一色村の教団施設「サティアン」に運ばれていた。その後の裁判で、その金属加工機械でロシア製AK47自動小銃を模倣した小銃を密造しようとしていたことが分かった。

   二度目は1995年3月20日の東京地下鉄サリン事件の直後、林郁夫(無期懲役囚)らが能登半島に潜伏していた。林郁夫は4月8日に石川県内で逮捕された。当時、メディア関係者の間で、なぜ能登半島に逃れてきたのかと憶測が飛んだ。潜伏していた場所が穴水町の「貸し別荘」だったことから、こんな憶測があった。ロシアのウラジオストクと富山県の伏木港を結んで、北洋材を運ぶロシア船が行き交っていた。「ひょっとして、穴水町から船を出し、ロシア船に乗り込んで、ロシアに密入国をはかる計画ではなかったのか」と。オウム真理教のモスクワ支部ができたのは1992年9月。前年にソビエト連邦が解体され、混乱していたロシアで一時3万人ともいわれる信者がいた。

   逮捕された林郁夫の供述によって松本サリン事件や地下鉄サリン事件の全容が明らかとなっていく。麻原彰晃が逮捕されたのは林郁夫逮捕から38日後の5月16日。2006年に死刑が確定し、そして今回の死刑執行となった。一連の事件が起きた時、学生たちは生まれてもいない。講義後のリアクション・ペーパー(感想文)には、「オウム真理教のニュース(死刑執行)にはとても驚きました。ついにという感じがしました。私たちが生まれる前には事件はすでに落ち着いていましたが、日本の歴史に残る事件だったのですね」(法・1年)と淡々と書かれてあった。メディアを通じて生身のニュースを見てきた世代と、その後に生まれた世代とでは、今回の死刑執行のとらえ方は異なって当然と言えば当然なのだが。

⇒7日(火)夜・金沢の天気    くもり

★マスメディア論と学生たち-3-

★マスメディア論と学生たち-3-

       講義ではスポーツから気象までさまざまな話をする。第8回の講義「マスメディアはどこに向かって行くのか」(8月1日)では、夏の高校野球の話題を取り上げた。石川大会で星稜高校が決勝戦で本塁打7本、22点を挙げて甲子園大会への出場を決めた。星稜にとっては2年ぶり19回目の夏の甲子園。夏の甲子園といえば、大会歌として知られる『栄冠は君に輝く』だ。1948年に発表され、作詞は加賀大介、作曲は古関裕而。「ちょっと面白いことがある」と学生たちの耳目を正面に引く。

   夏の甲子園、『栄冠は君に輝く』と「五打席連続敬遠」のレジェンド話

     作詞の加賀大介は石川県能美市(旧・根上町)生まれで、小さいころから野球少年だったが、16歳のときに感染症のため右ひざ下を切断し、野球を断念した。歌詞には甲子園の憧れが込められている。『栄冠は君に輝く』の発表から44年後の1992年の大会で、「甲子園のスーパースター」が誕生する。2回戦の高知・明徳義塾VS石川・星稜戦で「5打席連続敬遠」事件があった。星稜の松井秀喜選手に明徳義塾は5打席全てを敬遠するという作戦を敢行、一打逆転のチャンスもあったが、松井選手は一度もバックを振ることなく星稜は敗退した。甲子園では大ブーインが起きた。逆に松井選手はこの5打席連続敬遠でその名が全国に知られ、注目されることになる。私はこのとき北陸朝日放送(金沢市)の報道デスクをしながら、中継映像を見ていた。甲子園の取材記者に「山下(智茂)監督と松井のインタビュー(映像)をはやく送ってくれ」と興奮気味に指示していた。その後、松井選手は巨人軍、アメリカ大リーグ・ヤンキースへとスターダムにの上がっていく。

    この加賀大介と松井秀喜には「つながり」がある。二人とも根上町の生まれ。加賀大介は58歳のとき1973年6月に逝去。その1年後1974年6月に誕生したのが松井秀喜だ。学生たちに勧めた。「高校野球のパワースポットがここにある」と松井秀喜ベースボールミュージアムと『栄冠は君に輝く』歌碑へアクセスを教えた。

    きょう6日付の紙面では、きのう開幕した夏の甲子園大会(第百回全国高校野球選手権記念大会)の模様を報じている=写真=。第1試合の大分・藤蔭VS星稜戦で始球式で松井秀喜氏がボールを投げ、「(甲子園は)ボクの原点です」とインタビューに応えていた。甲子園のレジェンド(伝説)の話は学生たちの心を打ったかどうかは分からない。ちょっとした息抜きの雑学ではある。

⇒6日(月)朝・金沢の天気    くもり

☆マスメディア論と学生たち-2-

☆マスメディア論と学生たち-2-

   「マスメディアと現代を読み解く」の講義で学生たちに問いかけたこと、それは遺体の画像や映像をメディアはどう扱うべきか、だった。現状では、新聞もテレビも遺体の画像や映像の扱いには慎重だ。「震災とメディア」の講義(6月20日、27日)の中で、死者・行方不明者が1万8千人余りにもなるが、遺体が映された番組や記事を読者も視聴者も目にすることはない。

  遺体表象に慎重なメディア、学生は「現状でよい」71%、「見直してもよい」29%

   遺体の表象に関してはそれぞれのメディアがガイドラインを作成している。概ね以下のような内容だ。「事件や事故、災害などでは、死者の尊厳や遺族の心情を傷つける遺体の写真(あるいは映像)は原則使用しない」。原則使用しないのだが、私自身は特例的にも見たことはない。唯一、東日本大震災を特集した朝日新聞「アエラ」臨時増刊号(2011年4月30日)で掲載された、布団にくるまれた遺体の右足が露出した写真だった。一方で、アメリカのニューヨ―クタイムズのホームページでは東日本大震災の特集で、学校体育館が遺体安置所になり、並んでいる遺体の中から肉親を探す人々の様子の画像が掲載されていた。

    そこで学生たちにリアクション・ペーパーで以下のように問いかけた。「【あなたの考えを記述してください】日本のマスメデイア(新聞・テレビなど)は通常、遺体の写真を掲載していません。被災者や読者・視聴者の感情に配慮してのことだと考えられます。一方で、海外メディアはリアリティのある写真を掲載しています。以下の問いに答え、あなたの考えを簡潔に述べてください。遺体写真をめぐる日本のメディアの在り様は「1.現状でよい 2.見直してもよい」。89人の学生が回答を寄せ、「1.現状でよい」63、「2.見直してもよい」26で、パーセンテージはそれぞれ71%と29%だった。学生たちに対するこの問いかけは2011年の講義から毎年実施しているが、毎年ほぼ同じ70%と30%だ。

    「現状でよい」とする意見は多くは「見る側への心理的な影響(PTSD=心的外傷体験によるストレスなど)、とくに子供への影響が心配」「遺体にも尊厳がある。プライバシーの問題」「インターネット掲載など別の方法がある」「これは日本人の独自の文化、メンタリティーである」といった内容だ。「見直してもよい」の意見は「現実や事実を報道すべき」「震災を風化させないためにも必要」「メディアはタブーや自己規制をしてはならない」「見る側の選択肢を広げる報道をすべき」といった内容が多い。

    少数派ではあるものの「見直してもよい」の学生たちの方がボルテージは高い。「本来知るべき事実まで知ることができなくなってしまっているのは残念だ」(人文・1年)、「(遺体写真を見ることで)悲しみを日本全体で共有することになるだろうし、災害への対策意識や避難訓練はより真剣なものになるだろう。戦争も二度と起こしてはならないと考えるようになるだろう」(経済・3年)。

    この講義の終わりは、「遺体の表象については、視聴者の意見も別れるので、メディアは慎重だ。むしろ、現場では遺体を撮影しなくなっている。遺体を災害の記録として後世に残す使命は誰が担うのだろうか」と述べて締めた。(※写真は2011年5月11日・宮城県気仙沼市で営まれた慰霊祭。港町らしく大漁旗が掲げられた)

⇒4日(土)午後・金沢の天気     はれ

★マスメディア論と学生たち-1-

★マスメディア論と学生たち-1-

   金沢大学で担当している共通教育科目「マスメディア現代を読み解く」の講義はきのう(1日)最終回だった。6月13日に第1回があり、毎週水曜日の4限目(午後2時45分-4時15分)に震災、記者会見、著作権、インターネットとマスメディアの関わりをテーマに8回の講義(1単位)。受講生は112人で理系から文系、1年から4年の学生が聴講してくれた。最終日のリアクション・ペーパー(感想文)では、これまで8回の講義で印象に残っている言葉(キーワード)や画像、映像などを3点あげ、それぞれ一言のコメントを書いてもらった。

    「記事では形容詞を使わない」「インターネットは巨大隕石」って何だ

    講義の中で、学生たちの印象に残ったことの一番(44人)は「震災とメディア」(6月20日、27日)の講義の中で見てもらったノーカットの映像(KHB東日本放送制作「3・11東日本大震災 激震と大津波の記録」から)だった。KHB(仙台市)にも大きな揺れがあり、記録に残そうと必死にカメラを構える記者とデスク、悲鳴を上げながらもマスターカット(緊急放送)に備える報道フロアの様子がリアルに写し出されている。同じく、気仙沼市の支局カメラマンが津波が押し寄せる街中でカメラを回し続けている。足元に津波が押し寄せている。学生たちのコメントは「忘れかけていた震災をもう一度思い出させてくれ、自然災害の脅威を改めて感じました」(法・1年)や「命が危険な状況にあるにもかかわらず、報道するために津波の映像を撮っていた姿にいろいろ考えさせられた」(国際・2年)とショッキングだったようだ。

   二番(16人)は3つあった。「メディアも被災者である」「フェイクニュース」「インターネットは巨大隕石」。「メディアも被災者」は前述の講義の中で述べた言葉だ。東日本大震災のように広域な災害では、マスメディアの記者やカメラマンも被災者となる。しかし、報道し続けなければならないプロの論理がある。第8回「マスメディアはどこに向かって行くのか」(8月1日)で、フェイクニュースについてこのようなことを述べた。インターネットの社会でフェイクニュースはあふれるようようになってきた。では、ファクトチェック(事実確認)を行う機関はメディアなのか政府か、ヨーロッパでは意見が割れている。「現代こそフェイクニュースと向き合うメディア・リテラシーが必要な時代はない。そして、フェイクニュースと戦うのはマスメディアの使命ではないだろうか」と。「インターネットは社会に落ちた巨大隕石」は、ソニー元会長・出井伸之氏が述べたたとえ。6500万年前、ユカタン半島(メキシコ)に落ちた巨大隕石が地球上の恐竜を絶滅させたといわれるように、インターネットがマスメディアなど既存産業にも打撃を与えている。自らネット社会に応じた改革が出来なければ、メディアも恐竜がたどった道を歩む、と講義した。

    その次のキーワードは14人がマークした「形容詞は使わない」だった。第6回「マスメディアの技術」(7月11日)で、記事では形容詞は使わないのが原則と述べた。形容詞は主観的な表現であり、言葉に客観性を持たせるには、たとえば「高いビル」とはせず、「10階建てのビル」などと数字を用いて言葉に説得性を持たせる。これがメディアの技術だ、と。この言葉は学生たちにとって新鮮だったらしく、学生たちの反応は、「小さいころからうまい形容詞を使うとほめられたが、確かに新聞では形容詞を見たことがない。でも、形容詞を使わない文章って難しそうだ。大学の論文でも形容詞は使わないですよね、目が覚めました」(法・1年)と。何気なくマスメディアと接してきた学生たちにメディアからの学びとリテラシーを感じてほしいとこの講義を10年余り続けている。

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