★NHKへのシングルイシュー

★NHKへのシングルイシュー

  「NHKから国民を守る党」という政党がある。NHKに受信料を払わない人を応援・サポートする政治団体だとアピールしている。先の東京都の区議選(投開票今月21日)で、この団体からの立候補者が17人当選した。団体の党首のツイッター(22日)によると、「(今回の統一地方選で)47名立候補して、当選者が26名  現職13名と合わせて、NHKから国民を守る党の所属議員が39名になりました。7月の参議院選挙に挑戦する土台が出来ました」と。シングルイシュー(単一論点)を掲げる政党がこれほど議席を獲得するのは異例だろう。その背景には有権者のどんな思いが潜むのか、政治への不信なのか、NHKへの不信なのか。

   前もって述べておくが、私自身の自宅にはテレビがあり、選挙速報や異常気象、災害、地震の情報など、民放テレビ局では速報できないニュースをNHKがカバーしていて、その公共性の高さを考えれば、放送法64条にあるテレビが自宅に設置されていれば、受信料契約ならびに支払いは社会的にも認められると考える一人である。契約の自由を保障する憲法に違反するのかどうかが争われた裁判では、最高裁は合憲と判断している(2017年12月)=写真=。NHKが契約を求める裁判を起こして勝訴すれば契約が成立する。そして、テレビを設置した時点からの受信料を支払わなければならない。最高裁が出した答えは「義務」と同じだ。

   スマホ・携帯のワンセグへの課金も争われた。放送法64条では受信料の支払いは「受信設備を設置した者」と定められている。スマホにはワンセグのアプリがついている機種が多いが、普通に考えれば「設置」ではない。ましてや、テレビを視聴しようとスマホを求めた訳でもない。ワンセグへの受信料をめぐる判決は別れた。さいたま地裁判決は「受信契約の義務はない」と判断(2016年8月)、水戸地裁は「所有者に支払いの義務がある」と判断(2017年5月)、東京地裁は「ワンセグの携帯電話を持っていれば、契約を結ばなければならない」と判断(2017年12月)。控訴審で東京高裁は地裁の判決を支持した(2018年6月)。上告審の最高裁も高裁判決を支持し、NHK側の勝訴が確定した(2019年3月)。
    
   この勝訴でNHKへの不信が増大したかもしれない。学生たちからこんな話を何度か聞いた。NHKの契約社員(中年男性)がアパ-トに来て、「テレビがなくても、スマホでテレビを見ることができれば、NHKを見ても見なくても受信契約が必要です」と迫ってきた。学生が「親と相談しますから、帰ってください」と言うと、契約社員は「契約しないと法律違反になりますよ」と。学生が親と相談すると、法律違反になるくらいならと家族割の分を親元が払っている。

   学生たちは学ぶために親元を離れて仕送りをしてもらっているので実質的に「同居」だ。会社で働き自活するために親元を離れる別居とまったく状況が異なる。なぜ学生にまで受信料を課すのか。NHKは経済的理由で奨学金を受けている学生には全額免除するなど一部配慮はしているのだが。

   学生や若者たちのテレビ離れは加速している。「NHKから国民を守る」というシングルイシューが政治的な広がりを見せている背景は結構根深いのではないか。そして7月への参院選へと向かう。

⇒25日(木)夜・金沢の天気   あめ

☆もったいない精神が創る「SDGsゆびぬき」

☆もったいない精神が創る「SDGsゆびぬき」

  金沢に古くから伝わる伝統的な裁縫道具に「加賀ゆびぬき」がある。針の背を押さえて縫ったり、針が滑るのを防いだりと、裁縫には欠かせない道具だった。絹糸の1本1本が隙間なく縫い詰められて、幾何学的な美しい模様を織りなす。そこで、最近ではアクセサリーとして指ぬきが注目されている。

  金沢大学の能登で実施している人材育成プログラム「能登里山里海マイスター」の修了生で、工芸作家の岩崎京子さんから加賀ゆびぬきの魅力について取材した。かつては加賀友禅をつくる仕立て人のお針子さんたちが自分たちの指にはめるために指ぬきをつくった。それも、友禅の作成過程で余った絹糸や布、真綿などをためておき、自分の好みの指ぬきを創作したという。岩崎さんの指ぬきは能登の植物を染色に生かす。廃材となった漆の木材チップや能登ヒバ「アテ」の葉、クルミの皮、海藻のホンダワラなどで絹糸を染める。漆の染め物は黒色や黄金色が鮮やかで高級感が漂う。「能登の自然を色という視点から見つめ直して、能登の自然を物語にしてみたんです」と。確かに指ぬきをじっと見ているとその色の背景にある里山里海の風景が浮かんでくる。

  最近創作を始めたのが、国連の持続可能な開発目標「SDGs」をテーマにした指ぬき=写真=。17のゴールを色として指ぬきに描く。その色が自然や文化を感じさせ、独特の存在感と輝きを放つ。森の恵みを活かして染めるという活動は生態系の保全への意識を高める環境教育にもなり、目標15「陸の豊かさも守ろう」につながる。海藻など活用した染色を通じて海洋資源を保全する活動は目標14「海の豊かさを守ろう」になる。友禅の作成過程で余った絹糸や布、真綿を活用することは目標12「つくる責任つかう責任」につながる。そのような発想から「SDGsゆびぬき」が生まれたのだと説明してくれた。

  話を聞いていると、日本人の「もったいない精神」が「加賀ゆびぬき」に彩りを添え、アクセサリーとしての価値を高め、そしてSDGsという新たなグローバルな価値創造へと向かっている。そんなふうに思えてきた。

⇒24日(水)夜・金沢の天気   あめ

★ノートルダム大聖堂の炎上、バトルの再燃

★ノートルダム大聖堂の炎上、バトルの再燃

      パリのノートルダム大聖堂で起きた火災(現地時間今月15日夜)。高さが90㍍もある尖塔が焼け、屋根が崩れ落ちる映像は世界のメディアやネットで流れた。映像を初めて見たときはテロかと脳裏をよぎったが、その後ニュースでは尖塔の中腹部で補修工事が行われていて、工事器具が発火して、アーチ型天井の裏にある屋根を支える木材部分に引火したのではないかと報じられている(16日付NHKニュース)。(※写真・上はフランス「ル・モンド」Web版「Notre-Dame de Paris : vidéos de l’incendie」より)

   ゴシック様式の建築で800年の歴史を有し、ユネスコ世界遺産に登録されている。今回の被災に世界の多くの人が惜しんだだろう。日産の資金を不正送金したとして特別背任容疑で4度目の逮捕となったカルロス・ゴーン氏は東京拘置所でこの火災のニュースを知らされ、どのような思いだったろうかと想像を膨らませた。ひょっとして「復興に役立てください。愛するパリのために」などと称して100万ユーロ(1億2千万円)くらいは寄付を申し出るのではないか、と。そうなれば、日本のマスメディアはビッグニュースで報じるかもしれない。何しろこの逮捕前にフランスのテレビ局「LCI」がスカイプでのインタビューをネット映像で公開していて、ゴーン氏は「私は無罪だ」「フランス政府に言いたい。私はフランス人だ。フランス人としての権利を守ること求める」と訴えている(日経新聞Web版)。このタイミングでの高額寄付はフランス世論を味方につける絶好のチャンスではないか。

  ところが、私が描くゴーン氏の思惑の先手を打つかのように、日産はノートルダム大聖堂の再建のため10万ユーロ(1200万円)を寄付すると発表した。19日付の同社のニュースリリース=写真・下=によると、「日産は20年にわたるルノーとのアライアンスを通じ、フランス共和国とフランス国民の皆さまとは近しい関係にあります。ノートルダム大聖堂の火災という事態に触れ、ルノー社員やフランス国民の心情に心を寄せ、寺院の再建に貢献したいという考えに至りました。」と。まるでゴーン氏の手の内を読んだようなスピード感のある対応だ。金額も妥当だろう。こうなると先手を打たれたゴーン氏は金額で勝負するしかない。500万ユーロ、6億か。オマーンルートでキックバックさせたくらいの金額でないとフランス国民を納得させることはできないかもしれない、と勝手に想像をたくましくする。

   ところで、ノートルダム大聖堂の火災では、フランスの高級ブランドや化粧品メーカーなどが相次いで寄付による支援を表明し、すでに総額1000億円を超えるようだ。こうした多額の寄付をめぐっては、現場を視察したマクロン大統領が緊急会見で、世界中から寄付を募り5年以内に修復を完了させると述べたことも、大きな成果だったろう。一方で、低給与と燃料価格の高騰で政府に不満を募らせる「黄色いベスト運動」のデモ参加者らは「人よりも大聖堂への支援が優先されている」と怒りの声を上げている。確かに、大聖堂の再建に寄付が集中すれば、慈善事業などへの寄付は減るかもしれない。ここでもバトルが再燃している。

⇒21日(日)朝・金沢の天気    くもり時々あめ

☆ドキュメント「平成と私」~続々々~

☆ドキュメント「平成と私」~続々々~

   能登半島の観光地、輪島市の中心街から海沿いの細い道を西へ12㌔ほどに、家々を竹垣で間垣で囲った集落がある。集落をぐるりと囲んだ景観は城塞のようにも見える=写真・上=。冬場、日本海から強烈に吹き付ける北風から家を守る間垣(まがき)である。輪島市大沢地区、この間垣集落が一躍脚光を浴びたことがある。平成27年(2015)の連続テレビ小説「まれ」のロケ地だ。

      ロケ地は能登、朝ドラ『まれ』と映画『さいはてにて』   

   50戸ほどの小さな集落には食堂もない。この年3月に放送が始まり、大型連休(4月25日〜5月10日)には観光客7700人(輪島市観光協会まとめ)が訪れた。この年の3月14日に北陸新幹線の「長野-金沢間」が開業した。東京から金沢までの所要時間は最速で2時間26分に。新幹線の利用客は在来線特急が走っていたころに比べて3倍に増えた。輪島の朝市は入込客数が1.3倍にもなった。北陸新幹線の金沢開業とNHK「まれ」の相乗効果は絶大だった。 

   間垣は強風をしなやかに受け止め、風圧を和らげる。先人の知恵だ。使われる竹はニガダケで、茎が数㌢とモソウチクなどと比べて細い。地域の高齢化でニガタケの塀を修復することは大変だった。そこで、2011年から金沢大学の学生ボランティアたちが間垣の修復作業に2年間携わった=写真・中、提供:松下重雄氏=。その甲斐あって、以前の景観がすっきりと元に戻った。その後、NHKのロケ地として選ばれた。

   物語は、親の事業失敗で漁村に家族と移住し育った希(土屋太鳳)が成長して役場に就職するが、幼いころのパティシエになる夢を思い出して、横浜で厳しい修業に挑む。婚約者で輪島塗の職人の圭太は輪島塗を世界に広めるプロジェクトを始める。希は圭太の夢を後押しするためにパティシエをいったん辞め、能登に戻る。輪島では輪島塗店の女将とケーキ店のパティシエの二つの仕事をこなす。双子が授かり、育児と仕事の両立もこなしていく。昔から「能登のトト楽」という言葉がある。妻がよく働くので亭主が楽をするという意味。能登のトト楽を地で行く頑張るお母さんという物語だった。

   平成27年2月には能登を舞台にした映画『さいはてにて~やさしい香りと待ちながら~』も公開された。幼い頃に生き別れた父の帰りを待つため、故郷の奥能登に焙煎コーヒーの店を開いたハイミスの女主人と、隣人のシングルマザーの物語。世間から阻害された女たちが身を寄せあいながら生きる道を探る。共感度の高い、癒される名画だった。(※写真・下は映画の舞台となった「ヨダカ珈琲」=石川県珠洲市木ノ浦海域公園)

⇒17日(水)朝・金沢の天気      はれ

★ドキュメント「平成と私」~続々~

★ドキュメント「平成と私」~続々~

    今月8日付の「平成と私」では、平成19年(2007)3月25日の能登半島地震(震度6強)のときに、半壊となっていた家屋が余震で壊れるシーンを撮影しようと身構えるカメラマンたちに違和感を感じたと述べた。同じ年の7月16日、能登半島地震と同じ日本海側で新潟県中越沖地震(震度6強)が発生した。被害が大きかった柏崎市は原子力発電所の立地場所でもあり、メディアの報道は被災者より原発への取材が大半を占めていた。そんな中で、「情報こそライフライン」と被災者向けの情報に徹し、24時間の生放送を41日間続けたコミュニティー放送(FM)があった。

   「メディアにできること」を追求した被災地のコミュニティーFM

       被災地を取材に訪れたのは震災から3ヵ月後だった。柏崎駅前の商店街の歩道はあちこちでひずみが残っていて歩きにくく、復旧半ばという印象だった。コミュニティー放送「FMピッカラ」はそうした商店街の一角にあった=写真=。祝日の午前の静けさを破る震度6強の揺れがあったのは午前10時13分ごろ。その1分45秒後には、「お聞きの放送は76.3メガヘルツ。ただいま大きな揺れを感じましたが、皆さんは大丈夫ですか」と緊急放送に入った。午前11時から始まるレギュラーの生番組の準備をしていたタイミングだったので立ち上がりは速かった。

    通常のピッカラの生放送は平日およそ9時間だが、災害時の緊急編成は24時間の生放送。柏崎市では75ヵ所、およそ6000人が避難所生活を余儀なくされた。このため、市の災害対策本部にスタッフを常駐させ、被災者が当面最も必要とする避難所や炊き出し時刻、物資の支給先、仮設の風呂の場所、開店店舗の情報などライフライン情報を中心に4人のパーソナリティーが交代で流し続けた。

     コミュニティー放送局であるがゆえに「被災者のための情報」に徹することができたといえるかもしれない。インタビューに応じてくれた、パーソナリティーで放送部長の船崎幸子さんは「放送は双方向でより深まった」と当時を振り返った。ピッカラは一方的に行政からの情報を流すのではなく、市民からの声を吸い上げることでより被災者にとって価値のある情報として伝えた。たとえば、水道やガスの復旧が遅れ、夏場だけに洗髪に不自由さを感じた人も多かった。「水を使わないシャンプーはどこに行けばありますか」という被災者からの質問を放送で紹介。すると、リスナーから「○○のお店に行けばあります」などの情報が寄せられた。行政から得られない細やかな情報である。

    24時間の生放送を41日間。この間、応援スタッフのオファーも他のFM局からあったが、4人のパーソナリティーは交代しなかった。「聞き慣れた声が被災者に安心感を与える」(船崎さん)という理由だった。このため、リスナーから「疲れはないの、大丈夫ですか」とスタッフを気遣うメールが届いたほどだった。

    ピッカラの災害放送対応を他のコミュニティー放送が真似ようとしても、おそらく難しいだろう。コミュニティー放送局そのものが被災した場合、放送したくても放送施設が十分確保されないケースもある。そして、災害の発生時、その場所、その状況によって放送する人員が確保されない場合もある。その意味で、発生から1分45秒後に放送ができた「FMピッカラ」は幸運だったともいえる。そして、「情報こそライフライン」に徹して、コミュニティー放送の役割を見事に果たした事例としてピッカラは評価される。取材を終えて、すがすがしさを感じたことを覚えている。

⇒16日(火)朝・金沢の天気     はれ

☆ウイキリークス創設者アサンジ氏の功と罪

☆ウイキリークス創設者アサンジ氏の功と罪

        匿名により政府、企業などに関する機密情報を公開する内部告発サイト「ウィキリークス(WikiLeaks)」の創設者ジュリアン・アサンジ氏が、政治亡命で逃げ込んでいたロンドンのエクアドル大使館で逮捕されたことは、ある意味で衝撃的だった。その2つの理由。7年ぶりに大使館から出てきた47歳の姿はかつての精かんな面構えではなく、白ひげの老人の様相だった。もう一つが、サイバー空間だから可能になった内部告発のシステムに限界か、と感じたことだ。

   2007年から始まったウィキリークスによる内部告発はこれまでの既存のマスメディア(新聞・テレビ)の手法とはまったく違っていた。2009年1月、国連平和維持軍の不祥事などについての600件以上の国連内部レポートが公表され、10年4月には、イラクでアメリカ軍のヘリが民間人18人を射殺する軍の内部映像が暴露された。犠牲者のうち2人がロイター通信の記者だったことから、マスメディアにも衝撃が走った。同年11月にはアメリカの外交公電(国務省と274の在外公館の通信)の公表を始めた。当初はイギリスのガーディアンやニューヨークタイムズ、ドイツのシュピーゲルなどの新聞などメディアと連携し、10年7月にメディア3社とウィキリークスが同日、同時間でアフガニスタンをめぐるアメリカ軍文書を掲載した。ウィキリークスの情報開示には既存メディアによる裏付け作業があった。

   ところが、11年9月、ウィキリークスは一転、アメリカの外交公電(1966-2010)25万件を未編集で公開した。中には情報提供者の実名も記されたものもあり、連携してきた新聞などメディアは逆に批判を始め、究極の透明性(暴露)が民主主義をもたらすと方針転換したウィキリークスと一線を画すようになった。ウィキリークス側とすれば、公表に値するかどうかをメディアの調査能力に委ねることに限界、あるいは方針にそぐわないと感じたのだろう。広く情報を集めて暴露するが、その信ぴょう性は保証はしない。暴露(リーク)と報道との違い。国益の整合性を取る既存メディアと、取らない多国籍型のウィキリークスという違いが際立ってきた。

   ウィキリークスはある意味で内部告発のさきがけとなった。10年9月に尖閣諸島沖での中国漁船との衝突事故で海上保安庁の職員がビデオをユーチューブにアップした。13年6月、アメリカ国家安全保障局(NSA)の元職員のエドワード・スノーデンがアメリカは世界中の通信データを傍受し監視しているという実態をガーディアンやワシントン・ポストなどメディアを通じて告発。「ウィキリークスの時代」を予感させる出来事が相次いだ。

       社会に情報を発信する既存メディアは報道の自由を行使し民主主義の発展に寄与してきた。情報の真贋の精査や報道の価値判断、客観的な取材手法、そして情報源を守ることを旨としてきた。ウオッチドッグ(番犬)といわれる政権批判はもとよりだ。一方でインターネットの進展で既存メディアが情報発信を独占する状況ではなくなり、個人メディアの時代に入った。それは情報の自由な広がりと同時に、フェイクニュースがたやすく拡散する状況も生み出し、社会の安全をも脅かすことにもなりかねない。

   ジュリアン・アサンジ氏は、イラクとアフガニスタンにおける戦争に関連するアメリカ軍機密情報や外交公電をウィキリークスで公表したかどで起訴されていた。一方、アサンジ氏をかくまってきたエクアドルでは17年5月の大統領選で反米の政権からアメリカ寄りの政権にシフトしている。エクアドルがアサンジ氏の亡命を取り消すのは時間の問題だった。
 

   今後、アサンジ氏の身柄はアメリカに引き渡されることになるだろう。ただ、アメリカ合衆国憲法には言論・出版の自由は制限されないとの条文(修正第1条)がある。ウィキリークスの暴露が言論の自由の範囲内と見なされた場合は、裁判で無罪になる可能性もあるのではないか。(※写真は、4月12日付イギリスBBCニュースWeb版より)

⇒14日(日)夜・金沢の天気    あめ

★ドキュメント「平成と私」~続~

★ドキュメント「平成と私」~続~

   平成に金沢で大きく動いたことと言えば、平成元年(1989)に金沢大学が城内キャンパスから中山間地の角間キャンパスへと総合移転が始まったことだ。平成18年(2006)に移転はほぼ完了した。それまで、城の中にあるキャンパスは世界でドイツのハイデルベルク大学と金沢大学だけというのが「売り」だった。金沢の中心街から学生たちがいなくなり、さらに、城内キャンパスの目と鼻の先にあった石川県庁も平成15年(2003)にJR金沢駅の西側に移転したため県庁職員もいなくなった。

      バブル崩壊、さびれた金沢の復活までの30年

   金沢に住む一人として、当時はバブル経済の崩壊と大学移転のタイミングが重なり、その後の「失われた20年」と称された景気後退期には大学と県庁の移転が相次ぐことで、金沢の中心街が急速にさびれたと感じたものだ。片町という金沢きっての繁華街が「シャッター通り」になりかけていた。金曜日の夜だというのに、片町のスクランブ交差点には人影が少なく、「もう金沢も終わりか」と感じたのは私だけではなかっただろう。

   救われた思いをしたのが、平成16年(2004)年10月にオープンした金沢21世紀美術館だった。金沢は友禅や塗りものなど伝統工芸のイメージが強かっただけに、兼六園の近くに現代アートの美術館が出来たことは市民にも斬新なイメージを与えてくれた。開館2年余りで来館者は300万人を突破し、兼六園や武家屋敷と並ぶ金沢の名所となった。金沢大学の総合移転にともなって、附属中学校・小学校・幼稚園も移転し、その跡地を市が買収して美術館を建てた。大学移転がなければ、美術館という発想は生まれなかったもしれないし、美術館は建設されても郊外だったかもしれない。今にして思えば、絶好の場所でしかも実にタイムリーだった。

   個人的に気に入っている作品は美術館の屋上のブロンズ作品「雲を測る男」だ。作者はヤン・ファーブル(ベルギー)、あの有名な昆虫学者ファン・アンリ・ファーブルのひ孫にあたる。目録によると、作品は映画「アルカトラズの鳥男」(1961年・アメリカ)から着想を得ている。サンフランシスコ沖にあるアルカトラズ島の監獄に収監された主人公が独房で小鳥を飼ううちに、鳥の難病の薬を開発し鳥の権威となったという実話に基づく物語だ。映画の終わりの場面で「研究の自由を剥奪された時は何をするか」と問いに、主人公が語ったセリフが「雲でも測って過ごすさ」だった。それが作品名になった。昆虫学者の末裔らしい、理知的で面白いタイトルだ。

   金沢を明るくしていると感じるもう一つの要因は交通インフラだ。平成27年(2015)3月、北陸新幹線の金沢開業。観光客数(平成29年)は2475万3千人と対前年比100.7%だが、金沢開業前の平成26年(2014)比では114%となり、金沢開業前の水準を大きく上回っている。外国人宿泊者数(平成29年)も60万6千人で、対前年比114%、5年連続で過去最高となった(『統計から見た石川の観光』平成29年版より)。それは片町を歩いていても実感する。すれ違う5人に2人はインバウンドではないかと思うことがある。

⇒12日(金)朝・金沢の天気    はれ

☆ドキュメント「平成と私」~下~

☆ドキュメント「平成と私」~下~

  新紙幣を2024年度に発行すると過日(9日)の記者会見で麻生財務大臣が発表した。新元号の次は新紙幣だ。1万円、5千円、千円の紙幣(日本銀行券)の全面的な刷新だ。このニュースでは、45兆円もあるとされるタンス預金を吐き出させることにあるのではないかと論評するコメンテーターの言葉が妙に説得力があった。

   1万円札の福沢諭吉は交代も、未来も変わらぬ「独立自尊」の品位

  1万円札の人物変更は聖徳太子から福沢諭吉に代わった昭和59年(1984)以来、40年ぶりというから確かにそろそろ交代の時期なのかもしれない。その福沢が19歳まで過ごした大分県中津市の旧居と記念館を訪れたことがある。平成24年(2012)10月のことだ。豪邸ではなく、簡素な平屋建ての家屋だった。天保5年(1835)に大阪・堂島の中津藩倉屋敷で生まれた。父の百助は堂島の商人を相手に勘定方の仕事をしていた。翌天保6年、父の死去にともない中津に帰藩することになる。

   中津の旧居近くに看板があった。これに福沢の文が引用されていた。「今より活眼を開て先ず洋学に従事し 自から労して自から食い 人の自由を妨げずして我自由を達し、・・・人誰か故郷を思わざらん 誰か旧人の幸福を祈ざる者あらん」(明治三年十一月二十七 旧宅敗窓の下に記 「中津留別之書」)。明治3年(1870)、中津に残した母を東京に迎えるため一時帰郷した福沢が旧居を出る際に郷里の人々に残したメッセージだ。「中津留別之書」は『学問のすゝめ』の思想のベースとも言われる。そのメッセージで心が揺さぶられるのは、「自から労して自から食い 人の自由を妨げずして我自由を達し」の箇所だ。その後の福沢を人生を突き動かす「独立自尊」の強烈なメッセージが読み取れる。

   ここで考えたのは、これは誰に発したメッセージなのだろうか、ということだ。翌明治4年に福沢は、新政府に仕えるようにとの命令を辞退し、東京・三田に慶応義塾を移して、経済学を主に塾生の教育に励む。その年、廃藩置県で大勢の武士たちが職を失い、落ちぶれていった。武士が自活できるように、新たな時代の教育を受ける学校が必要なことを福沢は痛感していたに違いない。「中津留別之書」はその強い筆力とメッセージ性から、武士たちに新たな世を生き抜けと発した檄文ではなかったのだろうか、と。では、なぜそのようなメッセージを武士に発したのか。武士たちが怨念を募らせて刀や鉄砲を手にすることで再び混乱の世に戻り、「自由が妨げられる」と危惧したのではないか。

  「中津留別之書」から30年後、福沢は慶応義塾の道徳綱領を明治33年(1900)に創り、その中で「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」(第2条)と盛り込み、「独立自尊」を建学の基本に据えた(「慶応義塾」ホームページより)。翌明治34年(1901)2月、福沢は66歳で逝去する。武士が新たな世を生き抜く「人生モデル」を自ら示したのだった。法名は「大観院独立自尊居士」。

  平成の1万円札の主役を担った福沢から、令和は渋沢栄一に代わる。しかし、「独立自尊」の精神は未来も変わることのない人の品位である。

⇒11日(木)夜・金沢の天気    はれ

★ドキュメント「平成と私」~中~

★ドキュメント「平成と私」~中~

    平成19年(2007)3月25日午前9時42分、日曜の朝、金沢市の自宅(木造2階)がぐらぐら揺れた。家全体が持ち上がるような揺れだった。NHK総合にスイッチを入れた。震度は石川県の七尾市、輪島市、穴水町で震度6強、志賀町や能登町などで震度6弱、珠洲市で震度5強を観測、震源は輪島市沖の日本海でマグニチュード7.1だった。「能登半島地震」と震災名が付された。石川県では死者1人、重傷者88人、軽傷者250人、住家全壊686棟、住家半壊1740棟など甚大な被害が発生した。ぐらぐら揺れた金沢の震度は4だった。

      ~被災地における取材者目線と被災者目線の違和感~

   このとき自身は金沢大学の地域連携推進センターでコーディネーターの職に就いていた。2年前の平成17年(2005)1月に北陸朝日放送報道制作局長の職を辞していた。50歳になり「人生ひと区切り」と。すると、かつての取材先でもあった金沢大学の理事・副学長から誘われた。平成19年に学校教育法が改正され、大学のミッション(教育・研究)に新たに社会貢献が加わることになるとの話だった。「地域にどのような課題があって、そのキーマンは誰か、宇野さんはよく知っているはずだ。新聞・テレビでの知見を大学で活かしてみないか」と。テレビ局を辞した年の4月に大学の地域連携コーディネーターに採用となった。

   当時から能登半島は過疎・高齢化、人口減少が急速に進み、「地域課題のトップランナー」と仲間内で称していた。そこに来て、さらに震災が追い打ちをかけた。余震が続く翌日、大学のスタッフとともに現地に入った。震源に近い海岸沿いの輪島市門前町では街並みが崩れていた。対策本部テントを訪ね、学生のボランティア派遣について問い合わせた。「余震が続く間は二次災害もあるので、しばらくは難しい」との返事だった。3日後の28日に学生や大学職員とボランティアに入り、門前町道下(とうげ)地区を中心にお年寄り世帯の散乱する家屋内の片づけ作業を始めた。その後は猿回しの一行を連れて避難所を慰問に訪れたりもした。

   被災現場である違和感を感じた。震災当日からテレビなどの取材陣が大挙して被災地に入っていた。半壊の家屋の前で茫然と立ちつくすお年寄りがいて、その横に半壊の家屋が壊れるシーンを撮影しようと身構えるカメラマンたちがいた=写真・上=。「でかいのがこないかな」という言葉が聞こえた。「でかいの」とは余震のこと。余震で家が倒壊する瞬間を狙っていたのだ。被災者にはこのカメラマンたちの姿はどう映っただろうか。私が前職(報道制作局長)だったら、違和感を感じなかっただろう。むしろ、「倒壊の瞬間を撮ったら、すぐネット上げ(全国放送)だ」とカメラマンたちを叱咤激励していただろう。取材者目線と被災者目線、どちらも理解できるがゆえに違和感を感じる自身がそこにいた。

   被災者目線で取材をする報道カメラマンもいた。学生と被災者宅で後片付けのボランティアをしているとき、共同通信の腕章を付けたカメラマンが玄関から入って来た。片付けか作業をしていた家主に許可を得て、靴を脱いで上がった。割れたガラスなどが散乱しているので、ケガをしないだろうかと、こちらの方が気を揉んだ。撮影を終え被災者におじぎをして去った。見事な所作だった。 

   政治の揺れに翻弄されたこともあった。平成6年(1994)3月、石川県知事に副知事の谷本正憲氏が初当選した。谷本氏はそれまでの知事が現職で死去したため、新生・公明・民社・日本新・社会の「非自民5党」推薦で出馬し、当時、自民党幹事長だった森喜朗代議士が推した元農水事務次官で参議員だった候補を破っての当選だった。この政治的な背景には、自民党を離党して新生党の結成に参画した奥田敬和代議士と森氏による、自民分裂による地域の勢力戦いだった。テレビ局時代は、政治取材と言えば、このいわゆる「森奥戦争」だった。

  その森氏は平成12年(2000)4月、脳梗塞で倒れた小渕総理の後を継ぐかたちで85代総理大臣に就任。石川県出身では、33代の林銑十郎、36代の阿部信行に続き3人目だった。しかし、「日本は天皇を中心とした神の国」発言や、ハワイ沖で日本の高校生の練習船がアメリカの原子力潜水艦と衝突して死者を出した「えひめ丸」事故(平成13年2月)への対応が問題となり、就任から1年で総理の座を小泉純一郎氏に渡した。退陣前の内閣支持率は9%(朝日新聞調査)と1桁を割っていた。

  谷本氏は現在7期目、そして森氏は政界引退も東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長の座に就いている(※写真・下は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会ホ-ムページより)。

⇒8日(月)午後・金沢の天気   くもり

☆ドキュメント「平成と私」~上~

☆ドキュメント「平成と私」~上~

   「平成」から「令和」へと元号が変わるだけなのに、何か新しい、時代のイノベーションが訪れるような雰囲気ではある。「よい時代にしよう」という日本人の前向きな気持ちが込められる分、新元号の価値と意義はあるかもしれない。イエス・キリストの誕生年から始まる西暦だけだと数字が積み上がっていくだけで、100年ごとの新世紀しか話題は盛り上がらない。新元号まであと23日、平成という時代を自身の体感でまとめてみたい。

    ~平成初頭、テレビを通してかかわった松井秀喜と麻原彰晃~

    平成の時代が始まった元年(1989年1月)は新聞社の記者だった。その年の10月に系列のテレビ局に出向して、映像の世界を知ることになる。新聞社を辞して、新しく開局するテレビ局に入る。その北陸朝日放送が開局したのは平成3年(1991)10月だった。高校野球の中継番組が売りの一つ。当時星稜高校の松井秀喜は石川大会でも視聴率を上げた。なにしろ、石川大会で4本塁打を3大会連続で放った「怪物」だった。その松井が甲子園伝説をつくった。平成4年(1992)年8月16日、夏の甲子園大会・2回戦の明徳義塾高(高知)戦で明徳側が4番打者の松井を5打席連続で敬遠した。実況アナの「勝負はしません」が耳に残る試合だった。  

    そのとき、自身は金沢の本社で朝日放送から送信されてくる中継映像をチェックしながらニュース特集の構成をディレクターと考えていた。試合終了後の松井のコメントは「野球らしくない。でも歩かすのも作戦。自分がどうこう言えないです」と淡々としたものだった。宿舎に帰った松井本人から、勝負をしたかったというコメントが取れないか、現地の記者に指示出しをしていた。この5打席連続敬遠が松井の名を一気に「全国区」に押し上げた。11月のプロ野球ドラフト会議で4球団から1位指名を受け、抽選で交渉権を獲得した巨人に入団。背番号「55」。平成14年(2002)12月、ニューヨーク・ヤンキースと契約。平成25年(2013)5月5日、国民栄誉賞を長嶋茂雄と同時に授与された。 

    松井の生家は、甲子園大会歌の「栄冠は君に輝く」の作詞者、加賀大介が活動した同じ石川県能美市にある。松井の活躍と同じころ、その能美市で不可解なことが起きていた。プロ野球ドラフト会議の前月、10月に同市に本社がある油圧シリンダーメーカー「オカムラ鉄工」の社長にオウム真理教の教祖、麻原彰晃が就いて記者会見を開いた。同社の社長が信者で、資金繰りの悪化を機に社長を交代した、という内容だった。すでに社員には信者が送り込まれ、取材でも「教団に乗っ取られた」と地元の評判は良くなかった。ほどなくして会社は事実上倒産。会社の金属加工機械などは山梨県上九一色村の教団施設「サテイアン」に運ばれた。その後の裁判で、金属加工機械でロシア製カラシニコフAK47自動小銃を模倣した銃を密造する計画だったことが明らかになった。

    翌年の平成5年(1995)3月20日の地下鉄サリン事件。実行犯の一人だった林郁夫(医師)らがレンタカーで逃げた先が能登半島・穴水町の貸し別荘だった。4月、一緒に身を隠した信者の一人が別荘の近くで警官の職務質問を受け逮捕された。テレビのニュースで知った林郁夫は盗んだ自転車で貸し別荘を出て、金沢方面に向かう途中で警官の職務質問を受けて逮捕された。その後の林郁夫の全面自供により地下鉄サリン事件の全容が明らかとなる。麻原が逮捕されたのは林の逮捕から38日後の5月16日だった。

    平成初頭はまさしく宗教ブームだった。オウム真理教が盛んに信者を獲得していた。平成3年9月に放送されたテレビ朝日「朝まで生テレビ」では「激論 宗教と若者」と題しての討論に麻原彰晃が生出演した。部下だった上祐史浩、村井秀夫らの論客も出演し、他の新興宗教と激論を交わした。無名に近かったオウム真理教が一気に注目されるきっかをつくったのはテレビだった。

   平成30年(2018)7月6日、法務省は坂本堤弁護士一家殺害事件(平成元年11月)、長野県松本市でのサリン事件(平成4年6月)、東京の地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教による犯行の首謀者、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚らの刑を執行した。このニュースをテレビの速報テロップで知った。

⇒7日(日)午後・金沢の天気     くもり