★「マスメディアと現代を読み解く」の講義から-5-

★「マスメディアと現代を読み解く」の講義から-5-

    記者会見をテーマにした講義では、学生たちに「最近印象に残っている記者会見は何か」とリアクション・ペーパー(感想文)に記述してもらった。65名から回答があったが、芸能人やスポーツ選手の会見が印象深いようだ。

    ~計算された記者会見、人生のドラマが凝縮される記者会見~

    お笑いコンビ「南海キャンディーズ」の山里亮太と女優の蒼井優の結婚発表会見(6月5日)は「予想もしなかった電撃結婚」。面識のない女性をコンビニで平手打ちしたとして逮捕された音楽グループ「AAA」のリーダー浦田直也のお詫び会見(4月21日)は「スーツを着てキリッとした格好で記者会見に現れたが、記憶にない、覚えていないとヘラヘラ笑っていた。違和感を感じた」。 ウィンブルドン・ジュニア選手権の男子シングルスで初優勝した望月慎太郎の記者会見(7月14日)には「16歳ながら、落ち着いた態度で記者を端々で笑わせる面白い会見だった」と。記者会見ではさまざま人間模様が見えてくる。

    講義では自分自身の印象に残る会見として、日本大学と関西学院大学のアメリカンフットボールの定期戦で悪質なタックルをし、関学大選手を負傷させた日大の加害選手の記者会見(2018年5月22日)を紹介した。特徴として、20歳で実名での会見だったこと、場所が日本記者クラブで会見したことだ。同記者クラブでの会見は弁護士は同席させないルールだが、本人が20歳ということで2人の弁護士が同席したことも異例だった。会見では、故意や動機、計画性、事件に至る心情、事件後の状況をとつとつと述べ、深い反省の態度を示した。その上で、悪質なタックルは前監督とコーチの指示だったと述べた。このことで、加害選手に同情が寄せられた。

    では、加害選手は誰に向けてメッセージを発したのか。けがの程度は全治3週間の軽傷で、会見の3日前に日大監督が西宮市内を訪れて被害選手と父親に謝罪、あわせて監督を辞任している。普通ならばこの一件はここで落着となるが、5月21日に被害選手の父親が(大阪市議)が記者会見で大阪府警に被害届を出したと発表した。加害選手の会見はその翌日だった。刑事処分になった場合、加害選手本人が傷害罪として罰せられる。この最悪のケースを防ぐ必要があり、弁護士2人が急きょ記者会見をセットした。ポイントは本人の深い反省の弁と、前監督とコーチの指示によるものだったと強調することだった。つまり、記者会見を通して、警察・検察にメッセージを送ったのだ。刑事処分を念頭に、計算され尽くした記者会見だった。

   記者会見にはさまざまなパターンがある。災害の緊急記者会見は混乱を伴う。原告団記者会見は大人数が並ぶ。謝罪会見ではお詫び、頭の下げ方まで注目される。記者会見は筋書きのないドラマでもある。「前代未聞の記者会見」と呼ばれた佐藤栄作総理の退陣表明の会見(1972年)は「新聞記者所払い」があった。「テレビカメラはどこかね。僕は国民に直接話したい。テレビは真実を伝える。偏向的新聞は大嫌いだ」と述べた。怒った新聞記者が退席した会見場で、総理はNHKのカメラに向かって一人でしゃべり続けた。これがノーベル平和賞を受賞した日本の総理の最後の会見だった。

   会社や役所内で不祥事があれば、記者会見での対応が必要となる。記者会見でさらに印象が悪くなることがある。記者会見は「危機管理」の対象でもある。誰が出席して対応すべきか、記者会見中に打ち合わせをしてよいのか、どのような服装で会見に臨めばよいのか、記者会見はどのようなタイミングで終わればよいか、謝罪会見の場合、「おじぎ」は何秒頭を下げればよいのか。記者会見には人生のドラマが凝縮される。 

      (※写真は首相官邸HPに掲載されている安倍総理の記者会見の様子。右側に設置されているプロンプターには原稿が映し出されている)

⇒19日(金)朝・金沢の天気     あめ

☆「マスメディアと現代を読み解く」の講義から-4-

☆「マスメディアと現代を読み解く」の講義から-4-

        そもそもマスメディアって何だと学生たちに問いかける。「情報やニュースを人々に伝達する媒体(メディア=media)である新聞・雑誌、ラジオを集合的に示す言葉。1923年初見の広告の業界用語」(オックスフォード英語辞典)。1922年にアメリカでラジオ放送が始まった。マスメディアの報道としての役割が加速したのは1915年、第一次世界大戦中に起きたドイツによるイギリス客船の撃沈事件でアメリカ国民が多数犠牲になり、ニュース・報道への関心が急速に高まった。その後、ニュース・情報を掲載した広告媒体というビジネスモデルがアメリカで確立されることになる。

    ~震災から戦争、そして東京オリンピック、日本の現代史を刻む~

   では、日本でのマスメディアの成り立ちはどうか。原点の一つは「災害情報」にある。江戸時代に普及した瓦版は約4割が安政大地震を伝えたものと言われる。1923年、マグニチュード7.9、日本の災害史上最大級とされた関東大震災を契機に災害報道の速報性がニーズとして高まり、2年後の1925年にラジオが開局する。1953年にテレビ放送が開始され、自然災害を速報性と映像で伝えるテレビの役割へと展開する。現代は、SNS・ソーシャルメディアの普及で、被災地から人々がその状況を直接発信するようになり、災害情報は垂直から水平へと展開するようにもなってきた。

   明治時代は新聞ジャーナリズムの黎明期だった。1869年(明治2年)の新聞印行条例で、発行許可制と事後検閲制のもとで新聞発行を認めることでスタートした。毎日新聞は1872年(明治5年)に創刊、以下、読売新聞、朝日新聞と続く。当時は世の中の事件や社会の大衆ネタを扱う「小新聞」と、政治・政党色の強い「大新聞」に色分けされていたが、毎日や読売、朝日のスタートは小新聞だった。

   そんな中で、福沢諭吉が1882年(明治15年)に創刊した時事新報は、不羈(ふき)独立の精神を掲げたマスメディアだった。独立自尊という言葉の意味にも直結するが、自らの新聞社の経営をしっかりしたものにし、政府権力に依存せず、また市民におもねないことを目指していた。ただ、新聞印行条例により、福沢が論じた「藩閥寡人政府論」や「西洋人の日本疎外論」は発行停止処分を受けた。また、福沢の進歩的な論評はときに読者にも誤解され、「ホラを福沢 ウソを諭吉」などと揶揄された。1936年(昭和11年)、大阪進出が失敗した時事新報は解散することになる。

   太平洋戦争の開戦(1941年)とともに、新聞は同年に公布された新聞事業令によって、国家が新聞社の廃止や解散の権限を握ることになり、すべてのマスメディアは戦争遂行の道具へと転換する。新聞統合も進み、1937年(昭和12年)に全国で1208社あった日刊発行社は55社になった。開戦を最初に国民に知らせたマスメディアはラジオ、敗戦を告げたものラジオだった。あらゆる技術は軍需産業へ転換し、テレビの技術開発は中止に追い込まれた。

   戦後、マスメディアの主流はテレビへとシフトする。1953年(昭和28年)2月にNHK東京テレビジョンが開局、半年後の8月に民放の日本テレビが放送を始めた。とは言え、シャープが発売した日本最初のテレビは14インチで17万5000円、大卒銀行マンの初任給が5600円の時代だった。テレビの普及は進まず、「街頭テレビ」を市民がみんなで見るという時代があった。1959年(昭和34年)、今の上皇夫妻のご成婚をきっかけにテレビが爆発的に売れる。美智子妃殿下のお姿を見たいという「ミッチーブーム」が起きた。

   ご成婚から3年後の1962年にはテレビが1000万台、普及率50%という大台に乗った。もちろん、戦後の高度経済成長が背景にあったのは言うまでもない。1964年の東京オリンピックによって、テレビは飛躍的な技術的な進化を遂げる。カラー放送、衛星中継、スローVTRの導入など。今のテレビのベースになる放送技術がこのころに確立されたと言ってよい。(※写真はNHKのポスター。テレビの黎明期、食い入るように相撲番組を視聴する子供たちの様子)

⇒18日(木)夜・金沢の天気     あめ

★懸念する日本海での日韓衝突

★懸念する日本海での日韓衝突

   日本政府による韓国への半導体材料の輸出管理の優遇、いわゆる「ホワイト国」の解除をめぐって、韓国がアメリカ詣を続けている。今月10日には韓国の康京和外交部長官がアメリカのポンペオ国務長官と電話で会談して、日本の今回の措置に対する不満を述べたと韓国メディアが報じている。日本の輸出管理の厳格化措置が日米韓の安保上での連帯を弱めるだけでなく、アメリカが最優先事項としている北朝鮮の核兵器完全破棄の政策に支障になる、と。

   直接向き合わず、他国を経由しての批判を「告げ口外交」という。2013年に韓国の朴槿恵大統領が就任して行った外交が、日本と韓国の歴史問題に関することを、第三国に対して日本への悪口を言い触らして回ったことで、「韓国の告げ口外交」と呼ばれた。これは朴槿恵独自の外交かと思っていたが、どうやら韓国の「お家芸」のようだ。で、トランプ政権は韓国の告げ口外交に同情して、日本側に改善を求めてくるだろうか。

   これまでの韓国による自衛隊機への火器管制レーダー照射の問題、慰安婦財団の一方的な解散、戦時中における朝鮮半島出身の労働者問題をめぐる日韓請求権協定の反古など、外交問題を起こしてきたのは韓国側であることを実によく知っているのはアメリカ側だろう。「安全保障で信頼関係を保つのが難しい国だ」と。今後、韓国が徹底抗戦の姿勢を崩さず、日本も一歩も引かなければ日韓関係の在り様は異次元レベルの展開になるかもしれない。

   日本海側に住む一人として今後懸念するのは漁場のことだ。昨年11月20日、操業中の日本のイカ釣り漁船に対し、韓国の海洋警察庁の警備艦が「操業を止め、海域を移動するよう」と指示を出し、漁船を威嚇するという事件があった。水産庁のHPで掲載されているプレスリリースを元に少し詳しく述べる。同日午後8時半ごろ、能登半島の西北西約400㌔に位置する、日本の排他的経済水域(EEZ)の大和堆(やまとたい)付近で操業中の日本のイカ釣り漁船(184㌧、北海道根室市所属)に対し、韓国・海洋警察庁の警備艦が「操業を止め、海域を移動するよう」と無線交信をしているのを、水産庁漁業取締船と海上保安庁巡視船が確認した。

    水産庁の漁業取締船は日本の漁船の付近に位置取り、韓国警備艦に対し、日韓漁業協定でも日本漁船が操業可能な水域であり、漁船に対する要求は認められないと無線で申し入れた。その後、韓国の警備艦が漁船に接近し威嚇したため、海上保安庁の巡視船が韓国の警備艇と漁船の間に割って入った。すると、韓国の警備艇は午後10時50分ごろ現場海域を離れた。

    スルメイカは貴重な漁業資源だ。それを北朝鮮に荒らされ、さらに「日本漁船は海域を出ろ」という韓国。その前の昨年8月にも韓国の海洋調査船が、島根県沖の竹島の領海に侵入した。日本の同意を得ずに海洋調査を実施したとして韓国に2度抗議したが、韓国は領有権があるとして抗議をはねつけている。同様のケースが今後続発するのではないか。日韓は歴史の転換点に差しかかっている。

⇒17日(水)夜・金沢の天気     くもり

☆「マスメディアと現代を読み解く」の講義から-3-

☆「マスメディアと現代を読み解く」の講義から-3-

  講義科目「マスメディアと現代を読み解く」(全8回、1単位)では「震災とマスメディア」をテーマに2回(6月26日、7月3日)にわたって講義した。その中で記者時代の体験談も語った。津波を体験している。1983年5月26日正午ごろ、秋田沖が震源の日本海中部沖地震が起きた。輪島では震度そのもは3だったが、猛烈な津波がその後に押し寄せた。高さ数㍍の波が海上を滑って走るように向かってくる。当時、新聞記者で輪島支局員だった。輪島港が湾内に大きな渦が出来て、漁船同士が衝突し沈没しかかっている船から乗組員を助け上げているを見て、現場へ走り、1回シャッターを切ってすぐ逃げた。大波が間近に見えていたからである。「あの時、取材で欲を出して数回シャッターを切っていたら、おそらくこの講義はなかったろう」と話すと、学生たちは複雑な顔で聴いていた。

   ~震災被災地でシャッターチャンスを狙う取材者と被災者目線の違和感~

  2007年3月25日の能登半島地震(震度6強)では翌日現場に駆け付けた。学生たちを復旧ボランティアに参加させる計画を立てるためだった。このとき、地震対策本部からは「余震が続いているのでボランティアは見合わせてほしい」と告げられた。全半壊の街を歩くと、半壊となっていた家屋が余震で壊れるシーンを撮影しようと身構えるカメラマンたちがいた=写真・上=。とても違和感を感じた。しかし、自身が現役の報道デスクだったら、「チャンスを逃すな」と激励していたに違いない。被災地の感覚と、取材者側の感覚の違いが自身の中で浮かんだ。

  同じ年の7月16日、同じ日本海側で新潟県中越沖地震(震度6強)が発生した。被災地を取材に訪れたのは震災から3ヵ月後だった。柏崎駅前の商店街の歩道はあちこちでひずみが残っていて歩きにくく、復旧半ばという印象だった=写真・下=。コミュニティー放送「FMピッカラ」はそうした商店街の一角にあった。祝日の午前の静けさを破る震度6強の揺れがあったのは午前10時13分ごろ。その1分45秒後には、「お聞きの放送は76.3メガヘルツ。ただいま大きな揺れを感じましたが、皆さんは大丈夫ですか」と緊急放送に入った。午前11時から始まるレギュラーの生番組の準備をしていたタイミングだったので立ち上がりは速かった。

   通常のピッカラの生放送は平日およそ9時間だが、災害時の緊急編成は24時間の生放送。柏崎市では75ヵ所、およそ6000人が避難所生活を余儀なくされた。このため、市の災害対策本部にスタッフを常駐させ、被災者が当面最も必要とする避難所や炊き出し時刻、物資の支給先、仮設の風呂の場所、開店店舗の情報などライフライン情報を中心に4人のパーソナリティーが交代で流し続けた。

    コミュニティー放送局であるがゆえに「被災者のための情報」に徹することができたといえるかもしれない。インタビューに応じてくれた、パーソナリティーで放送部長の船崎幸子さんは「放送は双方向でより深まった」と当時を振り返った。ピッカラは一方的に行政からの情報を流すのではなく、市民からの声を吸い上げることでより被災者にとって価値のある情報として伝えた。たとえば、水道やガスの復旧が遅れ、夏場だけに洗髪に不自由さを感じた人も多かった。「水を使わないシャンプーはどこに行けばありますか」という被災者からの質問を放送で紹介。すると、リスナーから「どこそこのお店に行けばあります」などの情報が寄せられた。行政から得られない細やかな情報である。

    24時間の生放送を41日間。この間、応援スタッフのオファーも他のFM局からあったが、4人のパーソナリティーは交代しなかった。「聞き慣れた声が被災者に安心感を与える」(船崎さん)という理由だった。このため、リスナーから「疲れはないの、大丈夫ですか」とスタッフを気遣うメールが届いたほどだった。

    ピッカラの災害放送対応を他のコミュニティー放送が真似ようとしても、おそらく難しいだろう。コミュニティー放送局そのものが被災した場合、放送したくても放送施設が十分確保されないケースもある。そして、災害の発生時、その場所、その状況によって放送する人員が確保されない場合もある。その意味で、発生から1分45秒後に放送ができた「FMピッカラ」は幸運だったともいえる。そして、「情報こそライフライン」に徹して、コミュニティー放送の役割を見事に果たした事例としてピッカラは評価される。

    取材の後、柏崎の街を歩きながらなぜ震災の復旧が進まないのかと改めて考えた。中越沖地震の場合、マスメディアを通した耳目が柏崎刈羽原発に集中してしまい、街の復旧や復興の様子が視聴者には見えにくくなっていたのではないだろうか。もちろん行政は全力投球していただろう。しかし、マスメディアの取材の優先度が原発が先になると、行政もそれに引きずられる。原発というシリアスな問題では、街の復興・復旧は盲点となりかねない。柏崎の街を歩きながら考えたことも学生たちに話した。

⇒16日(火)朝・金沢の天気    あめ

★「マスメディアと現代を読み解く」の講義から-2-

★「マスメディアと現代を読み解く」の講義から-2-

   金沢大学での講義科目「マスメディアと現代を読み解く」では震災を新聞・テレビがどう報じるかを「震災とマスメディア」をテーマに2回(6月26日、7月3日)にわたって講義した。重いテーマだ。震災報道について論点をいくつか述べた。

   ~震災報道について、風化のハードル、既視感との闘い~

   突然やってくる災害報道に新聞・テレビはどう対応しているのか。新聞各社はそれぞれに、あるいはテレビだと系列として地震対応マニュアルを作成し、発生時のスタッフの役割・人配置を決めて、シュミレーションを実施している。ただ、2011年3月11日の東日本大震災のように広範囲で地震が起きた場合、津波や火災、原発事故などが同時に発生し、想定外の災害となる。また、現地メディアも被災した。

   東日本大震災では報道する側も被災者となり、連絡不能のなかで、スタッフは独自判断で行動することが求められた。仙台空港に駐機していたヘリは津波で機体が損壊して空撮ができず、災害の全体像を把握できなかった。それでもテレビ各社は3日間にわたって緊急特番を報じた。停電や輪転工場の損壊で一時印刷できなくなった石巻日日新聞は6日間にわたって「壁新聞」を発行し続けた。アメリカのニュース博物館「NEWSEUM」はこの壁新聞を展示し、「この新聞は人間の知ることへのニーズとそれに応えるジャーナリストの責務の力強い証しである」と評価している。震災時におけるメディアの宿命を端的に表現した事例だった。

   「災害は忘れたころにやってくる」(寺田寅彦)とう教訓がある。260年前、経済学者アダム・スミスは『道徳感情論』の講義で災害に対する人々の思いは一時的な道徳的感情であり、心の風化は確実にやってくると述べた。マスメディアにとって風化という視聴者のハードルをどう乗り越えるかは大きなテーマだ。被災地の復興は一般に思われているほどには進んでいない。この復興に対する意識のギャップを埋めるために、震災発生から定期的に特番を放送する。被災地の人々の心情は「忘れてほしくない」ということに尽きる。その心情を新聞・テレビが代弁している。一方で、マスメディア内部では「既視感」との闘いがある。被災地のローカル局と東京キー局との報道スタンスは異なる。ローカル局は被災者に寄り添う番組づくりを心がけているが、キー局は視聴率重視のスタンスがあり、すべての復興特番が全国ネットに上がるわけでもない。

    講義の最後に、マスメディアは災害や事故、事件で遺体の写真を掲載しない現状について述べた。被災者や読者・視聴者の感情に配慮してのことだ。リアクション・ペーパー(感想文)で学生たちに意見を求めた。「日本のマスメデイア(新聞・テレビなど)は通常、遺体の写真を掲載していません。被災者や読者・視聴者の感情に配慮してのことだと考えられます。一方で、海外メディアはリアリティのある写真を掲載しています。以下の問いのどちらかを選び、あなたの考えを簡潔に述べてください」と。学生には「1.現状でよい」「2.見直してよい」で選択してもらい、その理由を記入してもらった。

    67名の学生から回答があり、「現状でよい」54%、「見直してよい」46%だった。「現状でよい」の主な意見は「見る側への心理的な影響(PTSDなど)、とくに子供への影響が心配」「遺体にも尊厳がある」「インターネット掲載など別の方法がある」だった。「見直してよい」の意見を整理すると「震災を風化させないためにも、現実や事実を報道すべき」「見る側の選択肢を広げる報道をしてほしい」といった内容だった。

    2011年の東日本大震災をきっかけにこのアンケートを始めた。当初は「現状でよい」が70%近くあったが、今回は僅差になった。遺体写真は見たくはないものの、報道は事実優先でやってほしいというマスメディアに対する「あるべき論」が学生の間で高まっているようにも思える。(※写真は、2011年5月11日に撮影した宮城県気仙沼市の被災現場)

⇒14日(日)午後・金沢の天気    あめ

☆「マスメディアと現代を読み解く」の講義から‐1-

☆「マスメディアと現代を読み解く」の講義から‐1-

   金沢大学の講義科目「マスメディアと現代を読み解く」(全8回、1単位)では国内外のさまざまニュースをとらえ、マスメディアはどう報じているかを分析することで、新聞・テレビの取材の手法と視点が視聴者・読者とどのような距離感があるのかなど、学生の意見を交えながら論じている。きのう10日の講義は、4日に公示された参院選と絡めて「マスメディアは選挙をどう伝えるのか」をテーマとした。

   ~候補者、政党の報道の扱いにおける公平性や平等性とは何か~

   講義は、マスメディアに選挙報道の公平さを規定している法律から入った。新聞やテレビに選挙報道の公正さを求める(公選法148-1)、テレビ放送に政治的な公平性を求める(放送法4)、テレビ放送に候補者の平等条件での放送を求める(放送法13)などだ。この法律に従って、マスメディアの選挙報道は公示・告示の日から投票時終了まで、候補者の公平的な扱いを原則守っている。候補者の扱いでの公平性は新聞の場合、写真の大きさやプロフィル、記事の行数など。参院選では選挙区選挙と比例代表選挙があるが、比例では政見放送の扱いの事例を紹介した。講義の当日10日午前にNHKが放送した「NHKから国民を守る党」の政見放送では、事前収録の放送にもかかわらず、「NHKをぶっ壊せ」と候補者が叫んでいた。NHKとすればまさに業務妨害にも相当するが、政見放送なのであえて放送している。

   マスメデアィアがいかにして「当選確実」を速く正確に打つのか。2つの技術がある。出口調査は投票を終えた有権者にお願いし、誰に投票したか、比例区ではどの党の入れたかのかなど記入してもらう。出口調査での票数を分析し、テレビ局は選挙特番で投票終了後に「当確」を打つ。出口調査の実施にあたっては、新聞社と系列のテレビ局がタッグを組むケースが多い。開披台調査は、出口調査での選挙区候補者間の得票率が10ポイント未満の僅差に場合に行われる。体育館などでの開票作業をバードウォッチングのように双眼鏡で仕分けしている票を読んで得票を確かめる。電子投票が進めば将来的に開披台調査はなくなるが、今回の参院選では電子投票を行う自治体はない。

   講義の最後にリアクション・ペーパーのアンケートで、マスメディアの選挙期間中における候補者・政党の公平・平等な扱いについて意見を求めた。「アメリカではテレビ局に選挙などの政治的な扱いに公平性を課すフェアネスドクトリン(The Fairness Doctrine)がありましたが、言論の多様性こそ確保されなければならず、フェアネス性を課すことのほうがむしろ言論の自由に反するとの司法判決で1987年にファネスドクトリンは撤廃されました。日本の放送法や公選法では候補者への扱いに公平性を求めていますが、あなたの考えを簡単に述べてください」。学生には「1.現状でよい」「2.見直してよい」で選択してもらい、理由を記入してもらった。

   65名の学生から回答があった。「現状でよい」71%、「見直してよい」29%だった。現状肯定が圧倒的に多かった。学生の意見では「選挙報道の公平性は選挙の本来的な在り方である政策論争を場を守るために必要なルールだと思う」と。一方の見直しの学生の中では「年齢や性別など、有権者にはそれぞれ異なる立ち場があり求める情報も異なる。選挙報道にもっと多様性があっていい」と。このほかにも、まったく平等にすべての候補者と政党を同じ大きさで扱うのなら、単なる選挙公報になってしまうので、それは選挙管理委員会に任せ、マスメディアはもっと選挙の争点や論点を報道してほしい、と手厳しい意見が散見された。

   2016年施行された18歳選挙権で、受講する学生の多くは選挙権を有している。そのせいか、アンケートからは選挙に対してリアリティのある意見を述べる学生たちが以前に比べて増えているというのが実感だ。

⇒11日(木)夜・金沢の天気   くもり

★松本で国宝二つ、そば一つ

★松本で国宝二つ、そば一つ

   北陸新幹線で長野駅に行き、それから在来線で1時間ほど。松本駅に着いた。松本城をゆっくり見学したいとの思いにかられ、東京出張の折、予定を変更した。

   松本城は400年余りの風雪に耐えた国宝である=写真・上=。黒門をくぐり天守閣に入る。鉄砲蔵で火縄銃など見ながらさらに上階へ。斜度61度の急階段は袴姿の殿様も大変だったろうなどと想像しながら天守6階にたどりついた。ここは周囲を見渡す「望楼」で、さらに天井には城の守り神「二十六夜神」が祀ってあった。権勢を誇る城というより、常在戦場を心得る場だったのだろう。

   それにしても感心したのは天守閣の床や階段が磨き上げられていることだった。ボランティアガイドのシニア男性に尋ねると、市内の中学生や市民が年に10数回集い、床を糠袋を使って磨いているそうだ。市民が誇りに思い、愛される城なのだと実感した。

   もう一つ国宝を訪ねた。松本城の近くにある「開智学校」だ。令和に入り、文化庁が答申した。1876年(明治9年)の建設。漆喰塗りの外壁を持つ2階建ての屋根上に八角形の塔を載せたデザインで、まさに洋風と和風の伝統意匠を織り交ぜた建築物だ=写真・中=。当時の学校建築としては先駆的で画期的だったろう。校舎は1963年(昭和38年)まで、実際に小学校として使われていた。展示品も見学した。この学校では1901年(明治34年)から丁稚奉公や芸妓の稽古などに出て学ぶ時間や機会がない子供たちのための夜間学校や、障害を持った子供たちのための教育など行ってきた。まさに「だれ一人取り残さない」教育の場だった。

   松本見学の締めくくりは信州そばだった。城の近くで50年余りそばを打っているという店に入った。思いが一つあった。出雲そばとの比較だ。昨年11月、国宝・松江城の近くの店で名物「割子そば」を食した折、出雲のそばは松江藩初代の松平直政(徳川家康の孫)が、信州松本から出雲に国替えになって、そば職人を信州から一緒に連れて来たと聞かされていた。出雲そばと信州そばは歴史的なつながりを確かめたかった。

   入った店は黒焼きの壺にビワの青い葉が生けられ、白壁に映えて気品が漂っていた。ただ、店にはメニューがない。黙って座っているだけ。日本酒が運ばれて来る。その後、ざるそばが出てきた=写真・下=。出雲そばと信州そばの歴史的な共通性を食感で得たのか。粗切りされたそばはすするのではなく、噛むそばだった。香りがよい。つゆも醤油味が濃いめで独特の甘みが少々ある。これが双方の共通点といえば、そうなのかもしれないと思いながら店を出た。

⇒8日(月)夜・金沢の天気    はれ

☆80歳半ば現場に立つチカラ

☆80歳半ば現場に立つチカラ

   きのう(5日)金沢市で開かれた「ディナーショー」に参加した。市内のクッキングスク-ルが主催した「七夕 シャンソン 和フレンチ」。そのタイトルに魅かれ予約していた。シャソン歌手が定番の「Que Sera, Sera(ケ・セラ・セラ)」などを披露したが、面白かったのは森山良子が作詞した「Ale Ale Ale(アレアレアレ)」。「ああ あの時のあの Ano Ano Ano あの人の名前がでてこない・・・」。高齢者の表層的な表現をうまく歌にして聴衆の笑いを誘った。超高齢化社会になるとこのようなエンターテイメントが創作できるのかとある意味感心した。

   このディナーショーを仕切ったのは、クッキングスク-ル校長の青木悦子さん、御年80歳半ばである。ディナーショーのチラシからメニューも自ら考案しスタッフに細かく指示したものだ。「百万石パリ祭の一皿」と名付けたメニュー=写真・上=は鮎のから揚げ、鶏ハム、海老とキノコのシンフォニーココットパイ包み。青木さん自身も鮎のから揚げを頭からパリパリと食べ、「だからパリ祭と名を付けたのよ」と笑う。「焼きおにぎり茶漬け」は梅肉、ワサビ、そしてアボガドを入れた茶漬けだ。アボガドのまろみが茶漬けとの親和性を醸し、茶漬けをより異次元の味覚の世界へと誘ってくれる。こんなコメントもあった。「男性の味覚は母の味、女性の味覚は旅の味、気が付けば親はなし、ですよ」。アイデアと人生観に満ちた言葉、そして料理への限りなき愛着、恐るべし80歳半ばである。

    青木さんと初めて出会ったのは私の新聞記者時代。石川県内の食文化をくまなく独自で調査し、まとめたものを『金沢・加賀・能登・四季の郷土料理』 (主婦の友社・1982)として出版した。能登の発酵食の独自性や武家文化と加賀料理の関わりなど、食文化から見えてきた地域の在り様は実に新鮮で画期的だった。80歳を過ぎても青木さんの探求心は揺らいでいない。アボガド茶漬けは周囲からアイデアを聞き、工夫を凝らした新作なのだ。   

   80歳半ばで現場に立つチカラを発揮するもう人物をもう一人知っている。86歳、杜氏として造り酒屋で蔵人たちを指導する農口尚彦さんは国が卓越した技能者と選定している「現代の名工」であり、日本酒ファンからは「酒造りの神様」、地元石川では「能登杜氏の四天王」と尊敬される。昨年1月、小松市にある醸造現場を見学させてもらった。開口一番に「世界に通じる酒を造りたいと思いこの歳になって頑張っておるんです」と。いきなりカウンターパンチを食らった気がした。グローバルに通じる日本酒をつくる、と。そこで「世界に通じる日本酒とはどんな酒ですか」と突っ込んだ。「のど越し。のど越しのキレと含み香、果実味がある軽やかな酒。そんな酒は和食はもとより洋食に合う。食中酒やね」。理路整然とした言葉運びに圧倒されたものだ。農口さんの山廃仕込み無濾過生原酒=写真・下=にはすでに銀座、パリ、ニューヨークなど世界中にファンがいる。

   青木さん、農口さんの二人に共通するのは80歳半ばにして自らの技の領域がさらなる広がりを見せていることだ。シャソンと響きあう和フレンチ、そして洋食に合う酒造り。人としての様々な道のりがあったことは想像に難くない。それを乗り越え現役としてものづくりの現場に立つという人生のモデルがそこにある。

⇒6日(土)夕・金沢の天気    くもり

★令和最初の国政選挙

★令和最初の国政選挙

         きょう(4日)参院選が公示され、立候補の受付が午後5時で締め切られた。報道によると、選挙区と比例代表合わせて370人が立候補した。夕刊の見出しをチェックすると、「安倍長期政権に審判」など政権に対する評価や消費税率引き上げの是非、それに年金制度や憲法改正などが争点だ=写真=。とにかく17日間の選挙戦に入った。

   全国45の選挙区には74人の定員に対し215人が立候補。政党別では自民党49人 、立憲民主党20人、国民民主党14人、公明党7人、共産党14人、日本維新の会8人、社民党3人などの既成政党のほかに、れいわ新選組1人、安楽死制度を考える会9人、NHKから国民を守る党37人、オリーブの木6人、幸福実現党が9人、労働者党6人 、諸派1人、無所属31人などとなっている。面白いのは、争点を1つに絞った、いわゆるシングルイシューの政党が目立っていることだ。

   NHKから国民を守る党は37人が立候補し、比例代表(定員50)にも4人が届け出ている。受信料を支払った人だけが視聴できるスクランブル放送化や受信料を払わない人を応援・サポートするとアピールしている政治団体だが、シングルイシューだからといって侮れない。先の東京都区議選(投開票4月21日)で17人が当選するなど、4月の統一地方選挙では立候補者47人のうち26人を当選させている。これで同党の地方議員は39人になった。単一論点を掲げる政党がこれほど議席を獲得するのは異例だろう。

   同党が参院選に挑むのは初めてだ。気になるのが政見放送だ。参院比例代表選挙の政見放送を流すはNHKのみで、全国同一内容で放送する。選挙区選挙については都道府県ごとにそれぞれのNHKと民放が放送する。同党の立候補者たちが何を語るのかはシングルイシューなので想像がつくが、問題はどう語るのか、だ。指定されたスタジオでの収録なので、立候補者たちは持ち前のキャクターでどう語るのか。

   今回、安楽死制度を考える会も9人を立候補させている。安楽死は、不治の病に陥った場合に本人の意思で、医師ら第三者が提供した致死薬で自らの死期を早める。オランダやスイスは安楽死を合法化しているが、日本では安楽死に関する法律はない。超高齢化社会を迎えて、自らの人生の質(QOL)を確認して最期を迎えたいという願いやニーズは確かにある。

   参院選では立候補届け出の際の供託金が比例区が1人600万円、選挙区が1人300万円だ。一定の得票がないと没収される。令和最初の国政選挙だ。立候補者はそれぞれ「がっつり」と選挙戦を戦い、有権者のモチベーションを上げてほしい。投票行動へと走るように。

⇒4日(木)夜・金沢の天気    くもり

☆被災地を大雨が襲う

☆被災地を大雨が襲う

   九州を襲っている大雨が警戒レベル4となり、鹿児島県と宮崎県の15市町の52万世帯、110万人余りに「避難指示」が出された。110万人は石川県と同じ人口規模で、この数字だけで大変なことになっていると察しがつく。避難指示では自治体が重ねて避難を呼びかける。大雨では避難場所に移動する途中で危険な箇所もあり、臨機応変に近くのビルなど安全な建物や高い場所に逃げたほうがいい。

   きのう(2日)気象庁の予報官が記者会見を開いている様子をテレビで視聴したが、ただならぬ雰囲気だった。「非常に激しい雨が数時間続くような場合には、大雨特別警報を発表する可能性もあります。特別警報の発表を待つことなく、早め早めの避難、安全確保をお願いします」と。洪水も心配だが、がけ崩れ、道路の陥没といった土砂災害もある。気象庁予報官は「自らの命は自らが守らなければならない状況を認識して、早めの避難を行って頂きたい」と何度も繰り返していた。住民に対して避難を直接呼びかける異例のコメントだ。

    個人的に気になっているのは3年前に現地を訪れたことがある熊本県益城町だ。ニュースによると、川が氾濫していて、水田に土砂が流れ込むなどの被害が出ている。同町は2016年4月14日の前震、16日の本震で2度も震度7の揺れに見舞われた。新興住宅が建ち並ぶ中心部と昔ながらの集落からなる農村部があり、3万3千人の町全体で5千棟もの建物が全半壊した。半年後の10月に現地を訪れ愕然とした。あちこちにブルーシートで覆われた家屋や、傾いたままの家屋、解体中の建物があった。印象として復旧に手がついたばかりだった。

   とくに被害が大きかった県道沿いの木山地区では、道路添いにも倒壊家屋があちこちにあり、痛々しい街の様子が伝わってきた=写真・2016年10月8日撮影=。農村部では倒壊した家の横にプレハブ小屋を建てた「仮設住宅」で暮らしている農家もあった。益城ではスイカ、トマトなどが名産で、被災農家は簡単に自宅を離れられないという事情も想像がついた。

     震災から3年経ったとは言え、おそらく今でも復興半ばではあること想像がつく。 言葉で「復興」「復旧」「再生」は簡単だが、それを実施する行政的な手続き、復興政策の策定には時間がかかる。そこへ、今度は無情な大雨である。地殻の揺れの後だけに、表層崩壊、あるいは深層崩壊といった山崩れは大丈夫だろうか。

⇒3日(水)夜・金沢の天気     あめ