⇒トピック往来

☆震災と大学

☆震災と大学

 3月25日に発生した能登半島地震から10日余りたったきのう(5日)、金沢大学では震災の学術調査部会が立ち上がった。発生直後から,教員グループの学術調査や医療チームによる支援が行われていて、3月30日には学内外への対応窓口を一本化し,情報収集や連絡調整を行うための「金沢大学能登半島地震対策本部」が設置された。今回の学術調査部会は対策本部のセクションとしての位置づけである。

  今回、この対策本部のもとで個別に実施されている多様な学術調査の収集の一元化作業が行われる。また、その調査活動を大学として総合的に支援し、さらに今後の学術調査や復興支援に生かすというもの。連日、新聞やテレビで研究者が解説しているものの、それはある意味で断片的なので、総合的な報告書としてまとめる狙い。

  当日の出席者は研究者70人ほど。その席上で発言が相次いだのは、「まとめるだけだったら能登の復興の役には立たない。むしろその調査をもとに政策提言にまで踏み込んだものを」の声だった。当然といえば当然なのだが、これは簡単な話ではない。政策提言となるとそれなりの政策の予算や技術など実現性の裏づけを含めた提言内容が必要だ。事によっては膨大な作業を伴い、時間もかかる。通常の授業や研究と並行しながらの作業となる。ワンフレーズで言えば、「その覚悟でやろう」と発言者は言いたかったのである。

  大学とかかわって3年目、これまで腰が重い世界との印象だった。が、今回は「動く」との予感がした。

 ⇒6日(金)朝・金沢の天気  はれ

★花よりボランティアの日曜日

★花よりボランティアの日曜日

 金沢では平年より8日早く3月29日にソメイヨシノが開花した。そしてその初めての日曜日、本来ならば金沢の兼六園などは花見の客でにぎわうころだ。ところが「異変」が起きている。

  写真は、きょう(1日)午後0時25分に撮影した金沢城の沈床(ちんしょう)園の様子だ。がらんとしている。人通りもまばら。三分咲きほどの桜の枝が、緩やかな春風に揺れている。金沢市民ならば、この季節に目にする沈床園での花見宴会のにぎわいがない。宴に備えてのブルーシートを敷いての陣取りもいない。市民は花見を忘れたかのような静けさだ。

  一方、けさ午前6時20分、金沢市袋畠町の県産業展示館4号館前には大型バスが20台余りが横付けされていた。能登半島地震の被災地へ向かうボランティアのシャトルバスだ。きのう土曜日も市民ら880人を乗せて輪島市や穴水町の32ヵ所の避難所に向かった。きょうは人数ではさらに多いだろう。また、バスではなく、直接乗用車で向かうボランティアグループも相当多いはず。支援の輪の広がりに心強さを感じる。

  ところで、金沢城沈床園の閑散とした状態はこうしたボランティアの結集の裏表の現象と言える。「こんなとき(震災後)に花見宴会の気分ではない。自粛しよう」ということだろうか。しかし、個人的には「花よりボランティア」というより、「花もボテンティアも」である。自治体の首長ならば公人として少々の批判はあるかもしれないが…。要は周囲がとやかく言う必要はない。自分の心に正直に行動すればよいだけである。

  それにしても、沈床園は静かすぎる。で、冷静にその理由を考えてみた。30日付の朝刊各紙をチェックすると、「開花」の記事は隅に追いやられている。あるいは写真がない。とくかく目立たない扱いなのだ。テレビも同様にお天気コーナーで少し触れただけだろう。例年ならば各社は競って中継に入る。ところがその中継車は被災地にはりつけとなっている。石川県の人々の耳目は震災に集まっていて、開花宣言を知らないのではないか、というのが話のオチだ。

 ⇒1日(日)午後・金沢の天気  くもり

☆傾きつつも耐える

☆傾きつつも耐える

 倒れそうで倒れない絶妙のバランスというものがある。能登半島地震の後、3月31日に石川県珠洲(すず)市に入った。地元では古刹として知られる臨済宗のお寺「琴江院(きんこういん)」を拝観させていただいた。背戸には池を配した庭園もあり古刹の風情を感じさせる。

 地震では灯ろうが多数倒れる被害があり、「もしや」と思い、墓地に入った。案の定、3基に1つの割合で倒れる、ずれる、割れるなどの状態だった。ふと見ると、傾きつつも絶妙のバランスで難を免れた墓石があった。高さ40㌢ほどの円筒状である。手前の枯れた竹の切り株が垂直に立っているのでそれと比べると傾き加減が分かる。イタリアのピサの斜塔は傾斜角5.5度。傾きはだいたい同じかと思われるが、この墓石は円筒とは言え、バットのように上部に膨らみがついているので重心はピサの斜塔より上になる。つまり、その分鋭く傾いているということになる。

 じつはもう一つ。絶妙なバランスを保つ石積み(ケルン)が能登にある。輪島市の沖合い49㌔に浮かぶ舳倉(へぐら)島で、漁に出た漁船の目標にしようと、あるいは岩礁が多いため沖に沈んだ難破船の供養のためにと住民が石を積み上げつくった築山だ。この写真を撮影したのは14年ほど前。ご覧の通り傾きつつも日本海の風雨に耐えている造形芸術ではある。

 震災、風雨にさらされながらもバランスを保ち続けるこれらの石の造形を見て感じたことは一つ。人も同じではないか、と。順風満帆の人生というのはそうない。人間社会のストレスあるいは病魔にさいなまれながらもなんとかバンラスをとって耐えて立っている。倒れそうになりながらも倒れず自らをなんとか支えている。周囲の人をハラハラさせながらも耐えて立ち続ける。そんな情感と重ね合わせてみた。

 一つだけ誤解を避けるために言い添える。これは今回の被災者に向けたメッセージなどというものではない。被災は情感で語るものではない。

⇒31日(土)夜・金沢の天気   あめ

★破壊の時を刻んだ時計

★破壊の時を刻んだ時計

 余震の回数は減ったとはいえ、それでも28日午前8時8分に震度5弱の余震が能登地方にあった。そんな中、能登半島地震の被災地である輪島市門前町に支援ボランティアとして被災地に入った。

  余震があり危険として、これまで正式なボランティアの受け入れはなかった。いわば、きょう28日が初日である。午前8時に金沢を乗用車で出発し、寸断された能登有料道路を避けて下道を走行する。午前10時すぎに到着した。参加したのは私を含め金沢大学の職員、学生あわせて5人(男性3、女性2)。門前小学校で設置されたボランティアセンターで登録し、保険の手続きをする。センターの指示で家屋倒壊の被害がもっとも多かった道下(とうげ)地区に。何しろ25日の地震で50の家屋が全壊した。その後も余震で被害が拡大している。

  この地区の避難所ともなっている諸岡公民館の救援センターを訪ねる。ここで、被災した一人暮らしのあばあさん(72)宅の片付けの手伝いをするように指示があった。案内してくれたのはO・Nさん(52)。石川県の災害ボランティアコディネーターだが、関西に住んでいた12年前、阪神淡路大震災の被災を経験した。「大きいの二度体験しているから、もう驚かないよ」。ニヤリと笑った。

  道すがら全壊した家屋があちこちに。案内された家は外観はたいした被害がないように見えたが、内部はタンスや仏壇が倒れ、いわゆるメチャクチャな状態だった。おばあさんは「片付けたいとおもうんやけど、どこから手を付けてよいかわからん」と茫然とした様子。台所には割れた皿や茶碗が散乱し、タンスから引き出しが飛び出し、ガラス戸が割れ、さらに壁の石膏ボードがあちこちはがれて落ちている。もちろん住めないので、25日以来、避難所生活だ。預金通帳や印鑑、権利書などの貴重品は自分で探してもらい、そのほかのものを片付け、あるいは廃棄処分にする作業を手伝った。

  午前10時半ごろに始め、途中お昼休憩(弁当は持参)の1時間をはさんで15時00分に1軒目が終わった。続いても一人暮らしのおばあさん(75)宅での作業。自宅のほかに納屋が2つあり、幅3㍍ほどの農機具の棚が倒れるなど相当な被害だ。

  昔から「能登のトト楽」という言葉がある。妻がよく働くので亭主が楽をするという意味。亡き夫のあと家を守ってきた気丈なおばあさんたちだが、地震でメチャクチャになった自宅を片付けようにも、どこから手を付けてよいか自失茫然としていた。我々ボランティアがタンスや仏壇を起こして元通りにするだけで随分とヤル気を取り戻した。

  でも、住めるようにするためには屋根や柱、壁、戸など大掛かりな改修工事が必要となる。平均寿命まであと10数年。一人暮らしをするおばあさんたちに住宅投資をする余力はあるのだろうか。そんなことまで考えると、我々ボランティアの傍らで一生懸命に片付け作業をするおばあさんたちの姿がいとおしく思えた。

  作業を終え、諸岡公民館の避難所センターで作業の終了報告をして一日を終えた。それにしても、2軒の被災家屋で偶然発見したものがある。「25日午前9時42分」、一瞬の破壊の時間を刻んで針を止めた時計だった。

 ⇒28日(水)夜・金沢の天気  はれ

★倒壊と高齢化の被災地

★倒壊と高齢化の被災地

 きょう(26日)、能登半島地震の被災地を同僚の研究員と訪ねた。今後進むであろう復旧作業に金沢大学の学生ボランティアをどこにどう派遣すればよいのか、現地のボランティア受けれグループとの打ち合わせをするためだ。

  被害状況はマスメディアで紹介されているより、相当大きい。まず、能登への幹線である能登有料道路が陥没で一部の区間(内灘-柳田)しか使えない。さらに、支線の道路は陥没に加え、段差や「うねり」があり、速度は出せない。

   家屋被害が集中しているのは、輪島市門前町や河井町などだ。中でも、門前町道下(とうげ)集落では一気に50戸が全壊し、余震があるごとに、その数が増えている。また、液状化現象で道路の亀裂に噴き上げられた土砂が乾燥して、いたるところに砂ぼこりが舞っている。大事に至る火災は発生していない。

  門前町は江戸時代に北前船の寄港地として栄えたところ。その北前船資料館で有名な「角海家」が崩落寸前の状態だ。強い余震で倒壊の恐れがある。ほか、興禅寺など仏閣が全壊、総持寺祖院は灯篭が倒れたりの被害があったものの、本堂や庫裏などは無事だった。

   写真を撮りながら歩いていると、災害の後片付けをしているおばあさんがいた。この地区は高齢化率47%、冠婚葬祭などの共同体としての活動ができなくなるといわれる「集落集落」に近いづいているのだ。復旧には若いボランティアの手が必要だと実感した。

  26日夜、外の気温は4度。放射冷却現象で気温が下がっている。避難生活を送る人は輪島市門前町だけでざっと1500人。中には、家屋が倒壊し、畑のビニールハウスで寝泊りをしている家族もいる。この寒さはこたえているはず。

   旧・門前町役場で設置されたボランティアセンターでは余震が収まる見通しの28日から毎日200人規模のボランティアを金沢から受けれる段取りをしている。内容は、被災地での後片付けや避難所への食事の運搬、飲料水の高齢者宅デリバリーなどさまざまにある。学内のボランティア団体に対し活動参加の呼びかけを始めている。

 ⇒26日(月)夜・金沢の天気   はれ

☆能登地震ショック

☆能登地震ショック

 きょう25日9時42分の揺れは相当だった。震源は能登半島の輪島沖だが、金沢市内にある自宅(木造2階)でも相当の揺れを感じた。家全体が持ち上がるような、そんな揺れである。その時、私は横になっていたので特にそう感じたのかもしれない。この揺れで、我が家のホームエレベーターが止まった。私の実家(能登町)には電話がつながらない状態になっている。

 11時05分現在、私の実家(能登町)には電話、携帯電話ともにがつながらない。12時05分に金沢大学「能登半島 里山里海自然学校」の赤石大輔・常駐研究員とは携帯電話でつながった。「揺れは大きかったものの落下したり、家屋の損壊はない」という。いまから自然学校の方を見に行くということだった。

震度は石川県の七尾市、輪島市、穴水町で震度6強、志賀町や能登町などで震度6弱、珠洲市で震度5強を観測した。マグニチュードは7.1だった。石川県で震度5以上の地震を観測したのは、2000年6月の石川県西方沖地震(震度5弱、M6.2)以来。

 12時25分現在。輪島で52歳の女性1人が死亡、40人が病院に運ばれている、というニュースが流れている。NHKのテレビ画像では、市内の重蔵(じゅうぞう)神社の鳥居(石柱)が倒壊していた。また、珠洲市と輪島市の境にある「垂水(たるみ)の滝」周辺では山の中腹部から道路に落石があった。巨石のようだった。道路も陥没している。復旧にも時間がかかる。これから春の観光シーズン、観光産業に与える影響は甚大だろう。

★能登の地震と津波

★能登の地震と津波

 30年ほども前に読んだ小松左京のSF小説「日本沈没」では、ユーラシアプレートに乗っている能登半島など日本列島は太平洋プレートに押され沈没するが、最後に沈むのが能登半島という設定だったと記憶している。そんな印象から、能登は地震の少ない地域だと、思っていた。ところが、今回は2004年10月23日の新潟県中越地震(震度7)に次ぐ、震度6強である。新潟では59人が死亡、4800人以上が負傷し、新幹線が脱線した。今回の能登でも庭で倒れた灯篭の下敷きになって52歳の女性1人が亡くなっている。

  能登では1993年2月7日にも震度5の地震があった。22時27分、能登半島北方沖を震源とするマグニチュード6.6の地震が発生。輪島で震度5、金沢震度4を観測した。輪島での震度5は観測史上初めて、金沢の震度4は1948年の福井地震以来であった。震源地に近い珠洲市では場所によって震度6に達していた可能性があり、被害は同市を中心に発生した。裏山の崩土による神社の本殿・拝殿の倒壊のほか、住宅の損壊22棟、木ノ浦トンネルの崩落など道路被害141ヵ所、陥没した道路へ車が突っ込んで運転者がケガをしたのをはじめ屋内で29人が転倒物や落下物によって負傷したが死者はなかった。(「能登半島沖地震被害状況調査報告」=1993年2月11日調査・金沢大学理学部 河野芳輝・石渡明=より)

 このほか、私自身、津波を体験している。忘れもしない1983年5月26日正午ごろ、秋田沖が震源の日本海中部沖地震が起きた。確か、輪島では震度そのもは3だったが、猛烈な津波がその後に押し寄せた。高さ数㍍の波が海上を滑って走るように向かってくるのである。ご覧の写真は当時の新聞記事(北國新聞)だ。当時、私は輪島で新聞記者の支局員だった。輪島港が湾内に大きな渦が出来て、写真のように漁船同士が衝突し、沈没しかかっている船から乗組員を助け上げているアングル。この写真は新聞の一面で掲載された。現場に近づいて、数回シャッターを切って、すぐ逃げた。大波が間近に見えていたからである。

⇒25日(日)午後・金沢の天気  くもり

★「ベト7」のこと(下)

★「ベト7」のこと(下)

  「ヒトはどこから来て、どこへ行くのか」というフレーズは、これまでお会いした中で霊長類学者の河合雅雄氏から、そして動物行動学者の日高敏隆氏からご教示いただいた言葉である。それぞれの研究の立場からのアプローチは異にするものの、この先、人類はどこに向かっていくのか、進化か退化といった遠大な命題が仕込まれたフレーズなのである。

  ヒトは都市化する動物であるとすれば地域の過疎化は当然至極、流れに棹をさす地域再生に向けた研究自体は無駄である。しかし、商品経済にほだされて、都会へと流れ生きる現代人の姿がヒトの一時的な迷いであるとすれば、自然と共生しながら生きようとするヒトを地域に招待し応援することは有意義である。私なりにこの命題を自問自答していたとき、これまで聴こうとしなかった7番の第1楽章と第2楽章に耳を傾けたみた。第2楽章の短調の哀愁的な響きにヒトの営みの深淵を感じ、目頭が熱くなるほどの感動を得た。そして、ベートーベンの曲想の壮大なスケールに気づき、7番の主題は「ヒトはどこから来て、どこへ行くのか」のテーマそのものではないのか、と考えるようになった。ここから「つまみ食い」の愚かさを知り、第1楽章から第4楽章までをトータルで聴くようになった。1月上旬のことだった。

  2月下旬、研究費の申請を終えて、自宅に帰り、ある意味で孤独な戦いを精神的に支えてくれたベト7に、そして指揮した岩城さんとオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)に感謝した。

  私は音楽的な教養や才能を持ち合わせてはいない。ネットで調べると、ベートーベンは5番運命を1808年に完成させ、スランプに入り、4年後に7番を完成させた。42歳のとき。初演は1813年12月。ナポレオンに抗したドイツ解放戦争で負傷した兵士のための義援金調達のチャリティーコンサート(ウィーン大学講堂)で自ら指揮を執った、という。戦時中なので聴衆の士気を高めるテンポのよさ、未来へと突き進む確信とっいったものが当然込められていた。そして、静かに心を振るわせる前段の葬送風の響きはこの戦争で亡くなった者たちへの弔い、あるいは戦争の理不尽さを嘆き悲しむメッセージかもしれないとも想像する。

  先日、学生の携帯電話の着メロで7番が鳴っているのを聴いた。テレビドラマの「のだめカンタービレ」で人気だとか。7番はいろいろなCDが出ている。私だったら、岩城指揮のOEKのベト7を推薦する。1番から9番までを2度も連続演奏するほどにベートーベンを愛した指揮者の演奏には「違い」というものあるからだ。

 ⇒11日(日)午後・金沢の天気   雪

☆「べト7」のこと(上)

☆「べト7」のこと(上)

 ベートーベンの交響曲第7番のことをオーケストラの奏者たちは「ベト7(べとしち)」と読んでいる。そのベト7を去年12月中ごろから、愛用のICレコーダーにダウンロードして毎日聴いている。通勤の徒歩、バスの中、自宅で聴いているから1日に3回は聴く。ということはもう300回ぐらいか。実はいまも聴いている。はまり込んでいるのである。

  聴いているベト7は2002年9月にオーケストラ・アンサンブル金沢が石川県立音楽堂コンサートホールで録音したものだ。指揮者は岩城宏之さん(故人)。はまり込んだきっかけは、岩城さんがベートーベンのすべての交響曲を一晩で演奏したコンサート(2004年12月31日-05年1月1日・東京文化会館)での言葉を思い出したからだ。演奏会を仕掛けた三枝成彰さんとのトークの中で岩城さんはこんな風に話した。「ベートーベンの1番から9番はすべてホームラン。3番、5番、7番、9番は場外ホームランだね」「5番は運命、9番は合唱付だけど、7番には題名がない。でも、7番にはリズム感と同時に深さを感じる。一番好きなのは7番」と。

  そのトークを耳にしたころ、7番は第4楽章の狂気乱舞するような強いリズム感ぐらいの印象しかなかった。が、去年の12月、文部科学省への研究費の申請書類で宿題を背負い、行き詰ったときがあった。苦しさ紛れに、ふと岩城さんの言葉を思い出し、岩城さんが指揮した7番のCDを買い求めた。狂喜乱舞するリズム感に救いを求めたのである。だから、当初は、葬送風の暗い響きがある第1楽章と第2楽章を飛ばして、第3楽章と第4楽章をダウンロードして聴いていた。効果はあった。書類の作成作業はテンポよく進みアイデアも湧く感じで、「ベト7のおかげで何とか乗り切った」とも思った。

  ところが、これが打ちのめされるのである。実は申請書類のテーマは大学がかかわる奥能登の地域再生である。奥能登に何度も足を運び、現地でヒアリングをした。奥能登は過疎・高齢化が進む。ある古老がこう言う。「この集落はそのうち誰もいなくなる。今のうちから(集落の)墓をまとめて一つにして、最後の人が手を合わせくれればよい。一村一墓だよ」と。

  その帰り道、ふと奥まった道に入ると、廃村となった集落があった。崩れ落ちた屋根の民家、草木が生い茂り原野化するかつての田畑がそこにあった。その光景に立ち尽くしてしまった。おそらく数百年、千年にもわたって先祖が心血注いで開墾したであろう田畑があっけなく原野に戻ろうとしている。そこでの人の営みや文化はおろか、その痕跡さえも消えようとしている。おそらく子や孫は都会に出たまま帰ってこない。親を引き取ったか、親が亡くなって廃村となった。これが過疎が行き着く先である。

  それでは、その地を捨てた子孫はいま都会で幸せに暮らしているのだろうか。さらにその子や孫に「私たちはどこから来たの」と聞かれたら、「それじゃ先祖の地へ行ってみようか」と言えるのだろうか。その廃村の光景をその子や孫に見せるには躊躇するだろう。暗鬱になった。そのとき思い出したのは「ヒトはどこから来て、どこへ行くのか」というフレーズだった。その打ちのめされた気分をなんとか救ってくれたのもベト7だった。(つづく)

⇒10日(土)夜・金沢の天気   あめ                

★気になるニュース3題

★気になるニュース3題

 3月に入った。季節の変わり目である。こんなときに面白い、奇妙な、驚くニュースが飛び込んでくるものだ。

  ミツバチの集団失踪が相次いでいる。アメリカでのこと。全米養蜂協会によると、元気だったハチが翌朝に巣箱に戻らないまま数匹を残して消える現象は、昨年の10月あたりから報告され始め、フロリダ州など24州で確認された。しかし、ハチの失踪数に見合うだけの死骸は行動圏で確認されないケースが多く、失踪したのか死んだのかも完全には特定できないという。そんな中、原因の一つとされているのが、養蜂業者の減少で、みつの採集などの作業で過度のノルマを課せられたことによる“過労死説”だ。国家養蜂局(NHB)が緊急調査に乗り出した。ハチを介した受粉に依存するアーモンドやブルーベリーといった140億ドル(約1兆6000億円)規模の農作物への深刻な影響が懸念され始めた。(3月1日・産経新聞インターネット版より)

  「発掘!あるある大事典Ⅱ」のデータ捏造問題の続報。2月28日、総務省へ再報告書を提出した後、関テレの千草社長が記者会見した。再報告書をまとめるにあたって、社員220人以上が作業延べ1860時間かけ520回の番組をすべてチェックした。さらに調査が必要な回に関しては社員20人が延べ4000時間以上をかけて精査した。疑問点などを洗い出し、外部の調査委員会に提出し、検討してもらうのだという(3月1日付・朝日新聞より)。ここからは私見が入る。ざっと6000時間をかけた社内調査だが、むしろダイエットの専門家による調査が必要ではないのか。外部調査委員会にしても5人の委員の職業構成は大学助教授(メディア論)、弁護士、大学大学院教授(メディア法)、メディア・プロデューサー、作家であり、医学的な見地から述べる人がいない。最終的な報告書をまとめ上げるにしてはバランスが悪い。

  江戸時代に加賀藩主に仕えた料理人の史料を読み解いている富山短大の陶智子(すえ・ともこ)助教授が2月28日に金沢市内で講演をした。その講演内容の紹介記事(3月1日付・北陸中日新聞)。17世紀の前田家の料理人、舟木伝蔵が子孫にレシピや食材を伝えるために多数の文書を残した。その分析から、陶氏は「金沢は北前船がもたらした昆布でだしを取る文化だが、前田家は赤いみそを多く使い、尾張に近い味付けをしていた」と。藩祖の利家は赤みそ文化の尾張国愛知郡(現・名古屋市中川区)の生まれ。味覚というのは、その後の前田家ではDNAのように引きつがれていたようだ。いまのご当主は18代目、関東に住んでおられるが、許されれば、「いまでも赤みそですか」とたずねてみたいものである。食の文化史の事例研究になりそうだ。

 ⇒1日(木)夜・金沢の天気    はれ