#金沢城

☆桜かすみに浮かぶ金沢城  「能登さくら駅」満開トンネルを列車がくぐる

☆桜かすみに浮かぶ金沢城  「能登さくら駅」満開トンネルを列車がくぐる

これを「霞(かすみ)たなびく春」と言うのだろう。きょうの金沢は朝から市街地や野山の風景がぼんやりとかすんでいた。きのう訪れた金沢城石川門を車で再度向かう。すると、車のフロントガラスに微細な水分が付着する。昨夜は雷雨だったので、霞はその余韻なのだろうか。金沢城石川門に到着すると、満開のソメイヨシノと金沢城もかすんで見える=写真・上、午前8時ごろ撮影=。「桜霞(さくらかすみ)」という言葉がある。桜が霞のように見える風景のことを言うが、この風景はまさに霞と満開の桜が溶け込んで、お城が浮かんで見える。幻想的な水墨画のようなイメージだ。

この後、さらに満開桜を鑑賞するために能登に向かう。金沢の桜は散り始めだが、能登の桜はいまが満開の頃だ。2時間余りで目的地に到着した。半島の北・奥能登の穴水町にある「のと鉄道」能登鹿島駅。桜の観光名所で知られ、「能登さくら駅」の愛称で親しまれている。正確に数えたわけではないが、180人ほどが見学に来ていた。

無人駅のホームに入ると、線路を囲むようにソメイヨシノが咲いている。説明の看板を読むと、昭和7年(1932)に鉄道の開通を祝って桜が植えられた。それ以降も鉄道会社や地域の人たちが少しずつ植え、いまでは100本余りのソメイヨシノやシダレ桜が構内を彩っている。

列車が到着する信号音が聞こえた。午前10時40分、上下の列車2本が到着した。待ち構えていたアマチュアカメラマンたちが押し寄せ、撮影が始まった。それぞれのアングルで満開の桜のトンネルと列車を撮っている。桜のトンネルをくぐる列車のようで、じつに絵になる光景だ。

絵になるのは駅だけではない。海岸線がすぐ近くにあり、桜の並木の向こうに見える穴水湾の海も桜色に染まっているように見える。さらに向こうを眺めるとコバルトブルーの海と桜が絶妙な景色を醸し出す。天気にも恵まれ、能登の桜と海を楽しむことができた。

⇒11日(金)午後・金沢の天気    くもり

★「天空の城」のように夜桜に浮かぶ金沢城 世の騒々しさとは別世界の風景

★「天空の城」のように夜桜に浮かぶ金沢城 世の騒々しさとは別世界の風景

きのうは夜桜を見学に金沢城に出かけた。前回(きのう)ブログでは午前8時ごろに撮影した金沢城石川門の櫓と桜だったが、同じ場所の夜の風景はまったく異なる=写真=。撮影は午後7時ごろだったが、ライトアップされた金沢城が桜の満開の上に浮かんで見え、まるでアニメ映画『天空の城ラピュタ』のようなイメージだ。そして、夜の見物客が昼間より圧倒的に多い。金沢城石川門と隣接する兼六園の観桜期における無料開園は夜間の見学(午後9時30分まで)も可能となることから、夜の兼六園を見るために訪れる市民や観光客が多いのだろう。ちなみに、無料開園は当初4月2日から8日までだったが、ソメイヨシノの満開が遅れたことから今月13日まで延長となっている。

話は変わる。おさらいになるが、アメリカのトランプ政権による相互関税は、カナダとメキシコを除くほぼ全ての国・地域に適用する一律10%の基本税率と、そのうちアメリカの貿易赤字が大きい約60ヵ国・地域に適用する上乗せ税率で構成される。相互関税は日本時間の9日午後1時すぎに発動した。ところが、発動からわずか13時間で、トランプ大統領は相互関税の措置を90日間停止すると発表した(メディア各社の報道)。

停止措置の対象となったのは、相互関税に対する報復措置をとらずに問題の解決に向けて協議を要請してきた日本などの国・地域に対して。ただし、一律10%の基本税率は実施される。発動したばかりの相互関税を90日間停止する判断の背景にいったい何が起きているのか。

「Bloomberg」web版日本語(10日付)などによると、この背景にあるのは、株式や通貨に加えて安全資産とされている国債まで売られる「トリプル安」がアメリカで起きているようだ。米国債はもともと安全資産とされ、経済危機時には世界マネーが入り込んで価格は上がる(国債利回りは下落する)。ところがこのところ売却のスピードが加速していてる。中国が関税への報復措置として米国債を売却しているとの可能性に言及する専門家の分析を紹介している。トランプ政権は、中国には追加関税を125%に引き上げると発表していて、両国のあいだの応酬はさらに激しさを増していくのだろう。

「トランプ関税」騒動は止まない。貿易戦争だけでなく、先のトリプル安のように株式や通貨、国債までもが攻撃材料となり、金融戦争へと展開していくのか。前回ブログでも述べた、1930年6月にアメリカが制定した高関税を導入する「スムート・ホーリー法」が世界貿易を停滞させ、世界恐慌をさらに拡大するという逆効果を招いた。その二の舞となるのか。

⇒10日(木)夜・金沢の天気     あめ

☆金沢名所めぐり~金沢城は石垣の博物館~

☆金沢名所めぐり~金沢城は石垣の博物館~

   兼六園と道路を隔てて接する金沢城。城壁にはさまざまな石があって、緻密(ちみつ)にそしてさまざまな技法で積み上げていることが分かる。専門の業者や研究者からは、「石垣の博物館」と評されている。

   インバウンド観光のツアーのガイドが金沢城の石垣を指さして、「加賀百万石」を「カガ・ワン・ミリオン・ストーンズ」と直訳しているとこのブログでも紹介したことがある。「百万石」はコメの量を示す尺貫法なのだが、金沢城には百万個の石があると説明されると、妙に納得する。

  石垣の城郭は城をぐるりと囲むように広がる。中でも壮観なのは菱櫓(ひしやぐら)、五十間長屋(ごじっけんながや)、橋爪門続櫓(はしづめもんつづきやぐら)の石垣=写真・上=だ。「打ち込みハギ積み」と呼ばれる技法で、形や大きさをそろえた割石を用いて積み上げたもの。門の入り口などの石垣は「切り込みハギ積み」と称される、石同士の接合部分を隙間なく加工して積み上げる技法。その中に六角形の亀甲石がある=写真・中=。水に親しむカメを表現したのもので、城の防火のげん担ぎの意味を込めた石といわれている。

   石川門近くの石垣は春の桜の季節になると、絶妙なコントラストを描く=写真・下=。無機質な石垣の鋭角的なフォルムを優しく植物の桜が覆う。ただそれだけのアングルなのだが、それはそれで見方によっては美のフォルムのように思えるから不思議だ。

   金沢城の石垣の石は8㌔ほど離れた戸室山の周辺から運ばれた安山岩だ。金沢では「戸室石(とむろいし)」として知られる。赤味を帯びた石は「赤戸室」、青味を帯びたものは「青戸室」と称される。戸室山で発掘した石を運んだルートを石引(いしびき)と言い、現在でも「石引町」としてその名前は残っている。

   その石を運んだルートに「ダゴザカ」という坂道がある。漢字では「団子坂」と書く。傾斜は20度ほどだろうか、それが200㍍ほど続く。この坂を上り切るとあとはゆるやかな下りになる。加賀藩三代藩主の前田利常(1594-1658)は戸室の石切現場を見回った後、この坂で運搬の労役者たちにダンゴを振舞って労をねきらったとの言い伝えからダゴザカと名が付いた。利常は江戸の殿中で鼻毛をのばし、滑稽(こっけい)を装って「謀反の意なし」を幕府にアピールし、加賀百万石の基礎を築いた人物だった。現場感覚のある苦労人だったのかもしれない。

⇒3日(金)夜・金沢の天気    はれ

★「加賀百万石」レトロなキャッチいつまで続けられるか

★「加賀百万石」レトロなキャッチいつまで続けられるか

   金沢では「加賀百万石」は聞き慣れた言葉だが、違和感のある使い方があることを知ったのは、金沢大学で教員をしていたころだ。インドネシアからの留学生がこんな話をしてくれた。

   留学生は、兼六園を散策に行き、そのときインバウンド観光客の団体を案内していた日本人のガイドが「カガ・ワン・ミリオン・ストーンズ」と言っていたのを聞いて、「加賀百万石」のことかとガイドの案内に耳をそばだてた。そのとき、ガイドは金沢城の石垣を指さして説明していたので、とても腑に落ちたという。「百万個もの石を使って、お城を造り、そして金沢に用水をはりめぐらせた加賀のお殿様はとても有能な方だったのですね」と留学生は感心していた。

   ガイドは「加賀百万石」を「カガ・ワン・ミリオン・ストーンズ」と直訳していたのだ。話を聞いて、「それは誤解だよ」と留学生に説明した。「石(こく)」はコメの容量(1石は180㍑分)を意味し、ストーンではない、と。きょとんとした顔つきで留学生は聞いていたが、なんとか理解はしてくれたようだった。それにしても、現代に通用しない「百万石」という言葉を使ってどうするのか。日本人でも理解できない世代が増えているのではないか。ましてや、インバウンド観光では誤解を与えるだけではないか。

   ところが、石川県は「百万石」を多用している。ことし秋に開催される「第38回国民文化祭」(10月15日-11月26日)の名称は「いしかわ百万石文化祭2023」と銘打っている。インバウンド観光の寄港地の一つでもある金沢港クル-ズターミナルの愛称を「ひゃくまんごくマリンテラス」、新しく完成させた県立図書館を「百万石ビブリオバウム」としている。

   そもそも石川県人はどれほど「百万石」を意識しているだろうか。石川県には金沢、加賀、能登の3地区があり、「百万石」を名乗ったり、使ったりしているのは金沢だけではないだろうか。むしろ、加賀や能登の人たちには、かつての栄華をいつまで誇っているのかと揶揄する向きもある。一方で、加賀友禅や金沢蒔絵といった伝統工芸には雅(みやび)が漂い、加賀百万石の文化をイメージさせる。「加賀百万石」というレトロなキャッチフレーズはいつまで続けられるか。

⇒11日(土)夜・金沢の天気   くもり

☆熊本地震から6年、城下町の被災現場に金沢を重ね思う

☆熊本地震から6年、城下町の被災現場に金沢を重ね思う

   きょうは「4月14日」。6年前の2016年のこの日、熊本地方を震源とする最大震度7の地震が発生した。その28時間後にも再び震度7の地震が起きた。2度の激震で、熊本のシンボルでもある熊本城は天守閣や石垣などが崩れた。震災から6ヵ月後の10月8日に被災地を訪ねた。

   地震の被災地をこれまで何度か訪れている。そのきっかけは新聞記者時代に体験した津波だった。1983年5月26日に秋田沖を震源とする日本海中部沖地震が起きた。輪島支局に勤務していて、震度3の揺れだった。津波が日本海沿岸に押し寄せた。輪島漁港に大きな渦がまき、漁船が沈没した。その様子をカメラのシャッターを1回だけ切って高台に避難した。足元に波が来てさらわれそうになったからだ。それ以降、被災地を訪れ、被害の状況をこの目で確かめるようにしている。

   新幹線熊本駅に到着して向かったのは熊本城だった。当時テレビで熊本城の被災の様子が報じられ、「飯田丸五階櫓(やぐら)」が震災復興のシンボルにもなっていた。石垣が崩れるなどの恐れから城の大部分は立ち入り禁止区域になっていて、飯田丸五階櫓を見学することはできなかった。ボランティアの説明によると、櫓の重さは35㌧で、震災後しばらくはその半分の重量を一本足の石垣が支えていた=写真、熊本市役所公式サイトより=。まさに「奇跡の一本石垣」だった。崩れ落ちた10万個にもおよぶ石垣を元に戻す復旧作業が行われていた。

   熊本を訪れたこの日、阿蘇山の中岳で大噴火があり、36年ぶりの「爆発的噴火」だった。熊本城の被災状況を見た後、チャーターしたタクシーで阿蘇山行きを検討したが、熊本市内と阿蘇を結ぶ国道57号は4月の地震で寸断されていて、迂回路は慢性的な交通渋滞になっていた。噴火で渋滞に拍車がかかっていることが予測され、断念せざるを得なかった。次ぎに益城町に向かった。震度7で揺れた益城町では3万3千人の町全体で5千棟の建物が全半壊した。道路添いに倒壊家屋があちこちにあり、痛々しい街の様子が間近に見えた。そして、田んぼには断層の亀裂が走っていた。

   熊本城、そして益城町の当時の様子を思い出して、1799年6月29日に起きた金沢地震の被害を想像することがある。言い伝えでは、10万人の城下町で5千余りの住宅や土蔵が全半壊し、金沢城の石垣が崩れ落ちたとされる。まさに、熊本で見た被災地の光景だ。金沢市の公式サイトに掲載されている「平成24年度(2012)被害想定調査結果」によると、金沢の平野部を走る森本・富樫断層帯で中心部直下の地震が起きた場合、マグニチュードは 7.2、最大で震度7、建物被害は3万1700棟を予測している。

⇒14日(木)午後・金沢の天気    くもり時々あめ