#記録的な大雨

☆奥能登の「記録的な大雨」から半年 輪島の「流木ダム」橋その後

☆奥能登の「記録的な大雨」から半年 輪島の「流木ダム」橋その後

48時間で498㍉という去年9月の奥能登の記録的な大雨からきょう21日で半年となった。この豪雨災害で16人が亡くなり、流されるなど住宅被害は1790棟に上っている。豪雨災害の被災者の中には去年元日の能登半島地震にも見舞われた、いわゆる二重被災した人も多い。きょう輪島市をめぐり、被災地の現状や仮設住宅の様子を見てきた。

川の氾濫で14歳の女子中学生が流され亡くなった輪島市久手川町の塚田川周辺。被災現場を見たのは翌日の22日午後だった。山間地からの流木が河川の下流で橋脚などに当たり、積みあがって「ダム」のような状態になっていた=写真・上=。これが原因で橋の周囲の家々に水害をもたらした。元日の地震で山の地盤が緩み、豪雨で大量の流木が流され、その流木がさらに人家に水害を拡大させた。そんな被災の連鎖が見える現場だった。

いまの現地の様子は、橋の周辺の流木などは片付けられているものの=写真・中=、まだ一部で流木が積み上がっている現場もあった。一帯は地震で断水し、仮設の水道管が整備されたが、豪雨で水道管が流され再び断水となった。また、電気が一部で通っていないことから、仮設住宅に身を寄せている住民も多いようだ。

石川県が整備していた地震被害の仮設住宅6882戸は入居を終えている。豪雨の仮設住宅として286戸を整備し、そのうちの52戸はすでに入居。きょうは災害が大きかった輪島市杉平町で整備されていた仮設住宅104戸が完成=写真・下=、入居を待ちわびた人たちが家具などを運び入れていた。残り130戸も来月4日までに完成する予定で、輪島市では来月13日までに指定避難所4ヵ所をすべて閉鎖することにしている。

地震と豪雨の二重災害となった被災地では、全半壊した住宅がいまも多く残っている。解体業者とともに被災家屋の後始末をする人たちの姿も見かけた。

⇒21日(金)夜・金沢の天気    はれ

☆震度7・記録的大雨・最強寒波 3災の能登冬路をめぐる~5~

☆震度7・記録的大雨・最強寒波 3災の能登冬路をめぐる~5~

  震度7の地震、記録的な大雨、そして今月4日から北陸に吹き荒れている最強・最長の寒波。 3災の能登半島を3日間(今月6-8日)かけてめぐり、「あれはどうなったのか」と気になっていた場所に行った。NHK大河ドラマ『利家とまつ』(2002年放送)で話題を呼んだ、加賀百万石の礎を築いた前田利家の正室まつの遺灰がまつられている菩提寺「芳春院」。寺がある輪島市門前町は震度7の強烈な揺れに見舞われ、多くの建物が倒壊し、芳春院も全壊した。

     「利家とまつ」ゆかりの寺院 再建は緒に就くのか

  震災後に何度かこの地を訪ねたが、倒壊現場はまったく手が付けられていなかった。今回行くとすっかり片付いていた。当初、宗教法人に対しては公費解体が適用されないのかと思っていたが、宗教法人が所有する建物も全壊および半壊の建物は災害廃棄物として公費解体の対象だった(2024年1月・環境省「公費解体・撤去マニュアル第1版」)。そして、能登半島地震は「特定非常災害」に指定されたので、神社や仏閣などの場合でも自治体が発行する被災証明書があれば、法人が解体しても、その費用は補助の対象となる。そうした情報は震災後の混乱の中で交錯したのだろう。芳春院が、野ざらしとなっていた釈迦三尊や達磨大師などの本尊を救い出したのは5月、公費解体を終えたのは10月だった。(※写真・上は、公費解体を終えた現在の芳春院と、解体を待つ芳春院=去年7月6日撮影)

  公費解体は終えたが、この先さらに難問がある。再建への道筋だ。門前地区では住民の大半が仮設住宅で暮らしていて、自宅の再建もままならない状態という。そのような中で檀家を集めて、寺院の再建計画はスムーズに進むだろうか。芳春院に隣接する曹洞宗の大本山・総持寺祖院は山門(国文化財)=写真・下=などは無事だったものの、33㍍の廊下「禅悦廊」(同)が崩れ、一部はブルーシートで覆われていた。

  芳春院や総持寺だけではない。能登では寺社が相当に傷んでいる。能登で一番多い寺院は浄土真宗で、真宗大谷派東本願寺のまとめ(去年6月19日時点)によると、能登地域にある寺院353ヵ寺のうち、被害があったのは331ヵ寺で、そのうち本堂の倒壊など大規模被害は72ヵ寺、庫裏は69ヵ寺に上る。これに他宗派の寺院や神社も加えると相当な数に及ぶだろう。

  能登の寺院や神社は地域コミュニティーの中心の一つでもある。寺で毎月28日に「お講」が開かれる。浄土真宗の宗祖とされる親鸞上人の月命日にあたり、地域の年寄り衆や子どもたちが集い、お経の後に山菜や海藻の精進料理が供される。人々は会話を交わし、情報交換の場ともなっている。その寺でのコミュニティーが地震で今も絶たれた状態になっている。また、奥能登の伝統的なキリコ祭りは地域の神社が拠点となって、キリコや神輿が街中を練り歩く。震災で神社が損傷し、祭りを断念した地域も多い。
  
  石川県は国の支援を受けて設置した「復興基金」(総額540億円)の配分について県内19市町と協議を重ね、被災者の暮らしやコミュニティー施設の再建など27の事業を盛り込んだ活用方針を決定している。今月5日の会議では新年度に基金から80億円の拠出を決めている。伝統の祭りなど通じて地域のコミュニティー施設の役割を果たしてきた神社や仏閣の再建には最大1200万円を補助するとしている。寺社の再建はようやく緒に就くのか。
 
⇒11日(火)夜・金沢の天気     くもり時々はれ  

★震度7・記録的大雨・最強寒波 3災の能登冬路をめぐる~4~

★震度7・記録的大雨・最強寒波 3災の能登冬路をめぐる~4~

  寒波襲来からきょうで1週間となる。能登の七尾市では43㌢、金沢で27㌢、加賀市で78㌢の積雪(午前11時現在)となっている。地元メディアの報道によると、雪による事故も相次いでいる。加賀市では除雪中に自宅脇の側溝に転落して70代男性が死亡、金沢市でも除雪中や歩行中での転倒で負傷する事故が起きている。また、金沢と能登を結ぶ自動車専用道「のと里山海道」ではけさ雪によるスリップで車が横転し、一部区間で3時間、通行止めとなった。金沢地方気象台の予報によると、冬型の気圧配置は徐々に緩むものの雪はあす11日にかけて続く見込みのようだ。

     まるでスキーのジャンプ台・・能登島大橋の雪景色

  去年元日の震度7の地震、48時間で498㍉という9月の記録的な大雨、そして今月4日から北陸に吹き荒れている最強・最長の寒波。 「3災」ともいえる能登半島を3日間(今月6-8日)かけてめぐり、これまで見たことのない光景を目にすることあった。半島の中ほどに位置する七尾市の能登島大橋。かつて島だった能登島を1982年に長さ1㌔、全線2車線の橋で結んだ。これまで能登島を何度も訪れているが、冬場は今回が初めて。積雪の大橋を走ると、まるでスキーのジャンプ台を滑っているような感覚になった=写真・上=。もちろん、スキーのように「滑降」はできなのでゆっくり運転で。

  能登島を結ぶもう一本の橋「ツインブリッジのと」(620㍍、中能登農道橋)は地震で橋桁が損傷し、さらに道路との間に40㌢ほどの段差ができ、現在も通行ができなくなっている。能登島には「のとじま水族館」や「ガラス美術館」などがあり、アクセスの上からもツインブリッジの復旧が待たれる。

  そして、「あれ、櫓(やぐら)に人が」と一瞬思ったのが、七尾市から北上した穴水町の海岸沿いで見た「ボラ待ち櫓(やぐら)」だった=写真・下=。穴水湾では櫓に漁師が上って、ボラなど魚群が湾に入って来るのを見つけて、「ボラが来た」と叫ぶと、周囲の人が集まって海に仕掛けた漁網を引き上げるという漁法があった。現在その漁法はないが、観光施設としてボラ待ち櫓が湾内に何ヵ所か設置されている。その一つに人影のようなものが見えて、「櫓に人が」と思った次第。

  ボラ待ち櫓が観光名所になったのも歴史的なエピソードがある。明治22年(1889)5月、東京に滞在していたアメリカの天文学者パーシバル・ローエル(1855-1916)が能登半島の地形とNOTOという地名の語感に惹(ひ)かれ、鉄道や人力車を乗り継いで当地にやってきた。そのときボラ待ち櫓に登り、「ここは、フランスの小説でも読んでおればいい場所」と、後に著した「NOTO: An Unexplored Corner of Japan」(1891)で記した。好奇心の固まりのようなローエルがその後、アメリカに帰国しアリゾナ州に天文台を創設し、火星の研究に没頭する。火星の表面に見える細線状のものは運河であり、火星には高等生物が存在すると唱えた。その後、アメリカでは地球外の生命体への関心度が高まり、SFブームが起こる。

  ローエル研究者の中には能登の海から火星の運河を着想したのではないかと、実際にボラ待ち櫓を見学に来たケースもあった。穴水町には「米国人天文学者 パーシバル・ローエル上陸の地」と刻まれた石碑が立っている。

⇒10日(月)夜・金沢の天気   ゆき

☆震度7・記録的大雨・最強寒波 3災の能登冬路をめぐる~3~

☆震度7・記録的大雨・最強寒波 3災の能登冬路をめぐる~3~

  最強寒波の影響で大雪となっている能登では、震災で全半壊した家屋の公費解体が一時ストップしていると前回ブログで述べた。では、公費解体そのものはどこまで進んでいるのだろうか。今月6日発表した石川県のまとめによると、去年元日の能登地震と9月の豪雨で被災した家屋のうち公費解体が見込まれる家屋は3万9235棟、そのうち1月末時点で1万7112棟で解体作業を終えていて、43.6%が完了したことなる。公費解体は持ち主の申請によるもので、申請数は1月末時点で3万6304棟に上る。半壊と判定されても修繕すれば住み続けられるも家屋もあり、県では解体を申請しても申し出があれば留保し取り消しもできるとしている。

    大雪にも威風堂々とした「九六」のたたずまい

  奥能登では大きくがっしりとした住家を建てる伝統がある。その大きな家は「九六(くろく)」と呼ばれる。間口9間(約16㍍)奥行き6間(約11㍍)の大きな家だ。黒瓦と白壁、威風堂々としたたたずまい。九六を建てるのが男の甲斐性(かいしょう)とする風土もあり、「九六の意地」とも称される。今回の大雪で九六はどうなっているのか、能登町に向かった。

  現地に到着したの7日午後2時ごろ。車で走っていて、この地域はとくに降雪量が多いと感じた。地名は「神和住(かみわずみ)」。日本人として初めて全米オープン(1973年)で3回戦へ進み、日本プロテニス界 のパイオニアと呼ばれた神和住純氏の故郷でもある。九六の家を眺めると、屋根雪で40㌢ほど積もり、屋根から落下した雪が玄関前に積み重なっていた=写真・上=。10年ほど前の夏に学生たちを連れて能登スタディアツアーを企画し、この家を訪ねたことがある。畳にして32畳の広い座敷に案内された。能登では結婚式や葬儀を自宅で行う。家の大きさと比例して太い柱が家を支えていた。家の主に「ところでエアコンを使わないのですか」と尋ねると、「夏は風が通るので使わない。冬は石油ストーブがあればそれで十分。エアコンはいらない」とのことだった。それにしても大きい。初めての人は大寺院と見間違えするかもしれない。

  能登をめぐり目に付いたのが、裏山が崩れ倒壊した家屋が多いことだ。建物の構造はしっかりしていて揺れには耐えたが、裏山のがけ崩れで横倒しになるケースだ。元日の地震で裏山の地盤が緩み、9月の豪雨でがけ崩れ起きた、という話もよく聞いた。能登には中山間地の集落が多い。平地は水田として活用し、家屋は山のふもとで建てる。このケースは能登だけでなく、全国の中山間地であればどこでも起きることではないだろうか。(※写真・下は、裏山のがけ崩れで倒壊した珠洲市の民家=撮影・2024年1月30日)

⇒9日(日)午後・金沢の天気    ゆき

★震度7・記録的大雨・最強寒波 3災の能登冬路をめぐる~2~

★震度7・記録的大雨・最強寒波 3災の能登冬路をめぐる~2~

  今季で最強で最長の寒波が流れ込んで、気象庁はきのう夜、石川県に「顕著な大雪に関する情報」を出した。きょう夕方までの積雪は能登の七尾市で42㌢、奥能登の珠洲市で40㌢、金沢市で32㌢となっている。きのう能登半島の尖端、珠洲市をめぐった。気象庁と国土交通省は会見(3日)で、被災地では雪の重みによる建物の倒壊に注意が必要と呼びかけていたが、現地ではさらに難題もあるようだ。

    高波に向かってゴジラが吠える、ような光景

  珠洲市の海岸沿いの名勝「見附島」の近くある仮設住宅は入り口に布シートが張られていた=写真・上=。この仮設住宅を監修したのはあの世界的な建築設計士として知られる坂茂氏だ。布シートはおそらく出入り口が北向きであることから、冬場の強風を少しでも和らげるために張られたのではないかと憶測している。

  仮設住宅から少し離れた場所に地震で全半壊となった住宅の公費解体が行われている。ただ、訪れたきのうは平日の午後2時半ごろだったが作業はストップしていた=写真・中=。同市では、作業中の事故を防ぐために雪の降る1月からの2月の間、雪に慣れていない地域から来ている県外の解体業者に対し、積雪時における作業の休止を県構造物解体協会を通じて要請している。11月27日に解体現場で重機に接触した作業員が死亡する事故が起きたことなどから、作業現場の労働災害を防ぐ対策を進めている。作業の安全を最優先の課題としているようだ。しかし、40㌢もの積雪があると作業の再開は見通せないかもしれない。

  その後、珠洲市の外浦方面に車を走らせた。視界全体が真っ白になって空間と地面との見分けがつかない、まさにホワイトアウトの現象が時々起きた。その都度、車をストップさせた。安全な場所を選んで停車するのだが、後ろや前から来た車に追突される危険性も抱えての停車だ。午後3時半ごろには、降り方が落ち着いてきた。

  海岸を見ると、「ゴジラ岩」が見えた。同市馬緤町の沿岸にある奇形の岩だ。西の空に向かって今にも炎を吹き出しそうな姿は怪獣ゴジラに似ており、その名が付けられた。冬の高波に向かって、ゴジラが吠えているようにも見え、なかなかの絶景だった。このゴジラ岩は夏ごろになると沿岸から夕陽も見え、観光名所にもなっている。

  この近くで自身に問題が起きた。車の前輪が雪道のみぞにはまりスタック(立ち往生)となった。そこで、通りかかった車に手を振って止まってもらい、手助けをお願いした。計2台から4人の男性が降りてきて車を押してくれて、なんとかみぞから脱出することができた。お礼を述べると、「雪道ではお互い様ですよ」と2台はさりげなく去って行った。雪国の共助の心には感謝しかなかった。

⇒8日(土)夜・金沢の天気     くもり

☆震度7・記録的大雨・最強寒波 3災の能登冬路をめぐる~1~

☆震度7・記録的大雨・最強寒波 3災の能登冬路をめぐる~1~

  去年元日の震度7の地震、48時間で498㍉という9月の記録的な大雨、そして今月4日から北陸に吹き荒れる最強・最長の寒波。 「3災」ともいえる能登半島を3日間(今月6-8日)かけて一周した。 被災地や観光名所などの冬の現場で気が付いたことなどまとみてみる。

  隆起した岩ノリ畑 『ゼロの焦点』ヤセの断崖

  先日、能登の知り合いから「岩のり」が届いた。 お礼の電話をすると、「地震で海岸が隆起したのでことしは採れるか心配したが、隆起した岩場でも採れました」とのこと。 そこで、海岸が隆起した能登の北側の外浦をめぐった。 岩のりは外浦の岩場で採れた天然のノリで、干したもの=写真・上=。 養殖のノリに比べて厚みがあり、さっとあぶると磯の香りが広がる。 ノリが採れる海沿いの家々では、波が穏やかな冬の日を見計らって海岸に出かける。 手で摘み、竹かごに入れて塩分を洗い流して水切りした後、自宅の軒下などで竹かごの上に乗せて陰干しする。 

  地域によっては「岩ノリ畑」を造ってところもある。 岩場を利用して平海面すれすれのところでコンクリート面を造成すると、冬の波で覆われた岩ノリ畑にノリが繁殖する。 ところが、地震で数㍍隆起した海岸では岩ノリ畑が干上がって使えなくなった畑もある。 一方で海底から隆起した岩場でノリが採れるようなったところもある。 知人は「シケの日が続き収穫は少なかったが、ノリの出来は上々」とのこと。 岩ノリ採りは今月中旬まで続く。 (※写真・中は、地震で隆起した「岩ノリ畑」=輪島市門前町の海岸)

  能登の現場を訪ねるとダイナミックな光景を目にすることがある。 震度7の揺れがあった志賀町香能の近くにあり、松本清張の推理小説『ゼロの焦点』で登場する名勝「ヤセの断崖」。 1961年に初めて映画化され、観光名所となった。 日本海からの強烈な波と風によって形成された断崖絶壁で、訪れた日も台風を思わせる暴風が吹いて、白波が打ち寄せていた=写真・下=。

  海面からの高さが35㍍から55㍍もある、断崖を眺めると、海の向こうの暗い雲の切れ間から光りが指している。 まるで映画のシーンのような光景だった。 もう少し近づいて撮影しようとした瞬間、強烈な風が吹いてきて、身の危険を感じて現場を離れた。

⇒7日(金)夜・金沢の天気     雪

★変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その2~

★変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その2~

  能登の光景がダイミックに変わったのは総選挙(10月27日投開票)ではなかっただろうか。「自民党王国」と称されていた石川3区で立憲民主の近藤和也氏が自民の西田昭二氏を破り、4期目の当選を果たした。開票結果は近藤氏が7万7247票、西田氏は6万1308票と、その差1万5939票の大差だった。西田氏は比例復活で3期目の当選となった。

    「なんで選挙、ダラくさい」有権者の気持ちつかんだ立民候補

  「なんで選挙なんかするんや、ダラくさい」。元日の震度7の地震と9月の記録的な大雨に見舞われた能登の有権者の率直な気持ちはこのひと言に象徴されていた。「ダラくさい」は能登の方言でばかばかしいという意味だ。その気持ちは投票行動でも表れていた。石川3区の投票率は62.5%と、前回2021年より3.5ポイント減少した。中でも、地震と豪雨の二重被害となった輪島市では11.9ポイント減の58.9%、同じく珠洲市では9.5ポイント減って62.0%だった。避難者が現地から離れていて、投票に行けなかったというケースもあったろう。それにしても、この減少率は「ダラくさい」の気持ちがにじみ出ているように思えた。ただ、それでも都市部より投票率は高く、金沢市の石川1区は49.5%だった。

  では、なぜ近藤氏が「自民党王国」で勝利したのか。その選挙活動はじつにユニークだった。選挙期間中は防災服姿で、名前入りのたすき掛けもしていなかった=写真・上=。近藤氏は七尾市での出陣式(10月15日)で「与党も野党も関係なく、助け合わなければならない時期。選挙なんてやっている場合か。それが能登の総意だと思う」と憤りの声を上げていた。選挙実施への反発の意味を込め、選挙期間中は防災服姿で、たすき掛けをしないことを宣言した。

  選挙活動は実にアクティブだった。震災後に整備された6000戸余りにもなる仮設住宅を足しげく回り、被災者の声を実際に国会論戦などで反映させていた。地震と豪雨の二重被災の奥能登(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)へは選挙期間中にそれぞれの自治体を2回ずつ回った。「まだ能登は大変なんだと全国に訴えていきたい」と述べていた。

      西田氏の選挙演説も聴きに出かけた。輪島市町野町の仮設住宅での遊説だった=写真・下=。防災服姿の西田氏は自らも被災して家族は仮設住宅で生活していると話し、「あまりにも被害が大きく、復旧復興には時間がかかる。どれだけ環境が変化しても、能登に住む方にとってここは大切な場所。安心してふるさとで暮らせるよう、住宅の再建や生業(なりわい)の再生に、『出来ることは全てやる』『やらなければならないことは必ずやる』との強い思いをもって全力で取り組む」と述べていた。

  西田氏の選挙カーのウグイス嬢はマイクのボリュームを低めに「よろしくお願いします」と叫んではいたものの、「被災されお亡くなりになられましたご遺族の皆様へ心よりお悔やみを申し上げます」とのフレーズも何度か入れていた。被災地に気配りをした遊説だった。

      結果的に能登の有権者の気持ちをつかんだのは近藤氏だった。自民党派閥のパーティー収入不記載事件を受け、選挙戦では「政治とカネ」の問題に関心が高まったことが追い風だった。そして、「なんで選挙なんかするんや、ダラくさい」と能登の有権者の気持ちを代弁したことが共感を得たのだろう。

⇒26日(木)夜・金沢の天気    くもり

☆変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その1~

☆変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その1~

  きのう(24日)奥能登の地震と豪雨の被災地をめぐってきた。前回行ったのは今月5日なので19日ぶりだった。その間でも随分と様子が変わった被災地の光景もあれば、まったく変わらない光景もある。元日の震災からまもなく1年になる。そして9月21日の記録的な大雨から3ヵ月が経った。能登を中心に被災地をめぐり綴ったブログのこの1年をまとめてみる。題して、「変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨」。

              支援ボランティアをこたつで迎える被災地の心

  きのう訪れたのは輪島市中心部から東方にあり、半島の尖端に近い同市町野町。日本史に出てくる壇ノ浦の戦い(1185年)で敗れた平家一族の平時忠が能登に流刑となり、時忠の子孫が開墾したと伝えられている平野が広がる。時忠の子孫の時国家(国の重要文化財)は2軒あり、そのうち上時国家は元日の地震で倒壊した。

  時国家だけでなく、町野町の中心部でも地震で多くの住宅が損壊した。そのうちの一つ、鈴屋川沿いに家がある。地震で倒れ、一階部分の駐車スペースに停めてあった車を踏みつぶし、家ごといまにも川に転落しそうになっている=写真・上=。この悲惨な光景を初めて見たのは6月17日だったが、いまも変わっていない。

  町野町は9月の豪雨にも見舞われた。鈴屋川の五里分橋の欄干などに流木がひっかかり、橋がダムのような状態となって周囲の一帯が濁流に飲み込まれた。その中に、被災地の食品スーパーとして元日の地震後も営業を続け、住民を支えてきた「もとやスーパ-」があった。豪雨で店内に土砂や流木が流れ込むなどしたため、一時休業していたが11月に営業を再開。今月5日に行くと「復活オープン」の看板を掲げ営業していた=写真・中=。中に入ると、卵や野菜、総菜や冷凍食品などが並んでいた。そのときに店員から聞いた話が、「売り場を必要最小限にして、店内を支援ボランティアのキャンプ場にする」との内容だった。きのう、そのキャンプ場を見に行った。

  売り場だった場所に緑のカーペットが一面に貼られていた。そして、周囲にはテントが張られ、こたつもあった=写真・下=。キャンプ場の入り口のボードには、「12月26、27日 広島高校ボランティア団体様10名」「12月28、29日 YMCA様10名」と書かれてあった。この場を提供しているスーパーの経営者には直接会えず確認できなかったが、場を無償で提供しているようだ。被災地を支援するボランティア活動は公費解体での運び出しなどさまざまな場面で目にする。能登の冬は寒いのでこたつを用意してボランティアを受け入れる。この光景を見て、被災地の感謝する心に感動した。

⇒25日(水)夜・金沢の天気   はれ後くもり

★新年元旦に追悼式 能登地震と豪雨で亡くなった514人を弔う

★新年元旦に追悼式 能登地震と豪雨で亡くなった514人を弔う

  けさ金沢でグラリと揺れがあった。午前7時12分すぎだった。気象庁によると、能登半島の西方沖が震源でマグニチュード4.3、志賀原発がある志賀町では最大震度3、金沢は震度1だった。11月26日に震度5弱があった震源地とほぼ同じで、ほぼ毎日のように揺れが起きている。

  元日の能登半島地震、ならびに9月の奥能登豪雨の犠牲者を弔う追悼式が新年1月1日に輪島市の能登空港に隣接する学校法人「日本航空学園」キャンパス体育館=写真=で営まれる。地震による犠牲者は今月19日時点で、直接死が228人、災害関連死(県関係者)が270人となる。豪雨による死者は16人となる。514人の死を弔う。追悼式は石川県が主催し、石破総理ならびに岸田前総理が参列する。式は午後3時35分に開会、地震発生時刻の午後4時10分に出席者が黙祷をささげる。

  輪島市役所に問い合わせると、追悼式の参列は地震ならびに豪雨により亡くなった故人の遺族のみで、それも事前登録制ですでに受け付けは締め切っているということだった。ただ、追悼を希望する市民や町民のために、それぞれの関係自治体が献花台を設置するので、「どなたでも献花をお持ちいただけます」とのことだった。献花台の会場にはテレビモニターを設置する予定で、追悼式の様子をリアルに視聴できるようにするとのこと。献花台の設置時間は午後3時00分から午後5時00分まで。献花台設置の場所は次の10ヵ所。【七尾市】七尾市役所、【輪島市】輪島市役所、門前総合支所、町野支所、【珠洲市】珠洲市民図書館、大谷小中学校、【志賀町】志賀町役場、【穴水町】さわやか交流館プルート、【能登町】能登町役場、【金沢市】石川県庁 行政庁舎1F-101会議室

  追悼式の模様は、「石川県公式YouTubeチャンネル」で生中継され、誰もが映像を通して参加できる。

⇒24日(火)夜・金沢の天気   あめ

★能登の二重被災で踏ん張る食品スーパー 地域の生活守り復興拠点を目指す

★能登の二重被災で踏ん張る食品スーパー 地域の生活守り復興拠点を目指す

  元日の震災と9月の記録的な大雨に見舞われた輪島市町野町をめぐった(今月5日)。地区で唯一のスーパーマーケット「もとやスーパー」が先月営業を再開したと報道されていたので、その様子を見に行った。元日の地震で被害を受けても休まずに営業を続けてきたスーパーだったが、9月21日の豪雨で近くを流れる鈴屋川が氾濫して街一帯が飲み込まれた。同29日に現地を見に行くと、店内の柱や壁には浸水の跡が残り、商品を陳列する大型の冷蔵棚などは横倒しになっていた。

  そのもとやスーパーに今月5日に行くと「復活オープン」の看板を掲げ営業を再開していた=写真・上=。中に入ると、卵や野菜、総菜や冷凍食品などが並んでいた=写真・中=。ただ、以前見た時より売り場面積が小さい。レジの店員に聞くと、「売り場を必要最小限にして、店内をキャンプ場にするようです」との返事だった。

  その店内キャンプ場を見せてもらった。もとやスーパーの店舗の3分の2に相当する500平方㍍を充てたスペースという=写真・下=。被災地の復旧に訪れた業者や支援ボランティア向けに用意したようだ。1人用テントや布団を備える。30人から40人が利用できるが、料金は取らないのだという。町野地域には復旧業者やボランティアが宿泊できる場所がなく、これまで他地域の宿泊地と町野との移動に時間がかかっていた。さらに、冬場になると積雪も想定されることから、屋内キャンプ場がベストと47歳の店主が企画したようだ。店主はクラウド・ファンディングでこう述べている。「被災し壊滅的な状況となった輪島市町野住民の多くの方々は家も車も失い、インフラも復旧していない現在、不自由な生活を余儀なくされています。その中で、私たち『もとやスーパー』は住民の方々の生活基盤であり心の拠り所であり続けると同時に、復興拠点にならなくてはならない、そう思っています」

  このスーパーにはちょっとした思い出がある。大学教員時代に学生たちと「能登スタディツアー」を企画し、ある年、近くの景勝地である曽々木海岸の窓岩の夕日を眺め、その帰りにもとやスーパーに立ち寄り食料を買い込んでいた。すると、わざわざ当時の店主が出てきてくれて、軽妙な能登弁で地域の歴史を語ってくれた。学生たちからは「語りが分かりやすく面白い」と評判だった。

  被災地の食品スーパーとして元日の地震後も営業を続け、住民を支えてきた。9月の豪雨で一時休業したが11月に営業を再開。来春には交流拠点としての整備も予定する。しかし、大雪で地区が再び孤立すればすべてストップする恐れがある。復旧を絶え間なく進めるためも、泊まれる環境を整える。被災地の必死の叫びのように聞こえる。

⇒10日(火)午後・金沢の天気    くもり時々はれ