#若き血

★処理水放出めぐる中国の動き 福沢諭吉ならどう語る

★処理水放出めぐる中国の動き 福沢諭吉ならどう語る

   やはりあのシーンが印象的だ。夏の全国高校野球で慶応高校が、連覇を目指した仙台育英高校に8対2で勝って、107年ぶりに優勝を果たした。テレビの生中継を視聴していたが、慶応大学のOB・OGがいっしょになってスクラムを組んで応援歌『若き血』を歌う、あの応援ぶりは今でも耳目に焼きついている。OBの一人なのでそう思うのかもしれないが。

   甲子園で決勝を観戦した大学時代の友人からSMSメールが届いた。「ひさしぶりに若き血を歌って、盛り上がった。これも福沢センセイのおかげ、引退を前に福業ですな」と。後半の「引退」と「福業」という文字が気になって、何度かメールを交わした。

   福沢センセイは慶応の創設者である福沢諭吉のこと。引退の意味は、2024年度から1万円札のデザインが福沢諭吉から渋沢栄一になるとのことのようだ。そして、「福業」とは神業をもじったもので、福沢諭吉のオーラがこの決勝戦にはあふれていたとの意味を込めていた。

   なるほど。1984年に1万円札のデザインが聖徳太子から福沢諭吉になったので、40年を経て来年「引退」だ。引退前に大正時代の第2回大会以来、107年ぶり2回目の優勝に導いてくれたという、少々スピリチュアルなスト-リーだ。

   話は変えて、では、もし福沢センセイが生きておられたら、このニュースについてどう語るだろうか。東京電力福島第1原発の処理水の放出をめぐり、中国で抗議や嫌がらせが相次いでいる一連の動きだ。もともと福沢諭吉は隣国に対する憤りの念を持っていた。主宰する日刊紙「時事新報」(明治18年3月16日付)の1面社説にこう記した。「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と。

   社説は福沢の「脱亜論」で知られる。福沢の執筆の背景は、当時の清国、李氏朝鮮は近代化を拒否して儒教などの旧態依然とした体制に固執していた。そこで福沢は政治的な縁切り(国交断絶)ではなく、「謝絶」と表現した。要求には謝りつつ応じない、と。当時の福沢の気持ちが現代にも通じるのではないか。そして、福沢センセイは「中国は昔も今も変わりませんな。放っておきなさい」と苦笑いするかもしれない。

(※写真は、慶応義塾大学三田キャンパスの福沢諭吉像)

⇒28日(月)午前・金沢の天気    はれ

★応援歌『若き血』の大合唱 懐かしくもあり

★応援歌『若き血』の大合唱 懐かしくもあり

   慶応大学の応援歌『若き血』はかつて自身も歌っていた。それは神宮野球場で開催される東京六大学野球での対早稲田大学との慶早戦のときだ。点数が入るごとに、「若き血に 燃ゆるもの・・・陸の王者 慶応」と隣席の学生と肩を組んで歌った。すると、早稲田も点数が入るごとに応援歌『紺碧の空』を「紺碧の空 仰ぐ日輪・・・覇者 覇者 早稲田」と歌う。この応援合戦にやりがいを感じたものだ。なので、対戦相手が早稲田以外のチーム(明治、法政、東京、立教)の応援に行ったことがない。

   その懐かしい光景が甲子園球場での全国高校野球選手権大会の決勝戦、慶應高校と仙台育英高校との対戦でクローズアップされた。初回、1番・丸田外野手の右翼スタンドへの先頭打者アーチから始まり、慶応が得点を奪うたびに、三塁内野席、左翼スタンドの応援団が肩を組んでの『若き血』の大合唱が沸き起こった。

   1916年以来、107年ぶりに優勝をかけた試合だったので、おそらく関西在住の慶応大学の在校生やOB・OGも応援に駆けつけたのだろう。応援方法は冒頭のように、対早稲田戦での応援合戦で経験があるので、『若き血』の大合唱に参加することができた。三塁側アルプススタンドを含めた球場左半分からの大声援が球場に鳴り響いた。

   球場全体が慶應の応援団というような雰囲気で仙台育英にとっては、いわゆるアウェイムードは想定外だったのかもしれない。テレビで視ていると、この大声援で仙台育英の外野手同士が声が聞こえにくそうにしている場面もあった。ただ、慶応の応援団は、相手守備陣がタイムを取った時などは声量を落とすなど配慮をしているようにも感じた。

⇒23日(水)夜・能登の天気     くもり