#能登半島地震

★能登の被災現場 空調ベストで暑さしのぎ、マスクでアスベスト除去

★能登の被災現場 空調ベストで暑さしのぎ、マスクでアスベスト除去

  元日の能登半島地震以来、初めて知った言葉は「公費解体」だった。全半壊した家屋については所有者の申請に基づいて、自治体が費用を負担して解体ならびに撤去をする。申請棟数は2万6003棟(8月12日時点)に上っていて、4月末から始まった公費解体の完了棟数は2594棟(同)、率にしてほぼ10%となる。石川県庁では2025年10月までに解体を完了する予定だが、あと1年2ヵ月で終えることができるのか、どうか。先日(8月24日)奥能登に所用があり公費解体の現場を何ヵ所か見ることことができた。

  日中は33度の真夏日だった。輪島市内で見た民家の解体現場での光景は、作業員が暑いにもかかわらず、ベストのようなものを着用していた。空調ファン付きの衣服だ=写真・上=。屋外工事の作業服として着用されている。空調服は背面にある半径5㌢ほどの2個のファンで風を取り入れ、汗が気化する際に体温を下げて冷涼感を生む仕組み。バッテリー付きだ。作業員の男性に着心地を尋ねると、「一度着たらやめられないね。空調服なしに夏場は仕事ができないよ」と、すがすがしそうな声で返事が返って来た。

  珠洲市内ではパワーショベルで半壊住宅の解体作業が行われていた。すごくホコリが舞っていた。2階の天井付近だろうか、黄色のアスベスト(石綿)がむき出しになっていた=写真・下=。作業員はアスベストを防ぐマスクや目を守るフェースガードを装着していた。また、粉じんが舞うのを防ぐために水をまきながら住宅の解体を行っていた。

  アスベストに関しては、厳しい規制がある。解体現場では石綿が建物に含まれているかどうかの事前調査や、含まれていた場合はマスクをしたり、飛散防止のための水まきが法律で義務付けられている。かつて、アスベストは耐火材や断熱材、防音材として家屋のいたるところで使用されていた。しかし、人の健康に被害をもたらす危険性があることから、1975年に一部使用が禁止されるなど法的な制限がされるようになり、2012年以降は全面的に使用禁止となっている。
 
  逆に言えば、1975年以前の建築物には大量のアスベストが使われていたわけで、解体現場の一線に立つ作業員のほか、近隣の住人も注意を払うべきだろう。そして、行政の注意喚起は行き届いているだろうか。
 
⇒26日(月)夜・金沢の天気    くもり

☆奥能登ここに「現代集落」 衛星ネットでビレッジDXさらに進化

☆奥能登ここに「現代集落」 衛星ネットでビレッジDXさらに進化

  日本海を望む能登の山の中腹に「現代集落」はある。元日の能登半島地震で背後の山の一部は崩れてはいるものの、緑に囲まれた集落だ=写真・上=。半島の尖端・珠洲市真浦(まうら)地区で、いわゆる「限界集落」を「現代集落」へと再生するプロジェクトが進んでいる。きのう(24日)に久しぶりに現地を訪ねた。

  このプロジェクトは、金沢市内で貸切宿「旅音/TABI-NE」を経営する林俊吾氏や建築家の小津誠一氏らが立ち上げた。水や電気や食を自給自足でつくる集落をつくり、自然のなかで楽しむ生活を「ビレッジDX」と位置付けている。そのキーワードが「シコウ」。「思考」を凝らし、「試行」錯誤し、自らの手で「施工」もする、そして「至高」の現代集落を創るとのコンセプトだ。同地区の空き家を活用して手造りで改装し、風力発電や有機農業、そしてリモートワークを手掛ける、そんな生活スタイルを目指している。

  現地を訪れると、ある住家の庭に四角のテーブルのようなものがあった。近くの人に訪ねると、衛星インターネットの「スターリンク」とのことだった=写真・下=。あのアメリカの実業家イーロン・マスク氏が率いる「SpaceX」のインターネット。光ファイバーによるネット環境が整った都市部や平野部などとは違い、真浦地区は回線環境が整っていない。そこで、アンテナを設置するだけで高速インターネットが利用できるスターリンクはリモートワークをする人たちにとっては実に便利だ。

  「現代集落 / 真浦フィールド」の公式サイトは以下のように述べている。「わたしたちの問題意識は、たとえば『行き過ぎた資本主義』であり『都市の一極集中』です。この潮流のなかで人は100年後も本当に豊かに暮らせるのか?と、懐疑と不安を覚えています。わたしたちは『都市生活のオルタナティブ(代替生活圏)』を考えます。そのために『水や電気や食を自給自足できる集落をつくり、自然のなかで楽しむ生活を、先人の知恵とテクノロジーで実現したい』。そう本気で考え、プロジェクトを立ち上げました」  

  この家には季節限定の「納屋カフェ」もある。農家の納屋を小ぎれいに改装した喫茶店。2階は仕事をする若者たちのワークスペースになっていた。今回のスターリンクの導入で、リモートワークも可能になった。地震で断水状態が続いているが、山の水を濾過して生活用水とする設備もまもなく完成する。まさに「ビレッジDX」に向けて着々と進んでいる。庭のテーブル板が、震災に見舞われた能登にとって希望の光のようにも見えた。

⇒25日(日)午後・金沢の天気    くもり時々あめ 

★明かりのないキリコ、ガレキの境内 それでも祭りの心意気

★明かりのないキリコ、ガレキの境内 それでも祭りの心意気

  輪島大祭を見学に行ってきた。これまで何度か学生たちを連れて「能登スタディ・ツアー」と称して能登の祭り文化に触れてきた。今回は震災のあった輪島でどのように祭りを開催するのかと急に思い立って、きょう(24日)現地へひとりで車で出かけた。

  輪島大祭は毎年8月22日から25日までの4日間、キリコ祭りが連日開催され、同市の奥津比咩神社、重蔵神社、住吉神社、輪島前神社の順で地域の人たちがキリコや神輿を担ぐ。輪島大祭の中日となるきょうは住吉神社の大祭だ。同神社に行く前に、23日に祭りを終えた重蔵神社に立ち寄ると、若い人たち10人ほどがキリコを担いだときに使った法被を天日で干していた。重蔵神社では神輿とキリコ9基が例年より短いコースで巡行した。「ごくろうさまでした」と声がけすると、東京から参加した祭りボランティアの男子学生だった。「震災があった輪島でキリコが担げたことは一生の思い出」と顔をほころばせていた。

  震災の影響でことしの大祭でキリコが出るのは重蔵神社だけと報じられていた(23日付・地元メディア)。ところが、住吉神社に行くと、神社の氏子の人から「ことしはキリコは出ないと聞いていたのですが、さきほど何とか1本は出そうということで若い衆が頑張ってくれているようです」と聞いた。午後6時から祭りの神事が始まったが、キリコ担ぎが決まったのは午後3時ごろ。地域の若い衆が「やっぱりキリコが出んと祭りにならん」と、3時間前に急きょ巡行が決まったようだ。金沢の避難先や仮設住宅からキリコ担ぎの仲間たちが集まって来て、「やれる」と判断したようだ。

  午後7時ごろ、若い衆が担ぐキリコが神社に到着した=写真・上=。ところが、キリコに明かりが灯っていない。周囲から暗くなったので明かりをつけてと声が上がった。世話役らしい人が「すみません。急に決めたものですから、キリコに備え付けるバッテリーの用意が間に合いませんでした」とわびていた。明かりのないキリコだったが、若い衆の威勢のよい掛け声が境内に響き渡っていた。

  住吉神社の境内は震災で本殿が全壊し、高さ7㍍もある総輪島塗の山車や曳山も倒壊、鳥居や石灯籠も倒れた。そんな中でも、若い衆がガレキの山をバックに祭り太鼓を披露していた=写真・下=。祭りを盛り上げる地域の若い衆の心意気が伝わって来た。

⇒24日(土)夜・金沢の天気     くもり   

☆酷暑は続く37度 なぜ7階建てビルはゴボウ抜きで倒壊したのか

☆酷暑は続く37度 なぜ7階建てビルはゴボウ抜きで倒壊したのか

  二十四節気の一つ「処暑」のころだが、暑さが和らぐどころか猛烈な暑さがきょうも続いている。金沢の自宅近くにある街路樹通りの気温計は「37度」を示していた=写真・上、午前11時51分撮影=。「暑さ寒さも彼岸まで」と伝えられているが、秋の彼岸の中日とされる秋分の日(9月22日)ごろまでに暑さが収まるのかどうか。

  元日の能登半島地震で、ある意味で震災のシンボルとなっているのが輪島市中心部で倒壊した漆器製造販売業「五島屋」の7階建てビルだろう。その倒れ方は壮絶だ。地面下に打ち込んで固定されていたビルの根っこ部分にあたるコンクリートと鉄による杭(くい)の基礎部分がまるでゴボウ抜きしたようにむき出しになっている。まったくの素人目線なのだが、バランスを崩して根っこから倒れた、そんなように見える=写真・下、2月5日撮影=。

  その五島屋ビルを解体する方向で動き出している。けさの新聞メディア各社の報道によると、公道の一部を塞いでいるビルの上層階部分から段階的に解体を進めていく。しかし、公費解体を進める輪島市役所によると、年内に着手はするものの、本格的な解体作業は年明け以降になるようだ。その遅れの理由となっているのが、ビルが倒れた原因についての調査だ。倒壊によってビルに隣接していた、3階建ての住居兼居酒屋が下敷きとなり、母子2人が犠牲となった。押しつぶされた店の男性店主はビル倒壊の原因の調査を国や市に求めていて、原因が明らかになるまでは撤去しないよう申し入れている。遺族の思いとすれば、ゴボウ抜きのような倒れ方に納得がいかないのだろう。

  一部報道によると、2007年3月25日の能登半島地震でもビルが揺れ、五島屋の社長は以来、ビルの耐震性を気にしていた。実際、地下を埋めて基礎を強化する工事も行っていた。それが倒壊したとなると、社長自身もビル倒壊に納得していないのではないか。

  7階建てのビルは築50年。なぜ、震度6強の揺れに耐えきれずに根元から倒れたのか。今後、調査によってビル倒壊の原因が分かってくれば、責任の所在もおのずと明らかになるだろう。現地では、国交省が外観や基礎部分の調査に着手し、近くボーリング調査などが始まる。

⇒23日(金)午後・金沢の天気   はれ

☆「石垣の博物館」金沢城跡 サスティナブルな石垣修復

☆「石垣の博物館」金沢城跡 サスティナブルな石垣修復

  元日の能登半島地震の震源地・珠洲市と金沢市は直線距離にして120㌔ほど。揺れは能登で最大震度7、金沢は同5強だった。金沢での被災で目立つのは、石垣が崩落するなどした金沢城跡だろう。市街地の中心部に位置するので、なおさら目立つ。その金沢城跡の石垣の復旧作業が始まっている。

  兼六園の向かいにある国史跡の金沢城跡。県の調査では、地震で石垣の被害は28ヵ所に上り、うち江戸から昭和期にかけて造成された5ヵ所で崩落が起き、23ヵ所で壁面が膨らむなど変形した。崩れが起きた一つが、兼六園とつながる石川門の前の土橋石垣。高さ3㍍、長さ6㍍に渡って石垣が崩れた。損傷した箇所には足場などが組まれ、復旧作業の準備が進んでいた=写真・上、8月21日撮影=。

  落石した195個のうち、すでに165個を回収し、300㍍ほど離れた「いもり堀」園地に運ばれていた。地元メディアの報道によると、形状などから165個のうち、158個は元の配置場所を特定できたという。その場所を示す数字なのだろうか、回収した石にはナンバーが記されていた=写真・中、同=。

  別の所では、興味深い作業が行われていた。石川門とちょうど真反対にあたる、「数寄屋屋敷西堀縁」という場所。ここの石垣でははしごに上って5人の作業員が石と石の間に生えている草やツルなど抜いていた=写真・下、同=。看板には「石垣測量中」とある。読むと、「石垣復旧調査の測量をしています。3D計測及び写真撮影を行うため、石垣の掃除をしております。御協力をお願い致します。」とある。期間は「令和6年6月28日から令和7年3月7日まで」、発注者は「石川県金沢城調査研究所」となっている。

  以下は憶測だが、レーザーなどを使った精密な3D画像を撮影することで、今後石垣が崩落した場合でも石がどの配置場所にあったものなのかを特定するための作業なのだろう。期間が来年3月となっているので、金沢城跡の石垣をすべて3D計測するようだ。城郭は石の素材やカタチや大きさ、積み方、そして年代など実に多様性に富んでいて、「石垣の博物館」とも称される。文化財の保全、それは復旧を持続可能なカタチで行うことなのだろう。

  事業主体の石川県では、崩れた石垣の復旧に3年から5年、石垣のはらみなどの修正に少なくとも15年程度かかるとしている。

⇒21日(水)夜・金沢の天気    はれ

☆アニメ聖地など個性的な店も 震災・能登で初の「仮設商店街」

☆アニメ聖地など個性的な店も 震災・能登で初の「仮設商店街」

  元日の能登半島地震では住家だけではなく、多くの店舗も被災した。七尾市ではそうした事業者の生業(なりわい)の再生に向けて、「仮設商店街」がこのほどオープンした。商店街を訪ねてみた。

  開設されたのは七尾市中心部にある「一本杉通り」。老舗の和ろうそくの店や和菓子の店など寄棟造りの町家が軒を並べていたが、いくつかの店舗が全半壊するなど被害が出ている。その一角にある駐車場の空き地に、七尾市役所が国の助成制度を活用してプレハブの仮設店舗を設けた。入居したのは、喫茶店、飲食店、結納品や文具を販売する店、美容室の4つの事業者。市の広報によると、入居は2026年8月まで2年間で、家賃は無償だが、光熱費などは自費負担。2年間に店舗を再建することが条件となっている。

  なかなか個性的な店がある。喫茶店「中央茶廊」に入った。店には、奇跡的に被害を免れたという焙煎機があった。店のママさんは「おかげさまで、これまでとは変わらないコーヒーの味を楽しんでいただけます」と話していた。この店は、2023年春にアニメが始まり、夏に映画が公開された漫画『君は放課後インソムニア』の「聖地」の一つとして知られる。店の再開を知った常連客が次々と訪れていた。店で売られていたコーヒーを購入すると袋の中に「被災地応援イベントレポート」が入っていた。アニメの作家と協働でいろいろとイベントを仕掛けているようだ。(※写真・上は七尾市一本杉通りに開設された仮設商店街。写真・下はこだわりの喫茶店「中央茶廊」の店舗)

  隣の飲食店「太左エ門」は材料の仕入れのため店は閉まっていた。太左エ門は能登島で知られた民宿だった。地震で地盤沈下などの被害が出て、民宿の経営を断念。ただ、能登島の漁港で水揚げされた鮮魚を使った海鮮丼など飲食に特化した料理店として再建を目指している。

  生業の再建を目指した初の七尾市の仮設商店街だが、別の地域でも整備を進められている。輪島市では曹洞宗の総持寺がある門前町で。また、志賀町では道の駅「とぎ海街道」などに隣接するカタチでスーパーや衣料品店など9業者が開業を目指している。このほかの自治体でも、9月から10月にかけて、仮設商店街が完成する見通しという。個性的な店が寄り添ってにぎわいを創出してほしい。

⇒19日(月)夜・金沢の天気    はれ

★城下町・金沢の夜 復興祈願の能登キリコが乱舞

★城下町・金沢の夜 復興祈願の能登キリコが乱舞

   城下町・金沢の夜に能登のキリコが舞った。昨夜、金沢の中心街にある「しいのき迎賓館」(元石川県庁)の広場で能登の夏祭りのシンボルでもあるキリコ5基が、ソーレ、エイヤの掛け声とともに担ぎ出され街中を練り歩いた。これまで金沢での単発のイベントで1基が担がれるのを見たことがあるが、笛や太鼓の祭りばやしとともに5基が街中を巡行するのは初めて。能登のキリコ祭りそのものが金沢に出張してきて、にぎやかな雰囲気を醸し出していた。

  「能登復興祈願キリコ大祭」と銘打った今回のイベントは能登と金沢の神社が中心となって企画した。地元メディア各社の報道によると、毎年8月下旬に夏季大祭を開催する輪島市の重蔵(じゅうぞう)神社は元日の能登半島地震で社務所が全壊、拝殿の一部が損傷した。このため、同神社では大祭の自粛を検討していたところ、ご神体を一時避難で預かってもらっていた金沢市の石浦神社から提案があった。金沢で2次避難している輪島市民を励まし、能登復興の機運を盛り上げるためにも、金沢でキリコ祭りを出張開催してはどうかとの提案だった。

  重蔵神社の呼びかけで輪島市内のキリコ4基、隣接する志賀町から1基、そして同神社の神輿が広場に集結した。担ぎ手は募集に応じた市民や学生、そして輪島市から駆けつけた有志ら300人。夕方、石浦神社で復興祈願祭が営まれ、午後7時に神輿を先頭に出発し、キリコが続いた。神輿は見るからに大きく、「能登復興」の文字が入ったTシャツを着た若者ら男女100人余りで担ぎ上げていた。

  金沢城跡公園の石垣をバックにキリコが練り歩き=写真=、エイヤ、ドッコイと乱舞すると見物に訪れていた大勢の人たちから「能登ガンバレー」などと歓声が上がっていた。金沢の夜を明るくにぎやかに照らしたキリコ祭りだった。

⇒17日(土)夜・金沢の天気     くもり時々はれ

☆「ポスト岸田」自民総裁選と衆院選をつなぐシナリオなのか

☆「ポスト岸田」自民総裁選と衆院選をつなぐシナリオなのか

  暴風を伴った台風7号が関東甲信に接近して、各地で避難情報が出されている。東海道新幹線の東京・名古屋間は終日運休で、空の便もかなりが欠航しているようだ。眼がくっきりとした不気味な台風だ。北陸・金沢でも朝から曇り空で、時折木の葉がなびく風が吹いている。

  前回ブログの続き。岸田総理が9月の自民党総裁選に立候補しないことを表明したことを受けて、「ポスト岸田」は誰かとメディアのテンションも高まっている。読売新聞(16日付)によると、自民党総裁選の日程は今月20日に決定されるが、「9月20日」と「同27日」の案が浮上しているという。気になるのはその後の流れだ。

  総裁選後には臨時国会が召集され、首班指名(総理就任)・組閣となる。が、問題はその後、衆院解散の流れに進むのではないか、ということだ。岸田総理のときは、2021年9月12日に総裁選告示、同29日の投開票で新総裁が決まった。10月4日に臨時国会が召集され、首班指名と組閣、そして会期末の同14日に衆院を解散。同19日に衆院選公示、10月31日に投開票という流れだった。総裁選から衆院選の投開票まで1ヵ月半余りの期間で、自民は何を得たのか。  

  前回の総裁選では、新総裁選出の過程を公開討論会を開くなどして幅広く国民にアピールした。岸田氏は「聞く力」や「新しい資本主義」を訴え、さらに総選挙でも同様にアピールし、自民党は単独過半数の議席を確保した。つまり、総裁選で勢いをつけて、一気に総選挙へにつなげるという展開で有権者の関心を惹き付けた。

  読売新聞によると、自民党は総裁選の選挙期間を15日程度(前回12日間)に日数を増やす方向で検討しているようだ。ということは、総裁選を総選挙につなげた前回の成功事例を今回も描いているのだろうか。総裁選には石破茂、茂木敏充、高市早苗、河野太郎、上川陽子、小林鷹之、小泉進次郎の各氏の名前が取り沙汰されているが、「本命不在 混戦か」(読売新聞の見出し)のようだ。

  そして、もし総裁選から総選挙へと展開した場合、能登半島地震の被災地では選挙は可能だろうか。そんなことを考えながら、岸田総理退陣のニュースを読んでいた。

⇒16日(金)午前・金沢の天気    くもり

★総理退陣で政治空白の懸念 能登復興に遅れをもたらさないか

★総理退陣で政治空白の懸念 能登復興に遅れをもたらさないか

       また「回転ドア内閣」が始まるのか。岸田総理がきのう14日、9月の自民党総裁選に立候補しないと表明した。直近のNHKの世論調査(8月2-4日)によると、内閣支持率は25%、不支持率は55%と低迷している。広島でG7サミットを開催した去年5月の調査では支持率が46%と盛り上がったが、その後は政治資金の裏金問題などで続落していた。

  冒頭で述べたように、回転ドアのように内閣がころころと変わる政治状況がときにある。小泉内閣以降の2005年から短命政権が続き「7年間で7人の首相が誕生する」状況だった。総理の名前を覚える間もないほど交代劇が続き、日本のガバナンスや国際評価の足を政治が引っ張っていた。その政治状況に終止符を打ったが安倍内閣で、7年8ヵ月続いた。その後の菅内閣は1年余りだった。岸田内閣は3年足らずだが、政権運営という意味では「そこそこ頑張った内閣」ではないだろうか。問題は、岸田総理の後継者に本命がいないことだ。また短命政権の政治が到来するのか。

  話は変わる。今月8日に宮崎県日向灘でマグニチュード7.1の地震が発生し、気象庁は南海トラフ地震の「巨大地震注意」を発表していた。きょうで1週間となり、注意の呼びかけは午後5時に終わった。そして、能登半島地震の被災状況も徐々にではあるが、変化している。

  石川県危機対策課のまとめ(8月13日付)によると、被害が大きかった奥能登の穴水町では地元にある1次避難所がすべて閉鎖された。同町ではピーク時に54ヵ所で3991人が1次避難をしていたが、被災者から要望のあった仮設住宅532戸が全て完成し、鍵の受け渡しも完了したことから、今月12日に1次避難所を閉鎖した。

  現時点での他の市町での1次避難所の状況は、珠洲市は18ヵ所で223人、輪島市は13ヵ所で155人、志賀町は5ヵ所で70人、七尾市は1ヵ所で43人、能登町は1ヵ所で5人と合せて496人が避難所生活を続けている。県が借り上げた金沢などの旅館やホテルなどの2次避難所では63ヵ所で365人、そのほか8ヵ所で58人となっている。1次から2次避難所の被災者を合わせると919人となり、1月31日時点の1万4632人に比べると随分と減ったことになる。

  話は冒頭に戻る。岸田総理はこれまで3度、能登の被災地に足を運んでいる。今回の退陣表明の中で、「総理総裁として能登半島地震からの復旧復興、南海トラフ地震や台風などへの災害対策をはじめ、最後の一日まで政策実行に一意専心あたってまります」と語った(地元メディア各社の報道)。被災者とすれば心強い言葉だが、一方で総理や大臣が交代することで一時的かもしれないが、復旧復興への時間的な空白が生まれないか、復興対策に遅れが生じるのではないか。被災者はそんなことも懸念しているに違いない。

⇒15日(木)夜・金沢の天気    はれ

★旧盆墓参り 奥能登で目立つ「ブルーシート墓」

★旧盆墓参り 奥能登で目立つ「ブルーシート墓」

  パリオリンピックが終わり、少々気が抜けたような気分になっている。これまで、目覚めるとスマホで日本の金メダルの数をチェックすると心が沸いた。そして、派手な見出しと写真で彩られた新聞紙面を眺め、競技実況で点が入るごとにアナウンサーが絶叫を連発するテレビ画面を視る日々だった。それが日常に戻った。心に残るシーンを一つだけ挙げるとすれば、柔道女子52キロ級の2回戦でまさかの敗退を喫し、大会2連覇を逃した阿部詩選手のあの号泣する姿だ。試合会場に響き渡るようなあの泣き声は耳に残る。 

  話は変わる。能登には「一村一墓」という言葉が残っている。半島の尖端・珠洲市三崎町の大屋地区での言い伝えだ。江戸時代の「天保の飢饉」で人口が急減した。能登も例外ではなく、食い扶持(ぶち)を探して、大勢の若者が離村し人口が著しく減少した。大屋村のまとめ役が「この集落はもはやこれまで」と一村一墓、つまり集落の墓をすべて集め一つにした。そして、ムラの最後の一人が墓参りをすることで「村じまい」とした。その後、村は残った。江戸時代に造られた共同墓は今もあり、共同納骨堂とともに一村一墓は地域の絆(きずな)として今も続いている。

  きのう旧盆の墓参りで奥能登の墓地を訪れた。多くの墓石にはブルーシートが被せてあった。元日の能登半島地震の影響で墓が損壊し、骨壺を納める場所(納骨室)がむき出しになったのだろう。この墓地は山の斜面地に造られている。墓石の修繕は進むのだろうかと気がかりになった。道が細くて機械が入れないところもある。道路に面したフラットな地形の墓地の場合は、小型クレーン車などを使って墓石を吊り上げて元の位置に戻すことで作業が進むだろう。が、細道や斜面地の場合は小型クレーン車などが入れないので、現場で柱を三又に組んでチェーンブロックを取り付け、墓石を一つ一つ上げ下げして修復することになる。とても手間暇がかかる。

  「令和の一村一墓」という言葉を頭の中で描いた。この際、共同墓と共同納骨堂の構想を描いてはどうか、と。余計なことを勝手に言っては、地元の人に失礼にあたるので言葉を慎む。

(※写真・上は、ブルーシートが被せられた墓石=輪島市の墓地で。写真・下は、墓の塔の部分に当たる竿石が石段を転げ落ちた墓石=能登町の墓地で)

⇒13日(火)夜・金沢の天気   くもり時々はれ