#能登半島地震

☆「防災」「減災」「備え」こそ大切 能登の被災地を訪れた両陛下の実感と想い

☆「防災」「減災」「備え」こそ大切 能登の被災地を訪れた両陛下の実感と想い

  元日の能登半島地震の被災地を天皇、皇后両陛下は2度見舞いに訪れている。3月22日は輪島市と珠洲市に、4月12日は穴水町と能登町を。このとき両陛下は避難所を訪れ、被害に苦しみ悲しむ人たちの声に耳を傾け、思いをじかに受け止めておられる様子をテレビ報道で拝見した。被災者にとって癒やしと慰め、そして励ましになったのではないだろうか。

  皇后さまがきょう(9日)、61歳の誕生日を迎えられた。そのお気持ちを文書で感想を公表している。宮内庁公式サイトに「皇后陛下お誕生日に際してのご感想」として掲載されている。その冒頭で「道路の寸断によるアクセスの困難さや長く続く断水など、被災された方々が、冬の厳しい寒さの中でどれほど多くの困難と御苦労を抱えながら避難生活を送られていたか、想像するに余りあるものでした」と、2度の訪問での感想が述べられている。その能登について、「私自身、学生時代に友人との旅行で能登半島を訪れたことがあり、楽しく、大切な思い出の詰まった能登の地で、多くの人々がこのような大きな試練に直面していることに、心が締め付けられる思いが致しました」とつづられている。(※ 写真は、3月22日に天皇、皇后両陛下が多くの犠牲者が出た輪島・朝市通りを訪れ黙礼をされた=宮内庁公式サイト「被災地お見舞い」より)

  震災後に奥能登を襲った9月の記録的な大雨について述べられている。「状況の少し落ち着いた3月から4月にかけて、お見舞いのために能登の被災地を訪れ、被災された方々が安心して生活できる日が一日でも早く訪れるよう、復興が一歩一歩進んでいくことを心から願いましたが、その復旧・復興への歩みを進める中、9月下旬に、今度は大雨による被害が発生したことにも心が痛みます」。被災者が追い打ちをかけられた状況に、皇后さまは「心が痛みます」と心境を明かされた。

  今後の自然災害に向けて提案もされている。「来年の1月には、能登半島地震から1年、そして、阪神淡路大震災から30年の節目を迎えます。当時の被害の大きさを改めて思い起こし、犠牲となられた方々を追悼するとともに、被災された方々への支援や、今後の防災・減災について考え、備えていくことが大切なのではないかと思います」。今後の災害に向けた「防災」「減災」「備え」のキーワードは被災地を実際に訪れた両陛下の実感と想いではないだろうか。

⇒9日(月)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

☆蛇行する「のと里山海道」 国宝「色絵雉香炉」に愛嬌を感じる首かしげ

☆蛇行する「のと里山海道」 国宝「色絵雉香炉」に愛嬌を感じる首かしげ

  来年2025年は干支で言えば、「巳年」にあたる。「みどし」あるいは「へびどし」と読んでいる。「巳年」でイメージするのが、金沢と能登を結ぶ自動車専用道路「のと里山海道」だ。何しろ、ヘビがはうように、くねくねと左右、そして上下に曲がって走行することになり、まさに蛇行運転になる=写真・上、6月4日撮影=。元日の能登半島地震で、道路側面のがけ崩れや道路の「盛り土」部分の崩落などが起き、全線で対面通行が可能になったのはことし9月だった。その後遺症はいまも重く、この蛇行運転が余儀なくされる区間は制限速度が時速40㌔に引き下げられている。

  さらに冬の季節が本格的になれば、積雪が見込まれる。左右に土のうが積まれた箇所も随所にあり、除雪車の作業もかなりの時間を要することになるのではないかと、利用する側も案じる。

  「巳」の次は「雉」の話。きのう金沢市にある石川県立美術館に行く。「色絵雉香炉」(いろえきじこうろう)」が目玉の展示作品。地元石川県にある国宝2点のうちの1点である。京焼の祖といわれた野々村仁清が17世紀に焼いた作品。羽毛などを美しく彩り、豪華さがある。説明書によると、作品の幅 は48.3㌢、奥行が12.5㌢、高さが18.1㌢あり、鳥のキジのほぼ等身大のカタチをした香炉だ。じつに写実的に焼き上げられていて、飛び立つ寸前の姿を写し、気迫に満ちた緊張感あふれる作品と評されている=写真・中、県立美術館公式サイトより=。

  国宝に対して、これは適切な表現かどうかは分からないが、「面白い」と思ったのは首の部分だった。よく見ると、わずかに首を左にかしげていて、鳥の表情が絶妙に表現されている=写真・下、3日撮影=。ひと言で言えば、鳥の習性をじつによく観察している。個人的な話だが、幼いころ(小学低学年)に実家の納屋で十数羽のニワトリを飼っていて、エサやりが日課だった。エサを持って納屋に入ると、鳥たちは最初、首を少しかしげている。それから一斉にゆっくりと近づいてくる。エサをまくと、鳥たちはエサを突き始める。

  鳥の目は頭の横にあるので、首を横にかしげる仕草はこちらを観察しているのではなくて、周囲の鳥たちの行動を見て一斉に動き出すのだと親から教わった。それにしても、鳥が首を少しかしげる仕草は人に愛嬌というものを感じさせる。仁清もそれを表現したかったのだろうか。

⇒4日(水)夜・金沢の天気   くもり時々あめ

★震源は能登半島を南下してくるのか 連動する活断層の不気味さ

★震源は能登半島を南下してくるのか 連動する活断層の不気味さ

  前回ブログの続き。今月25日付のブログ『☆能登地震による液状化で電柱同士が接触し発火 これはレアケースなのか』を読んでくれた金沢の知人から、きのうメールがあった。「(26日の)震度5弱の地震で傾いて今にも倒れそうになっている電柱が内灘にある。危なっかしくて道路を通るのも不安になる」と。知人は内灘町の企業に勤めている。きょう現地を見に行った。

  危なっかしい電柱がある場所は内灘町室地区の県道沿い。同町では元日の能登半島地震による震度5弱の揺れと液状化被害で全半壊の住家が686棟にも及んでいる。今月25日付ブログは、傾いた道路の電柱が地盤の液状化でさらに傾き、隣接する工場敷地内の電柱との電線が接触して発火したと書いた。危なっかしい電柱は発火した電柱と同じ県道沿いにあり、わりと近い。その傾き加減は素人目線で15度から20度はあるかもしれない=写真=。傾きが以前より大きくなったのは、ここ数日の雨と26日の地震の影響なのだろうか。この周囲の電柱もこれほどではないが軒並み傾いている。このまま倒れば人身事故になりかねない。

  それにしても気がかりなのは、今月26日の震度5弱の揺れなど、このところ能登で頻発している地震の震源が元日の半島尖端から南下していることだ。地元メディアの報道によると、地震学者のコメントとして、元日の地震で動いた断層とは別の「羽咋沖西断層」が震源の可能性があるとしている。元日の震源は半島尖端の珠洲市だったが、このところの地震は半島の真ん中の羽咋市の沖に位置する。さらに南下すると金沢に限りなく近いづいてくる。

  金沢には「森本・富樫断層」がある=図=。国の地震調査研究推進本部の「主要活断層」によると、切迫度が最も高い「Sランク」が全国で31あり、その一つが森本・富樫断層だ。断層は全長26㌔におよび、今後30年以内の地震発生確率が2%から8%とされる。金沢市の公式サイトに掲載されている「平成24年度(2012)被害想定調査結果」によると、この森本・富樫断層で金沢市内中心部に直下地震が起きた場合、マグニチュード 7.2、最大震度7と想定されている。地震は連動する。連動しながら南に降りてくるのか。じつに不気味だ。

⇒28日(木)夜・金沢の天気    あめ 

☆能登の地震いつまで続く 震度5弱、四国から東北まで揺らす

☆能登の地震いつまで続く 震度5弱、四国から東北まで揺らす

  昨夜は午後10時00分過ぎに帰宅。アルコールが入っていたせいもあり、ゆったりと寝ようか思っていた矢先の午後10時47分ごろ、スマホの緊急地震速報が鳴り響き、同時にグラグラと揺れが来た。あわててリビングに行き、テレビのNHK速報をチェック。「能登地方で最大震度5弱を観測する地震」「震源地は石川県西方沖で、震源の深さは10㌔、マグニチュードは6.4と推定」のテロップが流れていた。自宅がある金沢は震度3だった。その後、速報値は更新され、震源の深さは7㌔、マグニチュードは6.6となっている。

  揺れの中心にあたる震央が志賀町にある志賀原発と向き合っている位置にあり、津波は大丈夫か、原発施設への被害はないかなどと案じていたが、「北陸電力によると、停止中の志賀原発1、2号機に異常は確認されていない。また、敷地外の放射線量を監視するモニタリングポストの値に変化はみられない」「沿岸で若干の海面変動があるものの、津波被害の心配はない」とのコメントが流れていた。

  ただ、元日の地震では午後4時6分ごろにマグニチュード5.5、震度5強の揺れがあり、その4分後の4時10分にマグニチュード7.6の地震が2回連動して起きて震度7の大きな地震となったので、今回もそのケースで前触れの地震後に本震がくるのではないかとしばらく身構えていた。1時間余り経って、ようやく寝付いた次第。

  けさのメディア各社の報道をチェックすると、昨夜の地震で震度1以上の揺れは四国から東北へと広範囲で観測されている(※各地の震度図は気象庁公式サイトより)。能登半島で震度5弱以上を観測したのは、ことし6月3日の5強の地震が発生して以来となる。気象庁は元日の地震以降も周辺では地震活動が活発になっていて、今後も強い揺れが起きる可能性があるとして、注意するよう呼びかけている。

  もう一点、今回の地震で気になっていることがある。最大震度5弱は輪島市門前町走出と志賀町香能で観測された。この2地点は海岸沖の震源から20㌔ほどと近くだった。ところが、この2地点は元日の地震で最大震度7が観測された地点でもある。震源の半島の尖端、珠洲市からおよそ45㌔離れていたにもかかわらず、最大震度だった。震源地の珠洲市や近隣の能登町は震度6弱から6強だった。震源地から遠方のポイントが揺れが大きくなる。このメカニズムはどうなっているのだろうか。

⇒27日(水)午前・金沢の天気    くもり時々あめ

★国史跡の「利家とまつ」前田家墓所の石灯篭など100基倒壊 本格復旧へ調査始まる

★国史跡の「利家とまつ」前田家墓所の石灯篭など100基倒壊 本格復旧へ調査始まる

  グラグラと金沢の自宅が揺れた。午後10時47分ごろ。NHK速報によると、輪島市門前町走出と志賀町香能で震度5弱、金沢で震度3だった。震源は能登半島の西方沖でマグニチュードは6.4だった。輪島市門前町走出と志賀町香能 は元日の地震で震度7を観測した地点だ。

              ◇

  前回ブログの続き。元日の能登半島地震の影響はさまざまな場所で起き、そしてさまざまなケースがある。金沢には野田山墓地があり、山頂から山腹にかけて墓石が並ぶ。年代物と思われる古いものや最近のものまでさまざまだ。金沢の山沿いは震度5弱だった。野田山墓地を見渡す限りでは、地震で崩れている墓石はさほどないよう見える。ただ、よく見ると墓石がズレていたり、石塔の一部が欠けたりしているものも多くある。                                  

  中でも目立って石灯篭などが倒れていたのが、国の史跡でもある「加賀藩主前田家墓所」だった。加賀百万石の礎を築いた前田利家の墓碑や、横にある正室まつの墓碑は無事だったが、両墓碑の入り口などにある石灯篭の笠の部分が崩れたりしていた=写真、1月14日撮影=。金沢市文化財保護課の調査によると、前田家墓所全体では石灯篭を中心に100基余りの石像物が倒れたり、割れたする被害が確認されている(26日付・地元メディア各社の報道)。このうち、まつや2代藩主利長などの墓にある石灯篭6基については5月末に石工職人が滑車で起こするなど復元作業を終えている。

  現地の看板「野田山墓地由来記」によると、野田山墓所は天正15年(1587)に利家が兄・利久をこの地に葬ったことから墓地としての開発が進み、慶長4年(1599)には利家がまつられ、以降14代藩主と正室ら家族の墓地となった。前田家墓所の墳墓は84基あり、全体で敷地面積が8万6千平方㍍にもおよぶ。文化財の価値を保全するためには、建立当時と同じような石材や工法が求められるため、金沢市では文化庁の担当者らと協議を重ねながら、倒壊した石像物などの本格復旧をめざし調査を進める。このため、同市では12月補正予算案に3510万円を計上した。「利家とまつ」前田家墓所の復旧作業がこれから本格的に始まる。

⇒26日(火)午後・金沢の天気    あめ

☆能登地震による液状化で電柱同士が接触し発火 これはレアケースなのか

☆能登地震による液状化で電柱同士が接触し発火 これはレアケースなのか

  元日の能登半島地震の影響はさまざまな場所で起き、そしてさまざまなケースがある。その典型がこの事例だろう。地元メディア各社の報道によると、今月23日午後7時20分ごろ、金沢市に隣接する内灘町の県道沿いの電柱から出火し、消防がまもなく消し止めた。周辺の10戸ほどが3時間ほど停電した。近くの住人から「家が突然停電し、外の電柱が燃えている」と110番通報があった。
 
  きょうその現場を見てきた。出火した電柱は地震による液状化被害が大きかった同町宮坂地区にある。出火した電柱は傾きが進み、近くにある工場敷地内の細い電柱との電線同士が接触して発火したようだ=写真・上=。この周辺ではこの電柱だけでなく相当数の電柱が傾いている。中には目算で20度ほども傾いているのではないかと思えるものもある。北陸電力の関連会社では、電柱の建て替え作業を進めているが、内灘町だけでなく能登でも相当数の電柱が傾いていて施工が間に合わないのだろうか。
 
  問題の電柱の下を見ると、黒と黄色の電柱標識板の一部が地面に埋まっている=写真・下=。日常で見る標識板は地面から40-50㌢上にあるので、これは電柱が地盤に沈下したのだろう。液状化がいまも進んでいるのではないだろうか。
 
  内灘町では地震の揺れは震度5弱だった。震源地の珠洲市からは直線距離で100㌔あまり、そして震度7が観測された輪島市からは直線距離で85㌔離れている。今回の地震で道路がいたるところで隆起したり陥没したりしている。地面がゆがみ、多くの住宅や電柱が傾いている。道路が15度ほど斜めになっているところもある。震源との距離は離れているが、全半壊の住家は686棟に及んでいる。ちなみに、隣接する金沢市では276棟だ(11月22日時点・石川県危機対策課まとめ)。なぜ、これだけ影響が大きかったのか。宮坂地区などは河北潟の西側に広がる。この地域は江戸時代から河北潟を埋め立てる干拓事業が進められてきた。もともと砂地だった場所なので液状化現象が起きたのだろう。これは憶測だ。
 
  冒頭で述べたように、予期せぬさまざまな出来事が起きている。今回のように傾いた電柱と電柱が接触しての出火。冬季に入れば雨量がさらに増え、時間とともに液状化した地盤が動き、同様のケースが連続的に発生するのではないだろうかと危惧する。
 
⇒25日(月)夜・金沢の天気   はれ

★能登地震の被災者の語り 「長靴の恩返し」「ペチャンコの家」「DMATに感謝」

★能登地震の被災者の語り 「長靴の恩返し」「ペチャンコの家」「DMATに感謝」

  元日の能登半島地震で被災し、仮設住宅で生活している人たちから直接話を聴く機会がこれまで何度かあった。そのなかからリアルな話をいくつか。「家がペチャンコになった」から始まった話があった。ペチャンコは潰れて平になるとの意味。能登半島では2020年12月以降、地震が頻発するようになった。揺れに慣れてきて、「また地震か」という気持ちになっていた。この気の緩みのせいで、いざというときに持ち出す貴重品の置き場を定めておくのを失念していた。元日に大きな揺れが来て、貴重品どころか逃げ出すのがやっとだった。ペチャンコになった家からは貴重品を取り出せず、公費解体に立ち会うことにしていて、順番をひたすら待っている。

  別の被災者の話。元日の夕方の揺れで、慌てて外に出た。「家にまだ人がいます。誰か助けてください」とひたすら叫んでいた。すると一台の車が止まった。小学生の子供ら家族が乗っていた。30代くらいの女性が車の中から出てきて、「これを履いてください」と長靴をくれた。靴を履かずに靴下で外に出ていたことに気がついていなかった。女性は「東京に帰りますので」と言い、そのまま去った。そのときお礼も十分にできずにいた。その長靴の恩はいまも忘れられない。色とりどりの円模様が入った黒長靴だ。「お礼をしたい」と繰り返し話していた。

  ほかにも地震にまつわるさまざまな話を聴いた。地震で家屋がきしむギシギシという音を思い出して、いまも身震いすることがある。地震で物が落ちると言うが、元日の震度7の揺れではじつに奇妙な落ち方だった。棚の上にあった電子レンジが一瞬、宙に舞うようにして落ちた。

  避難所生活の話。学校の体育館で避難生活を続けていた、もともと独り暮らしのシニアの話。体育館では、小さな子どもたちも一緒に避難所で生活していたので、走り回ったり、騒いだり、その姿にむしろ元気をもらった。困った話も。シニア層はトイレの回数が多く、夜中もトイレに何度か行く人もいる。トイレの帰りに手洗いをしない人も多く、問題になっていた。避難所にやってきたDMAT(災害派遣医療チーム)の看護師に相談すると、消毒液スプレーを配置してくれた。これをみんなが使うようになり、安心した。

  震災の環境での暮らしで被災者には新たな発見や悩み事などさまざまにある。これまで話を聴かせてもらい、むしろ被災者から元気をもらったり、知恵を授かったりすることが多い。これからも被災者の話に耳を傾けていきたい。

⇒24日(日)夜・金沢の天気    くもり   

☆きょう二十四節季の「小雪」 凍結や積雪への心構えが問われる日

☆きょう二十四節季の「小雪」 凍結や積雪への心構えが問われる日

  きょうは二十四節季の「小雪」。寒さが進み、そろそろ雪が降り始めるころとされるが、金沢は朝から雨模様だが、最高気温は15度、最低気温は9度となっていて、寒さを感じるほどではない。例年、小雪のころから冬の訪れを告げるかのように雷が鳴り始める。きょう金沢では雷注意報が出ていて、午後6時前ごろに雷鳴がとどろいていた。今月28日と29日にも雷マークが出ている。北陸ではこの時季の雷を「冬季雷(とうきらい)」、能登では「雪だしの雷」と言ったりする。ブリが能登半島に回遊してくるころと重なる。

  きのう夕方、金沢と能登を結ぶ自動車専用道路「のと里山海道」を走っていると、「スノータイヤ 早めに装着」と電光掲示板が出ていた=写真=。ノーマルタイヤからスノータイヤへの履き替えを促している。寒波が吹き込むと、のと里山海道の路面は凍結や積雪におおわれる。海岸沿いの道路は凍結し、山沿いの道路は積雪となる。なので、スノータイヤへの交換は北陸の冬では必須だ。冬の時季、のと里山海道や北陸自動車道で事故が多いのが県外ナンバーの車だ。スタッドレスなど冬用タイヤを装着していなかったために追突やスリップ事故などに遭遇する。そもそも、凍結や雪道での運転に慣れていないせいもあるだろう。話が逸れた。

  元日の能登地震で奥能登(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)では、道路に敷設された消雪装置の大半が壊れたままとなっていて、その路線が延べ40㌔ににもおよぶと、地元メディアが報じている(21日付)。中でも、半島の尖端に位置する珠洲市では市内の国道、県道、市道の合わせて25㌔の消雪装置が壊れたままとなっている。消雪装置は市内のメイン道路に設置されていて、冬場の通勤や通学の道路には欠かせない。同市では上下水道の復旧を最優先で取り組んでいて、道路の消雪装置の修繕の見通しは立っていないようだ。車道に雪が残れば、スタッドレスタイヤを装着した車でもスタック(立ち往生)が格段に増える。

  報道によると、同市では消雪装置が使えない分を除雪車を増やして対応する予定で、前の冬から10台増やし190台で対応する。また、国道では積雪5㌢で除雪車が出動するが、一部の県道でも国道と同じ基準で除雪を行う。雪道では車道、歩道問わず事故が発生しやすい。いよいよその季節がやってくる。

⇒22日(金)夜・金沢の天気    あめ

★震災で倒壊した輪島の7階建てビルを解体 焦土と化した朝市通りは更地に

★震災で倒壊した輪島の7階建てビルを解体 焦土と化した朝市通りは更地に

  輪島の漁港で漁船の水揚げの様子を見た後、元日の最大震度7の能登地震で倒壊した7階建てビルや、200棟の店舗・住宅が全焼した朝市通りをめぐった。横倒しとなった7階建ての輪島塗製造販売会社「五島屋」ビルは能登震災のシンボルのような光景となっていて、現地に行くと周囲には十数人が見学に訪れていた。さりげなく「どこから」と尋ねると、九州から来た行政関係者だった。

  現地では、パワーショベルなど重機が3台が動いていた=写真・上=。行政による公費解体で、2棟ある五島屋ビルのうち倒壊を免れた3階建てのビルは解体が終わり、市道にはみ出している7階建てビルの解体が始まっていた。解体と合わせて、国交省は倒壊原因について基礎部分の調査を現在行っている。解体は当初、上部から段階的に輪切りにして解体していく予定だったが、周囲への安全面に配慮して側面から崩すように作業を変更した。3階以上は年内に、ビル全体は年度内に作業を終えるようだ(17日付・地元メディア各社の報道)。

  震災のもう一つのシンボルとなっていた焦土と化した朝市通りはほぼ更地にようになっていた=写真・下=。朝市組合の関係者は震災以降は金沢などで出張朝市などを続けてきたが、最近では「カムバック朝市」を目指して、朝市通りの近くにある輪島市マリンタウンの特設会場で1日限定のイベントを催したり、地元での屋外開催を増やしている。

  震災前は360㍍の通りに200余りの露店が並び、地元で獲れた魚介類や魚の干物、野菜、民芸品などがずらりと並んでいた。おなじみのオレンジ色のテントが並ぶと、中から「買うてくだー」と声掛けがある。売り手と買い手のおばさんたちの楽しそうなやり取りが目に浮かぶ。市民生活を日常に戻すためにも、一日も早い朝市通りの復興を願う。

⇒17日(日)午後・金沢の天気  あめ  

☆元日の地震と9月豪雨 農耕儀礼「奥能登のあえのこと」に農家どう向き合う

☆元日の地震と9月豪雨 農耕儀礼「奥能登のあえのこと」に農家どう向き合う

  ユネスコ無形文化遺産の農耕儀礼「奥能登のあえのこと」(2009年登録)は毎年12月5日に各農家で営まれ、目が不自由とされる田の神さまを丁寧にもてなす民俗行事として知られる。家の主(あるじ)は田の神は見えないもの、あたかもそこに客人がいるかのように家に迎え入れ、入浴と食事でもてなし、一年の労をねぎらう。12月5日に迎え、春耕が近づく翌年2月9日に送り出す。「あえのこと」は、「あえ=饗」「こと=祭り」の意味。この日に行事が一般公開されるのが能登町の柳田植物公園にある「合鹿庵(ごうろくあん)」という茅葺民家だ。(※写真は、2022年の合鹿庵「あえのこと」迎え行事)

  元日の最大震度7の能登地震で、この合鹿庵も壁が剥がれ落ちるなどしたため、ことし2月9日の送りの行事は中止となっていた。そこで、間もなく迎える12月5日の迎え行事について、能登町ふるさと振興課に問い合わせると、建物の修復ができない状態が続いていて、迎え行事は中止するとの返事だった。ユネスコの無形文化遺産であり、国の重要無形民俗文化財(1976年指定)でもある民俗行事が見学できないことに残念な思いがした。もちろん、あくまでも一般公開向けの「あえのこと」行事が中止になっただけで、本来の各農家では例年通り行われるのだろう。ただ、他人事ながら不安もある。

  奥能登(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)では地震によって、農地の亀裂など538件、水路の破損655件、ため池の亀裂や崩壊が165件、農道の亀裂や隆起などの損壊が398件に上った(3月26日時点・石川県農林水産課のまとめ)。このため、奥能登の田植えの作付面積は去年の2800㌶からことしは1600㌶にとほぼ半減した(同)。輪島市の白米千枚田では多数のひび割れが入り、耕せたのは120枚だった。

  輪島市の旧知の農家に電話で尋ねると、元日の地震の被害に加え、9月の記録的な大雨で田んぼに河川の泥水が流れ込むなどの被害が広がっていて来春の耕作の見通しが立たないとのことだった。この農家では12月5日に「あえのこと」は行うものの、特別な料理などは供えたりせずに、「ほそぼそと行う」と。また、高齢やサラリーマンの農家では農業法人に委託して耕作するケースが増えていて、耕さない農家は「あえのこと」も行うことはないだろう、とのことだった。確かに、田んぼを耕さなければ農耕儀礼はない。田の神さまはこの奥能登の現実、時代の流れをどう思っているだろうか。

⇒11日(月)夜・金沢の天気    はれ